ダイヤモンド・エモーション_10


10.


セックスがあんなに気持ちのいいものだとは、思ってもみなかった。
そもそも行為の最中に、あんなにキスをしたことも、あんなに愛を語られたことも、一度だってない。それだけで、体が何度も反応していた。ゾクゾクして、ずっとつながっていたくて。
わたしの経験人数など雅治さんに比べればきっとたかが知れているし、年齢のわりに決して多くはない……正直、これまでは身も心も痛いだけだった。愛撫は適当で、だからあまり潤ってない状態で、それなのに強引にされ、仕方なくただ相手の射精を待つという孤高の時間。相手がいるというのに、だ。もちろん、苦痛だった。品がない言い方になるが、おかげさまでカラカラだった。
だから、キスや視線で、あんなに体が熱くなるなんて、信じられなかった。

「伊織……綺麗やの、愛しとるよ、誰よりも」
「雅治さっ……あ、あ、また……っ」
「イクか……? ええよ。何度でも、俺でようなって」
「あ、あっ……ま、待って……あ、ダメ……もっ……!」
「我慢せんで。好きだ、伊織っ……」

あんなにわたしの名前を呼んで、手を強く握りしめて、ずっとキスをして。何度も、「好きだ」「愛してる」と言ってくれた。ひとつになるまでも、たっぷりと時間をかけて愛してくれて、ひとつになってからも、あんなに求められることがあるなんて……それこそファンタジーの世界だ。嬉しくないわけがない。
それを、こんなイケメンがしてしまうんだから。
雅治さんは、「伊織さん、俺を殺す気か」と言っていたけど、それはこっちのセリフだ。わたしのほうが、いつ死んでもおかしくなかった。

「ん……」

雅治さんの、優しい声。寝言とも言い切れない吐息が頬に触れて、わたしは胸が高なった。ふたりで愛を語って抱きあって眠ったのは、ひょっとしたら夢じゃないかと思ったけれど、目が覚めて雅治さんに包まれている現実に、わたしはほっとした。
少しだけ背伸びをするように唇をつきだせば、顎にあるセクシーなホクロに到達する。あれだけキスをしたというのに、わたしはドキドキしながら、それに静かに触れた。

「ん……もっと、上」
「えっ」

触れた瞬間、さっきまで眠りこけていた人が声を発したものだから、びっくりした。見ると、雅治さんが目を閉じたまま、微笑んでいる。

「雅治さん……起きてたんですか?」
「寝ちょったよ。じゃけど、お姫さまのキスが落ちてきたもんじゃから、目覚めんといけんじゃろ、こういうときは」
「な……」こんなアラサーに、お姫さまって。この人は、どこまでも……。
「だがもう少し、上にしてくれんと目が覚めんのよ。テイク2じゃ」

朝からロマンチックが止まらない雅治さんに心拍数をあげながらも、わたしはそっと、ホクロの上にある唇にキスをした。ぎゅっと、彼の腕が背中にまわる。素肌で抱きあって交わるキスは、表面に触れただけでも、十分に官能的だった。

「ん……おはよう、伊織さん」
「おはようございます、雅治さん」

微笑みあってする挨拶が、なんだか照れくさい。起きたばかりだというのに、わたしの体は熱かった。

「伊織さん、あと1時間は、寝ちょっていいぞ」
「え?」
「朝食なら俺がつくったから、安心しんさい」
「え!」

驚いて体を半分起こすと、そのまま雅治さんに腕を引っ張られて、わたしが覆いかぶさる形で抱きしめられた。ぴったりとくっつく胸が、さらさらとしていて気持ちがいい。
というか、朝食をつくったって、いつのまに……。

「ま、雅治さん、一度は起きたということですか?」
「ん。昨日は伊織さんが夕飯つくってくれちょったし。簡単なもんやけどの。つくって、それでまた、ベッドに入った」

二度寝だった、というわけだ。だから、顎へのキスですぐに目が覚めたのだなと思う。二度寝はたいてい、眠りが浅い。
というか、全裸でつくったのだろうか。たぶん、そうだろう。雅治さんならやってしまいそうだし、ベッドに戻るときにわざわざ着たものを脱いだりはしないはずだ。しかしそれを想像すると、ものすごくヤラしかった。

「……そんな、よかったのに」心のうちを悟られないように、平常心を装った。
「俺もひとり暮らし長いからのう。料理くらいできる。伊織さんほど、うまくはないじゃろうけど」首筋にキスをしながら、雅治さんはそう言った。
朝から、感じてしまう。「ン……またそんな……予想としては、美味しい気がします」
「はは。あんまり期待されると困るが、まあ、もう少しゆっくりしんさい。体、しんどいじゃろ?」

わたしの頬をなでながら、優しく微笑んだ。昨日の夜のことをまた鮮明に思いだしてしまって、顔の熱があがってきてしまう。だって、あのあと、休憩もなく、5回も……。
正直、しんどい。体はちょっと重たいし、何度も愛された中心は、久々だったせいか、じんわりとしたあたたかい痛みを伴っていた。でも、それが幸せなんて、わたし、どうかしてるかもしれない。

「お? どうした。思いだしたか? 顔、とろけてきちょる」
「ち、違いますっ」
「ほう? それとも、あと1時間はあるから、昨日のつづきをするっちゅう手もあるぞ?」
「な!? だ、だだ、ダメです!」

覆いかぶさっているわたしのお尻に雅治さんの手がするすると伸びてきて、わたしはその手首をぎゅっとつかんだ。
絶対に、ダメだ! 朝からそんなことをしたら仕事にならなくなるし、ただでさえ体が重いのに!

「そんなに強う否定せんでもええじゃろ」ぶすっと、雅治さんが眉をひそめる。
「そ……そんな顔されても、ダメなものは、ダメです……」ずるいです。かわいい。
「俺は毎日でも抱きたいっちゅうのに。いじわるじゃのう」

雅治さんはそう言いながら、わたしを抱き寄せて、熱いキスを送ってきた。

「も、雅治さ……」体が、とけていきそうだ。
「わかっちょる。ちゃんと我慢するから、キスくらいさせて」

その体勢が、一気に逆さまになった。ちゅ、ちゅ、と何度も吸いつくように落ちてくるキス。昨日、ホテルで強引にこんなふうにされたことを思いだした。あのときだって、お時間終了の電話が鳴ってくれたからいいようなもの、わたしはとても困ったのだ。
だって……そんなにキスされると、こっちがうずいてきちゃうんですってば!
ああ、ダメだ……これでは、近いうちに心停止を起こしてしまう。

「好きだ、伊織さん。かわいい。全部、食べたくなる」
「……わたしも、好きです、雅治さん」

雅治さんが優しいのは、知っていた。だけど、こんなに甘い人だとは、思ってもみなかった。





雅治さんがつくってくれた朝食は、焼き鮭、かぼちゃの煮物、みょうがのお味噌汁。まさに昔ながらの日本の朝食だ。白米のとなりの小鉢には、わたしがつくっておいた、かぶのお漬物が添えられていた。お味噌汁とお漬物に小ねぎを少し散らしているという、その細かさも素晴らしい。
それにしても……材料はすべて買っておいたものだけれど、かぼちゃの煮物をつくってしまうとは。これには、いささか驚いた。

「雅治さん、かぼちゃの煮物とかつくるんですね」
「意外と簡単で好きなんよ。昔は野菜全般、食べんかったんじゃけどの。大人になると味覚が変わる。味、どうだ?」
「はい、とても美味しいです! 雅治さん、お料理とてもお上手じゃないですか」
「そうか。ならよかった」

彼氏に朝食をつくってもらったことなんてはじめてだ。わたしの歴代彼氏はだいたい実家住まいだったこともあり、いつもラブホテルで終わって、さようなら。わたしも妙に潔癖なところがあって、これまで彼氏だけでなく、人を家にあげるということは、滅多にしたことがない。
朝はひとりがいいし、人と一緒にいるのは数時間程度なら問題なくても、8時間を超えると骨が折れる。社会人になってなにがいちばんほっとしたって、労働時間が長くても8時間ということだった。それ以上は無理だ。そもそもわたしはひとりが好きなのに、なにが悲しくて気を使って生活しなくちゃいけないんだと思う。
だからこそ、この状態はわたしの人生ではありえないことだった。
そして、思う。わたしよっぽど、この人が好きなんだ、と。雅治さんとなら……何時間一緒にいても苦にならない。火事で泊めてもらったときにはもう、おかしいなと思っていた。翌日だってずっと一緒に行動してたのに、楽しくて、居心地がよくて、微笑まれると、嬉しくて。

「伊織さんのかぶの漬物、絶品じゃのう」
「そうですか? 簡単ですよ。らっきょう酢に漬けてしまえばおしまいです」
「ほう。ええこと聞いた」

雅治さんは、食事のときのお行儀も、とても美しかった。長くて綺麗な指でお箸を器用に動かす。背筋もピンと伸びているし、咀嚼の音も食器の音もあまり立てない。
これまでの彼氏は、いったいなんだったんだろうと思う。利き手と反対側の手をだらっと机の下に垂らして、猫背で犬食いしていたようなあの連中は、本当に雅治さんと同じ人間なのだろうか。

「そういえば伊織さん、夏休みは、どうなっちょる?」

ぼうっとその様子に見とれていたら、ふいに目を合わせてそう聞いてきたので、一瞬、慌てそうになった。

「あ……それは、まだ申請していません。あの、ひょっとして……」夏休み、合わせようとしてくれてます?
「ん……伊織さんと俺の休み、そういう機会でもないと、どうしたって合わんじゃろ。じゃから、できれば合わせれたらと思ったんじゃけど。そしたら、ずっと一緒におれる日ができるしのう」

この日は8月1日だった。公務員は自由に5日はどこかで休みを取っていいようになっている。しかし自由とはいえ、周りとの調整はしなくてはならない。お盆シーズンは休み希望も多いので、わたしはいつもかなりずらして取っていた。
でも、大好きな人にこんなことを言われてしまっては……今年くらい、わがままを働きたくなってしまう。

「雅治さんのお店は、もう、決まっているんですか?」
「そうなんよ。俺の休みは来週の金曜から再来週の水曜まで。もう告知も出しちょるから、変えようがないんだが……伊織さん、どうかの?」

上目遣いで、雅治さんはわたしを見つめてきた。
ああ、まずい。好きすぎて……。だらしない顔になってしまう。

「はい、聞いてみます。全部は難しいかもですが、なるべく、合わせられるように……」
「悪いのう。じゃけど、うまく取れそうなら、旅行でも行かんか? 毎日ここで伊織さんと過ごすのもいいが、せっかくの休みじゃし。宿、俺が探しちょくから」

優しい笑顔を向けながら夢のような提案をしてきた雅治さんに、ニヤけが止まらなくなる。わたしはお味噌汁を口につけて、なんとかそれをごまかそうとした。
そしてじっくり頭のなかでその言葉を咀嚼しながら、ふと、思う。
毎日、ここで、わたしと、過ごす……? って、言いましたよね、いま。

「え、あの」
「ん?」
「雅治さん、もしかして……今日も、来られるんですか?」
「お……すまん、迷惑じゃったかの? 図々しいか?」

その返答に、あたりまえに来るつもりだったんだと思うと、目が見開いていく。
雅治さんはひとり暮らしで、お店に近いところにマンションがあるし、本当なら今日だってここからお店に通うのは億劫なはずだ。昨日は体を重ねるために、盛り上がっていたのかと思っていた。ついでに明日は火曜日だからお休み、ということも、あるのかもしれなくても……。

「いえ、あの、わたしは全然いいんですけれども。でも、雅治さんが大変じゃないかな、と。少し、心配になりました」

そういえば彼は、入居者を2名にしておいてくれ、と言っていた。あれは泊まりに来たときに迷惑にならないように配慮してくれたのだと思っていたけれど……も、もしかして。

「しばらくここで過ごすくらいの荷物は、明日、休みじゃから運んでくるつもりだ。伊織さん、嫌か?」
「そ……そんな、嫌じゃないですよ、だけど」いいのかな、と遠慮してしまう自分がいる。
「伊織さん」
「え、はい」
「俺ら、お互い仕事があるからずっとは無理なのはわかっちょる。それでも俺、なるべくならいっときも伊織さんと離れとうない。伊織さんは、そういうの嫌いか?」

嫌か? 嫌いか? と聞いてくるわりに、有無を言わせない強さが、そこにはあった。
もっとクールで、もっとドライで、「1ヶ月にいっぺん会えたらええのう」って感じの人だと思っていたのに、このギャップはなんなんだろうか。やっぱりこの人こそ、わたしを殺す気だ。

「そんな……嫌なわけ、ないじゃないですか……嬉しい、です」

思い切って、そう言った。
いままでのわたしだったら、絶対に嫌だけど。雅治さんは、特別だ。
全然、嫌じゃないから、逆に困惑してるんです。と、言ってしまおうか悩んでしまう。ご飯中だというのに、キスしたくなりそうで。
どうしちゃったんだろう、本当に、わたし、自分じゃないみたいだ。昨日、抱かれてからというもの……いや、キスされてからだろうか……めまいがする。

「ああ、変な勘ぐりされとうないから先に言うちょく。そんなふうに思った人は、伊織さんがはじめてだ」

なんでもないことのように、雅治さんはそう言った。

「……う。も、雅治さん」それが嘘でも、嬉しい。
「伊織さん……いま、嘘でも嬉しいって思うたじゃろ?」
「えっ!」

ぎょっとして見返すと、雅治さんは、くくっ、と笑った。
怖すぎる。見透かされていた。ときどき変な能力を発揮するところが、やっぱり仁王雅治だ。

「嘘じゃない、本当だ。俺、そこまでベタベタしてきたほうじゃないんじゃけどの。伊織さんとは、ベタベタしちょきたいんよ」
「そ……」巷で行われているベタベタに、わたしはうんざりしてきたほうなのに。
「不思議よのう。これまで、そういうの引いて見てきちょったっちゅうのに」

自分のことを笑うように、さらっと言って。大人の色気たっぷりの彼が、急に、少年のように見えた。
しかも同じことを思っていたなんて……お互いが特別なんだという事実に、また、トクントクンと、胸が高なっていく。
運命かもしれない。バカバカしいと思ってきた「運命」を、わたし、いまたしかに感じてる。

「雅治さん……あの、わたしも、です」
「ん?」
「わたし、これまで人を家にあげたこと、不可抗力以外ではありませんでした。とにかく、人といることが疲れるんです……でも、雅治さんとは、ずっと一緒にいたいです。わたしも……なるべくなら、いっときも離れたく、ありません」

結局、言ってしまった。はずかしくて、目は伏せたままにした。しょぼしょぼと、焼き鮭を口のなかに入れてみても、しょっぱいはずが、甘い。ああ、重症だ。

「伊織さん、こっち向いて」
「……はい」

案の定、言われた。勇気をだしてそっと雅治さんを見ると、彼は肩肘をつけて、左手で顔の半分を覆い、片目だけ開けて、こちらを見ていた。
なんという……悩殺な顔を向けているんだろうか、この人は。

「それ、嬉しすぎて、死にそうじゃ」





午前8時20分。ようやく、役所に到着していた。始業は8時30分だ。なるべく例の3人に見つからないようにと、わたしはこそこそ出社していた。
いつもならもう5分前に席についているのだけど、少しだけ雅治さんと押し問答をしたせいで、遅れてしまったのだ。

「ちゅうことで、店にはオープンまでに行けばええから、今日は俺が区役所まで送る」

あの直後、そう言われたのだった。送るといっても、区役所はここから徒歩20分。送ってもらうほどの距離でもなければ、雅治さんと一緒に出社デートしてるなんて、同僚に絶対に見られてはいけない姿である。

「そ、それはダメです!」わたしは即座に、大きな声で否定した。
「は、なんでじゃ? たったいま、いっときも離れとうないって」
「それとこれとは、別ですからっ」
「……よう、わからんのじゃけど」同じやと思うんやが。と、彼は納得いかない様子だった。

モテている人というのは、ここまで鈍感なのだろうか。それとも、被害が自分に及ばないから、頭にも浮かばないですか?
すうっと、わたしは大きく、息を吸い込んだ。

「忘れたんですか? 雅治さん狙いの女子があそこには3人もいるんですよ。もし見られたらたまったもんじゃありません、なにされるか。それでなくとも、もともと仲がいい同僚じゃないんです。わたしのことなんて煮るなり焼くなり、自由自在です。なんせあっちは3人で、こっちはひとりですからっ。こんなことがバレて、ショーのことが広報にぶちまけられたら困ります。それだけじゃありません、わたしのデスクに置いている砂糖を塩にすり替えれたりとか、わたしの社用の自転車のサドルをブロッコリーにされたりとか、わたしのイヤホンの耳に入れるゴムだけ盗まれたりとか、わたしの消しゴムの角だけ使って返してきたりとか、わたしの」
「伊織さん」と、雅治さんは、わたしの言葉をさえぎってきた。
「なんですかっ」
「……ずいぶんと、地味な嫌がらせじゃのう」それくらい、どうでもようないか? と、とても呆れていらっしゃる。
「そ、それはわたしが地味だからそういうのしか思いつかないだけで、なにをされるかわからない、ということを言いたいのですっ」

ふうん、そうか。と言いながら、どうでもよさそうに、雅治さんは食器を片づけはじめた。
いつのまにかご飯を食べ終えていたらしい。シンクに立ち、わたしに背中を向けながら、ぼんやりと言った。

「ああ、そうじゃったのう。伊織さんは、知らんのか」
「はい? 知らない、とは?」
「もう、バレちょると思うぞ、俺らのこと」
「は……」

ぎょっとした。なんでバレているのだ。まだ交際2日目なのにっ!

「ん……ちと、いまの伊織さんに言うのも気が引けるんだが……伊織さん合コンのとき、ホテルで気絶したじゃろ。あのあと、俺だけ店に戻って、交際宣言したようなもんじゃき」
「はい……?」

雅治さんは、その後の合コンで自分がどんな言動を取ったか、細かく説明してくれた。
その話を聞いて、わたしは驚愕も驚愕で、思いっきり雅治さんを責めた。さっきまでの愛しさはどこへやら、だった。なんてことをするのだ! わたしの預かり知らぬところで!
それでも雅治さんは、実に飄々として、悪びれる様子もまったく見せずに、あっけらかんとして。

「どうせバレるんじゃし、ええじゃろ」

とか、言いやがった! あ、ちょっと、いまのは品がなくなってしまった……。
しかし結局、「だとしても絶対についてこないでください!」と説得しまくって、いまにいたる。
まったく……勝手なことを! これほど会社に行きたくないと思ったのは、はじめてだった。

区役所についてから、忍び足、と言っていいほど泥棒さながらに、わたしはそそくさとデスクに向かおうとした。あの3人の姿はない。おそらくまだ、給湯室でくっちゃべっているに違いない。彼女たちのデスクとわたしのデスクは、それなりに距離があった。運がよければ、今日一日は顔を合わせずに済む。明日からもどうするか考えなきゃいけないが、とりあえず今日をやり過ごさなくては、明日はやってこないわけであって……。
そんな祈りにも似た思いを込めて、わたしはエレベーターから降り、即座にデスクにつこうとした。が、そのときだった。

「佐久間さんっ!」
「ひっ!」

まんまとうしろから声をかけられた。女子職員の、合コン発案者1号である。というか合コンで雅治さんにベタベタしていた、あの、同僚だった。

「なによっ、人をバケモノみたいに! ちょっとこっちに来て!」
「ちょ、こ、もうすぐ始業ですよ!」
「いいから!」

ずるずると、そのまま給湯室まで連行された。まるで1ヶ月前のあの日と同じだった。

「どういうこと!」
「……どう、とは……」
「しらばっくれないでよ! 聞きたいことわかってるでしょ!?」

1号がとても怒った顔でわたしの肩をつかんで、見おろしてきた。その視線が、痛い。
そしてそこには案の定、2号と3号もいたが、ニヤニヤとわたしを見ているだけで、まったく怒った様子がない。てっきり3人に責め立てられると思っていたわたしは、その意外な反応に、若干だが拍子抜けした。

「ね、佐久間さんって仁王さんとそういう感じになっちゃったの?」なんだか嬉しそうな2号が、そう聞いてきた。
「いや、その……」
「ホテル、行ったんでしょ? あのあと。彼どんなだったのー! 聞きたい、聞きたいっ」3号も、なぜか嬉しそうだ。しかしホテルでの情事を聞きたいとは、どういう趣向なんですか。
「もう、信じられない。あたし、佐久間さんのこと信じてたのに!」1号はやっぱり、おかんむりであった。信じてたのに信じられないとは何事だろうかと思っても、言葉にならない。
「ち、違うんです」

なにも違わないのだけど、ホテルではなくて、昨日わたしの家で……、と、言えるはずもなく。

「あ、ちなみにあたしは忍足さんにロックオンしたから、全然、気にしてないからいいよ」と、2号は言った。なるほどそういうことですか、とすぐに納得する。
「そうそう、あたしは切原さんだから。あたしも大丈夫」と、3号もつづけた。気が多い人というのは変わり身も早くて、人生が楽しそうだ。
「あたしは仁王さんのこと、好きだったから!」しかし1号はやっぱり、おかんむりであった。
「あの、玉川さんは……?」

遠慮がちにそう聞くと、1号は眉をつりあげた。

「あの人、彼女持ちだよ! そんな人が合コンに来るなんて、どうなってんの! 幹事のくせに! っていうか仁王さんだってそういうことじゃん!」
「い、いえ! あの、男性陣は雅……仁王さんにおまかせでしたので、わたしの預かり知らないことですし、あのときの仁王さんには、彼女はいなかったはずです!」

眉をつりあげたまま、1号はギラギラとわたしを見つめてきた。2号と3号が、「もういいじゃんー、許してあげなよー」と、その変わり身の早さを体現している。
もう、味方になってくれるならなんでもいいです。なんなら、その変わり身の早さも称賛したいです。
しかしどれだけ2号と3号がなだめようと、1号は聞く耳を持たなかった。

「じゃあ、いまは、いるってことだ? で? その相手が? まさか?」
「あ、いや、そ……」

墓穴をほってしまった自分に気づいても、遅かった。
もはや、1号しかわたしに話しかけてきていない状態だ。こういうの、なんていうのだろうか。そうそう、メンチを切る、だった気がする。つまり、ものすごく睨まれていた。
もう、謝るしかない……のだろう、たぶん。なぜ謝らなくてはいけないのかわからないとは思いつつも、わたしはうなだれた。

「すみません、わたしです……」しぶしぶと答えた。ごまかしなど無駄だ。だって雅治さんが、宣言しちゃったんだから。
「あああああっ!」1号が、叫び倒した。「ほんっと、信じらんない! 全然、興味ないって感じだったくせに! ちゃっかり狙ってたんじゃない!」

それは、「憤慨!」という言葉が体から飛び出しているような勢いだった。怖すぎる。

「ね、狙ってなどいません!」
「狙ってなかったらどうしてそんなことになるわけ!?」
「ですから、それは……その……たまたまですね、その、いろいろあって、す……好きに、なってしまっ」
「狙ってたんじゃん!」
「い、いえですから、狙っていたわけではないんですっ! でも、ですから、いつのまにか好きになっちゃったんです!」

どれだけ考えても、なぜ、わたしが1号に謝らなくてはならないのか、よくわからない。
わたしだって雅治さんを好きになる権利はあるはずだし、1号とはそんなに仲のいい同僚というわけでもないんだから、遠慮する必要もない。
だけど、どうしてだろうか……実に、うしろめたかった。

「そりゃ好きになるよ! あんなイケメンだもん!」
「いえあの、イケメンだからというわけではなく、あの、とにかく、仁王さんはその、優しい人でして……!」
「はあ!? なにそれっ! あたしが優しくされてないとでも思った!? あたしにだって仁王さんは優しかったですー!」
「そ、そうだと思います! ですから、好きになってしまってすみません! まさかこうなるとは思ってませんでした! でも好きなんですっ! 許してください! わたし、雅治さんが、とてもとても、好きなんです……っ!」

ひたすら頭をさげてそう謝ると、ぷっと、2号、3号が笑いだした。その笑い声に、わたしはポカンとした。
やがて、はあ、とため息が頭上から降ってきて、おずおずと顔をあげると、1号がさきほどよりも少しだけ落ち着いた様子で、わたしを見おろしていた。

「雅治さん、だって。もうそういう仲なんだね。すっかり」3号が、茶化してきた。
「すんごいノロけ。いいなあ。あたし、あと1週間くらいしたら忍足さんに連絡してみよっと」と、2号はウキウキだ。好きにしてほしい。
しかしそこで、沈黙していたはずの1号が、ぎょっとするようなことを言ってきた。「……だって佐久間さん、なんか最近、綺麗になったもんね」
「え……?」
「おかしいと思ってた。火事のあとから、ボロボロになってたっておかしくないのに。なんか、やけに綺麗になっちゃってさ。もういいよ。想いあってんでしょ。もうわかった」

1号が、ぱっとわたしの肩から手を離す。意外だった、非常に。
……わかってもらえた、ということなのだろうか、これは。

「そのかわり。仁王さんのとこの予約、取ってもらえる? 結局は行けてないし、それで仁王さんに、いい人紹介してもらうから!」

そう言いながら、1号は背中を向けて去っていった。雅治さんのお店に彼女が行くのは、全然かまわないのだけど……そんなことよりも、あっさりと引き下がってくれた彼女に、わたしは少しだけ、友情を感じていた。





「じゃけ、言うたじゃろ」

というのは、その日、雅治さんに話してすぐに言われたことだ。食事のあと、わたしたちはソファに座ってテレビを見ながら、団らんを楽しんでいた。

「はい……ちょっと、拍子抜けしました」

わたしがこんなに雅治さんを想っているものだから、みんな、雅治さんのことを同じくらい想っているかと勘違いしていたのだけど、2号と3号の様子を見てもわかるとおり、自分が好きだからって周りがそうとは限らないものだ。1号は少し納得のいかない顔をしていたけれど、それでも納得してくれたんだから、わたしほどの想いではなかったのかもしれない。
……わたしだったらどうだろう。
もちろん、自分が彼女の立場になれるとも思ってはいなかったからあきらめるだろうけど(現にあきらめていたし)、かなり落ち込んでしまうだろうな、と思った。

「じゃからって、嫌がらせされたいわけでもなかったじゃろ?」
「もちろんそうですけど。ですがなんだか、申し訳なさもあってですね……」

得体の知れない、身の程知らず感とでもいうのだろうか。そういったものが、雅治さんと一緒にいることで舞い上がってはいても、うずまいている。
わたしがそう言うと、雅治さんはそっとわたしの肩を抱いてきた。

「伊織さん、それは俺がほかの女のものになってもええっちゅうこと?」
「ま、まさか! そういうことではありません、でも……」
「でも?」
「……正直、雅治さんは、わたしにはもったいない、と思う気持ちは、あります」

まったく……と、雅治さんはいつもの調子で、呆れたようにつぶやいた。
いくら「運命」とは思っても、こんな素敵な人に引けめを感じてしまうのは、仕方のないことなのだけど……モテモテの雅治さんには、理解できないことかもしれない。

「まあ……俺も伊織さんのこと、俺にはもったいないと思っちょるけどの」
「え、そんな! 嘘ですよね!?」

ありえない。その意外な吐露に、わたしは大げさに声をあげた。

「なんでじゃ。思っちょるよ。伊織さんを好きになったのは、伊織さんが俺にとって、尊かったからじゃき」
「は……」

尊い……? 言われたことがなさすぎて、カピン、と固まってしまった。
いったいどこをどうしたら、わたしが尊かったのだろうか。
わたしは地味で、それなのにいつもベラベラと口が回って、人の痛いところを突きまくるような、嫌味な女だというのに。

「じゃから、俺にはもったいないと思わんこともない」その理由は語らずに、雅治さんはつづけた。「……が、俺は伊織さんじゃないと、嫌なんよ」
「雅治さん……」理由なんて、どうでもいいかもしれない。そこまで想われたら。
「伊織さんもそう思ってくれちょると、嬉しいんじゃけど?」
「お、思ってますよ、もちろん。わたしだって、雅治さんじゃないと、嫌です」
「ん……それならお互い、なんも気にせんと、求めあってええじゃろ?」
「……そう、ですよね」

雅治さんのその言葉には、不思議と説得力があった。
お互いがお互いじゃないとダメなら、求めあっているんだから、誰に遠慮することもない。もっともだった。

「そうと決まれば、時間もちょうどええし、一緒に風呂でも入るか」
「は……はい!? なんでそうなるんですか!?」
「なんじゃ、そんなもったいぶらんでもええじゃろ。俺、明日休みじゃし。大丈夫だ、朝までなんて横暴な真似はせんから」
「あの……それはお風呂ではなくて、お風呂のあとのことをおっしゃってますよね?」
「風呂も、そのあとも、なんじゃけど……わかっちょらんのう、伊織さんは」
「な……わかるとか、わからないとかじゃなく……ちょ、ン、雅治さっ……」
「そそるのう、その顔」

なんだかんだと言いつつも、雅治さんとの時間に、わたしは溺れていた。
だってこんな幸せを、わたしが手放せるはずもないのだから。





今日から雅治さんは夏休みに突入する。すっかりふたりで暮らしている形になったウィークリーマンションには、雅治さんの荷物もたくさん置かれている状況だ。

「伊織さん、シャンプーは今度からこれを使いんさい。トリートメントを流すとき、洗面器のなかにゆすいだお湯を入れて、髪になじませてから洗い流すこと。それと、ドライヤーの前にはこのスプレーを使うこと。ええの?」
「はあ……あの少し、めんど」
「なんじゃ? なんか言うたか?」
「な、なんでもありません」
「ああそれと、ドライヤーはこれを使いんさい。伊織さんのは、没収じゃ」
「没収……はい」

雅治さんが訪れるようになって3日目には、そう言われた。雅治さんが大量に荷物を移動してきた日だったからだ。
一緒に生活をしてみてわかったことだけど、雅治さんは、結構、細かい。美容師なんだから、髪のことにうるさいのは理解できつつ、最近はメイクや朝のヘアセットにまで関わってくるようになっていた。

「どうせ結ぶなら、こっちのほうがええじゃろ」

どこにおでかけですか? と言いたくなるような、ふんわりとしたシニヨンアレンジを、ものの数分で仕上げてしまう。
さすがカリスマ美容師、ということなのか。手先が器用すぎて、唖然としてしまう。

「……しかしですね、毎朝このようなセットは、わたしには」
「それなら毎朝、俺がセットしちゃるから」
「……あ、はい」有無を言わせない、あの、強い目のご登場だ。
「あと、このアイシャドウ、使ってみんさい。伊織さんは化粧が薄すぎる。あんまりモテてもらっても困るが……まあ、物は試し。ほら、目閉じて」
「う、あ、はい……」

この2週間、朝の支度時間に、わたしをかまいまくってくれている。
そのせいなのか、合コンのときに忍足さんに言われ、そしてあの日1号にも言われた、「綺麗になった」という言葉を、わたしは最近、おこがましくも実感しはじめていた。
鏡を見るたびに、自分が好きになってきたからだ。雅治さんが愛してくれることで自信を持ちはじめているのだと、恥ずかしながらも、自覚していた。
そんな生活に馴染んできた、翌週の金曜日のことだった。

「ちと、区役所から遠くないか? ここでええんかの?」
「はい。近いと、上司とかに見られても、気まずいですから」

わたしの夏休みは土曜日からとなっていた。雅治さんとは1日ずれただけで、なんとかお休みを合わせることができたのだ。今日は雅治さんがお休みなので、ランチデートをすることになっていた。
いつも行くカフェを避けて、少し歩いたところにあるカフェに入りランチを済ませ、時間が余ったので、区役所近辺まで道のりを、手をつないでお散歩をした。

「もう少し、時間あるか? ちと、名残惜しい」

時間が差し迫ってきたころ、雅治さんはそう言った。彼はいつも、つないだ手をなかなか離してくれない。雅治さんには、こういうかわいいところがある。付き合ってから知った、小さな発見だった。

「ふふ。あと4時間ちょっとで、また会えますよ?」
「わかっちょっても、名残惜しいもんじゃろ?」

区役所からまだまだ距離のあるところで、わたしたちは向かい合って話した。あと15分で休憩は終わるのだけど、5分も歩けば区役所には着く。
名残惜しい、と言ってくれたことが嬉しくて、わたしも少し、雅治さんに甘えた。

「ふふ。急いで帰りますから。あ、旅行、どうしますか?」

旅行には日曜から行こうと、なんとなくの予定を立てていた。だから明日はふたりでゆっくりとした時間を過ごして、体調を十分に整えてから出発する手筈になっている。

「おう、いろいろ見てみちょる。じゃけどこのシーズン、やっぱりどこも混んじょるんよのう。なかなか、条件にあうところがなくてな」細かい雅治さんのことなので、条件は厳しそうだなと判断する。「まあ、俺は伊織さんと一緒におれるなら、それだけでもええんじゃけど」

つど、甘い。そのたびに死にそうになるわたしを、雅治さんはわかっていないんだろうか。それともわかっていて、わざと言っているのだろうか。どっちだって嬉しいから、なんでもよくなってきている自分がいる。

「あ、でも雅治さん、気に入った旅館があるっておっしゃってましたよね。穴場で、意外といつでも取れるって。わたし、そこでもいいですよ?」

この2週間で、雅治さんとはいろんな話をした。旅行は今回の夏休みのわたしたちのテーマだったので、お互いがこれまで行った旅行先のことも、あれこれと話した。
雅治さんの気に入った旅館がどんなところなのか、わたしはちょっと気になっている。センス抜群の彼のお気に入りなんだから、きっと素敵なところだろう。
「俺が探しちょく」と言ってくれた雅治さんの厚意は嬉しいのだけど、宿探しにあまり時間をかけてもらうのも申し訳ない。
だからわたしは、少しでも彼を楽にしたくて、そう言った。けれど、わたしの何気ないひとことに、雅治さんの顔が、少しだけ曇ったのだ。

「ああ……いや、そこは……ん、またにする」

それを、こんなときばかり敏感なわたしは、見逃さなかった。
あ、と思う。言ってはいけないことだったのかなと、直感が働いたせいだった。
ひょっとして……姉と一緒に行った旅館なのかもしれない、と。
そのせいで、一瞬にして苦い思いになったわたしは、どこまでも醜い……いい加減、こんな嫉妬は捨てなければいけないのに。

「あ……ごめんなさい、わたし……」
「いや……すまん、俺が前に余計なこと言うたから」

雅治さんは、わたしに嘘はつきたくないと、いつも言ってくれていた。だから、適当なごまかしもしない。こんなの、気にするわたしのほうがどうかしてるのも、わかっている。
こんなに愛されていて、それでもまだわたしは、姉と雅治さんの過去に……呆れるほど、愚かだ。

「いえあの……大丈夫です、雅治さん。いま彼女なの、わたし、ですから」
「……伊織さん」

誠実でいてくれる雅治さんに、わたしはこうして、ちょっとした嘘をつきつづけている。彼を困らせたくなかった。
本当のことを言えば、いまもときどき、姉と雅治さんが交際していたときの勝手な想像が、頭を過ぎることがある。
だけど言ってもどうにもならない過去で、これほど愛している人を、傷つけたくはない。

「じゃあ、そろそろ行きますね!」

変な空気になってしまったので、わたしは焦っていた。切り上げなきゃいけない。この醜さは、わたしの問題だ。わたしがひとりで、解決しなきゃいけない問題なんだから。

「ちょい待ち、伊織さん」

背中を向けようとした瞬間、ぐっと、強く腕を引かれた。ひゃ、と声を出すのも間に合わないくらいに、雅治さんが唇を寄せてきた。こんな、公衆の門前で、真っ昼間に。体が勝手に抵抗してしまう。それは、条件反射のようなものだ。
だけどこれが、雅治さんの、「愛す」という行為だってことを、わたしは知っている。わたしの心を癒やしたくて、雅治さんはいつも、こうして愛を送ってくれる。

「愛しとるよ、伊織さん」
「雅治さん……」
「誰よりも、愛しとる。信じて」
「そ、信じてます……だけど、もう人前では、やめてくださいって、言ってるじゃないですか……」負け惜しみのように、そう言った。
「伊織さんが好きじゃから、我慢できん……」

弱い力で、胸を叩いたけれど、雅治さんはいつも、ふんわりと笑うだけ。はずかしくて胸に顔を埋めることしかできないわたしの頭を、そっと優しくなでてから、「午後も、頑張りんしゃい」と言って、帰っていった。
そのキスは、ほんの少しだけ、切なかった。





その、翌日のことだった。8月にもなればすっかり梅雨も終わっているというのに、このところゲリラ豪雨が激しい。
この日の夕方もまったく同じで、のんびり過ごしていたはずの休日1日目に、わたしと雅治さんは慌てていた。

「雅治さん、雨、弱まってきたので、いまのうちに夕食の買い出しに行ってきますね!」
「お、そうか。じゃあ俺は、こっち片づけちょくから。気をつけんさいよ。また降り出すかもしれん」
「はーい、行ってきます!」

雅治さんは急いで洗濯物を取り込んでいたので、その背中に声をかけて、わたしはそそくさと家を出た。買い出しはいつもふたりで行っていたけど、こういうときはお互い、すぐに臨機応変になる。そういうところが、わたしと雅治さんの相性のいいところだった。
今日のご飯はなんにしよう、と考える。いつも、なにを出しても雅治さんは喜んで食べてくれるから、こちらもつくり甲斐がある。ひとりでいるときは、だいたい1週間のメニューは決まっていたというのに、とくに休日は腕をふるってしまうのだから、わたしも単純だ。
まるで新婚だな、と思いながら食材を買い込んでいく。
今夜のメニューはローストビーフにしよう。雅治さんはお肉が好きだ。意外と簡単につくれるレシピだし、牛肉が安かった。あとはサラダでもつくれば、ふたりなら十分なごちそうになる。たまには赤ワインでも飲んで、一緒に映画を観るのもいいかもしれない。
いろんな計画を立てながら、スーパーを出た。また、激しく雨がコンクリートを打ちつけている。まいったなあ、と思いながら傘をさすと、同時に、ポケットに入れていたスマホが震えた。

『雨、大丈夫か? 迎えに行っちゃろうか?』

迎えに来たところで雨が止むわけでもないのに、雅治さんの優しさに頬がゆるんでしまう。『大丈夫ですよ、いまから帰ります』と返信したところで、横断歩道の前に立った。
その反対側、正面に、傘もささずにずぶ濡れになっている人を見つけた。その姿に、ゆるんでいた頬が、一瞬にしてもとに戻っていった。
そこにいたのは、姉だった。
姉の住まいはもっと離れたところにあるというのに、なぜ、ここにいるのか。そんな疑問が頭をもたげる暇もないほど、硬直した。
彼女がじっと、こちらを見ていたからだ。ゾッとするような目で。

「姉さん……」

思わず口走った自分の声が、激しい雨にかき消されていく。信号が変わっても、足を踏み出すことができない。いつか、こんな日がくるとは思っていた。いつか話さなきゃいけないことだって、わかっていた。
でも、それはいまじゃない。もっと、姉さんが落ち着いて、わたしと雅治さんも、もう少し時間が経ってから、改めて話そうと思っていたのに。
彼女は、うつろな目を向けたまま、まっすぐにわたしに向かってきていた。

「伊織」

目の前まできて、姉さんは雨で濡れた体を気にすることもなく、わたしに声をかけた。
焦点を失っているような視線が、ひどく緊張させる。前のときもそうだったが、今日になってもまた、思う。
こんな姉の姿は、見たことがない。

「雅治に、会わせてほしいの」
「え……」
「一緒にいるんだよね? 雅治のマンションに行っても、ずっと留守なの。昨日の夜からずっと待ってるけど、物音ひとつしない。鍵も、変えられてて……入れないの。お店に行っても、お休みだって言われて……」
「……姉さん、それは」
「アンタのとこに、いるんでしょ?」

雨が、姉の頭からだらだらと流れ落ちる。でもはっきりと、その頬に伝うのが涙だと、わかった。あげく、その雨が血のように見えて、わたしは後ずさった。
瞬間、姉は強く、肩をつかんできた。手から、傘がすべり落ちる。強い雨が、打ちつけてきた。
怖い、と思った。姉はいつも脅威だったけれど、こんなに怖いと思ったことはない。だけど、怖がっている場合じゃない、と、自分を奮い立たせた。

「お断り、します」
「え?」
「……いま、姉さんを雅治さんに会わせることは、わたしはしたくありません」

思い切ってそう言うと、姉はカッと目を開いてきた。その形相に、動悸があがっていく。

「なんで? ねえ、なんで? 抱かれたの? 雅治に。なんで、雅治さんって呼んでるの? アンタ、雅治と、付き合ってるとでも言うの?」
「……そうです、雅治さんと、付き合っています」

この人を、超えなければいけない。それは29年生きてきて、はじめて心に宿った、切なる誓いだった。

「は。はは。ははははは。じゃあ、じゃあお願いするわ。許してあげる。あの人のこと、好きになっちゃったんでしょ? それで、つい、色目を使っちゃんだよね?」
「姉さんっ」
「お願い、アンタにしてきたこと全部謝る、だから雅治だけは、あたしから奪わないで!」

唐突に叫んだ姉から、反射的に顔を背けた。殴られると思ったからだ。けれど姉は、殴ろうとしたわけじゃなかった。怒りを全身にためて、なんとかそれだけは堪らえようとしたのか、ぶるぶると体を震わせている。

「ねえ伊織、わかるよね?」

空が、雨雲で暗くなってきた。車道を行き交う車のライトが、姉を照らす。化粧もぐちゃぐちゃになった姉の目からは、黒い液体が流れ出ていた。
怯んではいけない。昨日した嫉妬だって、わたしが間違っていたんだ。この姉は、わたしを支配しようとする。
だけど、雅治さんが与えてくれる愛だけは、絶対に、裏切りたくないから。

「姉さん……」
「お願い伊織……許してあげるから。ね、いいこでしょ? お姉ちゃんの言うこと、聞いて?」

気が狂いかけている姉と、わたし自身を天秤にかけた。なんとしてもこの呪縛から、逃れるべきなんだ。
深呼吸をした。この姉と戦うことになったとしても、かまわない。
大丈夫だ……わたしには、雅治さんがいるから。わたしを信じてくれる、雅治さんがいる。

「これまで姉さんがわたしから奪っていったものについて、謝る必要はありません」
「は……?」
「姉さんは、たくさんのものをわたしから奪っていきました。それを、いまさら返してくれとは言いません。新品のランドセルだろうが、誕生日におじさまからもらったオルゴールだろうが、おさがりじゃない洋服だろうが、はじめてお小遣いをためて買ったネックレスだって、全部、全部、悔しかったけど」

全部、それは、姉が飽きたら、ぐちゃぐちゃになって返ってきたものだ。
思いだすだけで、吐き気がするほど悔しい。涙が、あふれでそうになる。

「だから、謝るって!」
「そんなのどうだっていいんです。わたしは、姉さんに雅治さんをお返しするわけにはいきません」
「……お返し?」
「そうです。雅治さんは、わたしがはじめて、あなたから奪った、大切な宝物です」

姉は自分勝手な人だった。幼少期に受けた心の傷は、大人になってからもわたしを蝕んでいる。
姉には絶対服従なのだと、思いこんでいた。周りの女の子たちがするお姉ちゃんの話は、いつも信じられなかった。なにかを奪われたり、親からも姉を慕えと強制されない家庭環境は、わたしにとって幻のようなものだったからだ。

「雅治さんはいま、わたしと付き合ってるんです」
「……なに言ってんの、アンタ」

息が詰まりそうだった。強すぎる姉の怨念のようなものが、流れ込んでくる。
雨と一緒になって、この身体を、怯えるほどに凍えさせた。真夏だというのに、ここだけまるで、雪に吹かれているような寒さだ。

「……遊びに決まってるじゃない。アンタみたいな地味な女、雅治の趣味じゃない。雅治は、ずっとあたしを愛してたんだから」
「それでも、いまはわたしを愛してくれています。これまでの誰より愛してると、言ってくれます」

この姉に怯んでいたら、わたしと雅治さんの未来はない。

「は……ははははは。あー、伊織……あの部屋で、雅治のマンションで、あたしたちが何度、愛し合ったと思ってるの」

だから、なんだ。そんなもの、もう、痛くも痒くもない。

「たかだか数ヶ月の付き合いで、あたしたちの4年越しの愛を超えれるとでも思っ」
「とっくに超えてます」

言い放った。姉を黙らせるのには、かなり強い衝撃だったに違いない。

「雅治さん、後悔してることがあるって言ってました。姉さん、なんだと思いますか?」
「……なによ、アンタの、その生意気な目は」
「姉さんに会うより先に、わたしに会っておくべきだったと言ってくれました。そしたら、自分があんな目に遭うこともなかったって。わたしに先に会ってさえいれば、最初からわたしを選んでいたと」

その言葉に、どれだけ救われたか。
でもその言葉が、姉にどれだけの傷を与えるのか、わかっていて、あえて、言った。
雅治さんと愛し合っていたと、わたしを傷つけようとする姉の凶器に、わたしの凶器を突き返したかった。

「アンタ……伊織、ねえ」
「わたしを傷つけようとしても、無駄です、姉さん」
「……なに調子にのって」
「雅治さんは、わたしを愛してます。あなたははじめて、わたしに負けたんです」

言葉にすることで、わたしは、完全に吹っ切れていた。もう、姉と雅治さんの過去に嫉妬することもなくなると、確信を得る。
呪縛から解かれたと、これで生まれ変われると、全身が熱くなった。
だから姉の手が肩にもう一度伸びていたことに、気づいていなかった。

気づいたのは、車道に突き飛ばされた瞬間だった。





to be continued...

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