ざわざわきらきら_10


10.


忍足さんと、キス、しちゃった……。

「アンタさ、あたしの話、聞いてる?」
「えっ!」

目の前には吉井がいた。忍足さんとキスしてしまった翌日、金曜日のことだ。吉井とのランチはいつも決まって土曜日なのだけど、いてもたってもいられなくて、吉井に泣きついてしまったというわけである。
いけない。あのキスのことばっかり考えちゃう。忍足さんと、キス……あ、やばい、またドキドキしてきた。それと同時に、ほかのことも思いだしてキリキリもしだす。

「だから、キスはしたんでしょ? ていうか、向こうからしてきてくれたんでしょ?」
「そう……うん。絵本、見せたら、泣きだしちゃって。それで、なんか、勢い的な、感じで」
「泣いてたの? マジ?」やけにヘタれた男なのね、と、ぼそっと言いやがった。
「ヘタれてません! ちょっと、かわいいとこあるだけ!」それくらいわたしの作品が胸を打ったのよ、ふん。
「へえ。もっと好きになっちゃたんだ?」

グラスに入った炭酸水を飲みながら、吉井はニタニタ顔になった。今日は平日なので、お互いお酒は自重した……けど、こんな話をお酒も飲まずに相談している自分が、なんだか恥ずかしくなってきた。

「それで? その日もシャンプーで会ったわけでしょ? どうなったの?」
「ん……それが、さあ」

吉井とは1ヶ月ぶりの再会だった。前はすっかり痩せこけていた吉井だけど、どうやら旦那との別居が成立したらしい。まだ離婚には至ってないらしいけど、そろそろ不倫をしていた彼のもとへ向かう準備ができたとのことで、かなり元気を取り戻しているようだ。すっかりわたしの知っている吉井に戻っていた。
まるで女子高生のように、わたしと忍足さんの進展について冷やかしまじりに聞いてくる。なんだかバカにされているような気もしつつ、わたしがこんなことを話せるのは吉井しかいないし、この女はかなり恋愛のエキスパートなので、わたしもつい相談してしまうのだ。

「とくに、なにも、ない」
「は?」

吉井が、本格的に呆れた顔をしてこちらを見た。
キスをした昨日、忍足さんが出版社に原稿を持っていってから数時間後、夕方にはいつものようにシャンプータイムで顔を合わせたものの、改まってキスしたかと言われるとそうでもない。それには、いろんな事情があった。

「ちょっと待って。男と女がそんな感動的なキスして、その後なにもないって、そんなわけないでしょ」
「だって……なにもないもん」
「逆になにがあったか教えてくれる? どうせアンタが余計なこと考えたんでしょ」

吉井の鋭すぎる指摘に、わたしはなんて返事をすべきか悩んだ。
こういうときは、お決まりのフレーズをつかうしかない。

「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれ」
「村上春樹かっ」

食い気味に1ヶ月前と同じツッコミを受けたところで、わたしは、昨日のことを吉井に話した。





忍足さんは夕方になって、わたしの家に迎えに来てくれた。
連絡を受けて忍足さんの車に乗ったときが、キスしたあとの顔合わせとなったわけだけど、わたしはどんな顔して会えばいいかも、よくわからなかった。
忍足さんも、普通……というか、車のなかでたいした会話があるわけでもなく、彼は「ほな、行こか」と行って事務所に到着するまで、なにもしゃべらなかった。だからわたしも、なにもしゃべれなかった。
あのあともう少し時間があれば、違ったのかもしれない。でも締め切り時刻が迫っていたせいで、忍足さんは急いでわたしの家から出ていった。
つまり絵本を見せて、忍足さんが読んで、お互いが涙して、抱きしめられて、キスして、額にコツンして出ていったわけだけど、トータルしても5分程度、あの熱っぽい時間の余韻を感じる暇もないほどだった。
だからなんだろう、たぶん……とてつもなく気まずい空気が、わたしたちを包んでいた。
それが徐々に変化していったのは、いつものシャンプータイムのときだった。

「あー、そういや、結果なんやけど」
「えっ……」

顔合わせしてから「ほな、行こか」以来の発言だった。忍足さんはわたしが身動きがとれないときに限って、いつもしゃべりかけてくる。普通の会話なのに、数時間前にはキスしたことが頭のなかを占領していたせいで、ドキンッ! と胸が波打った。

「2週間後くらいに、連絡くれるらしいわ。せやから、まだわからん」
「そう、ですか。あ、反応はどうでした?」
「いや、目の前で読む感じやなかったから、ちょっとそれもわからへんねん。堪忍な」
「あ、いえいえ。あー、なるほど、そうでしたか」

そしてまた、沈黙が訪れた。どうすればいいというのだろう。「さっきキスしちゃいましたね、えへへ」とか言えばよかったのだろうか。でも、わたしにそんな勇気はなかった。
ただシャワーとシャンプーの音だけが流れる時間は、まるで美容院そのものだった。いや、美容師だってもう少し話しかけてきそうなもんだが、忍足さんがなにを考えているのかまったくわからなくて、わたしはただ貝のようになるしかなかった。
そのときだった。わたしのお腹の上で、忍足さんのスマホがぶるぶると震えた。あの合コン待ち合わせ電話の件以来、忍足さんはなぜかシャンプー中に、わたしのお腹の上にスマホを置くようになったからだ。「俺、出れへんから。ここにあったら伊織さんが取ってくれると助かるねん」とか言っていたので、そうなっている。
はっとして確認のためにスマホ画面を見ると、メッセージが通知センター部分に連続で2つ出てきた。

『忍足さん、このあいだはありがとうございました』
『朝まで一緒にいれて、すごく嬉しかった』

……。
これである。いやね、見る気はなかったんです。でも見えちゃったんだもん。
忍足さんはシャンプーに夢中になっているのか、わたしがほんの少しだけスマホを傾け、それを見ていることにも気づいていない(たぶん、なにも言ってこないから気づいていなかったはずだ)。
朝までとは、なにごとか。どう考えてもこのあいだの合コンにいた女だろうと、わたしは完全に、イラッとした。
あの日だって、合コン中だってのにわたしにメッセージやら電話やらしてきて、ちょっと胸をときめかせていたというのに。そこからのキスだったから、はっきり言って、気まずくてなにもしゃべれなくったって、舞い上がっていたというのに、これである!

「でもな伊織さん、俺、あの絵本、いけると思うねん」

忍足さんが、ぽつぽつとしゃべりはじめた。でも、わたしはそれどころじゃなかった。その誰かわからない女からは(女の名前だ、どう見ても!)、そこから立てつづけにメッセージが入ってきたからである。

「あんな心があったまる絵本、俺、読んだことない。はじめてやった」
『あたし、忍足さんみたいな人、はじめて』

どういう意味だ、それは。なにがどうはじめてだったわけ? なにを指してるの!?

「って、褒めすぎやろか。まあ、俺のひいき目もあるかもやけど」
『モテるだろうから、あたしなんて相手なんてしてもらえないと』

もらえないと? 思ってた、ですよね。そこにつづく文章って。
ってことは、相手してもらったってこと? なんの? なんの相手? それって朝まで一緒にいたことにつながる行為? ほ、ほ、ホテルとかで、朝まで? そういうアレですか。

「でもホンマに、胸にくるもんがあったっちゅうか……嬉しかった、ちゅうか」
『優しくしてくれて、嬉しかった……』

や、優しくって……なにを? 嬉しかったって、なにが? そしてその、意味深な「……」は、なに!?

「あの内容ってさ……あの、犬のモデル……なんやけどさ」
『また、会ってもらえますか? ふたりきりで。忘れられない夜』

いちいち文章が切れている! 通知センターだから仕方ないけど! 忘れられない夜ってなに!? 忘れられない夜だったからってこと!?
も……忍足さんって、なんなの!? そ、そうやってすぐに、女に手え出すの!? じゃあわたしとのキスは、なんだったの!?

「あれって俺のことって……思ってええんやんな?」
「……」なにが、忘れられない夜だ……!
「伊織さん、聞いとる?」

なにを聞かれていたのか、全然、わからない。とにかくメッセージが頭にきすぎて、忍足さんの声はわたしの耳には入っていなかった。
それでも名前を呼ばれたので、ほんの少しだけ傾けていたスマホを、わたしはサッと元に戻した。ぶるぶるもしない。あれでメッセージは終わったらしい。

「なにか」名前を呼ばれたことはわかったので、聞き返した。
「え……な、なんか怒ってんの?」
「いーえ? 別に。なにも怒ってません」怒っていた。声がトゲトゲしているのが自分でもわかる。「なにも、怒ってません」しかも、2回も言ってしまった。
「……み、耳にまた泡、入ってしもた?」

忍足さんは慌てるようにわたしの耳をタオルで拭き取った。そんなもの入っていたとしても気づけなかっただろう。それぐらい、わたしはショックを受けていた。
合コン参加もちょっと嫌だったのに、あげく、合コンからもう2週間近くすぎているから、いつだか知らないけど、いつであろうが朝まで女といたなんて、どう考えても、そういうことでしょうよ。だって合コンだもん。
なのに、なのにわたしに、あんな、さっきあんな、思わせぶりな涙を見せて、キスしてきて……。
そうだ、だいたいこの人はわたしを騙すために簡単にキスするような人なんだ。最近の優しさにうっかり惚れ直しまくってたけど、プレイボーイに決まってる。こんなイケメンで、好きでもない女にキスできるんだから!
だけど……だけどこれまでの忍足さんが嘘だなんて思えないっ。でも、でもいまの通知センターからのメッセージは……。

「……うっ」
「え……え、ちょ、待って、な、なんで泣いてるん!?」

そりゃわたしは彼女でもなんでもないから、忍足さんを責める権利なんかないし、独身でフリーの忍足さんに女が何人いたって、咎められることでもない。でも、わたしとしては、だったらあのキスはなんだったのってことだし、怪我してから毎日シャンプーしてくれるほどの、このいたれりつくせりは愛の証じゃなかったのって……うう、ううううう、悔しいっ!

「ない、泣いてませんっ!」
「いやめっちゃ涙でてるしっ! な、なんで? なんで? 手え痛い? どないした?」
「う、手が、痛いです!」ごまかす材料はそれしかなかった。
「え、やっぱりそうなん!? 無茶するからやって! 痛み止めある? あ、俺あるかも! ちょ、ちょっと気持ち悪いかもやけど、このまま待っとって!」

忍足さんは手についた泡をシャワーで落としてから、バタバタと事務所の奥に消えて、1分もしないうちに、痛み止めとペットボトルを持って戻ってきた。

「いま、飲ませたるからな。そんままでええよ」
「……」泡ぶくなままのわたしの頭を見ながら、わたわたとしている。「なんで」
「え? なにが? やって手え痛いんやろ? 伊織さんが痛いの、俺、嫌やもん」

なんで優しくするの? なんで抱きしめてきたの? なんでキスしたの?
その言葉が、出てこない。
もうわたしは、忍足さんがなに考えてるのか、全然わかんなくなってしまった。
あの絵本は、当然、忍足さんのことを想って描いたものだ。わたしのために、いろんなことを犠牲にしてくれてる忍足さんのことを、大好きになっちゃって……全部、わたしのためだったから、それで、期待してた自分もいる。いまだって、こんな、慌てて。
だからキスしてくれたとき、すごく嬉しかったのに。でもわたし、何度も言うけど、彼女でもなんでもない。キスしたからって、彼女面すんなって感じだろうか。もう、わかんない。
でも……でも好きすぎて、もう後戻りできない。
アラサー女がこんなことでいんだろうか。彼氏でもない人の女性関係にこんなに動揺して、もっと堂々としていたいのに、全然、冷静になれなくて。

「あああ、伊織さん、そんな泣くほど痛いんか。めっちゃ泣いてるやんっ。口、開けて。ほら」

仕方なく言われるがままに口をあけると、錠剤をひとつ放り込まれて、ゆっくりとペットボトルの水を傾けてくれた。この優しさは、ただの介護ですか? 忍足さん……。

「あんな、知り合いにさ、リハビリちゃうけど、ええ治療院を教えてもらったんや。ゴッドハンドやねんて。明日にでも、そこ行こうや」
「も……もういいです、そんなのっ」

もうそんなに優しくされたら、もっと好きになっちゃうから! これだからイケメンに惚れるのは嫌なんだ! 天然たらし! バカ! セクハラ野郎!

「えっ、なんで!? 行こうやっ。もう予約もしたし。ヤケんなったあかんよ。痛み、絶対ようなるから、な?」
「いいですってばっ!」
「ど、どうしたん伊織さん。なんでそんなご機嫌ナナメなんや。行こう? な? 明日の15時や。俺、送ったるから。な?」
「……いいって、言ってるのに」
「そんなん言わんで。な? 痛いんやな、かわいそうに。大丈夫や。絶対治るから」

困惑したままの忍足さんは、何度もわたしの腕をなでながら、「泣きやんで? 伊織さん泣いとったら、俺まで泣きそうんなる」とか、また天然に思わせぶりなことを言って、そこからまたシャンプーを再開し、ぐずぐずと泣いていたわたしに、ずっと優しい言葉をかけてくれた。





わたしの話を聞き終えた吉井は、はーっと盛大なため息をついた。

「ノロけてんのアンタ? 殺されたい?」
「ち、ノロけてない! わたしはすごくショックだったの!」
「そんなの、アンタのただの誤解かもしんないじゃん」
「誤解!? だって『忘れられない夜』だよ!?」
「妄想爆発したバカ女かもしんないでしょ? つづく言葉なんていくらだってあるじゃん。『忘れられない夜にしたいんです』とか」

この女はスーパーポジティブなんだろうか。吉井ほどの美貌があれば、そんなの余裕で流せるということなのか。

「朝まで一緒にいて、相手してもらって、優しくしてもらって、忘れられない夜なんて、それしかないじゃん! あげく、また、ふたりきりで会いたいとか!」それってふたりきりで会ったってことでしょうにっ!
「わかんないってそんなの。そういうの、よくあるんだよ、そういう積極的な女は意味深なこと送ってくんの!」
「なんでそんなこと吉井にわかんのっ」
「あたしの彼氏がそうだったもん。客の女から口説かれまくってさあ。なんならほかの女が見ればいいと思ってるようなこと送ってくんのよ!」
「なにそれ。彼女とかに、勘違いさせるようにってこと?」なんという高等技術だろうか。
「そういうこと! 関係を壊そうとする女なんかごまんといる。モテる男にはつきものなんだよ、そういうのは」

彼氏というのは、不倫相手のことだろうか。あの旦那を捨ててその男に走るくらいなんだから、その人も余程モテるんだろう。

「それに、もしその内容がアンタの想像どおりだったとして、結局は好きなんでしょアンタ? その、ナントカって人のこと」

吉井はずっと、忍足さんを「ナントカ」と言う。別にいいのだけど、いい加減、覚えてくれてもいいようなものだ。

「好き……だよ、でも、遊びだったら嫌なんだもん」
「バカなのアンタ? その通知センター女は遊びだったとしても、アンタが本命に決まってんでしょうよ」
「え」

単純なもので、その「本命」という言葉に、わたしは顔が赤くなってしまった。
忍足さん……遊びまくってても、わたしが「本命」、なのかな……。
プレイボーイの彼女になるのは嫌だけど、忍足さんの彼女にはなりたい。ああもう、どうしたらっ。プレイボーイの彼女と忍足さんの彼女は、イコールかもしれないってのに!

「そりゃそうでしょー? 普通ねえ、最近会ったような女に、いくら怪我したからって、毎日つきっきりでご飯食べさせて、シャンプーして、あげく入院費払ってシャンプー台まで買って、それで本命じゃないほうがおかしいでしょ。それ、好きじゃなくてやってんだったら、相当に頭おかしいよ」

好きでやってても頭おかしいと思ってんのに、こっちは。と付け加えて、吉井はまた、ふーっと長いため息を吐いた。

「本命……」わたしが、忍足さんの、本命……? やだ、嬉しい。
「だけど、アンタはまだ彼女でもないんだから、はっきり言って口出す権利ないんだからね。彼女になったとしても、アンタと付き合う前の言動に口出す権利は、ひとつもない」

めちゃくちゃ正論だ。こういうのを世間ではロジカルハラスメントというのではないかと、悪態をつきたくなるほど、なにも言えなかった。

「それに、相手は30歳男子でしょ、ちょっとくらい許してあげなよ、合コンお持ち帰りくらい。火遊びなんだから」

わかってる……それじゃなくても忍足さんは、なんかエッチな雰囲気がふんだんに出ている。だから、頭では理解できてるけど。

「……うー、あー! でも嫌だあ!」
「ガキ! 年上の女らしくしないと、愛想つかされて終わるよ!?」
「年上の女らしくってどうすればいいの? わたし、忍足さん年下に見えたことないよっ」
「だからそれは……っ」

吉井からのアドバイスをもらって、なんとか年上女として箔をつけようと思ったときだった。
吉井が、窓の外を見て、急に目を見開いて固まった。

「……吉井?」

まるで時間が止まったように、吉井が動かない。わたしが彼女の視線の先を追うために振り返ると、そこには、吉井の妹さんが男の人と歩いていた。

「あれ……ねえ、あれって妹さんだよね?」

結婚式の二次会で会い、彼女はテキパキと幹事をしてくれていたので、わたしはよく覚えていた。
そう吉井に問いかけると、吉井は妹さんを見ながら、さっきまでのロジハラの勢いがどこにいったのかと思うほど、呆然とつぶやいた。

「……そうだよね。あれ、あたしの妹だよね」
「は? なに言ってんの吉井」

ボケたのかと思って笑ってみたが、吉井は全然、笑わない。
妹さんは、二次会で会ったときは吉井とは正反対のタイプに見えた。カチッとしていて、生真面目で、なにより、吉井が持っているような派手さがない……と、思っていたのに。
それがどうだろう。いまここから見える彼女は、とてもきらきらしている。あきらかに、二次会のときよりも女になっていた。
だから、吉井も呆然としちゃってるのか。姉から見てもすごい変化、ということなのか。
わたしは、おそらくその変化の根源であろう、妹さんと手をからませて歩いている男のほうに話題を移した。

「カッコいい彼氏、連れてるねー。姉も姉なら妹も妹なんだねえ」まあ、吉井の妹なんだから、美人に決まっているんだけど。どう考えても、あの彼氏が妹さんを女にしたな。
「……あの子、恋愛できるタイプじゃないのに。ずっと処女だと思ってた」

まだ呆然としながら、昼間に、ものすごい真顔でとんでもないことを言う。妹に彼氏がいることに、そんなに驚いちゃったのか。
もう一度、振り返ると、妹さんはまだ男性と手をからませて、向き合っている。きっと平日のランチデートなんだろう。とても微笑ましく、うらやましい。想い合っているお互いの視線が、距離がわりと離れているここから見ても、甘ったるく伝わってきた。

「吉井さ、妹に厳しすぎなんだよ。あれのどこか処女なわけ」意外とやり手だったりしてー。とおどけつつ、わたしはふたりの様子を見ながら言った。
「……彼なの」
「そりゃ、あれだけ見つめ合ってたら彼氏だよねえ」ふたりして、信じられないくらい熱っぽい視線だ。
「そうじゃなくて……」
「え?」
「あの人なの、あたしの不倫相手」
「は?」

その、思ってもみなかった発言に、雷をうたれたような衝撃が走る。
妹さんと彼氏を見ていたわたしの視線は、一瞬は吉井に戻り、そしてまた、妹さんの彼氏に戻った。
ふたりは、熱いキスをしていた。真っ昼間の、歩道の上で。
妹さんが抵抗したせいか、そのキスはすぐに終わったけど、それでも、「熱い」とわかるキスだった。
やがて妹さんは真っ赤になってうつむき、彼氏に怒るように、甘えるように胸をぽかすか叩く。そんな妹さんを愛しそうになでてから、彼氏は手を振って帰っていった。
嘘でしょ……? あの彼氏が、吉井の不倫相手だった人ってこと!?

「吉井、え……あ、あの彼? 嘘でしょ!?」
「ほん、と……」

視線を目の前の友人に戻すと、震えていた。その大きな瞳から、ぽろ、と涙が流れていた。
そんな吉井の姿を見たのは、はじめてのことだった。





吉井とのランチを終えてから、自宅に戻ってすぐに、忍足さんが迎えに来た。
衝撃が強すぎて、ぼうっとしていたわたしに、忍足さんは心配そうに声をかけてくる。

「手の調子、どない?」
「あ、はい……今日は、痛くないです」昨日も本当は、痛いのは胸だったんだ。
「ああ、よかった。ほな、行こか」

吉井は、あのあとすぐに帰った。「あたしと、これ以上ないってくらい、愛しあってたはずなの」と涙ながらにつぶやいた彼女の言葉が、忘れられない。どうやら、妹さんと不倫相手がたまたま知り合ってしまったことが、発覚のきっかけになったらしい。それで、妹さんと不倫相手は、できちゃったということなのだろうか。
話を聞く限りでは、吉井とあの彼氏がこれ以上ないほど愛しあっていたのは、ほんの少し前までのことなのだ。吉井のやったことは、たしかによくない。彼を4年ものあいだ騙していたそうだ。だから既婚だと発覚したときは、彼だって相当に傷ついたんだろう。でもいくら傷ついたからって、そんな短期間で、不倫相手の妹に手を出すって、いったいどういうこと……? 意味がわからない。あのイケメンは相当モテるだろうから、そりゃ女はよりどりみどりだろうけどさ。でも見た感じ、妹さんにゾッコンだった……じゃ、吉井が遊ばれてた? まさかね、あの吉井が遊ばれるなんて。

「伊織さんなんや、昨日からずいぶんとこう……しゃべらんな?」
「え」
「なんか、ずっとうわの空って感じやし……」

俺の質問にも、答えてくれへんかったし……と、ぼやいている。
忍足さんがとなりにいることも忘れて、わたしはあのイケメンにふつふつとした怒りを感じていた。となりにいるのもイケメンだ。そして忍足さんも遊んでいるかもしれない。モテる男ってみんなそう? いや、新次はそんなことなかった。一心にわたしだけ見てくれてた。

「すみません、ちょっと考えごとが」
「……キス、したから?」
「えっ……」

わたしの言葉をさえぎった忍足さんの発言に、急激に、心拍数があがったのが自分でもわかった。
昨日はなにも言ってこなかったくせに、なんでいきなり、こんな、狭い車内でふたりきりのときに、そんなことを言いだすんだ、この人は……っ!

「ちゃんと話せてなかったけど、さ。あれ、衝動的とか、ちゃうから……」

忍足さんは正面を向いたまま、そう言った。彼らしくない、ぽつ、ぽつ、としたしゃべりかたで、また、心拍数があがっていく。もしかして、これ、く、口説かれてる?

「はじまりがあんなやったで、信用してもらってないんかもやけど……昨日のは、俺、本気やったで……その」
「……」そ、その、なんですか。
「時間もなかったから、ちゃんと話せてなかったけど……あの絵本、俺のことやって、思ってもええんやろ?」

そうに、決まってるじゃないですか。
という言葉が、今日になっても出てこない。いや、今日だからこそ、かもしれない。
今日はちょっと、イケメンが怖い。吉井ですらあんなにショックを受けるのに、わたしが忍足さんと付き合って浮気とかされたら自殺したくなるかも……だって絶対、いま以上に好きになっちゃうし……。
わたしが吉井みたいに、あんな忍足さんと誰かの姿を見かけちゃったら、耐えれない。

「伊織さん……? なんで、なんも言ってくれへんの?」
「あ……そ、その」
「なんで、黙ったままなん? 伊織さんは、違うっちゅうこと?」

信号待ちだった。車が停止しているせいで、忍足さんがこっちをしっかりと見ていた。
その瞳が、ゆらゆらと揺れている。

「昨日からずっと……その煮え切らん態度、なんなん? 俺のこと、男として見てくれる可能性はないん?」
「忍足さ……」
「俺、伊織さんのこと」

プアー、と、うしろの車からクラクションが鳴り響いた。忍足さんもわたしもビクッとして、前を見ると信号が青に切り替わっていた。

「あ、あかん」

急いで車が発進していく。それとほぼ同時に、忍足さんのスマホが中心にあるカップホルダーのなかでぶるぶると音を立てて震えだした。

「ごめん、伊織さん、誰からかだけ教えて」車は右折に差しかかっていた。少しも表示を見る余裕がない、ということだ。
「あ、はい。えっと……千夏、さん? と出ています」

名前だけが、表示されていた。その時点では、そこまで気にならなかった。
だけど、その名前を告げた瞬間、忍足さんの顔色が、一気に変わったのだ。

「え?」
「え? えっと、千夏、さんです」

忍足さんは、運転中はまったくスマホを見ない。チラ見くらいはすることもあるんだろうけど、わたしをとなりに乗せているときに、そんなことをしたこともない。
その、忍足さんが。右折して直線道路になった瞬間に、わたしの手からスマホを取って、その表示をたしかめた。

「……忍足さん?」

電話は、とらなかった。そのまま、彼はスマホをカップホルダーに戻した。もちろん運転中だからということはわかっている。でもそれだけじゃない空気を、わたしはたしかに感じ取った。そしてもう、相手が誰なのかということも、気づきはじめていた。
その表情は、つい、このあいだわたしが浮かべていただろう表情と、同じなんじゃないだろうか。

「……出ないん、ですか?」
「……運転中やし、あとで、かけなおすで」

切なそうな、困惑した、忍足さんの表情。
昨日までなに考えてるのか全然わからなかった忍足さんの心が乱されているのが、いまは、手にとるように、はっきりとわかる。
同時に、わたしの胸が、またキリキリと痛みだした。

「……もう、停めてくれていいですよ?」
「え?」
「出たいんでしょ?」
「なんで、そんなこと……」
「元カノでしょ? その人」

つい、責めるような口調で、言ってしまっていた。そして、忍足さんは黙り込んだ。それが答えだった。
はっきり覚えてる。はじめて忍足さんと食事した日、忍足さんは元カノの話をしてくれた。付き合って3年目の彼女に結婚を申し込んで、結婚式の前夜に、消えた恋人。それが5年前の大失恋で、人生の挫折だったと言っていた。

――俺、この人を幸せにするために生まれてきたんやって、信じてやまへんかったんですよ。絶対に彼女やなきゃあかんかったんです。せやけど、見事に振られてもうて。それから5年、まともに恋愛できてないんです。

忘れられない人なんじゃないか。
新次だって、わたしがプロポーズを断って5年前に別れていたのに、まだわたしを好きでいてくれた。そういう人が、忍足さんにもいる。
それに忍足さんは、わたしと新次なんかより、もっともっと、つらい別れをしてる。
絶対に彼女じゃなきゃダメだった、彼女を幸せにするために生まれてきた……その想いが、確信がいまもつづいているから、5年もまともな恋愛ができていないんじゃないのか。

「……忍足さんまだ、その人のこと、好きなんじゃないですか?」

また、責めるような口調で、わたしは口走っていた。
いつのまにか、治療院の近くに車が停められていた。この車を出なきゃと思うのに、右手だけじゃなく、足が動かない。
まともに恋愛できないから、合コンで会った人と気まぐれに遊んだりしてるんだとしたら?
わたしが本命だったとして、付き合うことになったとして、結局それでもまともに恋愛できないって、忍足さんが判断したら?

「そんなん、ちゃうよ」

見たこともないくらい、忍足さんの顔は、動揺していた。
どうしよう、怖い。怖くて、忍足さんと付き合いたいのに、嫌なことばっかり考えちゃう。

「……どうだか」

だからほら、また、天の邪鬼が発動してしまっている。
これは、わたしなりの防衛だった。傷つくなら、付き合ってからじゃなく、いまのうちに傷ついて終わったほうがマシだ。

「は……ちょお待ってよ伊織さん、なんでそんなこと言うん?」
「だって……だって5年も前の人なのに、忍足さん、すごく恋しそうな顔してるから」
「してへんわっ!」
「してます! いまでもすごく、会いたいって顔、してますよ!」

なんでこんなことを言ってしまっているのだろう。忍足さんは否定してくれているのに。

「なんでそんな……決めつけんなやっ!」
「会ったらいいじゃないですか! 会いたいんでしょ!?」

彼女でも、ないのに。思いっきり、忍足さんを責めている。思いっきりの彼女面が、自分でも滑稽だった。
だけどもう、こうなったら止まらない。

「別にわたしなんて、キスしちゃっただけで、彼女でもないんだから、会えばいいんですよっ!」

年上の女らしくしろと、あれだけ吉井に言われたというのに。嫉妬が、止まらない。

「ああそう……そういう感じか。ほな言わせてもらうけどな、お前かて、よう自分のこと棚に上げて、そんなこと言うなあ!?」
「はい!?」

忍足さんの顔が、あきらかに怒っていることに、わたしはそのとき、ようやく気がついた。
棚に上げて、というワードに、重きが置かれていたからだ。

「伊織さん、人のこと言えるんか!?」
「な、なんでわたしの話に……!」
「自分かて、ついこないだまで5年も前の男に口説かれて、デートまでして、思いっきり発情しとったくせに!」
「だ……誰が発情!?」

この挑発に乗っちゃいけないと思うのに、否定したくて声が大きくなってしまう。

「しとったやないか! 俺の言うことなんか聞きもせんと、せやからこんなことになってんやろ!? どうせあの日、ホテルにでも誘われとったら、行っとったくせに!」
「そ……またそうやって! 忍足さんなんだかんだ言って、わたしのこと責めてるじゃないですか!」
「責めとるよ! あんなヤツに振り回されんと、俺だけ見とってくれたらよかったんや!」
「そ……じゃ、じゃあ、じゃあ忍足さんはわたしのことだけ見てるって言えるの!? 合コンで会ったばかりの女、お持ち帰りしたくせに!」
「はあ!? してへんわ! お前さっきからホンマ、なんの話してんねんっ!?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみたらどうですか!?」
「はっ、ようそんなありきたりでしょうもないセリフ思いつくなあ!? それで作家やって? 呆れるわ! そんなんやあれだけ苦労して描いたのも落ちるかもな! 線なんかめっちゃいびつやったし、その右手も無駄死にやっ」
「な……なんて言いましたいま!?」

ブチン! ときた。
話があっちこっちいってるわたしもわたしだけど、忍足さんも忍足さんだ! 挑発だってことはわかってても、ここにきて作家性を否定して、しかも、わたしがあれだけの想いを込めた作品に、ケチつけるなんて……超、超、超心外だった!

「もういいです! 帰りはタクシーで帰りますからおかまいなく!」
「ちょ……、そんなんあかん!」
「ほっといてくださいっ!」
「ほっとけるか! し、シャンプーどうすんねんっ!」
「しなくていいです! 実は面倒でした! 自分でできますし! たまにはひとりにしてください!」
「な……ちょ、伊織さっ」

バタン! と思いきりドアを閉めた。
わたしはそのままずかずかと、憤慨に憤慨を溜めこんだまんま、目の前の治療院に入っていった。





ゴッドハンドと呼ばれている治療院の院長先生は、とても溌剌とした人だった。見た目、たぶん年齢はわたしとあまり変わらない。それで開業しててゴッドハンドとか言われてるって、もう人生って本当に不公平だと思う。おまけに、わたしなんかよりも大人の雰囲気がすごい聡明な美人だ。吉井とはまたちょっと違うタイプの……はあ、都会ってこういう人がゴロゴロいる。だから忍足さんがお持ち帰りするのも、無理はないのかもしれない。

「なんだか、カリカリしてらっしゃいますね?」

しかも、ゴッドアイも持ち合わせていらっしゃる。恋愛でもこの能力は活躍するんだろうか。わたしにもほしい。
わたしがぎょっとした顔をすると、先生はくすくすと微笑んだ。

「ふふ、すみません。ご新規の方にはわざと、こうしてくだけた話をするようにしているんです。心を開いてもらったほうが、体の不調も伝わりやすいので」
「そうなんですか……あのでも、カリカリしてるの、どうしてわかったんですか?」
「体温と脈拍が高くなっておられるから。妊婦さんかなと思ったんですけど、妊婦さんがクライミングされるわけないですからね。派手にやっちゃいましたね」
「はは……あー、お恥ずかしいです」

触れてわかったというわけだ。すごい……。しかも、怖いくらい不思議なのだけど、彼女に右手を触られても、ちっとも痛くなかった。リハビリのときは動かすだけで痛いのに。

「なにか嫌なことでも、あったんですか?」
「……はい、ちょっと……好きな人と、うまくいかず」
「あら。喧嘩でもしました?」
「な、なんで、そんなことまでわかるんですか?」

はー、なるほど。と先生はひとりで頷いた。なんだか占い師に見てもらっている気分になる。なんでもわかっちゃう先生が怖い一方で、この人に話を聞いてもらいたくなった。すごく不思議な人だ。触れられてるだけで、丸裸にされている気分。

「いや、わたしもさすがにそこまで細かいことはわからないんですけどね、前もあったんですよ、こういうこと。当てちゃう、みたいなことが」エスパーなのかなあ。とつぶやいている。自覚していないのが、また怖い。「そっちも派手にやっちゃったんですか?」
喧嘩のことを聞いているんだろう。「やっちゃいました……ひどいこと言っちゃった」
「ん……売り言葉に買い言葉?」ドンピシャすぎて信者になりそうだ。
「はい……もうどっちが先に売ったのかもわかりません。よく喧嘩はするんですけど、今回のはちょっと、複雑な感じなんです」
「複雑?」
「その……彼氏では、ないんです。でも、キスをして……でも、いろいろひっかかるところがあって、本気にしていいのかわかんないんです」

言ってしまった。なんでこんなにしゃべらされてしまっているんだろう。とにかく右手が気持ちいい。しかも先生は右手だけじゃなく、その上の肩のほうまでマッサージしてくれている。麻酔にかかっているような気持ちよさで、わたしは思いを吐露していた。

「大好きなんですけど……不安要素ありすぎて、素直になれないんです」
「素直に大好きって言えるのは、うらやましいけどなあ」

先生の言葉に、胸が痛くなる。ほかの人には言えるのに、忍足さんには言えない。
こうして口にするたびに思う。忍足さんのことが、大好きだ……。だから、もちろん付き合いたい。けど合コン女のお持ち帰りも気になれば、やっぱり決定的にあの元カノのことが気になる。電話がかかってくるなんて、それこそ忍足さんにとっては青天の霹靂だったんじゃないだろうか。あの驚いた顔は、絶対そうだ。

「元カノ、ですかあ」
「わたしもつい最近元カレと会ったんですけど、やっぱり情があるじゃないですか」
「ん……」
「そういうの、持ってかれちゃうじゃないですか、気持ち」
「まあ……そういうことも、ありますよね」

キスしたときはわたしが好きだって思ってたかもだけど、あんな動揺した顔見せられたら、一気に持ってかれちゃってるんじゃないかって。
なんでこんなタイミングで、というお門違いの怒りも、当然のようにわいてきた。

「ああいうタイミングって、神様のいたずらにしてはひどいなあって、わたしも思うことありますよ」
「……先生、たくさん恋愛してそう」
「いやいや、全然です、全然……でも元カノさん、どんな用事だったんでしょうね?」

そうなのだ! なんの用なの、いまさら、あの千夏って女。たしか2歳上って言ってたから、わたしと同い年のはず。
結婚したくなった? だから忍足さんにいまごろ電話かけてきた? いくらめちゃくちゃ愛されてたからって、ずるすぎる!

「本気なのかどうかって、難しいですよね。この歳になると、いろんなしがらみがあって、好きだと思っても相手の幸せ考えたら、本能のままに動けないというか、ね」
「相手の幸せ……ですか」わたしのような幼稚な考えとは違うことに、まず、敗北感を覚えてしまう。
「でも、その彼は、あなたといることが幸せなんじゃないですかね」本能のままに動いている気がします、と、笑っている。
「え、ど、どうしてですか?」
「え、だって。毎日会いたいんでしょ、あなたに」
「え?」
「あれ、それはお気づきじゃなかった?」

おどけたような表情で、先生は微笑んだ。

「毎日の補助も、シャンプーだって、並大抵の覚悟じゃないでしょう。もちろん彼の優しさだったり、してあげたい気持ちもあるでしょうけど、実は彼の利己的な気持ちだと思いますよ」

利己的、という賢そうな言葉に、わたしはポカンとしてしまった。
忍足さんは全部、仕事のパートナーであるわたしに同情して、あのイケメン特有である天然の優しさを発揮しすぎてしまっている、と思っていたからだ。
それが吉井からすれば「本命」だったわけだけど、「利己的」、というのは、つまり……。

「え、自分のためってことですか?」
「そりゃそうですよ。彼をそこまでさせているのは、そうすればあなたに毎日会えるからって理由が、いちばんだと思いますよ? とっくに本能のまま、あなたを束縛しちゃってるんですよ、彼は」

その言葉に、胸がぎゅぎゅぎゅぎゅ、としめつけられた。
わたしに、会いたいから……? だから忍足さん、毎日あんなにご飯補助のこととか、シャンプーのことも、口うるさく言うの?
さっきしてしまった喧嘩の後悔が、怒涛のように押し寄せてきた。
やっぱりここは素直になって、忍足さんに、好きだと伝えなきゃいけない……忍足さんが、プレイボーイだったとしても。忘れられない人が、いたとしても。だって、それでも結局、わたしは忍足さんが好きなんだもん。忍足さんも、求めてくれてたのに。

「あら、なんかまた体温あがってきましたよ?」
「先生……」そんなことまで、気づかなくていいです。
「はい?」
「先生って、いったいどんな恋愛してるんですか?」

こうなったら先生の恋愛話も聞きたい。遠慮なく聞くと、カピン、と先生の顔が固まった。さっきまでのものすごい貫禄が急に吹き飛んで、まるで少女のようになっている。
ああ、このギャップは、男はすってんころりんしてしまうかもしれない。失礼だけど、かわいい。

「それはー……また、今度……!」
「先生、モテるでしょ?」
「モテません、めっそうもない!」ぶんぶんと、首を振っている。絶対に嘘だ。
「……生意気な年下の男とかに、言い寄られてたりして」

わたしがそう言うと、先生はなにを思いだしたのか、今度は顔を真っ赤にした。

「先生……?」
「……あ、あなたもエスパーなんじゃないっ!?」

とても、慌ててらっしゃった。




治療院を出たのは、16時半を過ぎたころだった。
先生は右手だけじゃなく、肩やら腰やら頭から、いろんなところを診てくださった。ものすごく体が軽くて、びっくりする。これで右手さえ動けばいいものが描けそうだというのに、肝心の右手は、思うように動きそうにない。
それでも、無理したせいで痛めていた鈍痛はすっかり消えていた。まさにゴッドハンドだ。
治療院を出てすぐ、わたしは辺りを見渡した。忍足さんの車がひょっとして迎えに来ているかな、と思ったけど、やっぱり来ていなかった。わかっていたのに、しかも自分から遠ざけておいて、落ち込んでしまう。

結局わたしは、そのまま忍足さんの事務所の前まで、来てしまっていた。
先生といろいろ話していると、かなり傷つけちゃっただろうなと、いまさらながら反省している自分がいたからだ。
好きと伝えなくちゃいけないけど、その前に、謝りにいくべきだ、と思った。
いろんな課題はもちろんあるけど、合コンだって、たしかに、わたしが新次とデートした身分で嫌がれる立場でもないし、元カノだって……新次に胸をときめかせたわたしが嫌がれる身分でもない……。
よく考えたらあんなイケメン好きになって、ライバルがいないほうがおかしいんだ。それに、うっかり忘れそうになっていたけど、忍足さん今日、めっちゃくちゃ口説いてきてくれてた。
わたしは合コン女や元カノと違って忍足さんと深い関係にはなってないけど、そんなことに引け目を感じている場合じゃない。
本気だって言ってくれたんだから、信じなきゃ……。
わたしは思い切って、事務所のチャイムを押した。
扉が開くまで、いつもより少し時間があった。そしてようやく開かれたと思ったら、忍足さんの顔は、困惑していた。

「……なにしに、来てん」言葉は、怒っている。
「その……あのままなのは、違うかなって」
「伊織さん……」
「それにやっぱり、シャンプー、してほしくて、ですね……あの、今日はごめ」

と、そこまで言いかけたとき、頭をさげたのと同時に、事務所の玄関に女物の靴があるのが見えて、わたしの思考が一時停止した。

「あ……いや、あの、な」

そんなわたしに気づいたのか、忍足さんが言いにくそうにこちらを見た。
まだきちんとオープンもしていないこの事務所に、いったい誰がいるというのだろう。そんなの、考えるまでもなく明白だ。

「どいてください」
「あ、ちょ、伊織さ」

ぐいっと忍足さんを押しのけてなかを覗くと、こちらに背中を向けて座っている、背中から見ても綺麗な人が、そこにいた。
じわじわと、体が沸騰していく。ふうーっと、自分でもわかるくらい、大きな深呼吸をした。

「誰、ですか」
「いや……」
「早く教えてください」
「そ……元カノ、や」

言われなくてもわかっていた事実を耳にして、わたしのなかに、激しい嫉妬がうずまいた。





to be continued...

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