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酒にまほろば

無事に任務も終了し、明日は予定通りならば休日。今日は中々に重労働だったし、良い酒を飲もう。そう考えただけで体は軽い。
仕事終わりの一杯は格別だ。疲れた体に入る熟成された味が染みつく感覚がたまらない。それで酔うのもまた一興。

木舌は報告を終え自室に戻り、木舌は肋角からもらった秘蔵の酒を手に取った。「富嶽」と達筆で書かれたラベル、シンプルなデザイン。雰囲気だけで高級さがある良い酒だと分かる。
せっかくの良い酒だ。誰かいれば誘って一緒に呑もうか。木舌は着替えずにそのまま部屋を出る。階段を下りて一階へ行くと、大きな金棒が見えた。谷裂は誘っても乗ってくれないことが多いが、肋角からの酒と言えばきっと飲むだろう。

「谷裂、お疲れ様」
「木舌か。……何だその酒瓶は。また飲むのか。少しは控えろ」

朗らかに声をかけたら顔をしかめられた。だがそれくらいで木舌の笑顔は曇らない。

「またって、今週は少ししか飲んでないよ」
「今週は、だろうが。先週はわいんやらかくてるやら、よく分からん酒をやたら飲んで潰れたのを忘れているのか?」
「だから反省してるつもりなんだけどなあ」
「本当に反省している奴は酒を断つぞ」

手厳しい。とはいえいくら鋭い眼光で睨まれようとも酒はやめられない。断酒の話題から逃れるように酒瓶を掲げた。

「まあまあ、固いこと言わないで。肋角さんからもらった酒を飲もうと思ってるんだけど、谷裂もどう?」

木舌へ顔を向けることも視線を投げることもない。やはり断られるか。と思いきや、

「……たまには付き合ってやる」

間を置いて答えが返ってきた。予想通りの返答だ。木舌はいっそう笑みを深くした。

食堂に行くと誰もいなかった。先ほどまで誰もいなかったからか少し寒い。他の獄卒たちは今日遅くに出発したりすでに眠ってしまっていたりしている。もう誰も来ないだろう。木舌は二人分のお猪口にグラス、冷蔵庫に入れていたワインやビールの酒類、それと簡単なつまみを用意する。準備を終えてまずは肋角から貰った酒をとくとく注いだ。

「今日も無事仕事が終わったことに、乾杯!」
「……む。この酒、美味いな」
「うん、美味しい。アルコールがそこまできついわけでもないから飲みやすいし」

甘い香りとともに鈍い酸味がじっと舌に広がり、とろみを後にくる。渋味も少なく余韻もすっきりとしていた。この世で買ってきたと言っていたので、今度出かけたとき探そうと心に留める。

つまみと他愛ない会話を肴に酒を楽しむ。前を確認すれば、常に厳しい顔つきも今は少し緩んでいるように見えた。木舌はゆらゆらお猪口の中の酒を揺らす。

「そういえば、賀髪が――」
「……何故あいつの話になる」

名前を出しただけなのに酒で多少険がとれていた紫の目がつり上がり、声のトーンが三段ほど重くなった。木舌は柔和に笑う。

「いやあ、この間、賀髪が珍しく怪我してきたなと思っただけさ」
「……そうだな」

谷裂は静かに相槌を打つ。

骨折する、目玉が取れる、腕がなくなる。人間なら致命的な怪我でも獄卒には日常茶飯事とも言える傷だ。左腕をなくすくらい慌てるものではないが、賀髪は頻繁にそこまでの損傷をしない。そんな賀髪の服は破れ、露出した部分は肉が抉れ、しかも大事にしている髪は艶を失っているほど傷んでいた。館に帰ってきたときは驚きを隠せなかった。傷を負っていることより、自慢の髪が痛んでも取り乱れず平然と歩いていたことに、だ。谷裂が髪を掴んだら口調がおかしくなるというのに。さすがに時間がたって冷静になっただけかもしれない。

普段ならここで「油断するな」だの「鍛えんからだ」だのと刺々しく続けるはずだが、谷裂はさざ波ひとつ立てず落ち着いた様子で酒を飲むだけだ。軽く目を丸くして一口酒を飲む。

「そこは怒らないんだ」

谷裂は視線を一瞬合わせた後鼻を鳴らす。そして、ひどく静かに言った。

「不甲斐なかったことはあの女が一番分かっているだろう。わざわざ俺が言う必要もない」

へえ。つい漏らしそうになった相槌を呑み込む。
優しさからくる言葉のはずだがそんなものは微塵も感じられない。同時に声音は嫌悪や憎悪も含まれていなかった。しかし、わずかに苦い表情を浮かべている。
何と返そうか迷っている間に谷裂は少し硬そうな唇を開いた。

「ただ――」
「ただ?」
「俺以外の奴にやられるなと思っただけだ」

やはり静かなだけで何の感情を乗せているか分かりにくかった。殺意、敵対心、独占欲。どれにも当てはまらずどれでも合っているように思う。

出会った頃から谷裂と賀髪は互いをいがみ合っている。同族嫌悪と思えばそうでもない。二人は生真面目で自分にも他人にも厳しいから同族とひとくくりにしてしまいたくなるだけだ。
例えば、谷裂は感情が分かりやすく顔に出る。対して賀髪はかなり分かりにくい。侮蔑や呆れは簡単に分かるものの自分の喜びや楽しさといった明るい感情を表に出すことがない。斬島もほとんど顔の筋肉を動かさないが、より分かりにくいのである。単に感情の出し方が下手なのかもしれない。
美男子とは言えないが男前とは言えるであろう谷裂と、凄艶な顔つきをした賀髪。頑固な谷裂と、意外と柔軟な賀髪。現代のこの世に多少疎い谷裂と、対応している賀髪。

同じようで違う二人がお互いを蔑んでも手にかけても、仕事だから同僚だからで済まされないほど一緒だ。嫌う理由を問いかけても「分からない」と返すのに。その複雑さは獄卒なのにまるで人間のようだった。

お猪口で口元を隠す。残りを飲み干す振りをして目を伏せた。

「うん、二人ってやっばり面白いよ」
「何意味の分からんことを……面白がるところなどないだろうが。そもそもやっぱりとはなんだ、やっぱりとは」
「ああ、ごめん」

そう言いつつも手はグラスに別の酒を注いでいる。それ以上言及を諦めた谷裂が傍にあった酒瓶を手にすると、

「……また飲んでいるんですか、貴方たち」

温度を感じさせない声が割って入った。ドアに目をやれば、任務帰りであろう賀髪が氷柱のような視線をこちらに向けて立っている。賀髪を視認してすぐに谷裂の目が尖った。

「いつもは木舌だけだ。一緒にするな」
「そうですか。貴方も何だかんだ付き合っていることが多いので、同じくらいかと思っていました」
「そんなわけあるか!」

そして始まる毎度の応酬。おそらくだが、ここにいる獄卒たちの中で誰よりも二人の会話耳にしている木舌はすっかり慣れてしまっていた。最初は二人が出会ったばかりの頃、共にした任務で。次は談話室で、その次は修練場で、次の次は玄関で、……。こうしてみると仲がいいなあと微笑ましくもなってしまう。

木舌は火に油とガソリンを注ぐように賀髪を誘う。

「賀髪も飲まないかい? 肋角さんからいい酒をもらったんだ。美味しいよ」
「……今日は飲む気分ではないので」
「そんなこと言わずに」
「しつこいですよ」
「こいつを誘うことないだろう。せっかくの酒がまずくなる」

谷裂は他人を叱責することが多いが、獄卒一倍仲間思いな男である。本人に言えば否定するだろうが。こんな毒を吐くのはたった一人だけだ。

谷裂の言葉に賀髪のこめかみがぴくりと動いた。そして、ドアから一歩も動いていなかった賀髪はヒールの音を立てて食堂に入っていく。厨房へ消えたかと思えば空のグラスとお猪口を手にし、木舌の右隣にわざとらしく大きな音を立てて座った。

「飲む気分になった?」
「はい。気が変わりました。飲みます」
「人の話を聞いていたのか貴様は!」
「聞いていません。いただきます」

そう言い切ってまだ空になっていない富嶽を自分のお猪口に酌んでいく。そのまま口につけると軽く目を開いた。

「美味しいですね」
「でしょ?」
「……これ以上の嫌がらせに全部飲むような真似をするなよ」
「木舌さんじゃありませんし、そんなことしません」
「ひどいなあ」
「本当のことでしょう」

辛辣な言葉を吐きながら、ぐいっと豪快に、けれど品よくグラスに入った酒を飲み終える。

「賀髪、貴様報告書は」
「もう作りました。夜も遅いので肋角さんもお休みですし、まだ提出していません」
「二人とも、酒の席に仕事の話しないでさ。ほら、谷裂も賀髪も、飲んだ飲んだ」

また二人の間に火花が飛び散りそうなところで、木舌はグラスに酒を乱暴についだ。

「適当につぐな!」
「こぼれたら貴方が掃除してくださいね」

温度差はあるものの、同じように激昂する谷裂と賀髪。木舌は笑いそうになるのをこらえた。そうするとまた二人が目を吊り上げて木舌を責めるだろう。それは困る、と木舌はまた酒を体にしみこませた。

谷裂と賀髪は短い時間で何度も戦闘に発展しそうになったものの、どうにか木舌がなだめつつ酒の場が温まっていく。

「賀髪、注いでくれないかな?」
「自分でやれるでしょう」
「いいから、いいから」

普段よりも顔の筋肉が緩んでいる木舌に、賀髪は憮然とした表情を浮かべながらも木舌のグラスに酒を注いだ。つがれた酒を飲んで大きく息を吐く。

「うん、女の子につがれる酒もいいね」
「『女の子』と呼べる奴じゃないだろう」
「おや、谷裂さんもついでほしいですか? 顔に」
「やめろ! 瓶の口を俺に向けるな!」
「あはは」

ぎすぎすした空気でも穏やかに、多少締まりなく笑う。つまみのピーナッツを取って咀嚼する。しょっぱい味が舌に広がって美味しい。

「賀髪は酔ったことあるのかい?」

そういえば、と気になって尋ねた。ただのグラスでも隣の賀髪は上品に持ってこくこく飲んでいる。他の獄卒と同じくらい青白い肌には全く赤みは見えず、しきりにまばたきをしてもおらず、眠りそうでも溶けた目にもなっていない。

賀髪と共に飲む回数は少ないが、いけるクチである。酒に強い鬼は多いが、結構なペースで飲んでも賀髪の顔が赤らんだところを見たことがなかった。どこまでいけば潰れるのか、酔ったらどうなるのか試してみたいし知りたくはなる。

「今のところありません。どこかの誰かさんと違って節度を弁えているので」
「こいつと同意見なのは癪だが、全くだな」
「あはは。ひどいなあ」

苦笑して酒を煽る。賀髪の返答が一言多いのはいつものことだ。それに時たま賛同する谷裂もいつも通り。真面目が服を着て歩いているような二人は、怠慢や暴走、飲酒などについては衝突しない。

「せっかくだから飲み比べなんでどうだろう? 酒はいっぱいあるし。ちゃんぽんは良くないけどさ」

机には木舌が持ってきた酒瓶と、酒を割る用の飲み物が何本も置いてある。日本酒、焼酎、ビール、ワイン、リキュール、ウイスキー、度数の違いはあれど酒は酒だ。

「私はいいです。お二人でやればどうですか。審判ならしてあげますよ」
「これ以上は明日に差し障る」
「じゃあおれの勝ちってことで」

そう言えば谷裂はむっとして身を乗り出した。

「勝手に決めるな。俺は負けん」
「単純……」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」

白を切る賀髪へにこやかに笑う。

「賀髪はどうする?」

柔らかそうな唇を引き結んでいる。何かを決心したように息を吐いて言った。

「……分かりました。たまには付き合います」
「そうこなくちゃ」

明るく言うと何故か不機嫌な子供のようにじとりと睨まれる。気にせず近くにあった焼酎を手に取り、グラスへと傾けた。


それからずっと飲み続けて何時間か。外はすっかり藍色から深い紺へと変わっていた。日も過ぎかけていたが任務へ向かった獄卒は誰も帰ってきていない。朝まで戻ってこないかもしれない。
様々な種類の酒を体に送り込んでいればさすがに視界も回りそうになってきた。これ以上飲めば気絶しそうだ。

「うーん、ちょっとおれは限界かも……」
「情けない奴め」
「結局言い出した木舌さんが負けなんですか」
「そうなってしまうね。普段飲んでる分、結構自信があったんだけど」

谷裂はすっかり顔が赤く染まっているものの、目はしっかり開いて手も震えている様子はない。賀髪にいたってはよく髪を弄って深呼吸をしている以外普段通りに見える。酒を嗜んでいるからといって強くならないのは分かり切っているが、まさか一番に抜けることになるとは思わなかった。やはりちゃんぽんはまずかったか。味もきちんと楽しんでいたのというのに。

こめかみを揉んで立ち上がると、体が右から落ちてしまいそうになった。部屋まで帰れるだろうか。木舌は胸を押さえる。

「木舌、自分で飲んだ分は片付けておけ」
「ちゃんとやっておくよ。二人はまだ続けるの?」
「谷裂さんが負けを認めてくれればさっさと終わるんですが。もう私の勝ちみたいなものでしょう」
「おい、何故そうなる」
「随分前から飲むペースが遅いじゃないですか。とっくに辛いんでしょう。やめた方がいいと思いますよ」
「貴様こそやけに頭を押さえているだろう。とっとと降参しろ」

谷裂と賀髪がお互いを睨みつけ早口でまくし立てる。
元気だなあ。木舌は唇のふちに笑みを浮かべた。

そのまま空の酒瓶やグラスを持っておぼつかない足で厨房に辿り着く。洗っている最中にも二人は尖った口調で攻撃し合っている。朝の食堂に、頭と胴体が離れた谷裂と脚が折れて首に絞め跡がついた賀髪がいることになりそうだ。
少しして洗い終えると、先程まで盛り上がっていたやり取りもなりをひそめていた。あまりしっかりしない意識の中木舌は両隣の男女へ微笑む。

「俺は帰るけど、二人ともほどほどにね」

そう言えば二人の顔が無愛想に歪んだ。

「飲酒でお前に言われる日が来るとはな」
「木舌さんには言われたくなかったですね」
「はは、何も言い返せないなあ。……じゃあ、俺はこれで」

手を振って食堂を後にする。夜中だからか木舌が離れていっても怒号はなく、とぷとぷ、瓶から酒が落ちていく音だけが聞こえた。


爽やかな日差しが窓から入る。小さな鳥が鳴いて外側のサッシに飛び降りた。凪いだ風が木々の葉を揺らす。和やかな景色のはずだが、頭痛がひどくて仕方がない。小鳥が鳴くだけで頭に響くのだ。ここまでひどい二日酔いは久々だった。どうやって部屋に戻れたかもベッドに入れたかも記憶がない。よく帰れたものだ。

時計を見れば昼に差し掛かろうとしていた。休日とはいえ泥のように眠りについたのも久々だ。シャワーだけでも浴びなければ。木舌はシンプルな立て襟シャツとスラックスを抱え、部屋を出た。

シャワーを浴びて着替えると身だけはさっぱりした。食欲も湧かないが、何か軽く摂ろう。そう考え脱衣所を出たところで、谷裂と賀髪が向き合っているのが見える。どれくらい飲み比べが続いたか分からないがかなり早い起床だ。やはり酒の飲み過ぎで二人も頭痛か気分が悪いままなのか、口論することもなく目つきもどこか鈍い。
木舌は痛みでぎこちなく笑いかけると、

「谷裂、賀髪、おはよう」
「……おはようございます」

心が遠くにあるような小さな声が返ってくる。谷裂は視線をこちらに向けただけだった。

「よく起きられたね。いつ寝たのかな」
「確か……二時頃のはずです」
「そんなに? おれはもっと早く寝たはずなんだけど、さっき起きたばかりだよ」
「木舌さんも随分飲んでましたから、仕方ないんじゃないですか」

木舌の目がまばたく。いつもの二人ならここで「だらしない」などとため息や説教が飛んできてもおかしくないのだが。よほど辛いのだろうか。他人に弱みを見せるような二人ではないので言及したら睨まれそうだ。木舌は疑問を飲み込んで勝負の結果を尋ねることにする。

「そういえば、飲み比べはどっちが勝ったんだい?」
「俺だ」「私です」

予想通りの答えが同時に出た。当然すぐさま紫の目と碧の目が交錯し、火花を飛ばし始めた。

「谷裂さんは帰るときふらふらしてたでしょう。片付けるときも危なっかしい手つきで瓶を持って割るかと思いましたよ」
「それを言うなら貴様も洗うとき手を滑らせて落とした皿がどれか分からなくなっていたぞ。酔いが酷かったのは貴様の方だ」
「適当なこと言わないでくれません? そんなことしてません」
「捏造するか。そこまで記憶が曖昧なら俺の勝ちだな」
「まあまあ、今回は引き分けってことでさ。次は俺も負けないよ」

これ以上続けると掴み合いになりそうだ。木舌は谷裂と賀髪の間に入り込み、笑みを浮かべ両手で制止する。

そこで二人とも黙り込んだ。何故かだんだん空気が重苦しくなっていく。谷裂は眉間に深く皺を刻み、賀髪は目を逸らしている。あの後何かあったのだろうか。
妙な態度の二人に首を傾げていると、ようやく谷裂が口を開いた。

「……しばらく酒はいい。ろくな夢を見ん」
「そうですね。酒の摂りすぎは毒ですし」
「へえ、二人とも夢を見たんだ。どんな夢だった?」

再び凍った沈黙が降りる。よほど変な夢を見たらしく、二人とも苦悩すら感じる苦々しい表情を浮かべている。

「…………」
「……ひどい悪夢でした」
「へえ。今日は休みだろう? 二人とも休んだらどうだい」
「ええ、紅茶を飲んで今日は部屋で休みます。気分が最低なので」

賀髪は矢継ぎ早に言い、逃げるように食堂へ消えた。

「谷裂は?」
「俺は部屋の掃除でもする」

そう、と頷くと谷裂は背を向けて部屋に戻っていった。何か用があって部屋から出たのではと思ったが、賀髪がいたのでやめることにしたのだろう。
無理に飲み比べをしようなどと提案しておいて真っ先に帰ってしまった手前、罪悪感が残っている。今度何か二人の好きなものでも買ってくることにしよう。何にするか思案しながら、木舌も食堂に向かうのだった。


「これで全部かな?」
「は、はい。谷裂さん、木舌さん、ありがとうございます」
「これくらい構わん」

今日の天気は快晴。からりと湿気も少ない。谷裂と木舌は家政婦あやこの手伝いをしていた。洗濯物も無事干し終えると腹も減ってきた。そろそろ昼時だ。

「お腹すいたね。今日は何かな」
「あ……お昼はおうどんです」
「またつゆ床にぶちまけたら承知しないよ!」

あやこの後頭部についた口から辛辣な言葉が出る。あやこ本来の大人しい性格と異なり、後頭部についた口の口調は荒々しい。
だが谷裂も木舌も気にしない。実際かなり手を煩わせているので何も言えないのである。
食堂にはすでにキリカが器にうどんを盛っていた。かつおの香りがするつゆ、瑞々しいネギ、つやつやのうどん、盛り合わせのてんかす。美味しさが嗅覚と視覚で訴えてくる。

「今日はおうどんよ〜。いっぱい食べてね! 賀髪ちゃんと凍堂ちゃんは先に食べてるわよ」

うどんにつられて気付かなかったが、真ん中のテーブルに賀髪と小さな少年が向かい合わせで座っていた。少年は雪の子のように白く小さな手で箸を持ってちゅるちゅるとうどんをすすっている。

「凍堂、元気かい?」

木舌が和やかに挨拶すると、凍堂が顔を上げた。大きな目に光はなく、底のない海のようだ。そんな瞳で見つめられると深淵に見透かされているような錯覚を覚える。木舌を見つめたまま、凍堂は首を縦に振った。

凍堂は比較的新しく就いた獄卒である。獄都の住人は外見が幼かろうと年齢に直結しない。しかしこの小さな獄卒は姿形に見合い、いやそれよりも大分精神が幼い。そのためかどちらかといえば実務より訓練や勉強に割り当てられているようだ。

「うどんは美味しいかい?」

こくり。木舌の問いに再び頷く。ほとんど声も出さず表情筋も動かないが、纏う空気は無邪気できらきらしている。

「凍堂さん、つゆがついていますよ」

冷えているはずの声音はどこか柔らかく優しい。賀髪はハンカチを取り出し、小さい唇や丸くぷにぷにとした頬についているつゆを軽く拭き取った。

「賀髪、お姉ちゃん、ありが……とう」
「いいえ」

ここにきてようやく言葉を発した凍堂の口調はゆっくりで少し舌っ足らずだ。表情も眉ひとつ変わっていないが、それでも感謝は充分に伝わっている。純粋無垢な気持ちを受け取り、無表情ながらも賀髪の目元は和やかに見える。

「凍堂、隣失礼するよ」

そう断って小さな獄卒の右に座る。自分よりも遥かに大きな木舌を見上げる氷細工の瞳は嬉しそうだ。しばらく木舌を見た後、遠くへと視線を移動させる。視線の先の谷裂は離れた席へ腰を下ろしていた。

「谷裂、凍堂が一緒に食べたいってさ」
「そんなこと言っていたか?」

言っていない。しかし、凍堂は谷裂を見つめたままだ。厳つい顔の谷裂にも全く怯えた様子はない。さしもの谷裂も言葉に詰まっている。紫の目が凍堂の前に座る人物へ向けられるが、当の本人は珍しく無言を貫いていた。
聞こえるか聞こえないかの舌打ちの後、凍堂の左隣に席を変えた。それを確認した凍堂の口元が緩んだ……ような気がする。

「谷裂も賀髪も凍堂には甘いね」
「甘いというか、素直な子供にまで厳しくする必要がないです」
「見た目も中身も童子でも同じ獄卒だろうが。甘くしているつもりはない。……精神が幼いなりに鍛えているのは認めるが」

違うようでいて似通った返答が返ってきた。それでも二人にしてはかなり甘い判定だ。これが田噛や平腹だったらもっと辛辣になっている。
勉強も訓練もこなし、任務は木舌たちが同行すれば問題ない程度になっていた。そのうち一人で任務に遂行することになるだろう。真面目な二人にとって好印象なのは間違いない。

そうして話しているうちに凍堂のうどんがなくなった。じっと空になったうどんの器を見つめた後、器を持って椅子から下りる。キリカの元へ向かい、無言で器を差し出した。

「凍堂ちゃんおかわり? はい、どうぞ」

こんもりうどんとつゆを盛られた器を持ち帰り、また食べ始める。よく噛みながらも量はすぐに減っていく。皿まで食べそうな勢いだ。行儀がいいとは言いづらいが、いい食べっぷりにこちらの食欲もそそられる。

「凍堂は本当に美味しそうに食べるなあ。それにたくさん食べてるし、前より大きくなった気がするよ」
「そういえばそうですね」

獄卒は成長することもあれば変わらぬこともある。木舌たちの場合、獄卒になったばかりの頃は凍堂ほどではないものの幼かった。それが今は見た目だけで言えば人間でいう十代後半か二十代前半ほどである。この調子ならば緩やかではあるが確実に背も伸びていくだろう。
凍堂は谷裂と木舌を大きく丸い目で見比べた。

「谷裂お兄ちゃんや、木舌お兄ちゃんくらい……大きく、なれる?」
「そうだね。きっと大きくなるよ」
「良く寝て良く食べて良く鍛えていればおのずと成長するだろう」

二人の返答に凍堂の瞳の輝きがいっそう明るくなる。それからまたずるずるとうどんをすする。そんな凍堂を見守る賀髪の眼差しはやはり姉か母のような優しさがあった。

「凍堂さんはどれくらい大きくなりたいんですか?」
「……肋角さん、くらい」
「肋角さんくらいかあ。なら今の凍堂の三分の一くらい伸びないとだ」

肋角は館の誰よりも背が高く重量感がある。だが、浮雲のようにふわふわ捉えどころがなく柔らかな凍堂がそんな風になっているところは想像しづらかった。
凍堂は光のない浅葱の瞳を両隣へ向ける。

「何だ。言いたいことがあるならはっきり言え」
「……大きい……と、いろんなもの、見れる……?」
「うん、遠くのものまでいろいろ見えるよ」

木舌が頷くと羨望の眼差しを注ぐ。湿った嫉妬のない、まっすぐな目は少しくすぐったい。
賀髪は箸を置いて言った。

「食べ終わったら谷裂さんか木舌さんが肩車してあげたらどうですか。背が高い方の世界が少しは分かるでしょう」
「なるほど。凍堂、どうだい?」

目も口も笑みを形作ってなどいないが、凍堂の顔がぱっと輝く。あまりにも純朴で見ているこちらも自然な微笑みが頬に浮かび上がる。

「はい、どうぞ」

屈みこんで乗りやすいように頭を下げる。肩に細い両足が乗ったところでゆっくり立ち上がった。

「おっと……っ」

しかし、凍堂が小さいとはいえ人間でいう十を過ぎた背はある。持てる重さのはずだが負荷がかかり、どうしてもバランスが上手く保てない。足元がふらふらして安定しない木舌を見て、賀髪が批難の目を向けた。

「……木舌さん、凍堂さんが怪我しそうなので一旦下ろしてください」
「凍堂を乗せたくらいで情けない奴め」
「うーん、昨日の酒が抜けてないのかな。ごめんよ、凍堂。怖くなかったかい?」

凍堂を下ろし目線を合わせると、小さく左右に振って否定された。むしろどこか満足げだ。何かのアトラクションのように感じられたのだろうか。

「じゃあ今度は谷裂が凍堂にやってくれないかな?」
「何故俺が……」

難色を示した谷裂の言葉が濁った。無下にしたら罪悪感に苛まれそうなくらい純真な期待の視線が谷裂へ突き刺さっている。

「……食い終わるまで少し待て」

うどんを食べ終え、谷裂が凍堂を肩に乗せる。木舌より重心がしっかりしており危なげがない。肋角よりも高い目線を体感し、凍堂の口から「わぁ」と小さなため息がこぼれた。はしゃいで足首だけぶらぶらと動かしている。やはり表情は全く変わりないのだが。

「しっかり掴まっておけよ」
「鍛えているならバランス崩して凍堂さんを落とさないでくださいね」
「そんなへまをするか!」
「分からないじゃないですか」
「決めつけるな……おい、木舌、何を笑っている」
「え?」

和やかに見つめていただけのつもりだったが、自然と笑っていたらしい。

「いやあ、三人が親子みたいだなって」

そう、まるで父と子が遊んでいるのを少し離れて見守る母のような微笑ましい光景だった。子を思うあまり母が父に厳しいのも、子供は特に気にせず無邪気に胸を弾ませているのもそれらしい。獄卒に血の繋がりなど当然ないが、義兄弟より親子の方がしっくりくる。
二人は案の定苦虫を噛み潰したような顔つきになった。賀髪にいたっては肌がざわついたのか両腕をさすっている。

「おぞましいことを言うな!」
「そうですよ。この人と血が繋がってるどころか夫婦に見られたなんて首を吊って死にたくなります」
「なら死んでこい。手伝ってやる」
「嫌ですよ。貴方が代わりに死んでください」

先程のゆるやかで安穏とした空気から一変、ぴりりと張り詰めて冷え切っていく。

どう止めようか、木舌が言葉を選んでいたとき、

「谷裂、お兄ちゃん……賀髪お姉ちゃん……けんか、だめ」

あまり迫力のない、けれどもしっかり耳に届く声音が遮った。谷裂に乗せられたままの凍堂はきゅっと唇を結んでいるだけなのに怒っているように見える。
見た目も中身も自分より幼い少年から理性的に窘められ、谷裂と賀髪は少々バツが悪そうに黙っている。不満と恥ずかしさが混ざった目は、厳しい顔つきから大人びた印象を受ける二人にしては子供っぽく、肋角や災藤上司二人に諭されているときとはまた違う。

こほんと咳をして賀髪は言う。

「喧嘩というか、これは木舌さんが気味の悪いことを言うから怒っているだけです」
「そうだ。毎度毎度やめろ」
「あれ、これっておれが悪いのかな?」
「そうだ」「そうです」

高低差のある声が重なった。さっきまで非難し合っていた二人とは思えない。木舌が力なく笑えば、凍堂は不思議そうに首を傾げるのだった。