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「#エロ」のBL小説を読む
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コスモが生まれる前


凄まじい光景を見た。それがあまりにも意外で奇妙で、ガストは持っていた買い物袋を落としそうになってしまった。

ガストの視線の先には男女がカフェテリアで飲み物を飲んで談笑している。
その男は知り合いで、というか職場のメンターで。 それだけならば邪魔をしないよう通り過ぎて、思い出したら適当に話題にするくらいだろう。
だが、男は終始穏やかな態度でも人付き合いがいいとは言えず、柔らかく丁寧な口調でも率直に物を言うし、常日頃から【サブスタンス】の研究で忙しそうにしている。 勝手に今も昔も女性との関係は皆無だとばかり認識していたのだが。

そんな男、ヴィクター・ヴァレンタインがエリオスタワー外で女性といる現場を見て驚かないわけがない。

恋人だとかではなく、仕事の話だろうか。 それにしても会話が盛り上がっているように見える。
観察してみれば、相手の女性もガストの知り合い……だった気がする。
記憶がおぼろげだが、アカデミーで見かけたことがあるような、ないような。女性は二十代前半くらいの若い顔つきをしている。しかし、垂れた目と泣きボクロが妙に色っぽく、ヴィクターと同い年くらいにも見える。まぁ、ヴィクターも三十代にまったく見えないが。ガストの記憶が正しければ、おそらくアカデミーの教師だろう。
互いにプライベート中ではあるが、ついしげしげと不躾に眺め、どういった経緯でなど推測してしまう。幸い二人はこちらに気付く様子はない。

あのヴィクターは女性とどんな会話をするのか。相手が相手なので喉に小骨がひっかかったように気にかかる。好奇心と今後の経験のため、ガストは立ち止まって耳をすませた。

「【サブスタンス】は生態系とかあるんですか? コアだけなら鉱物に見えますけど明確には違うでしょうし、かといって植物や昆虫の類に近いわけでもないですよね」
「そうですね。集団で行動するようなものもあれば完全に個体で行動するものもあります。一概に何目何科何属といった分類がしづらいですし、現状は動物や植物のように事細かに分類されていません。私のエクスペリメントや、ジェイのロードオブミリオンといったような固有名詞はついていますが」
「正式に名前をつけるのは時間がかかるので、それも理由ですか?」
「それもあります。 例えば――――」

ガストは会話を盗み聞きしてこけそうになった。

(なんだよ、その会話!?)

想像していたものと全く違う、いや、ある意味予想通りの会話だ。
仕事かと考えたが、まさか【サブスタンス】講義をしているとは。いや、【サブスタンス】フリークのヴィクターならばありえるか。

それにしても、学術的な話になっていてガストにはついていけない。女性は楽しいのだろうか。
ちらりと顔を伺ってみると、ヴィクターと対面している女性は人のよさそうな朗らかな笑みでヴィクターの話を頷きながら聞いては意見や疑問を述べていた。
ヴィクターはいつもの余裕ある口元を形作っているし、会ったことのある……ような気がする女性も、頭の中では微笑みを携えていた、と思う。今の二人はさらに笑みを深くさせている。会話の内容はともかく、傍から見れば楽しそうなことは間違いない。

(ドクターもあんな風に話すことがあるんだな……)

研究者であるメンターは関心のないことにとことん関心がない。そんな彼が喜びを滲み出して他人と弾ませている。

ガストはメンターの意外な顔を見つけて、少し不思議な気持ちになった。
しかし、これ以上観察していたところで居心地が悪くなるだけだ。ようやくヴィクターと女性から視線を外し、ガストはエリオスタワーへと戻ることにする。

「前はオズワルド博士が名前をつけてらしたんですよね? なら、今はノヴァ博士やヴィクターさんがつけてらっしゃるんですか?」
「そうですね。とはいえ、全て私たちで名付けている、というわけではありませんが」

ガストの背中からは、まだヴィクターと女性の弾んだ会話が聞こえてきた。


ガストがタワーに帰る頃にはすっかり夜も更けていた。すでに十月も半ば、日が暮れるのも早い。
エリオスタワーは高いうえに広い。ガストがエリオスに入所して一ヶ月と少し経つが、未だにタワーの内部を覚えきることができずにいた。さすがに自分たち研修チームの部屋とトレーニングルーム、司令室くらいは覚えたが、まだ用のない場所は難しい。

「ただいま〜」
「ガストちゃま、お帰りなさいナノ〜!」
「ずいぶん遅かったな」
「……」

共有ルームに戻れば、ジャクリーンの幼い声、マリオンのどこか刺々しい言葉、そしてレンの無言がガストを出迎える。
自分の部屋に他人がいることには慣れてきた。……まともな挨拶がジャクリーンだけなのも。

(もう少し仲良くしてぇんだけどなぁ)

和気藹々とまではいかずとも、コミュニケーションは和やかにいきたいところだ。

そういえば。この場にいないヴィクターで思い出した。ヴィクターとあの女性は結局仕事だったのか。仕事であれば事前に話は聞いておきたいし、そうでなくても気になる。
ガストはあくまで軽い調子でマリオンへ疑問を投げかけた。

「なぁ、マリオン」
「何だ」
「今日、ドクターが多分アカデミーの女教師とカフェで話しているのを見たんだけどさ。今度アカデミーで仕事があるのか?」

レンが仕事の単語を聞いて顔を上げる。しかし、マリオンはティーカップを持ったまま首を傾げた。

「アカデミー? 知らない。あいつ個人で受けた仕事なんじゃないか。……というか、カフェで仕事の話なんかしないだろう」
「ないってことはねーだろうけど、まあヒーロー、つーかドクターなら研究者か? そういう立場だったら多分しないよな。ってことは……」
「きっと恋人ナノ〜!」

ガストの言葉を遮ってジャクリーンが言い放った。飛び跳ねる様は人間じみていて、本当に小さな子供がいるような錯覚に陥る。十何年も人間とともにいれば成せることなのだろうか。
恋人。およそヴィクターからは連想できない単語だ。
気の合わない、むしろ合わせる気がないレンとマリオンは珍しく苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

「あのヴィクターに、恋人……?」
「恋人かぁ。正直想像つかねえなぁ……」
「ジャクリーン、 多分、いや絶対違うと思う。 あの変態、映画だろうかドラマだろうが、恋愛が絡んだら『どうしてこの男性は、ここでこの女性に好意を抱いたのですか?』とか言う奴だし……」
「ううん、きっとそうナノ! ヴィクターちゃまに恋人なんて、素敵ナノ〜! 帰ってきたら、い〜っぱいお話聞いちゃうノ〜!」

色恋沙汰が好きなのか、 くるくる回って盛り上がっている。このままヴィクターを探しに行くほどの勢いだ。
ジャクリーン一人だけが熱くなっている。反対にレンは眉間に皺を寄せているし、マリオンも涼やかで品のある顔を思い切り歪めていた。

(ドクターに恋人なぁ)

ガストも曖昧な表情を浮かべていたとき。

「おや、皆さんお揃いですね。珍しい」

話題の人物が戻ってきた。
ドアに視線が集中する。が、誰も言葉を発しない。当然状況が掴めないヴィクターは、怪訝そうに四人を見つめた。

「……何でしょう? 確かに帰ってくる頻度は少ないですが、私の部屋でもありますし、ここに来ても問題ないと思いますが」

ぺらぺら自らの意見とともに疑問をぶつける。普段ならここでマリオンが激昂するかガストが何か受け答えするところだが、マリオンには迷いと好奇心が漂っている。かくいうガストもそうだ。
恋人がいるのか? なんて、相手がヴィクターとはいえ、プライベートな質問を直球でぶつけていいものだろうか。
ガストも目を泳がせていると、レンが何故かため息を深くついた。
微妙な空気の中、ジャクリーンだけが舞いながらヴィクターへ近寄る。

「ねぇねぇ、ヴィクターちゃま、恋人ができたって本当ナノ〜?」
「恋人? 何の話でしょう?」

ヴィクターは眉をひそめた。
ガストの代わりに、マリオンが渋い表情で口を開いた。

「今日、オマエが女性といるのを、ガストが見たらしい。女性がアカデミーの教師だったみたいから、仕事かと思ったらしいんだが……一緒にいたのがカフェだし、不思議に思って話していただけだ」
「女性……アカデミーの教師……。……ああ、アイリーンのことでしょうか?」
「……あの教師か」
「レン、知ってるのか?」

消え入りそうなレンの言葉を拾う。レンは一瞬目つきを尖らせたが、すぐに手にしていたコーヒーカップへ視線を落とした。

「……俺もあまり話したことがないが、授業は取ってた。確か、いつも笑っていたような気がする。生徒に説教して怒っていたような記憶がない」

頭の中で思い描いてみる。レンの言う通りあの和やかな微笑みから語気を荒立てていたイメージが湧かなかった。そもそもガストが教師と関わったことなど授業や面談のときくらいだから、記憶が残っているだけ彼女はマシな方だろう。

「レンとガストの言う通り、アイリーンはアカデミーの教師ですが、仕事ではないですね。そのまま【サブスタンス】の話をしていただけです。恋人ではありません」

明日の天気を伝えるくらいあっけからんとした答え。あまりにも淡々と口にするものだから、ガストの肩が何だか軽くなる。
納得と若干の安堵が部屋に満ちていくが、その中には落胆もあった。

「そうナノ? ジャクリーン、ヴィクターちゃまに恋人ができたって、ワクワクしちゃったノ・・・」
「おい、ヴィクター。ジャクリーンが悲しんでるだろう。謝れ」
「はぁ……私はただ事実を述べただけですし、勝手に勘違いされて謝罪しろと言われても困ります」
「何だと?」

ジャクリーンモンペが出てきてしまった。こうなるとヴィクターに言いくるめられるか、ジャクリーンに宥められるか、物に当たるかのどれかになってしまう。
ガストは間に入って制止する。

「ま、まぁまぁ。俺、アイリーンって先生のこと知らないんだよな。いた気がするってくらいで。ドクター、どんな人なんだ?」
「ジャクリーンも聞きたいノ〜! ヴィクターちゃま、アイリーンちゃまってどんな人ナノ?」

ジャクリーンがぴょんぴょん跳ねる。心(AIに心というのも不思議な表現だが)の赴くまま相手に感情を投げるジャクリーンに、マリオンに睨まれたままのヴィクターが答える。

「そうですね。穏やかで、賢い方ですよ。すぐ知識を吸収してあれこれ意見や疑問をぶつけてくれますし。父親も学者と言っていましたから、家系なのかもしれませんが」
「そうなのか。全然覚えてねぇな。俺の場合、あんま先公に世話にならなかったつーのもあるけど……」
「彼女は選択科目の物理担当ですから、ガストが知らなくても無理はないでしょう」
「物理かぁ。確かに取ってないから、廊下で見たくらいかもな」

アカデミーは必修と選択した授業の教室に赴いて授業を受けるスタイルだ。HELIOSに来てから業務内容について覚えることも多いうえ、マリオンの血の掟もある。通っていたアカデミー教師に割く脳の容量は必然的になくなっていく。頭の隅にでも残っていたのが奇跡的なほどだ。
アイリーンの人物像がほんの少しはっきりしてきたところで、ガストはもう少し二人に切り込んでみる。

「で、その先生とドクターはどういう話してんだ? なんかちょっと聞いてた感じだと【サブスタンス】のことばっかだったけどさ」
「そうですね。彼女は【サブスタンス】に興味がなかったようで、まずは初歩的な話をしています。何度か私の話を聞いて関心を惹いていただいたようなので、次があれば今度はもう少し込み入った話にしようかと」

いつも余裕たっぷりのヴィクターの笑みが、今はどこか明るい。【サブスタンス】発見の報告を受けているときみたいに。【サブスタンス】を中心に、ヴィクターの話は毎回マリオンに「気持ちワルイ」と罵られているし、新たに同意してくれる人物ができたことが嬉しいのだろうか。
マリオンが不審な眼差しをヴィクターへ注ぐ。

「本当か……? オマエと趣味が合うなんて、その女性も変なんじゃないのか?」
「それは貴方の感性でしょう、マリオン。彼女は星が好きで天体観測に行くと仰ってましたし、いたって一般的な女性の好みと趣味の範疇かと」
「星はそうかもしれないけど……オマエが人と話して話が盛り上がるってなかなかないだろう。……それこそ、ノヴァと【サブスタンス】の話してるときとか。やっぱり変だ」

再びマリオンとヴィクターが口論、というかマリオンが一方的に口撃する。それも意に介さずむしろ正論の刃でぐさぐさ論破していく。
二人を見てもジャクリーンはにこにこしたままだった。普段は小さな子供なのに、今ばかりは本当に大人のレディに見える。

「なんだかヴィクターちゃま、すっごく楽しそうナノ。ジャクリーンも、アイリーンちゃまに会ってみたいノ〜」
「確かに。どんな人なんだろうな……。って、おい、レン、部屋戻るのか?」
「そうだ。本を読むから、邪魔をするな」
「そ、そっか。悪い」

ガストの謝罪を背に受け、レンはルーキーの共有部屋へ入った。本当に他人に興味がなさすぎる。確かにプライベートにあれこれ首を突っ込むものではないけれども。

(アイリーン、センセイか。どんな人なんだろうなぁ)

ぼーっと天井を見上げていると、マリオンの怒号が耳に入った。マリオンがヴィクターの胸倉を掴み、ジャクリーンがマリオンをなだめようと足下にしがみついている。

「おいおい、マリオン、もうやめろって! ドクターも!」
本格的にまずそうだ。ガストは顔をひきつらせ、無理矢理二人の間に割って入るのだった。


噂のアイリーンに会う機会は、意外と早くやってきた。

「おい、レン、あれ、ドクターじゃないか?」

ヴィクター恋人疑惑から数日後のパトロール終わり間際。今日もノースセクターの研修チームは個人で巡回を行っていた。交流の薄いチームを多少良くするためにはまずは同室のレンから。鬱陶しがられながら、解散の後着いていると、先程別れたばかりのヴィクターが目に入った。
レンはやはり仏頂面のままため息をつく。

「だったら何だ。ヴィクターもパトロールが終わって好きに過ごしているだけだろう」
「いや、だけど、その……女の人と楽しげに話してるからさ。ほら、俺が前言ってた……アカデミーの」
「女の人?」

レンがガストの視線を辿る。その先はヴィクターだけのように見えるが、相手が小さすぎるだけで、確かに女性の姿がある。癖はあるがふんわり緩やかにウェーブを描いたセミロングの髪、垂れた左目の下にやたら色っぽい泣きボクロ。間違いなくあのときカフェで見た女性だ。
女性を瞳に捉えたレンは、不思議そうな顔をしている。
好奇心に身を委ねて声をかけるべきか、空気を読むべきか。ガストが逡巡していると、

「……本当にいたのか」

世にも奇妙なものを見たような声が遮った。

「ま、マリオン? なんでここに……」
「ジャクリーンと終わったらパンケーキを食べに行こうって約束をしてて、待ち合わせに行くところだったんだ。それはともかく……本当にあの変態と楽しく話す女性なんていたんだな」

言葉だけ捉えればひどい物言いだが、ガストも驚愕して観察してしまった。今だってそうだ。

「調べたんですけど、【サブスタンス】って一般人でもコレクションできるんですね」
「ええ、レベル一かつ能力を発動させない【サブスタンス】と認められたものは売られていますよ。貴方もエリオスミュージアムであれば買えるかと」
「エリオスミュージアムですか。私、物を集めたりする方じゃないんですけど……。せっかくですし、今度の休み行ってみます」

マリオンの中性的な顔が崩れている。頭が痛み始めたのか眉間を揉んでいるほどだ。
レンはというと、すでにもうどうでも良さそうにしていた。ヴィクターとアイリーンではなく、ほっそりとした黒猫に目を奪われている。

「……マリオン、レン、ガスト。そこで何をしているのです?」

どこかぶっきらぼうにも感じる声に、ガストたちはびくっと飛び上がった。横を向くと、ヴィクターがこちらを見つめている。
仕事ですら行動を共にしない三人が固まっているのだから当然だ。……本当のことなのに、何だかひどく悲しくなってくる。

「な、何でもない! ボクたちはただ、本当にちゃんと女性と知り合ったんだと思ってびっくりしていただけで……た、たまたまだ! 別にオマエを尾行したわけじゃない! 本当だ!」
「まぁ、そうでしょうね。それに前も言いましたが、別に女性と話しているくらい大した事ではないと思いますが」
(マリオンが言うんだから、少なくとも仕事以外なら大した事なんじゃねーのか?)

どうせ冷静に否定され論破されるので、心の中で突っ込んでおく。
乾いた笑みが頬に浮かんできたとき。ばちり、と遠巻きに様子を伺っていたアイリーンと目が合う。彼女もどう声をかけるか迷っていたに違いない。そして、ガストたちへにこりと柔らかく微笑んだ。おぼろげな記憶の中と寸分違わぬひだまりのような穏やかな笑み。
ふいに笑いかけられ、ガストは心臓をぐっと掴まれる感覚に陥る。

「こんにちは。アイリーン・シェリーです。アカデミーの教師をしています。えぇと、ヴィクターさんと同じチームの方ですよね?」
「あ、あぁ……。ボクは、マリオン・ブライス」
「あら。マリオンさんのことは生徒たちからよくお名前を聞いてます。素敵なヒーローとお話できて嬉しいです」
「そ、そう……」

アイリーンが親しげに、けれども不快ではない距離感で、朗らかに口元をほころばせるものだから、マリオンも視線が少し泳いでいる。
戸惑ってそっけないマリオンの態度にも気にせず、今度はレンへ言う。

「レン、私のことまだ覚えてくれてるかしら?」
「……覚えてる。あんたの授業、取ってたからな」
「ありがとう。物理ってあんまり選択する子いないから、嬉しかったわ」

温和なところがどことなく幼馴染のウィル・スプラウトに似ているからか、レンは居心地が悪そうに顔を伏せた。
無言だったにもかかわらず、優しくたおやかな微笑みをレンへ向ける。そのままガストと目線を合わせたかと思えば、申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「えっと、貴方もルーキーよね? ごめんなさい、私、授業受けてる子以外はほとんど覚えてなくて。アカデミーの子って人数もすごく多いし」
「はは。まぁそんなもんだろ。俺はガスト・アドラー。よろしくな、アイリーン先生」
「よろしくね、ガスト」

ガストは女性が苦手だ。しかし、アイリーンの人当たりの良さがむしろ安心感を与えてくれる。
柔和でおしとやかで、なおかつあのヴィクターが賢いと評するくらい頭の回転が速いのであれば、ヴィクターも声が弾んで明るくなるだろう。偶然とはいえ、ここ数日気にかかっていたアイリーンの人となりについて軽く知ることができて、胸のつかえが下りた気がした。
ガストの気持ちが少し緩んでいると、アイリーンが尋ねる。

「そういえば、三人で予定でもあったんですか?」
「いや、それは絶対にない」
「違うんですか?」
「他のチームは知りませんが、私たちノースセクターはチームで集まって何かすることはありませんね」
「俺もこのままでちょうどいい」
「冷たいこと言うなよな……俺は集まったっていいと思うけどなぁ」

ばっさり一刀両断するマリオンとヴィクター、そしてレン。あまりにも早い返答に苦笑するしかない。
冷えた空気のチームにアイリーンがまばたきを繰り返す中、さらりと言った。

「まぁ、お仕事ですから、そういうこともありますよね」

少し、意外だった。
「もう少し仲良くしてもいいんじゃないですか」くらい言うものかと思っていたガストは、呆けた声を出しそうになった。物柔らかな性格をしているから、親睦を深めようと促してくれると勝手に期待していたのだが。唇を少し開いたまま見つめてみるものの、アイリーンは大して驚きを顔に出していなかった。

ガストの視線も気にかけず、アイリーンが続ける。

「でも、皆さん予定はありますよね。お仕事終わりに邪魔してごめんなさい」

さよなら、と丁寧に手を振る。翻った背はとても小さく、少ししてすぐに人混みに紛れていった。
小さな背を見送っていると、ヴィクターも歩き出す。

「では、私はそろそろ失礼します」
「ボクもジャクリーンを待たせてるから、もう行く」
「俺も本屋に寄る」
「あっ、ちょっ、急に解散するなよ!」

いつしか司令にブルーノースシティを案内したときのように、さっさとそれぞれの目的地へ足を動かしていく。レンの後を追いかけるうちに、ガストの頭の中にはもう小さな違和感は消えてしまった。



実験の結果をパソコンに打ち込んでいく。キーボードを叩きながら思考を働かせる。めぼしい成果は現れない。どんな結果だろうと結果で、記録はできる。そしてトライアンドエラーを繰り返す。研究とはそういうものだ。
ヴィクターは先程入れたコーヒーを口にした。深煎り豆の程よい苦さとコクが脳内を少しクリアにしてくれる。

(さすがに休憩を挟みましょうか……)

深く椅子にもたれかかったところで、部下の書類を眺めていたノヴァが顔を上げた。

「そういえばさぁ、ヴィク」
「何ですか、ノヴァ」
「マリオンが話してたんだけど、アカデミーの女性と知り合ったって本当?」

尋ねる瞳には若干の猜疑心と好奇心、そして何故か喜びがあるように見受けられた。マリオンやルーキーとは違う態度だ。

「えぇ、本当ですよ。それが何か?」

ヴィクターは淡々と頷く。特別なことはない。
ノヴァは目を見開いて、へぇ〜と気の抜ける声を出した。

「本当なんだ? いや、マリオンがこんな嘘つくわけないんだけど、ヴィクに聞くまでちょっと信じられなくて……」
「マリオンにも言われましたが、私が女性と会って話しているのはそんなに不思議なことでしょうか?」
「不思議っていうか、珍しいっていうか……何回も同じ女性に、仕事以外の人に会うって初めてじゃない? なーんて、おれが知らないだけかな?」
「確かに初めてかもしれませんね」

今までを思い返してみると初めてだ。時間が惜しい、興味がわかない、下心があけすけで面倒……そういった理由で、何度も会う必要性を感じなかった。男性だろうが女性だろうが同じだ。

「だよねぇ。……ねぇ、ヴィク。その人ってどんな人か聞いてもいい?」
「温厚で、聡い方ですよ。研究者でないのがもったいないほどです」

常に微笑みを浮かべていて、声を荒げず下品に笑うこともなく、理知的で好ましい。顔が少し幼いので同い年と言われたのが少し意外だった。しかもアカデミーにも通っていたそうだから、同級生だったことになる。

「今まで関心がなかったとのことで、【サブスタンス】については一般知識以上のことは知りませんでしたが、多角的な視点で柔軟な意見をくださるんですよ」

一話せば五は返ってくる。打てば響く会話がヴィクター自身存外身になっていて、また会えたなら話してみようと思えるほどだ。
本当に研究者でないのが不思議でならない。年の離れた弟の影響で教師を選んだとのことだったが、今からでも本人の努力さえあれば研究者としてやっていけるように思う。

ノヴァがへぇと相槌を打ち、

「ヴィクがそこまで言うってことは、頭いいんだなぁ。今おれがやってる研究も、アイリーンさんに意見聞いてみた〜い。研究研究研究! で、猫の手も借りたいくらいだし」

そして天井を見上げた。唇はゆるやかに弧を描いている。
今の言葉に笑う箇所はなかったはずだ。ヴィクターは眉をひそめた。

「何故笑っているんですか? 笑う要素はなかったように感じますが」
「いやー、ヴィクにおれ以外の新しい友達ができて嬉しいなーって思ってさぁ。すごくいいニュースだし、笑顔になるのも当然じゃない?」
「違いますが……」
「えっ? 違うの!?」

ノヴァはひとまわり大きな声を出し、驚きを表現する。

友人。志をひとつにして、心を許し合い、共に親しく交流を深める人。ヴィクターの知る定義と、彼女との関係性は繋がっているだろうか。口元に手を当てて考える。

「私は……そうですね、言うなれば彼女とは知人という認識です。連絡先も交換していませんし」

知人。互いに顔と名前を知っていて、面識がある人。口にして腑に落ちる。

「え〜、嘘!? 交換してないのに会ってるの? どうやって?」
「毎度というわけではありませんが、美術館や博物館で会うんですよ。そこでお互い時間があれば軽い講習のようなことをしています」

ヴィクターは気分転換、インスピレーションのために美術館や博物館へ赴く。ヴィクターが入館したらアイリーンが退館しようとしたときなんてこともある。まさしく「ばったり」という言葉が正しい。
尾行の気配や携帯電話、パソコンに侵入された痕跡もなければ、マリオンやルーキーたちの言動からヴィクターのシフトを聞いているわけでもなさそうだったので、本当に偶然だろう。

「そ、そうなんだ……。でも、十分友達でいいと思うけどなぁ」
「それだけで友人と断定するのはどうでしょう? あと、貴方とも友人ではありません」
「え〜!? それはないよぉ、ヴィク〜」

ノヴァが幼く喚き、頭を左右に大袈裟に揺らした。これが三十を越えた成人男性の行動か。機械工学や化学面では誰よりも信頼できるが、幼稚な振る舞いと風呂に入らない癖はいい加減どうにかならないものか。

長年の付き合いである男を一瞥するだけに留め、ヴィクターはVの文字が入ったカップのコーヒーを飲んだ。



(もうこんな時間……)

テストを作っている最中に面白い読み物を見つけてしまい、そちらに夢中になってしまった。結局テスト作成が終わったのは日も落ち切った時間だった。
十月の夜風は日を増すごとに冷たくなり、疲れた身に追い打ちをかける。
教師の仕事は好きだが、テストの採点や書類関連の雑務は少し苦手だ。長年勤めて慣れてきたものの、試行錯誤するときもある。
だけど。アイリーンは空を見上げた。濃紺の夜に秋の四辺形が連なっている。澄んだ光を放つ星を見ながらの帰り道はいい。早く帰ろうと早足だった歩みもゆっくりになっていく。

自然と口元が緩む中、少し遠い道先に白い布が落ちているのが見えた。どこかのシーツが飛んできたにしては小さい。

(何かしら?)

近づいていくと、正体はシーツではなく白衣で、さらに言うと人だった。
大の字で転がっている男性はぴくりとも動かず、意識を失っているようだ。運悪く誰も通りかからなかったのか、面倒事はごめんだと避けたのか。ひとまず声をかける。

「あの、大丈夫ですか?」
「…………ん? 今、何時……?」

少し間を開けて、へにゃへにゃとした声が返ってきた。寝ていたようだ。冬に片足を入れた十月の夜だというのに。どんな状況になれぱそんなことになるのか。
アイリーンが安堵と疑問の眼差しを向けていると、男性がよろよろと起き上がった。

「あ〜、すみません。大丈夫です。生きてます」

安心させようと手を振り、笑みを浮かべる。あどけない破顔はアイリーンの安心を増長させた。
はたと気付く。深いクマができるほど疲れきっているが優しい顔つきと、ぼさぼさの黒髪には見覚えがあった。

「お怪我とかないのなら良かったです。……あの、もしかして貴方はノヴァ博士、ですか?」
「そうですー。変な姿見せちゃって、お恥ずかしい」

照れくさそうに頭をかく様は全く天才学者に見えない。肌が不健康に白く顔も若く見えるので、見た目は困窮している学生のようだった。そんなノヴァが優等生然としたヴィクターと長い縁があることは事前に知っているのに、すぐ頭に入ってこない。
ヴィクターは左脳で物事を考えているが、ノヴァは右脳で物事を感じるタイプに思えた。「寝ている間に女神が教えてくれた」と周囲に言ってしまいそうな。
反対的な二人だからこそ、上手く付き合える。そういうこともあるだろう。アイリーンの友人たちだって似通った趣味はない。

「いえ、そんなことないですよ。研究者にとって、フィールドワークは大事ですものね」
「そうそう、いくら機械で情報を集めてても、現場に行かないと分からないことも多くて〜……。貴方も研究職とかに就いてるんですか?」
「いえ、アカデミーの教師です」
「そうなんですか。こんな時間までなんて、教師も大変ですねぇ」

感嘆と労わりのため息をつく。それからノヴァは目を宙にやって考え出した。

「……ん? アカデミー? もしかして、ヴィク……ヴィクター・ヴァレンタインと知り合いだったりしますか?」

その問いに、アイリーンの目が丸くなった。

「はい。ヴィクターさんから、最近【サブスタンス】を中心に色々教えていただいてます。アイリーン・シェリーといいます」
「あー、貴方だったんですね!」

アイリーンの頷きに、覇気のなかったノヴァの顔がぱっと輝く。

「マリオン、ええと、僕の家族なんですけど、彼と、ヴィクからアイリーンさんのことを聞いて、気になってたんですよ。いやぁ、こんなところで会えるなんて、嬉しいなぁ」

本当に嬉しそうにノヴァは言う。細めた瞳から見える光はひどく優しげで、アイリーンにも喜びが注がれているような気がした。

マリオンは先日出会ったから分かる。家族とはいえ苗字が違うはずだが、会話するくらいなら良好な仲なのだろう。ヴィクターは進んで自らのことを話すとは思えなかったので、もしかしたらマリオンから聞いた後、直接話してみたのかもしれない。
それでも、ヴィクターが竹馬の友であろうノヴァにアイリーンのことを話したのが嬉しかった。胸にちかちか明るくあたたかい感情が滲んでいく。

「本当、ヴィクがいつもお世話になってます」
「お世話なんて、そんな……。ヴィクターさんのご厚意に甘えて、【サブスタンス】なんかのお話を聞いているだけで。むしろ私がお世話になってます」
「そんなことないですよ。ヴィクもアイリーンさんと話すの、きっと楽しいです」
「そうですか?」
「もちろん」

アイリーンがあまりにも【サブスタンス】について無知なので、心のどこかで呆れられているのではと心配していたのだが、ノヴァが異を唱えるのであれば杞憂だったのかもしれない。

「ヴィクって、人間嫌いでもないのに、人と関係を持つってあんまりなくて……」

一瞬ノヴァの眼差しが悲しげに揺れる。すぐに元の笑顔に戻ってアイリーンへ向けた。

「だから、たまにお茶するような仲だとしても、ヴィクにそういう人ができて良かったな〜って思ってたんです。アイリーンさんがよければ、これからもヴィクと仲良くしてください」

仲良く。どこか幼稚で浅く薄っぺらい言葉を、久しぶりに聞いた。

――――仲良くしなさい。

脳裏に無愛想で低い声がリフレインする。あれは冷え切った命令だった。
だけど、ノヴァのは誠実な願いだ。

「はい」

まっすぐな思いに応えるようにしっかりと頷く。
連絡先すら交換していないのに、また会えるか分からないのに――――。それでも、ヴィクターといると、昔感じた星のように美しく眩しい気持ちが蘇っていくから。

ノヴァの笑みがよりいっそう深まる。アイリーンも微笑み返す。

夜の緞帳に散らばる星々が、二人の頭上できらりと光った。