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星の王子さまはいつだって


青年が女性の部屋に入ってきた。二人はしばし見つめ合った後、女性はそっと青年の唇の端にキスをする。それから、首筋、まぶた。女性が無言で唇を指差す。一瞬躊躇った後、青年も同じようにキスをした。
カメラが部屋の外へと移り、二人が何度もキスをする様がカーテンに映し出される。別の建物にいた老人がそれを満足そうに盗み見ていた後、テレビに映る女性と青年に気付く。隣にいた男性へ睨みつけると、男性は渋々止めた。
胸元で眠る青年を愛おしそうに抱きしめる女性。次のシーンで、女性と青年が笑い合って街を自転車で駆けていく。
そしてエンドロール。
ちぎった写真を載せたアルバムでキャストを紹介する映像を、ヴィクターは冷静な目で観ていた。

(世界的に評価されているだけあって、いい映画ではありましたね)

なかなか面白い知見を得られたが、ヴィクターが欲しいものはなかった。

次は記憶障害の女性に交際を申し込み続ける軟派な男性の話にするか。もっと古典にするか、それとも新しいものがいいか。
恋愛映画のタイトルを並べ眺めていたとき、

「ヴィク〜」

ノヴァが苦しげな声をあげて入ってきた。風呂に入らせようとするジャックから逃げてきたか、退屈で死にもしないのに死にそうか、会議が面倒で抜けてきたか、どれにしろくだらないことだろう。ノックせず入ってきたことを視線で咎めてみるも、ノヴァは無視してモニターを見た。

「あれ、映画観てたの? 珍しい〜、ヴィク、最近一人で映画観てなかったよね? どんな映画見てたの?」
「有名な恋愛映画を見ていました。コミュニケーションが苦手な女性が、とある男性に一目惚れして宝探しじみたことをして自分へ導く……」
「え? 恋愛映画? なんでまた急に」

――――よかった。ヴィクターさんが元気になって……。

心の底から幸福そうな、慈しみにあふれたアイリーンの声を聞いたとき。胸がじくりと痛んだ。
罪悪感、良心の呵責、慙愧の念。マリオンやレン、グレイたちと違ってアイリーンを研究に巻き込んだりしていない。なのに、裸足で茨の道を歩くような、十字架を踏みつけるような痛みとは異なる感覚が離れない。

つくりものの星空の下浮かべた空虚な顔を見たときとも違う。あのときはアイリーン・シェリーという人間の触れていない部分に触れた気がして、逆にヴィクターの胸に爪を立てられたように思う。
恋。対象に愛情を寄せること。そんなおぼろげなものに解答が欲しい。哲学書や俗っぽい恋愛書よりも、まだ映画の方が上手く頭に入ってくると踏んだのだ。

「少し……恋愛感情について、学び直そうかと」
「恋愛? 本当、突然なんでまた……ヴィク、いっつも一目惚れとか分かりません、意味不明って感じなのに」
「出会って生涯を捧げようなど短絡的で軽率だというだけです。人の心は移ろいやすく不変はないのに、大袈裟に永遠の愛などと言ってすぐ誓うなんて理解に苦しみます」
「そりゃ、そうかもしれないけど。未来のことは誰だって分からないんだから、目が合ってすぐに身も心も捧げたくなるほど好きだって感じたんだって。そうやって、一瞬ですべてが決まってしまうようなこともきっとあるよ。理屈だけじゃ解決できないことは世の中にいっぱいあって、そのひとつが人間の心なんだから」

大抵のことは解決か創造してきた天才がなんてことないように答える。
人の心は単純で難解だ。ヴィクターも重々承知している。心理学を学んでいようと予測と異なる行動や言動をされることの方が多いのだから。

へらりと笑っている目の前の男はやたらと大人びて見えた。同時に敬愛する恩師の顔がちらつく。まったく纏う空気は違うのに。
ヴィクターはノヴァから顔をそらし、モニターへ向き直した。

「……なるほど。婚約者がいた貴方が言うと、妙に含蓄があるように聞こえますね」
「妙にって、ひどいなぁ」

幼く口を尖らせた後、ノヴァはさらに身を乗り出していたずらっぽい口調で問いかける。

「で、ヴィクは誰かに恋してるの?」
「何故そう思うんですか?」
「だってこんなときに恋愛感情を学び直そうなんて、誰かに恋してるのかなぁって考えるよ」

恋、なのでしょうか。呟こうとして口を閉ざす。首を突っ込んでくるのは明白だ。なんと答えるか考えることさえ煩わしい。
ため息をついてヴィクターは時計を見る。そろそろ約束の場所に向かわないと間に合わないだろう。モニターの電源を消し、椅子から立ち上がってドアへ歩き出す。

「え、ちょっとヴィク、どこ行くの?」
「この後予定があります。では」
「予定? 会議とかもう終わったよね?」
「えぇ、終わってますよ」

それだけ答えて自分のラボを出る。ノヴァの不思議そうな声がドアが閉まる瞬間に聞こえたが、無視した。



約束の日時。アイリーンは約束のエリオスミュージアムに来た。平日、しかも閉館前とくればエリオスミュージアムはさすがに人気がなく、受付が澄ました顔で座っているくらいだった。受付を横目に指定された庭園へ足を運ぶ。

夜の庭園はしんとしていて、パンプスの音があたりに大きく広がる。真ん中に透明な人工池があるせいか春の夜の涼しさは深い。寒さすら感じるはずの気温は、アイリーンの心に浸透していくようでむしろ心地よかった。池の水面には色鮮やかな花びらが浮かんでいる。
池のそばで、約束した人物が空を見上げていた。建物の明かりから遠いせいで分かりづらいが、横顔は以前よりずっと血色がよかった。
アイリーンに気付いたヴィクターは口元を緩めた。それだけでアイリーンの心が軽くなる。

「こんばんは、ヴィクターさん」
「こんばんは、アイリーン。こんな時間に呼び出して申し訳ありません」
「いえ、ヴィクターさんの方がお忙しいでしょうから」

自然と笑みがこぼれる。こうしてヴィクターと穏やかに話したのは久々のような気がする。
心に活気が戻った理由を問いかけてみたかったが、ノヴァやヒーローたちが関わっていることは明白だ。詳細を尋ねるのをやめて、単刀直入に用件を聞き出す。

「それで、お話って何でしょう? ヴィクターさんに貸したものもない、ですよね?」

微笑んでいたヴィクターの顔が、すっと別のものに変わる。細めた目つきは夜のせいで表情が読み取りづらかったが、何故か艶があって胸の奥がどきりとする。しばしアイリーンを見つめた後、再び夜空を仰ぐ。

「……アイリーンは、恋をしたことがありますか」
「恋、ですか?」

恋なんて甘い単語がヴィクターの口から出てきたことに驚く。会ってまでする質問だろうか。しかし、ヴィクターの眼差しは真剣そのものだ。どうしてと理由を尋ねるより、問いの真意より、答えを探し出すことに集中する。

記憶の中のアイリーンは、人から告白されればそれを受け入れていた。「君が好きなんだ」、「いつも笑っていて、素敵だと思った」、「だから付き合ってほしい」。デートの帰り道、洒落たレストラン、彼の自宅。どれも嬉しかったことは事実だ。
けれど――――。

「何度か男性とお付き合いしたことがありますけど……でも、恋をしていたかと言われると違うと思います」

――――君は、本当に僕のことが好きなのか?

そのときははっきり否定したし、今考えてもちゃんと好きだったはずだ。でも、あくまで好意を受け取ってアイリーンが返せるだけの好意を返していただけ。相手の熱量に比べるとアイリーンは冷めていた。想いに応え続けて傷つくことが怖くて、ちゃんと相手の想いに応えなかった。だから、浮気をされたときも人が変わったように暴力を振られたときも束縛されそうになったときも、繋ぎ止めず元に戻さず話し合わなかった。

だって、最初から相手を求めていなかったから。期待していなかったから。同じ想いを返していないのだから、離れていくのも当然だったから。最初から入れ込んでいなければ、ゆっくり心が凍っていくことも、心がねじ切られるほど苦しい思いももうしなくて済むから。

「友人が言うには、恋って手に入らないものを求める気持ちなんですって。手に入らないって分かっていても、会いたいとか感じたいとか触れたいとか、盲目的になるくらいその人のことをまばゆく強く想う気持ち……」

見つめているだけで一緒にいるだけで幸せになって、でもだんだん相手の心を自分へ引き寄せたくなって。緊張ですら甘い痛みに変わる麻薬。それが恋なのだと。

学生の時分から、この世の幸福すべてを受け取ったかのように好きな人や恋人の話をする友人や同僚、生徒のことを、アイリーンは別世界の人間のように思っていた。世間から見ればアイリーンの方が愛情が薄い異星人なのは自覚していたけれど。

ヴィクターの目はアイリーンを映している。大抵話の途中で意見を挟みがちだったのに、今は唇を閉ざしてアイリーンの語りに静かに聞き入っている。

「今までそういう感情を抱いたことはありません。少なくともそう思っていまいした。でも――――昔、美しい星を見たような、そんな感覚を抱いたことがあります」

だけど、やっと分かった。
本当はアカデミーの頃からずっと彼に恋をしていたのだ。手に入れたいと思っていなかったから、尊敬とか憧れで潰して誤魔化して、星の輝きだけを大切に胸にしまった。

「会えることができなくても、宝箱を開ければ幸せな気持ちに浸れるような人でした」

もう一度あのきらめきを感じられるだろうか。小さな期待がふとしたときに過ぎるだけ。

「私にとっては遠い星の人だから、会いたいと思ったことなんてありませんでした。名前のない怪物だった私を、人間にしてくれたみたいな――――そんな人に出会いました」

澄んだ顔でおとぎ話を紡ぐようなアイリーンに、ヴィクターは嬉しいような切ないような眼差しを送っている。

「……さぞ、立派な方なんでしょうね」
「そうですね。自分のことより、他の人のことを優先してるような方ですから」

敬愛する師の想いを受け継ぎ、倫理から反してでも研究に心血を注いで。もっと危険なことに足を踏み入れる選択肢もあったはずなのに、ヒーローという職業を選択して。無知な人間にも嫌な顔ひとつせず真摯に答えて。完璧でも聖人君子でもないけれど、称えるに足る人物だろう。

「ヴィクターさんは手に入らない人の心を求めたり、きらきらした気持ちになったり。そういうことがありますか?」

ヴィクターは顎に手を当て、目を伏せる。

「私にとってはオズワルドがそういう存在でしたが……恋と名付けるには、また別のもののように思います。彼に褒められるのはとても名誉あることで、喜ばしいことでした。オズワルドの心を求めていても、恋をしていたというより、子どもが親に振り向いてもらおうとしていた……が、正しいでしょう」

あくまで落ち着き払った口調で答え、さらにアイリーンへ尋ねる。

「もうひとつ聞きたいのですが」
「はい」
「前に会ったとき、アイリーンは私のことが好きだと言いましたよね。あれは、どういう意味ですか?」

かっと体温が一気に上昇した。アイリーンの顔どころか耳も首筋も赤く染まっていく。火をつけられて、燃え盛っている音が体中から聞こえてくる。

――――だって、ヴィクターさんのこと、好きですから……。

声どころか空気に振動していたかどうかすら怪しかったはずなのに、ちゃんと聞かれて、覚えられていた。
みっともなく泣き叫んだ後の告白だ。恥ずかしくて逃げ出してしまいたい。想いを告げるのであればもっといいタイミングですればよかった。自責と後悔の念がふつふつと湧いて、アイリーンは顔を手で覆いたくなった。うぅ、と少し獣じみた唸り声が喉の奥から漏れる。
不審な動きをし出してもヴィクターに動揺は見られない。むしろ、目は弧を描いて柔らかかった。

「楽観的で、特別な根拠もありませんが――――私を恋愛対象として見ている、ということでしょうか」
「……はい」
「ということは、先ほどの話は私なのですか?」
「そう、です」

観念して何度も頷く。すると、ヴィクターがまた迷子の子どもの顔つきになった。

「私は、貴方に尊敬されるような立派な人間ではありませんよ」

囁くような声音は、ほろりと崩れ落ちそうな脆さがあった。

(この人も……臆病なのね)

憧憬の念を抱いていた人の新しい面を知り、喜びの光が瞳に灯る。アイリーンは柔らかな微笑を顔にたたえ、首を横に振った。

「立派な人間だから好きになったんじゃないです。初めてヴィクター・ヴァレンタインという人に感銘を受けて。再会して、聡明なところは変わってなくて、でもあの頃よりずっと表情は穏やかで。なのに突然少年みたいになって……話しているだけで、一緒にいるだけで、幸せなんです」

幼い頃に愛情をもらえず一定の温度を保ったままだった心が、たった一人に高揚して幸福で満ち満ちて痛んで荒れ狂って。それすらも輝く星の光に照らされて生まれたものであれば、愛おしささえ覚える。

「ヴィクター・ヴァレンタインだから、好きなんです」

貴方が貴方だったから。存在を祝福するように、まっすぐに誠実に清くあろうとする気持ちを贈る。

ヴィクターは甘くとろけた笑みを浮かべるアイリーンを見つめている。目は瞬きを忘れていた。

「……そんな風に言われたのは、初めてです。空気を読めとか気持ちワルイとか何考えてるのか分からないとか……。そんなことばかり言われていましたから」

アイリーンにも身に覚えがあった。まだ弟がおらずアカデミーに入学する前。根暗だの地味だのガリ勉だの周りからひそひそ陰口を、時には直接叩かれて。アイリーンは「まぁそうだろう」と認めていたし、心の温度は冷え切っていたから受け流していたけれど。ヴィクターは、どうだったのだろう。
しんみりした心地でヴィクターの話に耳を傾ける。

「私も貴方といると落ち着きます。好ましい、とも。……単に人となりを好いているように感じますが。それに貴方の友人の理論に乗っ取れば、恋とは違うようにも思います。貴方を手に入れたいとは思っていませんから」

実質振られたも同然の言葉だったが、アイリーンには悲しい気持ちがまったく湧いてこなかった。恋焦がれる人から人柄を好ましく思えてもらえたなら十分だ。もともと成就しないままでもよかったから。初恋が都合よく叶うのはフィクションだけで、現実は破れることだってある。

「あ――――」

ありがとうございます、と晴れやかに笑ってずれた返答をしようとすると、

「ただ……レストランで私を羨ましいと言った貴方や、応接室で叫んだ貴方……常に微笑んでいる貴方を忘れられないのは、確かです」

ぽかんとするような言葉でヴィクターが遮った。
アイリーンは大きく目を見開く。ぱちぱち瞼をしばたたかせ、ヴィクターを凝視した。頬の赤らみは見られず上擦った声色でもない。逆にありのままの気持ちを届けようとするヴィクターの誠実さをよく示していた。

「一般的に、恋とは離れていても相手のことを想う感情を指すようです。私も、とある問題を解決するために動いていたときも貴方のことを考えていました」

アイリーンのことが忘れられない。
つまり、それは。

「ですから、おそらく、私も貴方に星を見ているようです」

星が、美しく光った。父が天体観測に連れて行ってくれたときと同じあの一等星の輝きが、ヴィクターを通して目に焼き付く。夢でも見ているのかと思うには目を細めてしまいそうになるほど煌々と光っている。

「アイリーン」
「……はい」

ぼんやりしかかった心が耳触りのいい柔らかな低音で引き留められる。

「私は貴方が思うような人間ではありません。それでも――――私を好いていてくれますか」

頼りなげなヴィクターの懇願に胸がいっぱいになる。そして、アイリーンはとびきりの甘い微笑みで告げる。

「――――もちろん。だって、私はあのときからずっと貴方に星を見てますから」

ヴィクターも微笑む。一昨日電話で聞いた声音と同じくらい優しく。

見つめ合う二人の頭上には、春の星が淡く輝いていた。