XOXO_13
13.
跡部の彼女のお父さんは、過労死で亡くなったはずだった。だけど僕も伊織さんも、そこに野瀬島が絡んでいると知って疑いを抱いていたからこそ、話はすぐに理解できた。彼女のお父さんのスマホを、彼女は形見としてずっと持ちつづけていたけれど、この10年、きちんと開くことはできなかったそうだ。でもそれも、虫の知らせだったのか。そのスマホから、野瀬島と九十九に関する重要な音声データが見つかったらしい。僕も伊織さんも、それには目をまるくした。
「先日たまたま開いたときに、気づいたんです」跡部の彼女は、言いながら目を伏せた。
「……跡部も、聞いたの?」
「ああ、ついさっき聞かせてもらった。たしかな証拠となるはずだ」
跡部も、となりに立つ彼女も、つらそうな表情を浮かべた。なんとなく想像がついてしまうせいで、胸のなかが苦しくなってくる。亡くなった彼女のお父さんがわざわざ録音していて、跡部曰く、それが『たしかな証拠となる』ということは、音声データに入っているのは、殺害時のものだろう。それを……娘である彼女が、聞かなきゃいけなかったなんて。
「だから事件に詳しく、かつ事件を疑っていた刑事に、まずは聞いてもらいたいと思ってな」
「もしもし、香椎くん? あのね、実はちょっとお願いがあって」
跡部が説明を終える前に、伊織さんはいつものスピード感で香椎さんに電話をしていた。一刻を争うという事態ではないけれど、僕らの心情的には、当然、一刻を争う。
僕も跡部も彼女も、伊織さんのその様子を、静かに見守った。ピ、とすぐに電話を切って、伊織さんが顔をあげる。
「お待たせしました。香椎くんが、すぐにお義兄さんに連絡を取ってくれるそうです」
「そうか、ありがとう。誰だ、香椎というのは」
「あ、香椎くんは、わたしの同僚なんです。彼のお義兄さんが、彼女さんのお父さまの」
「なるほど、状況は理解できた」
「え、理解はや……」
心の声が思わず口から出てしまっている伊織さんに苦笑する。
跡部に圧倒されているのか、きゅっと僕の袖をつかんできた。そんな、怯えた子どもみたいになっている伊織さんが、かわいい。
「すみません、ありがとうございます。でも、それ本当に素敵なドレスですね!」
暗くなってしまった雰囲気を払拭するためか、跡部の彼女は伊織さんのドレスに話題を戻した。それだけで、優しい人だなとわかる。
「え、あっ、いえ、そんな……彼女さんも、相変わらず、すごくお綺麗で……。あの、わたし、あなたのファンです」
「えっ」
伊織さんがほわん、とした顔で彼女に微笑む。一度、話したこともあるからか、ずっとテレビで見ていた彼女に、伊織さんは、どこか憧れを持っているところがある。
「嘘、えっ」
「たしかに洗練されたドレスを着ているな。ブランド物だろう」へえ、わかるんだね。さすが跡部だ。
「景吾、スルーしないでよっ。ねえ、いまの聞いてた? 綺麗だって。ファンだって!」
「アーン? なに図にのってやがる。社交辞令に決まってんだろ」あんな記者会見やっておいて、なに言ってる、とつづけた。
「なあ!? ひどい!」
「い、いえあの、本音ですよ!?」慌てて伊織さんが仲裁に入った。
「ガラス職人、お前は人がいい。それは重々承知だ。が、この女に気を遣う必要はないぞ」
「ちょっと景吾ひどい! 超ひどい!」
跡部と彼女は、軽快な会話をくり広げていた。さっきまで真剣な話をしていたというのに、切り替えが早い。記者会見のときとはまったく違う雰囲気にも驚くのだけど、すっかりふたりがいい仲になっている様子に、僕は驚いていた。どうやら、彼らを取り巻くしがらみからは、解放されたらしい。
「よかったね、跡部」
「アーン? なにが」
「人前だからわざと彼女につれなくしてるんでしょう? ふふ。そんな跡部を見れるなんて、僕もすごく嬉しいよ」
「えっ」
「ち……不二、お前な、いつも余計なことを……!」
「ということは、図星だ。だから彼女さん、安心していいですよ」
僕がそう彼女に言うと、彼女は隠しきれない笑みを表に出してきた。跡部は「バカが」と言いながらツンとそっぽを向いている。本当に、素直じゃないんだから。
想いが通じあって間もないのかな。見てるこっちが呆れそうになるほど、雰囲気が熱いや。
「あっ、香椎くんだ!」
数分しないうちに、伊織さんに着信が入った。すぐに電話を取った伊織さんが、勢いよく香椎さんに応答している。香椎さんって、本当に親切だ。いい男だよね……ああ、目の前の熱に侵されたせいか、ぐじぐじと考える僕……すごく情けないな。
「わかった、すぐに行くね!」電話を切って、伊織さんは僕らに向き直った。「いますぐ、警視庁に来てほしいそうです。そこでお話を聞かせてほしいと。香椎くんがお義兄さんの部署まで案内してくれるようなので、彼も来てくれることになりました。一旦、そこで落ち合いましょう」
「承知した。悪いなガラス職人、助かった」
「いえ、大丈夫です」
跡部の車に乗せてもらって、僕たちは警視庁に到着した。本当なら、僕は行く必要がなかったのだけど、せっかく一緒にいれる休日に伊織さんと離れたくはないし、やっぱり、香椎さんのことが少し気になったからだ。もともと、あまり嫉妬をするタイプじゃないんだけど、伊織さん相手だと、これまでの僕なんてひとつもアテにならないから、困惑してしまう。
「佐久間、こっちこっち!」
「香椎くん、ありがとうね。お休みの日に」
「なんだよ、お前もだろ? 不二さん、お久しぶりです」
「お久しぶりです、香椎さん」
たぶん勘違いだろうけど、香椎さんは前に見たときより一段と男前になっている気がした。一応、恋敵だったというのに、当時からもいまも、僕に顔色を変えることなく爽やかに接してくれる彼には、相変わらず好感がもてる。だからこそ、トク、と少しだけ胸が痛んだ。こんなのお門違いだとわかっているのに。こんな感情をもつ僕自身が、自分を嫌いそうになる。それだけ、伊織さんのことが好きなんだと思い知らされた。まだ付き合って1週間なのに、日に日に恋しくなっているってことなんだろうけど……。
「おい、不二……」声をかけられて、はっとする。そうだよね、紹介しなきゃ。
「ああ、ごめん。えっと、彼が香椎さん。香椎さん、こちらは」
「大丈夫です、わかります。おふたりともわかります! ずっとテレビで拝見してたので」
まるで芸能人に会ったように、香椎さんは目を輝かせていた。跡部も、彼女も、いまはどんな芸能人よりも知られた顔だろうから、似たようなものかもしれないけど。素直な香椎さんの反応に微笑ましくなる。彼の人のよさが、にじみでてる気がしたからだ。
「まあ、だろうな」
「すみません、お騒がせしております」彼女が申し訳なさそうに頭をさげた。本当に、記者会見とは別人だ。
「いえそんな!」
「あまり、見てもらいたいもんでもなかったがな……」
「で、ですよね、すみません。さっそくご案内します、こちらです」
そそくさと、香椎さんが僕らを庁内に案内してくれた。ここにお義兄さんがいるのだから、彼は来たことがあるのかもしれない。
足を踏み入れただけで緊張する館内は、全体的に薄暗かった。それだけで、自分が悪いことをした気分になるから不思議だ。伊織さんも同じ気分だったのか、僕の服をずっと握っていた。
「伊織さん、大丈夫?」
「だい、大丈夫です。少し緊張してしまって」
「うん、僕ら悪いことしてないから、捕まらないよ?」
「わかってても、緊張しちゃうんです」
コソコソと話しながら、僕らは跡部たちよりもうしろに位置しながらついていった。僕は一生、来ることがないと思っていた場所なのだけど、野瀬島に絡まれてからというもの何度か警察にはお世話になっているから、人生、なにが起こるかわからない。きっと跡部だって、跡部の彼女だって、同じ思いだろう。
「一成、悪いな。ここを離れられなかったんだ」
「いんだよ、そんなの。こちら、跡部さん」
長い廊下を進んだ先で、香椎さんのお義兄さんが待ってくれていた。どこからどう見ても、警察というより裏組織の風貌なのだけど……いまみたいにしっかりと僕らに手を振って笑っている姿は、チャーミングだ。
「はじめまして。跡部景吾です」
「はじめまして。本日はご足労をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お時間を取っていただきありがとうございます」
跡部たちと挨拶をしているあいだに、僕らもつづけるように向かっていく。すぐに僕に気づいてくれたお義兄さんが、にこやかに頭をさげてきた。
「不二さんも、お久しぶりです。その後、どうですか」
「はい、僕はもう、すっかり元気です」
「ああ、それはよかった。それじゃさっそく、会議室に入りましょう。音声データは、そこで聞かせてください」
「わかりました。ただ……」
なにか言いかけた跡部が、そっと彼女の手を握って、僕たちに振り返る。突然のことに反応した彼女が、「ちょ」と顔を真っ赤にしているけれど、堂々としたまなざしの跡部に言葉を失ったのか、そのままうつむいた。
「案内してもらっておいて悪いんだが、この先は、こいつとふたりにしてほしい」
「景吾……」
「聞いてて面白いもんじゃねえし、関係者以外に、聞かせるような内容でもないからな」
眉間にシワを寄せて、跡部はすでにつらそうな顔をしていた。一度は彼女とふたりで聞いているからこそ、だろう。有無を言わせないという意思と、彼から感じたことのない絶望にも似た切なさが、僕の心に怒涛のように押し寄せてきた。
「はい。もちろんです。佐久間、不二さんも、帰りはオレが送るんで」
キリッとした声で、香椎さんがうなづいた。僕が感じたのと同じものを、初対面の彼ですら、感じとったのかもしれない。
「跡部」
「ん、なんだ不二?」
「君を……君たちを、応援してるよ。僕になにかできることがあれば、なんでも言ってほしいんだ」
跡部が、ふっと微笑む。僕たちは、決して昔から仲がよかったわけじゃない。それなのに跡部は、僕にずっと手を差しのべてくれていた大切な友人だ。君の優しさに、調子よくこんなときばかり甘えた僕に、もしもなにかできることがあるのなら……。
「……シェフの出張サービスでも、頼んでやろうじゃねえの」
粋な返事をした跡部の微笑みに、僕も、思わず笑みをこぼした。
「いやー、跡部さん、生で見るとマジでイケメンだったな!」
「なんかオーラがね……すごく緊張した、わたし」
「佐久間、めずらしく無口だったもんな? あれ? ひょっとして不二さんの前でまだ猫かぶってるとか?」
「え? 伊織さんって、僕の前で猫かぶってるの?」
「な、かぶってないですよ! 香椎くん、変なこと言わないでよ!」
帰りの道中、香椎さんの車のなかで、僕たちは賑やかに過ごしていた。
伊織さんと香椎さんはいつもこんな仲のいい会話をしているんだな、と思いながら、なんとか気持ちを落ち着けようと懸命になっている自分がいる。伊織さんは僕の彼女なのに、どうしてこんなに自信を失くしちゃっているんだろう。
「てか最後の、あの不二さんとのやりとり、めっちゃしびれました、オレ」
「え、そうかな……?」
「不二さんもカッコいいし、跡部さんもカッコいいッスよ。とても同い年には思えない。ふたりともなんか貫禄がありますよね」
「うーん。跡部はそうかもしれないけど、僕は……ただの料理人だから」
「いや、あんなうまい飯とケーキがつくれるだけで、ただ者じゃないですね」
「もう、香椎くんそうやって、また周助さんにケーキつくらせようとしてるでしょ」
「あ、バレた?」
僕が助手席に座って、伊織さんはうしろに座っているのだけど、運転席の香椎さんを覗き込むようにしてわざわざツッコむ姿に、いじらしくなる。
それでも二人はずっとこの調子で会話してきてるんだから、やっぱり僕がお門違いなんだよね、わかってるんだけど、少しだけ寂しくなった。
「えーと不二さんのマンション……そろそろですよね?」カーナビをチェックしながら、香椎さんは器用にハンドルを回した。
「うん、そこの角を曲がって、まっすぐかな」
「了解です! 佐久間もそこで降ろしていんだろ? 不二さんのマンションで」
「え……あ、う、うん」
ニヤニヤと、からかうように言いながら、香椎さんはご機嫌だった。
伊織さんは恥ずかしかったのか、声が少し小さくなっている。
「いいじゃんいいじゃん、照れんなって。あとお前、そのワンピースなんだよ、めちゃくちゃめかしこんで、やっぱ猫かぶってんな」
「ち、これは……!」慌てるように、伊織さんはまた後方から顔をだしてきた。
「ふふ。僕が今日、買ってあげたんです。おねだりされちゃって」
「はい!? ちょ、周助さんっ、わたしおねだりなんて!」
「うへえ、高そうなのに。佐久間、ケーキよりもよっぽどじゃんか、お前」
「ち、周助さんっ!?」
少しだけいじわるな気持ちが働いた僕がくすくす笑っていると、伊織さんがぷっくりと頬をふくらませた。もうすぐ家につくし、ふたりになってすぐに謝れば許してもらえるかな、なんて、僕も調子がいい。彼の前でカッコをつけたかったなんて言ったら、逆にカッコ悪いだろうけど。
いろんなことを考えながら、ふと思った。香椎さんが本当にいい人だからこそ、僕はまだ、彼に言ってないことがある。タイミング的にも、いまがチャンス、だよね。
「香椎さん、このあたりで大丈夫ですよ。今日はありがとうございました」
「いやオレなんかなにも。気にしないでください」
「だけど実はもっと、気にしてることがあるんです、僕」
「え?」
車のスピードがゆるやかになって完全に停まるのと同時に、香椎さんは首を傾げながらこちらを見た。
微笑みながら、なるべく真面目すぎないように言いたいけれど、うまくできるかな……と、僕は少しだけ、緊張した。
「一時は、香椎さんを騙すような真似して、本当にすみませんでした」
「え、不二さん……」
「周助さん……」
伊織さんと香椎さんの声が、重なった。突然の謝罪に、二人とも困惑しているみたいだ。
だけどきちんと、謝っておかなくちゃ。
「伊織さんは強引な僕の案に流されてしまっただけで、全部、僕が悪かったんです」
「不二さん、そんなの、いいのに」
「いえ、だけど……香椎さんは」
伊織さんが好きだったでしょう? と、言葉にするのは、はばかられる。だけどこうして香椎さんと会うときに、伊織さんがいない状況なんて今後もないだろう。さっきの跡部の意思をすぐに理解してくれた香椎さんだからこそ、全部は言わなくても、わかってくれると思った。
僕があんな嘘をついていなければ、ひょっとしたら香椎さんは、きちんと伊織さんに告白していたかもしれない。僕はそのうしろめたさを、自覚していた。だから僕が、香椎さんには嫉妬してしまうということも。
「いやいや、違いますよ、不二さん」
「え?」
「いや、オレはね……不二さんと佐久間が想い合ってるって、最初からわかってました。そこに強引に割り込もうとしたのは、オレのほうです。だから、オレこそ、すみません」
「香椎さん……」
ああ、本当にすごく男前だなと実感してしまう。最初から、なんて……最初から伊織さんが僕のこと、好きだったはずないのに。
「……わ、わたし、先に戻ってようかな!」
「あー、いいって佐久間も! 変な気、遣うなよ」
「だ、だって……」
香椎さんはまだ、伊織さんを好きなのかもしれない。考えてみれば、そんなに時間は経っていないのだから、あたりまえなんだけど……。
そんなわずかな動揺が、僕のなかに流れてきたときだった。僕を見てなにを悟ったのか、香椎さんがパッと表情を変える。そして、なんてことないように、あっけらかんと言った。
「あ、それと安心してください。オレ、元カノとより戻したんで!」
「へ?」
「え……」
「なんか結局……オレもあいつも、お互いのこと忘れらんなかったんスよね。なんでたぶん、1年以内には結婚します」
固まった僕たちをよそに、香椎さんの車は、さっそうと街に消えていった。
あれは事実、というか……本心、なのかな。
「ねえ、伊織さん?」
「なんですか?」
帰ったらさっそく伊織さんと甘い時間を過ごそうと思っていたのに、僕は拍子抜けしている。まあ、あの香椎さんが、嘘をついていたことを謝った僕に気遣って嘘をつく、という選択をする気もしない……なんせ、結婚まで宣言したんだから。
「香椎さん、元カノとよりを戻したって言ってたよね?」
「言ってましたねえ」
少しだけツンとしながら、伊織さんはドレスをハンガーにかけて、丁寧に袋に戻していた。なににたいしてツンとしているのか、怖くなる。
どことなく、香椎さんの現状にがっかりしたりしてない……? 僕の考えすぎかな。
「伊織さんそれ、どう思っ」
「周助さん」
「うん?」
めずらしく僕の言葉をさえぎって、伊織さんが鋭い目で僕を見据えた。いつも、どれだけ怒ってもまったく怖くない伊織さんだけど、なんだか今日はまずい気がするな……。
「また香椎くんの話ですか?」
「香椎さんの話、またってほどしたかな?」しつこく、しちゃったかな……。
「してますよ。ずっといじわる言ってくるじゃないですか。ていうか、嫌味を」
「ん……ごめんね。あんまり嫉妬深いと、伊織さんに捨てられちゃうよね」
自虐的に言いながら、考える。
伊織さんは僕の彼女だってわかっているし、僕が伊織さんに愛されているってことも十分わかっているつもりなんだけど……香椎さんの発言で、それとはまた違う複雑な気持ちが残ってしまったせいだ。
ひとつは、香椎さんがそこまで伊織さんのことに本気じゃなかった……というか、結局、元カノさんのことを忘れられないまま、次の恋を探したときの相手が伊織さんだったということ。伊織さんには申し訳ないけど、少し、都合のいい女の雰囲気がただよっていて、彼氏としては、複雑だ。
もうひとつは、初恋の相手に一度は想われて、なんだか変に失恋してしまったような悲しみを、彼女が抱えているんじゃないかということ。もしも伊織さんと香椎さんが付き合うことになっていたとしても(想像もしたくないけど)、結婚したいと思うほどの元カノだから、結局は振られていた可能性だってある。それに伊織さん、いまだってすごく機嫌が悪そうだから。
「捨てたりしないですよ……わたしが言いたいのは、周助さん、とくに妬いてないでしょってことです! いじわるで言ってるだけでしょ?」
「どうして? 本当に嫉妬してるよ」って、堂々と言うのも、どうかしてるけど。「実際、ちょっぴり思うとこ、あるんじゃない?」
「ないですってば。どうでもいいですもん」
「本当に……?」
どうでもいい、は、さすがにすごく嘘くさいな……。
「そりゃちょっと、えっ? てなったけど」
「そうだよね……うん、その気持ちは、わかるよ。でもその気持ちが、僕は少し切ないんだ」
正直に思いを伝えると、伊織さんは目をまるくして僕を見た。なんだか目を合わせていられなくて、僕は逃げるようにソファに座った。
あの顔……僕が本当に、いじわるだけで言ってたと思ってたってこと? ひどいな……そういうことしそうに見えるのかな、僕。まあ……そういうところも、ある、かな?
「周助さん……本当に嫉妬してたの?」
そう言ったじゃない、僕。「……何度も聞かないで」
ソファに座っていた僕の前にいつのまにか伊織さんが立っていて、僕の頭をそっとなでてきた。されたことのない感触に思わず顔をあげると、彼女は優しく微笑んでいた。いつも無垢なところを見せてくるのに、急に伊織さんが大人になった気がして、ドキッとする。
「もう、周助さん、わたしのこと信用してないの?」
「まさか。伊織さんの気持ちを疑ってるわけじゃないよ」
「うん……わたし、周助さんのこと、大好きですよ」
僕のとなりに腰をおろして、ぎゅうっと抱きしめられる。癒やされていくのを感じて、彼女の肩に顔を半分うずめながら、僕は静かに目を閉じた。そっと背中に手を回すと、もう一度、たしかめるように力がこめられて、なんだか僕が、子どもになった気分だ。
「それだけ愛されているってことですね? わたし」
「もちろん……僕は伊織さんに夢中だよ」
「わたしも周助さんに夢中です。だから、嫉妬もちょっぴり、嬉しいです」
「だからって、あんまりさせないでね?」
頬を包んで、唇を重ねた。明日から1週間、また会えない日がつづくことが、とてもつらい。本当なら、ずっとずっと一緒にいたいのに。今日だって、もう夕方だから……たりない。昨日の夜からずっとこうして傍にいてくれるのに、どんどん貪欲になっていく。
「好きだよ、伊織」
「はい、わたしも……」
キスをやめたくなくて、舌をだした。伊織さんも応えるように、僕を受け入れる。
いいよね……? さっき、中断しちゃったし。
「ねえ、さっきのつづき、いい?」
「ン……も、聞く前から、触ってるじゃないですか」
「ふふっ。ごめんね。伊織さんが、かわいいから」
「あっ……周助さ、ン……」
「かわいい……奥、いっぱい攻めてあげる」
「はあっ……う、ああ。わ、わたしも周助さんのこと、いっぱい、愛したい」
服を脱ぎ捨てながら、たっぷりの愛を送って十分に潤していく。それでもひとつになるときはきちんとベッドの上で抱いてあげたくて、伊織さんを抱えて移動した。
行為をはじめてから、どんどん妖艶になっていった伊織さんの声にゾクゾクしながら寝かせると、彼女はすぐに起き上がって、僕を攻めようとした。
何度か愛し合ってわかったけど……伊織さんって、僕に負けず劣らず、Sっ気を発揮するときがある。
「ちょ、伊織さん、そんなの、いいよ」
「周助さん、好き……」
「ン、はあっ……伊織」
まいっちゃうな……こんなに強く出られたこともなければ、こんなに調子が狂う人もはじめてだから、まったく抵抗できなくなってる。今日は僕も、いじめられちゃうみたいだ。
「周助さん、気持ちいい?」
「ン、うん……はあ、どうにかなっちゃいそう」
「よかった……」
伊織さんの頭に手を置きながら、僕はその愛撫に酔いしれた。
それでも、ずっと酔いしれていたら僕が抱いてるんじゃなくて、伊織さんに抱かれてるみたいになってしまう。限界がくる前に体勢を変えて、僕と伊織さんはつながった。
「はあ……悪い子だね、伊織は」
「ああっ、ん、周助さ……はあ」
「伊織のナカ、すごくあったかいよ。僕にしながら、こんなに濡らしてたの? エッチだね」
「う、ん、だって……周助さん、すごく、気持ちよさそうで……はあ、すごく、セクシーだったから……ああっ」
「ん……今度は僕が、いじめる番だね」
ぐっと腰を押しつけながら、伊織さんのあらゆる性感帯に指と舌を這わせて、長いあいだ、僕らは深いところまで愛し合った。
「伊織、僕のこと見て……」
「はあっ、ああっ……周助さ、イ、っちゃ……あ、ンンッ!」
「あっ、ああ……伊織、イったとき、締めすぎだよ……っ、はあ、僕、我慢してるのに」
「ああっ、だって、あ、も、我慢しないでっ」
「じゃあ次は、一緒にね。少し、ゆっくりしよう?」
「う、ん……はあ、ああ……周助さん……好き」
「僕も……大好き」
舌を絡ませながら告げ合う想いに、何度だって体が反応して、止まらなくなっていく。
こんなに美しくて愛しい時間が、1週間にわずかしかないなんて、すごく残念だ。
あの日、夜には野瀬島逮捕のニュースが速報で流れてきて、僕らは静かに見つめ合った。心の奥にあるのは、喜びとは少し違う。どうしてこんなことが起きてしまったのか、という答えの出ない問と、体に染みついているようなわだかまりだ。もちろん不謹慎ではあるけど、復讐をとげたような気にもなっている。彼の悪行を調べてきた僕たちだからこそ、絶対に野放しにしていてはいけない人物だと知っている。できることなら、二度とこちらに戻ってきてほしくもない。
以降の展開は、早くもなく遅くもなかった。翌日にならないうちに九十九も同時に逮捕され、そこから2週間のあいだにあかるみになった事実はたくさんある。だけどほとんどが僕たちの推理どおりだったこともあるから、僕らは、世間のように驚いてはいなかった。
「周助さん、これってどこにしまっておけばいい?」
「うん、それはね、右から二段目にしておいて」
「わかった、こういうのも覚えなくちゃだね」
「ふふ。いいんだよ、伊織さんは。たまに手伝いに来てくれるだけで、僕は大満足だから」
9月下旬の、火曜日の夜だった。
伊織さんが早あがりということで、僕の店を手伝いに来てくれていた。夜は千夏ちゃんのアシストがないから、僕としてもすごく助かる。
このごろは伊織さんの敬語も取れてきていて、僕はそれが、とても心地いい。恋人としての距離が、とっても近くなった気がするからなんだろう。
「わたしも大満足! 夜は残ったの食べさせてもらえるから役得だし!」
「ちょっと、それだけなの? 手伝いに来てる理由」
「あ、冗談、冗談だよ周助さんっ。もちろん、会いたいからだよ?」
「いちばん最初に出てきた大満足の理由が食べることだったから、怪しいな……伊織さん、食いしん坊だし。残ってる材料、片っ端から持って帰りそうだよね、ふふ」
「もう! 失礼だなあ周助さんは! ちょっと言うと、すぐそうやっていじわる……あ、いらっしゃいませ!」
いつものようにぷっくりと頬をふくらませていた伊織さんだったけれど、外にいるお客さんがこちらに向かってきているのを察知して、すぐにトラックから飛びだした。
『アン・ファミーユ』でバイトしてもらっていたときも思っていたことだけど、伊織さんは職人なのに、接客がとても上手だ。だからこそ、彼女がガラス職人ということを忘れそうになってしまう。
「どうも、こんばんは」ん? と、聞き覚えのある声に顔をあげた。
「あれ、仁王?」
「よーう不二。久しぶりじゃのう」
そろそろ空も暗くなってきて、遠目だったからわかりにくかったのもある。
なにより、あの仁王が女性と手をつないでいるところを、はじめて見たせいかもしれない。
伊織さんに軽く挨拶した彼は、穏やかな表情でトラックの前まで歩いてきた。伊織さんがすぐに僕の知り合いだと気づいて、テーブルをセッティングしはじめる。こういうときに会話に入らず控えめになるのも、伊織さんのいいところだ。
「どうしたの。予約してくれたらよかったのに」
「いや、ちと急な思いつきでな。うちの彼女が高級なもんが食べたいっちゅうから」
「ふふ。そうだったんだね。すみません。フレンチはフレンチですが、あまり高級じゃないんですよ」
仁王の彼女に向かって少し頭をさげると、彼女は「とんでもないですっ」と恐縮しきったように僕を見あげた。
なんだか、サラリーマンのようにピシッとしていて、見るからにしっかりとした女性だ。ちょっと、仁王の彼女という印象とは、遠い……なんて言ったら、怒られるかな。でもとても、綺麗な人なのは間違いない。そういうところは、抜け目ないよね、仁王って。
「雅治さん、わたしは高級なものとは言っていません。わたしが言ったのはとても美味しいものであって、美味しいと高級とはイコールではないはずです」
「お? そうじゃったかのう。すまんの。暗黙に高級じゃって言われちょる気がしたんよ」
「それは大変、人聞きが悪いと思うのですがっ」
「別に高級なもんをねだったからって、人聞きは悪くならんじゃろ?」
「なりますっ。雅治さんはよくても、わたしにとっては不覚なんですからっ」
怒っているようだけど、ロボットのようにテキパキと話されている。いい意味で、変わった女性だ。こうなってくると、仁王にピッタリという気もしてきたな。そういえば、柳生っぽい雰囲気もある人だ。失礼のない程度に彼女を観察しながら、僕はふたりの会話に微笑んだ。
「わかったわかった、悪かったって。そう怒らんで」
「だって、雅治さんのお友だちの前なのに、ひどいです……」
僕をチラッと見ながら嘆いた彼女に、突然「かわいい」という形容詞が浮かんだ。
……なるほどね、こういうギャップに、仁王は落ちちゃったわけだ。
ついこのあいだ忍足も彼女を連れてきたし、跡部もあの彼女とうまくいった。越前なんてしょっちゅう、彼女と僕のお店に来る。
みんな幸せなんだと思うと、苦難の先にはいいことが待っているなと、やけに感慨深くなった。
「まあ、そう拗ねなさんなって。だが、不二のフレンチが……」と、仁王がメニューを見て目を見開いた。「こんな安くて、ええんか? 前とえらい差じゃの?」
「うん。だけど、手は抜いてないよ。材料費を落としているから、最高級フレンチ、というわけにはいかないけれど。僕なりの創作フレンチをつくってるんだ。おすすめはフルコースだけど、どうする?」
「当然、それにしてくれ。の? いいだろ? 機嫌なおして?」
仁王は彼女の顔をのぞきこんだ。
仁王、気づいてないのかな……見てるこっちが困るくらい、甘ったるいんだけど。人の店の前でノロけるのは、僕、越前だけでお腹いっぱいだな……。どうやら、越前もまったく、気づいてなさそうだけどね。
「はい、嬉しいです」
きゅっと彼女がはにかんで、仁王もそれに、にこっと微笑んだ。
ああ、まったく。よそでやってほしいよ。本当に、お腹いっぱいになっちゃうから。
「仲がいいね、ふたりとも」
そうとは言わずに、僕は仁王に促した。やってられないおノロケを微笑ましく見守るのもサービスのひとつだというのは、この業界の掟だ。
「実はの、彼女と結婚んするんよ、俺。じゃから、仲がようなきゃ困る」
「え、結婚するの? そう、おめでとう!」
「ありがとな」
「ありがとうございます」
彼女が丁寧に頭をさげてきた。いきなり来たと思ったら、結婚報告するなんて。そうとう浮かれちゃってるな、仁王。
「ふたりは、付き合ってどれくらいなの?」
さり気なく作業をはじめながら、僕はなんとなく聞き返した。前に会ったとき、仁王がこんなに浮かれているようには、見えなかったから。倦怠期、だったとか?
「もうすぐ2ヶ月っちゅうこと」
「えっ、すごい……」その期間に、僕は目をまるくした。「スピード婚だね」
「ん、まあもう、同棲もしちょるし、いろいろあって、ふたりで話し合っての」
「そうだったんだね。よかったよ。あ、じゃあ今日は僕がごちそうするよ」
「ああ、いや、そういうつもりで言うたわけじゃないんよ。まあ、一応ご報告っちゅうだけじゃから」
「いいじゃない、遠慮しないで。すぐオードブルを出すから、どうぞ、ふたりとも席におかけになって、お待ちください」
仁王は少し遠慮がちな顔をしていたけど、それでも体中から幸せオーラがあふれでていて、僕も嬉しくなった。
付き合って2ヶ月で同棲、結婚か……と、うらやましくなる。正直なことをいえば、僕も伊織さんと一緒に住みたいけれど、いきなりすぎるかなと、少し遠慮しているところがあるからだ。
心地のいい困惑を抱えながらメインの料理を出し終えたころだった。もう時間的に、ラストオーダーだ。伊織さんもあとはデザートとコーヒーを出すだけだから落ち着いたのか、トラックのなかでゆっくりとシンクの掃除をしていた。
相変わらず、会話は聞こえなくても、仁王たちのテーブルには甘い空気が流れている。伊織さんを横目で見ると、伊織さんも仁王たちを見ながら、同時に僕をそっと見て、口もとを押さえていた。伊織さんは料理をサーブしているから、たぶん、あのふたりの会話を何度も耳にして、思いだし笑い……というか、ニヤける顔が止まらない、ってことなんだろう。わかるけど……ね。
「こら……」
僕が耳もとでささやくと、伊織さんはちょっぴり舌を出しておどけた。
「だって」
「くすぐったい?」
「もう、すごく。幸せ満開だよ、周助さんのお友だち。すごいラブラブで」
「会話を聞かなくても、見てるだけでわかるよ」仁王のあのデレデレの顔を見れば、一目瞭然だ。
「なんか、うらやましいなって」言いながら、僕のコックコートとくいくいと引っ張った。「今日、周助さんのマンション、ちょっとだけお邪魔したいな、わたし」
「……ふふ。いいよ」
「やった……!」
ああ、まったく……伊織さんだけじゃくて、僕までニヤけそうになっちゃうよ。こんな確認を取らなくても、いいようにならないかな。僕らは……付き合って1ヶ月も経ってないけれど。
僕は伊織さんを愛しているし、伊織さんだって、僕をとても愛してくれてることは、わかってるんだから……聞いてみても、いい気はする。
「ねえ、伊織さん」
「うん?」
「提案なんだけど……」
勢いで、言ってしまおうと思ったときだった。
「不二ー!」
「えっ」
タイミングよく(悪く?)仁王が手をあげて、僕を呼んできた。大切な話をしようとした直前だったから、普通に話しかけられたときよりも、心臓が大げさに跳ねたことに気づく。
ああ……僕、緊張してたんだ。
「すまん、ちと、彼女も一緒にこっちに来てくれんか」
「え、わたしも?」
「ん、みたいだね……なんだろう。でも、行こうか」言いながら、僕も仁王に返した。「すぐ行くよ!」
「おう、すまんの」
なにか不備でもあったのかと思い急いで駆け寄ると、仁王の彼女が、僕と伊織さんをきらきらとした目で見つめてきた。伊織さんも、突然に見つめられて困惑した表情を見せている。
酔ってる……のかな。そういえばこのふたりは、たったこの2時間でワインを2本、開けていた。そういうところも、とてもお似合いだ。
「不二さん、お料理、とても美味しかったです!」
「ああ、それはよかった。ありがとうございます」
「そして、あの、このワイングラス、彼女さんがつくられたんですよね? ガラス職人さんだとかで!」
「え……あ、はい。え、なんでそのこと……」おそらく、伊織さんが僕の彼女であることも、ガラス職人であることも、なぜ知っているのかという意味だ。「え、お話、した? 周助さん」
「あいえ、あのそれは、とある方から……あのでも、細かいことはともかくですね、少しわたしの話を聞いていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「は、はあ」
とある方、がすぐに誰だか想像がついた。まさか連絡を取っているとは思ってなかったけど、どう考えても、忍足か跡部に決まっている。でも、忍足に伊織さんのことを話した覚えはないんだけど……なんにせよ、仁王がここに来たのも、ふたりのどちらかが教えたのかもしれない。
「『ざわざわきらきら』という絵本が、今度、映画化されるんです!」
「『ざわざわきらきら』……あれ、それって周助さんの家に」
「ああ……ひょっとして」忍足が僕に買わせた、あの絵本かな。「え、映画化するんですか?」
「あ、ここだけの話なので、まだ口外はしないでください。でもご存知なんですね! そうなんです! すごく素敵な絵本なんです!」えっと、僕はまだなにも言ってないのだけど……。「映画化についてはあれこれありまして、わたしが提案したことだったんですけども、なんだかプロデューサーの方が押しに弱いと言いますか、わたしに恩があると言いますか。提案するといろいろと受けれいてくれる方でして、ですからわたしも図々しい気持ちが出てきてしまって、あれこれとしつこく提案中というわけなんです。お読みになっていらっしゃるならわかるかと思うのですが、あの絵本のキーワードは『料理』なんです。食卓を華やかに飾る料理。ラストは絶対にフルコースですから、今日のような、不二さんがつくった見るからに繊細なお料理でラストを飾るべきだと思うんです」
ものすごい勢いでまくし立てられて、理解が追いつかない。というのに、仁王はのん気に残りのワインを飲みながら、彼女の演説を聞いていた。まったく止める気配もない、ということは、仁王はもう、見慣れている光景だってことかな。まあ、そうだよね……婚約者なんだから。
「そして、美しい食卓には、美しい食器類が必要です。こんな綺麗なワイングラスをおつくりになられるなんて、よほどセンスがいいとしか思えません」
「いえ、あの、そんな……」伊織さんは困惑しきりだ。
「ですから、ぜひ、おふたりにお力を貸していただけないかと」
「は?」うっかり、失礼な言い方で聞き返してしまった。
「え?」伊織さんも、思わず声をもらしている。
「お料理、不二さんのものを映画に出すことはできませんか? そうじゃなくても、フードスタイリング的な、監修的なことをしていただけるだけでも違うと思います。そして、このグラス。ほかに食器などもあればぜひ、ガラス職人さんの技術でつくられたものを、ご提供いただくことはできないでしょうか?」
僕と伊織さんは、目が点になった。
しばらく仁王の彼女の演説を聞いていたせいで、すっかり帰りが遅くなってしまった。おかげでマンションでの時間を過ごすことなく、僕は伊織さんを家まで送っていた。残念なのは残念なんだけど、あの演説を思いだすだけで、何度でも圧倒されてしまう僕らがいる。
「周助さんのお友だちの彼女さん、公務員だって言ってたけど……映画の提案って、どういうことなんだろう」
「うーん、僕もそのあたりが気になってるけど、でも、ピエロがやるんでしょう?」株式会社ピエロは、エンタメ業界最大手の会社だ。「すごいことだよね」
「周助さんも三ツ星シェフですごいけど、周助さんのお友だちも、みんなすごい。今日の人はカリスマ美容師で、跡部さんは財閥の御曹司でしょ、後輩にあの越前リョーマ選手がいて、今度は映画化されるような絵本を手がけちゃう編集者なんて」
「なに言ってるの。伊織さんも、世界のリーデルを打ち負かすほどのガラス職人じゃない」
「でもわたし、まだ打ち負かしてないんだもん」
「ふふ。もうすぐだよ」
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。伊織さんの自宅下に車を停めて、僕らは見つめ合った。ああ、寂しい。本当なら、毎日一緒に寝たいのに。
「ありがとう周助さん。そういえば、周助さんは『ざわざわきらきら』、読んだの?」
「ん……実はまだ読んでなかったから、帰ったら読もうと思ったよ」
「そうなんだ。わたしは周助さんの家で読んだよ。すごく素敵な絵本だったのは、たしかだから。周助さんも、読んでみたらやる気になっちゃうかも」
「そうだね、うん、忍足が担当したなら、きっといい絵本だ」
「ん……」
会話が終わろうとするのを理解して、お互いが唇を寄せ合う。
今日はマンションでの時間があると思っていたからこそ、名残惜しい。優しく肩を抱きながら、長い長いキスをした。
「周助さんとのキス、大好き」
「僕もだよ……愛してる」
「うん……愛してる」
「たくさん?」
「うん、すごくたくさん」
仁王たちに見せつけられたせいかな。僕も伊織さんも、いつもより甘くなっていた。
お互いが自分の言葉に照れながら、それでも唇を離さないまま、微笑みあった。
「ねえ、伊織さん」
「うん?」
チュク、という音を立てながら、僕は肝心なことを思いだしていた。
こうして離れてしまう時間を、なくすことはできないかな……どうせ勢いで言おうとしたんだから、もう言ってしまいたくなる。
伊織さん……僕と一緒に、暮らそう?
「あのね、僕と……」
瞬間、振動が、車のなかに鳴りひびいた。たいした振動じゃない……なんなら見飽きてるほどの光景だ。ドリンクホルダーに入れていたせいで、そして僕がスマホの設定をバイブレーションだけオンにしていたせいで、ガタガタと電話の着信を主張してきている。
「ふふっ。なんか、いつもこんな感じになるね、わたしたち」
「もう、いつも本当にタイミングが悪いんだから」
がっかりしながらも液晶を見ると、そこには『跡部景吾』と表示されていた。今日は仁王に跡部に、他校三昧だと思いつつも、跡部とはあの日以来、話していなかった。
「ごめんね、伊織さん。ちょっとだけ、出ていい?」
「もちろん」
「帰らないでね。まだ、もう少しキスしたいから」
恥ずかしそうに微笑みながらうなずいた伊織さんの頬をなでて、跡部からの電話を取る。
跡部は挨拶なしに、開口一番、こう言った。
「お前とガラス職人に頼みがある」
また……? と、思わず口走りそうになったのは、一瞬のことだった。
その頼みに応えると決めた数日後から、僕と伊織さんは、とんでもなく忙しくなった。
to be continued...
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