TOUCH_06


6.


耳の奥に届く電話のコール音に、指先がじりじりと痺れていた。
いつもなら流している音楽も、聴く気にもなれなかった。頭がぼうっとして、なにも手につかない状態だ。
それどころか、リョーマの施術という大事な仕事中ですら目の前が歪みそうで、考えるのは秋人のことばかり。
あげく、リョーマを怒らせた。プロトレーナーとして失格もいいところだと自分を叱責したところで、本当のことを知るまでは、息をするのも苦しいくらいだった。

「もしもし?」
「……秋人?」
「おう、どうしたんだよ、やけに早いな」

日本は朝の8時だ。明日の昼食時にかけようと思っていた入国後初の電話で、心に留めておくことのできない疑惑を話題にするとは、思っていなかった。

「そっちはどう? 今日は何時にそっちに着い」
「聞きたいことがあるの」
「……どうした?」

どうでもいい世間話をするつもりはなかった。
わたしの声の低さでわかったのか、秋人の声も慎重になっていた。

「3年前、どうしてバスケコーチ辞めたの?」
「……なんだよ、なんでいまそんな話」
「知りたいの」

なにかの間違いであってほしい。千夏さんがわたしに告げたことは、どうか彼女の勘違いであってほしい。そうに決まってる、そうに決まっているんだからと、もうひとりのわたしが連呼する一方で、胸の奥に広がる焦燥感が、激しく全身を揺さぶっていた。

「それは……もっと違う仕事がしたくなったっていうか」
「どうして?」
「だから……お前の治療院もあったし、道はいろいろあるんじゃないかって」
「おかしいの」
「……なにが」
「今日、3年前に秋人の担当してたチームで、管理栄養士してた子に聞いたの。チーム越前にいる子に」
「え……」
「その子、秋人が3年前にコーチを辞めてから、伊織さんと交際しはじめたんですねって、やけに断定的に言ってきた。あれから秋人さん、持ち直したんですねって。どういうことだろ? 秋人、説明できる?」
「それは……」

いよいよ、秋人が黙り込んだ。窓から見えるわずかに歪んでいた目の前の絶景が、海に飲み込まれるように消えていく。これから聞く真実がわたしの心臓を鷲掴みにして、涙があふれ出た。

「……ほかに、女がいたの?」
「伊織……」
「それともまだ、女がいるの?」

だから、わたしとは結婚できなかった……?

「会って、直接話したい」
「無理だよ、秋人……」
「伊織、頼むよ」
「無理!」

全部、まぼろしだったんだ。秋人との5年間、ずっと彼と向かい合って生きてきたと思っていた。だから結婚したいって思った。秋人だから。このままずっと一緒にいるのは絶対にこの人だって、思っていたから。

「なあ、伊織」
「秋人……わたしがいま、なに見てるかわかる?」
「え……?」
「3年前のネットニュースの記事。秋人がコーチをやってた、女子バスケットチームのエースの選手が、妊娠して、引退したって記事」
「伊織、ちゃんと俺から説明させて」
「じゃあ教えてよっ」

当時だって、この件を知らないわけじゃなかった。だけど秋人の辞めた理由とこの妊娠は、なんの関係もあるはずがないと、読み飛ばしていたような記事だ。

「父親は不明、シングルマザーになる覚悟を決めているって書いてる。ねえ、秋人なの? この選手のお腹のなかにいたのって、秋人の子どもなの?」
「……」
「なんとか言ってよ」
「……」
「ねえってば!」

千夏さんが言った、「持ち直した」「新しくゲットした」という言葉を聞いてから、ずっと嫌な予感がしていた。
部屋に戻ってすぐに、彼がコーチをしていた女子バスケチームの3年前の記事を読みあさった。直感的に、これしかないと思った。全部、彼女の言っていたこととつじつまが合うのは、この記事しかなかった。
発表された記事の日付と、秋人が突然辞めた日付は、わずかほどしか違わなかったから。
いまごろ……気づくなんて。それだけ、わたしは秋人を、信用しきっていたから。

「……いまも、会ってるんだ」
「え……」
「認知してる。自分とは結婚できないというなら、子どもが大きくなって状況がわかるようになるまでは、誰とも結婚せずに、月に数回、父親の役目を果たしてほしい。それが、俺との関係を世間に公表しないという条件だった」

ごめん、ごめん伊織……。
嘆くような声とともに、わたしはその場にへたり込んだ。





あの最低な夜から、2週間ほどが過ぎている。
リョーマは4試合を勝ち取って、あっという間にベスト16まで登りつめていた。
秋人に電話する前の施術でリョーマとは気まずい雰囲気になっていたものの、それも数日後には解消して、いまでは良好な関係で、気持ちのいい職場環境だ。ただひとつ、わたしのメンタルを除いては。
もちろん、秋人のことはずっと頭のなかにある。仕事が終わってひとりになれば、何度も反芻しては涙を流す。
それでもリョーマのテニス人生をかけたウィンブルドンという大事な大会期間に、プライベートのことで仕事がおろそかになるような真似だけはしたくなかった。そんな失態は、もうあの夜だけで十分だ。

「伊織さん、電話なってますよ」
「あ、気づかなかった。ありがとう」

今日は、チーム越前のつかの間の休息であるオフの日だ。
南次郎さんの部屋でスタッフだけの打ち合わせを終えてすぐ、テーブルの上でわたしのスマホが光っているのを、千夏さんが教えてくれた。
見ると、秋人からの電話だった。あの夜から、何度も規則正しくかかってきている。
時計を見れば午後8時だった。日本は朝の4時だ。わざわざ起きて、わたしが出やすい時間にかけてきていることがわかる。
それでも、その電話に出る気には、当然なれなかった。
通話ボタンを押さないように、そっとポケットのなかにスマホをしまい込む。それと同時に、バチッと千夏さんと目が合ってしまった。
なんとなくだけど、千夏さんは秋人の存在を知ってからも、わたしを警戒しているような気がする。

「これから、夜の整体ですか?」

……いつも思うが、なんとなく卑猥な響きだ。同じ感想を持っているから、彼女はわたしを警戒しているのかもしれないと思う。……って、そんなわけないか。

「うん、そうだね。あ、今日は楽しかった? デート」
「はい、すっごく。恋人時代に戻ったみたいでした!」
「そう。それはよかったじゃない」

このアピールが、わたしへの警戒を余計に感じさせるものの、面倒くさいので放っている。とはいえずっと話を聞くのもうんざりするので、わたしはそそくさと部屋から出た。
さあ、今日のリョーマの調子はどうだろう。
大会のあいだに入るオフなので緊張感は抜けないものの、千夏さんがこれみよがしな弁当を持ってリョーマとデートにでかけていたから、少しはリラックスできたのだろうと推測する。
単純に、若いっていいな、と思ってしまう。わたしだって5年前に秋人と会ったばかりのころは、あんなふうにデートを楽しんでいたのに。
そこまで考えて、いけない、と頭をぶるぶると振った。これからリョーマと対面するのだ。彼にだけは、なにも悟られないようにすべき。というのは、わたしのなかの信念のようなものだった。チーム越前のスタッフたちに多少悟られても、それほど問題ではない。でも、彼はプレイヤーだ。わたしの精神状態を知ったら、その不安がそのまま彼の体に影響する可能性だってある。わたしがリョーマを信じているように、リョーマもわたしを信じていなければ、トレーナーとプレイヤーの関係は成立しない。本当ならこんな精神状態のトレーナーに体を預けるなんて、すでに被害者状態だというのに。
だからこの2週間、リョーマの前ではほかの誰の前よりも明るくふるまった。
ふるまった、はずだったのに。
気づいたときには、もう遅かった。

「なんでそんなに、無理して笑ってんの」

施術台に横にもならず、立ち止まってわたしを見据えるリョーマの目が、痛いくらいに突き刺さる。

「彼のこと聞いたよ、千夏に。あいつはなにも知らないけど、オレ、全部わかった」

その言葉に、彼の切ない視線に、まるでフラッシュバックのように、秋人とのやりとりが思い出されて、わたしは泣きくずれた。

「オレ見てらんないよ、いまの伊織さん」

引き寄せられて包まれた体が、ずっと誰かにこうしてほしかったんだと訴えている。
どうしてリョーマが。誰も気づいてなかったのに、どうしてよりによってリョーマが。

「誤解しないで。これ、こないだのおまじないのお返しだから」

ひどく切ない声で、わたしの髪をそっと撫でる。その優しさに、涙が止まらなくなる。
彼の背中に手を回して、わたしはリョーマにしがみついた。それに応えるように、リョーマのわたしを抱きしめる手が、ぎゅ、ぎゅ、と強くなっていく。
選手に甘えてしまうなんて。わたしがリョーマを、支えなくちゃいけないのに。

「落ち着くまで、このままでいいから」

いちばん知られてはいけない人に知られてしまった後悔は、どれだけしても足りなかった。





「こんな話、聞かせてごめんねリョーマ」
「そんなのいいって」

施術台に座っていた。泣き止んだわたしを見計らって、リョーマはそっと体を離し、まだ開いていないお茶のペットボトルを差し出してくれた。
わたしのとなりに腰をおろして、心配そうに覗き込んできたリョーマに、わたしはすべてを打ち明けていた。
5つも年下の彼に、すっかり慰められていたのだ。

「ねえ、電話。さっきからずっとなってるみたいけど、いいの?」
「……いいの」

少し離れた場所にある小さいテーブルの上に置かれたわたしのスマホは、またも光っていた。
遠目から見ても、その液晶が秋人から電話だと知らせていることがわかる。
それほどわたしに説明したいことは、いったいなんだろうと思う。もうすべてを知ってしまった。あれ以上、聞きたい話なんてなかった。
どうして浮気したとか、そういう言い訳を並べるつもりだろうか。なにを聞いたって、きっと納得なんてできないのに。

「秋人、とかって人?」
「うん、そうみたい」
「ふうん」

心のなかを見透かすように、リョーマがテーブルに向かって歩いて行った。スマホに手を伸ばしている。こっちに持ってきてくれるのかと思ったのは、一瞬だった。
彼はじっとスマホを見つめたあと、言ったのだ。

「いい度胸してんじゃん」トン、とスマホをタップした。
「え!」

驚きでいつもよりも大きな声が飛び出していく。
リョーマはなんのためらいも見せずに、スマホを耳にあてた。

「もしもし?」
「リョ……!」

わずかに、電話口から秋人の困惑したような声色が聞こえてきた。なんて言っているのかまではわからない。久々に聞く秋人の声に、胸がしめつけられる一方で、リョーマがどういうつもりで電話に出たのかわけがわからず、わたしは慌てて駆け寄った。

「伊織さんに、なんの用?」

もう一度、秋人の声が聞こえた。代わってほしい、そんなような言葉が耳を突く。
必死で悲痛なその声色が、こりもせずわたしの胸を抉っていく。どうしてまだわたしを追いかけるようなことをするのか。だけどそこに愛情を感じて、愛しいとすら思ってしまうわたしは、本当に愚かだ。
でも、そんなシリアスな痛みが一瞬にしてふっとぶようなことを、リョーマが言った。

「伊織さんなら、いまオレとベッドの上で気持ちいいことしてるから、出れないよ」
「ちょっ!」

いっそう慌てたわたしがスマホを取り上げようとするものの、軽く避けてクルクルと体を素早く動かすリョーマに手も足も出ない。
っていうかこのガキ、なんてことを言うのだ……!

「リョーマ! 電話返して!」
「だってホントのことデショ」
「ホントじゃない!」
「ベッドの上ジャン」
「施術ベッドでしょ!」
「気持ちいいジャン」
「リョーマだけね! っていうかまだ施術もはじめてない!」

やっとの思いでその手首をつかむと、リョーマがニッと笑う。
わたしを覗き込んでいた少年のような顔が、急に男の顔になった。
その変化に驚いたわたしが呆然と彼を見上げていると、リョーマは目を細めて、微笑んだ。

「やっと本気で、元気になった伊織さんが見れた」
「え……」
「もう切ってるよ」

ん、とスマホを返される。おっしゃるとおり、液晶画面は真っ暗だった。
というか、どの段階で切ったのかわからないけど、すごく誤解される状況で切っている気がする……。
わたしの気持ちを汲んでくれた、リョーマなりの、秋人への仕返し?

「もう、なんてことすんの……」呆れてため息がでる。だけど、それが優しさだってこともわかるせいで、思わず笑ってしまった。「ていうか、どこで切ったの?」
「もちろん、気持ちいいことしてる、の直後」
「まったく……」

まあたぶん、秋人のことだろうから本気にはしてないと思うけれど。
いや……別に、本気にしてくれたっていいのかもしれない。もう、別れるんだから。わたしがどこで誰に抱かれてようが、それで秋人が嫉妬しようが。
嫉妬なんて……すればいい。わたしの苦しみが、それで少しでもあの人に伝わるなら。

「ねえ、伊織さん」
「うん?」
「施術前にお願いがある」
「どうしたの?」

一度だけ目を逸らすようにして、リョーマは言葉を切った。
それでもすぐにわたしに目を合わせて、ふうっと、息をはく。

「……オレに、隠しごとしないで」

真面目な顔で、わたしを静かに見下ろして。
言う必要がないことを、わざわざ言うつもりは最初からなかった。でも、仕事に影響するようなことなら、言っておくべきだったのだろうか。
いや、影響させているつもりはない。わたしはプロだ。メンタルが弱っていたって、施術はきちんとできる。
それにリョーマは、他人の悩みを聞いている場合じゃないのだ。明日はウィンブルドンの準々決勝戦。ベスト8かどうかってときに、こんなトレーナーの不穏なメンタルを彼に担がせるわけには……。

「どうせいまも、ごちゃごちゃ考えてんだと思うけどさ」
「えっ」あっさり見抜かれていることに、声がもれ出てしまう。
「オレ、伊織さんのことなにも知らないほうが、無理だから」
「む……無理って?」
「だってオレの体にいちばん触れるのは、伊織さんでしょ」
「そうだけど……」
「そんな人が、プライベートでつらい思いしてて、俺に伝わらないと思う?」

……だから、伝わらないように、してたのに。してた、はずなのに。

「スピリチュアルな話、嫌いなんじゃなかったっけ……」情けなくて、可愛げのないことを言ってみた。
「嫌いだけど、試合直前の伊織さんのおまじないは、いつも超効いてる」
「リョーマ……」
「だからなにかあったんじゃないかって思いながら試合すんのは無理。だったら知ってたい。それならオレが、悩まなくて済むから」
「でも……」
「オレを優勝させてくれるって、言ったよね、伊織さん」
「……」させてやるとまで、強気なことは言ってないけど。
「だったらなんでも言って。伊織さんのこと知らないほうが、オレ、試合に影響するから」

熱っぽい視線に、小さな予感が頭をよぎった。





そんなわけ、あるか。あの世界の越前リョーマが。
と、自分に悪態をついてみても、完全に意識してしまっている自分が虚しい。
翌日になっても予感の波が心にゆらぎを与えて、まともにリョーマの目さえ見れなくなっている。

「今日も負けんなよリョーマ!」南次郎さんの勢いのいい声が響く。
「トーゼンでしょ。こんなとこで負けないよ」

試合前の控室は熱気がこもっていた。ロンドンに来てから、今日で5試合目。
そろそろ体に疲れが見えてきていている。本人すら気づいていない微妙なガタは、わたしの目だけに映っている。決勝まであと3試合……持たせなきゃ、この力で。
だから……その選手にバカな勘違いをして意識している場合じゃない!

「伊織さん?」
「えっ!」
「なんでそんな怖い顔して、オレのこと睨んでンの?」
「に、睨んでなんてないよ」
「んじゃ、笑ってよ」

言ってる本人が、ふっと微笑んでわたしを見る。
動揺して震える頬がバレてしまいそうで、リョーマの言葉を無視して顔をそむけ、しらじらしくもペットボトルの水を口につけた。うっかり手まで震える始末だ。
南次郎さんが、ニヤニヤしながらこっちを見ているのがわかる。絶対に、あの人と目を合わせてはならない。なんならリョーマ以上に。彼は女のことしか考えてないような空気を見せつつも、本当に鋭い視点を持っている。対面してから今日まで、そのことは嫌ってほどわかるから。

「リョーマ、あたしが笑ってあげる」
「は? 千夏はいつも笑ってんじゃん」
「なにそれ! あたしじゃ不満だってこと!?」
「別に。伊織さんがこっち睨んでて怖かったから言っただけだし」
「なにそれっ」

千夏さんが怒っていた。無理もない。
雲泥の差と言ってしまっていいくらい、わたしには甘くて、千夏さんには冷たい。
ダメだ、ダメダメ、そんなはずない。落ち着かなきゃ。いまは抱えてることが多すぎて、もうこれ以上は無理なんだからっ。

「越前選手、10分前です!」

やがて、会場スタッフの人がリョーマを呼びに来た。全員の背筋が一気にピンと伸びる。
いよいよ、ベスト8の壁を越えるときがきた。きっと勝つ、リョーマなら。そんなチーム越前メンバー全員の緊張が、控室の空気を一気に変えた。
リラックスして体をゆらゆらさせているのは、リョーマだけだった。

「よっしゃ、ぶちかましてこいリョーマ!」
「わかってる。でもその前に」
「おいおい、なんだよ」
「伊織さん、アレやってよ」
「あ……あ、うん!」

最初の試合でやった「おまじない」という名目のタッチングは、このウィンブルドンでは恒例となっていた。試合開始10分前の合図とともに、リョーマはおまじないをねだってくる。
1試合目がいちばん調子が良さそうだったから、きっと願かけ状態になっているんだ。

「ねえ、聞いていい?」
「うん?」

施術台に移動して、リョーマはすぐにうつ伏せになった。
そっと触れていく体が、すっかり熱くなっている。リラックスはしているように見えても、それなりに緊張も一緒にやってきているらしい。やはり、ベスト8ともなると。

「あの最低野郎とは、もう別れたんだよね?」
「え」
「あのあとだって、どうせ電話かかってきてたんデショ?」

かかってきていた。でも当然、無視していた。
真実を知ってからは電話だけでなく、メッセージアプリも、一度も開くことなく放置している。
だから……まだ、別れを告げてはいない。

「……そっか。黙るってことは、まだ別れてないんだ」
「リョーマ、いまは試合のことだけ」考えて、と言おうとしたところで、彼は急に起き上がってきた。
「うわ、ちょっと、なに」
「別れるって約束して」
「え」
「オレ、ベスト8に勝ち上がるから。いま伊織さんが約束してくんないと、勝てないかも」
「ちょ、なに言ってんの、それとこれとは」
「もちろん別だけど。でも試合には影響する」
「リョーマ……」
「そんなに好き?」

昨日の視線だった。熱っぽい、大人の男の視線。
待ってリョーマ、落ち着いて。いや、そんなはずない。落ち着くのはわたしのほう?

「あんなことされても別れるのためらうくらい、好きなの?」
「……そんなこと、ないよ」どうしてそんな目で、わたしを見るの。
「じゃあ別れて。伊織さん、別れるって言ってたじゃん。早くして」
「わ、わかってるよ」
「大事なチームメンバーが、不幸になるのなんか嫌だから、オレ」

わたしの手が、いつの間にかリョーマの手に握られていた。
ぎゅ、とあの日、わたしを抱きしめたときのように込められる強さに、どうにかなってしまいそうだ。

「行ってくる。絶対、勝ってくるから。伊織さんも、勝って」

そう言うと、そっと手を離して、試合会場に向かっていった。
その背中に、言われたことに、リョーマの視線に、握りしめられた手に、息があがっていく。
見透かされていた。電話にでないのも、メッセージアプリを放置しているのも、全部……別れ話になるのを、どこかで怖がっていたことを。
……5年も、付き合ってきたから。これまでないくらいに愛してた。いままで付き合ってきたどんな男よりも誠実で、同じようにわたしを愛してくれていると信じてた。
でも、その信頼を一瞬で崩すような裏切りで、心が疲弊している。リョーマの言うとおり、こんな関係、幸せとは、ほど遠い……勝たなきゃ、わたしも。

「ありがとう、リョーマ……」

独りごちて、そっと、スマホに手を伸ばした。
リョーマの試合がはじまる前に、自分のなかで決着を付けておきたい。
コール音が鳴る。3回目で、相手が出た。

「やっと話せる、伊織……」
「話すことない。別れよう、わたしたち」





あれから、3日が過ぎていた。
準々決勝も勝ち、準決勝も見事に勝ち進んだリョーマ。不気味なくらいに順調で、数日前に見て取れた体の不調は、いまはわたしが見てもなにも感じられないほどだった。
それも、今日の決勝で終わる。今日、ウィンブルドンで優勝したら、これはもう、歴史的大快挙だ。すでにベスト2という記録に、日本だけでなく、世界中が大騒ぎになっている。

「伊織さん、どう?」
「うん。この調子なら、今日も大丈夫だと思う」

朝の整体時間、わたしは念入りにリョーマの全身を診ていた。
いちばん不安視していた膝も、順調だ。でも、ひとつだけひっかかることがあった。極限のなかで行われる試合は、本人の実力以上のものが突如として出てくることがある。
体が軋む音が聞こえてくるようなプレイスタイルに、試合を見るたびにハラハラしていた。昨日までのあの戦い方を見ていると、どれだけ試合後の体がなにも訴えてこなくても、完全とは言い切れない。
それでも、トレーナーがプレイスタイルに口を出すのは憚られた。なんせ、わたしはテニスのことなどなにも知識がないのだから。
こうなると、厄介だった。目に見えない不調があるとしたら、本人に聞くしかない。

「リョーマ、ほかに不調はない? 気になっていることとか」
「全然ヘーキだって」
「前に言っていた腰は?」
「たいしたことないし、前も言ったけど、これくらいはどの選手でも」
「そういう安心の仕方はよくないよ、リョーマ」
「だからって、今日、出ないわけにいかないじゃん」
「わかってるけど……ちょっと見せて」
「ん」

素直に施術台にうつ伏せになったリョーマに、苦笑する。
この人はいつの間に、わたしの施術をこんなに素直に受けるようになったんだろうと、ふと思った。会って20日ほどしか過ぎていないのに、すっかり距離が縮まった。
なのにどれだけ触っても、このところのリョーマの体はなにも伝えてくれない。前はあれほど教えてくれたのに。念入りにリョーマの施術を行っているおかげで、最初に治療院にきたときよりは全体的によくなってはいるのはたしかだ。でもこれを毎日の治療の成果と、安心していいんだろうか。
腰に手をあてて優しくマッサージをすると、リョーマが小さな声でつぶやいた。

「すっげ、気持ちいい」
「ふふ……それはよかった」

試合前に筋肉をほぐすとき、リョーマは決まって「気持ちいい」とつぶやく。緊張で固まっている筋肉をほぐすのが主な役割であるマッサージは、重くのしかかるプレッシャーを軽減して適度なストレス状態に持っていく。だから、「気持ちいい」のだ。

「伊織さん、さ」
「ん?」
「今日で最後だね」
「うん。そうだね」
「終わっても、オレの専属で一緒にツアー回んない?」
「えっ」

うつ伏せの状態だから、どんな顔をして言っているかはわからなかった。
だけど、その声がふざけてないことくらいはわかる。

「そ……でも、治療院、あるし」
「跡部サンのときは専属だったじゃん」
「あれは十分に考える時間があったし、治療院も、ちゃんとスタッフがいたから」
「ああ、そっか。別れたから、いまはいないんだっけ」

リョーマには、あの日の試合後に告げていた。
彼はたったひと言、「やるじゃん」とわたしに笑顔を向けてくれた。
それきり、秋人の話題はリョーマとはしてきていない。秋人も、この3日はなんの音沙汰もなかった。
5年も付き合ったのにずいぶんあっけないが、別れというのは、いつだってあっけないものだ。

「……さすがにまだ辞めてはいないと思うけど、辞めるだろうしね」

それでも院長のわたしがいないあいだは、秋人が代理院長として活躍してくれているはずだ。
帰国したらそういうもろもろの厄介事が待っているかと思うと、少しだけ心が重くなる。

「伊織さん、あとで腕もやって」
「いいよ。ジェルつけるけど大丈夫?」
「うん、大丈夫。あれ、いい香りするし」
「ふふ。わかった」
「それにさ」
「うん?」
「最後だから、全身くまなくやってもらないわないと、損ジャン」
「……まったく、世界の越前リョーマが図々しいったら」
「ケチ。いいでしょ、それくらい」

クスクスとお互いの笑い声を聞きながら、静かに朝の時間が過ぎていく。
腰のあとに触れた腕も、問題はなさそうだ。
これならきっと、大丈夫。そう何度も心のなかでくり返しながら、わたしは越前リョーマの、最後の施術を終えた。





施術台を片付けながら、わずか20日のウィンブルドン旅行も最後だと、やけに卒業気分になっていた。リョーマは試合前のタッチングを今日もねだってくるだろうけど、本格的な施術はこれで終わりだ。試合後はゆっくりお風呂で体を休めて、とにかく休息をとってもらおう。
当の本人は首をまわしながら全身の調子をたしかめて、大きな深呼吸をくり返した。
どれだけほぐしたとしても、さすがに決勝前の時間はいつもより全身が熱いのだ。

「手伝うよ、オレ」
「え」
「施術台を運ぶんでしょ、部屋まで」
「そうだけど、いままでそんなことしたこともないのに」
「最後だから。感謝してンの、これでも」

生意気な人だと思っていたけど、やっぱりリョーマは優しい。つい3日前から感じていた妙な予感も、少し悪くないと思うくらいに。
いや、少しなんて。
リョーマがもしも予感どおり、わたしのことを気にしていたとしたら……普通に考えたらかなりのシンデレラストーリーだ。だって相手はこの通り、完全な一般市民のただのアラサー。相手は世界的テニスプレーヤー、越前リョーマ。
……バカバカしい。やっぱり勘違いでしょ、どう考えても。

「なにぼうっとしてんの、行くよ」
「はいはい、すみませんね」

折りたたんでバッグに収納した施術台を軽々と持ち上げたリョーマと一緒に、わたしの部屋に向かう。
そのとき、ぼんやりと遠くの視界に人影が見えた。部屋の前で、誰かが立ち止まっている。
リョーマの後ろを歩いているせいで、施術台がときどき邪魔して、よく見えなかった。

「え……」

先に気づいたのは、リョーマだった。ピタ、と足を止めて、ゆっくりと施術台を床に置いた。
わたしは視界から施術台が消えるのと同時に、その姿にめまいを起こしかけた。

「伊織」
「……なんで、ここにいるの」

秋人だった。そっとこちらに近づいてくる。思わず、リョーマの後ろに隠れるようにして身を縮めた。
目の前に現れたことに、ひどく動揺してしまう。別れたのに。裏切られて、あんなに辛い思いをしたのに。どうしてこんなに、胸が痛くなるんだろう。

「なにしに来たの、アンタ」

リョーマの左腕が、わたしをかばうように後ろ側に回された。

「伊織、俺……全部、話つけてきたんだ」
「なんの用って聞いてんだけど。オレのトレーナーに勝手に話しかけないでくれる?」
「彼女は、俺の恋人だ。君には関係ないはずだ」
「もう別れてんでしょ。決勝前の大事な時間に、オレのトレーナーを動揺させるような真似して、どういうつもり?」
「ふたりで話したい」

声がでなかった。秋人の姿を目に映すことさえ怖い。これまでの決心が全部、揺らいでしまいそうで。そんなわたしに、リョーマが気づいていたのかはわからない。
それでも彼はわたしの代わりに、答えてくれた。

「無理だから」
「聞いてほしい、伊織」静かな足音が、近づいてくる。
「伊織さんに近づくなって言って――
――俺と結婚しよう、伊織」

その言葉に、リョーマだけでなく、わたしも絶句していた。
リョーマの背中に隠れながら、ついに、顔をあげていた。






to be continued...

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