科学者は愛の夢を見るか
翌日は雨が降って寒かった。春の雨は冷たく、しとしと静かに気力を奪っていく。空は雲で覆われて雨が降っているからか、心なしか通りの花屋の花が色褪せて見える。
登校する生徒、出勤する同僚に混ざってアカデミーの門を通る。 みんな雨で濡れて、というよりテスト期間で憂鬱そうな顔つきだったが、アイリーンの方がずっと暗く湿っぽい顔をしている。
今日で何度目か分からないため息をついた。ため息からアイリーンの陰気な空気が人に伝染してしまいそうだった。
「アイリーン先生、大丈夫?」
「具合悪いんじゃない?」
生徒が心配そうな顔つきで話しかけてくれる。よほどひどい顔をしていたらしい。すぐに笑顔を取り繕ってみるも、上手く仮面を被れているか自信がなかった。
「そうね……。ちょっと、気分が悪くて」
「今日寒いもんねー。辛いなら今日もう帰った方がいいよ」
「そんなこと言って、テストなくなったらいいなって思ってるだけでしょう。残念だけど、テストはもうできてるから、私が休んでもテストはなくならわないわよ」
「だよねー。でも、本当に具合悪いなら休んだ方がいいよ、先生」
「えぇ。ありがとう」
礼を言えば、生徒たちは無言でピースする。雨模様と正反対の晴れやかな顔で、一瞬目がくらんだ。
今日はアカデミー来の友人と通話する日だ。人と話す余裕すらない。日が沈んだ後の藍色を眺めているよりも、友人の幸せな話を聞いて少しでも気を晴らしたかった。だが、ミーナは娘が風邪をひいて欠席だ。それでもリズはおおらかで明朗で、愚痴があっても陰気にならずからっとしている。今回も聞いて自然と唇がほころぶような話をしてくれるはずだ。
約束の時間になり、かかってきた電話のアイコンを右へ移動させた。
『もしもし、アイリーン、元気ー?』
リズののんびりとしたふくよかな声は、アイリーンのぐにゃぐにゃになった心をいくぶんか整えてくれた。
「うん、何とか……」
『……何かあった? 声すっごい暗いよ』
内容が内容で、一部始終を口にするのは躊躇われた。床に視線を落としてアイリーンは遠回しに言う。
「その、リズは……旦那さんとケンカしたとき、どうしてる?」
『え? ヴァレンタインさんとケンカしたの? アイリーンが?』
即座にヴィクターに繋げられている。連想させるような話題ばかり出していたから当たり前だ。
「ケンカというか、私が一方的にまくしたてたって感じだけど」
『へ〜。アイリーンがケンカかぁ。どういうこと言ったの?』
「……もう少し、ヴィクターさん自身を大事にしてほしいって。いろいろ迷ってるようだったから……。でも、私の考えばかり言いすぎて……そのまま自己嫌悪で帰っちゃったの」
夜の海よりも暗く物憂げな声音もリズは受け入れている。考えるために間を繋がず、むしろ珍しそうな吐息がスピーカーから聞こえた。
『アイリーン、結構怖がりなのに、ヴァレンタインさんにはいろいろ言えたんだね』
「怖がり?」
一見けなされているように思える言葉だ。しかしリズはあっけからんと言い放っていて悪意はなく、アイリーンの胸にもすっと入っていった。
冷静とか慎重とか大人しいとかいったことはたくさん人に評されてきた。臆病は生まれて初めて言われた。ポジティブそうな単語からネガティブに捉えたものに変わったのに、何も無い冬の森のような心象が少しあたたかくなった気がした。
本当に欲しいものを手に入れたと感じたことが少なくて。だから、期待しない。その方が自分も相手も傷つくことがないから。
『うん。なんていうかなー、アイリーンって自分の意見は言うけど、自分のことあんまり言わないし。前もミーナが言ってたけど。気持ちを共有しないっていうかさ』
リズが無神経さを出さずに長年感じていたことをぽんぽん述べる。さらりと語ってくれる様は逆に優しささえ感じ、アイリーンの強ばった体が緩んでいく。
『だから、ヴィクターさんには自分が思ってることを伝えられるんだなって嬉しくなったよ。あっ、私たちには言わないのにって責めてたりしてるわけじゃないからね』
口調は子どもっぽいのに、ひどく爽やかであたたかい言葉を贈られて、善い人だ、とアイリーンは改めて思った。
ミーナもリズも根暗でひとりぼっちだったアイリーンを人間らしく笑えるようにしてくれたのだから、善良でないわけがない。出会えてよかった。友人の優しさがまたアイリーンの心の雪を溶かしていく。
アイリーンがいくぶんか落ち着いた口調で、
「分かってるから大丈夫よ」
と返す。リズはよかったぁと少女のように抜けた声を出した。
『ケンカっていうより相手のために伝えたってことだから、すごく落ち込まなくていいと思う。相手をコントロールしたくて言ったことじゃないんだし。ヴァレンタインさんがアイリーンのことどう思ってるかいまいち分からないけど、本当に自分のことを心配して、考えてくれた言葉って何かしら響くものじゃない?』
そうかしら。疑問を呈そうとして口をつぐむ。
ヴィクター・ヴァレンタインにとって、アイリーン・シェリーはどんな存在なのだろう。知人以上、友人未満にはなれているはずだ。名前すらぼやけている関係は心地よかった。これからもそのままで、小さな繋がりすら絶たれてもいいとすら思う。
――――もし、本当に会えなくなって。今よりずっと苦しくなったらどうすればいいのかしら。
考えたことがなかった。星のきらめきを宝箱に大切にしまって眺めるだけで生きていけたから。
これまでぽっかり空いたままだもよかったさみしさが急に埋まったから、ひどく美しい幸せを感じていられた。また空いてしまったら、きっとそのさみしさと向き合うことになる。強い光を感じ続けて、まぶたの裏にその光が離れない。
だけど、昔星の輝きを見た憧れの人が、好きな人が、暗闇で迷子になったままである方がずっと恐ろしかった。
『だから、また話せるんだったら話した方がいいよ。どんな結果になっても後悔しないように。アイリーンが、ヴァレンタインさんのことを綺麗な星だったって思えるように』
今に至るまでずっと燦然と輝いていて、光を失ったとしても。美しいものは美しいものだったと言えるように。
「……ありがとう、リズ。すっきりしたわ」
『本当? ミーナみたいにすぱっと上手く言えないけど、アイリーンが納得してるならよかった』
「えぇ。だから湿っぽい話で終わりにしないで、今度はリズの話聞かせて」
『えー、そうだなー。あっ、この間幼稚園の下見行ってね。いいところだったんだけど……』
変わらないトーンで話し出すリズに、アイリーンはほのかに笑った。
窓の外では、雨はもう降っていなかった。
「ヴィク、どう?」
「いい結果です。仮説通りと言って差し支えないでしょう」
「やった〜! よ〜し、この調子で進めちゃおう!」
誰も彼も寝静まって夜の静寂が漂う時間帯にもかかわらず、ノヴァが大きな声をあげる。ノヴァのラボであるからいいものの、もう少し音量を下げてほしい。とはいえ、今まで解が得られなかったものに仮説が立てられ、しかも理論立てた通りの結果となれば興奮して当然だ。ヴィクターは叱責せず次の準備を進める。
エリオスミュージアムでノヴァへ長年しまっていた感情を吐露してから、かなり時間が経った。少々疲れも出てきたが、体の訴えを無視してでもまず突き詰めたい答えがある。やはり自分の知らない、誰も知らない答えを見つけるのは面白い。
とはいえ、さすがにカフェインを摂取しておくべきか。眉間を揉み、ヴィクターは深い息をついてノヴァへ言った。
「ノヴァ。コーヒーを淹れますが、貴方もいりますか?」
「あ、うん、おれも欲しい〜」
「分かりました」
コーヒーマシンを稼働させ豆を入れる。煎る音を聞いて待っていると、脳の処理速度が下がっていく。こぽこぽと噴き出し音と深く香るコーヒーの香りが疲れた脳に優しく染み渡る。
ぼんやりしていく中、悲痛に胸が千切れてしまっていそうな声がぽつんと浮かんだ。
――――ヴィクター・ヴァレンタインは――――ヴィクター・フランケンシュタインでも、オズワルド・サマーフィールドでもないでしょう!
いつも穏やかに笑っていて、逆に言うと喜びと楽しみ以外の表情をほぼ顔に表さない。そんなアイリーンが声を荒げ、体全てを使って激しい怒りと悲しみを露わにした。
単なる知人に何故そこまで感情をぶつけたのか、分からなかった。思い描いていたヴィクター・ヴァレンタインと違ったからか。期待を裏切られたと思ったからか。
それとも――――ノヴァと同じように、自分と向き合って科学者としての矜持を果たせと、言いたかったのか。
――――だって、ヴィクターさんのこと、好きですから……。
別れ際、触れたら壊れてしまいそうなほど脆い声でこぼれた想いを耳にした。
あの「好き」は、好意でくくって終わるものか。心を切り取って渡してきた言葉にはもっと大きく深い感情がこもっていた。
癖のあるストレートグリーンの髪。時折切なげな光を放つエメラルドグリーンの瞳。ヴィクターよりもずっと小さな体。柔和で優しい顔つき。頭の回転の速さ。好ましい節度と品、強要のなさ。そして、からっぽな表情と激情に駆られた表情。
(ジェイの不調が治ったら、アイリーンに会いに行ってみましょうか……)
コーヒーが出来上がった音を聞いて現実に戻る。ノヴァに手渡そうとすると、カップの文字はノヴァのNではなくヴィクターのVであることに気付いた。もう一度カップをセットしてコーヒーマシンを動かす。先にコーヒーを口につける。砂糖もミルクも入れていないコーヒーは、何故かほんのり甘さが舌に残った。
オリーブアベニューで【イクリプス】が出現。ジェイ・キッドマン筆頭にヒーロー大活躍! そんな見出しの記事が大きく新聞に載った。
相談に乗ってもらってから数日。未だにアイリーンはヴィクターに会いに行くことができなかった。ほとんど手がつけられていなかったテストの採点、生徒の成績評価に勤しんでいたのだった。長年悲しんでいたが、物理は数学や生物よりは選択している生徒が少なかったことが今回幸いし、数日で終わらせられた。
今日からアカデミーはすでに春休みに入っている。壁に掛けられたカレンダーをぼうっと眺める。
(明日電話かメールして、ヴィクターさんに会えたらいいけど……)
春学期の準備よりも先にヴィクターに会いに行きたかった。
難しいかしら、とカレンダーを前に唇に人差し指を押し当てていたとき。静かな部屋で携帯機器が何かの始まりを告げるように小刻みに震えた。
電話だ。アイリーンに電話をかけてくる人は限られている。友人か弟か同僚か。それか、
「ヴィクターさん……」
喉にこみあげた悲しみや痛みを、脳を通さずに好き勝手にまくしたてたのだから、ヴィクターから連絡が来るなど思いもしなかった。アイリーンは震える携帯機器をおそるおそる手に取って電話に出た。
「……はい」
『こんばんは、アイリーン』
息を呑むほど優しい声だった。数日前に聞いた声はあんなにもか細くて弱々しくて、声帯を切り取られてしまったようだったのに。ヴィクターからの電話だったことも明るい声色にも動揺が走る。携帯機器を持つ手に一瞬力がなくなった。
「ヴィ、ヴィクターさん。こんばんは。どうしたんですか? 電話をかけてくるなんて……」
『貴方には早く伝えておこうと思いまして。メールよりも電話したかったので、遅い時間に失礼しました』
「それは大丈夫ですけど……私に伝えたいことって何でしょう?」
脈打つ鼓動を感じながら、ヴィクターの次の言葉を待つ。過去に受けた教師の試験の結果などよりもよっぽど体が硬くなる。数秒の間さえもどかしい。
『私の研究がHELIOSに認められ、ヒーローという職を剥奪されないことが決まりました。研究については、ヒーローの職務を最優先することが前提条件ですが』
は、と唇から息が漏れる。目を見開き左手を胸に当てた。
「本当ですか?」
『えぇ。ご心配をおかけしました』
怖くてアイリーンが念を押せば、ヴィクターはまた穏やかな声音で返す。
(――――よかった)
途端に安堵がアイリーンの体中を包んでいく。緊張から解き放たれ、床に座り込んでしまいそうになる。
『アイリーン? どうかしましたか?』
ヴィクターの声で我に返る。ほんの少し時が停止し、息をするのも返事をするのも忘れてしまった。苦しさを覚えてようやく深く呼吸する。そして、今胸に浮かぶ安らいだ気持ちが全部伝わるように、ゆっくりと唇に載せていく。
「よかった。ヴィクターさんが元気になって……。前に応接室で会ったときよりずっと声が明るいですから、安心しました」
別にヒーローでなくたって研究者でなくたっていい。ヴィクター・ヴァレンタインという人が生きようと思えたのなら、それでいい。
違和感があるかないかの間の後、ヴィクターの応答が返ってくる。
『……そうですね。研究を完成させ、何の道も見えなくなって、私はここで停滞するのだとばかり思っていましたが――――新しい道を見つけようと思い直せました』
「新しい、道……」
『それが何か、具体的には何も分かっていませんが。貴方の……自分で自分を見てほしいという言葉も、よく効きました』
笑みをふくんだ言葉は柔らかだった。責められていないと分かっていても、胸に矢が刺さってちくりと痛む。
「あれは、その……すみません、本当に。言いすぎてしまって。私もヴィクターさんのこと、何にも言えないのに……」
『いえ、全部事実ですから』
ヴィクターがあまりにも優しい声をするものだから、胸の中で炭酸が弾けてどきどきする。
聞いたことのない低音にときめいていると、ヴィクターが尋ねる。
『ひとつお聞きしたいのですが、アイリーンは今週どこか空いていますか?』
「今週、ですか? アカデミーはもう春休みに入ってますから、いつでも空いていますけど」
『なら、明後日直接会って話したいのですが。よろしいですか?』
今電話をしているのに会って話したいこととはなんだろう。ヒーローのままでいられる経緯でも語ってくれるのか。渡したいものがあるのか。それぐらいしか見当がつかない。単語の裏に潜む気持ちは違うだろうが、会いたいのはアイリーンも同じだった。
「は、はい」
『では、明後日の午後六時、エリオスミュージアムの庭園で。申し訳ありませんが、私はまだ行動を制限されていてあまり遠くまで行けません。日時も集合場所も、問題ないでしょうか?』
「大丈夫ですよ。明後日の午後六時ですね」
『えぇ、よろしくお願いします。……では、おやすみなさい、アイリーン』
「はい。おやすみなさい、ヴィクターさん」
通話を終了する。アイリーンは耳から携帯機器を離し、画面を見つめた。一分経って真っ暗になってもじっと眺めていた。
たった五分程度の会話で胸がきれいなもので満ち足りていく。砂漠の中で美しく咲く一本の薔薇を見つけたような気持ち。
「直接会って話したいことって、何かしら」
誰が答えてくれるわけでもないひとりごとがアイリーンだけの空間に漂って消える。
都合のいい妄想は流れて散った。さすがに夢を見すぎだ。とりあえず、今はただヴィクターからの「会いたい」の余韻に浸ることにした。