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Novel - Hanno | Kerry

テロル




 知られ尽くした敵に対して、体力はとうに切れていた。遅れた、そう思って咄嗟に膝を折ると、目の前に大きな背が広がった。颯爽とした背の裏で、壮絶な速度で緊張と弛緩を繰り返して微細に操作されていく術式の数々。

 「ムラサキ」そう彼の声が低く響いたたった一寸後、僅かに彫像めいた目元の裏の筋が蠢いて、瞳に沈む紺碧が波打った。この瞳が今、外の世界に開かれている。

 空気に伝播される紫の光と鋭利な音。この男に拡大された質量が空気を切り裂いた。絡み合った陰と陽の光の筋は私の瞳孔を抉り、励磁電流の音が鼓膜を突き刺す。紫色の光の中で、色素の薄い端正な顔の陰影が色を深めた。

「悟、綺麗だね」

 相対時空の経過は十秒に満たない、その刹那の中で、普通なら圧し潰されてしまそうな膨大な人々の怨を目前に広げられ、たった一人見届ける。
 幾度身内に差し違えられかけても、強大な権力に立ち向かい続ける日々も、親友を奪われたあの日も、そして、彼の唯一無二の親友を守った今日も。

 「祓う」とは、便利な言葉だ。思えば、私たちは随分とこの言葉に慣れすぎている。言葉は時に滑稽なほど軽薄で、この地獄の実態を曖昧にする。

 きんと最後の打撃音が鋭く響いた。急速に収束していく物理変化の終わりの音が、私の逡巡を遮った。入れ替わるように、有機物の焦げた残り香が凪いでゆく風に漂った。

 まだ弛緩し切らない悟の双眸がこちらを向いた。長いまつ毛が落とした影が、彫像めいた彼の容貌をより深く刻みつける。色を濃くした影の欠片は、沈み切らない悟の瞳の焔を明らかにしていた。
 獣性の残渣を湛えながら、孤独を薄く漂わせている姿は、あまりにも儚くて、それでいて悟の足元に積み重なる残穢は色濃くて。私はいま、目の前の不均衡な美しさに嫉妬している。

「あ?」
「でも、やだ」
「だから、意味わかんねーって」

 疲労した思考と交戦で昂った身体で考えることは、大抵ロクでもない。それがまさに今だ。それでも、もうどうだってよかった。
 あの瞳の鋭さだけは、私の奥だけに閉じ込めておきたかったのに。色の濃い影に焼き付く、私の知らない彼の記憶がもどかしい。

 大きな胸板に顔を埋めると、私の様子を伺うべく下げられた首に腕を回した。こんな時まで憎たらしいくらい血色のよい唇が惜しくて、そのまま舌をねじ込んだ。

 今私はどんな顔をしているだろう、嫌われてしまうだろうか。そんな恐れも掻き消えてしまうほど、悟の存在が大きくて苦しい。失いたくない、純粋な言葉だけを吐きたくて吐けなくて、失う恐れを所有欲の裏に隠し持って、私たちはたびたび歪にまぐわう。
 
「……シてる時の顔、してた」

 呼吸を荒くしても、目の前の標的の全てを洞察して捕捉して離さない。ささやかな抵抗のつもりだった。大きな手が私を固定するように掴んで、見張るように執拗に私の視線を追うあの瞳。ぞくりと恐れが背を這って、ほどなくして快感に揉みくちゃにされる。そんな感覚にあてられ続けて、いつの間にか倒錯に無抵抗に浸るようになっていた。
 
 私の言動に、さっきとは違う無防備に見開かれた瞳は、即座にニヤリと形を変えた。あぁ、また敵わない──そう思った時にはもう居どころは変わっていた。

 縫い付けられた手首から視界を正面に戻すと、あの瞳がこちらを覗いている。記憶されたスリルの感触がそろそろと身体中を這い回った。

「なになに、久しぶり派手に暴れてアガっちゃった?」
「悟が……!」

 軽薄な言葉をかわしながら、制圧された身体がギリと軋んだ。痛い、そう言葉を吐く前に唇を塞がれた。
 確かめるように私の輪郭をなぞる手とキスの暖かさに、視界が滲む。涙の筋に悟の舌がざらりと滑ると、張り詰めていた何かが融解してゆく。獰猛に染め上がった瞳が目の前で理性を手放していく。その歪んだ口元を眺めて、夜に沈んだ。

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