TOUCH_11


11.


うるさい……。
スマホのアラームが鳴って、目が覚める。上半身だけ鍛えるトレーニングを毎朝9時からしてたから、すっかり止めるのを忘れてた。

「んん……」

右手を浮遊させて、ヘッドボードにあるスマホを取ってそれを止めた。まだ、眠い……。でも、左腕の心地よい重さと、うっすら目を開けたときに見えた綺麗な寝顔が、オレに幸せを与えてくれた。

「……リョーマ、おはよ」目を閉じたまま、伊織さんがつぶやいた。
「おはよ、伊織さん……ごめんね、起こした」

たしかに、腕のなかに伊織さんがいる。それだけのことで、自然と頬がゆるんでいった。
明け方に伊織さんの腕をとってプロポーズしたこと、忘れたわけじゃないけど。
それでも、はじめて伊織さんを抱いた翌日のことがオレのなかに重くのしかかってて、どこまでも不安になってる自分に、ちょっとうんざりする。

「もう、起きるの?」
「ん……いつもは起きてたけど、今日はサボろっかな」
「うん?」
「故障してからも、朝のトレーニング、上半身だけはしてたんだけど……昨日、伊織さんと激しいのしたし」チュ、と額にキスすると、伊織さんはくすぐったそうにした。
「も……バカ」

くすくす笑いながら、伊織さんがようやく目を開いた。綺麗な、オレだけの伊織さん。すごくいい香りが、オレをまた高揚させた。
体を真横に向けて、その素肌をしっかりと抱きしめる。すべすべの背中と、密着する胸が愛しい。我慢できずに覆いかぶさって唇にキスをしたら、甘い吐息がもれた。

「ン、ちょっと、リョーマ……」
「かわいい、伊織さん……朝からすごく、綺麗だね」
「嘘ばっかり……頭、ぐしゃぐしゃでしょ」顔も、テカテカ……と、恥ずかしそうにする。
「そんなことないよ? そうだとしても、すごくかわいい。また、抱きたくなる……」
「あ、ちょ、こらっ」

首筋にキスをしながら胸を揺らすと、パチンッと手を叩かれた。
ンだよ、ケチ。

「ダメ……?」
「ないんでしょ? ゴム」

あればいいってこと? はあ……まさか山口に来てまで必要になると思わなかったから全然、用意してなかったし。昨日ホテルに帰る前、コンビニ寄ればよかった。
でも、オレはいい。オレがどうってより、オレの腕のなかで乱れる伊織さんが見たいだけなんだけど。

「……伊織さんのこと、気持ちよくしてあげるだけ」
「ンッ……も、そんなこと、しなくていいからっ」
「いいじゃん、ちょっとだけだよ」させてよ。こんなに愛してるのに。キスじゃ足りない。
「ダーメ。わがまま言わないの。ン、ね? ほら、起きよ?」

言い聞かせるための投げやりなキスをして、オレを押しのけて起きあがると、伊織さんは服を着はじめた。
年上とは何人かと付き合ってきたけど(千夏もそうだし)、こんな大人って感じの人、いなかった。それに、いかにも年下扱いされんのだってはじめてだし、ちょっとムカつく。
下着をつけてる伊織さん、すごくセクシーだ。
結局、我慢できなくて、オレは背中から抱きついた。

「ちょっと、リョーマ、服着れない」
「つれなくしないでよ、伊織さん……」首筋にキスを何度も落とした。この鎖骨も、すごく好き。
「もう……つれなくしてないでしょ?」
「だってなんか、冷たいじゃん……オレのこと、好き?」

顔を覗き込んで聞いたら、伊織さんは困ったように笑った。
いま、また「かわいい」とか思われた気がする……。

「……ムカつくんだけど、その顔」
「ふふふ。どしたの? 甘えんぼだね?」
「オレのこと好きかって聞いてんだけど」答えてよ、ちゃんと。
「もう……好きに決まってるでしょ?」伊織さんの片手が、オレの頬を包んだ。この手に触れられるだけで、頭がぼんやりしてくる。「世界中の誰よりも、愛してるよ、リョーマ」

優しいキスが、唇に落ちてきた。ずっと言われたかった言葉に、ドキドキしてくる。

「伊織さん……オレも好き」
「ン……リョーマ、ちょ」
「愛してる。ずっと傍にいてよ?」

少しだけ舌を出して深いキスをしながら、もう一度、柔らかい胸を包もうとしたら、伊織さんがオレから身を引いて、また、パチンッと手を叩かれた。
……にゃろう。

「まったく……ここまで! ずっと傍にいるから、お手洗い行っておいで? そしたら少し落ち着くから」

たぶん、伊織さんの背中に完全にオレが当たってるからだと思うけど。そんな呆れた顔しなくたって、いいじゃん……。

「……わかったよ。ケチ」
「ふふ」

すっかり大人な伊織さんに敗北しながら、オレは下着を持ってトイレに向かった。
オレ、かなり負けず嫌いなほうだと思うんだけど、たぶん伊織さんには、一生勝てない。っていうか、唯一負けてもいいって思える人がこの世にいるなんて、正直、驚いてる。
急にこれだけ人を好きになったのもはじめてなら、こんなふうに女の人の影響で人生観が変わるのもはじめてだ。きっとオレ、もう伊織さんなしじゃ生きてけない越前リョーマになってる。
人に依存するタイプじゃ絶対ないんだけど……いや、依存ってより、共存か。伊織さんとは、すごくいい関係でいれそうだし。与えたいって思う。伊織さんが望むものなら、なんだって。

「リョーマ、わたし、師匠に挨拶したら東京に帰るね」
「え、もう帰んの?」
「うん。治療院、まかせて出てきちゃってるし」

オレが洗面所で身支度を整えていると、伊織さんは鏡の前で化粧をしながらそう言った。
ちょっと残念な気持ちになる。あと数日、このホテルでふたりきりでゆっくりできたらって思ったけど……仕事あるんなら、仕方ないよね。
それに、まかせて出てきちゃってる相手って、どうせ、あいつなんだろうし。……ムカつく。

「オレも師匠の挨拶、一緒に行くよ。東京にも一緒に帰る」これ以上、離れるのなんてまっぴらだ。
「え……」
「当然デショ。師匠はしばらく動けないんだから」腕、完全にヤラれちゃってたし。「このメンテのつづきは、もちろん、伊織さんやってくれるよね?」

伊織さんの傍までいって、鏡越しに目を見つめた。暗黙に「あいつと別れてくれるよね?」って、伝えたつもり。
伊織さんは少しだけ目をまるくしながら、オレに振り返った。すっぴんだとちょっと幼くなってかわいいけど、伊織さんは化粧をすると、一気に大人になって、すごく綺麗。

「……キスしていい?」
「え、いや、口紅つけたば……ン」なんて答えても、同じことしてたと思う。
「悪いけどもっかい、つけなおして」両頬を包んで、貪った。
「リョ……ちょ」
「メンテの返事きくまで、やめない」口紅の味が広がっていく。それだって、甘い。
「ン、も、もちろん、わたしがするってば」
「約束してくれる……?」
「す、するから……」

伊織さんの困惑したような、とろけた顔に満足して、オレは笑った。
なんだ……オレが勝つことだって、できるんじゃん。





師匠に挨拶をしてから、オレらは宇部空港から羽田空港へと移動した。
師匠はオレのメンテができなくなったことを謝りつつも、ずーっとオレと伊織さんを見ながら、ニヤニヤしてた。
オヤジってみんなああなのかな。オレのオヤジも、伊織さんの話になるとああいう顔する。

――アンタら、ぶちスッキリした顔しちょる。ほうかねほうかね、ええ夜じゃったねそりゃあ。
――は?
――し、師匠!
――ワシの目はなんでも見えるんちゃ。カカカカカッ。
――も、もういいですから! あの、また落ち着いたらご連絡しますね!
――はいはい、子づくりのツボが必要になったら、来ちゃったらええわ。
――師匠!

スケベじじい。なんでも見えるって、跡部さんじゃあるまいし。
けど、師匠がホントにすごい人なのは、はじめて会ったときに十分わかった。さすが伊織さんの師匠だけあって、体の不調どころか心の不調まで読み取られて、伊織さんより数倍、怖かった。
おかげで、オレの恋心なんか最初っから師匠にはバレバレ。だからまあ、昨日、オレと伊織さんになにがあったかなんて、曰く、お見通しなんだと思うけど。口に出されると、ちょっと、ね。
飛行機のなかで、オレと伊織さんはすぐに眠りについた。1時間半くらいなんだけど、やっぱりお互い寝不足で。そのあいだも、オレらはずっと手を握り合っていた。
羽田に到着したころには、14時半を過ぎていた。
オレはキャップを深めにかぶって、伊達メガネをかけた。案外、これでバレない。

「わ、リョーマ似合うね、メガネ」
「そっかな」
「それで、バレないの?」
「ん、まあね」

荷物を受け取って、オレたちは向き合った。方向が違うから、一旦はここで離れなくちゃなんない。
この時間がくることはわかってたけど、この時間が迫るごとに、オレは切ない気分になってった。

「伊織さん、そのまま向かうの?」
「ううん。一度、家に戻ってから、治療院に行こうと思う」
「ん、そっか……」

急激な不安が、オレを襲ってきた。伊織さんと離れるのが、怖くて。治療院に行ったら、絶対にあいつがいるし……十分、愛し合って、プロポーズだってしたし、オレのものになったはずの伊織さんだけど。
……それでも、もし失ってしまったらって思うと、たまんなかった。

「……リョーマ? どした?」
「え?」
「……ひょっとして、不安?」

心配そうに、伊織さんがオレを見あげてきた。師匠ほどじゃないにしたって、伊織さんも心のうちを読むのが得意だから、オレは必死にそんな自分を隠そうとした。
不安なんて、言いたくない。伊織さんに昨日、信じることが愛だって、あれほど言っておきながら。

「そんなことないよ。信じてるから、大丈夫」

絶対に悟られたくなくて、試合中くらい神経を集中させて見せないようにした。ちゃんと頬だってあげたし、にっこりって擬音つけていいくらい、笑った。
けどその直後、伊織さんがオレを引き寄せるように、背中に手を回してた。試合前にしてもらってたハグとも、それは全然、違った。

「リョーマ……」

オレを守ろうとしてるような、優しい、タッチ。

「伊織さん……?」
「無理して、わたしに合わせる必要なんかないんだよ?」
「え……」
「不安なときは、不安だって言って。そうさせたのわたしなんだから。リョーマが無理することなんか、ひとつもないんだから」

好きになってからずっと、オレが伊織さんを守りたいって思ってきたのに。いまじゃすっかり、オレが伊織さんに守られてる。
すごく、愛しい。なんなんだろ、この人。強くて、優しくて、まぶしくて、綺麗で。会ってそんな経ってもないのに、オレのこと、全部理解して、受け止めてくれる。

「……愛してる」
「え?」

それでもやっぱり、不安は口にしたくなかった。伊織さんの気持ちは、すごく、ありがたいけど。オレ、甘えてばっかいらんない。オレと伊織さんは依存じゃなくて、共存だから。
あいつとは、違う。

「要は、本音を言えってことデショ? それなら、愛してる」
「リョーマ……」

ぎゅっと抱きしめると、伊織さんもぎゅっと力を入れ直してくれた。
大丈夫……伊織さんはもう、オレを捨てたりなんかしない。信じてる。愛してるから。

「好きだよ、伊織さん。オレ待ってるから。連絡くれたら、すぐ会いに行くし」朝のうちに連絡先の交換はしておいたし、もう、大丈夫だよね。
「……ん」

胸のなかからオレを見あげながら、伊織さんが頭をなでてきた。
まるで犬扱いなんだけど、それだけで舞い上がってるオレは、十分に犬だよね。

「伊織さん……キス、していい?」
「え、こ、ここで?」人、たくさんいるんだけど……と、慌てはじめた。
「抱きしめたくせに、それはダメなの?」こんなの、海外じゃ超普通なんだけど。
「いや、ハグとチュウじゃさ、なんていうの? ど、度合いが……」

それに、リョーマは、有名人なんだから……まずいでしょ、と、急に回りを気にしはじめてる。
メガネあるから、バレないって言ってんジャン。焦らさないでよ。

「伊織さんとは度合い高めのほうが、オレ、好きだから」
「リョ……!」

問答無用で、そのままキスをした。別に、バレたっていいし。なんなら週刊誌にでも撮られて、明日のスポーツ新聞の一面になればいい。日本中に、オレの恋人が伊織さんだって知られたほうが、オレにとっても都合いいし。

「ン、ちょ、長いってば……!」

伊織さんが、赤面してうつむく。ああ、ホントにすっかり、オレだけの伊織さんなんだって実感して、嬉しくなってくる。
伊織さんは大人だけど、照れると、一気にかわいくなるから。そういうギャップも、たまんない。

「だってオレ、伊織さんの旦那になれるんでしょ、いつか」
「そ……それは、そうだけど」

やったね。
その返事、ちゃんと聞いてなかったから。オレの奥さんに、なってくれるんだ?
やばい、顔、ニヤけそう。

「なら、いいよね? もっかい」
「ちょ、リョ……!」

抵抗しようとする伊織さんを力づくで抱きすくめた。
さっきよりもずっと長いキスを送るうちに、伊織さんの体の力が、ゆるゆると抜けていった。





時計を見ると、23時を回っていた。
伊織さんが治療院についたのが、たぶん、16時とかそのへんだとして……閉院がたしか20時。スタッフが全員帰ってからあいつと話をつけるにしたって……そんなに時間、かかってんのかな。

「んあ? なんだリョーマ? 出かけんのか?」
「ん……ちょっと」

なんだかんだ、焦ってた。もう待ちきれなくて支度して、玄関でシューズをはいてたら、目ざといオヤジが背中から声をかけてきた。

「ハアーン? 夜遊びですかリョーマくうん?」
「……ほっといてくんない」
「まー、いまは休養中だから、お好きにすればいいけどおー? アレか? 先生んとこか? ん? どうなんだよ、おい、青少年っ」

今日いきなり帰ってきても、根掘り葉掘り聞こうとする母さんとは対照的に、「土砂、大変だったなー」で、とくに詳細を聞くこともなくサラッと済ませてたくせに、なんでこういうことは細かく聞こうとすんだろ、このオヤジ……。

「ほっといてって言ってんの、聞こえないわけ?」
「キャ! 図星! そうかそうか。お前もずいぶんと大人になったもんだなー!」
「デカい声だすなよ。母さん起きるだろっ」

大人になったとか、ちょっと母さんに聞かれたくないし。
オヤジの頭のなかは、昔からそればっかだろうけどさ。でも伊織さんの変な想像してんだと思ったら、殺したくなる。

「それで先生と、どうなんだよお前っ。先生いいよなあ、美人だし、おっぱい大きいし。大人の色気たっぷりで。夜もきっとムフフフフ!」案の定かよ。
「……マジで殺すよアンタ」それ以上は許さないよ、オレ。
「うあ、おっかねえなあ、おい。冗談だよ。そんなキレんなよ。それともママにバレたくないのー? リョーマくうん? 先生ってエッチ?」
「あのさあオヤジ!」
「私になにがバレたくないって?」

その声に、オヤジと一緒に振り返って、ぎょっとした。
いつもこの時間には寝てるはずの母さんが、そこに、仁王立ちでオレとオヤジを見ろしていた。

「あ、いや……なんでもねえよ、な、なあ? リョーマ」

なんでか知らないけど、さっきまでエロ顔全開でオレをからかっていたオヤジが、急に焦りはじめた。
ああ、そっか。話を聞かれてないか、心配なんだ? ちょうどいい。マジで殺そうかと思ったから。
これまでの彼女はともかく、伊織さんに関してはオレ、沸点めちゃくちゃ低いから、覚悟しとけよ、オヤジ!

「母さんごめんね。起こした?」
「たまたま起きてただけよ。リョーマ、こんな夜中から、どこか行くの?」
「ん。オヤジが愛人にしたいって言ってた治療院の先生のとこに行ってくる」
「なっ! リョーマ!」
「はい……? 愛人?」ピキピキ、と音がするくらい、母さんの顔がひきつった。ザマーミロ。
「そ。息子のガールフレンドにまで手をつけようとしてんのこの人。お灸でも据えといて」
「リョ、お前……!」
「南次郎……あなたねえ……いつまで若い女のケツ追っかけ回すつもり?」
「ち、バカ! 冗談に決まってんだろ!」
「しかも息子の恋人ですって!? え、リョーマ恋人できたのっ?」

はっと気づいたように、母さんの目が見開いた。母さんにそういう話したことないから、すっごいびっくりしてる。でも伊織さんのことは、ちゃんと、母さんにも知っておいてほしい。
オレの……奥さんになる人だし。

「ん。今度、紹介する」
「え、しょ、紹介!? え、リョーマ……それって……!」
「その話はまた今度。とにかく、オレの恋人の体がどうなってるとか聞きたがるから、お灸、据えといて。このオヤジに」

そう言うと、母さんの目が、棒のようにまっすぐに変わっていった。怒ってる、かなり。

「そう、わかった……あなた……ちょっと来て!」
「ち、違うって! おいリョーマ! お前、あることないこと!」
「あることばっかデショ」
「冗談だって!」
「いいから来なさい!」

ゴゴゴゴゴゴ……という母さんのすさまじいオーラが見えてるうちに、オレはしらっと家を出た。これでオレが手をくださなくても、きっと母さんがいまごろ半殺しにしてる。
せいせいしながらも、少しため息をつきながら、オレはタクシーに乗り込んだ。
向かってるあいだも、伊織さんからの連絡はない。不安がどんどん、駆り立てられていく。信じてるのに、情けない……少しでも離れたら、伊織さんがどっかいっちゃうんじゃないかって、オレ、らしくもなくビビってる。
相当、あの夜のこと、引きずってんだなと思う。こんなにメンタル弱いほうじゃないのに。伊織さんのことになると、オレ、全然ダメだ。
そうこうしているうちに、無事に治療院についた。まだ電気がついてて、ちらっとなかを見たけど、誰の姿も見えない。
急いで料金を払ってタクシーから降りると、少し目を離した隙に電気が消えてた。え? と思って目をこらしたら、シャッターを閉めながら、こっちに気づいた伊織さんが、そこにいた。

「え、リョーマ?」
「あ……」

タクシーが走り去っていくのと同時に、伊織さんが駆け寄ってくる。待っていられなかった自分が、急に恥ずかしくなった。
いまごろ気づいたけど……こういうとこ、超、子どもっぽいよね? 伊織さん、引いてないかな……。

「どしたの?」
「いや……その」

信じてるって、言ったのに……これじゃ全然、伊織さんのこと、信じてなかったみたいだ。

「ちょっと……近くまで、来たから」
「……タクシー、そこで降りてたのに?」
「いや……それは」まずい……オレ、すっごいカッコ悪くない?
「……やっぱり不安にさせちゃってるんだね、わたし」

伊織さんが、悲しい顔をした。そんな顔、させたかったわけじゃないのに。
不安だったって言いたくないけど、さすがにバレバレだよね。もっと大人になんないと、オレ、いつかホントに捨てられるかもしんない。
そう思うとなにも言えなくなって、オレは自然と、口もとに手を当てた。

「リョーマ」
「ごめん……オレ」困らせてるよね?
「別れたよ、ちゃんと」
「……伊織さん」

さっきから全然、目を合わせらんなかったんだけど……その言葉にはっとして伊織さんを見ると、伊織さんは、優しく微笑んでた。

「信じてくれてありがとう。ごめんね、すぐに連絡すればよかったね。ちょっと忙しかったんだ、今日」

そう言って、オレの頬に手をあてて、いつものようにそっとなでてきた。どうしよ……マジで好きすぎる。優しくって、あったかい。
こんな子どもっぽいオレの気持ちを、伊織さんは、汲んでくれるから。
好きって想いが氾濫して、オレはその体を、強く抱きしめた。

「リョーマ……」
「ごめん、伊織さん……信じてなかったわけじゃなくて」
「うん、わかってるよ。だから信じてくれてありがとうって、言ってるでしょ?」

ふふ。大丈夫、大丈夫だよ。
そう言って、背中をなでてくれる。ずっと、包まれてたい。この人に。

「ん……」
「謝るなら、わたしのほうだよ、リョーマ……不安にさせて、ごめんね。もう絶対に、あなたから離れたりしないから」
「伊織さん……」

見つめ合って、唇を寄せ合った。もう昂りが、抑えらンない。

「伊織さん……これから自宅に帰るよね?」
「ん……リョーマも、来る?」オレが一緒にいたいってことも、わかってくれる。
「……でもオレ、我慢できなくなりそう」
「……我慢、しなくても、いいよ?」

きょとんと、伊織さんが首を傾げた。はあ……やっぱこういうのも、カッコ悪い気がする。
こんなこと、いままで思ったこと一度もないのに。ダメだ、すっごい調子が狂う。そのうち、めちゃくちゃうざがられそう……だけど。

「……あいつと5年、愛し合ってた部屋で、伊織さんのこと、抱きたくないんだけど」
「あ……」

は、と気づいたように、今度は伊織さんが口もとに手を当てた。オレいま……結局、超、ガキっぽいこと言った気がする。

「……ごめん、過去に嫉妬とかして」
「ううん、ううん。いいんだよリョーマ。わたしが、無神経だった。ごめんね」
「伊織さん……」

なんでそんな優しいの? このまま甘やかされてたら、すんごい図々しくなりそう、オレ。

「リョーマ……明日の予定は?」
「……なにもないけど」
「じゃあ、治療院、明日は休みだから……どっか、泊まろっか?」
「え」
「あっ、や、その、リョーマがよければ、だけど……」

じわじわと赤くなってうつむく伊織さんの顔に、胸の鼓動が、うるさくなっていく。
かわいい。かわいい。すっごくかわいい……。いますぐ抱きたい。

「その、一旦、家に戻って、支度してもいいかな?」
「ダメ」
「え」
「オレ、待てない。コンビニ行こ? 必要なものは、そこでなんとかなるでしょ?」オレも、買いたいもの、あるし……。
「リョーマそんな……夜は、長いよ?」

目をきょろきょろさせながら、伊織さんは片手をうちわみたいにして、自分の顔をあおいだ。
熱くなってきた? オレも、もう、すっごい熱いよ、伊織さん……。

「だから、でしょ」
「へ?」
「夜は長いから、1秒でも早く、伊織さん抱きたい。そしたらたっぷり、伊織さんのこと、愛せるでしょ?」
「リョ……」
「行こ?」

手をつないで引っ張ると、伊織さんは片手で自分の胸を押さえながら、小声で静かにつぶやいた。

「も、死んじゃいそう……」

また、勝ったのかも、オレ……。そう思ったら、頬がゆるんでいくのを、止められなかった。





アメリカほどじゃないけど、東京の夜景もすごく綺麗だ。山口は真っ暗だったけど、それはそれで、嫌いじゃなかった。
伊織さんは、シャワーを浴びてからずっと窓の外を眺めてた。昨日もそうだったけど、その背中を見るたびに、抱きつきたくなる。手のなかに閉じ込めて、離したくなくなる。

「夜景、綺麗だね」

惹き寄せられるようにオレがうしろから手を回すと、伊織さんはコツン、と頭を寄せてきた。

「ん……すごく綺麗……。ねえでもリョーマ、わざわざスイートじゃなくても、よかったんじゃないかな……税金対策?」

都心の一級ホテルに行って、いつものようにフロントにスイートルームをお願いしたら、伊織さんはとなりで、ものすごく慌てだした。
「普通の部屋でいいよ!」って言いだして、フロントの人がそれを聞いて困惑しはじめたから、「恥ずかしいから、やめてくんない?」って言ったら、黙ってくれたけど……。
普通の部屋にすると、たまにエレベーターとか廊下で人に会って声かけられンの、面倒なんだよね。

「別に、そんなこと考えてないけどさ。窮屈なの、嫌でしょ?」
「普通の部屋でも窮屈じゃないってば……というか、同じスイートとは思えないね、山口と」
「まあ、そうかも」

ふたりにしてはたしかに広すぎるかもしんないけど、ホントは家でゆっくりしたかったかもしれない伊織さんに、のんびりしてほしかったってのも、ある。
伊織さんがやっとあいつと別れて、本当の意味でオレだけの伊織さんになったから、昨日よりも、もっと特別な夜にしたかったんだけど……。

「こっち向いて、伊織さん……もう、夜景は十分堪能したでしょ?」

舌を滑りこませて、熱いキスをした。何度も角度を変えて求めるたびに、伊織さんの甘い声が耳を刺激していく。

「ン……ふふ。リョーマ、せっかちだね? かわい」
「は……?」
「あっ、ごめんごめん、また言っちゃった」

む、として伊織さんを睨むと、はっとした顔して、ニヤニヤしてる。
また、かわいいって言われた。伊織さんに言われるの、すっごい子ども扱いされてる気分……。あいつには、思ったことないでしょ、そんなこと。

「リョーマ? 怒っちゃった? ごめんね?」チュ、とかわいいキスが唇に落ちてきた。マジで調子いい。ほしいときは、全然くれないくせに。
「……怒った。かわいいとか、二度と言わせないくらい抱く」

オレだって、伊織さんと対等でいたいンだよ。伊織さんが頼れるような男でいたいし、伊織さんを、ずっと守りたい。
ムカついたから、噛み付くようにキスをした。

「ンンッ、リョーマ、激しい」
「……かわいい男はこういうことしないデショ?」
「そんなに怒んないでってばあ。悪い意味じゃないよ」
「だとしても、伊織さんには言われたくない」

そのままバスローブを解いて、バサッと床に落としたら、綺麗に磨かれた窓ガラスに、下着姿の伊織さんがくっきりと映った。

「や、ちょっとリョーマ……!」
「見て、すっごいヤラしい」
「やだっ、恥ずかしいってば……!」
「ちゃんと見ててよ。オレが伊織さん抱くところ」
「も……やっ、あ」

ブラジャーに手をかけて中途半端に乳房を出すと、ますます艶めかしいその姿に伊織さんは身を捩った。
そのまま、しつこいくらいに愛撫して、十分に潤わせる。伊織さんの妖艶な声を聞きながら胸に指を這わせて、オレは強引に、うしろから伊織さんを突いた。

「ひゃっ! あっ……ちょ、ここで!?」
「見ててって、言ってるでしょ」
「も、リョーマッ……ごめんってば、恥ずかしいよっ……謝るからっ。あっ」
「オレにちゃんと、キスして。ほら、舌、だしてよ」
「ンッ……リョーマ」

無理やり顔をつかんで、真横に振り向かせた。最後まで脱がされていない着衣状態の伊織さんを抱いている自分を見て、伊織さんとあいつは、こんなふうにセックスしてたのかなとか、余計なことが頭をよぎっていく。
ああ、ムッカつく! 伊織さんが、かわいいとか言いだすからっ。

「ねえ、伊織さん。ひとつだけ、嫌なこと聞いていい?」規則的に突きながら、オレは言った。
「な、なにっ? あ、うっ……ン!」

こんなこと、聞くべきじゃないってわかってる。でも、こうして窓ガラス越しにオレに抱かれてる伊織さん見てると、やっぱり嫉妬の波が抑えきれなくて。
オレの伊織さんが、オレと出会ったあとに誰かに触れられてたら、すごく、嫌で。あの日に見た、キスだって……いまでも壊れそうなくらい、胸が痛くなる。

「オレと離れてるあいだに、あいつに抱かれた?」

首筋と、肩と、腕と、いろんなところに噛みつきながら、オレは自分の嫉妬を、恥ずかしいくらいにさらけ出した。
あの日からずっと、頭のなかでさまよってた。

――伊織と俺は5年前から、何度も愛し合ってきた関係だ。

あいつの言葉に、オレの嫉妬心が、支配されてる。

「リョーマ……っ、噛まないでっ……痛いよっ」
「答えてよ」
「リョーマ!」

伊織さんが、腰を突き上げるオレから身を剥がす。窓を背中にして、オレに向き直った。
オレの頬を、両手で包んで、すごく、切なそうな顔してる。それに負けないくらい、自分が切なくなってることも、わかってた。

「リョーマに出会ってから、リョーマにしか抱かれてないっ」
「……ホント? ホントに? 伊織さん」
「ホントだよ。嘘なんかつかない。だから、そんな泣きそうな顔、しないで?」

伊織さんの優しい手が、オレの頭を包み込んだ。
乱暴にしたのに……いつだって伊織さんは、オレを許してくれるのに。そっと目を閉じると、伊織さんのぬくもりが、全身に沁みわたっていく。

「伊織さん……」
「リョーマが好き。大好き。わたしだって、あの日からリョーマのことばっかり、考えてたよ」

オレ……自分のことばっかで。伊織さんの前では、丸裸にされて、自分じゃないみたいになる。
もう絶対に離れないってわかってても、独占欲で、頭がおかしくなりそう。

「ごめん、伊織さん……」
「謝らないで、いいから……ね? リョーマのためなら、なんでもしてあげる。何度だって伝えてあげる。愛してるよ、リョーマ。好きにして。わたしは、リョーマのものだから。ね?」
「愛してる……オレも、伊織さんのこと……すっごい愛してる」

ほどけた体を引き寄せて、熱いキスをくり返しながら、オレは伊織さんを抱きかかえた。
ベッドが、ゆっくりと沈んでいく。見つめ合って、手を握りしめて。何度も愛してるって、ささやいて。
オレは、オレだけの伊織さんを、飽きるほど抱いた。





そうは言っても、全然、飽きないんだけど。
伊織さんは、何度もオレに抱かれてくれた。伊織さんがぶつけてくれた愛に、オレもすっかり安心して……最後らへんは、お互い、ずっと笑顔だった。
する前もシャワーは浴びたけど、終わったらやっぱり汗だくで。深夜、一緒に広いバスルームの湯船にぬるま湯をためて、オレらはもう、10分以上は浸かってた。
うしろから抱きかかえる伊織さんの体がすごく柔らかくて、気持ちがいい。
片手で伊織さんの肌に手を滑らせながら、オレは反対側の手で、タオルの上に置いておいたスマホを手にした。

「え、なに?」
「なにって?」
「ま、まさか写真とか撮ろうとしてないよね!? そんなことしたら水没させるからね!?」

最近の伊織さんにしてはめずらしく怒ってて。出会ったころを思いだす。あの日も伊織さん、オレに超キレてたなって。
いつも湯船に浸かりながらスマホ見てるだけなんだけど、久々に見た伊織さんの憤慨に、いじわるしたくなってくる。

「グッドアイデアじゃん、それ。思い出の1枚にする?」
「バカ! ホントに許さないよ!」
「で、結婚式で流そうよ」
「リョーマ……」

ケタケタ笑いながら言うと、伊織さんの目が、ギラギラと光りはじめた。ぎょっとする。
ほんの冗談のつもりなのに、冗談、通じないわけ?

「男性機能を失うツボに、針でも刺されたい?」

そンなのあんの? 怖すぎデショ……。

「Just kidding...give me a break...」
「なんて言ったのいま。カッコよく言ってごまかしたって許さないからね」まだ、ギラギラしてる。嘘デショ? 聞き取れるでしょ、アレくらい。
「冗談だから、勘弁してって言ったの。耳、悪すぎじゃない?」
「む」

危ないとこだった……男性機能なんか失ったら、オレ、生きていけない。
やっとギラギラがなくなった伊織さんにほっとしながら、オレは気を取り直して、いつものアプリを起動した。

「……リョーマって、SNSやってるんだね」伊織さんもほっとしたのか、スマホを覗いてきた。ちょ、フォロワー数やば、と、つぶやいてる。
「ん。あんまり投稿するのは向いてないけど、見てるといろんなニュース入るし、面白いんだよね」

性格的に、こういうの全然、興味ないんだけど。
SNSをやれってオヤジがうるさいから(世界のテニスプレーヤーはみんなやってンだって)、一応、やってる。だからオヤジに指示された写真あげてるだけなんだけど、それでも1000万人のフォロワーがいた。

「そっか……でもリョーマのタイムラインは、英語だらけでわかんないな……」

さっきから思ってたけど、ひょっとして伊織さん、英語、苦手?
ロンドンにいるときは一緒に外を歩くこともなかったから、全然、気がつかなかった。

「ねえ、伊織さん」
「うん?」
「英語、覚えてよね。オレが教えるから。結婚したらほとんど海外暮らしなんだから」

いつしてくれるつもりなのか全然わかんないけど、伊織さん、あんなに結婚したがってたんだし、そんなに遠い未来なはずがない。
便利な世のなかになってきたとは思うけど、それでも英語がしゃべれない状態で海外暮らしはかなり大変だって、よく聞くし。
だから親切心で言ったつもりだったのに、伊織さんはしれっとオレから目をそらして、ぼそぼそと言った。

「そ……単身赴任的な」
「は?」
「はは……ですよねー」
「オレと離れて暮らすつもりだったわけ? 許せないんだけど」
「え、えーと? じゃすと、きでぃんぐ、です」下手くそ……。
「ねえ、ひょっとして英語、嫌いなの?」
「……」目をそらして、黙り込んでる。嫌い、なんだね。
「オレのためでも、無理?」

短いキスを唇に何度も送ると、伊織さんは眉を八の字にしながら、弱々しい声を出した。

「頑張るよう……でも昔から、東洋医学以外の言語を聞くと、頭が痛くて、ですね。わたし日本人だから」ヘンな言い訳。怪我したとき、病院、探しまわってくれたくせに。
「オレのためなら、なんでもしてくれるんじゃなかったの? あれってセックスのことだけ言ってた?」

今度は、頬にキスしながら、言ってみる。そしたらやっと微笑みながら、伊織さんが唇にキスをしてくれた。
恥ずかしい……ぶり返さないでよ。って、オレの胸に顔をうずめて、照れてる。超、かわいい。

「伊織さん。今夜は、好きにしていいんだよね?」
「ちょ……嘘でしょ。もう無理だって」
「ダメ。オレ、足りない」

スマホなんかどうでもよくなってきて、そばにあったタオルにスマホを置いて、もう一度だけ伊織さんを抱こうかなって思った、寸前だった。
キスに夢中になってたオレらに、急にアラジンの曲が流れてきて、ふたりしてビクッとした。

「うわっ」
「び……びっくりした……」

見ると、スマホからなんか流れてきてる。

「な、なんで急に」
「……SNSの動画だ。置くときにタイムライン動かしたかな……え?」
「ん? どしたの? リョーマ」
「ちょっと、見て、伊織さん」
「え……?」どれどれ? と、覗き込む。瞬間、伊織さんの目が見開かれた。「これ、跡部さん?」

そのとおりだった。SNSのタイムライン上に、跡部さんが女の人とピアノを弾きながら、アラジンを歌ってる。
めちゃくちゃ……面白いんだけど。中学んとき思いだすくらい、笑いそうになる。あの氷帝コールくらい、ド派手だ。
いい歳して、え、なんで?

「なにやってんの、あの人」
「歌うまいんだね、跡部さんって……あ、でもリョーマ知ってた?」
「なにが?」
「婚約したんだよ? 跡部さん」
「えっ!? マジ!? 嘘でしょ!?」
「ホント。わたしもびっくりしたんだけど、こないだ、婚約者の人が来たの、うちの治療院に」

結婚への興味は、微塵もないんじゃなかったっけ……? つい1ヶ月前くらいにはそんな電話したはずなのに、跡部さんもオレと同じで、急にとんでもなく好きな人ができちゃったとか?
それにしたって……信じらンない。だから、こんなことしてんの? 跡部さん、おかしくなっちゃったのかな。

「その婚約者って、この人デショ?」

跡部さんも歌はうまいけど、となりの女性の歌唱力が、抜群にすごかった。
その綺麗な人を指さして伊織さんに聞くと、伊織さんはぶんぶんと首を振った。
違うんだ……この動画見る限り、絶対にこの人だって思ったのに。跡部さん、すっごい幸せそうな顔してるから。

「もっとこう、なんか、いかにも綺麗にしてますって感じの、なんだろうな、令嬢、みたいな感じの人。この横の人とは、ちょっと醸し出してる雰囲気が、違うかなあ」
「へえ、そっか」婚約者の人、こんなのバズってて、平気なわけ? すごくいい雰囲気だけど……。
「でも、ちょっと気になってることあるんだよね、わたし」
「ん? なに? その、跡部さんの婚約者?」

こくん、と、伊織さんがオレの腕のなかで、なんだか知らないけど、神妙な顔をして頷く。急に子どもになったみたいで、すごくかわいかった。

「なにが、気になんの?」
「んー……うーん。守秘義務かな。まだ確証ないから、言えない」
「ンだよ。気になるな。オレでもダメなの?」
「守秘義務というのは、そういうものなんですよ、リョーマさん。それに本人に確認とったわけじゃないしね」
「ふうん」

よくわかんないけど、いろいろあるみたいだった。そのうち、伊織さんがまたオレのスマホをじっと見ながら、また、「あれ?」と声をだした。
ほとんど英語のタイムラインだから、ぱっと読める日本語が目についちゃうのかもしれない。

「この動画の拡散もと、うちのお客さんのアカウントだあ」
「え?」

オレのタイムラインに出てきてるのは、シェアのシェア、だったんだけど。
そのもとにいるアカウント名は、『野瀬島克也』だった。公式マークがついてるから、有名人なのかもしれないけど、オレは全然、そんな人を知らなくて。

「この、おっさん?」
「うん、九十九さんっていうんだよ」
「え? 九十九?」どう見ても、野瀬島って読めるんだけど……。
「うん。これ、芸名だと思う。うちに出す保険証は、九十九淳一さん、だもん」

たしか、料理研究? 料理批評? とかそういう感じの仕事をされてる人だよ。と、ぼんやりと言う。

「へえ。全然、本名と関係ない芸名だね」っていうか、こんなおっさんで芸名にする必要とか、あるんだ。「太ってんね。悪いとこいっぱいありそう」

いかにも大食いだ。デブの料理批評家って、個人的になんとなく信用できないんだけど。別にどうだっていいけどさ。

「うん。でも、それがそういう治療で来てらっしゃるわけじゃないんだよね。わたしが見たところ、体の不調は診てるとこ以外、全然なさそう」
「へえ。不健康そのものって感じの顔してんのに、ね」
「こらこら」ふふふ、と伊織さんが笑った。すごく綺麗。
「どこ、診てんの?」
「うん、むちうち。10年前から通ってくださってる。首を痛めたって。なんか車で一人相撲して軽く打っちゃったんだって」
「ふうん。で、それは守秘義務よかったの? 本名や症状まで、ペラペラしゃべっちゃって」
「あ……」しまったって顔してる。今度は、かわいい。「こ、こっちはたいしたことじゃないもん」
「へえ?」

でも、そんなのどうだっていい。ちょうど跡部さんたちの歌も終わったし、オレはまた、スマホを置いて伊織さんを抱きしめた。今度はちゃんとオフったし、邪魔も入らないよね。

「ね、もういいから、もっかいしよ?」
「ちょ、ここで? 嘘でしょ?」
「汗かいても、すぐに流せるから、いいジャン」
「あ、リョ……も、体力……ていうか、精力どうかしてない?」
「ん。伊織さんのせいで、バカになってる」
「ねえ、わたしクタク……ヒャ! あ、待って、リョ……」
「してあげる。たっぷり、ね」

伊織さんを抱えて浴槽に座らせて、オレはその中心に、顔をうずめた。





跡部さんをテレビで見たのは、その2日後のことだった。
今日も伊織さんとはホテルで会う約束になってたから、オレだけ先にチェックインして、伊織さんを待ってるあいだに何気なくつけたテレビで、跡部さんのことが大ニュースになって流れだした。
いつもオレに世話を焼いてくれる跡部さんの大ピンチに、心臓の音が止まらなくなる。オレがなにかできるわけじゃないのはわかっていても、心配でたまらなくなった。
直後、何度も電話をしたけど、跡部さんには全然つながらなくて。
折り返しがあったのは、伊織さんから「いまから向かうね」というメッセージがきてから、数分後のことだった。

「跡部さん?」
「よう、越前。なんだよ、心配してくれてんのか?」

気丈に振る舞ってはいるし、いつもと変わらない声のトーンだけど、それが余計に、オレの不安をあおる。
伊織さんもそうだったから。こんなときに平気そうな人ほど、壊れそうなんじゃないかって。

「大丈夫なんスか?」
「ああ、心配いらねえ。まあ、さすがの俺もちょっと驚いてはいるがな」
「ねえ、オレ、なにかできることない?」
「ほう? ずいぶんと優しいじゃねえの、越前。佐久間とうまくいったのか?」

弱音を吐けばいいのに、跡部さんはそう言って、話をすり替えてごまかそうとした。
オレをからかって、余計な心配させないようにしてるつもりなんだろうけど、オレ、そこまで子どもじゃないから。

「……それとこれとは、関係ないっしょ」っていうか、なんか恥ずかしいし。
「ふ、まあいい。まさかこんなバズり方をするとは、俺も思っていなかった」冗談めいて言ってるけど、冷静でいれるわけない。知ってたけど、めちゃくちゃ強がりだ、この人。
「でも……動画、すでにバズってたけど」
「お前も見てたのかよ、ったく……」
「ん。なんか野瀬島とか九十九とかいう人が拡散してンの、つい、こないだタイムラインで見たばっかで……ねえ跡部さん、報道の件、ホントなの?」

それは、跡部さんが財閥関係の過労死で亡くなった遺族に、個人的に3億支払っていた、というニュースだった。その相手が、動画にいた女の人で、彼女だけに特別に支払われていたから、大騒ぎになっている。要するに、えこ贔屓したってことなんだけど。
オレがそう聞くと、跡部さんはその質問は答えずに、少し間を開けてから、逆に聞いてきた。

「……越前、いま、九十九と言ったか?」
「え?」
「なぜお前の口から、九十九という名前がでてくる? あの動画と、どういう関係があんだ?」

ていうか……なんで、そんなことが気になるわけ? どうでもよくない?

「だって野瀬島って人、デショ?」
「野瀬島だ。九十九ではない。だがお前、『野瀬島とか九十九とかいう人が拡散している』と言ったな? なぜそこに、九十九の名前がでてくる?」

あ、そうか。と思う。オレは野瀬島ってヤツのこと全然、知らないけど、跡部さんも野瀬島ってヤツが芸名だって、知らないってことだ。

「えっと、伊織さんに聞いたんだけど、この野瀬島って人が治療院に来てるらしくって。芸名らしいっス……保険証が本名でしょ?」
「……なんだと?」
「本名は九十九……なんだったかな」

思い出そうとしても、どうでもよすぎて思いだせないンだけど。
なんかあんのかな、この会話の意味……。

「まさか……九十九、淳一か?」
「あ……そうだったかも、しんない」たしか、そうだ。九十九淳一。
「……越前、それはたしかか?」
「うん……あ、やば……守秘義務だった」

伊織さんが漏らしたのが悪いんだけど、さらにそれを第三者にバラすって、まずい気がする。まあでも、本名くらい、いいよね……?
全部、バラしてるわけじゃないし。

「越前、ほかにもなにか聞いているのか?」
「え」

そこから跡部さんの声色が、だんだんと鬼気迫ってくるように鋭くなってきて、オレは妙な気分になった。
なんだよ……なんか、怖いんだけど。なんなわけ?

「その話、知っていることがあるなら、すべて俺に聞かせろ」
「え? いや、でも……守秘義務だったかも、しんないし」

こんなこと伊織さんにバレたら、怒られそう、だし……。

「うるせえ、いいから聞かせろ!」
「ちょ、なに、跡部さん、急に怒鳴っ」
「いいか。お前、なにかできることはないかと言ったな? それがお前のできることだ。この状況を、変えれるかもしれねえんだよ」
「は……え?」

なんで跡部さんがそんなに焦ってんのかオレには全然、わかんなかったけど……跡部さんを救えるのかもしれないと思ったオレは、罪悪感にあおられつつ、結局、聞いたことをすべて、跡部さんに話した。
それがきっかけで、跡部さんの事態が急展開を迎えることになるなんて、オレは、思いもしなかった。





to be continued...

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