ざわざわきらきら_06


6.


パトカーだか救急車だかのサイレンが聞こえてきたのは、夜中のことだった。
日中のリモートワークを終えて、ようやく絵本の制作にかかろうと思ってコーヒーを注いでいた。
騒がしいなと思って窓の外を見ると、少し遠くのほうからモクモクと煙があがっていて、火事があったんだとすぐに理解した。
このアパートじゃなくてよかったという安堵感と一緒に、あのマンションに住んでいる人はとても辛いだろうな、と、見たこともないたくさんの顔を想像して、偽善者のように胸を痛めた。
それから30分くらい経ったときだった。家のチャイムが鳴ったのは。

「はーい」

窓の外を気にしながらぼんやりと、きっと忍足さんが帰ってきたんだと思っていた。
2日前に突然うちにやってきて、「作家エージェントになる!」と言った忍足さんは、そのほとんどの時間をこのアパートで過ごしていた。しかもわたしのせっかくの休みのほとんどを制作に使わせて――あの日なんかワイン2本も空けたあとだったってのに――、なのにせっかく描いた絵に容赦なく赤でバッテンをつけていくという鬼っぷり。
とはいえ……最初は心のなかで「このクソ忍足侑士ー!」と悪態をついたものだが、わたしのイライラ爆発にも怒りもせず、真剣にフィードバックに取り組んでくれている彼や、聞いていても全然わからない宣伝費の話をして、自分の足をつかって絵本を売り歩きにいった彼の背中を、やっぱり素敵だとも思った。だってわたしのために、してくれていることだから。あんないい出版社を辞めて、わたしをプロにするために、がむしゃらになってくれてる。……素敵だろう、どう考えても。だってあんなイケメンが。
まあ……だから、仕方がないから心のなかでも感謝の意を込めて「忍足さん」と呼んでやることにした。あのキスの件は、忘れてやってもいい。いや、忘れたくない……いやいや、なにを考えているんだわたしは!

「え」

頭のなかで忍足さんのことを考えて、扉の向こうにいるのが当の本人だと思いこんでいたわたしに、その姿は衝撃的すぎた。
そこには、わたしの元カレである一條新次が立っていたのだ。

「久しぶり、伊織」
「新次……え、え?」
「ごめん。急に……別れる前、ここの引っ越し手伝ったからさ、火事が心配で……オレ」
「え、火事が心配で来てくれたの!?」
「うん。会社の帰りの電車から見えて、こう、すごいことになってるのが。で、急いで降りて。あ、でも近くまで行って違うってわかったんだけど、せっかく来たから……どう、してるかなって……」

まっすぐにわたしを見つめて、彼はそう言った。
あの頃から変わっていないその視線に、複雑に胸が疼いていくのが自分でもわかった。
わたしのわがままで断ったプロポーズ。5年も前のことなのに、ほんの少しだけ甘い想いを残している。だって、いまでもすごくイケメンだ。結局わたし、イケメンに目がないって、最近めちゃくちゃ思い知らされてる。いい歳して恥ずかしい。

「あ、ごめん、散らかってるけど、あがる? ここじゃ、なんだし」
「いいの?」
「うん、もちろん。心配して来てくれるような人いないから、なんか嬉しいよ」

忍足さんが出ていく前に玄関にきちっと揃えたスリッパを出して、どうぞ、と声をかけると、不安そうな目が穏やかな色に変わって、彼は微笑んだ。

「伊織のことは、いまでもずっと心配だよ」

ぎゅっと、胸が締め付けられた。





「誰や」
「それは……」
「はよ言え、誰や」
「元カレ、です」

そこから15分後に、なぜかとても機嫌の悪い忍足さんが帰ってきて、わたしはまた玄関先で、今度は小声で話していた。どうも、妙な空気になっている。今日はイケメンが勢揃いだ。こういうのをネタになにか1本かけるんじゃないだろうか。イケメンパラダイス的なこう、どこか遠くの国のお話で……。

「元カレ、やと?」

わたしのおかしな制作妄想を、忍足さんの低い声でぶった切られた。
というかなぜこの人は、帰ってきて早々、こんなに機嫌が悪いんだろうか。

「はあ……あ、なんか火事を心配して来てくれたみたいで」
「へえ。ご苦労なことやな」

と、鼻で笑って、靴を脱ぎかけている。

「え、ちょ、忍足さん」まさか、あがるの?
「なんや。ちゅうか俺のスリッパどこや」
「俺のって、あれうちのですよ」
「どうでもええねん、俺のはいてたスリッパは?」
「そ、彼がいま使って……」

使っています、と言う前に、目を棒にして、わたしを見てきた。あきらかに怒っているのがわかって、言葉に詰まってしまう。いやなんで怒ってるの……怖すぎる。

「ていうか、帰らないんですか?」
「は? なんで俺が帰らなあかんねん」
「だ、だってその、だって」
「まさか伊織さん、あの男といまから、おかしなことでもしようとしとったんちゃうやろな?」
「ば、なにを言ってるんですか!」
「じゃあなんやねん、なんで俺を帰そうとすんねん」
「だって普通、こういうときって帰りますよね? それに忍足さんあがったら、なんかヘンな感じになるじゃないですか」
「ヘンな感じってなに? ここ、いまは俺の事務所でもあるんやけど? 家賃に光熱費、払うの俺やぞコラ」
「う」
「伊織?」

痛いところを突かれてまた言葉に詰まっていたら、今度は背中から声がかかった。
急いで新次のほうを振り向くと、心配そうにこちらを覗き込んできている。

「大丈夫?」
「ああ、うん、あの、大丈夫」
「そちらの方は……?」

窺うような視線で忍足さんを見た新次が、ごく軽い会釈をした。
すると忍足さんは急に背筋をピンと伸ばして、ずかずかと新次の前まで進んでいく。
ちょちょちょちょちょ、ちょっと待って! こういうときは中心にいるわたしが紹介するんじゃないのか!

「はじめまして。伊織さんのパートナーの忍足侑士です」

新次よりも高い身長のせいで、わたしからは新次の顔がまったく見えない。
急いで二人のあいだに駆け寄ると、新次は少し眉間にシワを寄せてわたしを見た。

「……パートナー?」

ええい忍足侑士、なんか大事なとこ省略してるから誤解しているじゃないか!

「仕事の、パートナー!」あわてて付け加える。
「あ、ああ仕事の!」
「おたくは?」
「あ、オレは一條新次と言います。伊織とは前に同じ職場」
「へえ。外資系コンサルのエリートさんか。そんで? 今日はどんな用があってここに?」

むちゃくちゃ感じが悪い。
きっとそれは、新次も感じていることだと思った。
高い身長のせいなのか、上から新次を見下ろしているだけでなく、なんだか目も据わっているし、いつもよりも声が低いし、新次が言いおわらないうちにかぶせてきた。
機嫌が悪いとこんなことになるのか。今朝までの優しい忍足さんはどこ!?

「火事が、あったじゃないですか。それで、心配で」
「5年も前に別れた女が心配になったんですか」
「えっ」
「ちょ、忍足さん!」
「あれ? ちゃうの? 前に聞かせてくれた人やろ? 俺とデートした日に」
「デート?」
「ちっ……打ち合わせデート! のこと……」
「ああ、へえ……」

絶対わざとだ! なんでこんな嫌がらせをしてくるんだろうこの男は! だいたい打ち合わせはデートって言わない! ああ、もう!
恋愛は制作の邪魔になるとかそういうお考え!? なんでいちいち俺の女アピールしてんのマジで! イケメンに挟まれてるみたいで悪い気はしないけど! いやそうじゃなくて! せっかく新次が来てくれたのに……ちょっと淡い気持ちになってるのに……。

「ちゅうか、いまから仕事の話するんで、帰ってもらえます?」
「え」
「あ……こんな時間から?」

さすがにカチンときたのか、新次がついに言い返した。
そりゃ誰だって頭にくる、初対面でこんなつっけんどんな態度とってくるような男。

「あー、ここ、いまうちの事務所でもあるんですよ。せやから、俺、ここに住んでるんです」
「えっ!?」
「ちょ、住んでない!」
「なんやあ、住んでるようなもんやん、昨日も一昨日も泊まったし」
「泊まったんじゃなくて制作で徹夜しただけです!」
「俺が焼きそば作って食べさせたん、忘れたん伊織さん?」

そのいちいち甘いことを想像させるような物言いはなんなんだ!
アイテムが焼きそばだから甘辛い感じになってるけども!

「ふふっ……わかりました、じゃあオレはこれで失礼するよ」
「あ、新次……っ」

玄関に向かっていく新次の背中を追いかけた。すでに靴をはきはじめていて、わたしはあわてて近くにあるパーカーを羽織った。

「伊織?」
「そこまで、送るから!」
「ホント? ありがとう」

睨むようにこっちを見ている視線には気づいていたけど、わたしはそれを無視して、バタンと扉を強めに閉めた。

「ごめんね、なんか機嫌悪いみたいで。あの、あの人は本当に、仕事のパートナーで、元編集者なんだけど……」

歩きながら、これまでの経緯を話した。もちろん、キスデートの件は全削除して。
新次は「すごい決断だな」と忍足さんに感心していた。

「それだけ伊織の作品が魅力的だったってことだよ」
「いや……ボロクソ言われてるよ、この数日」
「うん、厳しそうだもんね、彼」
「うん……あーでも、あんな態度、ないよね? わたしが謝ることじゃないけど、気分悪くさせてごめん。いつもあんな感じじゃないんだけどな……」
「ううん、大丈夫。逆にオレ、いま優越感に浸ってるから」
「へ?」
「すごく、モテそうな人だよね。あの、忍足さん?」
「ああ、うん……まあ、あの見た目だから、モテるんだろうね」
「うん、自分にすごく自信もありそう。だからかな」
「だから?」
「たぶん余裕を失くしてあんな態度とったんだ。それはもう、オレの勝ちってこと」





新次の言った「勝ち」の意味はよくわからなかった。イケメンにはイケメンのプライドがあって、そういうものが戦っているんだろうと勝手に解釈する。

「ただいま……」

わずか数分しか経っていない、まだ悪い空気の残る部屋に帰るのは気が引けたので、近くのコンビニでアイスクリームを買って帰った。
忍足さんは背中をむけたまま、「おかえり」とぶっきらぼうに答える。

「アイス、食べます?」
「……もらおかな」

結局、この人はなにを怒っていたんだろうかと考えてみても、たぶんこの調子じゃ絶対に心の内を話してはくれないだろうから、わたしは黙ってアイスを差し出した。
拗ねているかのようなその背中が、なんだかやけに子どもっぽい。まだ付き合いは3日程度だけど、はじめて見たな、この人のこんな感じ。

「日中はなにしてたん……抹茶もらうわ」

ようやくこちらを振り向いて、ぶすっとアイスクリームを手にしている。
なんだこの、でっかい子犬みたいな男は。言葉が矛盾しているのはわかっているけど、さっきまで怒ってたかと思ったらそのモードはなに!? いくつ顔があるの!?

「仕事ですよ。リモートですけど。じゃ、わたしはストロベリーにしよっと」
「ほな平日も、俺はここで仕事してええんかな?」
「……別にいいですけど、ここじゃなきゃいけないことってあります?」
「そら……チェック物をすぐにわたせるがな」
「またあのバッテンだらけのダミーですか……」漫画でいう、ネームのようなものだ。
「派遣の仕事なんか、勤務時間いっぱい忙しいわけちゃうやろ、どうせ」それは全国の派遣社員さんに大変失礼であるので撤回してほしい。
「どうせってなんですか、どうせって。まあ……比較的、暇ですけど」そう、わたしは暇だけど。
「ほなその時間つかって、俺と制作や。時間は有効に使わなあかん」

まあ、たしかに。別にここに忍足さんがいなくても、これまでだって暇があれば制作に時間を使ってきたのだけど、それは言わないでおいた。なんだか今日は、余計なことは言わないほうがいい気がする。

「せやから」
「はい?」
「男にうつつを抜かしとる暇なんかないんやで、伊織さんは」

ものすごく真面目な顔で、忍足さんはそう言った。
なるほど、やっぱり予想どおり、制作の邪魔になるから恋愛禁止なわけだ。わたしはアイドルか!

「忍足さん、わたし今年32歳です」
「知っとる」
「そんなことをあなたに言われる筋合いありません」
「俺は伊織さんのパートナーやねん。オスカーも恋愛は禁止や!」どうやら、大手芸能事務所のことを言っているらしい。
「それも噂じゃ25歳まで! いまどき、仕事が大事だから恋愛禁止なんてなに言ってるんですか!」
「とにかくいまのうちだけでも! ……集中してや、俺との仕事に」
「してますよ。してるじゃないですか、こんなに。どれだけ忍足さんにダミーを突っぱねられても、わたし、諦めてないでしょ?」
「……まあ、そやね」
「忍足さんだから、ですよ」
「え」
「忍足さんがプロにしてくれるって信じてるから。だから忍足さんも、わたしを信じてください」

半分になったアイスのカップを置いて、忍足さんがじっとわたしを見つめた。
な、またこの男は……なんでそんな顔をするんだ、イケメンなんだからちょっと自覚してよ! ……カッコイイ!

「信じとる」
「えっ」

スプーンを持つ手があたたかくなった。忍足さんが、突然、わたしの手を握ってきたからだ。
ドドドドドド、と心臓がうなりだすのがわかった。いかん、いかんいかん! なんだこれは!

「ほな、さっそく取り掛かろ」
「へ」

パッと手を離して、忍足さんは作業机に向かった。わたしのダミーを見るんだろう。
スプーンを口にくわえたまま、机の上にある赤ペンを手にとって片手でくるくると回していた。
はぁ……イケメンってほんと、天然が多い。





「なに、その格好」

火事の日から1週間後の月曜だった。平日から土日まで、お風呂とわずかな睡眠時間以外、忍足さんは相変わらずわたしの家にいる。今日も朝から顔を出してきたが、玄関の扉を開けた途端、わたしのよそ行きの服装に目を丸くした。

「急遽、会社へ出勤になっちゃったんです。だから忍足さんはここに居てもいいですけど、わたしは夕方まで戻れないです。あ、鍵をわたしておきましょうか?」

朝の7時に会社から連絡が入った。どうやら会社から支給されているパソコンにあるデータを入れなければいけないらしいのだが、それがセキュリティ回線だとエラーになってしまうので、会社にきてインストールをしてほしい、とのことだった。VPNがどうとか、ターミナルがどうとか、難しいことを言われてもよくわからなかったわたしは、面倒なので「出社します」とだけ伝えた。

「いや、さすがに家主がおらん女の家に何時間もおるのは……ちょっと気がひけるわ」

へえ、そういうところあるんだ、あんな強引に人の家に居座っておいて。

「えーっと、じゃあすみません、わざわざ来てもらいましたけど……」
「ああちょっと待って。営業には行くから、絵本と下書き、取ってくるわ」

靴を脱いでバタバタと部屋に消えていく。
すっかり忍足さんのものと化した、彼には小さめのスリッパが、軽快な音を立てていた。

「よっしゃ、ほな行ってくる。夕方は何時くらいに帰れるん?」
「んー、17時に終わるので、18時とか、そのあたりかな」

駅近くまで一緒に歩いて、分かれ道にさしかかった。
傍から聞いたら新婚のような会話だと思いながら、忍足さんが相手なら誤解されるのもいいな、などと邪なことを考える。

「わかった。ほな俺も、その時間くらいには終わらせて伊織さんとこに戻るわ」
「わかりました! じゃあ、構想を練っておきます」
「ん、仕事もがんばりや」

ぽん、と。ものすごく自然に、ぽん、とわたしの頭に手を置いた。
わたしの視界が一気に焦点をなくして、そのまま固まってしまう。
忍足さんはそんなわたしに気づくこともなく、タクシーに乗って姿を消した。
あの天然にいい加減に慣れなくてはならん……と手で胸をおさえていると、スマホが震えだしていた。
会社からだろうと思い液晶を見れば、「一條新次」と出ていて、すぐに通話に切り替えた。
あの日から、なんの連絡も取っていなかったからだ。

「あ、でた」
「新次?」
「ああよかった。番号、変えてなくて」
「あはは。うん、変えてない」

なるべく平静を装って答える。このあいだの再会から、ほんの少しだけ心が揺らいでいるのがわかる。もし、もしも忍足さんが本当にわたしをプロにしてくれたら、そしたら新次とのことだって……なんて、相手の気持ちもわからないのに先走っている自分に笑いそうになってしまう。

「あ、ごめんな朝早くに。仕事はじまると忙しくて、なかなか電話できないから、朝のほうがいいと思って」
「うん? どしたの?」
「その……1週間、考えてみたんだけど」

もしかして、の予感が、すでにドキドキに変わっていた。もう完全に終わったはずの恋なのに、嫌いになって別れたわけじゃないせいか、じんわりと熱くなってくる。

「デートしない? オレと」
「デート……」

いますぐにでもOKを出すことだってできたのに、わたしは言葉に詰まってしまった。
もしもデートをしたら、よりを戻そうって話になる、たぶん。そしてよりを戻したら、結婚しようって話になる、たぶん。忍足さんがプロにしてくれるって信じてるからそれでもいいのかもしれないけど、もしプロになれなかったら、わたしはまた同じように彼を傷つけてしまうことになりかねない。生活に甘えたくないプライドは、プロになって軌道にのるまではわたしのなかに確実にありつづけるだろうから……。それって、いつの話?

「伊織……?」
「あ、ごめん、えっと……返事、待ってもらっていい? ちょっとこれから会社で、急ぐんだ」
「あ、ああ……じゃあ、また連絡する」
「うん、ごめんね!」

5年も恋愛をしていないせいで、すっかり舞い上がっていた。そう、彼とよりを戻すってことは、プロポーズを受け入れるってことだ。彼はアラサーのわたしよりもずっと、「早く結婚がしたい」と言っていた人だから。結婚へのこだわりは、わたしのプライドくらいに強固なんだ。





「それは断るべきじゃないですよ佐久間さん!」
「え」

おにぎりを口いっぱいに頬張りながら、同じく派遣社員である彼女は言った。わたしより2ヶ月あとに入ってきた派遣スタッフで、久々に顔を合わせた途端にランチに誘われた。

「そうかなあ……」
「夢を追いかけるのはいいです。でも、彼と話し合うことだってできるじゃないですか。プロになって、軌道にのるまでは待ってほしいって。その話し合いをしてから、どうするか決めるべきですよ」
「うん……」
「だってまだ好きなんですよね? 彼のこと」

好きか、と言われると、好きだった、という答えになる。だって5年も経っているのだ。そんなすぐに「やっぱり好きー!」とはならない。5年のあいだに、ほかの男とキスもしちゃってるし……ふざけたキスだったけど。

「佐久間さんのなかで恋愛するのは、別にOKなんだし。生活のこと、甘えたくないってだけでしょ? 佐久間さんの葛藤って」
「うん、まあね。でも彼、本当に結婚願望が強い人だったから。わたしのわがままで待たせるの違うじゃない?」

こんな話、前に吉井ともしたことを思い出す。
そういえば吉井、あれから連絡ないけど、どうしてるんだろう、最近。

「だけど彼、結局5年も待ってるってことですよね」
「え」
「だってまた佐久間さん口説きにかかるってそういうことでしょ。そりゃあ、5年もあったんだからほかの人とも付き合ったかもしれないけど、それでもやっぱり佐久間さんがいいから、こうなってるんですよね? わすれらーれないひとーがいるー、どうしてもーあいたくてー的な」

聞いたような歌のフレーズを口ずさんで、彼女はおにぎりを飲み込んで言った。

「だから、火事って最大のチャンスにかこつけて、会いにきちゃったんですよ」





本当にそうだとしたら、すごく嬉しいと思ってしまう自分がいる。この嬉しいは、同じ想いだから、という形ですぐにイコールにはならないから厄介だ。
自宅に帰ってからずっとケント紙とにらめっこをしているが、まったくなにも思いつかない。頭は新次のことでいっぱいだった。
ひょっとして忍足さんは、わたしがこうなることを見越して恋愛禁止だと言い出したのかと思うと、的中している自分が情けなかった。
しばらくしてからチャイムが鳴り、出迎えると案の定、忍足さんが立っていた。
わたしの顔を見るなり、彼は開口一番に言った。

「なんやその、覇気のない顔は」
「はあ……」

絶対に口にはできない。こないだあれだけ恋愛禁止の件でおかしな空気になったというのに、こんな責め立てられるだろう材料をわたすわけにはいかなかった。

「ちょ、なんもできてへんやん」
「すみません……ちょっとスランプ」
「は?」

忍足さんにはデビューするまで最低10冊分の絵本を制作するように言われている。まだまだ全然、その数には及ばないうえに今日は新作のダミーを描きあげるという約束なのに、わたしの筆は一向に進んでいなかった。

「偉そうな言葉を使っとんちゃうわ。プロでもないくせになにがスランプや」
「だけど進まないんですもん……」
「なんで? なあ。なんか悩みでもあんの?」

あります、とは絶対に言えない……。
そう思って顔を覆っただけだというのに、忍足さんの声が急に低くなってわたしの頭上から落とされた。

「お前まさか……あの男ちゃうやろな」
「えっ」

ぎょっとして顔をあげると、あのときのように細くなった切れ長の目がわたしを見ていた。

「そ、違いますよ……!」
「ほななんや、言うてみい」
「だからスランプだって……」もちろん、本気で思っていません。プロの作家さん、適当なことを言ってごめんなさい。
「もういっぺん言うてみい、どついたる」

ゴゴゴ……という音がしそうなほど、忍足さんはにじり寄ってきた。スランプ発言に怒っているのか、はたまた恋愛に悩んでいると勘付いて怒っているのかはわからないが、ひょっとして殺されてしまうのだろうかと思ったときだった。
ピンポンと、わたしを救うようなチャイムが鳴った。

「あ、お客さんです! はーい!」

忍足さんをすり抜けて、わたしは助かったとばかりに玄関の扉を開けた。誰かも確認せずに。

「あ、ごめん、また押しかけて……」
「新次……」
「返事、聞きたくて。ごめん、待てなくて」

忍足さんがいるのに、と思ったときにはもう遅かった。
ゆっくり振り返ると、忍足さんはずんずんとこちらに向かってきていた。

「あ、こんばん」
「またアンタか。なんの用が」
「行くよ新次!」
「えっ」
「は?」

新次が忍足さんに挨拶をしようとして、それを忍足さんがこのあいだのようにぶった切って、その険悪なムードに耐えれなくてわたしがぶった切ると、二人のイケメンから同時に戸惑いの声が返ってきた。

「だから、デート。行く」
「あ、マジ?」
「うん」
「あ、じゃあ週末、土曜とか空いてる?」
「空いてる!」
「ちょお待て、空いてへんわ!」
「空いてます! そのぶん金曜と日曜に思い切りやりますから!」
「ありがとう。じゃあ今日は、もう邪魔しちゃ悪いから、帰るね。また連絡する」
「うん、待ってる!」

そそくさと出ていこうとした新次は、扉を閉める直前、一瞬だけ忍足さんを見た。
なにか言いたげな間に、わけもわからずわたしは焦った。

「それじゃ忍足さん、伊織のこと、よろしくお願いしますね」

軽く会釈をして、パタンと閉じられた扉に、忍足さんはスリッパを投げつけていた。





「なに勝手に決めてんねん!」
「わたしに休みはないんですか!?」
「あるかそんなもん! 俺かて休みなく働いとるわ! 伊織さんプロにするためやろ!」
「それはわかってます! でも、いいじゃないですかちょっとくらい!」
「そんな時間あると思てんの!? プロの作家たちは寝る間も惜しんで作品描いとるんやで! まだプロでもない、ほかの仕事にも時間とられる伊織さんがプロになるには、その何倍も努力せなあかんねん!」

忍足さんの言いたいことはすごくよくわかっていた。
だからって、デートのひとつやふたつ、したっていいじゃないか!

「だから、金曜と日曜に、土曜のぶんも頑張りますから……」
「……そんなにデートしたいんか、あの男と」
「いや、そ……だって約束しちゃいましたし」
「あっそ」

ぷん、とそっぽを向いて、頭を抱えている。
聞き分けのない娘を持った父親の気分だろうか。はたまた、言うことをきかないアイドルプロデューサーの気分だろうか。はたまた……と思考をめぐらせていると、今度は忍足さんのスマホが鳴りはじめた。
今日はとにかく、こういう音を聞く日だな、と、どうでもいいことを思う。

「はい。ああ、先程はどうも!」

営業用のテンションなのか、さっきとは打って変わって優しい丁寧な声と口調で電話口に向かって話す忍足さんに呆れつつ、なにもしていないのにどっと疲れたわたしが作業机に向かおうとしたときだった。その腕を、強くつかまれた。

「え」
「はい、はい。ホンマですか? ああ、それは願ってもない……はい、はい」
「ちょっと、離してください」

腕をぶんぶんと振ってみるも、全然、離れてくれない強い力。
いまですらすでに強いのに、さらにその力が込められていて、いささか痛い。

「忍足さんっ」
「わかりました、1ヶ月後ですね。はい、絶対に後悔させません、はい、また!」

ピッと電話を切った瞬間、そのつかまれた腕がぐいっと引き寄せられた。

「えっ!」

忍足さんが、突然、わたしを思い切り抱きしめてきている。
これは……なにごと!?

「ちょ、ちょちょちょ忍足さん!?」
「やったで伊織さん」
「え?」
「こないだの下書き持っていったとこの出版社の編集長が、新作持って来いって!」
「え……」
「ほかの作品見て、デビューするかどうか決めたいって!」
「ええ!」
「やったで、やった!」

一瞬、引き剥がしてわたしを見て、ものすごい笑顔を向けて、そしてまた、わたしを抱きしめた。
それを聞いたわたしも嬉しさで胸がいっぱいになって、忍足さんの背中に力強く手を回した。

「嘘みたい……本当なんですよね!?」
「ホンマや! やったで伊織さんー!」
「忍足さん! 嬉しい!」
「言うたやろ、絶対大丈夫やって!」
「はい! はい、忍足さんを信じてました!」
「俺も伊織さん、信じとったって! 絶対成功させよ! な!」
「はい!」

ぎゅう、とお互いに力を込めていたことで、わたしたちはようやくはっとした。
ゆるゆると、その力がどちらからともなく弱まっていく。
ゆっくりと体を離して目があった瞬間、パッと同じタイミングで、わたしたちは目を逸らした。

「あー……ほなとっとと、取り掛かり」
「は、はい……」
「ぼさっとしとらんと、はよしい!」
「わかりましたって!」

気まずさ全開で、わたしたちはお互いに背中を向けた。
衝動的に触れ合った体が、完全に火照っていることには、気づかないようにした。





to be continued...

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