TOUCH_10


10.


「アンタが紹介状を書くじゃなんじゃあ、世も末じゃねえホンマに」

たしかに、生まれてはじめて紹介状というものを書いた。
あれから数日後、結局リョーマのことが気になって、わたしは師匠の治療院に電話をかけたのだ。師匠の開口一番で、状況がすぐに把握できる。リョーマは本当に、師匠の元に行ったのだとわかった。
師匠は今年70歳になる超ベテランの鍼灸師だ。わたしがこの人以外に信頼している鍼灸師など、日本には存在しない。それほど、彼の治療はあらゆる不調を治してしまう。わたしなんかよりもよっぽど腕がいい。そういう意味では、リョーマも最初からこの人を同行させたほうがよかったのに、と皮肉にも思ってしまう自分がいた。

「しかもアンタ、とんでもない客を押しつけてきちゃったねえ。テレビで見た人じゃけえ、ぶーち驚いたいーね、こっちは」コテコテの山口弁が、耳に懐かしい。
「はい……師匠なら、間違いないですから。彼、どうですか? 調子はよさそうですか?」
「まあ、たいしたことないじゃろ。2週間くらい、毎日メンテしちょきゃええよ」

あの師匠に2週間も診てもらったら、リョーマの負担もかなりよくなるだろうと思い、じんわりと心が落ち着いていく。個人的には苦い決断だったけれど、師匠への紹介状を書いたのは、案外よかったのかもしれない。

「そうですか。ありがとうございます。よろしくお願いします」
「アンタちょっと待ちんさいね。越前さん、いま終わったんよ。電話、変わっちゃる?」
「え! あ、か、変わらなくていいです!」急な提案に、声が裏返りそうになった。
「ふうん、ほうかね。毎日15時からじゃけえ、なんか気になることがあったら電話しちゃったらええわ」田舎の人ということもあるが、師匠は配慮が素晴らしい。でも、いまはそれが苦しいんです……すみません。
「わかりました、そのときは……今日はその、紹介した責任として、確認の電話ですから」

あの電話の奥にリョーマがいるのかと思うと、気が気じゃなくなるのと同時に、胸が痛くなった。
わたしに見せた最後のリョーマの姿が、いまも頭のなかにこびりついている……。





静かな食卓だった。白いお米に味噌汁。おかずは夏野菜とチキンのグリル。あべこべもいいところだ。でもそれは、わたしの内面をよく表していた。

「今日、ありがとな。せっかくの早閉めの日に、飯つくらせて、なんか悪いな」
「いいよ、気にしないでよ。前からそうだったじゃん」
「まあ、そうなんだけどさ……」

今日は週に一度ある、治療院の早閉めの日だった。金曜の夜に治療院にかけこんでくる人は、あまりいない。この治療院を完全予約制にしたのは、わたしも金曜の夜くらいはのんびり過ごしたいと思ったからだった。
秋人が隠していたあの件を知るまでは、金曜の夜は秋人との時間だった。わたしが食事をつくって、秋人がそれを食べに来て。そういう時間を、ごくあたりまえに過ごしていた。5年間、それは変わらずつづいてきた習慣でもある。
だけどロンドンからの帰国後に、こうして秋人と食事をするのは、はじめてのことだった。

「伊織さ、ずっと、浮かない顔してるよな」
「え?」
「あの彼が、来てから……」

秋人の声は、穏やかでいて、どこか弱々しい。
いつも笑いが耐えなかった秋人との食事が、こんなに静かな時間になるとは、思ってもみなかった。彼から発する質問だって、ぽつ、ぽつ、と遠慮がちで、口に入れているご飯の味もよくわからない。
秋人がリョーマのことを言っているのは、すぐにわかった。それに、それは図星だ。リョーマが、胸が苦しくなるくらいにわたしを求めていて、いまだって、すごく苦しい。
リョーマと最後に会ってから、1週間以上が過ぎた……あの日、わたしとリョーマがふたりでいるところを秋人に見られたくなくて隠れたのは、前日に秋人の問い詰めがあったからだ。
リョーマがメンテ依頼をしに来た、あの日。閉院間近、秋人は、あのときも遠慮がちに言った。

――あのさ、彼の存在、俺、すごく不安なんだけど。
――やっぱり彼と、なにかあった……?
――ごめん、そんなわけないよな。伊織は、そんなこと衝動的にするタイプじゃない。
――信じていいだろ? いまも俺だけの伊織だって。

秋人は怒っていたわけじゃない、焦っていた。
そして、その質問に答えずに黙り込んでいた卑怯なわたしを、焦りを消そうとするかのように、求めてきた。

――伊織、俺……お前を抱きたい。
――ごめん秋人……まだ、そんな気分に、なれないから。

わたしはそれを、拒否した。
あの日の秋人の傷ついた顔が、リョーマの傷ついた顔とも重なって、いまでも胸やけがしてくる。
秋人に求められて拒否したのは、はじめてのことだった。なにがそうさせているかなんて、自分でもわかってる。納得したとはいえ、わだかまりが残る問題も、たしかに理由のひとつだろう。だけど……リョーマの熱が、まだわたしの体に刻まれていた。

――ごめん、強引だった……。
――わたしが悪いから……もう、彼に会うつもりない。だから、メンテだって断ったの。
――うん、信じてるよ……。

リョーマが突然に治療院を訪れたのは、その言葉を交わした翌日だった。
だからわたしは自分勝手な理由で、リョーマとふたりでいるところを秋人に見られないように、リョーマを資料室に隠したのだ。
どこまでも、その卑劣さに吐きそうになる。自分の言ったことを嘘にしたくないからって、リョーマに、あんな顔させて、あんな悲痛な声、出させて……。
秋人とやり直そうって思ったのに、リョーマのことが頭から離れない。最低すぎる自覚は、十分にあった。その一方で……もう、どうしたらいいのかわからなかった。

「彼のこと、気になってるんだな」

お茶をひとくち飲んで、秋人はまた、ぽつ、とつづけた。
あなたも、十分に浮かない顔だ。そうさせているのは、わたしなのに。

「怪我させちゃったっていう、うしろめたさがあるんだよ、わたしにも」

嘘だ。本当は、そんなことじゃない。

――オレが、うしろめたい?

リョーマの声が、また、頭のなかでくり返される。
リョーマの言うとおりだった。うしろめたいのは怪我のことなんかじゃない。秋人に、この気持ちを知られるのが、怖いんだ、わたしは……。
わたしのためにこの3年ものあいだ地獄の毎日だったろう秋人を、裏切れない……そんな思いが、わたしをずっと支配していた。

「そっか。そうだよな。でもまあ、ああいうのは事故だからさ」
「うん、わかってる」

微笑んだ秋人にほっとして、それでもこれ以上、なにをしゃべればいいのかわからずに、わたしはおもむろにテレビをつけた。なんらかの情報が流れるテレビに会話のきっかけを頼るようになったら、終わりのような気がするのに。
それでもこの空気が変わるなら、どんな音だろうと入れてしまいたかった。
時計を見ると、18時になろうとしていた。リョーマの治療はもうとっくに終わっているな、と思う。
リョーマが師匠の治療を受けるようになって、最低でも7日は過ぎているはずだ。かなり、歩くことへの違和感も減ったんじゃないだろうか。

『6時のニュースです』

テレビでは、ニュース番組がはじまっていた。そろそろ食事も目の前のおかずもなくなりそうなころだ。これならどんなニュースを見て食欲が失せても平気だと思いながら、ぼんやりと耳に入ってくるアナウンサーの声に、耳を傾けたときだった。

『台風19号の影響により、山口県防府市にあるルネサンス防府という商業施設で土砂災害が起こっています。現場から中継がつながっています』

聞き覚えのある施設名に、わたしは「え?」と思わず口走っていた。
ルネサンス防府は、師匠の治療院がある施設じゃなかったか。

『えー、こちら山口県防府市、土砂災害が起きたルネサンス防府の前に位置しています、国道道路です』

リポーターが、カッパを着用した状態で眉間にシワを寄せながら立っていた。その背景は、まるで油絵で塗りたくったような混沌とした茶色だった。

『流れ出した雨水が止まる気配はありません。そしてこちら……こちらは、スクラップ車ではありません。さきほどまで走っていたと思われる、軽自動車です』

まるで解体されたかのような自動車が、倒れた木とごちゃまぜになって映しだされていた。そこはわたしが過去、修行中にずっと通っていたルネサンス防府の近辺だ。でも、その懐かしい風景が、同じものとは思えないほど、どろどろとしたものに埋もれて、崩壊している。

『国道道路が、まるで絨毯のようにめくれあがっています。その先にある一軒家が見えますでしょうか。流木が、突き刺さっています。こちらで土砂崩れが発生したのは、午後3時半ごろでした』

頭に直接、釘を打たれたよう衝撃が、わたしをとりまいた。
薄暗い空の下で、茶色の濁流がものすごい勢いで街を吸い込んでいっている映像が流れていた。右上に、「視聴者撮影」と書いてあり、その動画からは、悲鳴があがっていた。
信じられなかった。これが、ルネサンス防府の、午後3時半の映像だというのだろうか。

「やだ……嘘でしょっ!」
「伊織? どうした?」

大きな音を立ててテーブルから立ち上がり、わたしは真っ青になってテレビの音量をあげた。
現実とは思えないような、テレビに映る災害に埋もれた街並みが、目の奥まで入り込んでくる。そこに師匠の治療院の看板が見え隠れしていた。土砂に埋もれて、バラバラになって破壊されていっている。

『この土砂崩れにより、ルネサンス防府にいた利用者34人のうち、数人は救出されていますが、わかっているだけですでに7人の方が死亡されており、まだ14人の行方がわかりません』

手が、震えだした。
『ルネサンス防府にいた利用者34人』『死亡者が7人』『行方不明者が14人』 
そのすべての言葉が、爆弾のように目の前に、頭に直撃してくる。

「おい、伊織?」
「嘘でしょ……っ、嘘でしょ!」

土砂崩れが発生したのは、午後3時半。
リョーマの施術は、師匠が言っていた……。

――毎日15時からじゃけえ。

そのころ、リョーマは治療を受けていたんじゃないか。土砂が建物に落ちてきたそのとき、そこに、いたんじゃないか。
あの商業施設は、小さい建物だった。ほかにテナントが3店舗。そこにいた34人のうち、7人の命が、土砂災害によって失われ、14人が崩れかけている。
その21人のなかに、リョーマが、いたとしたら……。

『東の斜面の山のあるほうから、土砂というか、いっぱい濁った水がナイアガラの滝のように流れてきて……』

わたしはスマホを手にとって、師匠の治療院に電話をした。
近所の人のインタビュー音声が、胸の鼓動をどんどん早めていく。

「つながらない……」
「伊織って……どうしたんだよ。ここに、知り合いでもいるのか?」秋人は、師匠のことは知らないのだ。
「つながらないの!」

リョーマの電話番号を、わたしは知らない。それどころか、千夏さんのだって、南次郎さんのだって知らない!
必死で頭を働かせた。近くにあるホテルにかたっぱしからかけてみようか。それとも警察署? ダメだ、電話したところで、こんな大変なときに取り合ってくれるはずもない。

『濁流というか、もうどんどんどんどん、道もなにもあったものじゃないです……水が下からも窓からもあがってきて、こんなのはじめてです。もうどうしようもない』

よどみなく流れてくる情報に、体中がしびれていく。思いついて、急いで跡部さんに連絡をとってみたけれど、それも、つながらなかった。こんな大事なときに……!

「行かなきゃ、わたし……!」

もう、電話なんかしている場合じゃなかった。

「え?」
「秋人ごめん、明日の治療院、お願い! わたしを指名してた人は秋人がやって!」
「伊織お前……なに言ってんだよっ」
「行かなきゃいけないの!」

怒鳴るようにそう言って、わたしはソファに置いていたままのバッグをむしり取った。着替えてなかったことが幸いして、このままでも出発できる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。リョーマ、大丈夫だよね……!

「……いるのか?」
「え……」
「あそこに、越前リョーマがいるのか……? 紹介したの、たしか山口だったよな?」

秋人の目が、わたしに非難を向けていた。
でももう、そんなことにかまっている余裕など、わたしにはなかった。

「そうだよ! いるの! 師匠だって、リョーマだってあそこにいるの!」
「待てって! だからって、行ってどうするんだよ!」

いつのまにか、秋人がわたしの腕をつかんでいた。振り払おうとしても、力が強くて振り払えない。

「なあ、お前にできることなんかないだろっ」

なんでこの人は、わたしを止めようとするのか。そんなことにすら、頭が回らない。
リョーマ……リョーマ、師匠……お願い、無事でいて……!

「離して!」
「伊織って!」
「わたしのせいなんだもの!」
「なに言ってんだよ! あれは災害だ! お前のせいなんかじゃない!」
「だけどわたしがリョーマに、あそこに行けって言ったんだもの!」

涙があふれでる。もしもリョーマになにかあったら、わたしは一生後悔する。
いまわたしが行ってできることなんかなくたって、このまま東京でただ黙って情報を待つことなんて、わたしにはできない。できる、はずがない。

「行くなって……なあ頼む!」
「秋人お願い、離して!」

秋人の力がゆるんだ瞬間に、わたしは思いきりその手を振り払って、家を飛び出した。
羽田空港まで行けば、最終便には間に合わない。これから山口に行ける手段のすべてを急いで調べて、車に乗り込んだ。そして東京駅までの道をこれまでないほどに飛ばした。
博多行きの新幹線の最終時間は、18時51分だった。





約4時間のあいだ、わたしはなんとか頭のなかを冷静にしようと試みた。それでもすぐに、押しつぶされそうなほどの後悔と、胸の痛みが襲ってくる。
どうか、どうか無事でいて、リョーマも、師匠も……。
ただ祈りの言葉を心のなかでくり返しながら、ネットニュースやSNSの情報を、ひたすら検索しつづけた。あの災害映像の拡散は、どんどんと広まっていた。
それでも到着するまでに、どこにも越前リョーマの名前はでてこなかった。死亡者の身元や行方不明者の身元も、いまだに公開はされていない。
でも、もし彼になにかあれば、必ずトップニュースで報道されるはずだ。だから、希望は捨てちゃいけない、きっと大丈夫、リョーマ、きっと……!

「リョーマ……師匠……お願い、無事でいて」

声が漏れでるほどに、わたしは取り乱していた。リョーマの顔が、頭に浮かんでは消える。
生意気にわたしを見ていた目から、優しい目に変わったリョーマ。
「伊織さん」とわたしを呼ぶ、愛おしい声。
「綺麗だよ……」と耳元で何度もささやいて、抱きしめてくれた。
そんな彼の記憶に、どんどん息が詰まっていく。
あんなに怒らせて、あんなに傷つけて……リョーマ、ごめん……許してなんて言わない。もうわたしのことなんて、嫌いになっていてもいい。
だけど、お願い、無事でいて……!





最寄りの徳山駅に到着したのは23時過ぎだった。もう、雨は止んでいる。
なんとか1台のタクシーを見つけて、わたしはすぐに乗り込んだ。

「ルネサンス防府の近くまでお願いできますか?」
「ええっ? いや……うーん、いちばん近うてもねえ、佐波川の手前じゃと思うよ?」佐波川は、山口の中部を流れる一級河川だ。「道路がもうないんよ。アンタどうしちゃったんかね? 土砂近くに、親戚でもおってんかね?」
「知り合いがあそこにいたんです。佐波川の手前で結構ですから、とにかく現場近くに!」
「うーん……行っても無駄じゃと思うけど……」

ぶつぶつ言いながら、タクシーの運転手は車を発進させた。
ニュースでも、佐波川の手前の道路がめくれあがっているところが映されていた。ネットであがってくる動画や写真からもそれは、あきらかだ。
そんなところに行っても無駄なんてことはわかってる。でももしかしたら、なんとか逃げ切ったリョーマが、近くで迷っているかもしれない。土地勘がない場所に置き去りにされて、混乱しているかもしれない。師匠を抱えて、彷徨っているかもしれない。
なによりその現場を見ないことには、わたしの不安は煽られる一方だった。
やがて1時間ほど経ったころ、車は運転手の言うとおり、通行止めに差しかかった。

「ここまでじゃけど、お客さん、どうするかね」
「降ります。あの、運転手さん、ここで待っていただくことはできますか? 時間経過分、料金はもちろんお支払いしますからっ」
「ええけどアンタ……この雨で、どうする気ね?」
「少ししたら戻りますから、お願いします!」

雨が、また降ってきていた。さほど強くはない雨だったけれども、これでさらに被害が広がる可能性がある。
たどりついた場所の景色は、映像などでは伝わらないほどの凄惨さを物語っていた。
ぐしゃぐしゃになりつぶされている建物。帯のようにうなっているコンクリート。左右から、お互いを突き刺すように倒れている電柱。そのすべてに、いまも濁流がなだれ込んできている。
これは、わたしの知っている街じゃない。ここは、地獄だ。

「すみません、70歳のくらいの、白髪で、身長は165センチくらいの男性を見ませんでしたか!? それと、短髪黒髪の、30歳くらいの男性が」
「はい!?」

道路近くで作業をしている消防関係者に話を聞いても、「バカ言うちょらんと、さがらんかね!」と返された。警察には、近づけもしない。
報道陣がわんさかといる。わたしは仕方なく、その近くで様子を見ている野次馬の人だかりのなかに歩を進めた。全員が傘をさして作業を見守るなか、わたしはびしょ濡れになりながら、リョーマを見ていないか、師匠を見ていないか、報道陣には聞こえないように、訪ねてまわった。

「なに言うちょるん、この人!」
「アンタねえ、こんなとこに、もう人がおるわけないでしょ!」

わからないじゃないか。埋もれているかもしれないのに……っ。

「すみません、あなたはこの近くにお住まいですか? 被害の発生時に近辺におられました?」
「やめてください、撮らないでくだい」

派手に聞いてまわっていたせいか、報道陣が話しかけてきた。
彼らに聞いてみようかとは何度も考えたが、わたしは、その力を借りることだけは避けたかった。リョーマはウィンブルドンのことで、連日ニュースで報道されていた。怪我をしたときだって、彼らは好き勝手にリョーマのことを報道していた。なにも知らないくせに。
でも、その報道のせいで誰もが知っているスポーツ選手になったからこそ、彼の姿を見れば、こんな田舎であろうと、すぐに噂は広まっているはずだ。
それなのに、誰も見ていない。死者のなかにもいなければ、行方不明になっているか……それとも。

「お姉さん、人を、探しちょってんですか」

そのとき、うしろから声をかけられた。振り返ると、カッパを着ている大柄の男性が、わたしを鋭く見おろしている。
息切れを起こしているのか、その胸板は、はげしく上下をくり返していた。

「人探しかね? わしもじゃったんよ。でもいま、無事ってわかったけ。アンタは?」
「あ、知り合いが、ルネサンス防府に、ちょうどいたんですっ」
「それやったら三田尻病院か、中央病院に行ったらええ。行方不明じゃった人も何人か搬送されちょる。そこで話を聞いたほうがええじゃろうと思うよ? うちのもそこにおったけえ」

この人は、奥さんを探していたんだろうか。それなのに、またこの現場に戻ってきているのは、どういうことなのだろう。

「アンタみたいな人が、ようけおってんよ。みなに教えちゃろうと思ってね」
「そうでしたか……あの、そこに、関係者の方が集まっているということですか?」
「ん、そう。あっちのほうは道がまだ大丈夫じゃけえ。そうしちゃったほうがええよ」
「あ、ありがとうございます!」

約束どおり待ってくれていたタクシーに駆けつけて、わたしはまず、三田尻病院までの移動をお願いした。





深夜0時をとっくに回っているというのに、病院は混雑していた。
土砂災害の関係者や、施設外でも被害を受けたんだろう負傷者とその家族、そして報道陣が詰めかけている。ナースステーションに、ひとりだけ看護師が立っていた。

「すみませんっ」
「はい、土砂の被害者の方のご家族?」
「はい、あの……越前リョーマという患者が、ここに来ていませんか? それからもう一人」

つづけて師匠の名前を告げようとしたときだった。
看護師の目に、警戒の色が見えた。眉間にシワを寄せて、わたしをじっと見つめている。品定めされているような視線に、心臓がバクバクとしてきた。

「その患者さん、あなたの関係者なのですか? 本当に」
「え……」

リョーマのことだ……。いる、ここに。いるんだ……。だから看護師は、警戒している。
どう説明するべきか。記者だと思われていたら、絶対に会わせてもらえない。無事かどうかすら、教えてもらないかもしれない。一刻も早く、安否を確かめたいのに……!
そう思った瞬間、肩に手が置かれ、わたしは跳ね上がるほどに驚いた。

「アンタ、こんなとこでなにしちょるんかね!」

振り返ると、びしょ濡れで泥だらけの師匠が、そこに立っていた。呆然と、目をまんまると見開いて、わたしを見ている。すぐには、声が出てこなかった。
師匠は頭に包帯をして、その腕には、図太いギプスが巻かれ、固定されていた。

「し……師匠っ……!」
「お……おお、こりゃ……」

涙が、あふれでた。師匠が無事だったことに、わたしは泥だらけになっているその体に、思わず、抱きついていた。

「無事だったんですね……!」
「おうやあ、無事じゃったいーね」
「腕、……折れちゃったんですか?」
「腕はやっちもうたー。アンタ、治療してえな」

冗談を言える師匠に、胸をなでおろす。わたしは急激な安堵を感じて、へなへなと、その場に座り込んだ。

「大丈夫かね。こっちおいで。ほら、立てる?」師匠がそっと、肩に手を置いてくれる。
「はい……ああ、心配した……」わたしは、ゆっくりと立ち上がった。「よかった。頭は? 怪我しちゃったんですか?」
「大丈夫よ、かすり傷じゃわ。まあまあ、泣いてから。そうかね、わしが心配で来たかね」

カッカッカッ、と大声で笑って、師匠はすぐにペロッと舌を出して、口をつぐんだ。
近くにいた被害者の方々に睨まれたからだ。わたしもあまり大きな歓喜を表現しないように、肩をすぼめる。同時に、師匠の無事な姿は、わたしの希望へとつながった。
リョーマは、無事だろうか。いま、どこにいるのか。
焦る気持ちをなんとか整えながら、わたしは師匠に向き直った。

「師匠、あの……」
「わかっちょるいーね、冗談じゃあね。もっと心配なのがおったけ来たんじゃろう?」
「え、あ……いや師匠のことだって、心配でしたよ」
「じゃからってアンタ、あの生意気坊主がおらんかったら、ここまで来ちょらんじゃろうがね」

ぷひー、と言いながら、師匠がおどけて口をとがらせる。
このふざけた様子からも、リョーマは無事なんだとわかった。一気に、強張っていた体の力が抜けていく。無事だった……もう、それだけいい。
まだ被害に遭っておられる方もいるのに、不謹慎かもしれないが、歓喜の声をあげてしまいそうだ。

「病院が大騒ぎになるからっちゅうて、隠れちょるんよ。こっちにおいでえね。おるから」
「大丈夫なんですよね?」怪我は、していないだろうか。足にまた負担が、かかってないだろうか。
「ええからついてきんさいって」
「師匠、無事なんですよねリョーマは?」無事とわかっても、抑えきれない。
「あーやかましいっ。その名前を出しちゃいけんって言うちょるじゃろうがね」

もうすでに、涙があふれでそうだった。無事なんだ、リョーマは無事だったんだ。
師匠の様子で、その確信が、自分のなかで強固になっていく。一瞬でいい、その姿を見れれば、安心できる。わたしの激しくなっていた呼吸も、だんだんと、落ち着きはじめていた。

「あの生意気坊主がのう、わしを助けてくれたんよ」
「え……?」
「土砂っちゅうのはぶちえらいもんでね。うち2階じゃろう? 下からもドーンと突き上げてきて、窓からもバッシャーよ。ほいだらわし、大棚の下敷きになっちまってのう」
「え、じゃあ、それで腕が?」

ん、と、師匠は力強く頷いた。師匠の治療院は師匠だけで回している。だからお客さんとは、いつも1対1だった。そこには、リョーマと師匠しかいなかったのだ。

「さすがの坊主は、咄嗟に跳ねたんじゃろうなあ、施術台の上からほかの棚の上に移動しよった。ほいで、師匠ーって大声で叫んじょってのう」

――坊主! 逃げろ! もうわしはダメじゃあ!
――師匠! そこにいるの!? 逃げるわけないっしょ! なに言ってんだよ!

「わし見つけて、一目散よ。そのあいだもどんどん、土砂が流れ込んできよるっちゅうのに。坊主は腰まで埋まって、わしは、はあ、ほぼ生き埋めみたいになってから」

その穏やかな語り口からは、想像もできないほどのすさまじい状況だったことが「生き埋め」という言葉からも読み取れた。

「じゃけど、坊主が引きずり出してくれてのう。口のなかに詰まっとった泥水を、指で突っ込んで、吐かせてくれてよう」

――師匠! ダメだよ! 生きるんだ!
――お、おま、逃げ……っ、逃げんかっ、こんなジジイ、ほっちょけっ……ちゅうのにっ!
――いいから! ねえ師匠、オレは、伊織さんがいてくれたから、頑張れたんだよっ。

言いながら、リョーマは師匠をおぶったそうだ。そのあいだにも、土砂は窓を突き破り、階下からも、うなるように押し寄せてきていたという。

――ずっと、オレのこと支えてくれた。そんな伊織さんを育ててくれた大切な師匠を、オレが見殺しにできるわけないっしょ!

師匠から伝えられたリョーマの言葉に、胸が震えだす。
違うよリョーマ、わたしがあなたを支えてたんじゃない。あなたがわたしを、支えてくれてたんだよ。

「そんで窓から抜け出て、まだ土砂から頭出しちょる施設の上に行ってから。そこからは、そらもう、足が早うてから……驚いたいーね、わしゃ。テニスっちゃあんなに早う走れるんか」
「彼は……だって世界2位ですよ、師匠」ほんの少しだけ、微笑みが漏れる。リョーマは、すごい人だから。
「そうじゃねえ。まあでも、じゃけのう、伊織」

そう言って、師匠は、ピタッと足を止めた。わたしもつられて足を止めると、師匠がわたしをじっと覗き込んできた。
「伊織」と久々に呼ばれて、弟子だったころのように、背筋が伸びていく。師匠は大事な話をするときは、いつもわたしを名前で呼んでいたからだ。

「人間、素直にならんといかんのんちゃ。あれは、ええ男じゃわ」
「え……」
「ほれ」

そして、なんの前触れもなく、奥まったところにある病室をあけた。
ふわっと、あたたかい空気が注がれて、わたしはその人影に、思わず大きな声をあげそうになった。

「師匠? ……えっ?」
「リョーマ……」

病室が開けられたことに驚いたのか、不機嫌そうにこちらを見た人影が、二度見をするように固まった。
個室のベッドの横に、彼は、いた。わたしのリョーマが、そこに、立っている。
リョーマの目が、わたしに気づいた途端に大きく見開いて。
わたしは、その姿に、その声に……ここまで必死にこらえていた感情を、抑えきることができなくなった。

「リョーマ!」

びしょ濡れで、茶色い土の色に染まった服のリョーマ。その胸に、わたしは思いきり抱きついた。

「ちょ、マジ……?」

土と、雨と、汗の混ざった匂いが、たしかにここにリョーマが生きていると、教えてくれる。
無事だった……もう、この姿を見れなくなるかもしれないと一度でも疑ったわたしの、心と、全身の、震えが止まらない。生きてた。よかった……無事で、いてくれた。

「なんで……」
「心配だった……心配だったの、すごく」
「……伊織さん」

リョーマの戸惑いの声が、耳の奥に届いてくる。それでもリョーマがここにいてくれることが、どんなに嬉しいか。
リョーマの腕が、わたしの背中に回ってくる。なだめるように、彼はわたしの背中を、そっとなでた。

「すごく、すごく心配だった……ねえ、大丈夫? 怪我はない? 痛いところは?」頬に触れながらそう言うと、リョーマが切なく、わたしを見つめる。
「ん……ちょっと、足とかくじいたけど、大丈夫だから」
「よかった……ああ、もう、本当に、よかった……よかったよう、リョーマ……」

リョーマは無事だったのに、涙がとまらない。
さっきから降り出した雨のせいでわたしもびしょ濡れだったから、もう、自分の顔がなにで濡れているかも、よくわからなくなっていた。

「……伊織さん、オレのために、来てくれたの?」

頬にそえていた手を、リョーマがぎゅっと、握りしめてくる。
その手のぬくもりが、わたしのなかにある愛しさを、氾濫させていった。

「リョーマになにかあったらって……思ったら、いてもたっても、いられなくて」
「……ンだよ、それ」

つん、と口をとがらせるように、リョーマは、苦そうな顔をして、つぶやいた。
けれど、そんな言葉とは裏腹に、彼はわたしの指先に、そっと口づけて。

「……リョ」
「そういうの、反則じゃない……?」

そのキスにはっとするように、わたしは我に返った。
……たしかにわたしのこの言動は、リョーマからすれば、あまり褒められたものじゃない気がする。こないだまでのことを考えてみれば、わかりきったことだった。
気まぐれ? 自分勝手? 思わせぶり? どっちつかず?
でも、リョーマが危険な目に遭ってるかもしれないのに、無視なんて、わたしにはできなかったから……。

「あ、ご、ごめん……」
「……伊織さんさ」
「は、はい。ごめん」

いい加減にしてよ、とか、振り回さないでよ、とか言われそうで、わたしは衝動的に抱きついて密着してしまったその身を、引こうとした。
でも、その瞬間、今度はリョーマが、わたしの腰を強く引き寄せた。

「ひゃっ!」
「今夜は俺の部屋に、来てくんない?」
「……え」
「ホテル、治療院とはちょっと離れたとこのとってんだよね。こんなことになると思ってなかったけど、そこなら無事だから」
「……」ホテル、という言葉に、思考が止まりそうになる。「あ、でも」
「シャワーも浴びたいデショ」そんなびしょびしょで、と、じっとりとわたしを見てきた。
「それは、そうだけど……」

リョーマの部屋にいったら、それはもう、そうなるに決まってる、から……。
ああいや、なにを考えているんだ、こんな、被害があった場所で、今日って日に、不謹慎すぎる、わたしは!
でも、誘ってきてるこの男も、不謹慎……?

「こんな田舎で、これからホテル探せないよね?」
「……いや、どうかな?」探せると思います、さすがに、田舎でも。「あ、師匠の家でも」
「は? 男の家に泊まる気?」

あのじいさんを、きっぱり「男」と言ってしまうリョーマに、ぎょっとしてしまう。
そういえば、師匠はどこに行ってしまったのだろう。というか、あなただって男じゃないですか……というツッコミは、できそうにない。
リョーマのその顔が、すごく真剣で。一度、絶望を感じてしまったから、この瞬間がすごく幸せだってことも、身に沁みていた。
というか……冷静を取り戻しかけていたのに、いろんな考えが一気に頭に浮かんで、わずか数分のうちに、また混乱しはじめてしまっている。

「オレの部屋、スイートとってるから」
「……でしょうね」

この防府という田舎町で、スイートがあるホテルなんてひとつしかない。わたしはその場所と名称をすぐに記憶のなかから引っ張りだしていた。ここから、わずか徒歩5分に位置する、あのグランドホテルだ。
一度でいいから、泊まってみたいと思っていた、ウェディングがメインの、あのホテル。

「行こ」
「えっ、ちょ、病院、いいの?」
「ちょっと診てもらっただけだし、別にいいでしょ。さっき裏口教えてもらったから」
「待ってリョーマ、わたし、師匠に……っ!」
「その挨拶なら、明日にして」

リョーマはごく自然にわたしの手をからめとって、雨のなかを、ずんずんと歩き出した。





「シャワー、先に入って」とレディファーストだった紳士なリョーマのおかげで、わたしはスイートルームの窓から外を眺めていた。夜景は田舎らしく、真っ暗だ。
この状況……どう考えてもまずい、と思ってしまう。なんせ、わたしの格好がまずい。リョーマは着替えを持ってきているだろうけど、わたしはバッグをひとつ抱えてきていただけなので、素直にバスローブを身にまとっていた。
……ある程度、もう覚悟は決めなくちゃいけないということもわかっていた。
はっきり言ってしまえば、リョーマにセックスを要求されても断って、とにかく一度ちゃんと、話し合わなくちゃいけない。というか、そもそも最初から話し合うべきだったんだろうなとも、少しだけ思った。いやでも、あのときはリョーマがそれほど思い詰めるとは思ってなかったから……。まあ、言い訳はよそう。いまさらだ。あの日はわたしだって、結局は抱かれたかったわけだし。
今日まで話し合いを避けていたのは、わたしだ。わざと、リョーマを遠ざけようとした。
一晩の恋だって、思い込みたかったから。あれ以上にリョーマのことを好きだって気づかされると、そのたびに胸が痛くなるのが、わかっていたからだ。
リョーマにとってはひとつの恋でも、わたしにとっては最後の恋になる。それが、わかっていた。もう、無防備に恋心だけで突っ走っていけるほど、わたしの年齢は子どもじゃない。そう、年齢だけは……。安牌を考えてしまう情けない自分を、なんとか守りたかったんだ。

「なに、ぼうっとしてンの?」
「あ……もう、あがってたんだ?」

お風呂あがりのいい香りをさせたリョーマが、となりに立ってきた。しかも、リョーマもバスローブを着ていた。
これじゃまるで上司との不倫だと思いつつも、わたしは一応、問いかけてみることにした。もしも無難にこれを乗り切れたら、日を改めて、もっと冷静に話し合える気がする。

「遅いから、もう寝る?」
「……ねえ、伊織さん」

世界でいちばん、愚問だ。と言わんばかりのイラッとしたリョーマの顔に、懐かしくなる自分がいる。
「そうだね」を少しだけ期待していた愚かさを痛感した。ウィンブルドンのときだってそうだったじゃないか……リョーマがそんなに、聞き分けいいはずもないのに。

「もう、気づいてよ。オレのこと、好きでしょ?」
「……」好きだよ、すごく……。
「あんなに泣きながら東京から駆けつけてくれるくらい、オレのこと想ってくれてんじゃん」
「……リョーマ、でもね」
「こっち向いてよ」

うつむいたまま、正面を窓にしていたわたしの肩を、リョーマが強くつかんで、振り向かせる。
まっすぐで、切ない男の視線が、わたしの心を平気で射抜いていく。
好きだよ……それはもう、今回のことでよくわかった。

「でも、なに? ちゃんと言ってよ。オレだって、ちゃんと聞くから」

すでに怒っているようなリョーマの顔に、気後れする自分がいた。
でも、言わなきゃいけない。わたしはもう、そんなに無邪気に突っ走れないということを。
あなたがどれだけ好きでも、同じくらい、情がわいてしまう人がいるんだ。

「……秋人は、わたしを裏切ったわけじゃなかったの」
「は……?」
「あの人ね、レイプの被害者だった……」

加害者であるバスケットボール選手から聞かされた真実を、わたしは静かにリョーマに語った。
苦手なお酒を飲まされて、ホテルに連れ込まれて、無理やり行為に及ばされた秋人。
あげく子どもができて、それを誰にも言えないまま、わたしにバレたくないというだけで、彼女と契約を交わした。信じてもらえるわけないという絶望から、地獄に落ちていた3年間……彼はじっと、ひとりで耐えていたのだ。
わたしはそんな人を、見捨てていいのか。その思いと、将来への不安だけが、秋人との関係をこれから紡いでいく緒のような気がしていた。

「だから……全部、秋人の望んだことじゃなくて、それって、浮気でもなかったし、彼、被害者だったわけで」
「だから、なんなわけ?」
「え……」

ひととおり話を聞き終えたリョーマがつぶやいた言葉に、わたしはまともに面食らった。
もしかして、わたしが嘘を吹き込まれたとでも、思っているんだろうか。

「それが、なんなのって言ってンだけど」
「いや、だって……」
「わかるよ、伊織さんが同情すんのは。5年も付きあって、結婚したいほど好きだったんでしょ」はあ、言ってて超イライラする。と、大きなため息をついた。「けど結局、あいつが伊織さんを騙してたことに変わりないじゃん」

リョーマの怒りを帯びた視線が、わたしに突き刺さってきた。

「いや、騙してたっていうか」
「騙してんじゃん。なにが違うわけ? ねえ伊織さん、オレだったら絶対にそんなことしない」
「え……」
「あいつが黙ってたことがホントに愛だって、伊織さん、思うの?」

そう、リョーマが問いかけてきていた。
黙ってたことが「愛」なのか。その言葉に、なにかに口をふさがれたように、わたしはしゃべれなくなった。

「オレだったら、ホントに伊織さんが大切だからこそ、自分が信じてもらえるかどうかなんて考えるより前に、どれだけ最低な結果が待ってようと、伊織さんに話すよ。それが、伊織さんを信じてるってことじゃん。あいつは、伊織さんを信じてなかった。だから言えなかっただけでしょ」

5年の情があるせいなのか、わたしはそんなこと、考えてもみなかった。
だって、秋人はわたしが好きだから、わたしとの結婚を考えていたから、これまでの3年を耐えていたのに……?

「愛してるって、信じてるってことじゃないわけ? それが真実だろうと、嘘だろうと、どうだっていいよ。好きな人に3年も背いて、バレたからって、いまさら開き直ってさ」

3年だよ? 伊織さん。と、震えた声で、彼はつづけた。

「ホントに伊織さんのことをいちばんに考えてたら、もっとちゃんと解決できてんじゃん。でもあいつは、そうしなかった。それがどれだけ自分勝手で伊織さんのこと傷つけるか、わかってたはずなのに。それこそが、裏切りでしょ」

裏切り、という言葉に、心のやり場を失くしてしまいそうになる。
だって秋人は、わたしのために、被害を訴えることもせずに、人生を棒に振ってしまったんだって、思ったから。

「裏切ってたんだよ、どんな理由があったにせよ、あいつは、伊織さんを裏切ってた」
「……だけど」
「ねえ、伊織さん」

リョーマが、一歩近づいてきた。わたしの腕に触れて、そっと、わたしを見おろす。
視界が、波にのまれていく。
リョーマの揺れる瞳が、海の底に落ちたわたしを、引っ張りあげようとしていた。

「あいつとの5年ぶんの思いが詰まってるのは、オレにだってわかる。浮気してたと思ったら、被害者だった。だから伊織さんが同情しちゃうのもわかるよ。それで、余計に捨てれない気持ちになってんのも、オレ、わかってる」

……わたしは秋人に、罪悪感を持っていた?

「だけどこれ以上、あいつを傷つけるのが怖いからって、オレを傷つけないで。もうオレらの想いって、あいつとの関係がどうとかじゃないでしょ?」
「リョ……」
「オレを、拒否しないでよ、伊織さん……」

体が揺れて、リョーマの胸に、わたしは包まれていた。

「オレ、伊織さんが好きだよ……愛してる」

震えた体で、震えた声で。リョーマは、何度もそう言った。
髪の毛が、そっとなでられる。我慢するような切ない息遣いが、耳に、触れていく。
こんなに、愛しいのに……天秤にかけること自体、滑稽だったってことなのか。もう、ごまかせない。将来の不安なんてどうでもよくなるほど、わたし、リョーマが好きだ。

「そんなことがなくたって、オレら、きっと求め合ってた。違う? 伊織さん……」
「……リョーマ」
「オレ、もう伊織さんじゃないと、無理だから……お願い。もうどこにもいかないで。オレを、受け止めてよ。オレのこと、好きだって言って」

回されている腕に力が込められて、わたしの体が熱を帯びていく。
心がはっきりと、訴えかけてきていた。
この人に、満たされたい。
この人が、ほしい。
この人を、手放しては、いけない。
……本当は、わかってた。リョーマに抱かれたときから。

「……そうだね、リョーマ」
「伊織さん……」
「わたし、とっくにリョーマのこと、好きだよね……」

それを嫌というほど、今日、思い知った。わたしの目尻に、また、涙が溜まっていく。
同じように潤んだ目が近づいて、鼻先が触れる。わたしたちはそのまま深く、口づけを交わした。
流れ込んでくるリョーマの愛に、わたしの体が、たしかに懐かしんでいる。

「ごめんねリョーマ、いっぱい傷つけちゃった……」
「もういいから、そんなの」
「でも……ごめん、振り回して。ごめん」
「ねえ、これからはオレのことだけ、愛してくれるでしょ?」

静かに頷くと、リョーマの唇が、首筋に落ちてきた。
胸もとに、あたたかい手のひらが潜り込んでくる。
うっとりするような甘いキスが、唇を割って、そのまま乳房に触れた。
ダメだ、もう……この人に、めちゃくちゃに抱かれたい。

「ン、リョーマ……」
「今日は、やめよって、言わないで……お願い」
「うん……ンッ、あ、はあっ……」
「大好き、伊織さん……」

するっとバスローブがほどかれていく。リョーマも、甘いため息を吐いて、それを脱ぎ捨てた。
ベッドに押し倒されて、まだ揺れている瞳が熱くわたしを見つめる。それだけで、全身が脈を打って、じわじわと火照っていった。

「ずっとこうしたかったよ、オレ……」
「リョーマ……」
「伊織さんのことばっかり、考えてた」

ちゅ、ちゅっと、顔中にキスをして。
胸の先端が、リョーマの指に、舌に、優しく転がされていった。

「リョーマ……あっ」
「ごめん、もう、こっちも触らせて」

下着を脱がされて、リョーマの長い指が、つぷん、と2本入ってきた。

「ん、あっ……ああっ」
「伊織さん、かわいい……すごい、濡れてるね」
「やだ……口にしないでよ」
「かわいいじゃん、だって。ちゃんと、感じて。オレがどれだけ、伊織さんのこと好きか」

ゆっくり、なでるように何度も関節を折り曲げて、焦らすように揺れていく。
かと思えば、手前のほうで抜き差しをくり返しては、わたしの反応を楽しんだ。

「あっ、ん……、も」
「ここ、好き?」
「そん……あっ!」

腰が、勝手に浮きあがるほど、気持ちがいい。
同時に吸いあげられる乳房が、ナカからくる刺激に拍車をかけて、声がだらしなく漏れていく。
クチュクチュと響く自分の音と、ナカでゆっくりと愛撫されるリョーマの指先に、羞恥と快感で、頭がふわふわとしてきた。

「好きだよね、知ってた。かわいい……マジで」
「リョーマ……も、いじめないで。も、いいから」
「やだ。伊織さんのその甘い声、もっと聴きたい」
「ンッ……あんっ」
「ん、もっとしてあげる……その顔、大好き」
「ま、まって、ね……わたしにも聴かせてよ、リョーマの声」

リョーマから少しだけ体を離して、目の前の唇に吸いついた。
優しく受け止めてくれたリョーマが、舌を激しく絡めてくる。くちゅん、という音に喜びを感じたまま、わたしはリョーマの熱くなった部分に触れた。

「えっ……」
「わたしも、したい……」
「え、ちょっ……伊織さっ……あ、ちょ……っ」

強引に体をずらして、リョーマの膨れ上がっている欲望にキスをした。
下着を脱がせて、じわっと濡れる先端を舐めてから、優しくキスをするように、それを咥え込んだ。
ビクビクと、リョーマの体が揺れる。愛しくて、かわいくて、わたしの胸が、異常なくらいに高揚していった。

「伊織さ……いいから、そんなこ……ンッ、あ……ね、ねえっ」
「わたしだって、リョーマを……愛したいよ」

見あげると、リョーマの顔が赤くなって、ひどく切なくなっていた。
気持ちよくなってくれてるんだと思うと、たまらない。
ちゅぷ、と口から漏れでていく淫靡な音だって、なにも気にならないほどだ。

「あ……や、やばいって……嘘でしょ……っ、あっ」
「ン……リョーマ、気持ちい?」

口を離して、また含むたびに、ジュップ、と音がする。
ものすごく大胆になってしまっている自分にも、リョーマのうっとりした顔にも、濡れていくのがわかった。

「うん……たまんない……はあ……すごい、かわいい」
「そんなこと言ってくれるの……リョーマ、だけだよ」
「オレだけで、いんだって……あっ、う、……んっ!」
「リョーマも、かわいいよ……?」
「くっ……嫌なことっ……言うなよ……も、ああ、無理っ、挿れたい、伊織さん」

リョーマの手が、わたしの顎をつかんだ。起きあがると、激しく唇を寄せてくる。
舌のからまる音がやむことなく、リョーマはゴムをつけて、わたしを上に座らせた。

「リョーマ……、あっ」
「きて、伊織さん……伊織さんのペースで、いいから」

硬くなったリョーマのそれを、わたしは秘部に押し当てた。
ぬちっと、熱いものが押し込まれる。ピッタリと肌が重なったとき、リョーマは言った。

「はあ……も、オレ、伊織さんのこと、絶対に離さない」
「うん、離さないで……リョーマ……あっ」

ゆっくりと、リョーマの腰が突き上がってくる。
甘えるような目で、わたしを求めて、きつく、体を抱きしめてきた。

「ごめん、財布に入れてたヤツしかないから、今日、1回しかできない」
「んっ、あっ……そ、それが、普通だってば……!」
「はぁっ……いっぱい、時間かけてあげるね。オレがいっぱい、気持ちよくしてあげるから」
「や、あっ……も、そんなの、いいって……っ」
「ダメ。伊織さん、イッてないでしょ、まだ。ちゃんと、オレに見せてよ」
「あっ、あっ……! リョーマ……!」

ぐっと腰をつかんで、押し込められた。下から突き上がってくる快感が、わたしの体を強く揺らす。
リョーマからの狂おしいほどのキスと、つながっているところから漏れる、ずぷんっ、ずぷんっ、という規則的な音が、脳内の官能を刺激していった。
長い時間、リョーマがゆっくりと、深く、強く揺れて。
わたしはもう、そのころには、何度も果てていた。

「あっ、ああっ、も、リョーマ……っ!」
「伊織さん、綺麗……好きだよっ……大好き」
「もっ、また、きちゃう……」
「んっ……当たってる……ね。奥、気持ちいい……?」
「ん、気持ち、いいよ……リョーマも、気持ちい?」
「ん……わかるでしょ。オレの、伊織さんのナカに入ってるんだから。も、破裂しそうなくらい、気持ちい……はあ、あっ……」
「あ、だめ、も、イッちゃ……っ」
「愛してる、伊織さん……ずっとこうしてたい」
「リョーマ……わたしも、愛してる……っ、あ、ああっ」
「またイっちゃう……? いいよ。激しくしてあげる……ンッ」

そのまま押し倒されて、リョーマが深く、激しく揺さぶってきた。
もう、頭が真っ白になって、なにも考えられなくなる。

「ひゃっ、あっ……も、また……!」
「綺麗っ、伊織さん……あ、はあ……オレも、も、我慢できないっ」
「リョーマ……ンッ」
「伝わってる……? オレが、伊織さん、すっごい好きって……」
「ん、うんっ……あっ、ああっ!」
「オレ……すっごい幸せ……伊織さんっ……ンッ……!」

リョーマが愛を語るたびに、全身が満たされていく。
つながった手は、二度と離れないかのように、強く握られて。
お互いが果てたあとも、とろける蜜は長いあいだキスで交換された。
溺れてしまうような恍惚を、体中に駆けめぐらせた夜だった。





窓の外が、うっすらと明るくなっている。どこからか鳥の鳴き声が聞こえて、明け方なんだと気づいた。
ゆっくりと、体を起こした。喉が、カラカラだった。
近くに、ペットボトルの水が置かれたままになっている。
すぐにでも潤したくて、重たい頭を起こしてベッドから抜け出そうとしたとき、わたしの手首が、強くつかまれた。

「えっ」
「どこ……いくの?」
「リョーマ……」

振り返ると、リョーマが苦しそうな顔で、わたしを見つめていた。
ああ、また不安にさせてしまったんだなと思う。というか、まだ不安にさせているんだなと、過去の自分に後悔した。

「お水、飲むだけだよ」
「ホント……?」
「ホント……」
「……もう、どこにも行っちゃ嫌だよ?」

微笑むと、リョーマも少し安心したように、微笑んだ。
その手をそっと解いて、わたしはひとくち、水を飲んだ。

「オレにもちょうだい」
「いいよ」

はい、と、ペットボトルをわたすと、リョーマはぶすっと口をとがらせた。これを見るのは、今日2回目だ。なにが気に入らなかったんだろうと思うより先に、リョーマはわたしにペットボトルを突き返してきた。

「え?」
「……伊織さんが、飲ませてよ」

うわ、かわいい。と口走りそうになったけど、すんでのところで止めた。

「なんか、またムカつくこと考えたっしょ、いま」
「ふふ、考えてないってば」

かわいいって、言われまくってきた人生だったのか。どうやらリョーマに、「かわいい」は禁句らしい。
笑いをかみ殺しながら、もうひとくち、口に含んだ。そのまま言われたとおりに口移しすると、ん、と飲み込んだあと、彼は強く、わたしを抱きしめてきた。

「ねえ、伊織さん……オレと、結婚しよ?」
「へっ……?」

思ってもみなかった言葉が突然に降ってきて、わたしはまた、面食らってしまった。
さっきまでのかわいいリョーマが、また急に変身して、大人の顔を見せている。仮面ライダーなんかよりも、それは素早い。

「……やっぱ、聞いてないんだね」
「え、なにを? なんの話?」

よく、なにを言っているのかわからない。聞いていたから、こうして驚いているのに。
もちろん、今日リョーマと口づけた瞬間から、もうリョーマだけだって心には決めたけど……だからこそ、同時に結婚への願望は、捨てたようなものだった。

「……オレ、伊織さんとなら結婚したい、すぐにでも」
「で、でもリョーマ、結婚……よく考えないとって、言ってたでしょ? ていうか実は、全然、興味がないでしょ?」

だから結婚できなくったって、もし子どもが産めなくなったって、リョーマと一緒にいたいと思ったから、愛しあう覚悟ができたのに……。

「前はね……でも、いまは違うから」
「いやいや、リョーマ、無理しないで。わたしがうるさく言ってたからって!」
「だからそうじゃない。オレが、伊織さんと結婚したいんだよ」

ポカン、としてしまう。
ついこのあいだまで、結婚なんて考えられない、と訴えかけてきていたようなガキんちょが、こんな、世界2位のテニスプレーヤーが……一般市民のアラサーのわたしなんかと、結婚、したいって?

「う、嘘でしょ……本気で言ってる?」

もしかして近い未来、わたし、ものすごい不幸に見舞われるんじゃないだろうか。
だとしても、リョーマと結婚できるなら、もう、死んだっていいとさえ思ってしまう。

「そう言ってるじゃん。伊織さんがオレとは踏ん切りつかないってなら、いつでもいいよ、伊織さんのタイミングで」
「リョーマ……」

だってこんな幸せを手に入れてしまったら、もう、なにもいらない。

「でも結婚するなら、オレにして」

熱い瞳と、また、強く握られた手。
そこから何度も落ちてきた甘いキスに、いつまででも酔っていたいと、心から思った。





to be continued...

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