長編4-5_追想旅行 二つ目の昼下がり
緑が織りなす雄大な自然の光景。圧倒される景色にひたすらに心を奪われていたのも束の間、彼方まで広がるフィローネの森は地平線に飲まれて姿を消した。その頃から、渓谷の道のりはさらに険しく果てしないものへと変わっていた。
「わお…………」
壁のように立ちふさがる岩の壁を登って乗り越え、ようやっとたどり着いて目にしたのは、さらなる高さを誇る岩の壁。
頬に伝う汗を拭い、長い吐息をつけばすぐ横で嘲笑混じりに鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
「何をぼさっと突っ立っているのかな、犬」
「可愛い部下のことをストレートに犬呼びしないでください。……じゃなくて」
呼吸が上がって息も絶え絶えな私に対し、瞬間移動という便利魔術を使えるギラヒム様は涼しげどころか艶やかな笑みをたたえている。これはいつものことなのでもはや何も思わないし、瞬間移動で一緒に運んでくれればいいのになんて恨み言も出てこない。
“でぇと”であるとは言っても部下としてのお務めでもあるのだから、そんなことで立ち止まるわけにはいかないのだ。いかないの、だけれども──、
「服、汚れちゃうなと思って……」
私が気になっていたのは、自身が身に纏ってきたとっておきの一着のことだった。
どれだけ気をつけていても、こうして岩壁を登ったり降りたりを繰り返すと嫌でも汚れてしまう。
足を使っての旅路になるのだからこうなることはわかりきっていたのだけれど、ここに来るまでの道中でくたびれてしまった服を見て少しだけしょんぼりしてしまう。
「でも、致し方ないですね。部下リシャナ、潔く登山します」
「……ふむ」
そんなことを未練がましく言っていても仕方がない。私は魔族長様の部下なのだから、と腹を括って岩の地面に一歩目を踏み出す。
同時に、意味深な視線を寄越していた主人が背後に立った気配を感じて──、
「ふぉ!!?」
私の体が、宙に浮いた。浮いたというより、担ぎ上げられた。
進行方向と真逆に引っ張られた私の体は混乱している間にも主人の懐に横抱きで収まる。背中と膝裏を腕で支えられ、整った顔貌は目と鼻の先。
いわゆるお姫様抱っこ、というやつだ。
「ま、マスター、運んでくださるんですか……!?」
「薄い胸が際立っているとは言え、少しは愛らしく見える格好をしているからね」
「……今、なんて言いました?」
「薄い、胸」
「そっちじゃないですッ! あと平均はあります!」
どんなに女の子扱いをしようと、部下を罵る姿勢は崩さない我が主人。流れで耳にしてしまった愛らしい、という言葉に気恥ずかしくなって、二度目を聞く度胸はすっかり萎びてしまった。
それはそれとして、私を抱え、なおかつここぞとばかりに脇腹をつついたり摘んだりと弄ぶギラヒム様。ちょっと痛いけれど長い指に撫でられた箇所がくすぐったくて、身が捩れてしまう。
そうして逃れるようにすぐそばにある細い腰へしがみつくと、そこで待ってた心地にハッと息を呑み、私は彼の胸を覆う赤いマントを持ち上げて、
「こ、れは……」
捲ったマントの下。私の眼前にあるのは広くたくましい胸筋。無駄な脂肪が一切なく、引き締まり、惚れ惚れする曲線を描いた腹筋。そして腰。
おそるおそる手で触れるとそこは硬く、弾力があり、思わず生唾を飲み込んでしまう。
おまけに密着しているからか彼の甘い匂いが私を中身まで侵し、夢のような心地に誘われて──、
「……抱っこするだけで人殺す色気があるって、どういうことなんですか、マスター」
「それは歴然たる事実ではあるけれど、このまま谷の一番上から放り投げてあげたい気分になったよ」
どんなに可愛らしい格好をしたとしても、この暴力的な美を前にすれば全てが無に帰してしまうのだと私は思い知ったのだった。
◆◇◆◇◆◇
──それはまるで、力の神に選ばれし者を示すための儀式のようだったよ。
“百体のタートナックをまとめて一人で相手をする”。
そう言い切ったあの方と、唖然とするタートナック。相対するその光景を思い出せば、今でもワタシの胸は抗い難い興奮に焦がれてしまう。
多種多様な種族が存在する魔族の中でも、タートナックは上位に位置する実力を持った一族だ。
その上彼らは日々命を賭した殺し合いで刃を磨き、鍛錬を重ねた者たち。それらを一人で相手にするということは、すなわち並みの魔物千体を相手することと同義だ。
緋色のタートナックは驚き、そして呆れていたよ。あの方の力は認めていたものの、自ら命を捨てるような真似をするとは、とね。
その無礼な振る舞いにすぐにでも首を刎ねてやりたかったけれど、我慢をしたよ。あの方は一瞬たりとも動揺を見せず、余裕げな笑みを浮かべていたのだからね。
その後、あの方とワタシは緋色のタートナックに連れられ戦いの場へと導かれた。
途中、戦いに向けた武器を選ぶために武器庫に通されたけれど、あの方はそれを一瞥することもなく闘技場への案内を促した。
尊大なタートナックも、その堂々たる様には屈辱の表情を浮かべていたよ。あの方は一振りの剣──このワタシだけで、百体のタートナックを相手にするつもりなのだと、そう思っていた。
あの方が闘技場の中心に立つと、長の命令を受けたタートナックたちがその場へと集結した。様々な武器を手にし、数多なる傷を刻んだ鎧は陽光を反射して鈍色に輝いていた。
何より、それらが放つ鬼気はただの魔物との格の違いを知らしめるものだった。ある程度剣に成熟した者であっても、それらを前にするだけで膝を屈してしまうほどにね。このワタシですら、数瞬踏みとどまってしまったのだから。
しかし、あの方はそれらの覇気に一切の反応を見せることはなかった。
目の前で緩やかな風が吹いたかのように、さざ波すら立たぬ些細な物事を前にしたように、鬼気迫るタートナックたちの中心で泰然自若として立っていた。
そして、たった一言告げた。──「始めろ」、と。
……そう、あの方はその手に何の武器も持たずに戦闘を始めることを宣言したのだ。
タートナックたちは当然、皆一様に驚いていたよ。無論、ワタシもね。
あの方が武器を持たずしても勝利を収めることはわかっていた。だが、あの方の体に少しでも傷をつけることは許されない。
タートナックも武器を持てと反論したよ。だがあの方はそれらに対して一言、仰った。
──取るに足らない有象無象に、剣を振ってくれる理由などない。
武の奴隷にとって、あの方の言葉はこれ以上にない侮辱だったのだろうね。タートナックたちはその目に怒りの炎を燃え上がらせ、それぞれの武器を振るい上げた。
一斉に押し寄せる武の奴隷の大波。彼らが叫んだ怒号と地を踏みしめる音が、まるで雷のように闘技場に響き渡った。
だが、あの方はその大波を片手で受け止めてしまったんだ。
美しさを開花させながらもまだまだ未熟であったワタシは、その光景に心から魅入られてしまった。剣を捌き、武器を持つ手を受け止め、重い鎧ごと地面へ叩きつけるあの方の戦い様にね。
ゆくゆくは自身の手元で操る兵隊となる者たちだ。そこで殺してしまっては意味がない。
お前も知っての通り、力を持つ者が弱者を殺さずに戦闘不能にさせるのは非常に骨が折れる。
それをあの方は何も苦とすることなく、淡々とやって退けた。力に愛された者は、力に飲まれることなく、万物を我が物にする。支配者としてこれ以上になく相応しい威容。……ああ、今でもあの気高き姿に身体が打ち震えてしまう。
魔術を使っているわけではない。あの方は振り下ろされる刃の豪雨の全てを目で捉え、躱し、掌底を振り抜く。踏み込んで荒波を貫く。響き渡る打撃音は、愚かなる武の奴隷どもに天罰を下しているかのようだった。
ワタシは理解したよ。あの方は百の奴隷どもと対峙をしたその瞬間に、相手の力量が剣を使うに及ばない程度だと判断したことにね。
──やがて、あの方以外に闘技場に残ったのは折られ、ひしゃげて使い物にならなくなった武器。地に横たわる体。
そして、無表情にそれらの光景を前にしていた緋色のタートナックだった。
『──見事』
緋色のタートナックが最初に口にしたのは、賞賛だった。
皮肉でも、屈辱でもない。表情や身振りは一欠片も変わっていないのに、その短い言葉には純粋なまでの驚嘆が滲んでいた。
無数の体が横たわる戦場だというのに、両者の視界には夾雑物が映っていない。タートナックはあの方から片時も視線を逸らさないまま、長の証である緋色のマントを脱ぎ捨てた。
剥き出しになったその鎧にはたくさんの傷が刻まれていた。それを醜いなどと称する無粋な真似はしない。
戦うことに身を投じ、真の武というものを彼なりに体現した果ての姿。鎧に刻まれた傷が、何よりも如実にそれを顕現していた。
緋色のタートナックは銀色の大剣を抜き、その刀身を蒼天に掲げる。
突き抜ける青色を分かつ一振りの剣。まるでそこが厳粛な儀式を行う聖堂であるかのように、タートナックは朗々と告げた。
『──剣を抜き、私と闘え、魔の王よ。この場に生きる全ての武の奴隷に、王としての力を示すがいい』
それに対し、あの方が紡ぐ言葉はない。
ただ一歩、歩みを進めて、開いたその手を虚空に差し出した。
あの方が剣を──ワタシを使う時が来た。
…………、……いや、なんでもないよ。
少しだけ、あの時の光景を思い出していただけだ。
あの方が剣を手にすれば、それまで抑えられていた膨大な魔力が周囲一帯の大気を食らい、天は黒雲により塗り潰された。
圧倒的な力の奔流を前にして、タートナックは矮小な自身を自覚させられたことだろう。
しかし彼は、笑っていたよ。
彼の生の中で出逢ってきた武とやらが、どれだけ狭く、浅はかなものだったのか。そして今目にしているあの方こそが、求め続けてきた真の武に至りし者だと思い知った。その悦びにね。
緋色のタートナックの哄笑は雷鳴の中で轟き、両者の刀身が振り上げられた。
やがて地を分かつほどの雷槌が闘技場の中心へ落ちた瞬間。交わされた刃は鮮やかな金属音を鳴らし、全てが白光に包まれて──、
『──これこそが、武の極地』
光の洪水が尽きたその場所で、あの方は既に剣を下ろして佇んでいた。
対し、背を向けるタートナックの剣は真っ二つに折れ、その刀身は地に落ちている。
タートナックは、敗者は、続ける。
『剣に捧げ、武に生きた。その果てがここにある結末というのなら、未練はない』
愚直に求め続けたものが、こんなにもあっさりと打ち砕かれた。果てしなく長いと思われていた道のりが、唐突に幕を閉じた。
それでも、そこに立つ武の奴隷の表情は憑き物が落ちたかのように澄んだもので、
『──殺せ。私を殺し、武の奴隷の頂点に立つがいい』
それは自然に、諦観でも皮肉でもなくこぼれ落ちた達観。頂きを降ろされた敗者がたどる当然の道。
当人だけでなく、静観をしていた武の奴隷たちも、ワタシも、それは彼らが迎えるべき末路だと思っていた。
その時だった。
『真の武。──あまりにくだらぬ世迷い事よ』
あの方が、口を開いた。
『脆い刃を掲げ、騎士道とやらにかまけ、標榜する者が武の支配者と成り得るか。──断じて否』
威風堂々と、我らの王は宣言した。
矜持を切り捨てられたはずのタートナックたちから憤怒の狼煙が上がる気配はない。彼らは目の前の人物の威厳に圧倒され、喉に声を詰まらせていて、
『力を持つ者が弱者を支配する。弱者が迎える結末など、それのみにすぎない』
ただ、ただ。それは無知蒙昧な民草に与える啓示として突きつけられて。
『武に、剣に捧げるのではない。力の支配者とは剣が、万物が、無条件にその全てを捧げる存在。貴様らの命はこの瞬間から、我が野望のために使い果たされる』
強く、強く。それはその声の主に使われるワタシに、底知れぬ昂揚感を与えて。
『──その命を使い、我の血肉となれ。“武人”ども』
武の奴隷どもの在り方を、命の理由を。あの方はいとも容易く教え示し、奴隷どもを“人”に変えたのだ。
同時に思った。ワタシの本懐は、やはりあの方の手の中にあるのだと。
……少し話しすぎてしまったか。
まあいい。お前の中身の詰まっていない頭でも、あの方の偉大さが理解出来たことだろう。
……ん、あの方が火山を噴火させた話?
フン、せっかちなものだね。馬鹿部下のくせに。それはタートナックどもを屈服させた後の話だよ。
ワタシとお前が目指している渓谷の果て。今は不自然な大穴が空く廃墟群に、かつてある大精霊が住んでいた。
タートナックどもは外の世界に出ず、己の領域だけで剣を振るっていた。故にその大精霊が彼らを危険視する必要性がなかった。
しかしあの方の膨大な魔力を感じ取った大精霊は、侵入者を排除すべく姿を現したのだよ。
荒れ狂う暴風を司り、天候を自在に操る空の主。
その存在は──巨大な魚のような姿をしていた。