- ナノ -
Novel - Hanno | Kerry

見果てぬ夢






「ねえ……髪、染めたの?……目は……カラコン?」
「は……突然何、お前」

 声の主を確かめようと振り返る。誰だ、と、嘘だろ、混ざり切らない2つの言葉が同時に喉を迫り上がって息が詰まる。細い指先が触れる皮膚が先か、体の最深部が先か、今身体を急速に覆うのは、単純に極度の緊張の類の一種だ。

 身体には何の負荷もない。それなのに、あの頃呪力が身体を隙間なく満たして、止まることなく濁流のように駆け巡っていた頃のように、緊張が走り、やがて記憶がトレースを重ねる。赤や青、極彩色を織り込んで、まぜこぜになった黒い記憶が蘇る。

「呪力……?」
「え、ちょっと!」

 いくつもの始まりと終わりが積み重なって、得体の知れない感情が身体を満たしていく。まるで本当の質量を得たみたいに、全身がまんべんなく重く沈んでいく感じがする。
脳裏で突然鋭利な陰影を帯びるのは、たまに、そして繰り返してみる淡い輪郭の夢だ。

 足もとがぐにゃりとひしゃげて、ぼんやりとする脳裏に、急速に逆再生されていく。いまは学校の廊下だ。それでいて窮屈な思考回路を容赦なく膨大な記憶が摩擦して、ホワイトノイズが鼓膜に爪を立てはじめた。

 たった数秒の間に分厚く堆積する記憶が身体にのしかかって、目下にあった女の頭が、いまははるか俺の頭の上に位置している。俺の視線の下に位置するものは恐らく、靴底で擦れた灰色の塩化ビニルの床だけだ。

 時計が動き、止まっていた分を急速に取り戻して、また止まってしまうだろうか。急に重たい歯車を動かしたのだから、そもそも巻き戻し切れるはずもないか。

 強烈な違和感をともなうのに、これは事実だとすんなりと理解している自分が同居している。

 ついに病が進行してしまったのだろうか。額の裏を白黒と、いつかだった時と現在がスクランブルする。懐かしい感覚は身体をほころばせて、瞼が落ちていく。

「悟っ……!だれか!」
「あなた、いま五条君に何があったか状況を説明して?五条君っ!」
「な、何って……わたし、なにか、っ」

 状況もクソもないじゃないか。ただこいつは、俺を見つけて声をかけただけなのだから。 ああ、あの時と同じ感覚。瞳が重く窪むような感覚と共に、呼吸が体の内側に収束していく感じがする。いよいよ死ぬかな、もう少しだったのに。やっと、会えたのに。

ぼやけた一筋の視界を焦りと混乱に満ちた表情が占めて胸の奥が細く軋んだ。そこからさらに枝葉末節にひび割れていくように、視界は狭まるまま、やがて閉ざされた。




 小雨の降る夢を見た。曇りの空は、暗闇よりも残酷に色彩を奪う。全てを塗り潰さずに、それでいてその色であることを許さない陰湿さがある。

 あの後きみはどんな日々を過ごしただろう。

 夕陽が沈んだあと、初めて口にしたものはなんだろうか、ちゃんと食べられるだろうか。あと何度泣いて、どんなことなら笑ってくれるのか、そして、どうやって一生を終えて、その時そばにいるのは誰なのか、知りたいようで知りたくないような、そんな俗物的なことを考えたときにはもう身体は動かなかった。

 そよそよとさわやかな風が前髪を揺らしていたのを覚えている。涼しい夜の始まりの風だった。
 風が全身を通り抜けると、焼けた右腕にそれが少し沁みていた気がする。俺が感じた最後の景色は光を失っていく世界で、痛みと、晴れやかな寂しさだった。

 誰もいないところで死ぬこと、それは俺にとって生まれた時から決まっていたこと。自然なことだった。そして俺はそれを全うできたと思う。最強という呪いをも全うできたと思う。

 それでも、俺を俺たらしめるシナプスをほとばしる電流の最後の一滴の直前だって、そうして守った世界のその丸ごとより最愛の人間に使うんだから、愛とかいう感情もまた大概呪いめいていると、持論はいまでも覆すのは難しそうだ。

 あの時の痛みは記憶として思い出せるけれど、不快な電気信号に筋肉が硬直することはもうない。

 いまなら自分の痛みを認めてやっても良いだろうか、さっき蘇ったばかりの過去だと思われる何かは、すっかり魂になじんでいる。呪力も練れない身体でも。呪力のないこの世界でも。

 さっき突然に凍ってしまった気がした自分の深部が、もう既にすこし温かい。あの凄まじい激情に似た追想によって、どこか欠けていたような感覚が補完されている。それでも、この穏やかな世界に一連の出来事はあまりにも不釣り合いないびつさを持っていることは分かる。

 俺は物事を合理的に考えるほうだと思う。どちらかといえば、というより割と極端な位に。だから、こんな”あり得ないこと”をすんなりと受け入れている自分がなんだかおかしくて、こみあげるまま腹をゆすると、どうやら瞳が開いたのは今だったようだ。

 視界が歪んでいる。昏倒したところまでは覚えているから、自分の身に何が起きたかくらいはおおよそわかる。そうすると、後遺症でも残ったのだろうか。

 肌触りの良い風が頬を撫でた。すると、たった一筋、さらに温度が低い感覚が皮膚を刺激するのを感じる。ぼたり、と大きな水滴が虹彩を覆う。光を屈折させてよく見えないのは、どちらかということこいつのせいかもしれない。

「泣いてる、の……?っ、おきた?!」
「なっ……っ、汚な!」
「ごめん……へ、ご、五条くん?私がわかる?」
「五条、くん?」
「どうしよう……呼ばなきゃ」

 瞼を擦ろうとした右の手指は、テーピングとパルスオキシメーターによって動きを阻まれた。左手に切り替えて瞼の縁をぬぐうと、ようやく視界が滑らかなものになった。

 大きな瞳は随分と充血して、小さな鼻先は赤みを帯びている。初めまして、なのだろうけど、見慣れた光景、でもある。回復過程の身体には多すぎる情報量で、横になっていても身体が重たい。

 手元に伸びてくる手を掴もうとしたら、どうやら見当違いだったらしい。俺の手の横、腰のあたりのナースコールボタンに向かっていった。伸びる指が小さく震えている。

 何に怯えているのだろうか、まだ覚めきらない思考で考えるうちに、少しずつ要領を得ていく。

 俺は学校で倒れて、そのままかかりつけ医のいる父の大学病院へと搬送されたらしい。そこから恐らく2日間眠り続けて、今はちょうど夕方だ。



 病は、高校1年の誕生日に発覚した。脳腫瘍だった。高校受験のあたりからどうにも頭痛に悩まされるようになって、それでも多忙な父親の気を揉むのも億劫だった。そして高1の冬、誕生祝いの料理を父と囲んでいたところで、自宅で倒れた。あれから2年目の今年の経過次第では、俺の余生は随分と短縮されていくらしかった。

 幸い、今世でも何不自由ない家庭に生まれた。ただ、母は幼い頃に他界し、この大学病院を統括しながらも研究に明け暮れる、なんともせわしない父に育てられたけれど。それでも両親からの愛に今度は対価の影を感じなかったし、母の死後も、寂しさよりも安心を与えようとする父の配慮も疑う余地はなく享受する18年間だった。

 だから今回の病についても、親父の職業柄もあって治療の手立てをあれこれと模索した果てのことだったから、自分の中で整理はついていた。でも、こういう性質も過去を思えば辻褄が合うだろう。

 もう紫外線を気にしなくて良い肌、呪力の流れが焼き付くことのないクリアな視界、前世の奇天烈な見た目も結構気に入っていたんだけど、やっぱり『普通』というのは、いま考えても予感していた通り随分と便利だ。そんな新たな人生を知る由もなく、謳歌していたところで発覚した病だった。



 搬送された段階の検査で判明したらしい。念のためという車椅子に腰掛けた俺に、父の盟友である友人の主治医が輝く瞳で説明をはじめた。


「……は?腫瘍がなくなった?」
「ええ、ええ。なんだか僕まで嬉しいな。教授には先程連絡しておきましたから、学会が終了次第お帰りでしょう」
「はぁ」
「脳の悪性腫瘍はね、急激な悪化もあれば、稀にたまにこういった急激な寛解もある。まったく不思議な器官なんだ」
「まあ、よかった」

 この人は恐らく、見覚えがない。父や母と同じく、少なくとも関わりは初めての人だ。

「まだ信じられないのも無理はない。でも、自由の身だよ、悟君。若人には存分に青春を謳歌してほしい」
「あぁ、ありがとうございます」

「そういえばここ最近、今回の五条君のように悪性腫瘍の急速な寛解が発見されるケースが見受けられてね。うちで治療しようと転院するために引っ越してきた初回の診療で、寛解が発見されたり。喜ばしいけれど、不思議な傾向だ」
「他にもいるんですか?」
「ええ、循環器科でひとり、うちの科でも先月キミと同い年くらいの少年が退院していってね。ほかにもまだ……」
「……そう、ですか」
「いずれにせよ、経過観察は長期的に必要だからそのつもりで。お父様が帰ってきたらまた話そう」

 一通りの検査と、二日ぶりの食事ともいえぬ何かを終えてベッドへと横たわる。もう面会時間は終わるのに、ずっとここに座っていたらしい。つなぎ目もおわりもない、果てのない記憶のひもだけが、俺とコイツを繋いで音のない病室に横たわっている。

 交わせない言葉が、記憶の層を嵩高に押し上げて、重く首をもたげる。それはきっと俺だけじゃないはずだ。沈黙ばかりが積もって、伝えたい感情にプライオリティをつけようとするほど、言葉が霞んでうまくつかめない。

「name……」

 視界のふちで、nameの瞳が大きく見開かれた。その名前を口にしてしまえば、引き摺り出されたばかりの乾いた記憶たちが、瑞々しさを取り戻していく。

 生まれて初めて嗚咽した。相変わらず声を上げて泣くことはできないけど。情けなく引き攣る呼吸が気道を震わせる。すべてがようやく終わりを告げて、浅い呼吸を繰り返すのに、身体から流れていく感覚がして、心地よくすら感じる。

「あの悟が、眠りながら泣いてると思ったら、突然笑い出すし、その上目覚ますからびっくりした」
「いや、あれは……って、じゃあ目覚めないほうがよかったのかよ」
「あはは、懐かしい悪態」

 風が通り抜ける。夜の始まりを告げる風が、病室の質素なカーテンを、nameの髪を通り抜けて、俺の頬に染みて、またうずもれていた記憶がさらに解像度を上げて再生する。

 あの日、泣きそうな顔を必死に引きずりながら、どうにか笑みを作って腕は俺に縋りつくようだった気がする。ようやく呪師としてこの世に埋め込まれた機能の役割を終える、そう思うと清々しく思えた。そう思いたかった。

 痛みも悲しみも、死という解放の前では、あの時の俺にとっては、全てが晴れるような気がした。視覚も痛覚も働きを終えていくなかで、何かが暖かくて、切なかった。

 さようならも許されなかったあの日、俺を化け物にしないために、この張り裂けそうな感情の澱をたったひとりで抱えて、nameは笑ってみせた。届くかもわからない、ほぼ躯となった俺に向かって。

「なあ、もういまの俺には……世界や、お前一人すら絶対に守りきれると言いきる力はないけど……もう、背負うものは何もないから。今度はnameに全部あげるよ……だから、一緒に──」
「そういうのやめようよ、もう」

 とっさに吐きかけた食傷気味の呼吸を、奥歯でくっと噛み潰す。聞かなくても分かる、きっと全部、そしてとっくにnameにはバレていた。

 何度も見た夢の果て、あの最後の日はまぎれもなく現実だった。そして、そのまた果ての何気ないある日から、nameはずっと気が付いていたのだろう。俺自身も言葉にできなかった、諦めていた。いや、許せなかったのかもしれない。自分自身にかけたまま、いつのまに解き方さえ忘れてしまった呪いに。

「私は……っ、悟のことをもっと知りたかった。最強でも先生でもない、あなたのためだけのあなたが、何に泣いたり笑ったりするのか」
「っ……せめて」
「怒らないよ。だって、仕方がなかった。誰も代わってあげられない場所で、ずっと、悟は一人だった」
「お前……っ!」
「バカにしてるのは悟のほうでしょ。死にたがりが私以外にバレなくてよかったね。最強、さん?」

 ダサすぎる。所詮御三家だの呪術だの、取り払ってしまえば俺だってたったひとりの取るに足らない存在だ。泣き喚いたあとにようやく会えた恋人に八つ当たりか。自分でも呆れるね。

 でも、いまはどうしてこんなにも愛おしいのだろう。あのとき、言えなかった一言は、呪いの帳のない世界で、透明に俺たちを包んでいる。

「ていうか、地毛なんだね。相変わらず、髪も瞳も色素薄めだけど」
「あ?」
「最初昇降口で悟を見かけたとき、信じられなかったけど、でも役目を終えたんだって嬉しかった。たとえ、私のことを思い出してくれなくても…でも、悟はやっぱり人気者だからつらくて」
「声かけちゃったんだ?」

 いたずらっぽく言う俺に、薄い唇をとがらせるだろうという俺の予測は、大きく外れることとなった。nameの瞼に落ちる睫毛の影が、一瞬、しかし色濃く憂いを落とした。いつ記憶を取り戻して、これまでなにを思って生きていたのだろう。まだまだ、聞かなきゃいけないことがある。いつから学校に、いままでどんな人生で、いまはどこに住んで、夢は何なのかとか。

「愛してる、name。もう一人にしたりしないから、だからもう一度僕と付き合ってよ」

 憂いの瞳がくしゃりと歪むと、nameの頬を再び涙が伝って、そして微笑んだ。胸の中に収まるように抱きついてきて、細い肩を震わせている。その肩越しにまた首をもたげて、囁いた。

 君と見果てぬ夢を見よう。また今日から、この世界で。





PREV INDEX NEXT