Twice_09


俺は伊織にあんなん言われても、なんだかんだ言うて力になれるはずやと、どっかで高をくくっとった。

せやけど目の前にしたその光景に、俺の足は一歩も動かんやった。

どうにも出来ん悔しさが、伊織を見るたびに、千夏さんを見るたびに……確実に積もっていった……。

















Twice.











9.








「千夏さん!いるよね!……っ、入るよ!」


付いて来るな!!

何度も俺にそう叫びながら、振り返りながら走っとった伊織は、案の定千夏さんの家の前で足を止めた。

言うても無駄やと思ったんか、その頃にはもう俺にも何も言わんと、二階建てのアパートの階段を急いで上って、鞄の中から合鍵を取り出して、部屋を開けた。


「千夏さ……ッ……!」

「……っ……なんや、この臭い……」


俺も、千夏さんのアパートには二回くらい来たことがある。

決して広うないアパートやけど、それなりに工夫された女の子らしい部屋で、ようアロマキャンドルを焚くと言うとった通り、ええ匂いのする部屋やった。

やのに、今はそのアロマキャンドルと、酒と、タバコと、いろいろ混ざったおかしな異臭がしとった。

伊織は開けた瞬間に、中におる千夏さんを見たんか、状況がまだわからん俺を取り残して部屋の中に入って行った。

そん時、俺はようやくキッチンと部屋の隔たりを無くした扉の僅かな隙間から、千夏さんがおる部屋の中を垣間見ることが出来た。

出来た……けど……一瞬、なんやようわからんかった。


「ねえ大丈夫!?起きれる!?」

「ん、う……ぅぇ……ぇぇ……っ」


伊織が扉を開けると、余計に異臭が鼻を衝きよった。

千夏さんはほとんど半裸の状態で、胸から下を……恐らく、嘔吐したんやろう、自分の物で汚しとる。

ものごっつい気分の悪そうな声と、真っ青な顔で伊織を見上げて、違う、と首を振る。

扉が死角になっとるせいか、俺には気付いてへんかった。

伊織はそんな千夏さんの姿を見て、悲痛に顔を歪ませた。その視線が、顔から頭に流れていく。

俺も同じように伊織の視線を辿ったら、髪の毛と顔には、最初はゴミが付いてんかと思たけど……多分、ひっかけられた液体やろう……何が起こっとったかすぐにわかる証拠に塗れとった。

周りには缶ビールから酒のボトルが転がって、食料も散乱しとる。

さすがに、気持ち悪なった。


「なんで?ねえ、お酒全部捨てたよね?」

「……う……伊織ちゃん……気持ち悪い、違う……して、ない……」


「ねえ、お酒、どこで買ったの?」

「そんなの、あはは、ははは、コンビニ、コンビニ、ははっ、ふ、ふふ……」


酔っ払っとるっちゅうよりも、気が触れとるような喋り方。

俺の存在に気付かんまま、千夏さんは目をぐるぐる回転させながら、なんとか伊織の質問に答えとった。

伊織は即座に近くにあるティッシュを大量に取って、千夏さんの髪の毛と顔についた液体を取る。

その後すぐ、俺がおるキッチンでタオルを濡らして、千夏さんの身体にかかっとる嘔吐物を片付け始めた。

あかん、俺も手伝わなと靴を脱ごうとしたとき、伊織が部屋の中からそれに気付いて、強く首を振った。

出てって、と俺に口で象る伊織に、歯を食いしばる。俺は動かんかった。出て行けるか。

そんな俺に構っとれんのか、それとも諦めたんか……またすぐに、伊織は千夏さんに向き返った。


「どうしてコンビニ行ったの?」

「お財布、お金なかったから、ATM……」


「お財布、帰る前に確認したよ?二万円入ってたはずだよね?」

「…………ご飯、お腹空いた……本当、本当」


「ご飯、わたしが作って帰ったじゃん……ほら、これ、食べてないよ?嘘、つかないで。ね、怒ってないから。お酒とか、男の人とか、欲しくなったら電話してって言ったよね?」

「あたしが買ったんじゃないよ!!」


千夏さんはいきなり激情にかられたみたいに叫んで、近くにあるカップの中の水をぶちまけた。

伊織は、それが服にかかっても、眉間に皺を寄せただけで、相変わらず汚物を片付けながら聞く。

なんやこれ……千夏さん、こんな人やなかったで……。


「じゃ誰が買うの?男の人が買ってくれた?」

「…………」


「買ってって言ったんじゃないの?」

「勝手に買ってくれたんだよ」


「……そんなわけないよね?」

「要らないって言ったよ、伊織ちゃん、あたし、要らないって言ったのに、勝手に買ってくれたんだよ」


「だからしたの?したくなったら、わたしのこと呼んでって言ったよね?」

「伊織は女じゃん!伊織じゃだめなんだよ!!お前は女じゃないか!」


千夏さんは、別人みたいになっとった。

伊織に対して、母親に甘えるような物言いをしたかと思えば、突然激怒しよる。

酔っ払っとるせいもあるんかもしれんけど、少なくとも俺は、こんな千夏さんを見たことがなかった。

それでも伊織は堪えて、感情を表に出さんように、一生懸命千夏さんに問いかける。

せやけどどれもすぐに嘘で返されて、その度に伊織の目の色が消えていく。

見とるだけで、伊織が苦しんどるんがわかる……見とるだけで、辛い……。

その直後、千夏さんが伊織に怒ってそっぽを向いた時やった。


「やだっ!あああああ!!」

「だめ。勝手に買ってもらった物なら捨ててもいいでしょ」

「やだ、やだ、やだ!やめろ!ああああああ!!」


伊織がウイスキーのボトルを手にしたら、それに気付いて悲鳴を上げた千夏さんは伊織にしがみついた。

伊織は何度もその手を振り払う。

せやけど千夏さんは遠慮なく伊織の腕を引っ張って、伊織が流しの前で瓶の蓋を開けた途端、ついには背中を殴りだした。


「ちょ、やめやっ……!」

「侑士、帰って!」

「あほか!ちょ、千夏さ……!」

「うわあああああああああ!!」

「――伊織ッ!!」


俺が靴を脱いだ直後やった。

背中を思い切り掴まれた伊織が、その反動で身体を大きく揺らされて、壁に叩きつけられて、頭から鈍い音をさせとった。

痛がる伊織にも、大きく叫んだ俺にも見向きもせんと、千夏さんは、顔が歪んだ伊織の手から零れ落ちそうになったウイスキーのボトルを毟り取って、蓋を開けて口に運んだ。


「千夏さん!だめ!!」


伊織は頭の痛みを堪えるように益々顔を歪めて、千夏さんに掴みかかる。

情けない……俺はそこに手を伸ばすことも出来んくらい、目の前で起こっとる事に愕然としとった。


「うるさい!!離せ!飲ませろ!!お前に関係ない!お前に関係ない!指図するな!」

「だめ!!」


伊織が千夏さんを突き飛ばす。

千夏さんの手からすぐにボトルをもぎ取って、流しに捨てた。……めっちゃ、咳き込みながら。

俺は慌てて伊織に駆け寄って、「大丈夫か?」って背中を撫でたけど。

伊織は小声で、俺に「帰って」と呟いた。

瞬間、反対側から千夏さんが大声で泣き叫ぶように、伊織に掴みかかる。


「やめろ!」


俺が止めようとしたんも束の間やった。

千夏さんはどこか諦めたように、伊織の胸元を何度も殴って、伊織の顔を何度も引っ叩きながら、泣き崩れた。

伊織は叩かれたことを気にするでもなく、「ごめんね、ごめんね」と何度も何度も謝りながら、千夏さんを……抱きしめとった……。














*  *













俺は、またその後すぐに伊織に「帰って」と小声で言われて、部屋を出た。

俺が出来ることなんか、なんもなかった。

せやけど家に帰ることなんかよう出来んかったから……部屋の前で、中の声を聞きながら、伊織を待った。

しばらく泣いた千夏さんが落ち着いてから、シャワーの音がし出して……その後、小さな物音が継続的に聞こえた。部屋の片付けを、伊織がしとるんやろうと思った。

それくらいなら、俺にやって手伝えたんやないかと思ったら、部屋を出た自分に、後悔が襲ってきた。

伊織が部屋から出てきたんは、俺が出てから二時間後やった。


「……っ、侑士」

「……帰ることなんか、出来んよ……」


部屋から出てきた伊織は、階段の下で待っとった俺に、一瞬は目を見開いとった。

やけどその表情が、俺を見て段々歪んでいく。

目にいっぱい涙を溜めて俺を見る伊織に、俺はもう、なんて声をかけたらええんか全然わからんで……伊織があそこまでせなあかん理由なんかなんも無いのに、伊織の中でその理由を作ったんが俺の存在のせいなんかと思ったら、もう、耐えれんかって……。


「……ッ!……侑……士……ぅ、っ……」

「……堪忍伊織……こんまま泣いてええから……ホンマ、情けない……こんなことしか出来へん……。大丈夫か?顔、めっちゃ叩かれとったやん。痛かったやろ?堪忍な……、俺、なんも……」

「う、うっ……大丈夫……っ、侑士……っ……うぅ……ごめんっ、……ご、ごめっ……侑士、うっ……侑士……ごめんねっ……」


手を引いて抱きしめたら、堰を切ったように泣き出した。









俺は、その背中を何度も撫でた。撫でた分だけ、伊織はなんでやか俺に謝った。

伊織の泣き声を聞いとるだけで辛くなる。

せやけど、思い切り泣かせてやりたかって、俺は黙って背中を撫で続けた。

しばらくしたら、伊織の泣き声もゆっくりと落ち着いてきて……俺はようやっと、口を開いた。


「なあ伊織、何がごめん?伊織、何も悪いことないやんか」

「だって、ゆ、侑士に見せたくなかった……あんな、千夏さ……っ……だからっ……」


「なんでや?俺が勝手に付いてって見たんやん。なんでお前が謝るんよ」

「だって、侑士、ショック受け……うっ、……」


「あほか。そんなんどうでもええっちゅうねん。俺は伊織が辛いほうが嫌や」

「そ…………っ、う、……わたしは、大丈……っ……」


「大丈夫ちゃうやん。こんな泣いて……」

「……っ!」


俺の胸に顔を埋めて必死にしがみついとった伊織の力が弱まって、その拍子に伊織の濡れた頬を持ち上げて親指で拭ったら、伊織は、俺から目を逸らして俯いた。

俯かれた途端、俺もいきなり恥ずかしなる。

そうや……つい忘れとったけど、こいつ、俺んこと好きなんやった。

ちゅうか……伊織にこんなに触れたん、初めてや……あああかん、なんや、めっちゃドキドキしてきた。


「あ、あ、堪忍。あ、ちょお待って、ハンカチあんで。あ、ほら。な?これで拭いたらええ」

「……うん、……う、うん……ありがと」


「……帰ろか。な?送るで」

「あ、う、うん!うん、帰る……お腹空いたし……」


よっしゃよっしゃ、ほな帰ろ、と同じこと繰り返しながら歩き出す。

とりあえずは胸の鼓動を落ち着けてから、伊織に細かいことを聞いてみよ。

ちゅうか……俺、完全に意識しとるやん。なんやこの単純さ。


「千夏さん、あの後どうやったん?」

「うん。寝かせた。泣きつかれて落ち着いたから、お風呂に入れてね。身体擦ってあげると、喜ぶの。汚い物を落としてもらってるみたいって。自分が擦っても、綺麗にならないって思ってるみたい。お風呂あがったら、お酒も入ってたから、すぐに寝てくれたよ……それじゃだめなんだけどね」


少しだけ笑顔になって話す伊織に、胸が締め付けられる思いやった。

ホンマに嬉しそうなんやもん……なんや……健気やし……また、抱きしめたなる。

……あれ?俺……あー、もう、調子狂うわ……なんやもう〜〜〜〜!


「ああいうこと、結構あるん?あんな、手、あげられたり」

「ああ、あれはしょっちゅう。……今までも何回かあるし、それは、いいけど……嘘ついたりとかね、お酒にしても、男の人にしても、全然改善しないから、ちょっと、疲れてきちゃって……」


「……さよか……」

「今度の病院行き始めてから、余計荒れちゃって……いろいろ規制が掛かったせいもあるんだけど……侑士にね、手伝って欲しくない理由もそこにあるんだ」


さっきはごめんね、と困ったように笑いながら。

俺が首を振ったら、ぎゅっと一度唇を噛んでから、項垂れるように言った。


「男性との接触を絶つために、仕事を辞めなきゃいけなかったんだ。千夏さん、あの職場好きだったみたいだから、少しショックだったみたい。今は病院の紹介で内職とかしてるから、生活はなんとか、大丈夫なんだけど……男の人は勿論、恋愛とか、お酒のこと、考えることすらいけないから……だから侑士のことも、過去に彼女が恋愛した人のことも思い出させたくなくて……よく考えてみれば酷だよね……女性にとっての恋愛は重たさが違うし……やっぱり、苦しいみたい。時々は何事も無く終わる日もあるけど、隠れて飲んでたり、今日みたいに男の人連れ込んだり……。だけどわたし、見張ることも出来ないから、結局一緒に闘ってることにならないんだ。なるべく彼女が外に出なくてもいいように……食事とか……やってるけど……」

「伊織……」


「ごめ……っ、また、……」

「ええんよ、ええんよ。誰も居らんから、泣きたいだけ泣いたらええ」


つまり、男の俺がどんな形であれ今は千夏さんとの接触はせんほうがええ。

せやから伊織は、俺に何度も「帰れ」って言うたんや……それだけやないんやろうけど、納得は出来る。

それやったら俺は、伊織の支えに、どうしたらなれるんやろうか。


「彼女自身、しっかり治すって気力がないと無理みたいなんだ……担当医がそう言ってた。今、それを望むのは酷なのかも。徐々に、この現状に慣れていくしかないんだろうね。だけど思ってたよりもキツくて……あー、わたし、ナメてたんだな〜って。この病気のこと」

「…………なあ、伊織」

「ん?……あ、でも諦めないよ!ナメてたんだって自分にショック受けただけで、全然――」

「俺、伊織が千夏さん家に行く日、送り迎えしたあかん?」

「へ……?」


俺がそう提案したら、俺の差し出したハンカチを握り締めたまま、伊織はぽかんと口を開けた。

気付いたら、もう伊織の家まで数歩のとこやった。おばちゃんご飯のええ匂いがしてきよる。

あー、俺も腹減ったわ。


「今日はどうやったとか考えて、辛いとか、今みたいに泣きたいときとか、一人やったら、もっと辛ない?話し相手がおったら、ちょっとは違うんちゃうかって……。あ、千夏さんに会うようなことは絶対せえへんよ。せやけど、伊織が千夏さんに会う日、行ってくるって言える相手がおったりさ、帰るとき、辛いことあっても、こないして、話せて、泣き顔も見せれる相手がおったりさ……気分、少しでも晴れへんかな?」

「……でも、侑士、部活だってあるし……」


「なんとでも調整出来るって!それに跡部もな、最近あれや、めっちゃサボりーやねんで。何しとんか知らんけど……全国近いのに何考えとんやろな。ああ堪忍、そんなことどうでもええわ。いやあのな、ええねん。部活で動かんかった分、家で動いたら筋トレにもなんねん。それか、伊織に相手してもらってもええしな!夜に出来る綺麗なテニスコートあんねん、近くに!昔よう相手してくれてたやん!めっちゃ下手やけど!」

「あ、う、うっさいなあ!下手を教えるだけで勉強になるって言ってたじゃんか!」


「せやあ〜?やから、ええ提案やんか。どない?」

「……侑士が、いいなら、……それは、いいけど……本当にいいの?」


「当たり前やん。それに、俺も伊織の様子見れるんやったら、安心や」

「……ありがと、侑士」


ようやく俺を見て笑顔になった伊織にほっとした時、玄関を開けたおばちゃんが顔を覗かせてきた。

侑士くーん、ご飯食べて帰ったら〜?っちゅう嬉しすぎる言葉に甘えて、その日は夜中まで、伊織と一緒に居った――。












「ほな、今日も帰る前にメールしてな」

「うん。ありがとね、侑士」


「……好きでやっとんねん……な?」

「うん、でも、ありがと」


わたしがそう言うと、侑士は何故だか少し困った顔して笑ってから手を振って学校へ向かった。

侑士が送り迎えをしてくれるようになってから、二週間。

どこの学校ももう夏休みに入っている。侑士も全国大会に向けて忙しそうだ。

だけど、侑士はあの日から、千夏さんに会わない日も毎日わたしに会うようにしてくれている。

こんなに甘えてしまったら、侑士に次の彼女が出来た時、今まで以上のダメージを受けてしまいそうで少し怖い……だけど、やっぱりどうしたって嬉しかった。

あの日、初めて侑士に包まれた。信じられなかった。

まさか抱きしめられるなんて思ってなくて、でも喜ぶ暇もないくらい疲れて、泣きじゃくった。

余計侑士のこと、諦められなくなるって気持ちも一緒に混ざって、泣いている気がした。

この頃、侑士が今まで以上に優しくて、わたしを大切にしてくれるから、正直、複雑な心境でいる。

どうしよう……本当に、今までもすごく、だったけど……でも、益々侑士のこと、好きになってきてる。


「千夏さーん、起きてる〜?おはよ〜」

「……今、起きたとこ」


「すごい眠たそうだね〜。しっかり寝た?」

「うん、大丈夫。最近は、大丈夫」


この頃の状況は少しだけ落ち着いてきて、とりあえずは順調な日々を過ごしていた。

二週間の間に千夏さんが接触を持ってしまったのは二回、お酒は三回ほど口にしていたけれど、以前に比べればマシな方で、最近は黙ってわたしに従ってくれる。

夏休みのおかげで、ずっとわたしが傍に居れるということもあるだろう。

まさかわたしの目の前で欲求を満たすわけにもいかないだろうから。


「伊織ちゃん、あれ、持ってきてくれた?」

「あ、オセロでしょ?持ってきたよ〜。千夏さんの仕事が落ち着いたらやろう。わたしは横で宿題してるから。朝ごはんまだだよね?何か作ろうか?」


「うん……オムレツ、食べたい」

「いいよ!じゃあ作ってるから、千夏さんは仕事してて。嫌だったら、掃除しよう。ね?」


「うん」

「うん、よし!さー、じゃー作るかなー!」


千夏さんの欲求を他に向けるには、千夏さんが集中して出来る内職の仕事をするか、掃除をするか。

気を紛らわすために一緒にゲームをしたり。一緒にお化粧の練習をすることもある。

彼女の負のエネルギーを、セックスとアルコール以外で発散させる。それが今出来ることだった。


「伊織ちゃん」

「ん〜?」


最近発見したことらしいのだけど、千夏さんは卵が好きで、卵料理を食べると元気が出るみたいだ。

だからわたしも注文されると腕を振るってしまう。

卵料理を食べるだけで欲求が少しでも抑えれるなら、こんなにいいことはない。

鼻歌を歌いながら作っていると、いつの間にか千夏さんが後ろに立っていた。


「あたしも、一緒にやろっかな。伊織ちゃんの、美味しいし、教えて?」

「え……うん!いいよ〜!勿論だよ!」


千夏さんが久々に笑って、自ら進んで台所に立ってくれたことが本当に嬉しくて。

大したオムレツでもないのに、なんとなくレシピまで書いてしまう始末。

出来上がりはいつもよりも遅く、そのかわり、大きめのオムレツになってしまった。


「食べれなかったら、伊織ちゃん少し食べてね?」

「うんうん、お安い御用で」


千夏さんが、もう一度笑う。

このまま順調に、次の通院まで過ぎていってくれれば、先生にもいい報告が出来ると思った時だった。


「あのね、伊織ちゃん、あたし、決めたんだ」

「うん?」


御機嫌なまま、わたしがホットミルクをマグカップに入れて持っていくと、千夏さんはオムレツをスプーンで掬いながら、突然そう切り出した。

まだ真夏だというのに、クーラーが効き過ぎているせいなのか、少しだけ肌寒いと感じた瞬間。

それは、クーラーのせいじゃなかったのかもしれない……予感。


「あたし、入院する」

「……え?」

「伊織ちゃんのこと、もう傷つけたくないし……結局はね、自分で治すしかないと思うんだ……」


聞いた瞬間、耳を疑うのと同時に、その入院という言葉に絶句した。

もちろん、入院した方が、回復に有効だという事実はよくわかる。

だけど以前、千夏さんと二人で入院施設を見学した時、彼女は怖がって入院だけは嫌だと訴えてきた。

悲痛な叫び声や依存に苦しむ患者を大勢見たわたしも、彼女を入院させたくないと思った。

あそこは、たったひとり、孤独に依存と闘う場所なのだ。自分自身との、苦しい闘いを強いられる場所。

あの日見た患者の、「殺してくれ」という叫び声が頭から離れない。

いくら回復が早くても、酷だと思った。そもそも入院させるくらいなら、一緒に闘おうなどと思わない。

あくまで、わたしは自宅療養に拘りたかった。千夏さんが、なるべく、辛くないように、怖くないように。

どんなに時間がかかってもいい。自宅療養で治る人だってたくさんいるんだから!


「…………千夏さん、ちょっと待っ……」

「今までそうしなかったのが、伊織ちゃんに甘えてた証拠……あたしね、わかったんだ……甘えてるままじゃ、きっと、治らないし……」

「だめだよ……あんなに嫌がってたじゃん。ねえ千夏さん、病院にわたしは居ないんだよ?話し相手はどうするの?気が紛れないよ?」

「看護婦さんと、話す……」

「看護婦さん、ずっと千夏さんの傍にいるわけじゃないよ?独りの方が多いよ?怖いって言ってたじゃん」

「うん……怖くて、決心つかなかった……だけど、もう決めた。最初から、そうすれば良かった……」

「ねえ、ちょっと待って、とりあえず、先生と、相談し――」

「――もうしたの。だから決めたの。入院する」


千夏さんの目には、一点の曇りもなかった……わたしは心の奥底で、それは嫌だと、叫んでいた――。





to be continued...

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