長編4-6_追想旅行 三つ目の深夜
でぇとの旅、三回目の深夜だった。
雄大な自然の光景はいつしか岩肌ばかりが支配するものへと変貌し、景色を楽しむ余裕は徐々に失われてきた。
崖の下を見渡せば固く尖った岩が地獄の針山のように連なっていて、吹き上げる風音は獣の唸り声のように天へと轟く。
オルディン火山には負けるけれど、かなり標高の高いところにまで登ってきたと思う。その証拠に肺に入る酸素が少しだけ薄くなった気がした。
……明日の朝には体が順応していればいいのだけれど。
低酸素状態になった人間の体は頭痛やら耳鳴りやら、いろいろと不都合が起きやすい。今はその兆候があるくらいにとどまっているけれど、主人と歩く道のりでそうなってしまうのはよろしくない。
魔物の血が入っているというのにこういうところは人間と変わらない自分の体に辟易としてしまう。
なんて考えても仕方のない懸念はさておき──、
「マスター」
「ん?」
「さすがに……恥ずかしいなと思いまして……」
そんな思案をする私の体は、“主人の中”に閉じ込められていた。──つまり私は、主人の方に背を向けて、彼の膝と膝の間に座った体勢のまま小一時間を過ごしていた。
なんで深夜、険しい渓谷の道中でこんな状態になっているのか私自身もよくわからない。
体に両腕を回され、膝と膝で両脇腹を挟まれ、完全に身動きがとれない。加えて彼の吐息がうなじをくすぐり刺激して、美しい肉体の監獄に閉じ込められている気分だった。
囚われの私の静かな訴えに、ギラヒム様はわざとらしく吐息を漏らす。
「誰も見ていないというのに何を恥じらう必要があると言うのかな? ……それ以前に、ワタシはこの光景を全生命に見せてあげたいくらいだというのに」
「この光景を見せられた全生命みんな戸惑うと思います……」
昨日までは、彼の振る舞いもいつも通りだった。
甘さなんて感じられない扱いの雑さで、厳しい道のりに阻まれる私を容赦なく置き去りにしようとすらしていた。
なのに、明日のための体力を養うため早々に野営の準備をしている最中彼に捕縛され、そのまま気づけば雲海から漏れ出る月明りが真上から降り注ぐ時間になってしまっていた。
さすがに遠出三日目ともなると、甘えたモードは避けられなかったらしい。
小一時間こうしているというのに彼が飽きる気配はなく、頭を撫でくり回されぎゅうぎゅう抱きしめられ、高所による低酸素より主人に呼吸を奪われて酸欠になってしまいそうだ。
「リシャナ」
「……はい」
「リシャナ。……リシャナ」
呼びかけに対して返事をして、続くのは繰り返し紡がれる名前。
事が起きるわけではない。代わりに首元で深呼吸をされ、柔らかい唇で鎖骨から首筋にかけてを緩く食まれる。
拠点にいる時は彼や私のお部屋で為されている愛情表現。それが屋外で、こんな場所で。誰もいないとはいえ羞恥心が理性の垣根を越えて襲いかかってくる。
もともと、甘えられること自体が無かったわけじゃない。おそらくこれも一過性のもののはずだ。
しかしあの日──私が生死の境から復活した朝以来、こんなふうに甘えられる回数が間違えなく増えている気がする。
死んでしまいかけたとはいえ、あの選択に後悔はしていない。けれどこれだけ甘えられると無茶をしたことは多少なりとも反省してしまう。
「お、おも……マスター、そんなふうにのしかかられたら潰れちゃう!!」
「実の主人に重いとは無礼極まりないね。だが、これはお前が受け止めるべき重みだよ。つべこべ言わずに、潰れて、しまえ」
「うぎゅ……」
果たして彼の熱が冷めるまでに私の心臓が持つのか、こんな調子で目的地にたどり着けるのか、とても心配だ。
甘えたいのか苦しめたいのかその両方なのか。とにかく物理的に重くて気持ち的に落ち着かない愛情表現に、私はさらに溺れてしまうのだった。
「──マスター、ほんとに、内臓出ちゃいます!」
「出せば良いだろう。今日なら腸の端から端まで、ちゃあんと愛でてあげるよ」
「発想が猟奇的すぎます!!」
◆◇◆◇◆◇
──風に吹かれ、緋色のマントが天を舞った。
緋色のタートナックが手放し、空へと放たれた族長の証。それは高く高く舞い上がり、蒼穹へと吸い込まれていく。
一族の者全てが目にするように、名も知れぬ武神に示すように、闘技場の中心に立って行われたその行為は現族長の退位──つまり新たな支配者が一族の命運を握ったことを表していた。
呼吸すら許されぬ厳粛な空気の中、緋色のタートナックはその場で膝を屈し、頭を垂れる。
乾いた鎧の音だけが響き、彼は一族の総意を静かに紡ぐ。
『我ら武の一族。貴方様を主君とし、武の民──武人として、この剣を捧ぐ』
緋色のタートナックが胸に手を当てて、それに倣うように下位のタートナックたちが服従の意を示す。
積み上げられた瓦礫が囲む、無骨な闘技場。その中心で取り計らう形ばかりの叙勲式が、終わりを迎えた。
武人たちの前に立ったあの方は彼らの視線を集める。この瞬間を以て、武に生きた彼らは、あの方のために生きることとなった。
結果だけを見るならば、それは『隷属』と言い表せてしまう関係性なのかもしれない。しかし、あの方のために生きられるということは魔物にとって、否、全種族にとって喜ばしいことなのだよ。このワタシが言うのだから、当然だろう。
少なくとも、その瞬間に“元”族長となった緋色のタートナックは晴れた表情をしていたよ。
……何故かって? 長きに渡り、あれらは目には見えぬ武の極地とやらを目指していたのだ。それがこの瞬間から形を成して、目の前に姿を現し、自らが進むべき道を指し示した。人間どもが信奉している女神と理屈は同じだよ。
さて、目的を果たしたならば、こんな寂れた地には用はない。あとはタートナックどもを率いて拠点に戻るだけだ。
──そう思われたのだけれど、ワタシはあの方の視線が乾いた空に向けられていたことに気づいた。
何かに勘付いたような、微かな警戒の色を孕んだ眼光。数瞬遅れてワタシもその違和感を察した。
まず耳に届いたのは、彼方から響く遠雷の音。それはじわじわと、這い寄るようにこちらへと向かっていた。空気が張り詰め、細かな槍となって肌を刺す。巨大な獣の唸り声のような地鳴りが耳を震わせる。
何かが来る。あの方も、ワタシも、ようやく異変に勘付いたタートナックどもも、その異様な空気に呼吸を留めて気配を窺っていた。
やがてピンと張った緊張の糸がほんのわずかに揺れた──その瞬間。
『──!!』
あの方が瞬時に掲げた刀身でその身を守った。それとほぼ同時に、一陣の風が闘技場を吹き抜けた。
……いや、あれは風というにはあまりにも凶悪なものだった。
まさに、目には見えぬ無数の刃。大気を引き裂き、風切り音だけを甲高く鳴らした刃は闘技場の壁を真っ二つに分かち、タートナックたちの鎧を紙のように容易く切り刻んだ。
たった一度で岩と鉄、そして肉体を断ち切った風はあの方のもとへと襲い掛かったが、そんな風ごときでこのワタシを砕くことなど出来るはずがない。
無数の風の刃は刀身に弾かれ、泡のように立ち消えた。
その場から一歩も動くことのなかった魔王様は剣を下ろし、周囲の惨状へと視線を巡らせる。
風に襲われたタートナックたちは、既に多くが絶命をしていた。
遅れた彼らの認識という小石をきっかけに、波紋のように広がる狂乱。暴風に吹かれて奪われた武人たちの生に、緋色のタートナックは初めてその表情を青ざめさせた。そして、
『──武への妄執に生きる奴隷どもだけであるなら、魔物であれど見逃してやったものを』
灰色の雲が立ち込めた空から、声が落ちてきた。闘技場は薄闇に覆われ、その場にいた全ての者たちの視線がその声の主を目にする。
我らの目に映ったそれは──空を泳ぐ巨大な魚だった。
大きさはお前が出会った三龍たちの三倍ほど。岩壁のような黒い皮膚をくねらせ宙を泳ぐ様は一つの大地が動いているかのようだった。
頭は硬質な甲羅で覆われ、その下から魔物たちを睥睨する剣呑な眼光が覗いている。さらに言葉を操り、万物を見通す瞳を持つ特異な性質。それは紛れもなく、大精霊特有のものだった。
『しかしここで魔王の魂を狩れるとなれば僥倖よ。女神ハイリアの御名の元に、無限の風で消し飛ばしてくれようぞ』
二つの眼球があの方を捉え、巨大な口が雄叫びを上げる。その咆哮に呼応したかのように、灰色の雲に稲妻が迸る。
大気が激しく鳴動し、生き残ったタートナックたちは地面に跪いて成す術なくその巨躯を見上げていた。
進むべき足を停滞させ、脅威を前に茫然自失とする武人たちの中で動けたのは、ワタシという剣を手にしたあの方だけ。
やがて灰色の雲から一つの雫が落ちてきた、刹那。あの方は剣を振り上げ、天から落ちた雷槌を刀身に纏わせ──、
『笑止』
嘲笑とともに、あの方が放った刃が逆巻く大気を真っ二つに割った。散り弾けた風の刃は闘技場の地面を抉り、大地に深い爪痕を残す。
『戦乱の種火が燻る世を、片隅で傍観するに留まる老耄の精霊。──斯様な存在ごときが我が魂を狩るなど、失笑噴飯』
荒れ狂う風の監獄の中で、あの方は一歩も退くことなく大精霊を睨め上げる。
ワタシはそこで理解したよ。あの方は最初から大精霊の存在を知っていた。タートナックどもを軍に入れると同時に、あの精霊を狩ることがこの地に来た目的だったのだとね。
絶えず迫り来る風の凶刃へ一閃が放たれ、無形の刃と風が正面から弾かれ合う。それを皮切りに、二つの刃が衝突を重ねていく。
振るわれた大精霊の尾が壁を薙ぎ倒し、雨粒が切り裂かれ、土塊が飛び散り、そして、
『ここで骸を曝すが良い』
風の壁を貫いたあの方の身が、大精霊の額に迫った。
その勢いを殺さないまま振り上げられる剣。降り注ぐ雷槌よりも鮮烈な光を持つ刃が、大精霊の頭蓋を二つに叩き割るべく振り下ろされる。
──だが、
『!!』
次の瞬間。ワタシが目にしたのは、
『──
永久を生きるこの老骨。魔の終焉を見納めずして死してくれるものか』
死角から飛び交う風の刃をその身に浴びた、あの方の姿だった。