長編2-9_飛んで火に入る天邪鬼
「──早い話、お嬢の場合は剣が使えなくなったら逃げるしかねェな」
「いきなり逃げの話ですか、リザル先輩」
薙刀、もしくは槍の攻略法を、と私が教えを乞うた大トカゲの答えは、そこはかとなくざっくばらんとしたものだった。
オルディン火山出発の前日。拠点内の武器庫にて。
様々な形状をした剣やら盾やらが無造作に放り込まれた武器箱の中を、青緑色の大きな手が漁る。
その束の中から半獣型や鬼型の魔物が使う戦槍を手にし、リザルは私に振り返った。
「しゃーねェだろ。お嬢の戦闘手段が少なすぎンだからよ。体張って殴れるッてンならいーケドよ」
「……それは自信ない」
鼻を鳴らして正論で言い包める大トカゲに私が返せる言葉は何もない。
彼が言う通り、私の実戦向けの戦闘手段は魔剣と練習中の魔銃だけだ。
薙刀で相殺されないほどの威力が魔銃にあれば良かったのだけれど、それだけの魔力を込めて弾丸を放った後に私の体が動く保証はない。
その他、咄嗟に足技を使ったりすることはあるけれど力量は一般人のそれと大差ない。あとは悪知恵を働かせた火の魔石の不意打ちくらいだが、炎を司る襲撃者にどれだけ通用するのかわからない。
──詰まるところ相性が悪い上、純粋に戦力が及ばない可能性が高い相手だということだ。
ないない尽くしの自分の実力に頭を抱えたくなった。
そんな私の渋い顔を大きな眼で見遣りながら、リザルは続ける。
「火炎攻撃ッてのを一旦置いておいたとしてもよォ、お嬢の攻撃の射程範囲が相手に対して狭すぎンだよ。そうなりャ近接攻撃一本で押してくしかねェだろ」
「ぐうの音も出ない……」
「だろ。だから剣が使えなくなったらオワリって話なンだよ」
長い爪を持った彼の手は器用に戦槍を回し、虚空へ穂先を突き立てる。薙刀より一回り短いそれですら、攻撃の射程範囲はとても広いように思える。
私はこの射程を掻い潜り、相手の懐に入り込んで攻勢を奪い続けなければならない。
……リザルの言う通り、剣が使えなくなれば一気に取れる策は狭まってしまうだろう。
「とにかく、中途半端な間合いを取っちまえば反撃も出来ねェまンまブッ刺されてお前はお陀仏だ。絶対距離だけは取られンな。ひとまずそれだな」
リザルはそう言い切り、一旦の話の終わりを表すように槍の柄を床に立てた。
非常にシンプルな結論に収まったけれど、自分の取り得る攻撃手段を考えれば最も念頭に置かなければならないことでもあるだろう。
あとは私の剣がどれだけ相手に通用するのかという懸念が残るけれど。
「…………」
私はリザルが持つ槍の柄を眺めながら、口元に手を当てて考えを巡らせる。そうしてふと、あることに思い至った。
「ちなみにさ、リザル」
おもむろに口を開いた私を、爬虫類特有の大きな眼が捉える。その中に映り込んだ自分の見た目は、やはりただの力ない人間にしか見えない。
自身のその姿を見つめながら、私は先輩魔族へ一つの問いかけを向けた。
「もし仮に剣が使えなくなったとして──それでも戦わないといけない時、リザルならどうする?」
* * *
暗闇に塗りつぶされた洞窟の奥へ、荒い呼吸が吸い込まれては消えていく。
入り口から遠ざかった分、火山の熱が伝わらない岩壁の間はひんやりと冷たい空気に満たされていた。
そんな空間にいながら私の呼吸は浅く、脂汗が額に浮かんでいる。酸素を渇望し、立ち止まって深く呼吸をするけれど、気休め程度にしか楽にはなれない。
「……っ、」
断続的に痛みを訴える右腕の傷口に、顔をしかめる。
魔力を削りすぎた反動で四肢のみだった痺れが全身に回ってきている。
無闇矢鱈に相手の元へ突っ込み、攻撃を避けながら反撃を狙うのはもはや不可能だ。
それどころか薙刀の召喚攻撃と火炎攻撃を加味すれば、相手に近づくことすら難しい。
「……ごめん、リザル。剣、早々に使えなくなっちゃった……」
戦い方を伝授してくれた先輩魔族への謝罪を漏らし、私は倒れ込むように壁面へと身を預けた。
一刻も早くあの薙刀を止める方法を見つけなければならないのに、熱と痛苦に苛まれた体は全く言う事を聞いてくれない。
「…………」
そうして理性による制御を離れた意識は、自らの使命に忠実なあの一族の方へと向いていた。
巫女を護衛し、次なる場所へ導く戦士、インパ。フィローネの森で対峙した、運命を見定める老婆。それ以前に、女神の封印を解く戦いの中で遭遇した一族の者たち。
……彼らには毎回毎回、命の危機に陥れられている気がする。私が言えたことではないけれど、あの一族の使命に対する執念は相当に根深いものだ。
「それだけ巫女を……ゼルダちゃんを、護りたいんだろうな……」
彼らには一族としての使命感以上に、ゼルダちゃん本人に対する何らかの感情を感じる。
そう考えれば、根本的な戦う動機は私やマスターと同じなのかもしれない。しかしそれは、勝ちを譲る理由になりはしない。
「…………、」
私は一度大きく息を吸い、顔を上げる。
感触が曖昧な地面を踏みしめて、再び暗闇の奥へと歩き始めようとした──瞬間だった。
「──え?」
──何もないはずの背後から、何かが私の左腕を斬り裂いた。
「なんでッ……!?」
咄嗟に身を引き、背後の壁へ振り返る。
そこには先ほどの戦闘で目にした赤い陣がいつのまにか浮かび上がっていて、中心から突き出た一本の薙刀が鮮血に濡れていた。音もなく消えたそれは、間違いなくインパの召喚術によるものだ。
「──ッッ、」
私は焼けるような左腕の痛みを庇いながら洞窟の奥へと走る。右腕ほど深くないけれど、焼けるような激痛が襲いかかる。
反響する足音は私のものだけだ。油断していたとはいえ、すぐそばに私以外の誰かの気配は無かったはず。
──なのに、薙刀は私の背後を正確に探り当て、召喚された。
何故、私の居場所がわかった……!?
相手に何かしらの追跡能力があるのか、もしくはあらかじめ仕組まれていたのか。周囲に視線を走らせてもそんな形跡は見当たらない。
そうして状況を把握するために思考を回す裏側で、本能的な危機感が色濃く体を支配し始めていた。
……これで両腕が潰された。魔剣を使ってインパと渡り合うのはもう無理だ。
這いよる死の影に冷や汗が伝い、内蔵が竦み上がる。方法を考えるために頭を働かせようとしても、思考が途切れ途切れに切断されてしまう。
死線は何度も潜り抜けてきたはずなのに、こんなに易々と恐怖の感情を煽られてしまうなんて。せめて虚勢さえ張れたのなら、剣を一振りでもしようという気概は残ったのだろうか。
「ッあ……!!」
唇を噛んで走り続けていると唐突に足が奪われ、私の体は固い地面へと投げ出される。
見れば今度は足元から薙刀が召喚され、左足を浅く裂いた上に防火コートの裾を貫いていた。
そして私は確信する。
相手は、完全に私の位置を把握している。
「────」
急速に体の芯が冷えていく。
逃げることは許されない。剣を持つことは不可能。打開策すらない。
濃密な死の匂いが鼻を掠め、恐怖が背筋を撫で上げる。
それならば、
「────」
ここで、死んでしまうくらいなら。
いっそ刺し違える覚悟で立ち向かって、一撃でも与えてから殺された方が良いのではないだろうか。
──いつか、私は私の主人に言った。
『私が死ぬ時はマスターの手にかけられるか、マスターが魔王様と会えた後ですから』、と。
その気持ちに嘘偽りはない。今でも本気でそう思っている。
だが勝とうとして足掻けば、その分命は削られていく。
ならば少なくとも体が動くうちに、捨て身の覚悟で一撃を与えたほうが主人の役に立てるのではないだろうか。助けになれるのではないだろうか。
私がギラヒム様のために生まれた、その意味を果たせるのではないだろうか。
「────」
深く呼吸をし、唇を結んで瞑目する。
そうして今も遠くで感じられる彼の魔力を手繰り寄せて、胸の内から生まれる温もりを抱いた。
縋ってしまってもいいと、強がらなくていいのだと。その温もりは言っているような気がした。
「────」
とてもとても甘やかで、身を委ねてしまいたいほどに愛おしくて。心の底から、その安息を守りたいと思っている。
彼のためになれるのならここで死んだとしても本望だと、そう思えるだろう。
だからこそ、
「──そんなことしても、褒めてくれないですよね」
彼は今ここで死ぬことを、絶対に許してはくれない。
愛しの主人に向けた呟きをこぼし、苦笑する。
私がその衝動に負けてしまえば、彼は否応なく失望の表情を見せるのだろう。嘲りすら、きっと与えてくれはしない。
彼ならば、大好きなマスターなら、こういう時。
「……這いずって、足掻いて、血反吐に塗れて……そうまでしないと助けてあげないって。そう言いますよね」
口にして、天を仰ぐ。
そう。この場で精神を砕かれただけで、彼は楽に死ぬことを許してくれない。
酷薄そのものと言える答えを、毅然として述べるのだろう。冷淡で、残酷で、無慈悲にも。
──そうでもしないと、彼の願いを叶えるための戦いには勝てないのだと、他ならぬ彼が知っているからだ。
どれだけ叫んでも、心に穿たれた穴の存在を訴えても。たった一人で戦い続ける無限の砂漠の恐ろしさを彼は知っている。
その彼が立てと言うのなら、私もここで膝を折るわけにはいかない。
「私の、生きる理由と……死ぬ理由」
この時のために生まれたのだと、命を懸ける自分の姿に陶酔するのはあまりにも愚かだ。
少なくともそれを決めるのは私ではない。命を使えと、今はまだ命じられていない。
マスターのために死ぬというのは本望だ。
でも、敗北を飾っておきながら誰かのためだったと言い張るのは、あまりにも惨めだ。
「絶対にどっちも、奪わせない」
剣が折れても血を流しても、勝つための生には無様に足掻け。
そう体に命じて深呼吸をすれば、全身を脅かしていた諦念の感情は露と消える。立ち上がった足取りは、先ほどよりも確かなものだった。
私は薙刀に貫かれて脱げかけたコートを羽織り直そうと、背後へと振り向く。
「……!」
その時、ふとあるものが目に留まる。
数秒それを見つめたまま目を細め、再び私は洞窟の奥へと歩き出す。
耳奥には、親しい先輩魔族──幾重もの戦場で生き延びてきた魔の獣の言葉が残響を宿していた。
『──剣が折れても勝ちてェッて時ァ、』
『そン時は牙でも爪でも、体でも。取れる手段は何でも使う』
『血みどろになっても生にしがみつくのが、魔族の本懐だかンな』
* * *
「……来る」
乾いた風の間に低い声音が短く落ちる。
地に薙刀の柄を立て、片膝をついていたインパは赤い目を開き視線だけで辺りを見回す。
視界に広がるのは数分前と変わらない無骨な岩と土の景色。だが、研ぎ澄まされた意識は背後の岩陰で潜む存在を感じ取っていた。
そこからこちらの様子を窺う者の気配は完全に隠されている。
が、その姿を追うためにあらかじめ張っておいた糸が存在を悟らせた。
洞窟内に逃げても無駄だと知り、急襲による反撃を決めたか。かなりの手負いのはずだが、まさか逃げずに立ち向かってくるとは。
魔族──否、あの者自身が持つ執着心に深い凶気を感じる。
いずれにせよ、魔族長が合流すれば厄介なことになる。次の打ち合いで終わらせるべきだろう。
当初は致命傷を外し戦闘不能に追い込むだけに留めるつもりだったが、手を抜けばこちらの身が危ない。
──飛び出してきた瞬間にその身を貫き、一瞬で燃やす。
それが最適な手段だと言えるだろう。
「────」
呼吸を止め、張り詰めた神経は風に、熱気に、大気に溶ける。
数メートル離れた位置で息を潜める魔の者。少しでもその指先が動こうものなら、即座に攻撃を放てるように。
岩の向こうでも同様の警戒を保っているのか、戦況は一向に動かない。
──しかし、その緊張は数回目の呼吸を経た後、
「──ッ!!」
ほんのわずかに空気が揺れたと同時に、岩陰から飛び出してきた人影によって断ち切られた。
インパはすかさず振り返り、その影を目で捉える。
逆光で顔は見えないが、高く高く飛び上がった姿を認識した途端に印を結んだ。
魔力を注ぐのはあらかじめ用意された大型の陣。決着をつけるために注がれた膨大な魔力は、その影が地に足をつける前に集約される。そして、
「──!!」
召喚された無数の薙刀は、四方から獲物を貫いた。
間を置かずインパが印を結び直すと、その身は薙刀ごと火の壁に包まれる。
体を貫かれて死ぬか、焼け死ぬか。
どちらにせよあの魔族の少女の命が散るのは一瞬だったはずだ。
それが、半端者だとしても空の人間の血を持つ者への慈悲だった。
「────」
串刺された目標が赤々と燃える炎の中で灰と化したことを確認し、魔力の注入を止める。
その中で失われた命を最期まで見届けるため、インパは無言のまま徐々に勢いが弱まる炎を眺めていた。
本来ならば、失われずとも良かったはずの命だった。
しかしそれすらも魔族の血を持つ者の、半端者の宿命だと言えてしまうのかもしれない。
燃え尽きて、消えゆく命を目にして抱く感情、それは──、
「ッ!!?」
唐突に、発砲音が耳へと届いた。
思考が断たれ、それを認識した瞬間薙刀を持つ腕に焼け付く痛みが走る。
撃たれた……!?
そう理解した時、炎の壁が大きく揺らめき黒い影が飛び出してきた。
そして影は──炎を突き抜け飛び出してきたリシャナは、勢いのままインパの体を蹴り飛ばす。
「ッガア……!!」
吹き飛んだ体躯は固い地面へと放り出された。
その身を追ったリシャナは倒れたインパの体を覆うように立ち、手にした銃をその喉元へと突きつける。
コートを脱ぎ捨て露出した彼女の肌は、ところどころが炎に焼かれ痛々しくただれていた。
それでもその目に強い光を宿し、正面からインパと視線を交わす。
「やっと、捕まえた」
荒い呼吸を混じえながら、リシャナは引き金に指をのせる。
驚愕を隠しきれずにいるインパに、表情を変えず彼女は言葉を続けた。
「……防火コートにつけられた血が、召喚の発動条件だったんですよね」
「……!」
この場所での一度目の打ち合い。
地面へ組み敷かれたリシャナの肩をインパが捕まえた時、その手はリシャナのコートへ少量の血を付着させていた。
インパはそれを媒介にリシャナの位置を特定し、薙刀が召喚されるよう魔力を注いでいたのだ。
「だから、コートを脱げば薙刀の召喚はそっちにしか発動しない。……魔銃でこじ開けたとはいえ、ほぼ生身で炎の中に突っ込んで火傷はしちゃいましたけど」
最後の瞬間、薙刀の召喚を見越したリシャナはコートを脱ぎ捨て囮にし、串刺しを免れていた。
が、防火コートを脱ぎ捨てれば炎に耐え得る術はない。
肌やコートの下の衣服を煤まみれにし、体中に火傷を負うことを覚悟した上で、彼女は炎の中を突破した。
「お前は……何故、」
純粋な疑問が、インパの口を衝いて出る。
何という、執念──妄執。
何がそこまで、彼女を動かしているのか。
その疑問にリシャナは一度だけ口を噤み、やがてそれを静かに解く。
「たぶん、あなたと変わらないと思います」
リシャナはその瞳を曇らせ、感情の行き場を見失ったように吐息をこぼす。
「……どうして」
そして、渇いた声音が誰に答えを求める訳でもなく、問いかけた。
「──誰かの助けになることは、途方もなく難しいんだろう」
小さく落ちたその声に、刹那走った両者の胸の痛み。それは戦いで出来た傷口につられたもののはずだ。
だから後に許されているのはその感情の正体を探ることではなく、引き金に乗せた指を沈めることだけ。
一つの終わりを、迎えることだけだ。
そのはず、だった。
「──リシャナッ!!!」
「────、」
その戦場に、あまりにも鮮明に響いた鈴の声音。
それを耳にした瞬間、雷に打たれたように肩を震わせ、リシャナの両眼が押し開かれる。
紡がれた声音はひどく懐かしく、哀しい響きをしていて、
──魔族の少女を『友達』と称した鈴の声音は、たしかにその名を呼んだ。