長編2-8_わるいひとの部下
夢遊していた意識が戻ったのは、戦場へ静寂が返された頃だった。
「……っ、」
熱を持った肩の痛みを無意識に庇いながら、ゆっくりと視線を巡らせる。
溶岩の赤色が照り返る壁面。地面はところどころが巨大な爪に抉られたように捲れ上がっている。そこから自身の足元にかけて、掠れた血の跡が残っていた。
やがて、彷徨う視線は背後に倒れ伏している魔獣のもとへとたどり着く。
岩を纏った巨躯は鮮やかな切り口で真っ二つに分かたれていて、もう二度と動くことのない肢体を無造作に投げ出していた。
数秒、空色の目がそれを眺め、
「……やった、のか」
その体を斬り裂いたのが自分自身なのだと、リンクはようやく思い至った。
……無我夢中、と言うよりは取り憑かれたようだった、と言った方が正しいのだろう。
火山の中へ逃げ込んで不意打ちに失敗し、魔族長が召喚したあの魔獣に呑まれたところまでは鮮明な記憶が残っていた。
魔獣に呑まれた後は熱と痛みと深い深い慙愧の感情がひたすらに脳を焼き、全身を燃やされた。
抗う意志に反して、暗く冷たい意識の階層を急速に落下していく感覚だけが残って。
落ちて、落ちて、落ちた──その果てに。
『──リンク』
「────」
降り注ぐ柔らかな日差しのような声音が、名前を呼んだ。
その穏やかな声が、澄んだ音色が。奥底に落ちていく自身を叱り付けるきっかけを与えた。
……まだ、何も為せていない。
巡り、巡る熱が彼を立ち上がらせて、再び『勇者』として導く。
そして彼は白銀を手に取り、止め処ない剣気に背中を押されるまま魔を打ち払っていた。
魔獣を両断した後、意志に突き動かされるまま剣を振るった記憶があったが、今ここに魔族長の姿は見当たらない。おそらくまた逃してしまったのだろう。
「────、」
鈍く痛む肩の傷を抑えながら、長く、ゆっくりと息を吐き出す。
そうしたまま、リンクは空いた手のひらをきつくきつく握り締めた。
「……ゼルダ、」
魔族との争いを生き延びて、自らの力で魔獣を倒した。
しかし、これで満足する訳にはいかない。
石造りの橋で会った戦士──おそらくこの地までゼルダを護衛したあの人物に言われた言葉は、いつまでも胸中に刻まれている。
彼女の言う通り、自分はゼルダの助けになれていない。まだ足りていないのだと、そう思うべきだ。
「次は……間に合ってみせる」
空色の目には、決意が満ちる。
彼の背で沈黙を保っていた白銀は、主の意志に応えて一度だけ瞬いた。
* * *
──澄み渡る青が、私を深く深く溺れさせて放さない。
「──あなたの名前は、」
薄赤色の唇が絞り出すように、それでも鮮明な声音を向けた。
禊の泉に響くのはゼルダちゃんの声音のみ。対する私の呼吸音も心音も、彼女の眼差しに呑まれて消える。
次に紡がれる声を聞いたら……いや、唇の動きを見てしまったら、きっと戻れない。
けれど私にはもう、続く言葉を拒絶することは出来なかった。
再び彼女の唇が解かれるまでの沈黙が、執行猶予とでも言うかのようにとてもとても長く感じる。
やがてその時間は呆気なく終わりを迎える。
沈黙を断ち切ったのは彼女の答えでも私の拒絶でもなく──、
「──ッ!!」
──破壊音と共に岩壁に穿孔を開け、飛び込んできた黒の人影だった。
その姿を認識した瞬間、風を裂く刃が頭上から振り下ろされて間一髪魔剣で受け止める。
厳かな空気に満ちた泉の中へ金属音が響き渡り、その残響に耳を支配されながら双方の刃は弾かれ合って距離を取った。
巫女の眼前へと立ったその人物に私は双眸を歪める。
その時、人影の向こうで見開かれた蒼色が乱入者の名を呼んだ。
「インパッ……!」
「……ご無事で」
こちらへの敵意は絶やさないまま、乱入者──インパは安堵の吐息をこぼした。
しかしその安息は彼女が武器を収める理由にならない。
一拍置いて細い体躯が地を蹴ると、私の体を丸ごと横殴りにするような斬撃が襲いかかった。
「──ハァッ!!」
「っぐ……、」
呼吸するための刹那の時間すらも捨て、インパは獲物の首を刎ねるための追撃を浴びせ続ける。対する私は赤い刃が生む衝撃を細身の魔剣で受け止め、払って、防ぐ。
そうしながらも止まない剣撃の嵐に防御の限界が見え始め、打開策を求めて思考を回そうとした──瞬間だった。
「……う、」
不意に襲った、ぐるりと脳髄が掻き回される感覚。
三半規管を他人の手によって弄ばれ、平衡感覚が根こそぎ刈り取られるような眩暈が突如私を襲った。
呻き声をこぼし、踏みしめる足の力が抜けた私。それを見たインパは、当然その様子を隙だと捉え、私の腹部を貫こうと薙刀を構え直す。だが、
「こん、じょぉッ……!!」
「!!」
抜けかけた力を無理矢理保たせる気力そのものの名前を口にし、私は地に着いた両足を踏ん張らせる。
次いで赤の刃を魔剣の刀身で食い止めて受け流し、前方へとよろめいたインパの体躯を足で薙ぎ払った。
その横蹴りが彼女の体を捉えることはなく、すぐさま体勢を立て直したインパは大きく後方へと飛び退く。
「……っ、」
私はなんとか作り出した間合いを睨みながら吐息を逃がし、先ほど身を襲った眩暈の正体に顔をしかめた。
……聖域酔いと、魔力切れ。
座っていた時はマシだったのに、こうして戦うために体を動かせば自我を失いそうなほどの波が一気に押し寄せてくる。このままここで戦い続けるのは無謀だ。
「────っ」
私は視線の先で身構えるインパから注意を逸らさず、眼球だけを巡らせて逃げ道を探した。
すると彼女の背後のある光景が目に留まり、考える前に勢いよく駆け出す。
「逃がすかッ……!!」
立ち向かうのではなく逃げの判断を取った私に対し、インパは数瞬驚きを見せたけれどすぐさま退路を断つべく走り出す。
──しかし戦うならともかく、逃げるだけなら日頃主人の戯れに対して数々の逃走をしてみせている私が負けることは、ない。
「──ふ」
息を吸って、止める。
目的地に駆け寄りながらも進行方向とは逆に体をひねり、私は手にした魔銃をインパに向けて突きつけた。
「ちッ……!」
銃声と共に放たれた二発の紫紺の弾丸。インパは舌を弾かせ、咄嗟に薙刀を振りかざして迎撃する。
魔力を絞り出して放った弾丸は赤の刃に斬り裂かれ、敢え無く散らされる。
が、その間にも私は聖域からの逃げ道──つまりインパが奇襲のために岩壁へ開けた穴をくぐり抜け、脱出を図っていた。
*
「インパ、待って……!」
逃げた魔族を追おうと踏み出したインパの背を、鈴の音の声が呼び止める。
インパは自身を案ずるその表情に一度視線を送ったが、すぐに正面へとそれを戻した。
「こちらに出てきてはなりません。あの者は私が抑えます。……貴女は貴女のやるべきことを」
「……!」
彼女が淡々と告げるそれは、森で老婆が口にしたものと同じ響きをしていた。
小さく息を呑んだゼルダの返事を待たず、インパは地を蹴って岩壁に開いた穴から外へ飛び出す。
その姿を見送る蒼の眼差しはなんとも苦々しいものだった。ゼルダは唇を噛み、微かに震える白い手を胸の上できゅっと結ぶ。
「……私の、すべきこと」
戸惑いと逡巡に揺られながら言い聞かせるような呟きが浮かび、消える。
──そして次に開かれた蒼色の両眼は、何かの決意を宿した強い光に満ちていた。
一度だけ深呼吸をし、少女は静まりかえった泉へと踵を返す。
今はただ、その役目を果たすために。
*
聖域を脱出して飛び出た外の世界は、温かな光に満ちた泉よりも鮮やかな明るさで私を出迎えた。雲の壁を隔てながらも健気に大地を照らす陽光に、数秒目が眩む。
体を芯から揺さぶるような気だるさは未だ尾を引いていて、私は落ち着きを取り戻すまで岩を踏み越え走り続けた。
「──は、」
息を切らし、聖域の空気から逃げ続けて数分。私は障害物の少ない開けた高台に行き着き、そこで足を止めた。崖に面したその場所からは、麓の景色が見渡せる。
その光景に目を遣り、長く息を吐き出す。ここまで来てようやく聖域酔いによる倦怠感は少しだけ軽くなっていた。
体に残るのは枯渇かけた魔力をひねり出した反動による痺れだけだ。それも戦えなくなるほどではない。
「……?」
そうして呼吸を整えていると、ふと風に乗って何かの音が聞こえた気がして私は耳を澄ます。
それは今立つ地面の下から聞こえてくる何かの鳴き声だった。次いで私は、鳴き声の主が麓でも目にしたヒドカリだということに気づく。
おそらくこの岩場の下に、ヒドカリの巣があるのだろう。
唐突な火山の噴火に加え、巣の近くで乱闘が起きているせいで、異変を感じ取って混乱しているようだ。
「──!」
すると、正面から軽い足音が聞こえて私は視線を戻す。
そこには私を追ってここまでたどり着いた戦士──インパの姿があった。
「────」
インパは剣呑な光を帯びた鋭い視線を、私はフードの下から警戒心を露わにした視線を、互いに交わし合う。
二人の間を渇いた風が吹き抜け、やがてその沈黙は唇を開く音によって破られた。
「──貴様、空の人間だな」
先に言葉を発したインパは、対峙する魔族へ確信を持った問いかけを向ける。
一度だけ、私の肩が震えた。
「ただの魔族ではない。むしろ、空の人間と同じ女神の血が流れている」
「…………」
「答えろ」
何の反応も示さない私に対し、拒絶を許さない低い声が答えを促した。
私は数度、声にならない吐息をこぼす。
だが、その逡巡を長く続けることはなく、
「────、」
無言のまま手を伸ばしてフードを掴み──ずっと隠したままだった自身の顔を、初めて女神側の人間へと見せた。
声も出せず、赤の双眸は驚愕を宿して押し開かれる。
その目はふと力をなくしたように伏せられ、代わりに小さく唇を震わせた。
「…………生きていただけ報われたと、そう言えてしまうのか……?」
「……?」
辛うじて耳に届いたその声は何故かひどく同情的な響きをしていて、私は内心で小首を傾げる。加え、赤の瞳には何かを受け入れるような諦念の色が滲んでいた。
一拍置いた後、それらの感情は全てそこから消え失せる。
再びこちらを睨んだその表情は、鋭い戦意に染まっていて、
「それでも、ゼルダ様を狙うのなら容赦はしない。……覚悟」
インパは薙刀を構え、姿勢を低く取る。
突き刺すような敵意を肌で感じながら、私も片手で一振りの魔剣を抜いた。
次に訪れたのは、互いの呼吸音すらも感じさせない張り詰めた静寂。
その糸を断ち切るのは、虚空を分かつ閃音だった。
「──ッ!!」
開けていた間合いは即座に立ち消え、薙刀と魔剣が火花を散らし交わされた。
刃越しに視線が重なり、双方の殺気を言葉もなく受け取る。瞬時に刃は弾かれ合い、薙刀は刺突のために一度引かれ、魔剣はそれを迎え撃つために刀身を閃かせた。
「シィ──ッ!!」
「ッ……、」
鋭い呼気と共に赤い刃が空気を穿ち、魔剣ごと体を貫こうと迫る。
私は身を引き魔剣の刃でそれを受け流し、その衝撃に気圧されながらも地を踏みしめて猛威を押し返す。
だが、そう容易く間合いを奪わせてくれる相手ではない。
インパは私の魔剣が剣撃を加えるその前に薙刀を引き戻し、間隙を薙ぎ払うように刃を振るう。
両手で魔剣を握ってなんとかその重圧を防ぐが、何倍も速い薙刀の切り返しに攻勢へ転じることは叶わない。
そしてそのまま間合いを明け渡してしまったなら、
「ッわ……!!」
すかさず印を結ばれ、地面から召喚された薙刀が獲物の身を貫くべく襲いかかってくる。
悲鳴をこぼし身を捻ってそれを躱すが、命を屠るための凶刃は防火コートを越しに身を浅く裂いた。いつその刃に体ごと串刺しにされてもおかしくはない。
それでも、勝ち筋を取りこぼさないためにも詰めた間合いを離される訳にはいかない。
私は翻した身を着地させ、地を蹴り再び痩身へと迫る。重心を保ちながら刃を振り下ろし、斬り払う。
長柄に阻まれながら、刃同士がかち合いながら。一瞬の隙をただ求め、攻めて攻めて、攻める。
──だが、
「無駄だッ……!!」
「!?」
魔剣が空を斬り下した瞬間、短くそう言い放ったインパの身が私の間合いへと入り込む。
その身は姿勢を低く取り、薙刀を振るう代わりに大きく捻られ、
「──がッ、ァ」
強烈な蹴りが、私の腹へ深く打ち込まれた。
内臓を歪められ、骨が軋む感覚に視界が明滅する。
その間にも私の体は固い地面へと叩きつけられ、インパは倒れた私に乗りかかって肩を押さえつけた。
ぼやける私の視界に映るのは、陽光を乱反射させて先端を真っ直ぐに向ける赤の刃。
同じ色をした眼眸は組み敷いた獲物を捉えて離さないという鮮烈な意志に彩られている。
もはや魔剣を振るいその刺突を防ぐことは不可能。──だったら、
「──ッ!!」
──次に赤色の瞳に映り込んだのは、真っ直ぐに口を向けた銀色の銃身だった。
インパが息を呑んだと同時に、私は魔銃の引き金を引く。
放たれた弾丸は即座に身を引いたインパに当たることはなかったが、一瞬の隙がそこには生まれる。
それを逃さず、私は腹筋の要領で体を捻り上げて勢いのまま片脚を叩き込んだ。
「ぐ……!」
横蹴りは薙刀を持つインパの手を弾き、私はもう一度魔銃の銃口をその身へ向けた。間を置かず、銃声と弾丸が彼女の身を襲う。
「ッチ……!」
が、それはインパが詰めた間合いを手放し後方へ引き下がることにより虚空へと放たれる。
私もすかさず立ち上がり、その身へ追撃を仕掛けようと銃口を向けた。──瞬間だった。
「──ッぁ、?」
──焼けつく痛みが、私の右腕を貫いた。
唐突な激痛に思考の全てが制止する。投げ出された視線は、その痛みの要因へ引き寄せられるようにたどり着く。
私の腕を貫いていたのは、背後から召喚された一本の薙刀だった。
印を結ぶ動作もなく距離も取っていたというのに、それは正確に私の腕を貫いていた。
「う、ぁ……ぐ、」
どくどくと血管が脈打ち、出血と痙攣にのたうち回りたい衝動に駆られる。
それを左手で庇いながら蹲っていると、静かな足取りで人影が近寄ってきた。
緩慢な動作で視線を持ち上げると、赤い刃が音もなく目の前に突きつけられる。
「……降伏しろ。お前に勝ち目はない」
「…………」
磨かれた鋼に自身の顔が映り込み、その表情には隠しきれない焦燥と煩悶が浮かんでいた。
勝ち目がないと、とっくに理解している顔つきだ。さらに言えば、彼女は私を殺さず降伏を促すために心臓ではなく腕を貫いたのだ。つまり、手加減すらされている。
その事実をこうして客観的に見てしまえば、自分が浮かべている表情に対し納得すらしてしまえた。
──しかしそれは、この戦いの先にある願いがなかったらの話だ。
「────」
私の姿を目にしたインパの双眸が、わずかに見開かれる。
握ったままの銃を血で濡らしながらも真正面から敵を睨め上げたその姿。
往生際が悪いと、細まった赤い瞳が言葉もなく告げる。
私は一つ吐息をこぼし、その視線に答えを告げた。
「……往生際は、すっごく悪い、ですとも」
口角を上げ、魔銃を持つ右手を緩く持ち上げる。
再度の衝突を予期したインパが薙刀を構えるのを目にし、私は、
「悪い人の部下ですから、んべ」
「……ッ!!」
そう嘯き舌を出しながら、背中に隠していた反対の手を前へと突き出した。
握り締められていたその手を開き、現れたのは二つ。──火の魔石と、デクの実。
見開かれた赤の注視が逃れてしまう前に、私はそれらを地面へ思いっきり叩きつける。
フィローネの森で老婆に仕掛けられた逃走手段を仕返しとばかりに使い、同時に私は背後の崖へと踏み出していた。
「逃がさんッ!!」
「!!」
しかし数秒の間も許さず、駆ける私のすぐ背後に投擲された薙刀が突き刺さる。振り返る間もなく、熱を持った魔力が急速に集約される気配を肌で感じて──、
「ッ──!!」
爆炎が弾け、辺り一帯を包み込んだ。
「…………」
爆風が凪いで炎が立ち消えれば、地面には黒ずんだ灰だけが残っていた。切り立った崖の淵には血の跡が残っていて、その主が身投げをしたようにも見える。
インパはゆっくりとそこに近寄り、眼下へ視線を注いだ。
「……下に逃げたか」
見下ろした崖の側面には、人一人が潜れる程の横穴が開いていた。
標的がそこへ逃げたと確信を持った赤の眼差しは一度だけ細められ、彼女は踵を返す。その背から、戦意は微塵も失われていなかった。
*
暗く狭い横穴を這いずりながら、ひたすらに奥へ奥へと体を捻じ込ませる。
爆炎に包まれた戦場から逃げ出し、間一髪潜り込んだのはちょうど私が立っていた岩場の下。崖に開いた横穴──ヒドカリの巣の入り口だった。
ここに逃げ込む直前に身を襲った爆炎攻撃は、防火コートのおかげで防ぐことが出来た。
これを着ていなければ今頃私の身は灰に変えられていただろう。丁寧な仕事をしてくれたトカゲ族の子に感謝しなくちゃいけない。
「先、空っぽだ……」
巣穴の奥へ進んでも住人の姿は見当たらない。
本来ならばヒドカリは危険を察知すると巣の外に向け火を吹き抵抗を見せる。しかし巣の真上であれだけ派手にやっていたのだ。混乱した彼らはここを手放して逃げてしまったのだろう。
ヒドカリが掘った穴は奥に進むほど複数の空洞と連結していき、程なくして人一人が通れる広さとなった。
目が馴染んでも、光の届かない空間内は真っ暗だ。
私は闇の中に目を凝らしながら、ねじ切れるような痛みを訴える右腕を抱えて歩き続けていた。
「……完全に、持ってかれちゃった」
傷口から手の甲を伝い、指先から血が滴り落ちる。防火コートごと貫かれた右腕では、もはや魔剣を握ることすら不可能だった。
万全の状態でも苦戦したというのに、あまりにも絶望的な状況だ。
戦う手段が残っていない訳ではないけれど、こうして逃げている間に策を練らなければ勝ち目はないだろう。
今はただ、ひたすらに時間を稼がなければならない。
「────」
歯を噛み締め、苦鳴を喉奥で押し潰し、目先で手招きする闇の中を進む。
「……マスター」
浅い呼吸音と不規則な足音に混じって落ちたのは、温もりを抱くたった一つの敬称だった。