長編2-10_リザイン
響き渡った鈴の声音はこの瞬間、ついに私の心臓を抉った。
「────」
私は見開いた目を一度も閉じられず、震える視線を声の主の元へ持ち上げる。
そこには無骨な岩肌に白い手のひらをつき、煌めく金の髪をわずかに乱した少女がいた。
息を切らしながらも透き通った蒼色の中に陽光をたたえ、彼女は胸の上でもう片方の手を握る。
そうして赤く色づいた唇をゆっくりと解いて、
「やっぱり、リシャナ……よね?」
「…………」
少女は──ゼルダちゃんは、再び私の名を呼んだ。
何年かぶりで、格好も違う、髪も背も伸びたはずなのに。銃を手にし、敵対して、彼女の護衛人の命まで奪いかけているというのに。
彼女の呼びかけに対し、私は何も答えられずにいた。それ以前に、その蒼色に縫い留められたように動くことすら出来ない。
ただただ呆気にとられたまま、声にならない吐息だけをこぼし、そして──、
「はァッ!!」
「ッあ──!!」
気づいた時には、私の体は正面からの強烈な衝撃によって宙へ突き飛ばされていた。
拘束を無理矢理解き、気迫に満ちた唸り声と共に体の自由を取り戻したインパは、地に叩きつけられた私の身をすかさず追う。
「インパ、ダメッ!!」
次に聞こえたのは、ゼルダちゃんの裂帛の悲鳴。
辛うじて焦点の合った私の目が捉えたのは、薙刀を片手に獲物へ飛びかかろうとする獅子の姿。
燃ゆる赤の眼眸は義憤と使命感に彩られ、赤の刃は真っ直ぐに私の心臓へと向けられている。
地に投げ出された手にはもはや力が入らず、その光景だけを目にするしかないまま、私は──、
「──時間切れだよ」
「!!」
その時、振り下ろされた薙刀の切っ先は漆黒の刀身に受け止められ、鋭い金属音と共に弾かれた。
唐突に割り入ったその姿にインパは数瞬目を見開いたが、即座に印を結んで薙刀を召喚させる。だが、
「悪いが、それは見飽きてしまったよ」
「ぐァッ──!!」
ひらりと背後へ飛んだその人物は、音のない一振りで無数の薙刀の全てを両断。その剣撃は、インパの痩躯を軽々と吹き飛ばす。
地に足を着いた彼の後ろ姿を目にし、私は思わず表情を崩した。
「……マスター」
「随分手ひどくやられたようだね。……リシャナ」
「────ッ」
主人、ギラヒム様は視線だけを寄越し、私の名を口にする。
わざとらしく強調させて紡がれたその名前に、小さく息を呑む音が聞こえた。
視線を向けると、見開かれた蒼色には主従として巫女の前へと立ち塞がる私たちの姿が映っていた。
……インパとの争いを目の当たりにしながら、それでもなお私が敵であると信じきっていなかったのだろう。その希望は私が発した敬称と魔族長が交わした答えによって、儚くも霧散してしまった。
ギラヒム様は薄く唇を噛む巫女を一瞥した後、悠然とこちらへ振り返る。
「とは言えお前にしては奮闘した方ではあるか。連れて帰るくらいはしてあげよう」
「この状態で置いて行かれたら、さすがに拗ねちゃいますよ。……う、」
場違いな軽口を主人に返し、ようやく私は平静を取り戻す。興奮状態が冷めたのか全身の傷が痛みを訴え出して、私は体を庇って蹲った。
血も魔力も流しすぎて、もはや立つことすらままならない状態だ。回復兵の子にはまた大きな手間をかけさせてしまうだろう。
──しかし、この地での戦いはまだ終わっていない。むしろ、
「……君に動いていいという許可を与えたつもりはないのだがね」
「ッ!!」
低く落とされた主人の声音。続いて、指の弾ける快音が響く。
隙を見てゼルダちゃんの元へと身を引いたインパに向けられたのは、鈍い輝きを持った無数の短刀。
ゼルダちゃんを庇うようにインパは身構えるが、残酷な刃の雨から彼女を守り切ることは難しいだろう。
絶望を滲ませた巫女と戦士に対し、主人は目を細めて口角を上げる。
「逃がす訳がないだろう? ──禊を終え、生贄として使えるようになった巫女を」
軽薄な口調とは裏腹に、主人の整った顔立ちは冷え切った敵意に彩られていた。
……そう、彼の言う通りゼルダちゃんは禊を終えた。つまり、泳がせる理由がなくなった。
私たちが今からすべきは巫女──生贄を捕まえることだけ。
私の魔銃に撃たれ、主人の剣撃に穿たれたインパは全身に傷を刻み、気力だけが彼女を奮い立たせている。
魔族長とまともに剣を交わして無事で済むはずがないことなど、本人が一番理解しているだろう。
「────」
それでも赤の双眸から光が失われることはない。
薙刀を片手に携え、全身に覇気を纏い、護るべき者の前に立ち──、
「…………え?」
その背に縋っていたゼルダちゃんを、浅く突き放した。
小さくたたらを踏みながら、彼女は驚愕に目を見張る。
「インパ……まさかッ……!!」
インパは肩越しの視線を彼女へと送る。
その眼差しはとてもとても柔らかで、慈愛に満ちていて。蒼色の中に映った笑みは、ひどく穏やかなものだった。
長く親しみ見守り続けた者に、優しく言い聞かせるように。戦士は巫女へと、告げる。
「──この使命を果たすための命です」
その言葉に、少女の喉が凍り付く。同時に、余裕を保っていたはずの主人の顔にも焦燥が走った。
言葉を紡ぐ前に、ギラヒム様は魔剣を片手に地を蹴り駆け出す。
「逃がすかッ……!!」
低く唸りながら、ギラヒム様は風切り音と共に一気に距離を詰める。彼が直接魔剣を振るうそれ以前に、放たれた短刀が何の挙動も許さずインパの痩躯を撃ち抜くはずだった。だが、
「──!!」
滂沱の雨のような短刀がその身に迫った時、インパは薙刀の刃を地面へと突き立てた。
同時に彼女の足元で赤い陣が光り、残った魔力の全てがそこに集められる。離れた位置にいた私でさえ感じ取れるほどの熱が一気に凝縮されて、
「────マスターッ!!」
──視界の全てを、赤い閃光が食い潰した。
咄嗟に叫んだ敬称ごとその光に呑み込まれ、目に見える全てが明転する。轟いたはずの爆発音は、光に食われて消えていった。
「──チィッ!」
「……!」
暴力的な閃光の嵐に溺れた思考が戻ったのは、憎悪を孕んだ舌打ちが耳に届いた瞬間だった。
数度瞬きを繰り返し、ようやく元の火山の色彩を捉えた私は視界の隅に主人の姿を見つける。瞬間移動を使い、あの閃光──インパが最大限の魔力を使って起こした爆発から逃れたのだろう。
私は何の言葉も紡げないまま首を巡らせ、巫女と戦士がいたはずの場所を目にする。
そこには獲物を仕留め損ねた短刀が無造作に散らばり、地面はその表面を生々しく剥ぎ取られていた。
加え、それらは夥しい量の赤黒い塗料によって染められていて、爆発の中心地にいた術者の負傷の具合が見て取れる。
しかし、そこに人影は存在しない。
インパは自らの体も犠牲にした上で炎の力を破裂させ──ゼルダちゃんを守って、姿をくらませたのだ。
私は眼前の光景に息を詰め、動けずにいた。
そしてその硬直は唐突に鳴り響いた破壊音によって解かれ、肩を震わせてその方向を見遣る。
目にしたのは、手にした魔剣を荒々しく岩へと叩きつけ、巫女を追う戦いにおいて初めて心からの怒りを露わにした主人の姿だった。
「ッ……飼い犬の分際で……!!」
吐き捨てられた怨言は、皮肉にもこの地での決着を頭に理解させる。
巫女の気配はあの光が焼き切ってしまったかのように完全に途絶えている。ここで私たちが出来ることは、もう何もない。
「────」
白髪をかきむしる主人の姿を目にしながら、全身の痛み以上に胸中を満たす後悔に心臓が押し潰されそうになる。
罰を受けて、彼の怒りをこの身に受けて、それで済むならよかった。
だが今それをしたところで、この地で敗北を喫してしまった事実は変わらない。
──可能性のうちの一つを潰してしまったという結末は変えられない。
「……私が……撃って、いたら」
その事実は口内を満たし、喉を潰して、胸を締め付ける。
苦く、苦く、吐き気を覚える、“敗北”の味。
ここまで来て初めてそれを味わった、なんて。
どれほどまでに、私は愚かなのだろうか。
手のひらが砂を掴む感触はひたすらに無機質で、どれだけきつく握りしめたとしても、何も変わることはなかった。
*
「────」
熱を帯びているはずの風が、やけに冷ややかに感じる。
私は唇を引き結んだまま主人の後ろ姿を見つめ、主人は何かを思案しているのか魔剣を握り締めて微動だにせずにいた。
沈黙は決して長いものではなかった。けれど閉じたままの口内は渇き、すぐに歩み寄ることが出来るはずの主従の間には隔絶された距離を感じた。
だからその静寂を小さな羽音が破った時、私の頭は数瞬別世界のことのようにそれを捉えていた。
「ホーコク、ホーコク」
羽音を鳴らし、単調に一つの単語を繰り返したのは一匹のキースだった。
乾いた地に響いた鳴き声に、主従のどちらも反応を見せることはない。しかし構うことなくキースは言葉を続ける。
あまりにも単調な音声を繰り返し、それを告げる。
「マオウサマ、フーイン、イヘン、イヘン」
たった一人、魔剣の精霊だけが目を見開いて。
誰の声も、後に続くことはなかった。