ダイヤモンド・エモーション_14


14.


雅治さんが、静かに席を立った。のんびり余興を見ていたわたしもさっと席を立つ。ずいぶん前から、「伊織さんなら信用できる」とお願いされていた、わたしの役目だ。よくよく考えてみれば、わたしと跡部夫妻などほぼ無関係だというのに、それでもやり遂げねばと、本日5回目にしても気合いが入っていく。それがわたしの性分なのだろう。雅治さんと出会った大石さんの結婚式だって、無関係だったのだから。

「雅治さんあと12分しかないですっ」
「すでに着替え終わってくれちょるとええがの。伊織さん、急ぐぞ」
「はいっ」

披露宴会場を出てすぐに走りだす。雅治さんの足が早くてまったく追いつけないのだが、わたしはタイムキーパーの窓口を行っている身分なので、遅れて入っても問題はないだろう。怠けつつ、早足で控室に入ると、また目を瞠るほど美しいドレスを身にまとっている本日の主役がそこに座っていた。先に入った雅治さんが、まずはメイクを整えている。

「おうおう、よう泣くからまたファンデーションが崩れちょる」微笑みながら、雅治さんが花嫁をからかった。
「すみません仁王さん……」本人は申し訳なさそうだ。
「ええんよ、たくさん泣いたぶん、幸せっちゅうことじゃろう?」

花嫁さんは、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに「はい」と答えた。幸せ絶頂なのは、式のときからよくわかっている。わたしも、とても穏やかな気持ちになった……と、のんびりしている場合じゃない。時計を見ると、3分が経過している。

「雅治さんあと9分です」
「ああ、忙しいのう。巻きすぎじゃろ、どう考えても」
「余興が思った以上に長かったですからね」

仕方ないのだけれど、披露宴というのは忙しい。大石さんの結婚式のときも思ったが、どうしたってスケジュール通りにはうまくいかないのが披露宴だ。もちろんバッファは取っているだろうが、跡部さんのこの結婚式は来場者も多いうえに、なんとお色直しを5回も行うというファッションショー並みの披露宴だ。これからマスコミも集まってガヤガヤするぶん、さらに時間がない。毎日この仕事をされているスタッフさんには、本当に頭がさがる思いだった。

「このドレスなら髪のセットアップはしっかりしたほうがいいだろうな。おっと、リップを忘れちょる。口、開けてくれるか」
「あ、はいっ」

雅治さんの細長い指が、花嫁さんの顎に到達した。その真剣味を帯びた表情に、恥ずかしながら惚れなおしてしまう自分がいる。ショーのときは緊張しすぎていて気づかなかったが、こうした舞台の仕事になると、雅治さんは目の色が変わる。花嫁が美しく仕上がっていくさまは、何度見ていても魔法のようだった。この5回、すべてメイクも微妙に違うし、髪のセットも違う。こんなことを10分ちょっとでやってしまうなんて、なんて、素晴らしい技術なんだ。素敵すぎます、雅治さんっ。

「雅治さん、あと5分ですっ!」
「もう4分も経ったんか? ダメだ、間に合わん。もう3分伸びると伝えてくれ」
「ええっ、そんなっ」
「頼む伊織さん、急いでくれ」

また、である。1回目も2回目も3回目も4回目も、時間を伸ばしていただいた。おまけに披露宴は後半になり、すでにかなり巻かなくてはならない。いまになってそれが可能なのか、判断に迷ってしまう。が、迷っている時間が、すでにもったいない。

「伝えてきます!」

わたしは急いで控え室を出て、今度こそヒールで走った。正直、すでに痛い足が一層、痛くなる。でも雅治さんの仕事の手伝いで、そんな泣きごとを言っている場合じゃない。
披露宴会場の出入口に到着すると、新郎である跡部さんはすでに待っていた。跡部さんのヘアメイクは、雅治さんの一番弟子が担当している。その出来栄えも素晴らしいと思う一方で、美しい姿の跡部さんは、走ってきたわたしに、わずかに眉をあげた。

「どうした? 大丈夫か?」気遣ってくださった。ジェントルな方だ。
「はあ、あの、あのですね……」となりに立っていたスタッフの人に顔をあげて、わたしは声をかけた。「あと5分のはずなんですが、プラス3分、待ってもらえませんか」
「ええっ! ということはあと8分ですか!? ううん、それはちょっと……なんとかなりませんか?」
「すみません、これでも急いでいるんです!」それじゃなくても、雅治さんは当日お渡しクリーニング店もびっくりの超スピード仕上げだ。ただ、こだわりが強いだけで……。
「困ったなあ」

スタッフの人の顔が、あきらかに不機嫌になっていった。これだからヘアメイクはうちのスタッフにやらせたかったのにと言わんばかりである。いや、一定、おっしゃるとおりだとは思う。雅治さんという人は、こだわりが強く細かいせいで時間にルーズなところがある。
だけど、あの素晴らしい仕上がりは超一流、誰にも負けやしないんですよ!

「かまわない」
「えっ」

じりじりとした暗黙の睨み合いに声をあげたのは、跡部さんだった。ふっと微笑んでわたしを見ながら、扇子でパタパタと顔を仰いでらっしゃった。このドタバタの状況でも、実に優雅な方なのだ。まったく焦りが見えない。

「仁王が納得するまで、俺は待つぜ? たとえ終了時間が大幅に伸びたとしても、そのぶんの会場代はきっちり払わせていただく。それでいいだろう?」
「跡部さま……まあ、跡部さまが、そうおっしゃられるのでしたら……」
「ということだ。悪いが仁王に、そう伝えてきてくれ」
「跡部さん……ありがとうございます!」

おそらく、すでに終了時間は予定時間を超える状況なのだ。だからスタッフさんはしぶっていた。遅くなればそれだけ、撤収も遅くなる。そのぶん、残業代も増える。まさかそこまで払ってくれとは言えないだろうから口をつぐんでしまったが、延長料金にそれも上乗せされるかもしれない。などと、余計な心配をしながら、わたしは控え室に走った。

「雅治さん、3分伸ばしOKです!」
「さすがじゃ、伊織さん」

この往復で、すでに3分は過ぎていた。あと5分。みるみるうちに花嫁のお色直しが整っていく。
そして予定していた5分が過ぎようとしたとき、雅治さんがパンッと手を叩いた。

「これで完璧じゃ。この衣装もよう似合っちょる、綺麗だな」
「も……もう、仁王さん毎回毎回、恥ずかしい」
「ははっ。本音じゃき。さ、早く行きんしゃい」

ぽん、と軽く雅治さんが背中を押すと、花嫁はこくっと頷いて控え室を出ていった。扉が閉められた瞬間に、「はあーっ」という盛大なため息が聞こえる。
わたしも思わず、同じようにため息を吐いてしまった。これで披露宴のお色直しがすべて完了した。肩の荷が降りるとは、こういうことだ。
あとは、二次会前のお色直しを残すだけだった。

「骨が折れる……」おっと、肩の荷が降りた瞬間に。
「お疲れさまです、雅治さん」苦笑しながら、彼の背中をそっとなでた。
「ああ、伊織さんもな。まだあるが……ま、次は時間に余裕があるじゃろ」
「ですね」

雅治さんが、わたしの手を取った。誰もいない控え室で、静かに抱き寄せられる。早く戻らないと原作者スピーチがはじまってしまうというのに、どうしようもないな、と内心は思いつつも、嬉しくて手を回してしまった。

「雅治さん、原作者スピーチがはじまってしまいますよ?」
「じゃの、そろそろ戻るか」言いながら、チュッ、と短いキスが落ちてきた。まったくこんなところで、この人は……。
「も、口紅が取れてしまいます……」

さっきからお色直しが終わるたびにキスをしてくる雅治さんが、なんだかかわいい。疲れているから癒やされたいのだろうか。さっきまで張り詰めた空気で仕事をテキパキしていた彼だからこそ、そのギャップが愛おしかった。

「大丈夫じゃ、なかなか取れんのにしちょるから。なんなら激しめのキスで試してみるか?」
「もう、バカ言わないでください」
「ははっ。ダメか。いじわるじゃのう伊織さんは」

控え室を出て、少しだけ寄り添った。会場からはにぎやかな笑い声が聞こえてくる。どうやらまだ、原作者スピーチには時間があるようだ。

「でも雅治さん、今日は映画のときよりもピリピリしてますね」
「時間が限られちょるからのう。その場の気分で、即興で考える俺みたいなタイプの美容師は、時間制限が苦手なんよ」

まいった、と眉をさげながら苦笑している。雅治さんのこだわりを知るまでは、なんて時間にルーズな人なんだと思っていたけれど、彼を知ったあとでは許せるのだから、わたしも現金なものである。この感情の変化はきっと、えこ贔屓だ。

「じゃけど、今日は伊織さんがおってくれるから、安心しちょるよ」
「ふふ。時間には厳しいほうだったのに、すっかりペースに乗せられてしまっています」
「まあ、伊織さん頑固じゃからのう。それくらいがええと思うが」
「またっ……! 余計なお世話です!」

プイ、と顔を向けてくすくす微笑みあう。人の幸せに乗っかって、わたしたちもかなりお花畑な状態だった。
披露宴会場に戻ると、主役のふたりが盛大な拍手で迎えられ、ちょうど着席し終わったところだった。わたしたちも静かに席につくと、待ってましたという目をして、忍足さんの彼女が話しかけてきた。

「仁王さんすごいですね! またさっきと全然、違いますよ! 素敵です!」
「おう、ありがとのう。ちゅうても、時間は守れんかったんじゃけど。おかげで叱られた、この人に」
「なっ……!」

まったく叱ってなどいないというのに、雅治さんはなぜか、人の前だとわたしを凶暴にしたがる。自分は尻に敷かれてます、とわざわざアピールするのには、いったいどんな理由があるというのだろうか。
やめてほしい。とんでもなく不名誉なうえに、嘘八百だからだ! ペテン師め!

「ふふ。それでも仲よしじゃないですか」と、彼女は雅治さんに笑いかけた。誤解だ。
「違うんですよ? わたしは叱ってなど……!」
「わかったわかった、いいんだよー。結局それが嬉しいんだから、仁王さんは」だから、誤解だというのに!
「いーや? いつも俺はへこむだけじゃき」

しかも、忍足さんの彼女はいつもすんなり納得してしまう。まったく!
それでも、忍足さんの彼女はこれから原作者スピーチをしなくてはならない。関係ないことをここでベラベラしゃべるのは得策じゃないと感じて、わたしは口をつぐんだ。
絵本作家の彼女は1時間前ほどから、全身に緊張オーラがただよっていた。

「もうすぐですね……」
「そうなの、どうしよう。ああ、緊張する」

余計なことを言ってしまっただろうか。ハンカチで額を押しはじめた。体が熱くなっているんだろう。わたしがお水を注いでさしあげると、「ありがとうね、伊織ちゃん」と小さくおじぎをされた。彼女とはいまではすっかり仲よくなって、よく二人でランチに出かけたりするほどなのだが、こんなに緊張しているの彼女を見るのは、はじめてのことだった。

「大丈夫ですよ、きっと。こういうときの緊張は、悪いものではないのだそうです」
「え、そうなの?」
「そうです。科学的には、こういう場合の緊張はストレスではなくパワーです。体が準備しているんです。これまでの成果をぶつけるための準備なので、高まっているだけです。そういうエビデンスがきちんとあります。アメリカの研究で、試験前に『緊張はよい結果をもたらすよ』と聞いた学生と聞いてない学生、各50人の試験結果を見ると、『緊張はよい結果をもたらすよ』と聞いた学生のほとんどが、聞いていない学生よりも点数がよかったそうです。これはもともと成績が同じ学生だけを集めているので」
「伊織さん」
「えっ」

いつのまにか、結局ベラベラとしゃべってしまっていた。雅治さんのツッコミではっとする。ああ、よくない。この癖は一生、治らないのだろうか。

「緊張はよい結果を、緊張はよい結果を……」ぶつぶつと、彼女さんが唱えておられる。
「見んさい、余計に緊張しはじめちょってやぞ」
「い、いえしかし、エビデンスがありますからですねっ」と、雅治さんに弁解してみても、意味はないのだろうけど。雅治さんの顔は呆れていた。
「大丈夫! わたし伊織ちゃんのこと信じてるから!」

しゃかりき、である。それがおかしな方向にいっている気もして、いささか申し訳なくなってしまう。そういえば、このエビデンスを教えてくれたのは姉だったと思いだして、少しだけ苦い気持ちになり、さらに申し訳なくなってしまった。
忍足さんの彼女が実は姉の元同僚だったと聞いたのは、1ヶ月前のことだ。

――ごめんね。隠してたわけじゃなくて、言うタイミングを見計らってたの。
――いえ、こちらこそ、お気を遣わせてしまったようで……すみません。

彼女は姉とランチをしているとき、雅治さんとわたしが歩いているところを見たらしい。だから彼女は、雅治さんにはじめてFREEDOMで会ったときにそのことを打ちあけた。すると雅治さんが、誤解を解きたいと、忍足さんたちを食事に誘ったそうだ。
それが、雅治さんが酔って帰ってきたあの日だったというわけである。話を聞いたときは、胸がとても熱くなった。雅治さんのことがもっと愛しくなった反面、酔って帰ってきたことにたいして怒りすぎてしまったなと、反省もした。
最終的には、姉と彼女の結末までしっかりと聞いた。彼女は姉に電話をして説得にかかったさい、電話を切られてしまったという。

――人を不幸にしてたら、その人は一生、幸せにはなれない。だからお願い、もっと周りの人のことを大切にして。吉井を守ってくれようとした妹さんを!
――うるさい、死ね。

熱くなっていたはずの胸が、一瞬で痛くなった。彼女にとって、姉は仲がいいと信じていた友人だったからだ。しかし彼女は、そんなひどいことを言われたというのに、これについて、「暴言」とは言わなかった。

――悲しい言葉だったよ。

ひどい言葉、だ。最低の発言だ。なのに、そう言った。このときばかりは、心が震えた。

――きっといちばん孤独なのは、吉井だね。
――優しいですね……そんなふうにおっしゃるなんて。あの、姉が傷つけてしまい、申し訳ありません。妹として、謝ります。

申し訳なさで頭があがらなくなったわたしは、目尻に涙をためながら、さらに頭をさげた。しかし、彼女はそれを、許してはくれなかったのだ。

――どうして伊織ちゃんが謝るの? おかしいよ。
――え……いやそれは……姉が、失礼なことを……。
――優しいのは、伊織ちゃんのほうだよ。あなたは優しすぎる。吉井とは縁を切ったんでしょう? 仁王さんはそんなあなたを全部、受け入れてくれてるんでしょう? あなたが本当に心の底から縁を切ってあげないと、彼の愛情とフェアじゃない。だから、謝ってはダメ。優しさの方向を、履き違えないようにしなきゃ。ね?

仲よくなってあまり時間は経っていないのに、深い愛を感じた。雅治さんのご家族と会ったときもそうだったが、世のなかには、これほど愛にあふれている人がいるんだと痛感した瞬間だった。そしてわたしはまた、泣いてしまった。
そうだ……わたしたちはいつだってフェアを基準に一緒に過ごしてきた。借りだの貸しだのと言い争っていた、あの時期が懐かしい。色気がない言い争いだったけど、あれが色気につながったようなところもあるじゃないか。

「気合いを入れて、いってまいります!」

原作者スピーチに向かう彼女の声に、なぜか勇気づけられる自分がいる。雅治さんに出会ってからというもの、本当にいろいろなことがあったけど、この短期間でわたしは家族も友人も手に入れたのだ。
それは全部、雅治さんがわたしにくれた、なによりも美しい奇跡である。

「楽しみやの。どんなスピーチになるか」
「そうですね。雅治さんのお話も出てくるでしょうか?」
「あの忍足が原稿チェックしちょるからのう。嫌がらせで、いれちょる可能性はあるかもしれん……」
「また、嬉しいくせに」
「だーれがじゃ」

お互いが耳もとでヒソヒソと話しながら、微笑みあう。この愛しい時間が、いまのわたしの美しい奇跡であり、宝物だ。
……だからこそ。
「彼の愛情とフェアじゃない」と言った友人に、目が覚めた自分がいる。今日はその想いを雅治さんにぶつけなければと、最初から思っていた。





映画は、本当に素晴らしい出来栄えだった。さすが株式会社ピエロである。入本さんには、感謝しかない。
披露宴の後半は、新郎新婦の挨拶もとても感動的で、わたしはほぼ無関係者だというのに、泣きっぱなしだった。大石さんの結婚式ではこんなことはなかったのに、最近、涙腺が完全にバカになっている。

「花嫁より泣いてどうするんじゃ」お見送りに並んでいるあいだ、雅治さんは呆れ返っていた。
「すみません、ああ、メイクが……雅治さんがせっかく施してくれたのに」
「もうずいぶん前から台無しじゃけどのう」
「だいな……ひどい」
「ははっ。あとで直しちゃるから、ええよ。好きなだけ泣きんさい」

そんな会話をしていたというのに、涙腺どころか頭までバカになってしまっていたのだろう。お見送りを終えたあと、女性陣だけで集まって全員で泣き笑いしているあいだに、いつのまにか離れたところにいる男性陣のなかから、雅治さんだけが消えていた。

「あ!」
「うわあっ、どうしたの!?」

となりにいた院長先生が目をまるくする。彼女は今日同席でもあった越前リョーマ選手の彼女であり、有名な鍼灸治療院の代表らしい。なぜだか初対面ではない気がしたのだが、どういうわけかとても優しくしてくださるので、すぐに仲よくなった。

「この子、こういうところあるんですよ、先生」忍足さんの彼女がさらっと失礼なことを言った。
「不覚でした! いま何時ですか!?」
「あ、はい、これ、時間!」

ガラス職人である不二シェフの彼女さんが、すかさずスマホを見せてくださる。彼女に会うのは、今日で2回目だ。以前、雅治さんとふたりで食事に出かけたさい、映画の件で相談させていただいたことがある。いつもかわいらしく、親切な方だ。
しかし、そんなことをのん気に思いだしている場合ではなかった。

「あああああああ、不覚です! とっくに過ぎちゃってます!」
「え……な、なんのこと?」

院長先生の質問に応えもせず、わたしは「失礼します!」と一礼してから控え室に走った。
新郎新婦のお見送りは、思ったよりもスムーズに終わっていたのだ。お見送りが終わったらすぐに二次会のヘアメイクの準備だと、雅治さんに言われていたのに!
ああ、もう、雅治さん、どうして声をかけてくれなかったんですか……! と、やつあたりも甚だしく急いで控え室に入っていくと、なんということだろうか。すでに仕上げは終わっていた。

「雅治さん、すみませんっ!」
「おっと、伊織さん。ようやく気づいたか。が、もう終わった」

またまた美しいドレスを身にまとった花嫁が、すっと背筋を伸ばして、奥のほうに立っていた。だだっ広い控え室だから、こちらを気にしている様子もない。となりには跡部さんがしっかりエスコートして、彼まで準備が終わっている。
二次会のセットは、新郎も雅治さんがやることになっていたせいだろうか。跡部さん、一段とキマってらっしゃる……とか言ったら、お弟子さんに怒られるだろうか。

「ああもう、どうして声をかけてくれなかったんですか?」雅治さんが悪いわけではないのに、ついつい、口に出してしまった。
「って、言われてものう……時間を忘れて楽しそうに話しちょったの、そっちじゃろ」嫌味たっぷりだ。ぐうの音もでない。
「ご安心ください。伊織さんの役目は、私が果たしましたから!」

はっと雅治さんのとなりを見あげると、いかにも紳士的な男性が立っていた。いやさっきから気づいていたのだけど、話しかけられたことで驚いてしまった。てっきり会場スタッフの人だと思っていたからだ。
よく見ると、かなりの正装だ。ということは、この方は今日の参加者で……え、いま伊織さんと、わたしの名前を呼ばれましたよね?

「伊織さん、紹介する。忍足よりもずっと付き合いの長い、俺の友だちだ」
「え、あ、は、はじめまして、佐久間伊織と」
「はじめまして伊織さん! いやあ、あなたにずっとお会いしたかったんです!」

紳士的で、少しだけ声が大きい雅治さんのご友人が、すっと手をさしだしてくる。なんだかテンションが高くて、わたしは少し呆気にとられながら、その手を握り返した。
返した瞬間、ぎゅっと強く力を入れられ、ぶんぶんと揺さぶられる。正直、ぎょっとした。

「私は柳生比呂士といいます。仁王くんとは中学のころからずっとテニスのダブルスを組んでいて、仲よくさせていただいておりました」
「ああ……!」

何度か、雅治さんに聞いたことを思いだす。たしか、見た目を入れ替えたりして相手チームの人たちを驚かせていたとかなんとか。そう、雅治さんは10代ですでにペテン師と呼ばれていたのだ(それをまた自慢げに言っていた)。ん、ということは、こんなに紳士的なのに、彼はペテン師の相方……つまり柳生さんもペテン師?

「あなたのお噂はかねがね仁王くんから……!」うーん、とてもそんなふうには見えない。
「柳生、余計なことは言わんでええ」
「なにが余計なことなんです、大切なことですよ。いいですか伊織さん? この仁王くんがですね、私にウキウキになって電話をしてきて、1時間もテレビ通話でデレデレとするほど、あなたは愛されているんですよ。こんなことは、仁王くんと」
「柳生!」誰がデレデレじゃ! と、眉間にシワを寄せて赤くなっている。かわいい……。
「仁王くんは黙っていてください。つづきを話しますね。仁王くんとはもう18年の付き合いですが、こんなことははじめてなんです! それほどあなたという人は、仁王雅治というひとりの男の人生に革命を……!」
「柳生っ! 黙りんしゃい!」
「まったく、うるさい人ですね! 私は伊織さんと話しているんですっ」

ポカン、としてしまう。この人が、雅治さんのご友人だとは、なんだか少しだけ、意外だ。しかしわたしみたいな女が雅治さんの婚約者ということも、あらゆる人に意外だという目で見られてきたので、そういうものなのかもしれない。
どことなく……だけど、わたしよりベラベラしゃべる人のような気配がしなくもなかった。

「しかし、本当におめでとうございます。あ、今日は跡部くんの結婚式でしたが、おふたりも、間もなくでしょう?」

雅治さんが頭を抱える横で、ひととおりしゃべり終えて満足したのか、柳生さんがようやく手を離してくれる。わたしの右手だけが、しっかりと汗をかきはじめていた。情熱的な人である。

「まあ……まだ詳細は決まっちょらんけどの」
「素敵な婚約指輪がまぶしいですね、仁王くん」ニヤニヤと、雅治さんを見た。
「やかましい。お前のう、今日は跡部の結婚式なんじゃ。少しはわきまえんしゃい」

そこにおるっちゅうのに……。と、付け加えながらボヤいている。
が、肝心の跡部夫妻は控え室にきたピエロの入本さんたちと談笑していて、やはりまったくこちらは気にしていないようだった。

「はあ、しかし、これで今日の俺の仕事は終わりじゃ」恥ずかしかったのだろう、雅治さんは、すかさず話題を変えた。「あとはゆっくり、たっぷり酒が飲めるのう」
「飲みすぎないでくださいね……」言っても無駄だとは思いつつ、口にする。
「そうですよ。体だけは大事にしなくてはいけません。伊織さんの夫になるのですからね」

一家の大黒柱ですよ? とつづけながら、柳生さんは雅治さんを見ているが、雅治さんは顔をぷいと横に向けて、まったく聞いていない。
弟さんには説教をするくせに、自分が説教されるとなるとソッポを向くのは、非常に雅治さんらしいところでもある。

「いいですか仁王くん、あなたは昔から無茶な飲み方をしがちです。とくにこういうお祝いの席では無礼講だからと……!」
「ああ、やかましいのう。伊織さんだけでも大変じゃっちゅうのに、やめてくれんか」
「は、ちょっと雅治さん、いまのは聞き捨てなりませんねっ!」
「ほらみんしゃい、こうなる」
「仁王くん、それは自業自得というものです」
「はあ……先が思いやられる。お前らを会わしたのは失敗じゃったかの」
「なんてことを! だいたい雅治さんは、人の心配をなんだと思っているんですか!」

柳生さんと二人で、雅治さんによくよく忠告をしはじめたときだった。
跡部夫妻が控え室を出ていくのと同時に、ふたりと話していたピエロの入本さんと、演出家であるシゲルさんがこちらに向かってきていた。シゲルさんの噂は、雅治さんから毎日のように聞いていたので、よく知っている。今日も見た瞬間に、あの人に違いないとすぐにわかった。見るからにオカマだったからだ。

「おふたりとも、どうも」
「どうも、入本さん」気を取り直して、入本さんにお辞儀をした。「映画初披露、おめでとうございます!」
「いやいや、これも佐久間さんのおかげですよ。正直、こんなにいい映画になるとは思ってなかったです」

ふふ、と苦笑しながら、入本さんは本当に正直にそう言った。となりに立っているシゲルさんがきゅーんと眉毛を上にあげる。

「シゲルさん、ですよね?」
「いやん、お嬢さん。アタシのこと知ってるの? ダーリンから聞いてたのかしら?」
「はい、お噂はかねがね」

ご謙遜を、というのが本音だ。遠目で見るとあきらかに異様な雰囲気なのだが、シゲルさんは間近で見るとイケメンだし、あの圧巻のパフォーマンスを見せられて、記憶に残らないはずがない。

「んふ。じゃあアタシが雅ちゃん狙ってるってことも百も承知ね?」
「よう言う。あんたたいして、俺に興味ないじゃろ?」
「アラァ、そんなことないわよう。アタシはイケメンに弱いの。そちらの殿方のほうがタイプだ・け・ど!」

シゲルさんが雅治さんから柳生さんに視線をシフトする。柳生さんはぎょっとして、雅治さんのうしろにそっと身を隠すように移動した。無駄だと思われるが、つい体が反応してしまったのだろう。

「に、仁王くん……っ」
「助けんぞ柳生、さっきの仕返しじゃ」
「なんとっ! 冷たい人ですね!」
「助けるってなによ! まったく失礼しちゃうわね!」

3人が騒がしいあいだに、入本さんはそれを無視してわたしに軽い握手を求めてきた。少し驚いたものの、わたしも手を重ねる。入本さんは握手しながら、何度か思い返すように頷いた。感無量と言わんばかりの熱が、わたしにもしっかりと伝わってくる。

「あなたに映画の提案をされたときは、どうしようかと思ったんですがね」
「すみません、強引でしたよね、あのときのわたし」
「ええ、とってもね」

とは言いつつ、入本さんは声を立てて笑った。
勇気をだして入本さんに電話をして、心からよかったと思える。衝動的だったとはいえ、かなり図々しいことだという自覚はしていた。それでも夢が現実になるというのは、わたしの人生のなかではかなり貴重な経験だ。どれだけうるさく思われようと、かまわなかった。

「ですが絵本を読んで、これはたしかにいい映画になりそうだと、すぐに思いました。あなたに紹介されなかったら、あの絵本の存在も知らなかったでしょう。忍足さんや跡部さんの協力もあって、この映画は必ずヒットします」

世界2位のテニスプレーヤーである越前リョーマ選手が宣伝してくれた、ということもあり、『ざわざわきらきら』は公開前から、マスコミをとおしてすでに話題になっている。

「お手柄だと、上司にも評価を受けています。それもこれも、佐久間さんのおかげですよ」
「いえ、そんな」
「しかし、本当に言わないままでいいのですか? 原作者も忍足さんも、ずっと名もなき提案者を知りたいと、なかなかしつこいんですよ」
「あはは。いいんです。だって、彼らの実力ですから。わざわざお茶を濁したくありません」

わたしが提案者だと知ったら、気が抜けてしまうような予感もある。それでも当時はここまで忍足さんたちと仲よくはなってなかったのだ。わたしを突き動かしたのは、間違いなく、あの絵本がずば抜けてよかったからなのだし。

「お嬢さん、アンタ、たいした女ね」
「えっ」

じゃれ合いは終わったのだろうか。いつのまにか、シゲルさんがこちらに向き直っていた。すっかり柳生さんの腰を抱いてらっしゃる。柳生さんの顔は、青くなっているようだけど……雅治さんはそのとなりで、ニヤニヤと写真を撮っていた。きっとあとで、柳生さんと共通の友だちにでも送るに違いない。雅治さんは、いたずらっこだ。

「これほどの映画になったのよ。きっかけが自分だって自慢したっておかしくないのにサ」
「そんな、わたしがしたことなんて、たいしたことじゃないですし。ただ純粋によかったからですから」
「だけどお。普通、ピエロの人間を説得するなんて、一般人ができることじゃないわヨォ。超・粋な女ね! 気に入ったわ!」
「いえそんな、恐縮してしまいます……」

なぜだろうか。女は男に認められるよりも女に認められたほうが喜びは増すが、オカマに認められると、その喜びがさらに倍増する。素直に、とっても嬉しくて、思わず顔がほろこんでいった。

「じゃろう? 俺の女は世界一じゃき、シゲルさん、手え出しさんなよ?」
「も、雅治さん、なに言ってるんですか!」

いまも柳生さんにベッタリのシゲルさんに、まったく恥ずかしい人だ。彼が女性に興味がないことなんて一目瞭然だというのに。だからこそ、雅治さんのその発言に、入本さんと柳生さんも、ははは、と空笑いを送っている。
が、なぜかシゲルさんだけが、ゆっくりと首をかしげて雅治さんを見た。雅治さんも挑発的な目でシゲルさんを見ている。妙な空気に、入本さんと柳生さんの空笑いが、静かになっていった。

「ふうん……雅ちゃん。すごい目してるのね、アンタ」
「俺、この業界が長いけ、わかるんよ。多いからの、美容系には」
「は……?」

思わず、声がもれでてしまった。
多い、というのは、オカマのことだろうか。たしかに美容系には多そうだ。しかしなんだろう、どうも、違和感が残る会話じゃないだろうか。

「仕方ないわねえ、イイ男には特別サービスよ」

シゲルさんが、ぱっと柳生さんから手を離す。側の机の上に置いていた紙袋を持ちあげて、なにやら取りだした。雅治さんにそれを手渡すと、「あ・け・て・み・て」と人差し指をクネクネさせた。

「ん……なんじゃ、これ」
「二次会に来た女性にだけあげる、花嫁からの特別プレゼントなんだけどさあ」雅治さんが、ひとりでラッピングされた袋を覗いて、目を見開いている。なんだろうか。「彼女にあげても絶対に隠し通しそうだから、雅ちゃんにあげるわ。だから好きにしちゃいなさい」

そう言って、シゲルさんは控え室を出ていった。入本さんもつづくように、「それではまた、二次会で」と頭をさげて出ていっている。
なんだか状況に取り残されたわたしと柳生さんは、じっと雅治さんを見つめたが、肝心の雅治さんが、まったく微動だにしない。なんだというのだろうか。

「雅治さん? あの、どういうことですか?」
「ああ、シゲルさんはバイセクシャルじゃき」
「ええ!?」
「ええええええっ!?」

わたしの声よりも、柳生さんの声のほうが大きかった。まるでマスオさんのように驚いている。それでも、わたしだって十分に驚いていた。完全に、女には興味ない見た目だというのに、バイセクシャル!?

「そ、どうしてわかったんですか!?」
「んー、そう言われてものう。勘としか言いようがないんだが」

だから、わたしに手を出すななんてことを言ったのか、と、ようやく合点がいったときだった。
雅治さんがやっと袋のなかのものを空中に取りだした。しかし、出した瞬間、今度はわたしと柳生さんが、完全に固まってしまった。

「んなあ!?」
「にににににに仁王くんそれは……!」
「まあじゃから、こうして男の気持ちも女の気持ちもお見通しっちゅうわけじゃの」

なんともイヤらしい形をしたネイビーのパンティを、わたしの顔の真ん前に掲げられる。
これは、どこからどう見てもセクシーランジェリーの代表、Tバックだ!

「さて、伊織さん。楽しみが増えたのう……?」
「に、仁王くんっ! そういうのはふたりのときに相談してくださいっ!」
「お前が勝手にここにおるんじゃろ」
「はっ、そうですね、お邪魔しているのは私のほうでしたっ!」

顔を真っ赤にした柳生さんが出ていこうとするのをなんとか止めたかったが、それより先に、わたしは我慢できずに大声をあげていた。

「ぜ、絶対につけませんからねっ!」





ぐにぐにと、優しい手つきで頭がほぐれていく。今日は本当に長いあいだ頭皮をひっぱりあげていたし、これでもかというほどヘアピンをつけていたということもあり、髪の毛をほどいたときは、少し痛かったくらいだ。

「ああ、雅治さん、とっても気持ちいいです。こういうときこそ、シャンプーしていただけるといつもより贅沢を実感します」
「ほう? そんじゃ俺、あとでたっぷりご褒美もらわんといけんのう?」
「はい、あとで雅治さんにはマッサージをしてあげます!」

たまにはわたしも雅治さんをほぐしてあげなければ、とは前々から思っていたので、今日こそは肩や背中を揉んであげようと、これも最初から決めていた。

「それよりも、あのTバック履いてくれんかのう?」
「なっ……まだ言ってるんですか!?」

顎を大きく反らして雅治さんを逆さに見あげると、ニヤ、としながら鼻にキスが落ちてくる。
もう、そんなうっとりするようなことしたって、ほだされたりしませんよ!?
雅治さんは、なんとしてもあのTバックをわたしに履かせようとしていた。帰りのタクシーのなかなんて運転手さんにまる聞こえだというのに、その話ばっかりして……!

「絶対に履かないって言ったじゃないですか!」
「そう言わんと。脱衣所にちゃんと用意しちょったき」
「わからない人ですねっ、履かないって……!」
「伊織さん、ええ体しちょるからよう似合うと思うけどのう。せっかくの花嫁からのプレゼントじゃっちゅうのに、1回も使わんでタンスの奥にしまう気か?」

残念じゃろうのう、ひどい人じゃのう、と、巧みに罪悪感を植えつけようとしている。ええい、残念なのは雅治さんが、でしょう! まったく、信じられないっ。

「あんな、お股のところがぱっくり開いたもの、もはや下着でもなんでもないじゃないですか!」あれでいったい、なにが守れるというのですか!
「ありゃオープンショーツっちゅうて、立派な下着じゃ」
「お詳しいですね! さすが雅治さんです!」

ふんっ! きっとこれまでの女性経験の賜物だろう。ああ、それも腹立たしいっ。あんなイヤらしい下着をつけた女性と、ことに至ったことがあるんだろうか、この人は!
くううう、経験が半端じゃないのは最初からわかっていたけれど、憎たらしいったらありゃしないっ。

「くく、そう嫉妬せんと……」しかも、否定しない。ぎぎぎ。
「嫉妬なんかしてません!」
「かわいいのう、ぷんぷんに怒ってから」
「おちょくらないでくださいっ」

今日は特別な日だというのに、一気に機嫌が悪くなってしまった。過去に嫉妬するのは控えようと思っているし、この数ヶ月で雅治さんにどれだけ愛されているかもわかりきっているというのに、胸が痛くなってしまう。まるで女子高生だった。

「機嫌なおして、伊織さん。怒った顔もかわいいが、伊織さんは笑っちょるほうが数倍、綺麗だ」
「お世辞を言ったって無駄ですからっ」
「お世辞じゃないってもうわかっちょるじゃろ。俺がどれだけ伊織さんに惚れとるか、知っちょるじゃろ?」

泡だらけの手で、ぎゅっと体を抱きしめられる。胸の下に交差している手がすべって、腰のあたりをなではじめていた。

「ちょっと、雅治さんっ」
「このまま体も洗っちゃろうか?」
「やめてくださいっ、もう、いつもいつも……きゃ、ちょ、あははっ、ちょっと!」
「伊織がいじわるじゃから、いじわる返しじゃ」
「ちょっと、もう! あははっ、やめてっ」

お腹をこれでもかとくすぐられて、すっかり笑ってしまった。おかげで、お風呂を終えて髪を乾かしたころには、逆に入る前よりも機嫌がよくなる始末だ。雅治さんは、本当にわたしの扱いがうまい。
リビングに戻ると、彼はグラスを準備して待っていた。ちょっとしたおつまみに、今日のために買っておいた特別なシャンパンをテーブルの上に並べる。三次会をしようという約束は、数日前に交わしていた。

「乾杯。おつかれさん」
「乾杯。映画、おめでとうございます。そして雅治さんは、本当におつかれさまでした!」

この1ヶ月、彼はお店の仕事もしながら映画のヘアメイクもこなした。おかげで帰宅が午前を回ることはしょっちゅうで、ひどいときは朝の5時に帰ってきたこともある。だけど雅治さんは、ひとことも弱音を吐かなかった。むしろ、「昔の仲間のためじゃから」と、張り切っていたくらいだ。だけど、やっぱり体には、相当な負担があっただろう。

「お、伊織さん、本当にマッサージしてくれるんか?」
「はい。今日は絶対にするって決めていたんです。気持ちいいですか?」
「ん。伊織さんの指はまるで剣山じゃの。性格がよう出ちょる」
「はい!?」

美容室ではトリートメントをするさいに、マッサージも行っているからだろう。雅治さんは辛口にわたしのマッサージを評価した。憎たらしい……また機嫌が悪くなりそうなのを抑えながら、思いきり力を入れてやった。

「いたたっ、ちょ、伊織さん、痛すぎるきっ」
「剣山だから仕方ないですね!」さっきのいじわる返しのいじわる返しだ。
「い、いたっ……ちょ、今日は優しくしてくれるんじゃないんか?」
「雅治さんが優しくないですからっ」
「毎日シャンプーしちょるっちゅうのに、いたたっ、十分じゃろ」

おっしゃるとおりだ。そう思うと、いささか、わがまますぎる気が、しないこともない。雅治さんの嫌味は、愛情表現でもあるということを知っているのだから、わたしだってここまで怒る必要はないのだけど……。
とはいえ、今日はいろいろと決めごとがあるからこそ、いつもよりもムードある会話をしたかった。

「お……優しくなったのう。ああ、気持ちええのう」剣山と称された指を離して、手のひらでさするように肩を揉むと、雅治さんの口からため息がもれた。
「ふふ。よかったです」最初からそう言ってほしかった……が、言えばまた言い争いになりそうなので、やめておく。
「にしても、先を越されちまったのう。まさか跡部があんなに急いで結婚するとは、思わんかった」

俺らがぶっちぎりで最初じゃと思っちょったのに。と、付け加えている。
少しだけ口を尖らしているその姿は、徒競走で負けた少年のようだ。かわいくて、思わず吹きだしてしまった。

「なんじゃ?」
「ふふっ。だって、競ってたわけじゃないのに」
「そうじゃけど、なんでも最初のほうが縁起がええじゃろ?」

肩に置いている手に、そっと手が重ねられる。振り向きざまにチュッと唇を弾かれて、お返しに、わたしからもキスを送った。
いまだ、と、頭のなかでもうひとりのわたしが合図を出した。そうだね、とわたしも答えた。とてもいいムードなのは、間違いない。

「雅治さん」
「ん?」
「絶対に突き返されたくないので、今日にしました」
「は……なんのことじゃ?」

そっと雅治さんのとなりに腰をおろすと、彼は首をかしげた。パジャマのポケットをまさぐって、ゆっくりとそれを取りだす。
何度か見ているはずの小さな箱を見ても、雅治さんはピンときていないようだった。それも、当然だと思う。こんなことをされる男性は、あまりいないだろうから。

「あけてみてください」
「……まさか、男用のTバックが入っちょるわけじゃないよの?」
「なに言ってるんですか、もう」

くすくすと笑いながら、雅治さんが箱を開けた。その目が、Tバックを見たときよりも見開かれている。パカッ、と口を開けたまま、彼はゆっくりとわたしに視線を戻した。

「これ……どうしたんじゃ」
「追加でつくっていただきました。デザインは、すみません、わたしが勝手に決めてしまいましたけど」

雅治さんが、箱のなかの指輪を慎重に持ちあげた。内側に埋め込まれているダイヤモンドに気づいて、さらにその目が見開かれていく。
やがて、拳を口もとに当てながら、雅治さんは、息を飲むように言った。

「伊織さん……」
「わたしから雅治さんへ贈る、婚約指輪です」
「なんで……」
「なんで? 愛してるからですよ?」

触れるだけのキスを送ると、雅治さんがはっとしたようにわたしを抱き寄せた。3週間前、あの木目調のお店に、わたしはこっそりひとりで行った。

――彼の愛情とフェアじゃない。

姉の友人だった忍足さんの彼女の言葉が、ずっと胸に響いていたからだ。

「わたしだけ婚約指輪があるなんて、フェアじゃありません」
「伊織さん、こんなときまで……ええじゃろ、そういうの」

言葉のわりには、優しい声色だ。わたしは少し体を離して、雅治さんを正面から見つめた。

「いいえ。わたしたちは出会ってからこれまで、ずっとそうやって言い合ってきたんです。貸し借りなしです。わたしたちの愛は、ずっとフェアなはずでしょう?」

雅治さんの左手を取った。指輪を受け取って、ふうっと大きな息を吐く。男の人になった気分だ。緊張は、どんなに確証があったってやってくる。これまでの成果をぶつけるために体が準備している証拠は、こんなときにも現れるんだ。
綺麗で、大好きな、雅治さんの手。その薬指にゆっくり指輪をとおしながら、わたしはつづけた。

「だから、雅治さんが愛してくれるぶん、わたしも雅治さんを愛したいです。その証も、きちんとフェアに、残しておきたかったんです」
「……金はいつも大事にって、言うちょるのお前じゃろ」じっと、指輪を見つめている。
「ですが、貸し借りは嫌いなんです」
「はあ、色気のないことを……」

そうは言いながらも、雅治さんからの微笑みのキスが何度も落とされる。されたぶん、わたしもキスを送り返した。そう、いつだって……どんなことも貸し借りなしで仲が深まったわたしたちだからこそ、ずっとこうして生きていきたい。

「伊織……」
「はい」
「お前を守る。俺は、一生な……絶対だ」
「はい……わたしも、雅治さんを守ります」
「ん……フェアやの」
「そう、フェアです」
「……でもって、永遠やの、俺ら」
「はい、絶対に永遠です」

そこから、半年後。
お互いの左手の薬指に、ふたつの指輪が重ねづけされた。





まだ少しだけ冷える空気のなか、わたしたちは喫茶店に呼び出されていた。今日は火曜日で、わたしはランチ時間にそそくさと会社を抜けだしてきている。着席してコーヒーを頼んで、すぐだった。
ちょっとだけ出ているお腹をさすりながら、彼女が入ってくる。横で支えている忍足さんは、心配そうに彼女の腰をなでていた。

「もう、侑士さん大丈夫だってば」
「せやけど、いつも腰が痛いって言うてるやん」
「だからって、そんなになでても変わんないから……」

忍足さんは眉を八の字にしながら、わたしたちに「おまたせ」と微笑んだ。相変わらずなふたりを見て、雅治さんと顔を見合わせて笑ってしまう。

「お久しぶりです、おふたりとも。うわあ、もうお腹、大きいですね」
「なんだかねえ? 先生には体重が増えすぎだって言われちゃってて」
「食べすぎやと思うで……」
「ちょっとっ!?」
「おおこわ……」

そのやりとりに笑いながら、お腹をそっとなでさせてもらった。実は3ヶ月前に会ったときもなでさせてもらったばかりだったが、なんだかすっかり様子が変わっている。素直に、生命はすごいと感動した。

「大変じゃったろ、そんな状態でここまで来るの」雅治さんも、少し心配そうだった。
「そんなことない! わたし、前にこのへん住んでたから、久々に来てみたかったし!」

今日は、わたしだけ融通がきかないので、会社の近くの喫茶店にしてもらっていた。彼女は杉並区民だったようだ。このあたりのお店もよく知っていたので、長年住んでらっしゃったのだろう。

「こっちこそ、わざわざおおきにな。仕事中やろうと思ったんやけど、仁王が休みのほうがええからさ」
「すまんの、気を遣ってもろうて」
「ええねん。ほなさっそく、これ、プレゼントな」

たくさんの家具がごちゃごちゃに置かれている表紙の絵本を手渡されて、わたしも雅治さんも興味津々にそれを見つめた。
彼女の新作ができあがったと連絡をもらったのは、先週のことだ。はじめてのことではないけれど、なんだか表紙から、これまでとは違う躍動が見えてくる。

「ああ、もう読みたい意欲が出てきました」ヒットの兆しを感じてしまったせいだ。
「本当? 嬉しい。読んでくれてもいいよ?」
「いえ、帰ってじっくり読ませていただいてから、メッセージで感想を送らせてください」

さっとわたしがバッグにしまうと、雅治さんが少しだけつまらなそうな顔をした。彼は『ざわざわきらきら』以降、わりと絵本を読むようになっていた。とても本人に似つかわしくない趣味なので、周りには内緒にしているらしいけど。

「あ、雅治さんに持って帰ってもらおうかな」
「おう、そうしんしゃい。荷物になるじゃろうからのう」

ご機嫌だ。帰ったらすぐに読むだろう。想像しただけで、吹きだしそうになってしまう。

「あの、予定はいつなんですか?」
「出版?」
「いえ、出産のほうです」
「ああ、えっとね!」
「聞いてくれるか!?」

彼女が応えようとしたのをさえぎって、忍足さんが身を乗りだしてきた。彼女にさんざん聞いてはいたけれど、ここまでとは思っていなかったせいで、こちらもまた、吹きだしそうになってしまう。
結婚してから2年が過ぎて、わたしも学んだということだろう。男の人は、かわいい生き物だ。

「8月11日やねん! なんの日かわかる?」
「ん、んん? 雅治さん、わかります?」
「さすがの俺にも、さっぱりじゃき」
「侑士さん、わかるはずないでしょ!」恥ずかしいから、落ち着いてよ。と、彼女は困惑している。きっといつも、この調子なんだろう。
「あんな、この人が『ざわざわきらきら』を描きあげた日やねんか」

俺の奥さん、すごない? と、忍足さんの目はその日、手を振って別れるまで、輝きつづけていた。
なんとも幸せいっぱいのふたりに、雅治さんとわたしはずっと笑いっぱなしの、楽しいランチタイムだった。

「本当に、幸せそうじゃったのう、忍足」
「そうですね。でも忍足さん、すっかりかわいくなってましたね。普通、年齢を重ねると落ち着いてくるのかと思ってましたけど」

いつかのように、雅治さんとふたりで会社までの道のりをお散歩する。忍足さんたちのニュースを聞いて、雅治さんはご機嫌だった。もちろん、わたしもご機嫌だ。

「のう、伊織さん」
「はい?」
「俺らも、そろそろ励むか?」
「え?」

すっと、腰を抱かれた。結婚してからはあまり外でベタベタしなくなった雅治さんが、急に恋人のころに戻ったように接してきて、不意打ちにドキドキしてしまう。
わたしたちはしばらく恋人気分を味わうため、赤ちゃんはもうちょっとあとでいいよね、と話して、今日まで2年を過ごしてきている。
すっかり触発されたんだろう雅治さんに、わたしは目をまるくしてしまった。

「そ、赤ちゃん、ほしくなりました?」顔が、じわじわと赤くなってしまいそうだ。雅治さんと、わたしの子ども……。
「コンビニでゴムを3箱まとめて買って、伊織さんをいじめるのも飽きたしのう」
「な、あれだけは、もう許しませんからね!」

ふたりでコンビニに行ったさい、わたしに会計を頼むと言いながら、レジ打ちを店員さんがしているあいだに、ぽんっと素知らぬ顔をしてコンドームの箱を置いていくのは、雅治さんのいたずらのなかでも、いちばん悪どいいたずらだ。いつも叱るのに、全然、懲りてない。
ものすごく恥ずかしい思いをするのはこっちなのに!

「ははっ。じゃけ、伊織さんにとっても都合がええじゃろ?」
「雅治さんがいたずらしなければいいだけです!」言いながらも、子どもをつくろうという提案が嬉しくて、本気では怒れない。ニヤけてしまう。「雅治さん」
「ん?」
「何人、ほしいですか?」

立ち止まって見あげると、雅治さんはすっと目を細めて微笑んだ。あ、この顔……と、胸がきゅんとした。いつまで新婚気分なんだと、こないだもお母さんに言われたばかりなのに。それでもいつだって、雅治さんはわたしをときめかせてくれるから。いつも、優しくささやくときにする顔だと気づいて、そっと耳を寄せた。

「何人でも。じゃけど男も女もほしいのう」
「ふふ。頑張らなきゃですね」
「お互いに、じゃの?」

手を取りあった。雅治さんの指先が、わたしの手のひらをくすぐる。街中だというのに愛撫されているようで恥ずかしくて、思わずうつむいてしまった。

「のう、伊織さん」
「はい?」

そろそろ、職場が近づいてきた。いつものように向き合って、軽いお別れのハグをする。毎日一緒に生活しているというのに、いまでも雅治さんは名残惜しそうにつぶやくから。

「伊織さんと結婚できて、俺は本当に幸せだ」
「どうしたんですか、突然」

それが軽いハグから、熱い抱擁に変わってしまった。ぎゅっと、背中のシャツを握ると、優しく頭をなでられていく。
雅治さんは、ゆったりとした動作で、わたしの左手を持ちあげた。

「楽しみが尽きることがないっちゅうこと。俺は世界でいちばん貴重なダイヤモンドを掘り当てた男じゃから」
「も、なにキザなこと言ってるんですか」うっかり、笑ってしまった。
「はは。かもしれんの。だが、本音だ。伊織さんに出会ってから俺の心はずっと……このダイヤモンドみたいに輝きつづけちょる」

わたしの薬指に、静かなキスが、小さな音を立てて落ちてくる。いつかのようなふわふわとした心地よさが、体をまとっていった。

「……はい。わたしもです。ダイヤモンド以上の輝きで、わたしは雅治さんを愛してます」
「まったく、ずるいのう」

このさきずっと笑っていられると約束してくれた、わたしだけの王子様……きっとこれからも、彼が人生に、輝きを与えてくれる。

「愛しとるよ、伊織」

最愛なる人にまた永遠を感じた、爽やかな春の午後だった。





fin.

≠following link novel
 - Yushi Oshitari「ざわざわきらきら」
 - Ryoma Echizen「TOUCH」
 - Masaharu Nioh「ダイヤモンド・エモーション」
 - Syusuke Fuji「XOXO」
 - Keigo Atobe「ビューティフル」

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下記の書籍より多くの知識をいただきました。末尾ながらここに記して厚くお礼申し上げます。

『出版業界の危機と社会構造』小田 光雄(著)論創社
『鍼灸真髄』代田 文誌(著)医道の日本社
『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト(著)草思社
『モラル・ハラスメントの心理構造』加藤諦三(著)大和書房
『なぜ、あの人は自分のことしか考えられないのか―――「ナルシスト」という病』加藤諦三(著)三笠書房
『離婚後300日問題 無戸籍児を救え!』毎日新聞社会部(著)明石書店
『死体は語る』上野 正彦(著)文春文庫



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