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長編4-7_追想旅行 四つ目の夜明け



「──魚に似た、精霊」

 その言葉を耳にした時、頭の奥の奥で記憶の欠片が瞬いた気がした。
 しかしその瞬きはまるで流れ星のよう。姿を捉える前に、何かを思う前に、影も形もなく消えてしまった。
 後に残るのはもやもやとした既視感だけ。唇に指を当て同じ欠片を探すけれど、どれだけ探しても見つかりはしない。

 そんな混沌とした思考に終止符が打たれたのは、真横から視線が注がれていることに気づいた時だ。

「何」
「あ、いや……なんでもないです」

 心のどこかに小骨が引っかかっている感覚はある。けれど、これ以上この既視感の輪郭を掴むのは難しそうだった。
 訝しげな問いかけに両手振ると視線の主は短く鼻を鳴らし、それ以上の追求をやめた。

「それにしても、こうしてお話を聞いてるだけでも、魔王様が人智の及ばないすごい存在なんだってことがわかりますね……」
「フッ、そうだとも。無論、この程度の話はあの方の功績の一部でしかないがね」

 逞しい胸筋を存分に張って、まるで我が事のように主を誇るギラヒム様。見るからに鼻高々で、やっぱり少し可愛い。
 そして曖昧に思い描いていた魔王様像は彼の思い出話により具体性を増して、今まで以上に現実味がないものとなる。

 真の武を求め、日夜仲間同士で武器を交わしていたタートナック一族。それらを剣を使うことなく己の力のみで壊滅させる圧倒的な実力。
 これから語られるであろう大地を蹂躙する大精霊との衝突も、私にとっては異国の物語を聞いているかのよう。

 その途方もなさに一つ吐息し、私は「ところで、」と話の文脈を切り替える。

「……見るだけでのぼせちゃいそうです。そのお体」

 私の視線に気付き、主人は両腕を広げたまま口角を持ち上げる。
 視界に立ちこめる湯気。お湯に濡れて艶かしく潤う肌。朝日を反射してキラキラと輝く絹のような白髪。見れば見るほどに惚れ惚れし、対する自身を顧みて萎縮してしまう。

 ──私と主人は今、自然が作り出した天然の温泉に浸かっていた。

 湯気が沸き立つ温泉を偶然見つけたのは昨日の夜のことだった。この渓谷がオルディン火山帯に属していると耳にした時から無意識にも探し求めてしまっていたけれど、まさか本当に見つかるなんて。

 連日冷たい水での水浴びしか出来ていなかった主従共に、そこに入らない理由はなかった。
 足場が悪いため暗闇が晴れる朝を待ち、爽やかな陽光を浴びながら湯に入り、今に至る。
 言うなれば、贅沢な朝風呂ってやつだ。空にいる頃には味わえなかった環境に、私の心は浮き立ってばかりだった。

 ──のだけれど。
 明るい朝焼けの下、主人の逞しい肉体がくっきりはっきり見えてしまうのは誤算だった。
 条件は私も同じはずなのに、同質の色気を微塵も出すことが出来ない。その暴力的な美を前にすれば悔しいなんて感情は湧かず、ただただ平伏してしまう。

 当のギラヒム様はと言うとそんな美の結晶である肉体を存分にひけらかしながら、フ、と笑みをこぼして、

「そう言うお前の肉体も、イイ見た目をしているよ? 死ぬまで消えない傷がたくさん刻まれていて、ね?」
「悪趣味です……半分くらいはマスターがつけたやつじゃないですか……」

 舐めるような視線が私の体に絡みつく。……正確に言うと、私の体の傷跡に。
 彼の言う通り、私の体にはこれまでの戦いやスパルタ訓練でつけられたもの、そして主人自身がつけた消えない所有印がところどころに残っている。
 未だに疼く傷。思い出したくない傷。特別な意味を持つ傷。そこに刻まれた記憶はさまざまだ。
 そうしてそれらを思い返す時、行き着くところはいつも同じで、

「一番深いのはロフトバードがつけたものなんですよね。意外なことに」

 私は左手を自身の右肩に運び、指先でその傷跡をなぞる。
 流れた血が乾いたのはずいぶん昔の話。ロフトバードによって刻まれた傷は他にもいくつかあるけれど、特に深く残っているのがこの傷だった。
 とは言え、当時のことは私自身も記憶が曖昧だ。痛みどころか、誰のロフトバードに傷をつけられたのかもよく覚えていない。
 私は手のひらにお湯を掬い、傷を偲ぶように右肩へ流す。

「今はもう怖くないですけど、昔はあの爪やクチバシを見るだけで古傷が痛んでいました」
「……ふぅん」

 ロフトバード。空の人間にとっての翼であり、運命で結ばれたたった一羽の守護鳥。
 天地分離の際、スカイロフトへ人間たちを導いたのはロフトバードだという言い伝えを耳にしたことがある。
 それが事実だとするならロフトバードが私──魔族を目の敵にしていたのも無理はないと、今ならわかる。

 無意識にも眉を寄せる私に対し、ギラヒム様はからかうように肩を竦める。

「未練たらしく空へ行くものだから、好んで襲われにいっているのかと思っていたよ」
「情報収集のために私を送り込んでるのはマスターですー」

 私が空へ送り込まれるのは基本的に夜だ。それは人目を避けるため以上に、ロフトバードに見つからないためという側面が大きい。
 私がギラヒム様の部下となった今、彼らが敵視する魔族の匂いはより一層濃いものとなっているだろう。

 ……ちなみに、私が空へ送り込まれる際はスカイロフト本島の裏手に張った魔法陣を使用している。
 主人の魔力が詰まった魔石を使い、その魔法陣を張るまでにも一苦労あったけれどここでは割愛。全てを思い出す頃には全身がふやけてしまっていることだろう。

「────」

 明日にはたどり着く、目的地。
 武の奴隷なるタートナックたちは統率者を失い、魔王軍から離れ、何をしているのか。魔王様との追想はどこにたどり着くのか。そして、その場所で主人との“でぇと”は終わりを迎えてしまうのか。

 胸を覆う寂寥感から逃げ出したくて、私は湯船に溶けるように肩を落とす。すると、

「リシャナ」

 主人が私の名を呼んだ。やけに艶っぽく、何かに期待しているような声音。
 彼の元へ視線を送る前に、肩に腕を回され湿った肌が触れ合う感触にぞくりと体の芯が震えた。

「こっち、向いて?」
「────、」

 顎を引かれ、ただでさえ近い距離がさらに縮まる。次いで、

「傷に塗れたお前の体もイイけれど。……濡れたお前の唇を見るのも、悪くはないね?」

 湿った親指の腹が私の唇をなぞる。その感触に刺激された心臓の高鳴りを抑えていると、見透かしたような微笑みが追い討ちをかけ、魔貌がグッと距離を詰めてきた。
 なぜ唐突に、と思ったけれど、私の傷跡を見た彼の嗜虐心が鎌首をもたげたのだろう。

「え、えと、その……今ちゅーしたら、沸点超えちゃう気がするのですが……」
「へえ? それは面白いことを聞いた。馬鹿部下がこの環境で沸点を超えた場合にどうなってしまうのか、実に興味があるね?」

 その距離が再び離されることはなく、すぐさまゼロ以下に。
 濡れた唇の柔らかさと、肌に触れる吐息の生温さ。それらをふんだんに感じながら、私はキスの嵐に溺れていく。

 大地を染める朝焼けは視界の隅で燦々と輝き、私たちを見守っていた。


 ◆◇◆◇◆◇


『──魔王様ッ!!』

 飛散する血霧を目にし、ワタシは思わず剣からこの身へと姿を戻していたよ。

 風の刃があの方にとっての致命傷を避けていたということはわかっていた。しかし、あの方が血を流すことなど、数百──否、数千年もの間有り得なかったことだった。

 あの方の顔色は何一つ変わっていない。が、肩から胸にかけてを深く切り裂かれ、夥しい量の血液が地面を濡らし、やがて血溜まりに片膝をついた。

 タートナックどもはその惨状に恐れ慄いていたよ。なんとも情けのない、と思ったけれど、圧倒的な力を見せつけたあの方の血を目の当たりにしたんだ。彼らが底知れぬ恐怖を抱くのは当然のことだろうね。

 ──そして、この時のワタシの身を突き動かしていたのは剣の精霊としての本能、それのみだった。
 咄嗟に召喚した魔剣を構え、あの方の前に出る。次なる風の刃があの方を襲うのなら盾となる。そうなる以前にあの方にとっての邪魔者を排除する。その思考だけに突き動かされて、ね。

 対する大精霊はくるりと宙を泳ぎ、丸い眼球でワタシを捉えた。

『ほう……剣の精霊か。この大地に留まり数百年が経つが、本物を目にするのは実に久しい。高尚なる忠誠心を持つ貴様らが、よもや魔王などにうつつを抜かしているとは』

 物珍しげに、皮肉げにのたまう大精霊に返してやる言葉は何もない。
 同じ精霊であれど、その身を表す性質も存在理由も丸きり異なる。故に、他の同族がどう生きていようが、ワタシには関係のないことだった。

 そうして一欠片の戦意も絶やすことなく魔剣を掲げるワタシを見下ろし、大精霊は呵々と笑う。
 しかし次の瞬間。その眼は魔族に対する鬼気を宿し、黒い尾鰭が大きく振るわれた。

 同時に、嵐のような暴風が巻き起こる。巨人の手が薙ぎ払うかのごとく、風は闘技場を成していた瓦礫を持ち上げ、大地へと降らせる。

 人間どもに比べ強靭に出来た魔族の体でも、質量を持った瓦礫の豪雨に押し潰されれば一溜まりもない。
 故に、ワタシはあの方の身に降りかかる瓦礫の嵐を全て全て斬り裂いた。

 ……そうだね。通常の戦闘ならば、あの方のために戦うという血湧き肉躍る感覚に浸っていたことだろう。
 けれどその時、ワタシの戦舞の礎となったのはあの方を守り抜くという意志、ただそれのみ。

 土埃が立ち、粉塵が舞い上がる中、ワタシは大精霊の姿と背にした主の存在からほんの一瞬も意識を逸らさず大精霊の腹部へと攻め込む。

 だが、大精霊の実力は決して侮れないものだった。

 数度目に瓦礫を砕いたその時。大精霊の咆哮が大気を揺るがし、猛烈な風が襲いかかってきた。
 逆巻く強風。砂埃を巻き上げ風の凶刃が大地を滅茶苦茶に掻き回す。あの大精霊にとって、大地に生きる者はすぐにでも殺せる虫ケラ同然の存在なのだと思い知らされる。

 風の刃はワタシの肉体を斬り裂こうとはしない。が、舞い上がった土煙が視界を奪い、大精霊の巨体さえも見失った。
 四方八方に意識の矛先を向け、すぐそこあるはずの姿を探す。同時にあの方の盾になるべくその御身の前に立ち塞がった、瞬間。

『──!』

 壁となった土煙を風が貫き、そのままワタシの手の魔剣を弾き飛ばした。

 おそらく、大精霊の狙いはワタシの手首ごと武器を奪うことだったのだろうね。その目的の半分は失敗に終わった。だが、

『ちぃッ……!』

 風の刃を受け止めるための武器が奪われ、ワタシは思わず舌を弾いたよ。
 恨み言を吐き出す間もない。ワタシは再び召喚によって魔剣を携えるべく、魔力を手のひらに集めた。

 当然、大精霊はその瞬間を好機と見做す。雄叫びを上げ、巨大な体躯をくねらせた大精霊は、触れる者全てを切り裂く風の鎧を纏いワタシのもとへと突進してきた。

 狂乱する風に煽られ、集めた魔力が散り散りになる。
 そして風を防ぐための剣を持たぬまま、ワタシは──、

『!!』

 眼前に立ちはだかった緋色のタートナックが、背中から鮮血を吹き出した瞬間を目にした。

『──受け取れ、魔剣の精霊よ』

 その声は苦痛に喘ぐことも、精彩を欠くこともなく。彼は片腕を伸ばし、ワタシに大剣を差し出していて。
 鉄の仮面を被ったその下の表情は見えない。それでも彼の声音は、どこか満たされたように、解放されたかのように穏やかなものだった。

『……命拾いしおったか』

 凍てついた時間が戻ったのは二度目の風音が耳に届いた時だった。ワタシは崩れ落ちる緋色のタートナックを背にし、風の凶刃を二つに叩き斬っていた。

『やはり、大地にのさばる魔物どもは排除せねばならぬようだ。女神様と、世界の安寧のために』
『────』

 大精霊の憎々しげな怨言を前にワタシは大剣を構える。大精霊は鼻を鳴らし、次なる攻勢に移ろうとして──、

『戯言を』

 その瞬間、一つの声音が場の空気を支配した。
 ザリ、と砂を踏み締める音。気を抜けばその場にひれ伏してしまうほどの覇気が背後から襲い掛かり、ワタシは振り向かずとも声の主が不敵な笑みを浮かべていることを察する。

『世界の安寧など、訪れるはずがない。魂が憎悪に惹かれる限り、闇が息を絶やすことなど有り得ない』

 あの方が、立ち上がる。振り返ってその姿を見遣れば、片手でかばわれていた胸の傷は何事もなかったかのように癒えている。
 それ以上に見る者を驚かせたのは、その手で渦巻く魔力の螺旋だ。あの方の姿と赤黒い光を放つ魔力を交互に見比べ、大精霊は不穏な気配に眉をひそめ──、

『見るがいい』

 あの方が立つ地面に、魔力の渦が叩きつけられる。
 起きたこととしてはそれだけだ。あの方が何をしようとしたのか、ワタシにすら瞬時に理解出来なかった。
 だが、その答えはすぐに突きつけられた。

『……まさか、』

 ──地面が、大地が、脈動している。
 目先に浮遊する大精霊。その存在が霞んでしまうほどに巨大な生物の胎動が、この場にいた全ての者に聞こえていた。

 不可視の化け物が足元を這っているのか。否、あの方の魔力が地を巡っているのか。
 その推測は正解であり、誤りだった。
 確かにあの方の魔力は我々が立つ地面を駆け巡った。しかしそれは、あの方が地に手をついた一度きりのこと。

 そのはずなのに、地面の脈動は次第に強く、激しいものへと変化していく。遠い地鳴りがすぐ足元の地響きに。小刻みな揺れが、激しい振動に。
 やがて大精霊が丸い眼孔を目一杯押し開いた、瞬間。

『大地は、我の手に有り』

 神々しい宣言とともに、大地に唸り声が轟いた。一同が誘われるように天を仰ぎ、咆哮の正体を目にする。

 音の主は、この地を見下ろす山々。それらは赤い炎を噴き上げ、空を真っ赤に染めていた。


 その後の光景は、筆舌に尽くしがたい。
 あの方の指揮に合わせ、炎の竜が舞い、踊る。うねる体躯が大地を焼き焦がし、火の雨が降り注ぎ、噴火した山々によって世界が赤く彩られていく。
 その果てに、あの方がゆっくりと片手を上げ、大精霊を指し示す。炎の竜は喰らうべき獲物を見つけ、歓喜するかのようにとぐろを巻く。

 逃げ出そうとした大精霊は火山から吹き出る熱風に退路を断たれ──後は、炎竜に体を食い破られるのみだった。