負けるわけにはいかない――――のだが、
「っ、」
「いた、」
それでも耐え切れず、谷裂の体が崩れ、賀髪の方へ落ちる。賀髪も酒に意識を持っていかれそうになっているのか避けず、そのまま二人一緒に床へと張り付いた。
賀髪を下敷きにしてしまった。それはどうでもいいが、とにかく離れたい。谷裂も賀髪も酒の匂いがひどいのだ。お互いの息がかかるほど体が密着していることよりそちらの方が気になった。
起き上がろうとするも上手く力が入らない。手の力を込めようと試してみると、何やら柔らかさと弾力が共存した感触が手のひらから伝わってくる。ひどく心地よい手応えだ。つい何度も繰り返してしまう。それにしてもこれは一体何だ。絨毯にしては温かく、枕にしてはふっくら弾んでいる。正体を見極めるため視線を右手へ向けると、
「胸を押すの、やめてくれませんか」
賀髪の豊かな丘だった。
他人に、男に触れられるのを好まない賀髪であれば、乳房を揉まれれば怒り狂うはずだ。しかし指摘するだけで鋏を取り出す素振りすらない。心を覗き込もうとするような、あるいはまるきり興味のなさそうな瞳が谷裂を映している。そんな目を向けられたことも、谷裂に対し軽蔑も不快さも込められていない声音も初めてだった。
「……すまん」
そのせいか素直に謝罪の言葉が口から出た。右手を胸からずらす。
「いつも胸倉を掴んでくるのに、今更謝るんですね」
変なひと。酒で濡れた唇からこぼれた言葉にやはり嘲りはなかった。
そういえばそうだ。だが、直接胸に触れたことはいない。……ような気がする。手の甲にふんわりとした感触があった気もする。怒りが頭を支配してそんなことは気にも留めていなかった。
「……触れてはいない」
否定すれば、ほんの一瞬だけ賀髪の唇が笑みを形作る。それもすぐに元の直線に戻った。
「そういうとことにしてあげましょう。でも、貴方がそんな気遣いをできるような方とは思えませんが」
「やかま、しい」
殴りかかられたような鈍い痛みをこらえ、賀髪へ吐き捨てた。
それにも反論せず真下の碧の瞳がこちらを覗いてくる。谷裂へ向けられる絶対零度が急に熱を持ったように思える。扇のように広がった長い銀の髪は、窓から差し込む月の光を浴びていっそう輝いて見えた。
音も消えたかと思えたとき、宝玉のごとき碧色の瞳が白い柵に閉じ込められた。
「もう、やめましょうか。このまま寝るなんて醜態を晒したくありませんし」
「……それも、そうだな」
これ以上飲めば明日、いや今日一日潰れそうだ。飲み比べで倒れていたなど情けないにもほどがある。
今度こそ床に重力を渡さぬようにすれば何とか立ち上がれた。賀髪も多少体の軸がぶれているが無事に起きる。机を支えに立ってこめかみを押さえた。深呼吸すると、徳利やビール瓶などが転がる現実が広がっていることに気付く。
「……片付けないと」
賀髪ははあ、とため息と同時にこぼした。酒瓶を手に取ってシンクへと運んでいく。谷裂もそれに倣う。何度も手の力が抜けて落としそうになるのをこらえた。持って行った後、黙々と何本もの瓶や徳利などを洗い始める。洗うといっても単に一回水で濯いだだけで、グラスやお猪口もスポンジと洗剤を使ってなどいない。二人ともアルコールに頭をやられているため動作は遅く、すべてを洗い終える頃にはさらに頭痛がひどくなっていた。
「……ちゃんと部屋に帰れるんですか?」
「これくらい、余裕だ」
言い切るも出した声は少しばかり揺れていた。一歩歩くたび体が重くなっていく。この調子では部屋に戻れても扉が閉まった瞬間に倒れそうだ。
下半身に力を入れる。――――と、突然体のバランスが安定した。目線を下げれば賀髪が筋肉質な体を支えている。
「……何のつもりだ」
「放っておいたら絶対倒れるでしょう。別に貴方が倒れて誰かに踏まれようがどうでもいいですが、後片付けはしないと」
「それは俺がゴミだとでも言いたいのか?」
「お好きに解釈してください」
さらりと交わされる。賀髪に支えられるなど屈辱でしかないが、今の谷裂には突き放す力すらない。そのまま大人しく自室へと足を動かすことにした。
館の二階は獄卒たちの自室で、階段を上った先は男と女で左右に分かれている。男女間の部屋の行き来は禁止されていないが、用もないので谷裂は女獄卒の方面へ行ったことはない。
とっくのとうに夜の密度も上がり切った時間帯。さすがに今いる獄卒たちは眠っているのか何の音も無い。のっそり動く足音と浅い呼吸がやけに大きく耳に響いた。
部屋に着いた。鍵はどこにやったのだったか。すぐに思い出せずに扉を睨む。
「ポケットに入ってないんですか」
指摘されて気付いた。右、左と確かめると冷えた金属の感触。ゆっくりと鍵を回して扉を開けた。
谷裂の部屋は整理整頓されていて清潔で統一感がある。布団が真ん中に敷いてあるのを見て、そこまで賀髪が下ろそうとする。だが、何もないのに賀髪が足をつまずき、二人とも布団へ倒れることになった。布団で多少衝撃が吸収されたが痛い。文句を言おうと口を開いた。
しかし、不本意でしかないもののそもそもここまで支えてくれたのは事実。礼を述べる気にはならないがとやかく言うこともできなかった。
「……すみません」
しかも殊勝に謝るものだから余計に強い語気で咎める気も失せる。
「……構わん」
そう答えれば賀髪は口を閉ざした。
布団に身を預けていると、心臓の鼓動が体に広がっていく。瞼が重くなる。だが常に一人であるはずの己の部屋に、他人の――賀髪の息が聞こえる。一定の速度を保っていた脈が少し速まった。ひんやりした布団は快いと同時に体温が上がっている気がした。
「……部屋に戻れるのか」
賀髪の顔がこちらを向く。はらりと後れ毛がかかった様は色めいている。
今まで谷裂はたとえ見た目が幼い子供だろうが蠱惑的な美女だろうが、狂暴化した亡者や妖相手ならば一切の迷いなく任務を遂行した。これからもそうだ。情けをかけて傷を負うなど無様にもほどがある。けれども、目の前の女からは何故か目が離せなかった。
こちらを見つめる賀髪は生気が一切感じられない。本当は精巧にできた人形なのではないかと疑ってしまう。かろうじて動く白い睫毛で生きているのだと分かる。
「少しだけ、ここにいてもいいですか」
部屋に帰れ。口を動かしたが音にできず、空虚で、しかし凄艶な目をただ見つめるだけになった。
谷裂と同じように血色の悪さがありながら、西の血が入っていそうな赤みがかった肌。柔らかそうで艶かしい唇。雪が乗りそうな長い睫毛。闇の中でも光る碧の瞳。そして、白銀の刺繍のようなまっすぐな髪。何年、何十年と仕事をして初めて賀髪という女をじっくりと観察した。確かに、美しい女だと言われれば同意せざるを得ないくらいに整っていた。整いすぎて作り物に見まごうほどに。
いつも見るだけで頭の中が嫌悪と怒りで支配されるのに、今は違う。氷のような美しい女だと、事実だけを受け止められる。酒のせいとしか思えなかった。
「ん、」
だから――――女の唇に噛み付いたのも、酒のせいだ。
ひどく柔らかなそれは良い感触がする。酒の味しかしないはずがどこか甘い。唐突な接吻に賀髪も拒まず、むしろこちらの唇に吸い付いた。
二人は口吸いの後も無言でお互いを見つめた。虚ろなのにどこか溶けて熱い賀髪の眼差し。誘うようなそれに、谷裂はもう一度濡れた唇に口付けた。
体を動かすと布団が乱れ、時折床が軋む。粘ついた水音はやけに大きく聞こえる。布団の横には脱ぎ散らかした制服とワイシャツ、タンクトップ、下着が散乱している。
無骨で大きな男の手が、賀髪の豊かな胸に、長い脚に、大事な中に触れる。賀髪も男の厚い胸板に、太い腕に、肉棒に手を伸ばす。
どうしてこうなっているのか。よく分からない。
夢? 夢にしてはやけに汗の匂いも肌の温度も生々しく、現実にしては頭にもやがかかって冴えない。
「たにざき、さん」
そう口にすれば大嫌いな紫の目が熱っぽく応える。甘いときめきなど生まれない。けれど不快ではなかった。心臓はいつもよりほんの少し速い鼓動を刻んでいる。
歯型がつきそうなほど強く胸元を噛まれる。食いちぎる勢いだった。当然痛みが走るだけで気持ち良くなどないはずなのに、小さな呻きとともにこもった吐息が出た。
仕返しとばかりに耳を食む。歯に力を込めた後は優しく舌で耳の形をなぞる。そして艶っぽく息を吹きかければ、谷裂の体が震えた。
「耳、弱いんですか」
谷裂の反応にかすかに微笑を浮かべる。常に弱みなど見せぬような男が、性など囚われぬような男がそんな反応をするのが何だか面白かった。
「……貴様こそ、ここが弱いくせに」
眉根を寄せて谷裂も耳に舌を這わせた。男らしい、硬く低い声が鼓膜に響く。囁かれるとなおのこと意識が朧気になる。
調子に乗らないでほしい。細い指で硬くなった性器をなぞる。それだけで谷裂の体がびくりと跳ねた。
「貴方、女性に、性的なことに興味がなさそうなのに。興奮してるんですか?」
「……そうかもな」
からかうつもりで言えば真面目な声音で返された。咄嗟に言葉が出てこない。
賀髪はじとりと谷裂を睨む。凄艶な顔は今思春期の少女のようにひどく幼い。性器を扱く手つきは全く幼さも初々しさも感じられないというのに。
逆手で上下に竿を移動する手はいやらしい。ぎこちなさも怯えも一切なく、賀髪は繊細に動かしていく。優しく刺激される性器の昂りが脳に上手く伝達されているのか、谷裂の息が荒くなる。
「我慢したら体に悪いですよ」
「喧しい」
言いつつも快感が滲んだ声が漏れている。満足そうに口角を上げ、賀髪は肉感的な体を密着させた。体も意識もひとつになって溶けていく感覚がする。
逞しい胸板に舌を這わせていると、谷裂が柔らかな胸を押し上げて掴んだ。力任せではなくあくまでふんわり包み込むような動きがむず痒い。
「んっ……」
自分で慰めたことなど一度もないので気持ち良さなど全く感じないはずなのに、嬌声がこぼれる。夜の冷えた空気と体温の落差で尖った胸の先が敏感になっているせいだろうか。既に裸になっているというのに急に気恥ずかしくなり、賀髪は唾液まみれの唇を噛んだ。
ぬるりと男性器を擦りつけられる。挿入りそうで挿入ってこない感覚がもどかしく、じれったい。しかし、顔をしかめる谷裂の表情からして焦らしているわけではないらしい。単に場所が分からないだけか。賀髪は軽いため息とともに滾る性器を掴んで誘導する。
「ここですよ。下手くそ」
発された言葉は字面よりもずっと攻撃的な悪意がない。谷裂は眉をひそめて言う。
「女を悦ばせる術など獄卒には不要だ。……そういう貴様はやけに手馴れているな。まさか性交したことがあるのか?」
「気持ち悪いこと言わないでください。あるわけないでしょう。歓楽街へ任務に行ったとき、不要すぎる知識を植え付けられただけです」
獄都にも酒場や賭場、風俗店が主に並ぶ歓楽街がある。男女入り混じる風俗店に盗人や暴漢がたびたび現れると聞き、待ち伏せしている際に無用な心得を喜々と話された。下世話な話は好きではない。離れても良かったが、金に困って体を売るような者もいるので雑に扱えなかったのである。
「……そうか」
ただの相槌にはほんの少し安堵が混ざっているような気がした。
太い棒が体の中に侵入していく。狭い入口を無理矢理こじ開けるようにして奥へ進む。腕を斬られたり頭を殴られたりするような痛みとはまた違う。感じたことのない痛みはさすがに顔へ滲む。
「痛むのか」
気遣いの言葉。そんな言葉をかけられたのは初めてで、けれど同時に煽られているように聞こえる。違うことは分かっている。賀髪は少しむっとして答えた。
「……こんなの痛いうちに入りません」
そうか。相槌に怒りはなかった。子供っぽい返しをしたのが恥ずかしくなる。
そっぽを向いていると、ゆっくり律動が始まった。中を擦られる感覚は気持ち良さより不思議な気分の方が上だ。それでも声が漏れ出そうになる。腹の奥を突かれているから、にしても違うような気がした。
力任せでなく、基本一定のリズムで動きながらも時折緩急をつける。その間にも体を噛んだり胸に触れたり、想像していたよりちゃんとしている。賀髪も経験がないのだが。もっと乱暴で下手だと思っていたのに。何だか苛立つ。
喘ぎと吐息の間のような声を出した後、賀髪は谷裂の胸板をぐいと押した。
「何だ」
「貴方が下手なので、今度は私が上です」
「おい」
不満げな声が返ってきたが、どうにか力を出して押し倒し、谷裂の屈強な体に跨って見下ろす。こんな状況でも強く光る紫の瞳は、綺麗だ。賀髪は困惑の色が見える紫を見つめた。
深呼吸した後、ねっとりした性器を自らのものに擦りつける。腰を上下させれば亀頭が良いところに当たって続けそうになるのを堪えた。
さらに硬くなったものを手に取ってあてがう。谷裂の視線が繋がろうとしている部分へ注がれる。卑猥でも粘ついてもいない視線に、ただでさえ火照った体が熱くなっていく。一気に腰を下ろすと、挿入った異物が中を擦って声が出そうになった。そのまま腰を動かす。
部屋の中は賀髪の吐息と、時折かすかに聞こえる谷裂の声、そして肉のぶつかる音のみで、何も知らねば運動しているだけのようにも思えるだろう。
賀髪は唇を嘲りの形に変え、谷裂へ言う。
「いいんですよ、だらしなくぶちまけても」
「……っ、俺は、負けん」
まるで拷問を受けている罪人だ。谷裂の返答に賀髪はじとりと睨む。
その途端、圧迫感がなくなったかと思うと賀髪の体が容易に布団へ落ちた。脚を広げ、秘部をさらけ出した様はだらしない。谷裂はふらつきながらもしっかり脚を持つ。
「谷裂さ、っ」
再び攻守逆転した。今度は少し荒っぽい。それでも賀髪は文句を言わず谷裂を受け入れる。布団のシーツを握りしめ、動く谷裂を見つめる。
「出すなら言ってくださいね。ん……っ、中に出されるのは、嫌なので」
精液が中に残るなんて不愉快極まりない。これは子孫を残すための行為でもなく、好意を確かめるための繋がりでもなく、快楽を貪るためのものでもなく、ただの、ただの……――――何なのだろう?
「それくらい、弁えている」
そう言った谷裂の顔に怒りはなく真剣だった。少し開いていた賀髪の唇が閉じられる。
決して優しくないものの、己の快楽のみを考えているような下衆さもいやらしさもなく、任務のときと同じくらい真面目な顔つき。この状況は病にかかったときに見る夢のようだが、谷裂の目とお互いの体温だけはやたら現実的だった。
ぼうっと谷裂を見上げていると、腹を抉るような一突きで体に電流が走る。気持ちよさが一瞬脳を支配した。
「あぅ……っ」
今までに比べて一際大きな声が濡れた花弁から流れるも、谷裂は気づいていないようだ。だからこそ行為が続く。胸を撫で下ろす暇もない。初めての感覚ばかりで体も脳も毒で痺れていく。
「賀髪……出すぞ……っ」
そう言われた途端、強くシーツを握りしめた。
「……っ」
ずるりと抜いたと思えば、あたりに白濁の液体が飛び出ている。濃い臭いがつんと鼻を刺激する。
何度目か分からない眩暈がした。今までなかった疲労感がどっと沸いてきて、二人は湿った布団へと沈む。冷たい空気が染みていたはずの布団は熱が伝わり切って気持ち悪い。
しばらく黙然としていた。先程までお互いの吐息と声がよく聞こえていたとは思えない。天井を見つめていれば、未だに体は熱いものの心臓の脈は正常になっていく。
ぼうっと視線を横に向けると、谷裂は呼吸を整えている。今まで仏頂面としか思えなかった男の横顔は精悍だった。
――――こうして男に、誰かに触れられても気持ち悪くならないとは思わなかった。
そうだ。男に、しかも谷裂に触れられるなんて。
賀髪は、男の、時たま女の舐めるような目が嫌いだ。顔に、胸に、臀部に、脚に、よく注がれる下劣な視線はべったり張りついてなかなか取れない。シャワーを浴びたところで拭えぬことは分かっているのに時間をかけて洗ってしまう。
だが、そんなものに負けたくはないし、逃げるつもりもない。
それでも卑猥な手は切り刻んでしまいたいのに。いつもなら触れようとしてきた時点でもうしているはずなのに。舐め回す目は抉りたくなるのに――――できない。恐怖で心が折れているからではない。ひたすらに頭が働かないのだ。
夢なのに? 夢だから? 分からない。
嫌いな人なのに。苛々するのに。乱暴な手つきなのに。今でも首を絞めてしまいたいと強く思うのに。それでも拒絶しようとは思わなかった。実行しようと、手をかけようと思わなかった。
体に満ちていく煩雑な感情の奇妙な心地を感じながら、遠い、遠い記憶が鮮烈に脳裏へと浮かぶ。
――――逃げられぬように格子に囲まれ鍵がかかった部屋。周りには豪華な調度品。真ん中の寝具に少女が座っている。着ている服は良い絹の着物。近くで砂糖を溶かしたような甘ったるい香も焚いてある。一見少女を大事にしているように見えるが、同時に囚人の牢屋のようだった。
男が鍵を開けて入ってくる。少女はこの世の虚無を詰め込んだような目で男を見た。
汗ばんだ男の手が少女の頬に愛おしげに触れる。
――――触らないで。気持ち悪い。
それから男は少女の長い髪を撫でた。艶々とした絹の髪に汚いものがつく気がして、少女が抵抗する。男は顔を怒りで歪ませ強く足を叩くと、白い肌がひどく赤くなった。少女の体にはまだ治りきっていない痣がたくさん見える。
――――叩かないで。痛い。
引っ張られる。乱暴に扱うせいで何本か抜けた。
大事な髪が。自由のない自分の唯一の持ち物が。これだけは、どんなに風にしても怒らないのに。
――――掴まないで。苦しい。
そして、もはや手ではない何かが体を這う。ねっとりとした動きはおぞましく、恐怖と不快感がこみあげてくる。
――――触らないで! 触らないで! 触らないで。触らないで。触らないで……。
あの汚らわしい人間と目の前の男は違う。単純で頑固で朴念仁だが、心身共に頑強で真面目で誠実だ。
見つめていると、視線に気づいたのか紫の瞳が賀髪へ向いた。そのまま無言で銀のカーテンに触れる。いつもの引きちぎりそうな勢いはなく、愛でるような優しい触れ方。しっとりと直線に流れる髪の感触を楽しんでいるようだった。髪へ注ぐ眼差しは熱を帯びていて、何だかくすぐったい。いつも切れと命令してくるくせに。賀髪は突き放さないでその様子を見つめる。
谷裂は目で、ぽつりと呟いた。
「お前の髪は――――お前のように、まっすぐで美しいな」
息を呑む。谷裂の言葉がすぐに頭で飲み込めない。
――――今、この人はなんて?
賀髪の耳が正確に機能しているのならば、「まっすぐで美しい」と聞こえた。
まっすぐで美しい、なんて。そんなの、まるで口説き文句ではないか。やはりこれは夢に違いない。この谷裂という獄卒は見た目の美醜を話題にしないし、そもそも性に現を抜かすような軟派な男ではないのだから。
だが、賀髪の胸に上がってきたのは嫌悪ではなく歓喜だった。顔の造形について賛美されようと感謝しか生まれない。唯一の持ち物と同じように、そう在りたいと思うように、まっすぐで美しいと言われた。単に綺麗だと称賛されるのとは違う。透明で繊細な光が溜まっていくような心地がする。
鋭利な光を灯していた賀髪の目元が少し柔らかくなる。
気持ち悪いと跳ねのけるのは失礼だ。かといって素直に礼を言いたくなかった。
だから、もう一度口づける。それは愛や恋のように全く甘さなどなく、執着と断じるには粘つきが足りなくて――――憎悪にしては、優しかった。
頭が重い。体がだるい。何故か下腹部も痛い。賀髪は獄卒になって初めて絶望を煮詰めたような暗く重苦しいため息をついた。
飲み比べの途中から記憶がない。木舌が帰ったところまでは鮮明に思い出せるのだが、そこからどう部屋に帰ったか、脳から消去されていた。
しかもアルコールを摂りすぎたせいでろくでもない夢を見てしまった。谷裂と自分が、……。言葉にするのも憚られる。悪夢だ。どんな拷問より悪質な悪夢だ。どこの世界線の映像を見せられたのだろう。
姿見へ目線をやると、想像よりひどい顔をしていた。血色のなさがさらに悪化し、肌は瑞々しさが足りない。着替えなかったせいでシャツや制服が皺だらけになっていた。休日なのであやこはいないし、自分で何とかしなければならないが、やる気が起きない。極めつけに大事な髪は乾燥して艶がなかった。手入れせずに寝たのだから当然だ。それでも落胆してしまう。賀髪はもう一度深いため息をついた。
それにしても、酸素を吸うだけで分かるほど酒の臭いが染みついている。昨夜は暑かったのか肌もべたべたする。シャワーを浴びたい。
賀髪は私服に着替え、風呂のある一階に降りようと扉を開けた。
こんなにだらしない姿を誰にも見せたくないし、こんなに体調も機嫌も悪い状態で誰にも会いたくない。会いたくなかったのに、一階に下りた途端に一番会いたくない人物と目が合った。
谷裂もひどく疲れた顔つきだ。睨む気力もないのか困惑の眼差しを向けるだけで声をかけるわけでもない。ただ見つめ合って時間だけが過ぎていく。
このまま通り過ぎればいい。相手にする気力などない。だが、賀髪にはどうしても確かめたいことがあった。答えを聞きたくないが、予想に反した答えを聞いて安心したかった。
「――――谷裂さん。ひとつ、聞きたいんですけど」
「……何だ」
「貴方、変な夢見てませんか?」
具体的なことは言わない。あんな悪夢の内容を口にしたら過呼吸になりそうだ。
谷裂は口を引き結び、すぐに返答せずに黙っている。
変な夢とは何だとは返さないで違うと否定してほしい。何を馬鹿なことをと一笑してほしい。普段なら決して思いもしないようなことを祈る。
何故か心臓がどくどくと脈打つ。やけに喉が渇く。音も聞こえない。こんなに緊張したのは、屋敷を半壊しかけて肋角に圧をかけられたとき以来だ。
無言に耐えられず深呼吸したとき、
「谷裂、賀髪、おはよう」
間の抜けた声が祈りを遮った。木舌だ。くしゃくしゃになった制服を手に、頭痛でもするのかどこかぎこちない微笑みを浮かべている。
「……おはようございます」
突然現実に呼び戻され小さく挨拶を返す。谷裂は木舌を一瞥しただけだった。
「よく起きられたね。いつ寝たのかな」
「確か……二時頃のはずです」
片付けて部屋に戻ろうとして目にした時計はそうだったはずだ。逆に言えばそれ以降の記憶がない。どうでもいい記憶はどんどん削除されていくものだが、さすがに昨晩の記憶がないのはどうなのか。
「そんなに? おれはもっと早く寝たはずなんだけど、さっき起きたばかりだよ」
「木舌さんも随分飲んでましたから、仕方ないんじゃないですか」
そう言うと木舌が目を丸くした。驚く要素はないはずだ。失礼な人だ。
だがそれだけで特に言及せず木舌は尋ねる。
「そういえば、飲み比べはどっちが勝ったんだい?」
「俺だ」「私です」
即答すると少し掠れた低い声も同時に聞こえた。再び紫の目と視線を交わせる。先程まで少し弱かった目の威圧感がお互い元に戻っていた。
「谷裂さんは帰るときふらふらしてたでしょう。片付けるときも危なっかしい手つきで瓶を持って割るかと思いましたよ」
「それを言うなら貴様も洗うとき手を滑らせて落とした皿がどれか分からなくなっていたぞ。酔いが酷かったのは貴様の方だ」
「適当なこと言わないでくれません? そんなことしてません」
「捏造するか。そこまで記憶が曖昧なら俺の勝ちだな」
「まあまあ、今回は引き分けってことでさ。次は俺も負けないよ」
木舌がなだめるように谷裂と賀髪の間に割ってきた。昨日の言葉にぴたりと賀髪の動きが止まる。
次。負けたつもりは毛頭ないが、かといって谷裂を納得させるためまた勝負に乗る気もなかった。酒を飲みすぎると記憶が飛び、ろくでもない悪夢を見るのだ。よく酔っぱらいの一例に取り上げられることを体験してしまった。自分には縁のないものだとばかり思っていたのに。獄卒たる者が情けない。これでは叫喚地獄の亡者と変わらないではないか。
そう、もし、またあんな夢を見たら。仮定するだけで血の気が引いていく。酒の席は嫌いではないものの、すぐに参加する意欲も湧かない。
谷裂も苦々しい表情をしている。しばらく酒瓶すら見たくないとでも言わんばかりだ。
木舌が黙り込んだ谷裂と賀髪を見て不思議そうに首を傾げている。第三者から見れば疑問に思って当たり前だが、話すわけにはいかない。
そして、ついに谷裂が口を開いた。
「……しばらく酒はいい。ろくな夢を見ん」
「そうですね。酒の摂りすぎは毒ですし」
「へえ、二人とも夢を見たんだ。どんな夢だった?」
墓穴を掘った。
しかも緩んでいたところで谷裂の答えである。ただでさえひどかった頭の痛みが岩石を落とされたように増した。どうやら今の賀髪の脳は脳として機能していないらしい。
「…………」
谷裂も同じように黙り込んでいる。もうこれ以上喋らないでほしい。
「……ひどい悪夢でした」
口を閉ざしても怪しまれるだけだ。詳細を口にせず事実だけを伝える。
「へえ。今日は休みだろう? 二人とも休んだらどうだい」
木舌は追求しないで眉を上げるだけだった。斬島や平腹のように空気を読まず話題を続けることもない。賀髪の胸に安堵が宿る。
「ええ。シャワーを浴びて、紅茶を飲んだら今日は部屋で休みます。気分が最低なので」
矢継ぎ早に言い、逃げるように風呂場へ消えた。
――――ありえない。触れられても良いと思う人物以外に、夢であれ体を触れさせるなど。
胸の中が苛立ちと激憤で満ちていく。脱衣所で服を脱いでいくうち、無意識に歯を食いしばる。鉄の味がしてきたがやめられない。
――――ありえない。夢とはいえ、谷裂に触れられても不快や嫌悪で支配されないなど。
頭に血が上っておかしくなりそうだ。けれど。
賀髪は手を止めて目を伏せれば、銀の髪が視界に入った。自分の唯一の持ち物。大事なもの。一房手に取って指の腹で撫でる。
あのとき感じた喜びまで夢だったと否定したくは、なかった。