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スピカのなりそこない


「アイリーン先生!」

仕事を終えてアカデミーの廊下を歩いていると、明るく弾んだ調子で声をかけられた。
単なる会話か、授業への質問事項か。どちらだろうと振り向けば、女子生徒たちがやけに楽しげな表情をしている。十代特有の恋バナでもされるのだろうか。教職に就いてからそういった経験は何度もある。生徒の恋バナに耳を傾けるのはお手の物だ。

「どうしたの?」

口元に笑みを浮かべると、少し興奮気味に駆け寄ってきた。

「先生、彼氏いたの!?」
「彼氏……?」
「しかもあの人、ノースセクターのヒーローだよね!? め〜っちゃイケメンだった! 長い髪で眼鏡のインテリイケメン! ちょっと目怖かったけど、イケメンすぎてやばかった〜」

恋人としての関係を持つ人間はここ数年いない。誰のことを言っているのか思考を巡らせる前に答えが出た。どうやら彼女たちはヴィクターのことを言っているらしい。

同い年に見えない端正な顔に柔和な微笑み。優しい声音と丁寧な口調は、落ち着いていて紳士的な印象を受ける。実際見た目通りの知的な男性だ。
とはいえ、否定しておかないと生徒たちの間どころか一般市民にまで知れ渡って変な噂になりかねない。ヴィクターに迷惑をかける前に、アイリーンはやんわりと反対する。

「ヴィクターさんのことかしら? 残念だけど、貴方たちが思ってるような関係じゃないわよ」
「え〜、嘘〜。先生すごく楽しそうにお茶してたじゃん」
「そーそー、デイビス先生に言い寄られてるときよりずーっとにこにこしてた! まぁ、アイリーン先生って大体にこにこしてるけど……」
「そう?」

確かにヴィクターと話しているのは楽しい。
彼の興味の種である【サブスタンス】から美術品、天体に夢まで話題は様々で、身になることも多く、議論するにも熱が入ってしまう。アイリーンも学者の父から色濃く血を受け継いで専門的知識の話や討論を好むこともあり、時を忘れるほどだ。同僚の教師といるときより楽しそう、と指摘されるのも当然である。

だけど、恋人ではない。色めき立つ生徒に釘を刺す。

「でも、ヴィクターさんとは本当に何も無いのよ」

休日や仕事帰りにぱたり出会って時間があるならばお茶をして、ないなら軽く挨拶を交わすだけだ。デートはおろかプレゼントをされたこともなければ、連絡先すら知らない間柄を恋人とは呼べないだろう。少なくともアイリーンが知る恋人の定義からは外れる。

「えー。彼氏じゃないなら何? 友達?」

生徒は不満げに唇を尖らせる。
友人にしても連絡先は知っているような気がするが、知人よりかは多少友人に近い。肯定しておく。

「そうね、そんな感じ……なのかしら」

アイリーンの答えに、少女たちが露骨にため息をついた。

「なーんだー。先生にイケメン、しかもヒーローの彼氏できるのかーってわくわくしてたのに」
「そう? わくわくするもの?」
「するよー! ヒーローだからやっぱ給料いいだろうし、どんなプレゼントくれるのかなーとか、どんなデートするのかなーとか。いろいろ聞きたいよ〜」
「ねー! マジで気になる〜」

そんなものかしら。若いテンションについていけないアイリーンは曖昧に微笑むだけに留めた。
生徒は至極つまらなそうにため息をついた後、アイリーンへ言った。

「先生、インテリイケメンヒーローと付き合ったら教えてね!」
「めっちゃ聞くから!」

大きく手を振り、短いスカートを舞わせて慌ただしく去っていく。アイリーンはそれをあたたかな眼差しで見送った。駆け足で帰る生徒を見つめながら、生徒の言葉を脳内で反芻する。

(恋人……。まぁ、男女がいればそういう目で見られたりするわよね)

アイリーンが釣り合っているかはともかく、ヴィクターはとても素敵な男性だ。理詰めで物事を考えていて、時折どきりと心臓が痛むことがあるけれど。しかし、理不尽に苛立つことでもない。
アイリーンはヴィクターと男女の仲になりたいなんて下心は微塵もなく、話せる程度に憧れの人と仲良くしていたいだけだ。周囲に変な誤解をされるのは困るが、そのときはそのときか。ヴィクターならばゴシップにだって冷然と言い返すだろう。

(ヴィクターさんには申し訳ないけど……憧れの人と恋人みたいに見えるなんて、嬉しいかも)

アイリーンとヴィクターでは身長差がかなりある。ヴィクターが高すぎるだけだが、一見大人と子どもに勘違いされてしまいそうなくらいだ。生徒という知り合いからの目線だとしても、目がほころぶ。

廊下の窓へ視線をやると、口元が緩んでいた。頬を叩いて元の顔に戻そうと触れば、ほんのり熱を持っていた。



ニューミリオンはハロウィン一色だ。だが、アイリーンはハロウィン当日だろうが一人で過ごしている。 ここ数年体験したハロウィンといえば、学校で生徒に菓子をねだられたり貰われたりしたくらい。ここ数年そんなものである。
せっかくの休日だし、少しくらいはハロウィンの空気を吸った方がいい。アイリーンは着替えて、橙と黒に染まった街へ繰り出す。

外に出れば子供や少年少女、大人も老人までそれぞれ好きな格好で出歩いている。 もちろん私服の人たちもいたが、仮装した住人が多く、まるで自分がこの世ならざる世界へ迷い込んだ人間のように見えた。

(ハロウィンらしいものでも買って帰ろうかしら)

そうやって街の様子を観察していたとき。 白銀の髪が揺れるのが見えた。
ヴィクターだ。【LOM】に出場するからか、普段の制服や私服と異なっていた。しかし、その仮装は気合いが入っていて、見入ってしまう。
端麗な顔に歪な線が入り込んでいる。それでも奇妙に見えずむしろさらに目を引く。前に垂らした白銀の髪はポニーテールに変わり、眼鏡はモノクルになっていた。常にきっちり着込んだワイシャツなのに、今は胸元が大きく肌蹴ていて、目のやり場に少し困る。元々の素体を引き立てるように衣装のデザインとメイクが施され、利発さよりも危ない妖艶さが際立っていた。

忙しいはずだが、挨拶くらいいいだろう。アイリーンは距離を詰めて、ヴィクターへ声をかけた。

「ヴィクターさん、こんにちは」
「……おや、アイリーン。こんにちは」
「【LOM】の衣装ですか? いつもとずいぶん印象が違いますけど、素敵ですね」
「ありがとうございます。マリオンが考えたもので、フランケンシュタインだそうです」

フランケンシュタイン。
とある博士が「理想の人間」を求めて創ったものの、 産まれたのは醜い怪物。 その醜悪さから怪物は創造主に捨てられ、伴侶を欲しても拒絶される。 怪物は博士の妻と親友を殺し、憎悪と絶望から博士は怪物を追うが、船の中で息絶えた。怪物が死体となった博士の前に現れ嘆いた後、怪物は行方不明になる。
そういった内容の小説だ。

よく勘違いされるが、フランケンシュタインは怪物ではない。あくまで怪物は名前のない怪物。フランケンシュタインは創った博士の方である。姓がフランケンシュタイン。名は確か、

「博士の名前がヴィクター・フランケンシュタイン、 だからですか?」

目の前のヴィクターも研究者だし、一般的な認識と合わせて 「フランケンシュタイン」に割り当てたのは、マリオンのセンスなのか皮肉なのか。

「そのようですね。……フランケンシュタインは、自滅の代名詞ですから。マリオンもそういう意図があって選んだのかもしれません」

くつくつ喉を鳴らすヴィクターの目には狂気が孕んでいた。その瞳は強く孤独で、共感も同情も不要なのだと言うようで。何をしても成し遂げる強い意志があった。

けれど、同時に自嘲も含んでいるように見えて。アイリーンは、怯えよりも寂しさの方が勝った。
初めて見る表情だった。心を見透かすような眼差しを向けることはあってもほとんど笑っていて、苦々しい顔つきになったことはなかったのに。

ヴィクターの研究内容について、アイリーンが知ることは【サブスタンス】とヒーローに関わっていて、敬愛するオズワルドの研究を受け継いだということだけだ。実は自滅なんて物騒な言葉が似合うような、不道徳な研究でもしているのだろうか。
口を閉ざしてしまいそうになるのを耐えて拳を握った。そして、ヴィクターをまっすぐに見つめる。

「でも――――ヴィクター・ヴァレンタインは、ヴィクター・フランケンシュタインではないでしょう」

ヴィクター・ヴァレンタインは熱を持ち血の通った生きた人間だ。どんなに冷ややかでも、夢中になれるものがあって、誰かのために目的を為す姿は、ずっと――――。
浮かんできた言葉は何だったか。消え去った思考を追わず、もう一度背の高いヴィクターへ目を合わせた。

「だから、そんなこと言わないでください」

自滅なんて、目の前から消えてなくなってしまうようで――――切なくなるから。

「ふふ。そうですね。自滅など、したいものでもありませんから」

真剣で物悲しいアイリーンの眼差しに、ヴィクターの顔つきが落ち着いたものに変わる。すでに陰はなかった。
それに安堵しながら、フランケンシュタインから話題を変えてみることにした。

「そういえば、マリオンさんたちは何の仮装をしてるんですか?」

少々強引だったが、ヴィクターもそれに乗っかって答えてくれる。

「マリオンは猛獣使い、レンは神父、ガストはドラキュラです。衣装に限りませんが、マリオンはいつも以上に気合が入っていましたよ。私にも、普段チームに貢献していないのだから【LOM】で使うロボットを作れと言ってきましたし」
「ヴィクターさんって機械工学もできるんですか?」
「専門ではありませんが。どちらかというと、機械工学はノヴァのフィールドです」
「はぁ……お二人とも、本当に多才ですね」

アイリーンは機械の道についても暗い。 そもそも関心がある分野が狭すぎる。 ヴィクターやノヴァの好奇心の広さに驚くばかりだ。 ヴィクターと、ここにいないノヴァへ感嘆と尊敬の眼差しを向けた。

「私、チケット取ってなくて。ヴィクターさんがどんなものを作ったのか、見てみたかったです」
「会場に行かずとも、【LOM】は無料でネット配信されるはずですから、そちらで見られると思いますが」
「そうなんですか?」

きょとんとして尋ねる。

「貴方は【LOM】を見たことがないのですか? まぁ、確かに配信が始まったのはここ数年だった気がしますが」
「昔、弟にせがまれて連れて行ったくらいです。……あ、ヒーローの方に言うことじゃないですよね」
「そんなものでしょう。私も興味のないことは知りませんから」

そう言った後、何故かベルトが数本巻いてあるパンツのポケットから携帯機を取り出す。すぐにポケットにしまい、アイリーンへ顔を向き直した。

「……すみません、アイリーン。私はそろそろ約束の時間ですので、失礼します」
「あぁ、そうですよね。長いこと話してしまってごめんなさい。【LOM】、頑張ってください」
「ありがとうございます」

アイリーンへ笑いかけた後、ヴィクターは背を向ける。向かった先は【LOM】の会場先と違うはずだったが、チームの待ち合わせ場所なのだろうか。ヴィクターは足が長い。アイリーンからどんどん離れていく。それでも高く広い背中は分かりやすかった。
首を傾げながらも、アイリーンはカフェかケーキ屋でパンプキン味の何かを食べることにした。

(店に入ったら、【LOM】の配信方法調べておかないと)

ヴィクターはどんな風に戦うのだろう。単なるイベントが急にひどく楽しいものになって、スキップしそうになってしまう。スキップしたい衝動を抑えようと力強く踏み込むと、パンプスの音が大きく響いた。



ハロウィンも終わり、数週間。すでにハロウィンの飾りは消え失せていた。街からは祭りの空気が薄れているが、すぐにクリスマス仕様に変わるのだろう。
アイリーンは今日も一人で美術館へ足を運ぶ。今の展示は日本美術だということで、前々から気になっていたのだ。
からっと乾いた秋の晴れ空も心地よく、良い休日の始まりを連想させる。

見覚えのある丸い頭が視界の端に見えた。前へ進む足を止め、方向を変える。元生徒のレンがベンチに腰掛け、疲れ切った様子でうなだれていた。
体調でも悪いのか。アイリーンは声を張って話しかける。

「レン。こんにちは」
「……あぁ。あんたか」

無愛想な態度が返ってきたが、アカデミー時代から変わりない。無視されないだけで十分だ。それよりもっと気になることがある。レンの着込んでいる服が、HELIOSの制服とは異なり爽やかな青が際立つシャツになっている。腰にはエプロン、手には同じすっきりとした青い帽子で、まるで飲食店の制服だ。

「その恰好、どうしたの? 今日も仕事なのかしら」

深いため息をこぼして、レンが目線だけを合わせた。そしてゆっくりと教えてくれる。

「……クレープ屋の手伝いをさせられてる。全セクターの研修チームが参加させられてて……今日はノースだ」
「ヒーローって、クレープ屋の手伝いまでするの? あ、でも、握手会とかあるものね。お疲れ様、レン」

アイリーンが想像するヒーローの仕事内容はパトロールにサブスタンス回収、【イクリプス】との戦闘、【LOM】くらいだが、他にもトレーニングに雑務があるはずだ。レッドサウス大通りが祭りの会場になる【ストリートフェア】でヒーローが握手会をしていたり、グリーンイーストだとヒーローから子供たちの願いを叶える【ディアヒーロープロジェクト】があったり……。さらに業務が増えることになる。握手会や子供向け企画なら理解できるものの、クレープコラボまで来るとは。

しかし、若いレンやガスト、マリオンはともかく、正直言っておよそクレープという単語とヴィクターが繋がらない。コーヒーとたまにセットにする茶菓子はブールドネージュとか小さいフロマージュとか洒落たものだ。三人が似合わないというわけではないのだが。
アイリーンはクレープ店の制服を着たヴィクターを想像し、不思議な気分になった。

「……こんなことしてる暇ないのに」

労わりの言葉を受け流し、ぽつりと呟いた声には焦りがあった。静かで、けれども激しい怒り。比例するように力強く握った拳で帽子を傷つけてしまいそうだ。
レンには血の繋がった家族がいない。もしかしたらヒーローを志した理由に家族が関係しているのだろうか。

アイリーンの不安そうな眼差しに気付いたのか、はっと目を見張った。いたたまれない気持ちになったらしく、もう一度はぁ、と憂いを帯びた吐息を漏らす。

「休憩が終わる。じゃあな」
「えぇ。頑張ってね」

にこやかに笑うも、レンはクレープ屋があるらしき方向へ進んでいく。……が、少しして立ち止まった。そのままきょろきょろ左右に頭を動かす。

(迷ってるのかしら?)

アイリーンも心配になってレンを見守る。
レンは周囲を見回していたが、少しして携帯機で誰かと話し始め、再び歩き出した。チームの誰かが電話をかけて、道案内しているらしい。ならば大丈夫だろう。
胸を撫で下ろしつつ、レンの顔を思い返す。あんな思いつめた表情をするくらいレンは果たしたいことがあるのだ。それがたとえ後ろ向きな理由でも――――アイリーンは、少し羨ましいと思った。


甘いものは好きだが、積極的に食べるほどでもない。疲れて頭が鈍くなり、糖分摂取したいときに食べる。アイリーンにとって「甘いもの」はそんな立ち位置だった。
だから、甘いもののひとつであるクレープを食べることも少ない。三十代に入ったのも理由のひとつだろう。
美術館に入ってしばらくはクレープのことも忘れていたのだが。

(……たまにはクレープ、食べようかしら)

展示されている水墨画を見て、ふと思い立つ。さっきまでクレープのクの字も頭になかったのに。クレープというよりは、ヴィクターの制服姿の方が気にかかった。
寄るだけ寄ってみよう。アイリーンは一通り絵画や壺などを鑑賞した後、クレープ店を調べることにした。

ヒーロー、半角スペース、クレープ。たった二単語を携帯機器で検索すればすぐに分かった。マリオンクレープという店らしい。耳にしたことある名前だ。
何かと頭の中を探し出すと、出所は生徒だった。

人気ヒーロー、マリオン・ブライスと同じ名ということもあり(店自体はマリオンがヒーローになる前から設立されているが)、流行りのクレープ店だとか。クレープの写真を見せながら、そんな風に熱弁されたことを思い出す。熱があるうちにヒーローを呼んでさらに固定客をつかもうという魂胆か。

寒さが漂う乾いた空気を感じながら店に向かう。大通りから少し外れた道のビル一階にあるので少し迷うかと心配していたが、杞憂だった。店の近くまで辿り着くと、目印とばかりに女性客が多く並んでいたからだ。近くに整理券を配る店員もいる。ヒーローが手渡しすることになっているのか、マリオンが柔らかな笑みで客へクレープを渡していた。

それにしても、とアイリーンは軽く周囲を観察する。

(お客さんが多いわね)

スイーツを取り扱っていることもあるだろうが、要因が別にあるのは明白だ。元生徒のレンもガストも、マリオンもヴィクターも、方向性は違えどみんな顔立ちが整っている。一目見たいと女性が詰め寄ってやってきたに違いない。オーナーは今頃笑いが止まらないはずだ。

しかし、これだけ並んでいると少し迷う。諦めて別の甘いものを食べるべきか。どうしてもクレープを選ぶ理由もない。見るだけで楽しいパフェでも、ふわふわな食感のパンケーキでも、果物がたくさん乗ったタルトでもいいのだ。このクレープ店に来たのは、単にヴィクターがいるというだけ。

「お、アイリーン先生。久しぶり……ってほどでもねえか」

しばしクレープ店を遠目に眺めて悩んでいると、声をかけられた。ガストだ。長めの前髪を上げるためのカチューシャが制服とマッチしていて、ラフさよりもポップな印象を受ける。

「こんにちは、ガスト。休憩中かしら?」
「そうそう、でもそろそろ交代の時間でさ。マリオンって時間に厳しいから早めに行動しないと鞭で打たれちまう。……先生はドクターからこのこと聞いて来たのか?」
「違うの。少し前にレンに会って、クレープ屋さんの手伝いをするって聞いたの。甘いものが特別好きってわけじゃないんだけど、話を聞いて食べたくなっちゃって。それに、制服姿のヴィクターさんをちょっと見てみたくて……失礼だけど、クレープとヴィクターさんって結びつかないでしょう?」

アイリーンの言葉にガストはからから笑って大きく頷く。

「はは、分かるわかる。でもドクターも結構この制服、様になってたぜ。ホイップ混ぜたり生地作ったり接客したり」
「器用だし紳士的だものね、ヴィクターさんって」

大抵のことはスマートにこなしているし、口調は穏やかで優しげな笑みを浮かべている。クレープを作って渡すくらいなら朝飯前だろう。

「紳士……いや、まぁ、そうか」

ガストは露骨に目線を逸らして言葉を濁す。

「で、どうする、先生? 食べるならサービスするぜ。って、別に俺の店じゃねぇけど」
「うーん、そうね……。せっかくだし、元生徒のために売り上げに貢献してあげる」
「そいつは助かる。じゃ、俺は店に戻るな」
「えぇ」

手を振ってガストは店に戻る。マリオンに鞭で打たれまいと小走りだ。それだけで「かっこいい〜」と女性たちが見惚れている。黄色い声が聞こえたのか少し居心地が悪そうになった後ろ姿に、アイリーンは若干の憐れみと大きな応援の眼差しを向けた。

ひとまず整理券をもらい、メニュー表を見て注文を伝える。慣れている店員がメインで作っているのか、回転が速く三十分ほどでアイリーンの番が来た。
受付へ行くと、いつの間にか担当がマリオンからヴィクターに変わっていた。紺色の制服、エプロン、バイザー、そして美しく長い銀髪のポニーテール。いつもの知的で品のあるイメージから離れているものの、ガストの言葉通りよく似合っている。
アイリーンを見たヴィクターが軽く目を開く。

「アイリーン。どうしたのですか?」
「さっき美術館に行く途中、レンに会って。クレープ店で一日働くって聞いたので、久しぶりにクレープを食べてくなったんです」

何もおかしなことは言っていない。アイリーンの返答に納得したのか、訝しむような目は向けられなかった。

「そうですか。一定量の糖分摂取は大事ですからね。……どうぞ、いちごチョコクレープです」
「ありがとうございます」
「私も食べましたが、なかなか美味しいですよ。是非味わってください」

そこでヴィクターがウィンクする。アイドルばりの爽やかなウィンクに、アイリーンは目を丸くしてしまった。ひゃあ、と後ろの女性が軽い悲鳴を上げたのが聞こえる。
ヴィクターのウィンク。クレープ店で働く以上に想像つかなかった出来事に、一瞬時が止まった。

「アイリーン?」
「……あ、ごめんなさい。じゃあ、お時間まで頑張ってください」

後ろの客にも謝って受付から離れる。
一瞬の間だったのに気付かれてしまった。さすがヒーローであり観察力のあるヴィクターである。変に思われていないだろうか。少し不安になるが、気に留めても仕方ない。

クレープ店からすぐ近くの公園まで歩いて、運よく空いていたベンチに腰かけた。澄みきった水色が広がる空を見上げ、心を落ち着かせる。それでも先ほどのウィンクが脳内に残って、綿雲のようにふわふわした気持ちのままだ。
サブスタンスの話をするヴィクターは少年のようでなんだか可愛らしい、とたびたび思う。楽しそうで無邪気さもあって。そんな素朴な可愛らしさとは異なるウィンクだが、やけに似合っていた。これに相応しい言葉があったはずだ。何だったかしら。アイリーンは喉まで出かかった言葉を検索する。

――――ええと、確か、そう、「あざとい」だわ。

見つけた途端に合点がいった。これも生徒からの情報だ。アイリーンはSNSをしていないが、生徒と話せばありがたいことに流行に取り残されずに済む。

(ヴィクターさんって、ウィンクするのね……)

知的な男性が少年のように見えたりウィンクをしたり。そういったギャップを見つけて、アイリーンの頬が緩む。

そこでクレープの存在を思い出した。ホイップがぬるくなってしまう。
慌ててクレープを一口食べる。いちごの酸味とチョコレートの甘さが、何だか胸にまで沁み込んでいくような気がした。