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わたしのカムパネルラ


エリオスタワーが【イクリプス】に襲撃された。剣呑なニュースがニューミリオンに駆け巡った。
怪我人は複数いるが、死傷者もなく全員無事である。タワーの修復もほぼ完了し、【LOM】の開催も予定されている――――とか。

それよりもアイリーンは気になることがあった。
当然HELIOSのヒーローであるヴィクターも迎撃したはずだ。朝起きて新聞の一面を見た瞬間、アイリーンの血の気が引いた。メジャーヒーローといえど、大規模な戦いで負傷している可能性もある。
怪我はありませんでしたか。心配と労わりのメールをし、返ってきた文章は想像の範囲外のものだった。

『ありがとうございます。私に怪我はありません。ただ、詳細は伝えられませんが、しばらく会えないかと思います。すみません』

(会えなくなるってどういうことかしら……)

順当に考えれば、怪我か【イクリプス】か【サブスタンス】に関係することだろう。普段なら受け入れられるはずの内容に、何故か胸がちりちり痛む。嫌なことが起こりそうな胸騒ぎがする。
無関係のアイリーンに言いづらいだけで、何かあったのではないだろうか。無遠慮に根掘り葉掘り聞こうとするのは失礼だ。でも、「そうなんですか。残念です、お体には気をつけてくださいね」なんてさらりと流せるほど、ヴィクターは無関心な相手ではない。

いてもたってもいられず、アイリーンの体はエリオスタワーに向かっていた。

エリオスタワーは激しい戦闘が行われていたとは想像がつかないほど元通りになっていて、ところどころで行われている工事も単なる改装のように思える。HELIOSの職員も一般市民も以前と比べて減ったようにも感じない。

HELIOSの受付に行ったところで、アポイントも取っていないアイリーンが会えるのかどうか。だからといってこのまま何もせず過ごしてヴィクターの連絡を待つことを、通勤途中にレンやガスト、マリオンと出会うのを待つことを選ぶのは否と心が訴えている。胸の内がこんなにも不安と焦燥に包まれ、急き立てられるのは初めてだった。
エリオスタワーに来ること自体久々で、どこに何があるのか覚えていない。HELIOSの受付を探して、ホログラムの案内図を見る。タップして検索していると、今のアイリーンとは正反対の朗らかな声が聞こえた。

「アイリーンさん?」
「ノヴァさん」
「お久しぶりです〜。アイリーンさんと会ったとき、確かアンドロメダとか見えたから、半年いかないかくらいかなぁ」

クマのできた顔に広がる笑みはどこか暗くも感じる。【イクリプス】の襲撃事件の対応に追われているのだろうか。

「今日は買い物ですか?」

他愛ない質問をされて、アイリーンは言葉に詰まった。しかし、ノヴァはヴィクターに一番近しく親しい人物だ。この機会を逃せば何も掴めないだろう。アイリーンは唇にぐっと力を込めた後、口を開いた。

「買い物もあるんですけど、その……ヴィクターさん、お元気ですか? しばらく会えなくなるってメールが来たので、少し心配になって」

ヴィクターの名を出せば、ノヴァの表情が曇った。

「ヴィクは……ちょっと、というか、かなり……元気ではない、ですね。いろいろあって」
「やっぱり怪我されてるんですか?」
「いや、怪我じゃなくて――――」

ノヴァが言いかけた言葉を飲み込んだ。視線をあちこちに動かした後、賑やかな商業施設に不釣り合いなほど重苦しい声音で言った。

「……ちょっと、場所変えましょう」

歩き始めたノヴァの後ろを辿る。エレベーターに乗ってHELIOS内にまで進んでいく。二人の間に音はなかった。ノヴァが通りすがりの職員に挨拶されても手を上げてうっすらと笑うだけだ。

追随した先は応接室だった。アカデミーの応接室も高そうな家具が配置されているが、HELIOSは植物が多いからか華やかだった。「どうぞ」とソファに座るように勧められる。アイリーンは立ったまま拳を握った。

「あの……ヴィクターさんが元気でない理由って、何ですか?」

本題を切り出してみるも、ノヴァはアイリーンと目を合わせない。一呼吸置いてから、ノヴァはようやくグレーの瞳をアイリーンへ向けた。

「アイリーンさん。ヴィクがしてた研究の内容、知ってますか?」
「いえ……【サブスタンス】とヒーロー能力の向上、安定としか。さすがに部外者ですから」
「ヴィクは、その研究を完成させたんです」

ヴィクターは顔を合わせるたびに「オズワルドの研究」のことを話していた。もちろん進捗具合しか聞かされない。聞けば聞くほど何もかもを捧げるような熱意と執念深さがあった。狂気さえ感じる意志に、アイリーンは醜さと敬意が同居した羨望すら抱き、「いつか完成させてほしい」と強く願っていた。
研究が完成したのであれば素晴らしいことだ。手を合わせて喜ぶことのはずだろう。だが、ノヴァの重々しい口調と苦悩でいっぱいの顔は喜びや祝福からはほど遠かった。

「でも――――研究の完成のために、ヒーローたちを実験体にしたんです。自分も含めて」
「え――――」

喉が詰まった。こぼれた声らしき音が宙で霧散する。
けれど、衝撃は一瞬だった。すぐさまアイリーンの頭は非人道的な人体実験という言葉を受け入れる。
ヒーローは人間だ。薬の効果を試すのであれば動物よりもヒーローに試すのが一番効率的で結果が出る。ただ、倫理的配慮が欠けているだけで。現代でこそ実験動物の苦痛軽減や人権保護にも重きを置いているものの、それらを一切無視した研究が歴史や文化を紡いでいったことも事実だ。正しいことだけで文明を発展させることは難しい。

実験台にされたヒーローのことを考えない自分に嫌気がさす。しかし、もっと呆然とするような言葉がノヴァの口から飛び出た。

「それが明るみに出て、組織から糾弾されて……。ヴィクは……研究を完成させたことで、【サブスタンス】に……というか、おそらく生に、執着がなくなってしまって」

今度は吐息が音にすらならない。脳が揺れた気がした。眩暈がしてノヴァの姿が揺らぐ。心臓も呼吸も止まってしまったような錯覚さえする。
あんなに必死だったのに。あんなに心身傾けていたのに。どうして?
疑問が頭でいっぱいになる。

でも――――人生を尽くしてきたものが終わってしまったとき。燃え尽きてしまうのはもっともかもしれない。星がエネルギーを使い果たして消えていくように。命に代えても成し遂げたいことなどないアイリーンには、一生未経験のままだろうけど。
しかし、心がからっぽになる感覚はアイリーンにも覚えがあった。生徒と話しているとき、橙の空が藍に侵食されていくとき、映画を見ているとき。ふとしたときに冷たい悲しみや泣き出したくなる痛み、浸りたくなる切なさとも違う、本当のがらんどうがあった。心がない、死体めいた人間のような気持ちになる。ヴィクターも今、そんな気持ちなのだろうか。

(多分、違うわよね……)

だって、ヴィクター・ヴァレンタインはアイリーン・シェリーよりずっと人間らしいから。

思い直しても「どうして」が頭に留まって離れない。
石になったように黙ったままのアイリーンに構わず、ノヴァは話を続ける。

「今、ヴィクはずっと屋上でぼーっとしてるだけで……本当に何にもしてないんです。父さんが死んでから毎日あれだけ情熱を注いできたのに」

ヴィクターは常にやるべきことややりたいことがあって、暇なんて概念とは無縁そうだった。ましてや「ぼーっとする」ことなんてあるのかしらと不思議に感じたことがあるくらいだ。

「ヴィクは頭の中では答えが分かってるはずなんです。でも、ヴィクにはそれができなくて……だから、あんな風になってる」

ノヴァの悲痛な声から身を引き裂かれるような苦しみをひしひしと感じる。半年程度の付き合いのアイリーンでさえガラスで傷つけられたように心が痛いのだから、長年の親友であるノヴァはもっと悲しみで溢れているだろう。
佇んだままのアイリーンへノヴァが呼びかける。

「アイリーンさん。よければ、今のヴィクに会ってくれませんか」
「……いいんですか?」

関係者ならばともかく、アイリーンのような一般市民が会えるような状況なのか。間髪入れずに是非と首を縦に振りたいところだったが、理性と常識から願うことを躊躇われた。

「はい。お願いします。ヴィクを呼んでくるので、ここで待ってください」

言うや否や、ノヴァは応接室の扉を開いて出て行ってしまった。目的の人物を呼んでくると言われたならば、ありがたくチャンスを掴むだけだ。

アイリーンはやっと革張りのソファへと腰掛ける。体が包み込まれていく感覚がほんの少しだけ強張りを和らいでくれた。とはいえ深く座り込む気分にもならず、待っている間カーキのスカートを見つめた。

五分、十分。時間に換算すればそれくらいのはずなのに、一年以上待っているようだった。

(やっぱり会えないのかしら。何も手につかないなら、誰とも会いたくないだろうし……)

気が動転するような情報量の多さ、やはり会えない悲しさ、これからのヴィクターの処遇への憂い。たくさんのことがぐるぐると脳内と胸の中で渦巻く。春とはいえまだ肌が冷えるからか、気分が悪くなってきた。頭をがつがつ殴られているような痛みも襲ってくる。
このまま誰も来ず閉じ込められるのではないか。荒唐無稽な思考にまで陥ったとき、弱々しいノック音が外から鳴った。ノック音が耳に入ったと同時にアイリーンは勢いよく立ち上がった。

「失礼します」

ノースシティが水で囲まれ、ビリーとフェイスと四人でランチをして以降の顔合わせだった。だから大した期間は経っていない。なのにヴィクターのずいぶんとやつれていて、青白い死体のような、幽霊のような顔をしている。アカデミー時代の冷え切った顔つきとも、成人してからの余裕のある微笑とも違う。ターコイズブルーの瞳はおぼろに霞み、かすかに見える光も枯れている。

「……アイリーン。本当に、貴方が来ていたのですね」

血色のない唇から出たか細い声に、きゅっとアイリーンの心臓が縮む。

「すみません。突然押しかけてしまって……でも、あのメールの意味が知りたくて、ヴィクターさんに会いに来たんです」
「意味、ですか。文面のままです……と言いたいところですが、詳細はお伝えできていませんでしたね。ノヴァはどこまで貴方に話したんですか?」
「大まかなことは……。ヴィクターさんが研究を完成するために、貴方自身を含めたヒーローを実験体にしていて、それが理由で研究者やヒーローとしての立場が危ういと」
「大雑把に経緯を話すとそうなります。なので、しばらく会えないと連絡しました」

淡々と己の状況下を口にする様はあまりにも他人事だった。
会話が途切れる。何とか繋げようと、ノヴァから耳にしたことを問いかける。

「最近、ずっとタワーの屋上にいるって本当ですか?」
「えぇ。やることもありませんから、時間が経過するのをただ待っています」

時間経過に注意を向けるときや、新鮮な出来事が起こると時間の流れを遅く感じると聞いたことがある。しかし、そうでなくても限度があるはずだ。ヒーローの業務に研究に時間を費やしていたような人が、突然何もしなくなって同じ体感なわけがない。

「それだけ、ですか? あの研究が完成しても……【サブスタンス】に関係なくても、まったく別の題材を探したりとか」
「ありません。薬が完成して以降……私は、【サブスタンス】に関しても、他のことに関しても興味が湧かなくて……」

ヴィクターはぽつぽつ自分の気持ちをこぼす。俯けば、肩から垂れた長い髪がだらんと宙で揺れる。

「研究が完成したのに、何ひとつ満たされていません。今も、暗い闇の中にいるようです。あのときと同じように……。これから自分がどうなるかも、何をすべきかも分かりません。私は――――どこから間違っていたんでしょう」

ヴィクターの瞳が揺らぐ。親とはぐれて迷子の子どものように。穏やかで冷静沈着で、自信に満ちていた顔はどこにもなかった。何も言わずに抱きしめたくなるくらい、心が傷だらけで寂しい子どもの顔をしていた。
こんな人だったかしら。街角で再会したときと同じことを思った。

(ううん、きっと違うわ)

アイリーンが知らないだけだ。ヴィクターの見えなかった部分が、隠していたであろう部分が、露わになっただけ。
今のヴィクターは見えていた光を失い暗闇に彷徨って、不安で押し潰されそうだろう。苦しいだろう。

だけど、アイリーンの胸も苦しかった。悲しかった。「自分が思っていた人じゃなかった」と残念がって裏切りからきた悲しみではなかった。
喉が渇いて熱い。なのに冴え冴えとした白い冷気が体中を支配する。悲しいという気持ちは、こんなにも深くて息苦しいものだっただろうか。雨に打たれたくなるものだっただろうか。

「そんな……そんなこと、言わないでください」

ようやく出た声は震えて掠れていた。目の奥がじんわり熱を持って、ヴィクターの姿が歪む。感情が瞳からこぼれないよう、アイリーンは唇をぐっと強く引き結んだ。
ヴィクターが顔を上げた。戸惑いと驚きの眼差しを向けられても気にしていられなかった。

「自分のことなのに、まるで他人事みたいに言わないでください。もっと……もっと自分を、大事にしてください!」

怒りすら滲む悲哀がどろどろと口から溢れ出す。叫んだ途端、耐え切れず熱い雫が頬をつたった。もう想いも涙も止まらない。
もう終わったから間違ってしまったから、どうなってもいいと自暴自棄になって、今にも姿を消してしまいそうになるのが恐ろしくて。自分の人生なのに自分を勘定に入れていないことに怒りを覚えて。自分を認めていないことが悲しくて。
アイリーンだって人のことは大きく口に出せない立場なのに。それでも抑えきれない。

「ヴィクター・ヴァレンタインは――――ヴィクター・フランケンシュタインでも、オズワルド・サマーフィールドでもないでしょう!」

いつか口にした言葉がもう一度出てくる。目の前の男性は名前のない怪物を放り出した科学者でも、前人未到の学問に手を出した異才な先駆者でもない。物語の登場人物でも、死んだ人間でもない。

「貴方がいくらオズワルド博士を尊敬していても、追いかけても、オズワルド・サマーフィールドにはなれないのに!」

傷を癒せるようなあたたかで優しい言葉など選んでいられなかった。事実と正論と自分勝手で独りよがりなことをぶちまける。
脳が酸素を求め、一息つく。熱と寒さが同居する体を抱きしめた。

「オズワルド・サマーフィールドという死んだ人間を見つめ続けるのは仕方ないです。貴方にとってはそれだけ偉大で、神様のような人だったんでしょうから」

死んだ星のきらめきが時を越えて届くような、それはそれは美しい日々で。光が死んでも色褪せることのないものだった。アイリーンにとっての、天体観測に連れて行ってくれた父のような、アカデミーに在籍していた頃の、再会してからのヴィクターのような。

だが、オズワルド・サマーフィールドはもう故人だ。死んだ命は蘇らず、霊魂として残らず、残滓の念は喋らない。生きている人でも亡者でも、宝物は宝箱へ大事にしまっておくべきなのだ。

「でも……でも、その前に、ヴィクター・ヴァレンタインという人を見て!」

激しい慟哭が応接室に響く。

「自分を見ないふりをしないで!」

ヴィクターは、今どんな表情を浮かべているだろう。不愉快そうに顔をしかめているだろうか。呆然と口を開いているだろうか。申し訳なさそうに眉尻を下げ暗い目をしているだろうか。
こんなにずっと大きな声を出したのは初めてだ。他人のことで胸が痛くなって、苦しくて、切なくて。ねじ切られて悶えて。

アイリーンは再び荒くなった呼吸を整えた。雫が流れた跡と未だこみ上げてくる涙を指で拭う。ぐちゃぐちゃになった顔も真っ赤に腫らした目もヴィクターから逸らし続ける。

「――――ごめんなさい」


散り散りになった声が、ちゃんと音の形を成しているかさえも認識できなかった。青ざめた唇が震える。掻きむしりたくなる衝動を、胸元を抑え込むことで耐える。

「でも、本当にそう思っているんです。ヴィクターさんのこと、好きですから……」

もう声は出ず、唇だけ動かした。そして、アイリーンは体を縮めたまま応接室を出た。

その後のことは記憶になかった。まともな意識を取り戻したとき、自宅のマンションの前に立ち尽くしていた。
数十分前か、数時間前か。ヴィクターへ言い放った数々の矢を思い出し、うなだれる。

(私、自分勝手だわ……)

枯れたはずの涙がまたこぼれそうになり、ぐっと夜空を見上げる。シリウスが見えるはずの空は暗く、雲が月を隠していた。