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長編2-11_約束



 淡い陽光が差し込む廊下にパキ、と小気味良い音が響いた。
 舌に乗るザラついた食感。硬すぎず柔らかすぎず、ちょうどいい噛み応えで食べやすい。

 外から送り込まれる柔らかな風が頬を撫でれば、ほのかに甘い匂いが鼻を掠める。普段ならそれがさらに食欲を促して、束の間の幸福感に包まれるはずだった。

「────」

 しかし今、私の舌で感じられるその味は、やけに薄いものだった。

 口内で数度それを噛み、ゆっくりと喉へと通す。一つ一つの動作を緩慢に意識も向けないまま終えて、最後にこぼれるのは短い嘆息だ。
 空から持ち帰って密かに備蓄していたパンプキンクッキー。せっかくのその味にすら集中出来ないほど、胸中には濁った澱が蟠っていた。

 それは今だけではない。ここ数日の間、ずっとだ。


 ──火の土地での戦いを終えて拠点へ帰還し、三日が経っていた。

 インパの謀略により巫女を取り逃した直後、伝令用のキースの報告を受けた主人は即座にオルディンを離れ拠点へ引き返すことを決めた。
 数日に渡る帰路の途中で私は回復兵による手当を受けていたが、薙刀に貫かれた右腕の傷は拠点にたどり着くまで塞がり切ることはなかった。

 しかし私はフィローネへ到着次第すぐさま封印の地へ直行した主人に無理矢理ついて行き、そこで何が起きていたのかを目にした。

 正確に言えば、異変と称するべき“イヘン”ははっきりとは起きていなかった。
 それでも見慣れたはずの巨大な螺旋を前にした瞬間、脇目も振らずに崖から飛び降り、封印の石柱にまで駆け寄った彼を見れば、その伝令を送った人物──拠点で控えていた大トカゲの判断は正しかったと言えるだろう。

 当然、私も痛む傷口を庇いながら、主人を追って螺旋を下った。そうしてようやく彼の隣に立ち、中心に佇む石柱を目にして初めてその意味を理解した。

 ──魔王様の封印は、火山に赴く以前に比べてほんのわずかに緩んでいた。

 今まで圧倒的な無の空気に包まれていた封印の地の最下層。その地はたった一つの小さな石の杭が作り出す厳粛な沈黙が、絶対的な支配権を握っていたはずだった。

 だがその時、主従が立つそこには薄く、それでいて人間である私が察してしまえる程の“何かの気配”が満ちていた。
 それは女神の血を持つ者にとっては底知れぬ恐怖と不安を煽り、魔族にとっては魂を揺るがす畏怖と崇敬を抱かせ──傍らの主人にとっては、

「────」

 瞼を閉じて、追想に終止符を打つ。

 そうすることで今脳裏に映った記憶を、封印の地で目の当たりにした事実を、数日間網膜に焼き付いて離れなかった光景を、深呼吸と共に胸の奥底へと仕舞い込む。
 あの日から時が経って全身の傷はほぼ塞がっているはずなのに、鈍い疼痛が存在を訴えた気がした。

 一つ吐息をこぼし、私は冷たい壁に預けていた身を起こす。そしてそのまま迷いもなく、拠点の廊下を歩き始める。目的地は最初から決まっていた。


 数分足を進め、ある扉の前に私は行き着く。もう一度だけ胸に片手を添えて、きっと意味のない深呼吸をして、控えめに扉を鳴らす。

 返事は普段通り、何もない。故に私も普段を準え、形式的な挨拶を口にして部屋に踏み入る。

「────、」

 主人は、ギラヒム様は、背の高い椅子に無表情のまま腰掛けていた。

 数秒の後、視線だけがこちらへ向けられ、主従の視線は無言で重なる。

 ……何を、思っているのだろうか。
 やっと目の前に立てた。ここに来るまで勇気を出して、逃げ出したくなる気持ちを抑えつけて、扉を開いて視線まで交わした。
 だから、もう後は甘えてしまいたかった。伝えたいことだけをここで伝えて、今彼が思っていることを全て耳にして、楽になってしまいたかった。──でも、

「──マスター」

 震える唇から、何千回も口にしてきたはずの敬称がたどたどしく落ちる。
 それでも声音として発せたことに刹那の安堵を覚え、もう一度だけ手のひらを握り締めた。

「……模擬戦、お願いしてもいいですか」

 ──それは部下から主人へ、火の土地の戦場以来初めて交わされた言葉だった。


 *


 その要望により彼が機嫌を損ねることも危惧していたけれど、対する彼の反応は短く鼻を鳴らすだけにとどまった。彼はそのまま何も言わず私を伴い、外の世界へと赴く。
 二人が足を止めたのは、拠点の建物をすぐ前にした障害物のない平地。いつも主従が模擬戦を行っている場所だ。

「…………」

 互いに無言のまま、手には鈍い輝きを持った魔剣が握られる。
 交錯し合う鋼の煌めきを目にし、移した視線がたどり着いたのは静謐な無の空気を保つ主人の双眸。
 そこに映る自身を見て、一人勝手に射竦められる感覚を抱きながらも私は身構える。

 そうすることで、一時的に頭の中の感情を全て無にして──そして、

「──!」

 数秒の後、刃同士が重なり合う金属音が響き渡った。

 一度打ち合いが始まれば、あとの思考の全ては目の前の剣戟に委ねればいい。
 それを体現するかのように、普段は合間を縫って交わされるはずの会話は影もなく、残響となるのは冷えた空気に伝う金属音だけだった。

 ──しかし私の予想に反し、沈黙はそう時を経ずに破られる。

「……お前の要望通り剣を交わしてやっているというのに、不躾なまでに神妙な顔をするものだね」
「…………、」

 ぴくりと魔剣の柄を握る指が震え、目線を上げる。その先で、主人の切れ長の目が鋼越しにこちらを睨んでいた。
 苛立ちの感情はそこにない。が、向けられる声音には温度が感じられなかった。

 それでも刹那、彼の声音に抱いてしまった安息感を頭の内で振り払い、わずかに唇を濡らして返す。

「反省したからです。……心の底から」
「フ……珍しいこともあるものだね」

 彼の端正な顔立ちに冷めた笑みが浮かび、その言葉の続きを魔剣の重い一振りが引き継ぐ。
 口振りでは驚嘆を演じている主人が、最初から部下の考えも行動も全て見透かしていたことはわかっていた。

 何故なら一週間、一言も言葉を交わさず顔すら合わせなかったその行為自体が、彼が私に与えた罰だったのだから。

 ──オルディン火山で巫女を取り逃してしまったのは、紛れもなく私の失態だ。
 彼がそう明言したわけではない。……明言されて初めてそれを自覚するような惰弱な部下であったなら、私は早々に切り捨てられていただろう。

 あの時、ゼルダちゃんが呼んだ名前に動揺していなければ。インパに向けて銃を撃っていたならば。魔族は巫女を捕らえ、魔王様復活という悲願の達成に大きく近づけていたはずだった。
 その機会を、私の迷いのせいで手放してしまったのだ。無論、私自身も拷問紛いの罰を受けることを覚悟していた。

 けれどギラヒム様は、私に何も告げなかった。
 何も与えず、何も伝えず、何もしなかった。

 ──そう、まるで、
 部下の存在を彼の中から一時的に除外したかのように。

 そうして投げ出すように与えられた果てしない無の時間を思い返し、私は眉根を寄せる。

「今までで一番、は言い過ぎかもしれないですけど。……それでも、すっごくしんどい罰でした」
「……それは何よりだ」

 主人の艶のある唇は美しい弧を描いてみせたけれど、その笑みは部下に慈しみを感じさせる間もなく霧散する。
 一定の旋律を奏でながら剣を交わし続け、私は再び冷たい沈黙を解いた。

「──マスターが言ってた、失う時は一瞬だって意味」

 そこで区切ると、今度は彼の瞼が微かに震える。紡いだのは、火山へ出向く数日前に拠点の見張り台で耳にした彼自身の言葉だった。

「ようやく、ちゃんと理解できたと思います。……遅すぎましたけど」
「……鈍いお前の頭だ。最初から期待はしていない」

 あの失態が示す意味は全てその言葉に集約される。致命的ではないにせよ、確信的な痛手になる可能性があったのだから。
 返されたのは無感情な答え。けれど次に響いた風切り音は先ほどよりも鋭く嘶いた。

「…………」

 淡白な受け答えはそこで一旦途絶え、私は剣が打ち鳴らす澄んだ喧騒に身を投じた。

 思えば、火の土地に赴くと決まってから今まで、剣を振るってばかりだった。
 何度も何度も振るう。何百回も、何千回でも。それが私にとって唯一無二の存在が抱く願いを叶えるためだということは、最初からわかりきっている。

 けれど、魔族と真正面から対峙し、身命を賭して巫女を守るインパ──主人以外の使命に生きる存在を前にして、私は気づいた。

 どんなに気高い戦い方をしたとしても、どんなに足掻いて生に縋りついたとしても。
 最後に失ってしまったなら、何の意味も残らないのだ。

 だから騎士は自身の全てを剣に授けて、剣は主にその存在の全てを捧げて、戦い続ける。

「未来も、可能性も。それが絶たれた後に後悔するのはとても愚かだってことも……理解しました」
「……へぇ」

 部下の告解に対して主人が返したのは氷のように美しい微笑、それのみ。
 直後、鮮やかに閃いた彼の魔剣は私の剣を突き放し、空間を広くこじ開ける。

「──なら、どうする?」
「────」

 続いたのは、あまりに短い問いかけだった。
 だがそれは、心を許した主従としてではなく──魔族長ギラヒムから、部下リシャナへ。“使う者”から“使われるモノ”へ突きつけられた問いだった。

 双方の距離は手も刃も触れられないほどに開いている。一族の長は悠然と佇み、部下の身で手を伸ばすことを決して許さないほどの威圧感を放っていた。

 私は頬を強張らせて数秒口を噤み、その鬼気に気圧された自身へ苦笑を落とす。

「一思いにお仕置き受けた方が楽だって気持ちも、少しだけありますけどね」
「フン、どうしてもというならお前の被虐体質に付き合ってあげるよ。……ただ、」

 そこで、ふと耳に届く彼の声が途切れた。
 同時に私を捉えて離さなかったはずの目が細められ、魔剣の剣先がわずかに揺れたと認識した──瞬間、

「────」

 私の髪がふわりと音もなく浮かび、鼓膜を揺らす全ての音が遮断された。
 何をされているのか、それを理解する前に視界に飛び込んできた彼の姿が全てを悟らせる。その行為が指す意味さえ、言葉もなく告げられる。

 私の首元には、主人の魔剣の刃が添えられていた。

「決めるのは、お前の答えを聞いた後だ」

 刃越しに、二人の視線が絡み合う。肌に触れていないはずの鋼の冷たさを間近で感じながら、呼吸をする自由すら奪われる。
 少しでも剣先が動けばその刃は私の皮膚を貫き動脈を断つ。さらに言えば、これは脅しですらない。答えを告げ、彼が私を使う理由がないと判断したなら、私の首は呆気なく落とされるかもしれない。
 失態を冒し、使い道すら無くなった部下がたどる当然の末路だ。

「…………」

 しかし、不思議とその刃に恐怖は感じなかった。
 それ以上の恐怖はもう既に、彼が与えた空白の時間の中で思い知らされていたからだ。

 私は呼吸を留め、無の時間の牢獄で反芻し続けた光景をもう一度だけ脳裏に映す。
 それは封印の地に降り立ち、封印が緩んだ石柱を目にした──彼の横顔だった。

 あの時、彼が何を思っていたのかは未だにわからない。あの表情を彩る感情が哀しみなのか、憤怒なのか、喜びなのか、何もわからなかった。

 それでも私はたった一度だけ目にしたその表情に、深い深い後悔の感情を抱いた。彼にとっての希望が潰えてしまっていたかもしれないという事実に心から恐怖した。
 そして、もう二度とあんな表情をさせたくないと思った。

「……何をどれだけ悩んだとしても、結果で取り返すしかないと思います。どんな手を使っても、どんなふうに生きようとも」
「────」

 結局いくらその光景を嘆こうと、悔やもうと、起きた結果だけが全てなのだから。そう戦うことが、魔の者たちの運命だ。

「だから、」

 私も、そう生きなければならない。
 私は女神の子でも人間でもなく、魔族なのだから。

「────!」

 次の瞬間。
 彼の目が、大きく見開かれた。

 そこに映り込んだ自身の姿。剣を持たない私の片手は、首に添えられた魔剣の剣先を素手で捕らえている。
 そのままそれを握り締め、引き寄せられた刃は──私自身の首元を、浅く裂いていた。

 主人の元から視線は一度たりとも逸らさない。
 刃を握る手のひらと剣先が浅く食い込む首元からは赤い血が滴り、じくじくとした痛みが泣き声を上げる。

 それでも穏やかな笑みは自然とこぼれ、大切な主人に向けて普段と変わらない“お願い”を口にした。

「──次に迷いを見せたら、殺してください」

 ギラヒム様は数瞬の驚愕に息を呑む。が、やがて小さくその表情を崩した。
 次に向けられたのは見慣れてしまった呆れ混じりの嘲笑。けれどどこか満足げにも見える、綺麗で見惚れてしまう笑みだった。

「自らに課す罰まで主人任せなんてね」
「……天邪鬼は、こうでもしないと矯正されないので」

 含み笑いをこぼし、主人は魔剣をゆっくりと引く。熱を持った痛みが巡り、質量のある赤色が首を伝った。
 それを目にしながら剣先を下ろし、彼は私の体を柔らかく引き寄せる。

「いいよ。……約束してあげよう」

 彼の唇は血が滴る私の首元へと運ばれ、一拍置いて生温い舌がそれを舐め上げる。
 脈打つ血管の存在を確かめるように冷たい唇を這わせて、静かに白い喉を震わせた。

「──“ワタシのため”の、リシャナ」

 舌と唇を部下の血で赤く濡らし、主人は艶然とした笑みをたたえる。

 主従で戦い続けるための、魔族としてこれ以上の敗北を許さないための、
 そして自分にとって一番大切なものを失わないための、“約束”を結ぶ。

 ──次なる戦場で、再び願いへ手を伸ばすために。