幕間_大トカゲの背中に乗って
まだ色褪せる程の年月が経っていないものの埋もれていた懐かしい記憶を引っ張り出したのは、砂漠に赴けとの命が下った時だった。
特別な、というあまりにも人間じみた言葉を使うには苦労の記憶ばかりが先行してしまうが。
しかし、あの地で背に乗せた重みは今でも思い出せる。
弱々しく、すぐに振り下ろされてしまいそうな程に軽く、それでもその身に対して重すぎる宿命を抱えた体。
あれから砂漠には何度も足を運んでいるというのに、今さらになって記憶が蘇ったのはあの主従も揃って彼の地に向かうことになるからだろう。待つのはおそらく、それ相応の過酷な争いだ。
益体もない思考を巡らせていると自分でも理解していた。が、たまにはそんな無意味も必要なのかもしれない。
軍を動かす以前、束の間の一時。
──暇潰しくらいにはなるだろう。
*
「──ニンゲン、ですか?」
トカゲ族を統べる者として呼ばれた大トカゲ──リザルフォスのリザルは、自身の主に対し怪訝な声を上げた。
忠誠心は強い方だという自負があったにも関わらず、今回ばかりはそれを抑えることが出来なかった。
一族を従える長──魔族長ギラヒムが気を悪くすることはなく、むしろそれすらも滑稽だというように肩を揺する。
「八割正解」
「八割って……」
「残りの二割は我々と同じだ」
回りくどい表現ではあったが、リザルはその意味をすぐに理解する。つまり、ただの人間でなく混血だと言いたいのだろう。
半分が腑に落ちた一方、リザルは内心でため息をついた。主はおそらくイロモノというやつだとは思っていたが、所謂半端者を部下──それも側近に加えるとは。
しかも最近の様子に鑑みると、普段の行動にもそいつを引っ付け回して歩いているらしい。長い間一族でこの方に仕えているが、ここで真意を探るのは徒労でしかない。
だが、さすがにその火の粉が自分に降りかかるとなると、せめて目的くらいは告げてほしいとは思う。
その半端者の、しかも小娘を。
今回の遠征に連れて行けとの命令なのだから。
「別にお守はしなくてもかまわない。放っておいても死にはしないくらいには出来ているからね」
「はァ……」
訝しげな視線が伝わってしまったのかギラヒムは諭すように付け加える。
読みきれないその意図にリザルが生返事をこぼすと、彼は意味深に切れ長の目を細めた。
「それに、アレが必要となるのは一番最後だ」
「……?」
「アレは聖域を探し当て、その中に入れる」
そこまでを聞き、リザルの溜飲がようやく下がる。混血の人間、というのは語弊があったようだ。
──あの娘のいくらかは、空の人間と同じ女神の血で出来ているらしい。
魔族にとって聖域に入ることは自殺行為に等しい。しかしその場所を侵すことはいずれ始まる聖戦において必要不可欠な事項である。
我々の長は、そのための力を既に手にしていたのだ。
「生憎ワタシは他にやることがあってね。今回ばかりはお前たちに頼むしかないのだよ。……引き受けてくれるね?」
「……わかりました」
許可を求める口振りを見せられるが、下位の者に拒否権は最初から存在していない。リザルは一言で了承し、早々に主の元を後にした。
数日後、大トカゲは初めて、魔族の長が首輪をつけるその少女と出会うこととなった。
* * *
「……えと」
逡巡しながら彷徨う視線がなんとか目を合わせようと持ち上がったが、数秒経たずに逸らされた。
不安げな少女を見下ろし、リザルは瞳孔を細める。
実際、こうして目の前にしたその身は予想以上に小さかった。人間としては平均的なのだろうが、魔族……ましてやトカゲ族から見れば上背は体の半分にも満たない。
寄る辺なく揺れる上目遣いはしばしの時を経たのち、意を決したように真正面へと向けられる。
「リシャナです。よろしくお願いします。……リザルフォスさん」
「…………」
こんなふうに堅苦しく頭を下げられたのは何十年ぶりか、あるいは何百年ぶりか。いずれにせよなんとも据わりの悪い心地が身に襲い、顔をしかめる。
頭を下げたままの少女はどうにも扱いづらく、リザルは肩を竦めて用件だけを告げた。
「リザルでいい」
「……リザルさん?」
「さんもいらねェ。煩わしいから敬語も無くていい」
それだけ一気に言い切ると、眼下の小娘は納得したようなそうでないような曖昧な表情で頷いた。何故こんな少女を一族の長が気に入っているのか、考えても答えは出ないだろう。
魔族の血を持っているとは聞いたものの、見た目と──おそらく中身まで、こいつはほぼニンゲンの体で出来ている。
正直、気を抜いたら腕の一本でも食ってしまいそうだった。自分のようなある程度の自制が効く階級はともかく、短絡的な思考で出来ている下位の魔物は躾けておかなければいつのまにか餌として消化されていたなんてこともあり得る。
「…………はァ」
面倒事がまた増えた、と何度目かのため息をついて、リザルは目的地の地図を開いた。
行き先はラネール地方の砂漠地帯。そこにある廃採石場のうち一つだ。遠方のため数日間の旅程を組み、中規模数の軍で向かう。
通常であれば多様な種族から成り立つ魔族は、その地に適した一族から一定数兵を集めて軍を形成する。
しかしトカゲ族に限っては魔族の中でも圧倒的に個体数が多く、一種族だけで十分に軍を成せる。
加えて砂漠の気候に適した体を持っているということもあり、今回の遠征もリザル率いるトカゲ族のみが向かうこととなっていた。
目的はなんてことのない、女神の封印の破壊だ。
とは言え砂漠地帯はその気候の特殊性も相まって、想定される危険は数知れない。
主はさしたる問題は無さそうな口振りだったが、気候変動の激しい地に加え、ニンゲンの小娘のお守。……先が思いやられる旅程になるのは間違いないだろう。
悪態をつきたい衝動に駆られながら、リザルはもう一度だけ少女に振り返った。
「……ギラヒム様からお前は死なねェように出来てるッて聞いた。だからわざわざお前を庇って戦うような真似は一切しねェつもりだ。わかってンだろうな?」
「はい……じゃなくて、うん」
「……ならいい」
言葉遣いに不慣れな部分だけを見せ、リシャナは何の迷いもなく頷く。
その潔さに数瞬呆気にとられたが、それに対する言及をすることはなくリザルは背を向けた。
砂漠への出発は、それから数時間後のことだった。
* * *
フィローネの森から西の平原を抜けた後、砂漠へ進軍し続けて約五日。
出発当初の懸念事項は尽きなかったものの、ここまでの旅程は退屈と感じてしまうほどには平和そのものだった。
それもそのはず、フィローネ地方からの道中には比較的温厚な種族しか生息をしておらず、他種族や亜人からの襲撃を受けることは滅多にないからだ。
そうでなくても、一目見てそれなりの規模だとわかる魔族の一団を襲う身の程知らずはまずいない。
見える景色が徐々に煙り始め、淡黄色の砂原が目立ってくれば、いよいよ本格的な砂漠地帯へと差し掛かる。吹く風は埃っぽくなり、砂漠特有の乾燥した空気が纏わり付いてきた。
旅程通りならばあと二、三日で目的地にたどり着くはずだが、ここから先は砂漠に住む亜人や精霊の監視下に踏み込むこととなる。平原に比べ、敵の襲来の可能性も高くなるだろう。
一行は警戒を高めたまま、砂に塗れた渓谷をひた走っていく。
「わ……」
大きく開いた目に果てしない砂海の景色を映しながら、リシャナの口から感嘆の声が漏れた。
一族の下位の者たちが引く大型の荷台。そこには武器のほかに食料や魔石が積まれ、日差しと砂風を防ぐための簡素な屋根が備え付けられている。リシャナとリザルは、その中にいた。
もの珍しそうに布の隙間から外の世界を覗くリシャナをリザルの大きな瞳が見遣る。
「ンだよ、ラネールは初めてか?」
「あ……うん、初めて。オルディンにまでしか行ったことなかったから」
「……ま、砂漠はフツー人間が行くとこじゃねェしな。あとギラヒム様が滅多に行きたがらねェッてのもあるか」
リザルが言い加えた言葉に、表情を変えないよう努めながらも同意の色が浮かぶ。
おそらく主はこの部下を単身で他地方へ向かわせたことがないのだろう。
事実だけを客観視すれば過保護とも言えてしまう待遇だが、基本的にフィローネ以外の土地は人間が一人で出向いて易々と帰ってこられる場所ではない。せっかく手にした女神の血をそんな形で失わせないために出していないというのがおおよその理由だろう。
話している間にも飽きず布の隙間から外を窺っていたリシャナへ、リザルは再び口を開く。
「あンまり顔出してッと砂まみれになンぞ。この先水浴びも出来ねェし、どうなっても知らねェかンな」
「……!」
投げやりな忠告を耳にしリシャナは慌ててそこから身を離す。その姿を一瞥し、リザルは頭を掻いた。
……好奇心の塊というか本能に忠実というか、ここ数日眺めていた様子に鑑みてもやはりただのニンゲンの小娘としか思えない。
ラネールに着く前にその実力を見ておきたかったが、結局この小娘の使い方を考えるのは現地に到着してからになりそうだ。
何度か拠点で主と手合わせをしているところを目にしたことがあるが、魔族であるリザルから見てもその蹂躙され具合は無慈悲で一方的なものだった。それこそ、過去同じような立場についていた部下であれば逃げ出して──殺されてしまうほどに。
リシャナは名残惜しそうに布から身を引いた後、鞘に収まった魔剣を両手に抱えて所在なさげに縮こまる。
抱えられた刀身は細身ではあるが、彼女の身長からするとやけに大振りに見えた。
「────、」
その時、がくんと急な制止がかかり、荷台全体が大きく揺れた。
「……止まった?」
慣性に振られて前方へつんのめったリシャナが顔を上げる。
リザルは先ほどのリシャナと同じように布の隙間から外を覗き、その疑問の答えを返した。
「あァ、こっから先、時空石を積ンでかねェと何かと不便だかンな。ちょうどこの辺にちっせェ採掘場があッから調達して出発すンだよ」
「……時空石?」
「ンあー……それも知らねェのか」
少女の無知に思わず嘆息がこぼれる。
リザルは長い爪を振ってリシャナを呼び付け、自身が見遣っていた景色を指差した。
荷台の外では下っ端のリザルフォスたちが砂や岩壁に埋もれた鉱石を掘り出している最中だった。
薄茶色の砂岩の表面を削れば深い青色の石が姿を現し、その透き通った輝きにリシャナの目が奪われる。
「ここで採れる鉱物だよ。でけェ衝撃を与えるか魔力を込めれば周囲一帯の時間がさかのぼる」
「え……時間が?」
「ああ。つッてもどれくらい昔にさかのぼンのかもわかンねェし、広範囲で作用させるにはそれなりの大きさが必要だから使い勝手は悪ィケドな。魔力が保つ間しか使えねェし」
それでも土地のほとんどが砂に埋もれ、流砂の多発する砂海を越えるためには、時空石の機能が必須になるとリザルは加える。
特殊な性質を持つ鉱物ではあるがこの地では比較的豊富に採集が出来るため、わざわざ持ち帰ることはせず現地調達したものを使うのが定例となっていた。
「そう時間はかかンねェよ。それより、こっから先は戦闘になる可能性が一気に上がッからな。お前も呑気にしてねェで準備──」
しておけ、と続くはずだったリザルの言葉は、轟音によって掻き消された。
途端、薄暗かったはずの荷台内には外からの強烈な光が差し込み、視界が白一色に明転する。
即座に異変を察知したリザルは視界を取り戻す前に荷台の外へと飛び出す。それと同時に地を踏みしめた足裏に不自然な感触が伝った。
「……!?」
柔らかな砂上に着地したはずなのに、踏みしめたのは砂より固く安定した地面。──青々とした草むらの上だった。
それどころか、辺り一面の景色は別世界に塗り替えられたかのように生命が色づく平原へと姿を変えている。
何が起きているのか、その答えは視線を走らせればすぐさま飛び込んできた。
「リザル、何が……、……え?」
遅れて荷台から降り立ったリシャナが変わり果てた外の景色に目を見開き、次いでリザルが睨む先に視線を注ぐ。
そうして二人の目が向けられた先では──岩壁が削れて剥き出しになった巨大な鉱石が、鮮やかな青の光を放っていた。
「あの時空石、作動してやがる……!」
「……!」
数分前に少女へ説いた内容を準えるかのように、鉱石──時空石を中心として周囲に過去の光景が広がっている。
その鮮烈な青の光を凝視したまま、リザルの口から反射的な疑問符が落ちた。
「誰の魔力だ──?」
作動している時空石は大型のリザルフォスが三体集まってようやく持ち上げられるほどの大きさがある。あれほどの規模の石を作動させるためには、それ相応の膨大な魔力が必要だ。
この場にそれほどの魔力を持つ魔物は存在しない。通常魔術を使わないトカゲ族はもちろん、傍らの半端者の少女にも不可能だ。そうなれば──、
「──あれは、」
リザルが巡らせていた思考は、耳に飛び込んできた駆動音と続く苦鳴によって断ち切られる。
その方向を見遣れば、前線に出ていたリザルフォスたちが大量の鉄の塊に囲まれていた。
青い網膜のような窓を持つ大小さまざまな鉄の箱は、温度の感じられない意志を持ち、じりじりと獲物の元へにじり寄っている。
「リザル、あれ、敵……!?」
「あァ、ここらの監視用のロボットだ……!」
「ろぼ、っと……」
リシャナは初耳の単語をたどたどしく繰り返すのみで、その詳細を求めようとはしなかった。あれが何であろうと、こちらへ敵意を向けているという事実に変わりはないからだ。
一方でリザルは目先の光景に違和感を覚える。
本来、監視用ロボットの大半は採石場内部でしか稼働していないはずだ。それが砂漠の入り口で、ここまでの数に偶然出会すことなどあり得ない。
その間にもリザルフォスたちは武器を持ち、無機質な鉄の塊へと立ち向かっていく。だが、
「────ぁ、」
一筋、まばゆい閃光が駆けた瞬間。落ちたのは少女の言葉になりきらなかった声だけだった。
その見開かれた眼眸には、先陣を切ったはずのリザルフォスたちの影がロボットの放った白い光に掻き消され、一瞬にして塵芥に帰す様が映り込んだ。
反射的な激情を宿し、リシャナは魔剣を片手に一歩を踏み出す。
しかし、それ以上の進行は傍らの大トカゲによって制された。
「向かうな」
「──!」
低く咎めるリザルに向かって、リシャナは視線で戸惑いを訴える。それに返されたのは冷え切った鋭い眼光だった。
「お前が行って何になンだよ。真っ二つの死体が余分に増えるどころか女神の血が無くなッちまうだけだ」
「……っ、」
酷薄な正論に言い返せる言葉は見つからず、リシャナは唇を噛む。
魔剣の柄を握り締めて踏みとどまった少女を一瞥した後、リザルは魔族を蹂躙する機械の群れへと視線を寄越した。
「それに、すぐ決着はつく」
リザルが告げた言葉にリシャナが顔を上げると、ロボットたちは倒れ伏したリザルフォスたちの亡骸を越えようとしている最中だった。
同時に、リシャナはその地面が鮮血の他にぬめりのある黄みがかった液体によって濡れていることに気づく。
二つに分かたれ、地に堕ちた体躯から──正確に言えば、その懐から流れ出た液体を認識しているのは、後衛のリザルフォスのみ。
ロボットたちがそれに気づかず距離を詰め、その大半が液体の上に立たされた──瞬間、
「────!!」
最前線に出ていたリザルフォスのうち一体が大きく手を振り、呼応するようにもう一体が地に向かって火を吹き付ける。
おびき寄せられたロボットたちは、一瞬にして燎原の炎に捕らわれた。
亡骸となったリザルフォスたちの懐から流れ出ていたのは、大量の油だった。それを理解した時、リシャナは前線に出ていた兵隊たちが捨て身の覚悟で敵に向かっていたことを今さら思い知る。
感情を感じられないはずの鉄の塊たちは、辺りを囲む真っ赤な炎へ動揺を示すかのようにじりじりと後退する。
そうしている間にも大トカゲたちは逃げ道を塞ぎ、獲物を取り囲む。無機質な光の信号がそれを認知したが、あまりにも遅い。
その様を見据えていた魔の獣──トカゲ族の頭は、たった一言だけ命令を下した。
「──掻き食らえ」
鉄の塊を噛み砕く咀嚼音が、緑の地へと響き渡った。
* * *
ロボットたちが制圧され、時空石に込められた何者かの魔力が尽きたのち、魔族の一行はもとの砂原へと舞い戻った。
予期せぬ形での襲撃による被害は大きく、負傷者の手当のためその日はその場所に留まることとなった。
鉱石の発掘にあたっていた下っ端の話によると、突如発生した落雷があの巨大な時空石を貫き、時間遡行が起こったらしい。
いくら砂漠の気候が変わりやすいとは言え、何の前触れもなく落雷が起きるというのはあまりにも不自然すぎる。
偶然とは思えない、何らか存在の意図を感じリザルは瞳孔を細めた。
「────」
リシャナがリザルのいる野営地へ帰ってきたのは夜が更けた頃だった。
作業や治療の間、特に出来ることがなかった彼女には自由な時間が与えられていたが、戻って見せたその顔に依然生気は感じられなかった。
焚き火の前で一人携帯食を貪るリザルの隣へ、無言のままリシャナは腰を下ろす。
「……吐いたンならその分腹に入れとけよ。日が出たらあっという間に干からびるぞ」
「……うん。後でちゃんと食べる」
離れていた間彼女が何をしていたのか見透かしたリザルは素っ気なく言い捨てる。リシャナは小さく首を振り、両脚を抱えたままじっと目の前の炎を見据えた。
その頬は未だに青ざめて見えるが、時間が経って幾分かの平静は取り戻したらしい。
リザルは少女の横顔に一度視線を送った後、数秒の沈黙を経て静かに口を開く。
「……お前、なンでギラヒム様に従ってンだ?」
「え?」
ふと投げかけられた問いに、リシャナが目を丸くして顔を上げる。唐突に向けられた質問の、意味ではなく意図がわからないといった表情だった。
対し、リザルは無感情な表情を保ったまま続ける。
「あの人から逃げたくても逃げらンねェッてのは知ってるからいい。聞きてェのはお前が何で正気を保ってられるかッてとこだ。……捕虜にされるヤツも、自分から身を落としたヤツも、結局はぶっ壊れンのがオチだったからな」
「…………」
それはリザルがこの少女の存在を知ってから、ずっと抱いていた疑問だった。
トカゲ族が現魔族長に付き従い始めてから数百年。傍目にではあるが、側近と言うべき存在は今まで何人も見てきた。──文字通り使い潰され、切り捨てられるというその末路までも。
トカゲ族のように一族として長く従っている者は一定数存在する。しかし側近となると話は別だ。
力による支配が全てである魔族の最上位に立ち、自身の悲願のためには手段を選ばない現在の長。ある程度の力を持った者ですら、長きに渡ってその傍らに立ち続けることは叶わなかった。
この少女の場合、空の人間の血を持っているという特異性の分の重宝はされているのだろう。
それでも味方の命が屠られる瞬間にすら慣れていない脆弱な人間が、ここまで狂いもせず五体満足で生き残っているのは奇跡と称しても過言ではない。
「────」
リザルの言葉を聞いたリシャナは、しばらく口を噤んだまま爬虫類特有の大きな瞳を見つめていた。やがてその視線は目の前の炎の元へと戻る。
「……たしかに、壊れるかもって時がない訳じゃないけど」
そして彼女はただ一点を見つめながら、小さく唇を震わせる。
「──私は、ギラヒム様のために生まれたから」
「────、」
その断定された響きに今度はリザルが言葉を詰まらせた。
……おそらく、これ以上の言及は意味がない。
そう思った理由は困惑でも諦めでもない。歴然たる事実を語っているという圧力が、彼女の声音に込められていたからだ。
一拍置き、リザルは頬杖をついて小さく息を吐く。
「……変な人間だな、お前」
「……それ、空にいた頃もよく言われてた」
「よっぽど変ッてことだろ」
「傷つくなぁ……」
「別にいーだろ、魔族はそーゆうモンだ」
そう何気なく返すとリシャナが何に驚いたのか数瞬目を見張る。が、言葉を口にすることはなく、彼女は抱えた両膝の上に顎を乗せた。
それから数分、時折火が弾ける音を耳にしながら二人の間に沈黙が訪れる。
砂漠の夜が空気を徐々に冷やしていった頃、微かな呼吸音が静寂を断った。
「リザルは、」
「ンあ?」
「……なんでギラヒム様に従ってるの?」
数百年生きてきて初めて向けられた問いかけに、リザルは刹那返答の声を失った。が、答えない理由もさして思いつかない。
リザルは吐息を逃がした後、星一つ見えない天を仰いで切り出した。
「俺がッてより一族として恩があンだよ。ッてのと……純粋に、強ェからだな」
「……強いから?」
「あァ。つうか、ほとンどの魔族がそーゆー理由で従ってるだろーケドな」
告げられた答えに数度瞬きを繰り返すリシャナ。リザルはその表情を横目で軽く睨む。
「単純だと思っただろ」
「え、お、思ってないよ」
「別に怒ってねェよ。それが魔族の本質だかンな」
一旦区切り、リザルは側にあった長い木の枝で焚き木をつつく。盛る炎が揺らめきを見せ、明るさが増した。
「……お前、魔族が何のために戦ってるか知ってッか」
「…………魔王様のため?」
「間違ってはねェな。ケド最終的な目的はそこじゃねェ」
当然だが、人間の少女からそれ以上の答えが出ることはない。
片目をつむり、リザルは解答を紡ぐ。
「──大まかに言やァ、『生きるため』だ」
その答えを耳にしたリシャナから返ってきたのは、予想通りの驚きと疑問の空気だった。
リザルは意味を問われる前に、言葉を継ぐ。
「持ってる意識の差はあッケド、魔族の本能は人間から見たケモノとそう大きく変わンねェ。土地の侵略も子孫の繁栄も、結局は『生き続ける』ための過程にすぎねェンだよ」
魔族──魔物と呼ばれる獣と亜人、精霊が成す一族の本質は非常に動物的だ。
彼らは同種で集まり小さな共同体を作ることはあれど、人間と同じような社会を築くことはまずない。作るとすれば、魔王軍のように利害関係で結ばれた組織のみだ。
稀に強い自我を持ち、絶対的な支配者になることを目論む者も現れはするが、結局生存競争を勝ち抜くための力がなければ強者によって淘汰され、呆気なく芽を摘み取られる。
──故に、生きる手段として上位の者へ従うのは当然の摂理で、目的を達するためもっとも明白で確実な道筋を彼らは選び取る。
『生きるため』に強さが必要で、それを得るために戦い、知恵を使い、時に奪う。──実にシンプルな考え方だ。
「……だから、言っちまえば『魔王様のため』ッてのを最終目的にしてるギラヒム様は、魔族の中でもかなり特殊なンだよ」
「────」
不意に出された自身の飼い主の名にリシャナが頬を硬くする。
その瞳に走る複雑な感情の色を見据えながら、リザルは続けた。
「お前もわかってンだろ。あの人にとって一族は……魔族は、いずれ魔王様が座るための椅子でしかねェンだ」
それは口で証明せずとも、彼の傍らで戦う彼女が最も感じている事実だった。
上位に立つ者である以前に、魔族である以前に、自身が持って生まれた使命に従い彼は行動する。
数千年前に一族の王が封印されたその時から、今まで。彼は空席のままの玉座に一度たりとも座ることはしなかった。
彼が『長』という役目に持つ意味は、いずれ帰還する王の場所を守るための地位。そしてその王──彼の主のために有用である手段の一つ。それだけだ。
もし仮に自身の主の復活に一族が必要ないと判断したならば、彼は迷うことなく魔族長の座を降りるのだろう。それは下に付く者からすれば、身勝手と言えてしまうほど一方通行な考え方だ。
「──ケド俺らは……ッてか、俺ァそれでいいと思ってる」
「…………、」
そう言い切ったリザルに対し、リシャナの双眸が震えた。少女の形容しがたい感情を内包した視線が大トカゲへと注がれる。
「むしろそうあるべきだと思ってる。あの人が魔王様を復活させるために俺らを最大限利用すること。そンで、魔族の王がもう一度俺らの頂点に立つこと。──それが一族にとっての最善だからだ」
存在に刻まれ、極限にまで研ぎ澄まされた絶対的な忠誠心。永劫の時を経てもそれは折れることなく、彼は魔族を統率し続けてきた。
妄執とも呼ぶべきその意志と、圧倒的な力。王無き間にも廃れることのなかった一族の系譜が、明白にそれらを証明している。
──魔族が本能に忠実な一族であったとしても、反感を抱ける者などいるはずがない。
「あの人の統率はある意味ブレねェ。力と利害関係で結ばれた一族の長としてはこれ以上にないッてくらい適任だ。……俺の主観だケドな」
そこで一度言葉を区切り、大トカゲは両の眼で少女を──魔族長が首輪をつける現在の『部下』を見つめる。黄色の目の中に灯る感情は限りなく無に等しいようで、仄かな憐憫が見え隠れしていた。
「だから、お前のこともその時が来りャ容赦なく使い潰すハズだ。聖戦が始まれば、ほぼ間違いなく」
「────」
「それまでに死なねェよう、せいぜい器用に生き延びとけ。たぶん、ここまで来りャ逃げ出しちまうよりその方が楽に死ねるだろーよ」
数百年もの時、彼に従い続けてきた魔物は少女に対しそう結ぶ。その言葉を受け止め、リシャナはゆっくりと視線を下ろし、両膝を抱える手を強く握った。
「うん。……頑張る」
噛み締めたままだった奥歯を離し、リシャナはそれだけを口にする。……そう、口にすることしか出来なかったのかもしれない。
彼女が自身の行く末を逃げようのない宿命だと捉えたのか、立ち向かうべき運命だと捉えたのか、それだけが最後までわからなかった。
そこで話は終わると思われたが、ふとリシャナがリザルの顔を覗き込むように首を傾ける。
「……リザルって、」
「あ?」
「…………何でもない」
「ンだよ、気色悪ィな」
歯切れの悪い言葉だけをこぼして、今度こそリシャナは唇を結ぶ。
先ほどまで白かったはずの頬には、ほんのわずかに温度が戻っていた。
* * *
その三日後。一行はついにラネール砂漠の西部に位置する廃採石場へと到着した。
先日の襲撃の結果、何者かが魔族の動きを察知している可能性が高いという推測は容易に立てられた。おそらく、採石場内部でも女神の封印を護るための体制が敷かれているだろう。
リザルがリシャナと下位のリザルフォスたちへ告げた作戦は以下の通り。
まず、下位の兵が正面から採石場に踏み入り監視の目を引きつける。
その間、リシャナとリザルは別の出入り口から内部へ侵入をし、女神の封印を探す。
長年の間放置されている廃採石場は地盤が脆く、沈下や崩落が発生する可能性が非常に高い。万が一地下へ潜っている最中に大規模な崩落が起きてしまえば何の抵抗も出来ず全滅という可能性もあり得る。
そのため周囲の異変を感じたら、目的の達成有無を問わず即座に脱出するということは全員の共通事項として言い渡された。
「……本当にこの大きさで中くらいの施設なの?」
「そーだよ。砂漠の東側の錬石場はこンなモンじゃねェぞ」
「そうなんだ……」
広大な採石場の規模に呆気に取られるリシャナと、平然としたリザルが見下ろす先。そこには地面を几帳面に切り抜いたような長方形の穴と、その中に建てられた巨大な施設があった。
先発隊のリザルフォスたちは既に施設の入り口を開放するための時空石を作動させており、青い光が瞬いて見える。
そうして施設内に押し入った同族たちを見送った後、リザルとリシャナもトロッコ用の線路が伝う通用口から内部へと侵入した。
「…………、」
採石場内を目にしたリシャナの驚きはさらに大きなものとなった。
砂にまみれ生命が発達しづらいはずの環境であるにもかかわらず、砂漠に立つこの施設の内部構造は複雑に入り組んだものだった。
ラネールに数ある採石場の中でも初期に造られ早々に作動を停止した施設だとリザルは話していたが、リシャナの目から見てもわかるほどに高度な技術を用いたと思われる機械があちこちに点在している。
その技術の発達具合はリシャナがこれまで訪れた地──フィローネやオルディンと比べたら勿論のこと、人間が住まうスカイロフトをも超えているかもしれない。
だが、神はいつまでも未知への感動に浸らせてはくれなかった。
「──!」
封印に向けてひたすらに足を進めていた二人の前に、砂漠で対峙したものと同じロボットたちが立ち塞がる。
一つ目のように見える球面には赤い光が灯り、強い警戒が否応なく向けられた。
「やっぱりいやがッた……!」
リザルが舌を弾き、リシャナは魔剣を抜く。
そして言葉を交わさないまま、事前に打ち合わせていた通りの判断を下し──ロボットたちを一切相手にすることなく、二人は正面へと突撃する。
判断の回路に遅れが生じたのかロボットたちは横にすり抜けた二人の姿を一瞬見失い、数拍置いて後を追い始める。
少数での侵入になるため全ての敵を相手にはせずとにかく封印の場所までたどり着く。それがリザルとリシャナの間で交わされた作戦だった。
「おい、本当にこっちで合ってンだろうなッ!!」
「た、たぶん……!」
迫りくるロボットを尻目にリザルが声を荒げ、リシャナが息を切らしながら返答する。
生物よりも単純な思考回路で出来ているはずの機械の群れからは、この先へ行かせまいという確固たる意志が感じられた。
「ど、どんどん増えてる……!」
「機械のくせにしつッけェなこいつら!!」
進む道の先から現れる小型ロボットたちを、リザルは大振りの片手剣を使い、リシャナは魔剣を振るって迎え撃つ。
隙さえ突かれなければロボットたちは刃の一振りで捌くことが出来るが、その数はねずみ算式に増えていく。とどまらぬ数の暴力に二人の足は止まりかけてしまった。
「チッ……一旦さがってろ!」
「!」
背後を睨み言い放ったリザルが、一度足を止めロボットたちの方へと振り返る。
迫り来る機械の群衆に対し彼は背を逸らして大きく息を吸い──、
「はァッ────!!」
勢いよく、灼熱の炎を吹き放った。
周囲の温度を一気に跳ね上げるほどの火力を持った業火は壁となってロボットたちの行手を阻む。
「す、すごい……!」
「ボケッとしてねェで先行くぞ!!」
傍らの大トカゲの本気を垣間見て呆然としているリシャナを叱咤し、リザルは再び走り始める。
リシャナの血が指し示す道標を頼りに、二人は採石場の奥へ奥へと突き進んでいく。
やがて二人は大きな通路を抜け、一際広い空間へと踏み入り足を止めた。
「……まじか」
一瞬、目先に広がっている光景を見て砂漠に舞い戻ってきたような錯覚に二人は捉われた。
だが、そこは紛れもなく採石場の空間のうち一つ──大量の砂に埋もれた大広間だった。
「リザル……!」
「……!」
加え、待ち受けていたのは空中に浮かぶ小型のロボットたち。
青の一つ目が誘い込まれた愚かな侵入者たちを見下ろし、背後からは先ほど巻いた追っ手の駆動音が聞こえてくる。
空間を満たす砂は目で見るだけではその深さがわからない。下手に足を取られれば底なし沼のように呑み込まれてしまう可能性すらある。
ここまで来ての、八方塞がり──。端的に状況を示す言葉を浮かべ、リザルは口内のザラついた砂を噛む。
その時、傍らのリシャナがはっと息を呑みリザルの方へと振り返った。
「リザル、封印、たぶんこの砂の下だ……!」
「ンな……!?」
女神の血が指し示す道なき道をリシャナが叫び、リザルが驚愕に目を見開く。
しかしその詳細を問う時間は彼に与えられない。にじり寄るロボットたちが獲物を焼き切るための光を集束させ始めていたからだ。
「──目一杯息吸って止めとけッ!!」
「!!?」
四方から光の一斉放射を浴びる、その瞬間。
リザルは咄嗟にリシャナの体をひっつかみ、砂の沼へと飛び込んでいた。
重量のある大トカゲの体躯は柔らかな砂にずぷりと沈み、蟻地獄に落ちるかのように呑み込まれていく。
光が地面を焼いた破壊音は、砂の壁に掻き消され二人の耳には届かなかった。
*
「…………、……おい」
「…………」
「おい……、…………死んでねェよな?」
ぺちぺちと冷たい何かが頬を叩く。
夢遊状態で彷徨っていた意識はその感触に引き寄せられ、やがてうっすらと瞼が持ち上がる。
「……りざる?」
仰向けに倒れていたリシャナの視界には、黄色い両眼で自身を見下ろす爬虫類──リザルの姿が映り込んだ。
緩慢に視線を巡らせれば彼の背後の天井からはさらさらと細かな砂の粒が降り注いでおり、自身の体も大量の砂を纏っていることにリシャナは気づいた。
おぼつかない思考を徐々に覚醒させながらゆっくりと上体を起こす。次いで辺りに広がる光景を視界に映し、その両眼を大きく見開いた。
「湖……?」
そこにあったのは今まで目にしてきた砂や岩と全く異なる、澄んだ水に支配された景色だった。
薄暗くだだっ広い空間はそのほとんどが水に満たされていて、空気は冷ややかな湿気を帯びている。
「さっきの部屋の、砂に埋もれてたその下に地下へ抜ける穴が開いてたらしい。地底湖ッてとこだな」
よく響くリザルの声がこの場所について簡潔に言い表す。彼はそのまま水辺へと足を進め、リシャナも彼の背を追った。
「潮の匂い……海水か。昔この近くにあった海の水が流入して湖になったンだろ。ほったらかされた廃採石場じゃ珍しくねェって聞いたことがある」
リシャナにとってまたしても馴染みのない単語が出てきたが、海という言葉には聞き覚えがあった。たしか騎士学校で読んだ本に載っていた、果てしなく続く大きな水溜りを指す言葉だったはず。
地上では水の存在など一欠片も感じられなかったはずなのに、こんな景色が鼻先に広がっていることにリシャナは心の底からの驚嘆を覚える。
……が、今は大地がつくりだした神秘の光景に感動している場合じゃない。
リザルに倣い辺りを見回していると、湖の中心へと伸びる一本道が目に入り、その先にあるものに気が付いた。
「あれ……封印?」
リシャナがそうこぼし、リザルもその方向に首を捻る。
湖のほぼ中心に位置する小島。そこには聖母を象った女神像が佇んでいた。
両手には淡い青の光を放つ宝玉が抱えられており、女神像を覆うように周囲の景色がほのかな色彩に染められている。
つまり、この場所は聖域でもあるらしい。
封印の効力自体は長年の時を経て弱まっているらしく、純粋な魔物であるリザルも気分は悪そうだが問題なく立っていられるようだ。
「加工した時空石が埋めてあンな。たぶん、封印が持つ間は時空石の効果も切れねェよう細工してやがる」
そこまで口にし、不意に顔をしかめたリザルが舌打ちを落とした。
「……よっぽど、この採石場の持ち主は侵入者をもてなしたいらしいな」
「え?」
「見てみろよ」
皮肉を嘯きながら、リザルが顎をしゃくって女神像の真上を指し示す。
リシャナが目を遣ると、天井には女神像の宝玉と同じ色彩を放つ時空石が埋め込まれていた。それは一カ所だけでなく、この空間の天井全体に散りばめられている。
「おそらく封印を壊せば時空石の効力も切れて、ここは砂に沈ンじまう。……下手すりャ、この施設丸ごとな」
「……え、」
リザルが淡々と口にした驚愕の憶測にリシャナの喉が凍り付く。
耳にするだけでは信じがたい仮説だが、女神像の背後から伸びる大型の支柱と天井に張り巡らされた鉄の柱がそれを物語っていた。
「……なら、どうやって、」
「決まってンだろ」
喘ぐように息をこぼしながら問いを向けようとしたリシャナの口を、リザルの単調な声音が遮る。
一拍置き、リザルはさも当然かのようにその答えを告げた。
「──お前がこッから逃げた後、俺が封印を壊すンだよ」
「……!!」
「ほぼ機能が残ってないっつッてもあれに近づきゃ俺もただじゃ済まねェだろうが……ま、一発くらいなら入れられンだろ」
彼はおどけるように言い切ったが、それに対しリシャナが笑うことなど出来るはずがなかった。
つまりそれは──封印を壊すことと引き換えに、リザルを犠牲にするということを意味するのだから。
「……私が、封印を壊せば……もう少し逃げる時間が稼げ、」
「間に合わねェよ。お前じゃ砂に足取られてる間に一瞬で生き埋めだ」
苦し紛れの反論は、冷たい正論に呆気なく一蹴される。
息を呑み押し黙るリシャナに対し、リザルは真正面から獣の眼差しを向けた。
「『同族の生き死にに一喜一憂する暇があるなら、武器を持て。戦いが終わるまでは』。……ギラヒム様から聞いてンだろ?」
「──っ、」
リザルが謳うそれは、魔族として生きることとなったリシャナが最初期に主から命じられた言葉だった。
加えその言葉は、魔の者が皆一様に持つ共通認識でもあった。
「トカゲ族の奴らもそれは理解してるからお前が恨まれたりはしねェよ。……むしろお前が死んだら貴重な女神の血が無くなッちまう。お前はまだ魔族にとって使われなきゃならねェ存在なンだ」
人間同士が交わす相手の命を尊重するための切なる言葉ではない。ただの現実、ただの事実確認だ。
それ故に、リシャナが返せる反論は何も無い。──そして、
「──お前がギラヒム様のために生まれたンなら、あの人がいねェ場所で死ぬことは絶対に許されないはずだ」
「────」
最後に、リザルはリシャナにとっての核心にたどり着く。
それを告げられたなら、この少女は何も言い返せなくなる。そうわかった上でリザルは容赦することなく事実を言い捨てた。
リシャナは血が滲むほどに唇を噛み、爪が食い込ませて両手を握り締める。
行き場を失ったかのように視線を彷徨わせ、変わらぬリザルの意志にゆっくりと瞼を下ろして、
「…………でも、」
一つ、言葉を落とす。
目を細めたリザルに対し、リシャナは再び瞼を開いて視線を向ける。
「リザルは、まだ生きてる」
黄色の目が押し開かれ、少女の姿が映り込む。
眼前の獣に気圧され、肩を震わせながらも、その視線は一度たりとも逸らされない。
「私の戦う理由も尽きてないけど、リザルの戦う理由だってまだ尽きてない」
そこで一度区切り──魔族の少女は、続けた。
「──『生き続ける』のが、魔族の戦う理由なんでしょ」
数秒、澄んだ水の世界に張り詰めた静寂が訪れる。
それを弛緩させたのは、気の抜けた盛大なため息だった。
「ンあー……、ホント調子狂うなァお前……」
だらりと項垂れ、リザルは長い爪で頭を掻く。
その様子にリシャナが戸惑いを見せていると、彼はゆっくりと首をもたげた。
「……一つだけ、可能性は下がるが二人揃って生きて帰れる方法がある」
「……!」
「かなり危険な上に二人してお陀仏ッて可能性のが断然高ェ。お前にも死ぬ気で働いてもらわなきゃなンねェしな」
リザルの目はリシャナを真正面から捉え、それでもやるのかと言外に問う。
対するリシャナは顎を引き、唇を解いて、
「大丈夫。私はギラヒム様のために死なないし……それにリザルは、」
小さく口元を緩め、不敵な笑みを見せた。
「こんなとこでしれっと死んで納得しなさそうだし」
「……はッ、」
初めて向けられた少女からの挑発混じりの軽口に、リザルは肩を揺する。
そして獣の眼を細め、鋭い牙を剥き出しにした凶悪な笑みを浮かべた。
「──言ってくれンじゃねェか、クソガキ」
やがて女神像の佇む小島まで二人は足を運び、リザルから作戦が告げられる。説明されたのは、本人が言った通りかなり運任せで無謀とも言える内容だった。
だが、リシャナが迷いを見せることはもうない。
魔剣を手にし、決然とした表情のまま女神像の前に立つ。
「────」
封印の影響を受けない位置からリザルがその背を見守り、リシャナは剣先を天へと掲げる。
これから始まる死の影からの逃走劇をもう一度だけ反芻し──息を止め、一気に刃を振り下ろした。
「──乗れッ! リシャナッ!!」
甲高い粉砕音が鳴り響いた直後、初めて名前を叫ばれリシャナはすかさず踵を返す。
自身を待っていた大きな背中に彼女が飛び乗った瞬間、リザルは地を蹴り付け勢いのまま走り出した。
普段抱えている防具や武器に比べれば、背に乗ったその体は拍子抜けするほど軽く思えた。
「──!!」
同時に空間全体に轟音が響き渡り、天井に巨大な亀裂が走る。
一拍置いた後、凄まじい崩壊音と共に天井が破れ、大量の砂が溢れ出してきた。
降り注ぐそれは、二人の体どころか湖を丸ごと呑み込んでしまう滝のようで──、
「今だ!! ブン投げろッ!!」
「──るぁッ!!」
リザルの掛け声と共にリシャナが唸り声を上げ、天に向かって赤黒い石を投擲する。
併せてリザルが一気に肺を膨らませて炎を吹き付けると、その石──火の魔石が空中で酸素を食らい、爆発した。
降り注ぐはずだった砂の豪雨は魔石が起こした爆風により吹き飛ばされ、四方に飛び散る。
その間にもリザルは地を駆け続け、二人は湖を脱出して地上へと続く通路を潜り抜けた。
「いいか!! お前のこと気にして走ってたらすぐにあの世行きだ!! 振り落とされンなよッ!」
「うんっ……!」
砂が降り注ぐ地底湖は脱出したが、今だ建物全体は地響きを立てながら大きく揺れている。
女神像に護られていたあの支柱が、採石場全体を支えているというリザルの予想はやはり当たっていたようだ。
時折砂に足をとられながらも大トカゲは地を踏みしめ石の道を走り続ける。少女を背に乗せながら、ただただ外の世界を目指し駆け抜けていく。
「──!」
そうして何本目かの通路を抜けた直後、一直線に伸びる通路の先に三体の飛行型ロボットが現れた。
逃げ場のない狭い一本道で、それらを避けて通ることは不可能。相手をしない限りそこを抜ける手段はない。
「ッとに、食い潰してやりてェのによ……!」
迫る崩壊の音を聞きながらリザルが悪態をついた、その時だった。
「リザル、そのまま走ってて」
「ア……?」
背後からリシャナが声をかけ、背に乗せた体重が移動したのがわかった。
その意味を飲み込む前に、リザルは言われた通り速度を落とさず駆け続けて──、
「────ッ!」
三つの剣閃が頭上で光り、金属の体は音もなく真っ二つに分かたれる。
リシャナは魔剣を収めた途端バランスを崩し、慌ててリザルの背中にしがみついた。
「ンだよ、そこそこやれンじゃねェか!」
「や、やれてよかった……!」
背から転げ落ちかけた恐怖に青ざめるリシャナへ、リザルが素直な賛辞を送る。
──その太刀筋は、未完成ながらも主のものにとてもよく似ていた。
「──あと少しで外だッ! スピード上げンぞ!!」
「わかった……!!」
声を張り上げるリザルにリシャナが頷き、砂で霞む道の先へと突き進む。
走って、走って、走って、そして──。
一人と一匹は、光が差すその果てへと飛び出した。
*
大穴の中に建っていた広大な施設は、激しい砂煙を巻き上げながら巨大な流砂に呑み込まれていく。
上から見れば、そこには砂海のみが残されていて──、
「──ッぶは!」
──その下から、全身を薄黄色の砂まみれにした大トカゲとその背に最後までしがみついていた少女が姿を現した。
「……おい、生きてッかー……」
「な……なんとか……」
息も絶え絶えにそれだけを返し、リシャナはリザルの背から地へと降り立つ。
「あーー、まじで死ぬかと思った……何十年ぶりだよ、こンな無茶すンのはよ……」
「でも……ッげほ、生きて、て……よか、かはッ、」
「咽せンなら喋ンなよ。ここまで来て窒息死とか洒落になンねェぞ」
気管にまで入り込んだ砂に盛大に咽せながら、半泣きになるリシャナの背をリザルがさする。
しばらくすればそれは収まったものの、極度の緊張状態にあったリシャナの体は力が抜けきり立ち上がることもままならなくなっていた。
リザルは呆れ混じりの嘆息をこぼし、リシャナの体を再び背に乗せる。
「うわ、た、高いっ! 高い!!」
「さっきも乗ってたくせに何言ってンだよ。つか、トカゲ族はでけェンだから当たり前だろ」
改めて感じるトカゲ族の体格の良さに慌てふためきながらも、先ほどのようにその肩をしっかりと掴めば安定感に身が落ち着く。
そんなリシャナを尻目に、リザルはおもむろに口を開いた。
「巻き込ンで悪かったな、お嬢」
「ううん、助かったんだから全然平気。…………お嬢?」
不意に向けられた耳慣れない呼称に、リシャナがきょとんとした表情で聞き返す。
リザルはその顔を見遣りながら鼻で笑い、鋭い牙を見せた。
「魔族長様のお側で戦ってンだから俺らから見りゃお嬢だろ」
「そ、そういうものなの……?」
「そーゆーモンだ」
納得出来るような出来ないような理由を話され、リシャナはむず痒い感慨を覚えながらも顎を引く。
ソワソワする呼ばれ方ではあったけれど、嫌な気分は全く感じなかった。
「つーかお嬢、一人であンま無茶な真似すンなよォ? お前が生き埋めになったら、俺らの首が吹っ飛ばされンだからな」
「へ、そうなの?」
「そりゃアそうだろうよ。お前はお嬢なンだからよ」
複雑な顔つきになった少女から目を離し、リザルは既に赤く染まり始めている砂漠の空を見据える。
──仮に、あの場に主がいたのなら。彼はこの少女に一人で女神の封印を破壊することを命じていたのだろうか。
それは、ただの一部下でしかない大トカゲには想像もつかないものだった。
「ま、とりあえず作戦は成功したンだ。帰ったら美味ェ酒が飲めるな」
「うめー酒……って自分たちで用意するの?」
「ギラヒム様から頂戴すンだよ。こういう勝ち星つけた時はな」
「…………え、なにその理想の上司像」
リシャナは「これが一般の部下と奴隷の待遇の差……!」と何が衝撃だったのかよくわからない呻き声を上げていた。
そんな姿を見遣りながら、背に乗せる重みの感触は決して悪いものではない。
──自身の背に乗る少女と、長年使えてきた魔族の長。
少女がその傍らにいる時間は魔族の命からすればほんのわずかな間でしかない。
その時間が彼に何をもたらすのか、または魔族の未来に何を残すのか。誰にもわかりはしない。わかることは、魔の者には許されない。
しかし、魔族の長の背をこの少女に預けるということ。
あまりにも不相応だと思っていたその構図もゆくゆくは自然な光景になるのだろう。
魔族の少女を背に乗せた大トカゲは根拠もなく、そう確信した。
──大トカゲの背中に乗って fin.
時系列は空から落ちて一年半以降。『彼は誰時の坪庭にて』〜『make your garden grow』までの間です、と最後に言ってみる。