ダイヤモンド・エモーション_13


13.


9月も下旬にさしかかった。だんだんと涼しくなってきたころに、伊織さんはようやく俺の店に来てくれた。月曜だったが、舞台のキャンセルが出て休日対応していたらしく、今日は振替休日なんだそうだ。内心、じゃったらうちの店休日と合わせてくれればええのに、と思ったが、うまく都合がつかんかったんかもしれん。ダダをこねるなと言われそうで、やめておいた。
付き合ってから最初のころは、「恥ずかしいのでまたの機会にさせてください」と来店を嫌がっていた伊織さんだったが(俺が店の前でいろいろしたし、このあいだの失態もあるからか?)、婚約指輪を発注してからの伊織さんは、ずいぶんとご機嫌だ。伊織さんの機嫌がいいと、俺も調子がいい。

「あ、仁王さんの奥さん! こんにちは!」
「えっ、おくさ……あ、こ、こんにちは」

伊織さんの仕上げにかかろうとしていると、休憩からあがってきたいちばん下っ端のスタッフが大声で伊織さんに声をかけて、そのまま忙しなくどこかへ行った。いつも俺のことを「殿」と茶化して呼んでくるあいつは、昔の俺によく似ている。おそらくいまも、俺が近いうちに指輪をつけはじめて、お客さんたちがややこしくなる前に、一気に混沌を片づけようっちゅう、あいつなりの計らいなんじゃろう……が、店内の女性客の目が一斉に伊織さんに向けられたことで、伊織さんは見るからに縮こまった。

「ま、雅治さん……怖いです」
「大丈夫だ。もうすぐ終わるし、堂々としちょきんさい。それに、いちばん厄介そうなリーザが折れたんじゃき、なんも怖がらんでいい」
「た……たしかにそうかもしれませんがっ。こんな、肩身が狭いではないですかっ」
「伊織さんが嫌なら、個室いくか? ちょうど空いちょるし」
「逆効果ですっ。最初からならいいですけど、こんな終わりかけに……それにいまの挨拶のあとじゃ……も、まだ奥さんじゃないのに……っ」

若干だが、店のなかが緊迫感に包まれた。ほかのスタッフにコソコソと聞いているお客さんもいる。まあ俺としては、ここから噂が広がるならちょうどいい。今日は店休日前じゃから、明日、面倒な客に押しかけられることもないし。

「殿、オレいい仕事するっしょ?」

暴露した本人が、相変わらず忙しなく動きながら、とおり過ぎるついでにニヤニヤと聞いてきた。

「調子にのりなさんな」
「えー? いい仕事しますよねえ? 伊織さん」
「どこがですかっ」

伊織さんが小声で吠えると、ヤツはケラケラ笑いながら仕事に戻った。まったく、やんちゃなヤツほどかわいく見えるから、俺も困ったもんだ。
伊織さんには悪いと思いつつも、つい頬をゆるませながらワックスを手につけたときだった。受付スタッフの声がワントーンあがって、あきらかに喜んでいたことで、俺は入口に目を向けた。

「忍足さん、いらっしゃいませ!」
「まいど。今日は切りに来たんちゃいますけど」
「そうだったんですねー! あ、彼女さんも、ご一緒で……」
「どうも、こんにちは!」

忍足は密かに、うちの女性スタッフに人気がある。本人はまったく自覚していないようだが、このあいだのシャンプー練習や、彼女とペアの来店で、女性スタッフのほとんどはかなり落胆していた。ろっ子ぐらいだったな、どうでもよさそうだったのは。いまも女性客の注目を一気に集めちょる。モテるヤツやのう……。

「おう、忍足。どうした」
「仁王、悪いな、営業中に。ちょっと用があってな。あれ……自分」
「忍足さん、お久しぶりです」

忍足が伊織さんに気づいて目を見開くと、伊織さんもわずかにはにかみながら会釈をする。
そこに、忍足の背中に隠れて見えなかった彼女が、伊織さんに近づいてきた。

「あ、ねえ、覚えてるかな、わたしのこと」
「え?」

彼女に話しかけられて、伊織さんは目をまるくしていた。大石の結婚式二次会のとき、伊織さんは幹事をやっていたし、忍足の彼女も二次会に出席していたからだろう。しかし、どうも伊織さんは覚えちょらんようだが。

「申し訳ありません。わたし、覚えていなくて……」
「あ、全然いいの! 結婚式の二次会で、幹事のときにちょっと挨拶したくらいだから」
「そうだったんですね! すみません、失礼ですよね」
「全然、いいんだって!」
「あの……忍足さんの、彼女さん、なんですね?」
「そう、はじめまして……じゃないんだけど、こうして話すのは、はじめましてかな」
「はじめまして。ああ、でもよかった。ちょっと安心しました」
「へ?」
「あっ、いえ。こちらの話です」

なにを思ったのか、伊織さんがぶつぶつとひとりごとを言っていた。なにに安心したんじゃろうか。まあここで聞いても、答えてはくれんだろうな。
このあいだ忍足たちと飲むことになったのは、忍足の彼女があの人の元同僚だったからだ。あの人からなにを聞いていたのか、忍足の彼女は俺のことを警戒していた。俺はその誤解を、忍足と伊織さんのためにも解きたくて、ふたりを飲みに誘った。そこで、伊織さんがあの家族にされたことをさんざん語ったせいか、忍足の彼女は伊織さんに優しい目を向けている。ふんわりとした空気に、安心する。俺を見る目も、すっかり優しくなっちょるし。

「ふたりとも、髪の調子はどうだ?」
「おお、めっちゃ快適。やっぱカリスマイケメン美容師に切ってもらうと違うわなー」
「やめんしゃいって言いよるじゃろ、その呼び方」まったく、バカにしてから。
「でも本当に、なんだか髪が綺麗になったねって。侑士さんとも話してたとこなんです」
「そうか、ならよかった」

さっきまで縮こまっていた伊織さんだったが、緊張がほぐれたようにくすくすと笑っている。伊織さんはどういうわけか、忍足が好きだ。忍足は、この店に彼女と来たときに、彼女が俺をまじまじと見たことで妬いとったが、それは結局、あの人の元同僚だったからだ。それで忍足も納得できたようだが、一方で、こっちは状況が違う。伊織さんがなんで忍足を好きなんかようわからん俺としては、俺も嫉妬しそうになる。ま、そういう意味の好きじゃないことは、百も承知じゃけど。

「それで? 用っちゅうのは?」
「おお、そうそう。絵本ができたからな、持ってきてん。作者の右手が治ったら、サインしたってもええで」
「おお、そうか。そりゃありがたいの」

その発表に驚きもせず、俺は淡々と応えた。ちゅうのも、もうその絵本がうちにあるからなんだが。だいぶ前に、伊織さんがちゃっかり本屋で買ってきていた。

「はい! 仁王さんも、よかったら読んでくださいね」ま、もう読んだんじゃけど。「あ、彼女もぜひ!」ひとことも、妹さんと言わないところに、彼女の優しさを感じる。
「わあ! 素敵な絵本ですね! 帰ったらすぐに読ませていただきます。いいんですか? いただいて」

伊織さんのほうは、キャラにそぐわない大げさなリアクションをして、忍足の彼女を喜ばせていた。すでに買っているから内心は苦笑しているんだろうが、それをわざわざ口に出さないところに、伊織さんの優しさも感じる。あー、いかん、また惚れなおしちまうのう。

「用はそれだけやから。お前には世話になったし、特別サービスや」
「悪いのう、気を遣ってもろうて」
「ええねん。こないだもおごってもらったしな。また行こうや。今度は4人でもええし」
「だな」

言いながら、ちょっとした提案が俺の頭のなかでひらめく。
ひょっとしてこれ、実はいいチャンスなんじゃないかのう?

「ふたりは、これから時間あるんか?」ちょうど昼だ。タイミングもいい。
「え? ああ、あるけど。ランチでも行こかって話しとったとこ。なに? お前、時間とれるん?」
「いや、俺はちょっと抜けれんのじゃけど、食べてないならちょうどいい。うちの彼女も連れてってくれんか」
「えっ! ま、雅治さん、それはちょっと、お邪魔ですよっ」

慌てだした伊織さんの肩をぐっと押さえた。そんな堅いこと言わんでもいいのにのう。邪魔っちゅうたって、こいつらどうせ毎日イチャつきまくっとるだろ。まあ……俺らも人のこと言えんかもしれんが。

「わたしたちは全然、大丈夫ですよ。彼女さえよければ、ぜひ! ねえ? 侑士さん」
「ああ、うん。全然かまわんけど」
「って、言うてくれちょることだし、行ってきんさい」
「し、しかしですね。おふたりはデートではないのですか?」

伊織さんと彼女が話しているあいだに、俺はいったん手を止めて、忍足を少し奥まったところに呼んだ。

「ちょ、なんや仁王、内緒話か?」
「ん、ちとな。すまんの、いきなりで。おごったりせんでええから」
「いやいや、そんなんええよ。ちゅうかおごるわっ。お前の彼女に払わせるなんかできるわけないやろ」
「そのぶん、あとで俺に請求してくれてええから」
「ええっちゅうねん。変なとこで律儀なやっちゃな。内緒話、そんなことなん?」

チラチラと横目で伊織さんたちの様子を見ながら、忍足は首をかしげた。女性陣はまったくこっちの様子を気にしていないだけに、俺も話しやすい。

「ん、なんちゅうか。俺の彼女とお前の彼女、気が合いそうやと思ったんよ」
「さよか……まあたしかに。共通点もあるしな」暗黙に、あの人のことを言っている。
「お前の彼女なら、伊織さんのいい友だちになってくれるんじゃないかと思ってな」
「はあ、なるほど。そういうことか」

忍足はゆっくりとうなづいた。伊織さんと忍足の彼女をとりまく雰囲気を見て、納得したようだ。現にもう、話が盛り上がっている。賑やかな女性陣の声は、少し離れた俺たちにもしっかり聞こえてきていた。

「お前もよう知っちょるじゃろ。伊織さん、ちと堅物やからの。あんまり友だちおらんのよ」伊織さんには悪い気もするが、そうとしか伝えようがない。
「ははっ。ああ、それはうちの彼女もちょうどええかも。友だち、ひとり失くしたばっかりやしな。ずいぶん元気になったんや、あれでも」
「そうか……」忍足の彼女はおそらく、俺の話を聞いたあと、あの人に傷つけられたんだろう。「忍足、ホスト頼めるか?」

ふっと忍足が笑う。ぽりぽりと頭をかきながら、「どいつもこいつも……」という口調とは裏腹に、嬉しそうだ。

「どいつもって?」どいつじゃ?
「いやいや、ええねん、気にせんで。しかしお前、ホンマに好きやなー、彼女のこと」ニヤニヤと俺を見てきた。
「お前に言われとうないぜよ。誰じゃ、シャンプー教えろって言うてきたんは」
「はいはい、俺らお互いさま。二人して捨てられんように、ぜいぜい頑張ろな」
「じゃの……なんとなく、尻に敷かれる未来が見えるのけどのう」
「仁王、惚れたもん負けやから、それは」

お互いが笑いながら、軽快なキャッチボールを交わした。忍足も幸せそうだと感じる。それが、妙に嬉しかった。

「よっしゃ、まかせとき。お前にホスト頼まれるん、これが最初ちゃうし」
「そういえば、そうじゃったのう」

いつものことや、と憎まれ口を叩きながらも、忍足はにっこりと笑って女性陣のところへ戻って行った。
不思議なもんだ……中学のころは、忍足にこんな友情を感じることになるとは、思ってもなかった。





「おかえりなさい、雅治さん!」

帰宅すると、伊織さんのご機嫌は増していた。帰ってきた俺に玄関先で抱きついてキスしてきたことで、俺が目をまるくしたくらいだ。こんなの、されたこともない。どうしたんじゃろうと思っても、考えられるのは忍足たちとのランチくらいしかないが。

「どうしたんじゃ、伊織さん。えっらいご機嫌じゃのう?」
「はい。雅治さんが提案してくださったランチのおかげで、本当に素敵な1日だったんですよ、わたし!」

案の定だと思うと、瞬時に笑みがもれでていった。

「そうか、楽しかったか?」
「はい、すごく楽しかったです。忍足さんの彼女、『ざわざわきらきら』の作者の方だったなんて思いもしませんでしたから、それにもとっても驚きました。あの右手でどうやって描かれたのか、不思議で仕方ないです。いろいろお話を聞いてみたんですけどね、どうやら」
「ちょ、ちょい待ち伊織さん。興奮しとるようだが、部屋に入って、食事でもしながらゆっくり聞かせてくれんか?」
「あっ……すみません、わたしとしたことがっ」不覚でした、と頭をさげる。出会ったころの伊織さんを思いだして、笑いそうになった。「雅治さん、まだ靴も脱いでませんもんね」
「ん……まあ、そういう伊織さんも、かわいいけどの」

さっきのお返しに唇に短いキスを送ると、伊織さんは照れくさそうに首を少しさげて、微笑んだ。まったく……狙っとらんところが、たちが悪い。最近は堅物の伊織さんと、こんなふうに少女に戻ったような伊織さんを交互に見せられて、俺は死にかけだ。ギャップ萌えっちゅうのは、ようできた言葉じゃのう。

「今日は早かったですね」
「ああ、急いで帰ってきたからの。最後の予約が男性客じゃったから、すぐに終わったし」

時刻は20時を回ったところだった。杉並にいたころよりも家が近くなったおかげで、早くあがれた日こそ、俺はこっそりタクシーに乗って帰っている。伊織さんにバレたらなに言われるかわかったもんじゃないから、秘密にしているが……明日は俺が休みだから、伊織さんとなるべく長い夜を過ごしたい。そんな本音を言ったところで、伊織さんが納得するはずもないだけに、バレんように頑張るしかないのがつらいとこだが。

「ランチは忍足さんと素敵な彼女さんと、夜は雅治さんと一緒にいただけるなんて、わたしは本当に幸せものです」

スパークリングワインで乾杯すると、伊織さんは嬉しそうにそう言った。俺の家族に会う前から笑顔を見せるようになった伊織さんだが、俺の家族に会ってからというもの、その笑顔は何倍にもふくれあがった。
仁王家では伊織さんが入ってきたことで、女たちだけのメッセージグループができていた。3日にいっぺんはやりとりをしているようだ。ちと怖い気もするが、伊織さんが嬉しそうで、そういった意味では、家族には本当に感謝している。

「そういや伊織さん、忍足の彼女に『安心しました』って言うたじゃろ? あれ、どういう意味だ?」
「あはは。はい、つい口に出してしまいました。それがですね、合コンで忍足さん、うちの同僚に好かれてしまっていたんです。完全にロックオンされていたようだったので、このあいだ雅治さんが忍足さんの彼女もいる、と食事の連絡をくれたときに、まさかうちの同僚じゃ……と、少しヒヤヒヤしてたんですよ」
「ほう? 忍足の彼女が同僚さんじゃったら、嫌なんか?」それもちと、妬けるのう。
「嫌ではないですけど……忍足さんのような方には、もっとこう、確たるものがある方とお付き合いしていていただきたい気がするんです。でもあの方なら、ピッタリです、お似合いすぎました!」

どういう感情なんじゃろうか。まだ伊織さんを意識していなかったころに、「ああいうのが好みか?」と伊織さんに聞いたことを思いだす。
あのときは「仁王さんはどうしてすぐにそういう……!」と叱られたが、あながち間違ってなかったんじゃないか? だとしたら、ますます癪に触る。

「伊織さん、忍足のこと、大好きじゃしのう」癪に触ったついでに、聞いてみた。
「はい、とても」
「……とても?」

ピク、と眉根が動きそうになった。
なにを堂々と宣言しちょるんじゃ、お前。それ以上はちと真面目に説教するぞ。

「はい、とても好きです。素敵な方ですし、雅治さんの大切なお友だちですから」
「……それ、どういう意味で言うちょる?」しらけた目になっているのが、自分でもわかる。
「あれ……雅治さん、なんですかその顔」
「婚約者の前で、ようそんなにほかの男を褒めるのう?」
「雅治さん……まさか嫉妬してるんですか?」

俺の視線にまったく怯える様子も見せずに、伊織さんはすでに酔いが回ったのか、ころころと笑いはじめた。
思いっきりおちょくられちょる……最近の俺、こんなことばっかりじゃの。ちゅうたって、気にいらんもんは、気にいらんし。

「もう、忍足さんが大好きなのは雅治さんでしょう?」
「はあ? 話をそらしなさんな」
「そらしてません。雅治さん、気づいてないかもしれないですが、忍足さんの話をするとき、とても穏やかなんです。雅治さんの大切な人は、わたしも大好きです」

どうも……うまくごまかされたような気が、せんこともない……気がする。が、伊織さんの顔を見れば、それが本音だということもわかる。
全部きっかけは、俺っちゅうことか……ずるいのう。言い逃れだとしたら、俺より何枚も上手だ。

「聞いてましたか? 雅治さんの大好きな忍足さんだから、わたしは忍足さんが好きなんですよ?」
「そんなこと……ないが」あげく、ダイレクトに言葉にされると、ちと気持ち悪い。
「でも今日、彼女さんのことも大好きになりました。とてもユニークで魅力的な方ですね」

俺の否定は軽く無視して(手慣れたもんだ)、伊織さんは忍足の彼女の話をしはじめた。
興奮気味に話す伊織さんに、忍足がうまくやってくれたんだろうなと察しがつく。
嫉妬した自分を恥じながらも、俺はその話をじっくりと聞いた。

「信じられますか? 口とか、顎とかも使って、あの絵本を完成させたらしいです」
「まあ、開放骨折じゃ、指先はあまり動かせんじゃろうからのう」
「最初は手にペンを縛りつけてやっていたそうなんですけど、それだと1時間くらいで痛くなってしまって、でも締め切りがあるからと、左手で描いたり、腕に巻きつけたり、いろいろしたそうです。そんな努力の結晶だから、あの絵本には情熱があふれているんですよね、きっと」

伊織さんは絵本を買って帰ってきてからというもの、寝る前に必ず読んでいた。よほど気に入ったんだろう。そういうこともあって、作者である忍足の彼女とは気が合うと思っていたが……ランチを提案したのは、どうやら正解だったようだ。
この様子からして、あの人の話題は出てこなかったんだろうと察する。そのあたりは、忍足の彼女が気遣ってくれたのかもしれない。いつか話すことにはなるだろうが、わざわざ最初の親睦会で話さなくてもいいと、判断してくれたんだろう。忍足の彼女はユニークで魅力的なだけじゃなく、情に熱い人だ。

「いい絵本だったな。前の絵本よりも、俺も『ざわざわきらきら』のほうが好きだ」
「はい。きっと忍足さんと彼女さんのお話だからです。とてもロマンチックですよね。あ、そうそう、シャンプーの話も聞いたんですよ? 雅治さんが、教えてあげたそうですね」
「ああ、あれの。忍足がどうしてもっちゅうからのう。まだつづけちょるんじゃろうか」
「つづけているようですよ。すごい愛情ですよね! 彼女さんも、愛されてるって感じのお顔をなさっていて、本当に幸せそうでした」
「ほう、そりゃすごいのう。あんなの毎日、ようやる」
「また、そんなこと言って……雅治さんは、お仕事だから嫌なんですか?」

そういえば、いつも特別なお客さんには俺がシャンプーしているが、今日はタイミングが合わずに、伊織さんのシャンプーをアシスタントに任せたことを思いだした。伊織さんの表情が、ほんの少しだけソワソワとしていたからだ。
ちゅうかなんで……ソワソワしちょるんだ、この人は。

「俺は仕事っちゅうても、もうシャンプーは滅多にせんのよ。新人のときは手が荒れまくってのう、しんどかった」
「そう……ですよね。ああいうのは通常、アシスタントの方がやるのだと、わたしだってわかっています」

その言い方が、若干だが、拗ねているように見えた。
さっきまでご機嫌が全開じゃったっちゅうのに、真顔になって、逡巡するように天井を見あげている。
ひょっとして、と思う……こいつ、忍足と彼女の話が、うらやましかったんか?

「でも忍足さん言ってました。『仁王のシャンプーめっちゃ気持ちええやん?』って。わたしに聞いてこられて、当然わたしが、雅治さんのシャンプーは受けたことがある前提で聞いてこられたんだと思います。『あ、わたしはないんですよ』とお答えしようかと思ったのですが、その質問にすかさず彼女さんが、『本当に気持ちよかったよ!』と嬉しそうにお答えになれたので、結局は黙ることになってしまったんですね。それで、そのまま話題は流れたんですけども、おふたりとも雅治さんのことをとても褒めてらっしゃいました。忍足さんなんていつも寝ちゃうって。特別なお客さんには雅治さんがシャンプーするんだって、ほかのスタッフさんから聞いて、『粋な男よなあ、伊織さんの彼氏』と言われまして、わたしも嬉しくなったはなったんですけど、でも忙しいときはできないですよね? 今日もたくさんお客さまがいらっしゃったので、別にわたしが特別じゃないわけではない、ということなのは十分理解していますし、わかっています。それに男性スタッフが『奥さん』なんて言っちゃったものだから、余計そういうことをしにくい雰囲気になってしまいましたよね、お店では。それも仕方がないと言えば仕方がないのですが、わたし、まだ奥さんではないのに、なんというか立場が急に違う感じになって、ちょっと戸惑って」
「伊織さん」

……よっぽど、うらやましかったんだな。
考えてみれば、伊織さんにシャンプーをしてやったことは、たしかに一度もない。もっと違うことで愛し合っているからこそ、そんなことをしようと思ったこともなかった。
本当に……俺を狂わせようとする技術だけは、天下一品だな、この人は。かわいくてたまらん。素直におねだりしてくればいいものを、それをせんのも、実に伊織さんらしい。

「な、なんでしょうか」
「俺にシャンプー、してほしいんか?」
「そんなことは、わたしはひとことも言ってませんよ……」拗ねちょる。わざとか? 襲いたくなるんじゃけど。
「ほう? じゃ、ええんじゃの。ちと気が向いたから、風呂でしちゃろうかと思ったが」
「えっ」
「伊織さんが特にしてほしいっちゅうわけでもないなら」
「し、してほしくないとも、言っていないと思うのですが!」
「ん? じゃけどさっき、そんなことひとことも言ってませんって言うたじゃろ?」
「それはその、言葉の綾というもので……!」
「残念じゃのう。伊織さんがおねだりしてきたら、毎日しちゃらんこともないのに」
「えっ」
「じゃけど、おねだりするのも嫌そうじゃし?」
「そ……ひどい、雅治さん。いじめてますね?」

いまごろ気づいたんか。あれだけベッドの上でいじめちょるっちゅうのに、学習せんのう、伊織さんは。
俺は立ちあがって、伊織さんの席に回りこんだ。うしろからその肩を抱きしめると、ビクッと体が反応する。

「ん? ねだってみんさい」耳もとでささやいた。なんか、興奮してくるのう。
「ですけど、雅治さん、手が荒れるからと……それに、仕事みたいになってしまうから、嫌かなと……」
「手が荒れるのは、毎日、何人も何人もシャンプーするからだ。ひとりやふたり、どうっちゅうことはない。それに伊織さんにシャンプーするのに、俺が嫌なわけなかろう?」

頬にキスをすると、う、と言葉を詰まらせて、伊織さんは顔を赤くした。
呆れそうになる……どうしたいんじゃ、俺のこと。これ以上、惚れさせんでくれんか。

「して、ほしいです……」
「最初からそう言えばええじゃろ……まったく。かわいいにもほどがあるぞ」

結局、途中まで食べた料理をそのままに、俺らは風呂に入った。伊織さんの芯のある髪の毛が、俺の手のなかで揉みこまれるたびに、伊織さんは「わああ」と声をあげた。

「すごい……マッサージ受けてるみたいです」
「ヘッドスパ技術も入れちょるからの。伊織さんには、特別だ」
「こんなの、毎日なんて贅沢すぎます」
「じゃけど、うらやましかったんじゃろ? 忍足たちが」
「そ……はい。ですが、わがままですよね? わたし、雅治さんに愛されてるってわかってますし……ああ、気持ちいい」

俺もシャンプー台を買ったほうがいいかもしれんのう。
風呂で毎日こんなことして、こんな声を聞かされたら、我慢できそうにない。

「伊織さんがそのぶん、俺のこと愛してくれたらいいんじゃないか?」
「雅治さんのことは、もう愛せないってくらい愛してますよ?」
「ん……今夜、それ証明してくるか?」
「……も、雅治さん」
「約束してくれるなら、毎日しちゃるよ。遠慮せんでいい」

うしろに立っている状態じゃ、キスができん。
仕方なく俺は、伊織さんの顎を天井に向けるようにして、逆さのまま、キスを送った。





電話が鳴ったのは、風呂からあがって伊織さんの髪の毛を乾かしているときだった。
ドライヤーの音はなかなかの騒音だから声もなにも聞こえなくなるが、その音だけは、やけに耳に届いてきた。それは、伊織さんも同じだったようだ。
鏡台の前で、俺は思わずドライヤーを止めた。伊織さんも硬直している。彼女のスマホの液晶には、『姉』と表示されていた。

「伊織さん、無視しんさい」
「……はい」

さっきまでの幸せな時間を容赦なくぶち壊してきた着信音に苛立ちがつのる。その音は、かなり長いあいだ鳴りつづけた。
じっと、伊織さんが液晶を眺めている。その視線に、俺は不穏になっていく自分の感情をださないようにするのが、精一杯だった。
だが、それも伊織さんがスマホに手を伸ばしたことで、こと切れた。

「伊織さんっ」
「大丈夫です」

なにが大丈夫なんだ。
焦りが一気にわきあがってくる。長い時間をかけて支配されてきた伊織さんの心に、まだ居座りつづけようとするあの女が許せん。怒りを懸命に抑えようとしても、やがて伊織さんの手がスマホを持ち上げることに、俺は我慢ができなかった。

「やめろ、出るな!」

思わず声を荒らげると、伊織さんが俺を見つめてきた。うなづいて、静かに『拒否』のボタンを押した。
コトン、と、スマホをもとの位置に戻す。直後、伊織さんは俺に向き直った。

「出ようとは、思いませんでした。本当ですよ?」

そっと、俺の頬を柔らかい手が優しく包んできた。伊織さんの目が、強い意思をまとっている。
動揺したのは、俺のほうだったっちゅうことか……。

「……すまん、大声だして……」
「いいんです。雅治さんを不安にさせて、ごめんなさい」
「いや……悪かった。もう伊織さんを、傷つけられたくなかったんよ」
「わかっています。ありがとう、雅治さん」

伊織さんが、もう一度スマホを手にした。指をゆっくり動かしながら、俺にも見えるように、電話帳を開いていく。
五十音の最初にある『姉』をタップして、その連絡先を表示すると、伊織さんはそのまま、最下部までスライドした。

「着信拒否にするのを、すっかり忘れていました。ごめんなさい」
「伊織さん……」

『姉』の拒否設定を終えたあと、すぐに『父』『母』も表示させていく。動作自体はたいしたことじゃないが、伊織さんの指先がわずかに震えていることに、俺は気づいていた。
その目尻が、ほんの少しだけ潤んでいることも。
あんな家族にでさえ愛されたかった伊織さんの思いが、俺の心にもしっかりと伝わってくる。俺からすれば憎くて仕方のない連中だが、伊織さんにとっては、つらいながらも、幼少期からずっと一緒に過ごしてきた人間たちだ。
あんな目に遭っても、彼女が家族をかばうのは、血がつながった家族に愛されたかったからこそだ。それがわかって、たまらなくなる。
すべての着信拒否を終えたあと、伊織さんはスマホを机の上に置いて、俺に穏やかに微笑んだ。

「これでもう、わたしも雅治さんも、安心ですね」

こらえきれず、俺はその体を強く抱きしめた。

「雅治さん……?」

何年かければ、この人を本当の意味で癒せるだろうか。29年も傷ついてきた心を俺がまっさらにすることができるのは、その倍の年数が必要な気すらする。
それでも、俺は絶対にあきらめんよ、伊織さん……伊織さんは、一生、俺が愛す。伊織さんが求めてきた愛を、俺が永遠に、与えつづけるから。

「愛しとる、伊織さん……」
「……はい、わたしも愛してます」
「俺が何人分も、伊織さんを愛すから。もう、安心していい」
「ふふっ……もう十分すぎるけど」
「なに言うちょる。まだまだ足りんよ。まだ、俺の愛は伝わりきってない」
「伝わってますよ……だってすごく、幸せいっぱいです、わたし」

自然と、唇が重なった。深くなっていくキスに、お互い歯止めがかからない。
こうした切ないセックスも、優しいセックスも、激しいセックスも、伊織さんとは何度もしてきたが、いつだって俺らは、お互いを強く求めあってきた。
これからもきっと、ずっとそうだ。そう、誓う。伊織さんのためなら、俺は。

「雅治さん……ン、はあ……ごめんなさい、泣いちゃいそう。悲しいわけじゃ、ないんです」
「わかっとるよ……どんな涙でもいい。どんな伊織さんも、俺は愛しとるから」
「あっ……ン、今日も優しいですね、雅治さん……ああっ」
「……なんでか、わかるか?」
「え……?」
「俺の奥さんが、誰よりも優しい人だからだ、ン……」
「雅治さ……」
「俺はそんな奥さんに、見合うような人間になりたいだけじゃから」
「そんな、もったいないですよ、わたしなんて」
「伊織は、誰よりも綺麗だ、本当に」
「雅治さん……あ、ン……嬉しいです……あっ……気持ちい」

溶け合っていくような感覚が、時間を忘れさせていく。

「ああ、俺も、気持ちいい……はあ、ン……」
「はあっ……雅治さん、また……あ、あっ」
「ええよ。俺も一緒に……ンッ、イク……ッ、伊織……愛しとるっ」
「あ、はあ、ああ、イッちゃ……! あ……はあ、あ……」

一緒に果てて、ふたりでわずかに体を震わせながら、微笑み合ってキスをする。何度くり返しても、そのたびに愛しさが増していく。
やんわりと体を横にしながら、俺らはつながったまま、語り合った。

「本当にかわいいな……伊織さんは」
「はあ……雅治さん、好きです」
「ん……もう少し経ったら、次はいじわるなセックスするか?」
「もうー、なんですかそれ?」
「いつもしちょるじゃろ? 伊織にヤラしいこといっぱい言わせるんよ」
「ああ、本当にいじわる……」
「とか言いつつ、クセになっちょるじゃろ? 今日もたっぷり、かわいがっちゃるよ」
「……ふふ。はい、それも雅治さんの愛だって、知ってますから」

照れくさそうに言いながらも、伊織さんからキスが落ちてくる。絡ませる舌の恍惚に、酒を体にいれるよりも、酔いしれそうになる。
すべてのしがらみを拭い去るように、俺らは何度も愛し合い、揺れた。





「また読むんか、それ」
「眠りの導入に、と思っていつもめくるんですが、逆に寝れなくなっちゃうんですよね」

ぞんぶんに愛し合ったあと、伊織さんはキャミソールだけ身にまとい、自分で購入したほうの『ざわざわきらきら』を手にして、嬉しそうにページをめくっていた。
俺も何度か読んだが、本当にいい絵本だ。忍足の彼女のセンスに脱帽するのと同時に、開放骨折した彼女をここまで焚きつけた忍足にも、感心していた。
まあそれも、愛のなせる技だったんだろう。それがまた、あのふたりらしい。

「これはきっと、忍足さんですよね?」

と、伊織さんは絵本にある子犬をさして言った。まあどう考えても、そうじゃろうと思う。
この、小憎たらしい顔といい、ドライな感じといい、そのくせ、涙もろくて女に弱いとこなんか、忍足そのまんまだ。

「だろうな。よう似ちょる。やっぱりあの彼女、センスええのう」
「ふふ。でもですね、わたし思うんですよ?」
「ん?」
「どんなわたしだって許してくれる雅治さんも、この子犬に似ています」
「え?」

それは……忍足と俺が同じっちゅうこと? ちと、心外なんだが。

「あ、どうしてそんな、ぶすっとするんですかー」
「んー……俺、こんなにカッコつけちょるくせにヘタれたような男かのう?」
「ぷふっ」
「……伊織さん、なにがおかしい」
「いえ。数週間前の雅治さんの大失態を、録画しておけばよかったといまさら思っただけです」
「なんて?」
「スタッフさんから聞いただけじゃ、よくわかってないようですね? 本当に、別人でしたよ?」
「もうやめんさい……その話」

ときどき、いまでもスタッフがその様子を再現VTRのように俺に見せてくるが、信用ならん。
あんな甘えた声を出したわけもないし、伊織さんの前ならまだしも、スタッフの前で「好き」だの「愛してる」だの、俺が連発したっちゅうのも信じがたい。どうせみんなして大げさに言うとるだけじゃろ。

「ただ、カッコつけてるのにヘタれているところが似てる、というわけじゃないですよ? わたしが言ってるのは」
「ふうん? じゃあどんなとこだ?」
「ひねくれたこと言っても、この女性を心の底から愛しているところです」

伊織さんは優越感まるだしでそう言った。少しは自信がついてきたっちゅうことか? それはそれで、俺としても安心する。

「おうおう、大きくでるのう、伊織さん」一方で、かわいくて、いじめたくなる。
「雅治さんが図に乗らせてるんじゃないですかっ」
「俺が、伊織さんに心の底から愛されちょるからのう。お返しで愛しちょるようなもんだ」
「あ、ひどい。そのうえ、なんかずるいですね?」
「先に俺を好きになったのは、伊織さんのほうじゃろ?」
「む……」

だが本音を言えば、俺のほうがすっかり伊織さんに溺れちょる。
どういうわけか、いささか悔しくなってきたせいで、それは口に出さんでおいた。

「あっ!」
「ん?」
「噂をすれば、ですよ、雅治さんっ」

伊織さんがなにかに気づいて、即座にベッドから降りた。また、スマホを手にしている。が、まああの様子なら、不穏なことじゃなさそうだ。さっき拒否設定したばかりじゃし。
おそらく、メッセージでもきたんだろう。伊織さんはそのまま、連絡を返していた。置いてけぼりにされた気になる。俺と一緒におるのに、あまりスマホに夢中になってほしくないんだが。

「なんじゃ? どうした?」
「はい、終わりました」と、伊織さんが勢いよく俺に振り返った。「雅治さん、正直に言ってください」
「は?」
「忍足さんのこと、大好きですよね?」
「な……」なんでまた、そんな確認してくるんじゃ。「やめんさいって、気持ち悪い」
「そして『ざわざわきらきら』、すごくいい絵本ですよね!」

また俺のいいぶんを無視して、今度は膝の上に乗ってくる始末だ。よいよい、自分がどういう格好がわかっちょるんか、こいつ。
また襲うぞ。下はパンツ一枚じゃっちゅうのに、俺の膝に股を押しつけてから……この天然っぷりには、本当にまいる。

「まあ、いい絵本だ。って、言わんかったか、俺?」
「はい、再確認です。実はですね……」ふふふ、と含み笑いして、つづけた。「映画化が決定したんです!」
「は、はあ?」

これには、思いきり口をポカンと開けてしまった。
映画化……って、そんなニュースが入ってきたんか?

「ニュースアプリか?」
「違いますよ、わたしが提案したんです!」
「はあ?」

ますます、意味がわからん。

「わたし、お手柄ですよね? ねっ?」
「ちょ、話が全然、見え……」
「思いついたときから考えてました。もし、実現したらって」
「伊織さんって、順を追って」
「映画のヘアメイクは、雅治さんがやるべきです!」

伊織さんが興奮すると、人の理解をすっ飛ばしてまくし立てるのはいつものことだが……この提案に、俺はしばらく言葉がでてこなかった。





to be continued...

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