longing
星が好きだ。
空に広がる輝きは大小あれど、遥か彼方から時を越えた光は色褪せない。 住んでいる惑星のことですら知らぬことが多すぎるのだから、宇宙など人の手には余る。
届かぬものは美しい。 理想のように、夢のように。
天の光はいつしか消えてしまうものだとしても。 星が死んだのはずっと過去のことだとしても。そのとき感じた光は胸の中で鮮烈に、時に淡く輝き続ける。
消えるまで変わらない輝き。掴めない美しいもの。そういうものが、好きだ。
爽やかな日差しが窓から入り込み、久々の快晴を肌に感じる。ふわりと吹いた風が癖のついたスレートグリーンの髪を触り、少しだけ気持ち良くなった。連日の雨でぬるく湿った空気がアカデミー内にも充満していたが、夏の訪れが近いことを思わせる。
(そろそろ夏ね……)
授業で使う予定のプリントと教材を手にしながら、アイリーン・シェリーはアカデミーの長い廊下を歩いていた。
ヒーローを志す学生が集うアカデミーは、ニューミリオンの中でもひときわ大きな施設だ。選択科目の一教師であるアイリーンの教室は遠く、細い腕で大量のプリントと教材を運ぶにはかなりきつい。
教師を務めて早五年以上。これでもようやく慣れてきたところだ。
少しくらい運動しなきゃダメかしら、などと考えていたとき。
「あっ、アイリーン先生!」
少女らしい甲高い声にアイリーンは振り返る。遠くで女生徒が何人か固まってアイリーンへ気軽に手を振っていた。それに目を細めて優しい笑みを向け、手を振り返す。
生徒たちが駆けてきて、アイリーンを取り囲むようにして集まった。小柄なアイリーンより皆背が高いが、威圧感はなく顔に浮かべている表情には親しみがある。
「もう授業は終わったでしょ。部活とかはいいの?」
「今日休みだから大丈夫だいじょうぶ」
「大会終わったばっかだもん、ちょっとは休みたいよー」
「てか、先生最近どう?」
「どうって、何が?」
あまりにも抽象的で曖昧な質問に尋ね返す。アイリーンの中では何も思い当たることがない。少女たちはにっと若々しさと意地悪さが同居した笑いをアイリーンへ見せた。
「何って、彼氏とかさぁ!」
「デイビス先生、丸分かりなくらいアイリーン先生にアタックしてるじゃん。どうなの?」
生徒たちが興味津々で身を乗り出す。
どこでそんな情報を持ってくるのだか。同僚が声をかけてくるのは誰もいないアイリーンの教室か帰り際だ。誰もいないと思っていても、やはり誰かが見ているということか。それとも、アイリーンが知らぬだけで同僚が生徒へ口にしているのだろうか。
今後のために波風立てぬよう否定しておく。
「特に何もないわよ。同じ教師として話してるだけ。それに、彼の方が年下なんだから。同い年くらいの子がいいんじゃないかしら」
アイリーンの言葉に、生徒たちはオーバーすぎるくらい目を丸くして叫んだ。
「えっ、うっそ!?」
「マジ? デイビス先生おっさん顔だし、アイリーン先生の方が年下だと思ってた」
「えっ、先生いくつ? あ、これ聞いていいやつ?」
「もう三十過ぎてるわよ」
『えー!!』
私はいいけど他の先生には聞いちゃダメよ、と付け加える前に、先程よりもずっと大きな驚きの声が辺りに響いた。
「全っ然見えない。いってても二十五くらいかと思ってたんだけど。背ぇ低いから?」
「いいなー、私もそんくらいいっても先生みたいになりたーい」
「ねー、泣きボクロと垂れ目エロいしさぁ。私も泣きボクロほしい」
「アイリーン先生、化粧品何使ってるの? やっぱ高級品?」
戦場の銃弾のごとく繰り広げられる会話に口を挟む隙もない。こういうとき少女たちは話したいだけなので、質問を繰り返されない限りアイリーンは微笑むだけだった。
「えー、彼氏いるの? デイビス先生タイプじゃないだけ?」
「いないけど……そうね、恋人はしばらくいいかなって。前の人がちょっと怖い人だったから」
正確に言うと、前の人も、なのだが。
前の恋人は最初温和な男性だったのだが、そのうち何故か束縛がひどくなった。挙句の果てに同棲を執拗に迫ったり勝手に合鍵を作られたり監視カメラやらつけられそうになったりと、ストーカー紛いに変化した。
その前の恋人も明るく積極的な人だったのに、ギャンブルにハマって金を要求して暴力を振るわれそうになり、いわゆるDV男になった。
一番初めの恋人も見た目は爽やかな好青年で、慎ましやかに交際を続けていたのだが、彼が他の女性と浮気して破局になった。
アカデミーからの友人、リズとミーナからも「アイリーンってびっくりするくらい男運がないよねぇ」「フィクションみたいなダメ男にしか会わない運命でも義務付けられてるわけ?」と言われる始末。
そんな風だから、しばらくどころかずっと独り身でいいとすら考えている。
アイリーンの苦笑に陰りが見えたせいか、きゃあきゃあ盛り上がっていた少女たちが口をつぐんでこちらの様子を伺うような眼差しを向けている。アイリーンはすぐにまたにっこりと笑った。
「暗い話しちゃってごめんなさい。今は何にもないから」
「……先生、いい人見つかるといいね」
「デイビス先生は頼りないしさ、頭いい人とか良さそう。先生、意外とインテリだし」
「分かるー」
生徒たちは憐憫の目を向けつつ、元気に振る舞って話を続けた。肩をすくめてアイリーンは言う。
「はいはい。私はまだ仕事があるから、皆は早く帰れるうちに帰りなさい」
「は〜い」
「アイリーン先生、じゃあねー」
「またねー」
別れの挨拶を口にしながら生徒たちが離れていく。動くたびに短いスカートが舞う。生足を惜しげもなく晒す姿にも若さを感じながら、アイリーンはプリントを持つ手に力を入れた。
「ただいま」
声は暗闇に消えていく。靴を脱ぎながらアイリーンは電気のスイッチをつけた。きちんと整理整頓された、言い換えれば物の少ない部屋が蛍光灯の無機質な明かりで照らされる。
今日はテストの採点があっていつもより帰宅時間が遅くなってしまった。適当に冷蔵庫に入っていたサンドイッチとフルーツで夕食を済ます。腹を満たしてほんの少し眠くなったところで、いくつか並んだ本棚を眺める。
(今日は何を読もうかしら)
適当にひとつの学術誌を手に取った。
学者だった父の影響で、教職に就いても適当な学術雑誌やら学会誌やらを買っては読んでいた。当然無関心な内容のものを買ったりしているので、知的好奇心を刺激されたいからでも知識欲を埋めるためでも何でもない。昔の癖が抜けきらないだけだ。面白いことは面白いのだけど。
日焼けしてすっかり黄ばんだページをぱらぱらめくる。ある名前が目に入って、本を読み進める手を止めた。
そこにはヴィクター・ヴァレンタインの文字が淡々と載っていた。
十三歳という若さで有名工学大学をスキップした後アカデミーに入学、現在ニューミリオンの象徴である【サブスタンス】研究対策機関、HELIOSに所属。【サブスタンス】の研究者でありながら同時にヒーローでもあるという、HELIOSでも稀有な人物だ。
実は、アイリーンの元同級生である。違うクラスだったし、まともに話したことはない。彼がアイリーンを覚えていることはないだろう。
それでもアイリーンにとって、ヴィクター・ヴァレンタインは憧れの存在だ。
アカデミー入学前からいくつも論文を書いては賞を獲っていて、身近にそういった天才がいることに驚きと尊敬の念を抱いていた。アイリーンもいくつかそれらしい論文を書いて賞を獲りはしたものの、ヴィクターに遠く及ばないのは明白だった。
もちろん同い年のノヴァ・サマーフィールドも、素晴らしい研究者で何百年に一人の大天才だ。初めて学会誌の論文を見たときは本当に同い年なのかしら? と真っ先に疑った。【サブスタンス】工学の功労者・オズワルド博士の息子で、父オズワルドに負けぬ知力と才能があって、十歳でAIを作って、……。ここまでくるとフィクションのように思えてならない。
十三歳で大学卒業だなんてヴィクターも充分非現実的な存在だが、それでも実際に声を聞いて姿を見れば「本当に存在しているのだ」と信じられる。
彼の発表にはどれも圧倒されたし、聞いているだけで楽しい。何度か発表に対して質問を投げかけたことがある。どれも淀みなく冷静にかつ分かりやすく説明するので、机の下で拍手してしまった。
そう、初めて父に連れられた天体観測で輝く星々を見たときのような――――言葉で言い表せないものが瞳に落ちてきて、世界がきらきら光った。今でもその感覚が胸に残っている。
『それって、ヴィクターの奴が好きってこと? えーと、恋人になりたいかって意味なんだけど』
いつかの授業の後、興奮しながらヴィクターについて話していたらミーナに尋ねられた。
一緒にいたい、手を繋ぎたい、キスしたい、デートしたい、セックスしたい。どれも全然思いつかなかったしピンとこなかった。
『あたしたちじゃ話になんないから、勉強を教えてもらいたいとか?』
違う。
『んー、なら、オズワルド博士にお近づきになりたいとか?』
違う。
『……じゃあ、何?』
友人の問いに、アイリーンはすぐ答えられなかった。抱く感情に近しいのが尊敬と憧れだ。今だってそう答えると思う。
ニューミリオンに住んでいながら、ヴィクターをアカデミー以降見かけたことすらなかった。ニューミリオンはどこも人が多いし、一度別れてしまったら再び出会うのは難しいだろう。
純粋無垢で、澄みきった光が煌々と胸で光る感情。まさしく心が揺れ動く。目を奪われる。そんな瞬間。
(いつかもう一度、あの気持ちを味わえるかしら……)
どこか虚ろな目で、アイリーンはヴィクター・ヴァレンタインの文字を指でなぞった。
(来れて良かったわ)
天井からぶら下がった大きな星のランプを見上げながら、アイリーンは薄く笑った。
週末の美術館は、靴音以外まるで音が存在しないかのように静かだった。週末でも展示期間の最終日だからか、自分と同じ美術鑑賞が趣味であろう人間が数人と、美術館学芸員が一人いるだけだ。
展示物はいわゆる現代アートだ。絵画や彫刻もあれば、香水瓶に彫刻、一見何でできているか分からないものもたくさんある。現代アートには疎いが、今回の展示テーマはストレートに「星めぐる美術」。アイリーンの好きなものなので興味が沸いた。
作品を鑑賞していると、星の光のまたたき、昼の空に浮かぶ白い月、悠久ほどの距離がある惑星を感じる。だが、解説を読んでも理解しきれない作品も多い。それでも星や宇宙を取り扱っているだけでわくわくするし、他の人はこういったイメージを抱くのかと感心していた。
休日に来る価値は十分あったと言えるだろう。
そろそろ帰ろうかというところで、規則正しい靴音がした。
最終日なのに、結構人は訪れるらしい。ヴァン・ゴッホの『星月夜』のような古典絵画などがあるわけでもないのに。アイリーンの関心がないだけで、現代アートは人気なのだろうか。
何気なく音の主へ視線を向けたところで、アイリーンは咄嗟に声が出そうになった。
――――ヴィクター・ヴァレンタイン……。
何年も顔すら見なかった元同級生が現れたことに驚いて、アイリーンは彼に見入った。
長く艶のある銀髪が美術館の照明を受けて輝いている。知的な切れ長の瞳にシャープな眼鏡が良く似合っている。アイリーンは小柄な方だが、それを加味してもヴィクターはずいぶんと長身だ。アカデミーの頃から既に背が高かったので、顔を見ようとするだけで大きく目を動かさなければならなかったことを思い出した。
我に返る。不躾に観察してしまっていた。ヴィクターはというと、アイリーンの視線を気にも留めていなかったようで、先ほどまでアイリーンが見ていた星のランプに注目している。アイリーンはほっとしてバッグを持つ手を緩めた。
声をかけるなんて、元々非社交的なアイリーンにはハードルが高い。学術的な文字でも雑誌の写真でもない、生身のヴィクター・ヴァレンタインに会えただけで、胸が懐かしさと明るい気持ちで満たされた。機会を逃せば数十年観測できない皆既日食や金環日食を見た――――そんな感覚。
それでいいのだ。
アイリーンは目を伏せて唇をほころばせる。
(本当にいい休日だったわ)
静かな幸福に満足したとき――――ふわり、ヴィクターの足下に何かが落ちたことに気付いた。美術館の入場チケットだ。一回入場してしまえばもう不要だが、美術館付近のカフェで割引になることもある。
拾った方がいいかしら。要らないかしら。逡巡しているうちに、ヴィクターが別の作品の前へ移動していく。
ここで勝手に憧れだった元同級生を見かけただけで勝手に満足していたらそれでいい。チケットも学芸員か清掃員が拾って捨てるはずだ。
それでいい、のだけれど。
「あの、ヴァレンタインさん」
アイリーンの少し震えた声が吹き抜けの空間によく響いた。
人の名を、姓を呼ぶのにこんなに勇気がいることがあるだろうか。新入生の名でも新しい同僚の名でも恋人の名でも、堂々と口にできるのに。
ターコイズブルーがこちらを捉える。眼鏡越しの視線は鋭い。アイリーンを絡めとるように見つめる蛇の瞳が、何故か嫌ではなかった。
少し早くなった心臓の鼓動を落ち着かせるために一呼吸置いて、 チケットを差し出す。
「チケット落とされましたよ」
ヴィクターはあぁとさして関心のなさそうに呟いた後、 チケットを受け取った。
「ありがとうございます。……私のことをご存じなのですね」
ニューミリオンでヒーローは注目度の高い存在だが、 ヒーロー個人を知らない者も多い。 ヴィクターは長年ヒーローを務めているとはいえ、スーパーヒーロー、ジェイ・キッドマンのようにドーナツの広告に載ったりテレビでインタビューされたり、そういった分かりやすいメディアの露出はなかったような気がする。
この利発そうな瞳と口元をした整った顔立ちで、知名度もファンも皆無ということは考えられない。ただ、いくら贔屓目に見ても話しかけやすい空気感はゼロだし、アカデミーでも人付き合いがあったようには見えなかったので、ファンとの交流がないだけらしい。
「ヴァレンタインさんが書いた論文、学会誌や紀要とかによく載ってるでしょう。それにヒーローですから」
本当はアカデミー時代の元同級生だから知っているんですけど。と、自分の答えに内心付け加えた。
半分本当で半分嘘のアイリーンの返答に、ヴィクターの瞳が興味深そうに少し開いた。
「ほう。 学会誌を読んでいるということは、貴方も研究者なのですか? 失礼ですが、貴方を学会で見かけた記憶がないので……どこの分野の方でしょうか?」
「いえ、私はアカデミーの教師です。父が地質学の研究者だったものですから、何か調べたり答えを見つけたりするのは好きなんですけど。だから、今は学会誌とか学術誌とか読んでいるだけで……」
「地質学ですか。【サブスタンス】の発見で、このあたりもずいぶん変わりましたからね」
えぇ、と頷こうとして、少し咎めるようなちくちくした視線に気付いた。美術大生らしき青年がヴィクターとアイリーンを睨んでいる。当然の注意に、アイリーンの肩身が狭くなる。
「ごめんなさい。美術館で立ち話なんてマナー違反でしたね」
「それもそうですね。もう少し話を聞きたいところでしたが……チケット、拾ってくださってありがとうございました」
ヴィクターが薄く笑って礼を述べた。
チケットを拾った、たったそれだけなのに、何か大きなことをして感謝されたような気がして、アイリーンはじんわり微笑みを顔に広げた。
「いいえ、どういたしまして」
本当に、いい休日だわ。もう一度そう思った。
一ヶ月に一度、週末の夜にアカデミー時代の友人二人と電話をすることになっている。近況を報告したり、相談に乗ってもらったり、愚痴を聞いたり、他愛ない話をするだけの電話だ。
大抵アイリーンは二人の聞き手に回ることが多い。たが、この日の夜は違った。
「……それでね、美術館で久々に会えたのよ。ヴァレンタインさんに」
『ヴァレンタイン? あの? へえ、良かったじゃない。リズなんか聞いたら手ぇ叩いて喜んでただろうね』
ミーナは一瞬驚きを露わにしたが、すぐに明るく言った。
もう一人の友人・リズは直前に断りの連絡が来て、この電話には交ざっていない。生まれたばかりの赤ん坊の世話で忙しいようだ。リズは感情豊かなので、すぐに花開いたように笑い、アイリーンの手を取って上下に振り回すところまで想像できた。
確かにそうかも。ミーナの言葉を聞いて頬を緩ませる。
そしてしみじみとミーナが続ける。
『アカデミーのとき、ヴァレンタインの話めちゃくちゃわくわくして聞いてたもんね。どの教師の話よりも』
「だって、本当に楽しかったんだもの。どれも天文年鑑と同じくらい楽しくって……」
『だったら教師じゃなくて、【サブスタンス】工学ちゃんと勉強しといてHELIOS入っといたら良かったのに。前から言ってるけどさ』
「でも、そこまで【サブスタンス】工学には興味なくて。それに研究職より、教える方が楽しいから」
『物理学教師のくせに【サブスタンス】工学興味ないって、よく分かんないわ。まぁ、そういうこともあるか』
災害を起こすまでの超常現象能力を持っている、一見ただの鉱物でしかない宇宙からやってきたエネルギー体。未知だらけで知的好奇心をそそられる存在のはずだ。でもアイリーンの心にはちっとも響かなかった。【サブスタンス】よりももっと美しいものに心奪われていたから。
相槌を打つよりも前に、ミーナはどこか安堵がこもった声で言う。
『でも、アイリーンがそんな興奮して話すの、弟以外だと久しぶりな気がするよ』
「え?」
『アイリーンってそんなテンション高く話すことってないからさ。論文が雑誌に載ったってときも、教師になったときも、誰だれと付き合うことになったのって話してたときも、結構淡々としてるっていうか……いつも通りのトーンだったし。昔はもっと顔に出ない方だったけど』
気持ちの昂りが顔や態度と一致しないことはずっと幼い時分から指摘されている。むしろ、本当に嬉しいのか? 悲しいのか? 演技ではと疑われたことすらある。幼少期、学生、成人と時を経てアイリーンとしては改善された方だと思っていたのだが、周囲の認識は違うらしい。自分を客観的に見れていない事実に、頭に石が降ってきたようなショックを受ける。
軽くうなだれていると、
『だから、今日は本当アイリーン楽しそうで良かったなーって思った』
思いがけない言葉が飛び出て、テレビ通話でもないのに携帯機器を見た。
「そ、そう……かしら」
『うん。だからさ、またヴァレンタインと会って話せたらいいね』
硬く四角い機械から、心の底から願っているような優しい音が聞こえた。
善い人だ。本当に。目を細めて、優しい音の余韻に浸る。そして、今はアカデミー来の友人へ声に気持ちが乗るように言葉を紡ぐ。
「……そうね。ありがとう、ミーナ」
『どういたしまして。……あ、今度はあたしの話聞いてよ。娘がさぁ……』
「うん、どうしたの?」
今度はミーナの愚痴と幸福な話のターンだ。アイリーンは耳を傾けた。
そんな話をしたところで、都合よく何度も会えるわけもない。十数年見かけたことだってなかったのに。
会いたい、話したい。そういう欲がないのだから当然か。【LOM】の観戦も弟がせがむから行っただけで、エリオスタワーも友人とショッピングか、恋人だった男性とデートに行っただけだ。
(心の隅で願っておくくらいにしておくくらいでいいわよね)
そのはず、だったのだけど。
「あ」
アカデミーの帰り道。授業の準備をし終えた夕暮れ。最近行きつけのカフェのコーヒーをテイクアウトしようとしたところだった。
また、ヴィクター・ヴァレンタインに会えた。……店と店の間の、少し薄暗い路地で。
アイリーンと目が合ったヴィクターは手を顎に当てて考える仕草をした後、
「……確か、貴方は……地質学の父上がいらっしゃる方でしたか? お名前を伺っていなかったので、こんな覚え方になってしまいましたが」
覚えていてくれた! ヴィクターの言葉に、神経にびりびり不思議な電流が流れていく。
「え、ええ。そうです。あのときは名乗らずにごめんなさい。アイリーン・シェリーと言います」
「ご丁寧に、どうも。ご存じでしょうが、改めて、ヴィクター・ヴァレンタインと申します」
「チケットを拾っただけなのに、よく覚えてらっしゃいましたね」
「地質学ということでしたが、別方面で【サブスタンス】に関わることは多くありますし、父上がオズワルドと関係ある方だったかと少々気になっていまして」
そういうことね。ヴィクターはオズワルド博士に師事していたのだから、気になることもあるだろう。理由を知って納得する。
でも、その期待には応えられない。アイリーンは目尻を下げて詫びる。
「ごめんなさい。父はオズワルド博士とはそこまで関係なくて……何度かお話はされたらしいですけど。私もだいぶ幼かったので、詳しい話は知らないんです」
「そうですか。関係者であればHELIOSに在籍していてもおかしくありませんしね」
同じ表情を彫刻のような顔に張り付けたままヴィクターは言う。
ところで、彼は何をしていたのだろう。ヒーローはシフト制なのでオフだったのだろうか。それとも単にパトロールだったのか。生徒の中には服を考えるのが面倒だから休日も制服で過ごすと言った子もいる。潔癖そうで几帳面そうなヴィクターだが、人柄も趣味嗜好も知らないアイリーンには判断できない。
何をしていたか尋ねるくらいならいいはずだ。軽く唾を飲み込んで、口を開いた。
「あの……ヴァレンタインさん」
「ヴァレンタインでなくて、ヴィクターで結構ですよ。あまり慣れていないので」
「え……そう、ですか?」
アカデミーの頃、ヴィクターはもっと冷え冷えとした目をしていた。だから、親しみを込めて……とは違うはずだが、そんな提案をされるとは思っていなかった。
ヴィクターさん。ヴァレンタインさんとはまた違う呼び方だが、大して差はない。なんてことない行為なのに、再びどっと喉が乾く。唇がヴィクターの名を形作るのを躊躇う。恋人だった男性の名を呼んだこともあるのに。恋と憧れはこんなにも緊張の度合いが違うらしかった。もう一度唾を飲み込む。
「ヴィクター、さん」
――――私、変な顔してるかしら。多分大丈夫、よね。
それだけが気がかりでならなかった。ヴィクターの眼差しに不審はない。ほっとして次の言葉を紡ぐ。
「どうしてこんなところに? 今日はオフなんですか?」
「いえ、今日はパトロール業務でした。【サブスタンス】の計測器に反応があったので、ここに来たというわけです」
「計測器……そうですよね、計測器がないと回収できませんよね。それらしいものがないし、全然気にしたことがありませんでした。検知は周波数ですか? 熱検知、ではないですよね? 【サブスタンス】の個体によって違うのかしら?」
【サブスタンス】や【イクリプス】が現れればヒーローが駆け付ける。カメラに映ってから報告では死角を突かれたらおしまいだ。計測器や検知機を使って場所を特定し、報告しているのだろう。当たり前のことに今更考えついて、疑問が怒涛のように浮かんでくる。
早口で思ったことを話し出すアイリーンをじっと見つめながら、ヴィクターは問いかける。
「物理学教師でしたよね? 【サブスタンス】にはあまり詳しくないのでしょうか?」
「アカデミーのときそこまで興味がなくて、本当に最低限の知識しかないんです。……なんて、【サブスタンス】工学の研究者に失礼ですよね。ごめんなさい」
「いいえ。そんなことはありませんよ。ヒーローでも【サブスタンス】に関心がない方が多いですから。……貴方がよろしければ、ここで簡単に【サブスタンス】について教えてさしあげましょうか?」
「本当ですか!」
突然の提言に大きな声を上げた。ヴィクターがまばたきを繰り返す。少し幼い表情にどきりとしながら、顔に熱が集まっていく。頬に手を当てると、やはり熱かった。
「あ、ご、ごめんなさい。あのヴィクター・ヴァレンタインさんから教えてもらえるなんて贅沢だなって思ったら、嬉しくなってしまって」
教えてさしあげますよ。単純できっと彼にとっては大した意味を持たない、すぐに忘れてしまうようなものなのかもしれない。
だけど、そのたった一言が、アイリーンにとっては今までもらった何よりも素晴らしい言葉に思えたのだ。
「……私はそんな大層な人物ではありませんよ。オズワルドには遠く及びません」
そう言ったヴィクターの顔には陰があった。穏やかな空気が少しひりついて湿っていくのを感じる。笑みを描いていた口元がきつく結ばれ、そのまま考えに沈んでしまいそうだった。
アイリーンは一呼吸して会話を続ける。
「でも、ヴィクターさんは兼業してますから、お忙しいでしょう。こんなところで時間を割いていただくなんて申し訳ないです」
「さすがに丸一日講義でもないですし、少しでしたら気晴らしにもなりますし。【サブスタンス】に興味を持ってくださる方が増えるのは私も嬉しいですから」
鋭い瞳を細め、言葉通り嬉しそうに楽しそうに笑う様は少年だった。アイリーンの記憶では、やはり表情は硬くてひんやりしていたのに。社交辞令じみた優しげな微笑みともまた違う。
(こんな人だったかしら?)
ヴィクター・ヴァレンタインについて知っていることといえば、名前と功績だけ。まともに会話したことがないのだから、違和感を覚えるのも当然だ。
それに、初めて星を見たとき、ヴィクターの発表を聞いたとき、小さかった弟に褒められたときと同じものが胸の中でちかちかと灯っていく方が気になる。
ヒーローと研究者を兼業している彼は多忙だ。この機会を逃せば、実現する可能性は新しい星が見つかるくらい低そうに思える。
「じゃあ、よろしくお願いします」
アイリーンは嬉しそうに目元を和ませて、柔らかく笑った。