TOUCH_09


9.


MRI検査を受けているあいだ、ずっと伊織さんのことを考えていた。
伊織さんの施術のおかげか、膝の腫れはかなりひいてたみたいだ。手術も3週間後には行えるって言われたけど、ロンドンで手術を受ける気にはならなかった。
とにかく、日本に帰りたい。
あんなに愛した伊織さんが傍にいないなんて、オレには考えらんないから。
医者からは、手術は2、3ヶ月以内に行えば問題ないと説明された。それならと、オヤジに「日本に帰りたい」と告げた。

「そうか。わかった。日本で1年くらいゆっくり休養するのもいいかもしれねえな。手つづきにいろいろ時間はかかるだろうが、来月には戻れるように手配してやる」
「ん……サンキュ、オヤジ」

オヤジは、それきりなにも聞いてこなかった。ただオレの気持ちを汲んでくれた。いつもうるさいオヤジだけど、いざってときは、やっぱ父親なんだなって思う。
オレ、伊織さんがいなくなってすっかり心が弱ってる。こんなこと、いつも思わないのに。
だから翌日、跡部さんに電話をかけた。跡部さんからは昨日着信が入ってたけど、オレが出れる精神状態じゃなかったから。

「越前、大丈夫なのか」
「心配してくれてんスか? 相変わらず世話焼きッスね」
「減らず口がたたけるようなら、とりあえずは問題なさそうだな」

ふっと笑う声が聞こえた。跡部さんがいるのは東京。夜の8時あたりだと思う。伊織さんも同じ東京で、夜8時の空を見てんのかな……。
跡部さんが心配をしてくれてるのは、素直に嬉しかった。この人、中学のころからそうだけど、かなり世話好き。オレのこと何度も助けてくれてる。ずっとライバルなのに、ずっと見守ってくれてる、誠実な人だ。
そんな跡部さんに電話をしたのは、折り返しってのも含めて、もうひとつ理由があった。
伊織さんはこの20日、ずっとチーム越前で頑張ってきてくれたけど、誰ひとり、伊織さんのケータイの番号を知らなかった。

「跡部さん、伊織さんは跡部さんの専属トレーナーだったんでしょ」
「アーン? 佐久間か。そうだ。それがどうかしたのか?」
「じゃあ、知ってるよね、ケータイの番号」
「逆に知らないのかよ、お前は」
「ん……急に決まったトレーナーだし、うちのオヤジあんなだし、抜けてんだよね、みんなして」ホント、そればかりは自分も含めて、抜けてると思う。
「つうかな……そこにいねえのか? 佐久間は」
「まあ……そういうこと」

オレは、伊織さんがすでに帰国したことを話した。だから、ケータイの番号を教えてほしいと伝えると、跡部さんはしばらく考え込むような声を出して、言った。

「越前よ……なにがあった?」
「え?」なにがあったって、なに、急に。
「妙じゃねえか。自分の膝が故障したってときに、お前は帰国した佐久間が気になるのか?」
「それはほら……あの人、オレのトレーナーだし」嫌な予感がする。
「ほう? それで? 佐久間はトレーナーだってのに、膝が故障したお前を放って契約終了だからと、すぐに帰国か?」あいつは、そんなに無責任な人間じゃねえよ、と、つづけた。

跡部さんって……世話焼きなのはいいんだけど、勘が鋭すぎるから厄介だ。
まさか伊織さんのいざこざを含めたオレたちの関係の話なんか、跡部さんにしたくないし。

「いいから、教えてよ」
「へえ? 言いたくねえ事情があるってことか。お盛んだな、王子様も」あーあ、もうバレたじゃん。
「サル山の大将のくせに、偉そうにしないでくれる?」
「ははっ。久々じゃねえか、その生意気っぷり。少しは元気が出てきたか?」

はっとする。完全に跡部さんに乗せられてたけど、この人ひょっとして、オレのこと元気づけようとしてたわけ?
マジで、どこまで世話焼きなんだろ……底が見えない。

「越前、教えてやらねえことはねえが、ひとつ聞いておきたいことがある」
「……なに」さっさと教えてほしいんだけど。
「佐久間は、ずっと結婚を夢見てる女だぜ?」
「え……」
「追っかけ回すのは結構だが、お前、そのことをちゃんと考えてんのか?」

つうか、恋人がいなかったか? とひとりごとのように言っている跡部さんの声が、一瞬、遠くなった。
結婚……と言われて固まってしまう。伊織さん、ずっと「結婚」のことを言っていた。オレたちが会ったきっかけだって、それが発端みたいなもんだったし。今回の件で伊織さんの気持ちが揺れたのも、あいつにプロポーズされたからだ。

「おい、聞いてんのか」
「あ、うん……ちょっと、ぼーっとして」
「そういうのが、しがらみになってんじゃねえのか? って聞いたんだよ。お前、どうせ俺と一緒で、結婚なんて興味がねえだろ」

跡部さんが結婚に興味ないのは、見てればわかる。それと同じように、跡部さんもオレを見てたらわかってたんだろう。
興味、なかった……全然。ああいうのって生活だし、周りで結婚してった人たち見ても、全然、幸せそうじゃなくて。とくに離婚大国アメリカとかだと、相手の不満ばっか言って、子育てに疲れ果てて。あげく不倫とか離婚とか、そんなのばっか見てきてるから。日本だって、例外じゃない。
でも、伊織さんとなら。
あの人のこと、自分だけのものにしたい。その手段が結婚っていうのは、ものすごく自然に体に沁みわたってきた。
そっか……結婚って、そういうためにするんだ。それだけ、愛してる人と一緒にいたい、ずっと守りたい、誰にもわたしたくない。相手のためもあるけど、なにより自分のために。オレ、そんなことに、はじめて気づいた。

「どうなんだよ」
「興味……なくない」

ほう? と、跡部さんが意外そうな声をあげる。もう、切りたくなってきた。
これ以上からかわれるのは、恥ずかしすぎて耐えれそうにない。

「お前がそこまで本気で熱をあげてるなら、それを伝えないと、うまくいきようがねえぞ」
「……跡部さんは?」
「は?」
「結婚、相変わらず、興味ないんデショ?」

意味もなく、話をそらしたくて反撃してみたけど、電話越しに笑われた。

「微塵もねえな」

そう言ってた跡部さんが1ヶ月後に婚約したって聞いて、オレはひっくり返るほど驚いたんだけど……。





結局、跡部さんから伊織さんのケータイの番号は聞き出せたけど、オレは数日、悩んでいた。
弱ってたのもあるから、勢いで伊織さんと結婚したいって思ったのかもしれなかったし、オレも少し落ち着いて考える時間が必要だとも思ったし。
って、思ったものの、5日間しっかり考えても、やっぱりオレは、伊織さんがほしかった。
でも、たった一度体を重ねただけで、プロポーズって、客観的に考えて、ちょっとひく。
その考えを後押ししてくれたのは、ホテルのベッドの上でごちゃごちゃ考えていたときに鳴った、部屋のベルだった。

「千夏……?」
「もう、なにその顔。大丈夫なのリョーマ。お弁当つくったから、食べない?」
「……まあ、いいけど」どんな顔してんだろ、オレ。
「いいけどってなに。かわいくない」

怒った顔して、千夏はなんの遠慮も見せずに入ってきた。
故障してからこっち、チーム越前のメンバーともろくに話してなかった。ちょうどランチの時間だったから、腹も減ってて。オレは千夏の入室を拒まなかった。

「ねえ、聞いたんだけどさ。決勝の日に秋人さん来てたって本当?」

ホテルのソファに座っていきなり質問される。持ってきたランチボックスをあけながら、まるで芸能人の噂をするような口ぶりに、少しイラついた。

「その質問、やめてくんない?」
「え、なんで。いいじゃん」
「オレさ、千夏には感謝してる部分もあるけど、むしゃくしゃしてる部分もあるから」
「ちょっと、なにそれ。意味わかんないんだけど!」

千夏はまた怒った。付き合ってたときもそうだったけど、感情的で、強引な千夏。
今日はなんの用かと思えば……そんなこと聞きにきたわけ? あの男を思い出させるようなこと、言わないでほしんだけど。

「結局リョーマは、伊織さんのこと好きだったんじゃん」
「え……」

まっすぐな視線が、オレを捉えた。いきなり変わった質問に、自分でもわかるくらい目が開いている。こんな顔したらバレバレなのに、動揺を隠すことはできなかった。

「あのさ、侮らないでほしいよ。あたし、これでもリョーマより2つ年上だし」
「それが、なに……」
「勘は鋭いの。どーせ、伊織さんとエッチでもしたんでしょ」

中学以来だった。飲みかけのドリンクを吹き出して、ケホケホと咳をくり返す。乾先輩がつくった最低の味のドリンクじゃないのに、喉がやけつくような錯覚を起こしてた。
待って千夏……オレ、千夏のこと、すっごい怖い。

「ほらね、やっぱり。もういいよ。すっかりあきらめた、リョーマのこと」
「ちょ……あのさ、話があっちこっち」と、そこまで言って、また咳き込んだ。ただの水が喉にからんでる。
「伊織さんのあんな姿、見せられたら……かなうわけないってわかったから」

千夏が、真面目な顔をして目を伏せる。

「リョーマが故障したとき……伊織さん、すごい剣幕だった。あんなに必死になって、汗なのか涙なのかわかんないくらいびっしょりになって施術してさ。リョーマは試合に負けたって確定したも同然なのに、ずっと伊織さんのこと、うっとり見ちゃってるし。あ、ふたりは想い合ってるんだって、気づいたよ。なのに伊織さん、翌日になったら帰っちゃうし」ホント、意味不明。と、口を尖らせた。

オレだって……それについては意味不明、だけど……。

「千夏、今日のこれ、なに……」
「ああ、それはチキンバジルのサンドイッチと」
「じゃなくて! 今日のここに来た理由!」なに急に、すっとぼけてンの!
「あ、そっち? ……ていうか、まだわかんないの?」ホント、お子様だよね。と余計なことを言う。「あたし、リョーマのこと好きだったから。つい、こないだまで」
「……だから?」
「情があるの! 元カレには幸せになってほしいから。だから、女心が全ッ然わかってないリョーマに、協力してあげようと思って」

せっかくここまで来たんだもん。目の前で見せつけられたし。とか言いながら、スン、と顔を上にあげて、サンドイッチを口に運ぶ。弱ってた心が、少しだけ癒やされる。
もう過去のことだし、気持ちはないけど……オレ、千夏に恋して、よかった。やっぱりオレが好きになった千夏の根本は、変わってなかったんだって思う。

「……意外と、いいヤツだよね、千夏って」
「意外とは余計。それで? あたしとは付き合ってたわけなんだし、なに話したって恥ずかしくないでしょ?」こんないい元カノいないんだから。と、また口を尖らせる。
「サンキュ……うまいよ、これ」

千夏にほだされて、この数日悩んでいることを打ち明けた。
ひととおり話すと、千夏は言った。

「じゃあ帰国して、言うつもり?」プロポーズするの? と首をかしげた。
「ん、まあ」

帰国は来月の8日に決まっていた。電話で言うのってなんか嫌で。
やっぱ想いを伝えるときは、直接がいいような気がしてる。

「ダメだよリョーマ、そんなの」千夏は険しい顔をして、サンドイッチを頬張った。
「え……なんで?」
「帰国まであと3週間以上もあるんだよ? そのあいだに、秋人さんとどうにかなっちゃうかもしれないじゃん」
「あんな最低な男と?」
「そういうことじゃないんだって。あっちは5年も付き合ってたわけでしょ? 簡単に離れられる関係じゃないんだから。しかもすでに、プロポーズしてきてる。その壁を、リョーマは一瞬でも崩したんだよ。いま、たたみかけないでどうすんの?」

テニスだって、同じでしょ? 相手が隙を見せた瞬間に攻めるでしょ? と、また怒ってる。
千夏が言ってることはわかる。でも伊織さんがあれだけのつらい思いをして、それこそ簡単にあの男を許せるとも、思えないんだけど。

「それに、そのために番号までゲットしたんでしょ?」
「そうだけど、さ」
「じゃ、グズグズしてる暇、ないじゃん!」

そういう千夏の助言もあって、その日の夕方、伊織さんの治療院に電話をした。ケータイにかけなかったのは、伊織さんに逃げられる気がしたからだ。治療院なら、必ずつながる。東京は深夜0時。さすがに治療院は閉まってると思った、オレの予想は正しかった。
期待どおり、呼び出し音は、やがて留守電になった。
伊織さんが逃げないで聞いてくれるには、この方法しかないと思った。最後までちゃんと、聞いてほしかったから。
ふう、と深い呼吸をくり返した。伊織さんがリアルタイムで聞いてるわけでもないのに、ものすごく緊張していた。録音の合図の発信音が、やけに長く感じて。

「伊織さん。オレ……リョーマ。ホントは会って直接言いたかったんだけど、すぐには会いにいけないから、メッセージ残すね。……オレ、伊織さんのことが好き。伊織さんとなら、結婚したい。すぐにでも、全然いいし。だから……もう一度、オレのとこに戻ってきて」

言葉にすればするほど、泣きそうなくらい、愛しい。
なんで伊織さんじゃなきゃダメなんだろって、いくら考えても答えなんかでない。だけどこんな気持ちにさせられたの、オレ、はじめてだから。

「伊織さんが、どういうつもりで帰ったのか、オレ、わかんないけど……これ聞いたら、連絡ちょうだい。いまからオレの番号いうから。けど……折り返しがなかったら、そのときはオレも、そういうことだって、理解、するから」

自分のケータイの番号を告げた。伊織さんに、届くように。
ねえ伊織さん、オレの声、ちゃんと聴こえてる?
好きだよ、ホントに……。愛してる。

……けど、伊織さんからの連絡は、帰国の日になってもなかった。
落胆しかなくて、全然、元気になれなかった。
それでも、どうしても、あきらめがつかなかったから……オレは、伊織さんの治療院に足を運んだ。
そこで、最悪のシーンを目の当たりにした。
伊織さんは、あの男に抱きしめられていた。キスをして……あの男は、笑ってた。





あきらめさせなかったのは、伊織さんのあの表情だ。オレを見て揺れる瞳が、抱き合ったあのときと一緒で。あの日は怒りが抑えらんなくて、伊織さんを責めたけど……あんな顔されて、あきらめられるわけないし。
帰国から1週間後、オレはしつこくも、夜の最終受付時間を狙って、治療院に来ていた。二度目の再会に、伊織さんの表情は固まった。慌てたのかもしれないけど、それをこらえるように、覚悟を決めた顔で、伊織さんはオレを出迎えた。

「うちは、完全予約制です」と、開口一番に伊織さんは言った。
「ふうん、そうなんだ。じゃメンテ依頼の予約、していっていい?」

オレだって、負けてらんない。伊織さんと勝負したいわけじゃないけど、伊織さんがオレを無理につっぱねようとしてることくらい、こないだのやりとりを考えたって、わかる。
あらかじめ用意してたことを言った瞬間、伊織さんは目を丸くした。靭帯断裂の手術前は、十分なメンテナンス期間が必要だと医者に言われていた。実は、すでにロンドンでも、メンテナンスはしまくってたけど。

「……リョーマ、手術、まだしてないの?」
「してない。あと2ヶ月くらいは余裕があるから、リハビリ受ける環境も整えなきゃだし、十分にメンテしたらするつもり」
「そう……そっか」

心配そうに、オレの膝を見てる。冷たいようで、ホントは優しい伊織さんの思いが伝わってきた。そんな顔でオレのこと見るくせに、なんであの男とより戻してんの?
けど、今日は責めないって決めてた。あんなことしても、逆効果な気がしたから。

「ねえ、伊織さん、留守」
「リョーマ、ちょっとここに座っててくれる? 膝、痛くない?」
「あ、うん……大丈夫」

留守電のことを聞こうとしてるのに、伊織さんはそれを遮って、せかせかとパソコンを打ちはじめた。わざと……? そう思ったら、空気感に居心地が悪くなってきて、オレの言葉が途切れていく。
そのときだった。
奥のほうから、あの男がオレだけを見ながらこっちに向かってきていた。その視線があきらかに挑戦的で、オレもためらいなく、睨みつけた。

「越前選手。どうされたんですか?」しらじらしい声、だしてくれてんじゃん。
「手術前のメンテ依頼みたいなの」伊織さんがパソコンを打ちながら、オレの代わりに答える。
「へえ。まだ手術を受けてらっしゃらなかったんですね。それなら、僕が受け持ちますよ」

大人の余裕のつもりなのか、ふんわりと笑顔を向けて、偉そうにそう言った。
けど、目が全然、笑ってない。ロンドンに来たときからそうだったけど、こいつはオレと伊織さんのことをなにも知らないくせに、ずっと威嚇してきてる。
いい度胸してるよね、相変わらず。誰に喧嘩、売ってんの?

「アンタだけは絶対に嫌だ、汚い手で触られたくないね」しれっと、オレはそう言った。伊織さんがぎょっとしてる。
「はは。これはこれは……そうですか。残念ですね」

一瞬にして、空気が強張った。伊織さんの表情も、強張ってる。
だけどオレも秋人ってヤツも、お互い、目をそらさなかった。

「秋人、片づけをして。もう予約ないんだから」こっちは、いいから。と、今度こそ慌てるように、伊織さんは言った。
「はい、院長」

伊織さんを困らせたのはわかってる。それでもあの男だけは、我慢ならなかった。

「ねえ、伊織さん」
「できた。はい、これを持っていけば、すぐにメンテ開始できるから」
「は?」

ぱらりと、一枚の用紙が手渡された。見るとそこに、『紹介状』と書かれていた。
待って、どういうこと……?

「わたしを信用してくれてるから、ここに来てくれたことはわかってる。この人は、わたしの師匠なの。わたしが唯一、尊敬して信用してる人。少し距離はあるけど、飛行機で1時間半くらいだから問題ないと思う」
「ちょっと……待ってよ。なんで伊織さんがしてくんないわけ?」

治療院の名前と、住所が記載されていた。場所は、山口県だ。

「休養に入ってるでしょ。2、3週間、その近辺に泊まれば、丁寧な施術を受けれるはず」
「ねえ、聞いてるオレの話? なんで、伊織さんがしてくんないわけ? オレをそこまで遠ざけたいってこと?」

必死だった。伊織さんと離れたくないのに、そんなオレの気持ちを無視して、この人、いつもオレから離れていこうとする。なんで……?
伊織さんは、顔を伏せた。やがて少しだけの沈黙のあと、静かに言った。しっかり、オレの目を見ていた。

「わたしはもう、越前選手の施術をするつもりはありません」越前選手、って、言った。
「……マジで、言ってんの?」
「大マジです、越前選手」

嘘だ……じゃあなんで、そんな潤んだ目で、オレのこと見るの?
そう問いかけたくても、声にならなかった。
しばらく見つめ合っても、なにも言えなくて。伊織さんの覚悟みたいなものが、オレを黙らせた。
席を立って、紹介状を、乱暴に受け取った。
胸が痛くて、つらすぎた。これ以上ここにいるのは、とても耐えられなかった。

治療院を出て、すぐだった。うしろから聞こえてきた足音に嫌な予感がして振り返ると、そこに、あの男がいまにも声をかけるって顔で、オレの背中を追っていた。

「なんの用?」オレの睨みに、秋人ってヤツは怯む様子も見せなかった。
「……どういうつもりで、伊織のことをつけまわしてるのか、聞きたかったんだ」

――つけまわしてる。
その言葉選びに、あきらかな挑発を感じた。

「は? そっくりそのまま、アンタに返したいんだけど」

つけまわしてんの、そっちじゃん。
そう返すと、秋人ってヤツは苦笑するように、一瞬だけ目を伏せた。
前よりも自信がみなぎっている雰囲気に、むしゃくしゃする。

「君の誤解を解こうとは思わない。それでも伊織は、俺の過去のことを納得してくれたんだ」
「あのさ、ずっと思ってることなんだけど、笑わせないでくんない? 納得なんてできるわけないでしょ。アンタがそう思いたいだけじゃん」
「ああ、それこそ、そっくりそのまま君に返すよ」

真剣な顔つきが、さっきまでの余裕をなくしていた。こいつ、ビビってる。
なのに……どんな言い訳を聞いたからって、伊織さんがこいつとよりを戻してるのか。どんな理由であろうと、許すつもりなんかないけどね。

「アンタが、伊織さんを幸せになんかできるわけないじゃん」
「君ならできるってこと?」
「確実にアンタなんかよりいい男だよ、オレのほうが」
「そりゃ、サラリーマンより稼ぎはあるだろうけど」
「そんなしょぼい話してるわけじゃないんだけど」
「なあ、君はまだ、若い。年上の女性に憧れてるのかもしれないけど」

くだらない言葉で諭そうとする目の前の男に、我慢の限界だった。
年上とか年下とか関係ないから。オレと伊織さんは、男と女として愛し合ったんだ。
あの日だけだったとしても、オレと伊織さんは、愛し合った。何度も愛した。何度愛したって、伊織さんは受け入れてくれた。
気持ちは伝わったはずだし、伊織さんの気持ちだって、ちゃんと伝わってきた。だからオレは、絶対に身を引くつもりはない。

「アンタ知らないの? オレと伊織さんがどんな関係か」

言うつもりなんてなかったけど、「アンタよりも、絆は強い」って思わせたかった。
目の前の男は、黙っていた。黙ってオレを睨みつけて、ゆっくりと息を吐く。
生ぬるい夏の風が顔に吹きつけた。その風に触発されたように、秋人ってヤツは、言った。

「君は、わかってないみたいだな」
「……なんのこと?」
「君と伊織とのあいだになにがあったとしても、伊織と俺は5年前から、何度も愛し合ってきた関係だ」

男が、背中を向けて、堂々と去っていく。
それがあいつの優越で、最大の武器である挑発だってことも、嫌ってくらいわかってる。
でもその言葉に、情けないくらい、傷ついた。





翌日、手にたっぷりの料理を抱えて、千夏が家にやってきた。

「お前ら、より戻したの?」
「オヤジ、違うって何回言ったらわかんの?」
「南次郎さんって、それしか言わないですよね。あたしもう、リョーマには興味ないですから!」

千夏の訪問で、食卓は久々に賑やかになった。オレの気分は沈んだままだったけど、いつも若い女の人がいないこの家では、オヤジにとって千夏は立派な「花」だった。
千夏は、あれから定期的に連絡をしてくるようになっていた。「一度決めたら、とことん、なんだから」と自慢げに言って、オレの協力をしようとしてくれる。
とことん、なのは知ってる。ウィンブルドンまでついてきたのだって、ものすごい行動力だ。
そんな千夏から昨日たまたまあった連絡が、今日の食卓につながった。オレのへこんだ様子を鋭い勘で受け取ったから、千夏は来てくれた。
千夏に、早く新しい彼氏ができればいいのに。いまの千夏なら、きっとモテる。
オレの気持ちじゃ追いつかないけど、千夏のことを大切に思ってくれる人は、きっとどこかにいるはずだから。オレも、千夏には幸せになってほしいって思う。

「それで? 黙って退散しちゃったわけ?」
「ま、そうだね」

食事が終わって家まで送っているとき、千夏はそう聞いてきた。
紹介状の件を話すと、「もう、ひどいんだから!」と、伊織さんに怒って、黙って退散してきたオレにも怒った。
千夏の家まで行ったら、伊織さんの治療院の近くだ。まだいるかもしれないと思うと、会いたくなった。

「伊織さん、きっといろんな事情があるんだと思う」
「どんな?」
「うーん……それはわかんないけど。でも、リョーマを苦しめたくないって思ってそう」
「なんでオレと付き合ったら、オレが苦しむわけ? おかしいよ」それにいまのほうが全然、苦しめられてんだけど。
「秋人さんへの情だってあるよ。リョーマの想いはほら、一時の気の迷いかもしれないじゃん」
「そんなんじゃ」
「わかってる、あたしはわかってるけど、伊織さんはリョーマより5つも年上なんだよ? 不安のほうが大きいよ。しかもリョーマなんて、世界2位のテニスプレイヤーなんだから」

また、歳の話? しかもそこに肩書まで乗っかってる。そんなの、なんか関係あんの? 
世界2位のテニスプレイヤーだろうが、普通の人間なんだけど。だから普通に傷つくし、こんなふうに誰かを愛して、悩んだりしてる。

「きっと秋人さんの言い訳っていうか、その理由が、もっと情を深めちゃうものだったんじゃないかな」
「なんで浮気して、子どもつくって、それをずっと黙ってたような最低男に情がわくわけ?」ありえないデショ。
「だからー、それ相応の理由があったかもって話! だって現に伊織さん、納得しちゃってるんでしょ?」
「……まあ、ホントか嘘か知らないけどね」

強がるしかなかった。どれだけ考えても、その「納得」が、釈然としない。別れたって、言ってたのに。

「あたしさ、リョーマ」
「ん?」
「おせっかいだとは思ったんだけど、先週、伊織さんに会いに行ったの」
「え? なんで?」

うーん、と千夏は空を見あげた。「おせっかいだと思った」が、気になった。
千夏のことだから、ホントにおせっかいな感じのことを言ったんじゃないかって、ちょっと緊張する。

「ふっかけたの。伊織さんのなかで、あたしはまだライバルでしょ?」
「……ライバルなわけ? 伊織さんは完全にオレを拒絶してんだけど」
「それでもリョーマのこと好きならライバルじゃん!」
まあ、そっか。オレのこと、伊織さんがまだ想ってくれてるなら、そうだけど。「ていうか、ふっかけたって、なに?」
「だから、あたしがまだリョーマのこと好きなふりして、挑戦状を叩きつけてきたわけ。そしたら焦るじゃん。あたしなら焦っちゃう。だって好きな人が取られちゃうかもしれないわけで」

千夏は早口にまくしたてた。でもそれは、否定できない。
いま、すごく焦ってる自分がいるから。好きな人が、取られそうで。

「それで?」

促すと、む、と千夏が口をつぐんだ。
なにか嫌な情報が飛び出しそうで、耳を塞ぎたくなる。

「あたし、もう遠慮しないとか、全力でリョーマを仕留めにいくとか、豪語したんだけどさ」
「はあ……よくやるよ」
「ちょっと! リョーマのためだよ!?」
「それで? なんかオレのためになることあったの?」

また、千夏は口をつぐんだ。情報が飛び出てこないのも、結局、嫌な気分になる。
オレと千夏がどうなろうと、伊織さんには関係ないってこと?

大人だよね、伊織さんって……意味深につぶやいて、「ねえリョーマ。ちゃんと言った? 結婚したいって」と、千夏は言った。そういえば、その報告はしてなかったっけ。
「言ったよ。千夏のおすすめどおり、その日のうちに」
「伊織さん、なんだって?」
「なにも連絡ない。治療院の留守電に入れたきり」

千夏の足が止まった。
え? と思って振り返ると、千夏の目が見開いてた。なに、その顔。

「ち、治療院の、る、留守電?」一歩先に進んだオレに駆け寄って、怪訝な顔をして、見上げてくる。
「だってそれなら、何度も聞けるし、伊織さんにきちんとつながると思って。逃げようがないでしょ? メッセージって、つい聞くじゃん」

千夏の唇が、ぶるぶると震えだした。え、なんでそんな、驚いてンの?

「変だと思った! なんでそんな公のところに残すの!? 伊織さんが聞くとは限らないじゃん!」
「いや、別にほかのスタッフが聞いたってよかったよ。それならそれで、伊織さんに伝わるじゃん」
「バカ! そうじゃない!」
「え?」

もうー! と、千夏がイライラとしながら足を早めた。

「ホント、子どもっていうか、純粋すぎるっていうか!」
「ちょっと、ねえ千夏、なに怒ってんの?」
「スタッフには秋人さんもいるんだよ!? それ、秋人さんに消されるかもしれない可能性、考えなかったの!?」

その言葉に、今度はオレの足が止まった。





「まだまだだね」って、散々、人に偉そうなこと言ってきたけど……こればっかりは、自分に「まだまだすぎる!」って怒鳴りたくなった。
全然、そんなこと思ってもなくて。バカさ加減に呆れてる。いくら心が弱ってたからって、頭が回らなすぎ。
千夏を自宅まで送って、その足で治療院に向かった。千夏の自宅と伊織さんの治療院が近くて、ホントよかったと思う。
たしかに、あの男ならやりかねないし、それなら伊織さんから連絡がなかったことも、納得できる。
夜は11時を回っていた。治療院には、まだ明かりがついていた。不二先輩のキッチンカーがまだやってたら、そこで待たせてもらおうと思ったけど、もうやってなくて。近くの公園から、そっと様子を伺った。
そのうち、秋人ってヤツが治療院から出てきた。オレは即座に、治療院に向かった。外から見る限り、なかには伊織さんしかいない。
いましかない。そう思った。

「すみません、もう閉院……え、リョ、リョーマ?」
「伊織さん、話がしたい。ふたりだけで」

オレの姿を見た伊織さんは、ふいうちだったからなのか、昨日までの毅然とした態度を保ててなかった。
その瞳が、また、ゆっくりと揺れる。ねえ伊織さん……その瞳がどうしても、オレのこと拒否してるって、思えない。

「お願い伊織さん、聞いてほしいことがある」
「ちょ、そんないきなり……あ、ちょっとリョーマ、隠れて!」
「え、えっ?」

伊織さんが、治療院の外を見てオレの手をつかんだ。
奥にある、書類がぎっしり積み上げられている狭い部屋に押し込まれた。「なんで?」って言おうとしたけど、伊織さんが、焦ってオレの口を手でふさいだ。

「見つかりたくないの」

小声で告げられる。
それとほぼ同時に、治療院の扉が開く音がして、秋人ってヤツの声が聞こえてきた。

「あれ……伊織? なんだよ、コンビニかな」

さっき出てったばかりなのに、なにしに戻ってきたのか。
あいつは一枚扉を隔てた受付のカウンターで、なにかを探しているみたいだった。
伊織さんが、オレの口をふさいだまま、人差し指を自分の唇に当てる。「黙って」の合図に、奥歯をくいしばった。
そっと、オレの口から伊織さんの手が離れていく。代わりその手は、なだめるように、オレの左腕に添えられた。すぐ目の前に、密着するみたいに伊織さんの体があるのに、抱きしめることもできない。伊織さんの懇願に、なにも言えなくなった。

「あった……よし、帰るか」

あいつは忘れ物でもしたのか、数分そうしてなにかを探ったあと、治療院の扉が開けられる音がした。
静かな空間のなかで、あいつが遠ざかっていく足音が聞こえる。伊織さんはその音を聞いて、助かったと言わんばかりの、深いため息をついた。

「はあ……危なかった」

なんでそんなこと、言うの……。心が、どんどん沈んでいく。

「……オレが、うしろめたい?」
「え……」
「オレと一緒にいることすらバレたくないくらい、あいつのことが好きなの?」

そんなに、あの秋人ってヤツがいいのかと思うと、目の前が歪みそうになった。
オレを……切なく見つめるくせに。

「なんでオレじゃ、ダメなの……?」
「リョーマ……」

留守電を消したのは、あいつじゃないかもしれない。もしも、伊織さんだったら?
オレに抱かれた翌日に、なにごともなかったかのように、あいつと帰国した。
帰国して会いにきたオレをつっぱねるように、「あれこそ、一種の過ちだから!」と、腕を、振り払われた。
その現実が、いまさら、いまだからこそ、重くのしかかってきていた。

「もう、わかったよ」
「リョーマ……?」
「行くよ、山口。もう、ここには来ない。安心でしょ」

なにかに押しつぶされたみたいに、胸が苦しくて。この1ヶ月、ずっと苦しんでる。
絶対に、身を引くつもりなんてなかったのに……オレは、伊織さんに背中を向けた。





to be continued...

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