ざわざわきらきら_07


7.


だいたいが、最初から気に入らんかった。俺のスリッパを勝手にはいて我が物顔で部屋におった感じとか、「そちらの方は……?」とか丁寧なふりして、品定めするような視線とか。爽やかな感じを振りまいとったけど、俺からしたら慇懃無礼っちゅうのはああいうヤツのことや。
あげく、5年も前に別れた女のとこに押しかけるやなんや、女々しいの権化かお前は。

「それじゃ忍足さん、伊織のこと、よろしくお願いしますね」

伊織さんとのデートを取り付けて有頂天なんかしらんけど、めっちゃ嫌味ったらしく挨拶して帰りよった。なにが「伊織のこと、よろしくお願いしますね」やっちゅうねん!
なんでお前の伊織さんみたいになってんねん。伊織さんはフリーやし、お前からしたら元カノかもしれへんけど、伊織さんからしたら「ただの」元カレやっちゅうねん。ほんで俺は伊織さんの保護者かっ。

「ちょっと忍足さん!」
「なんや」
「うちのスリッパを粗末に扱わないでください!」

思いっきり玄関のドアに向かって投げつけたスリッパが、俺の靴の上で裏返しになっていた。伊織さんがそれを手にして呆れた顔で持ってくる。その手からぶんどって、俺は怒りをぶちまけた。

「なに勝手に決めてんねん!」
「わたしに休みはないんですか!?」

あるかそんなもん! これから本格的にプロを目指そうっちゅう絵本作家が「ただの」元カレに言い寄られたからって、このアラサー、調子に乗りやがって。作家のたまごにそんな暇はないんじゃ!
その意味を俺が懇切丁寧に、かつ論理的に説明しても、ぷっと頬をふくらませて伊織さんは全然、聞く耳を持たなかった。

「……そんなにデートしたいんか、あの男と」
「いや、そ……だって約束しちゃいましたし」

その説明やって二度目やのに、簡単にデートの約束なんかしやがって。これやから発情女はいけ好かん。いけ好かんすぎて「あっそ」と返事をしたとこで、俺の電話が鳴った。

「はい」
「忍足さん? 翠松書房の山田ですが」
「ああ、先程はどうも!」

出てみると営業で回ったところの、大手出版社の編集長やった。
翠松書房は絵本だけなら業界トップクラスの販売数を誇る老舗で、ロングセラーをばんばん出しとる。その信頼度の高さから、もしも伊織さんの本を売る出版社が選べるなら、問答無用でここにしたいくらい、理想の出版社ナンバーワンや。

「忍足さんの持ってきた下書きですが」

なんの前触れもなく、山田編集長が話しはじめた。声のトーンに、勘が働く。働いたついでに、作業机に向かおうとしとる伊織さんの腕を、むんず、とつかんだ。
「え」という怪訝な顔が振り返る。ええからちょっとそこで黙って待っとけ。

「はい」
「佐久間伊織さん、っていう先生でしたね?」
先生なんて言えるほどの作家ちゃうけど、「はい」と俺は素直に答えた。
「いい本でしたよ。ぜひ、新作を読みたいんです」
「ホンマですか? ああ、それは願ってもない」
「社内でも評判がいいんです、そこでお願いなんですが」
「はい」
「ちょうど1ヶ月後になるかな。8月11日の木曜日」
「はい」

離してください、と伊織さんがしびれを切らすように言った。黙っとれ、いま大事なとこなんや。伊織さんの話しとるっちゅうのに、この電話の意味がわからんのかっ。
それやのに伊織さんは、ぶんぶん腕を振りだした。待てっちゅうねん堪え性のない女やなっ!

「新作をあげてきてもらえませんか。ほかにもいい先生がいるので、コンペ形式にしたいと思ってます。佐久間先生の作品が社内コンペで勝てば、デビューに向けて動きたいんです」
「忍足さんっ」伊織さんが痺れを切らす。黙っとれっちゅうのに!
「わかりました、1ヶ月後ですね」
「遅れるようならこの話はなかったことに」当然や。よほどの大物やないと締め切りを伸ばすやなんて、プロ失格やもんな。「15時厳守でお願いします。とびきりのやつを」
「はい、絶対に後悔させません」
「ふふ、楽しみです。よろしくお願いしますね」
「はい、また!」

やった……こんなに早う成果が出るやなんて思ってなかったけど、これはやったで!
奈落の底に落ちていたテンションが、頭の先から飛び抜けていくような感覚やった。せやからその勢いで、俺はうっかり、伊織さんを抱きしめとった。





なにさらしてもうたんやろ、俺……。

「忍足さん! これはどうでしょうか」
「ん、見せて……」

伊織さんを衝動的に抱きしめてから5日後の、金曜日がやってきとった。
伊織さんは明日がデートやからか、めちゃめちゃテンションが高い。しかもそのテンションのせいなんか、いまいちなラブストーリーばっかり出してきよる。

「……あかん」
「ええ、またですかあ?」

コンペ形式、ということは黙っていた。伊織さんがいままでどこのコンテストにも応募してないことを考えても、この人は競うとわかると絶対に作品の質が落ちる。余計なことを考えてしまうんやろう。それは、いまのこの状況からも明らかやった。

「なんやこれは。この、チープな絵柄。ほんでこのストーリー」
「ラブストーリーでもいいって言ったの、忍足さんじゃないですか!」
「それはええよ別に。大人の絵本や、そんなことに文句を言うてるんちゃう。せやけどこんな女子高生みたいなウキウキウハウハ展開、ちっともおもんないわ!」

赤ペンで思い切り原稿に『×』をつける。ちょっと前までこの赤ペン攻撃に泣きそうになっとったくせに、なんや今日のその、嬉しそうな顔は。

「あーあー。また却下かー」

言葉とは裏腹に頬が紅潮しとる。これやから嫌やったんや……女っちゅうのは恋愛モードに入るとすぐにこんなことになる。頭んなかが恋愛一色で、ほかのことなんて考えられません、ちゅうような顔して、ときおりぼーっとしくさっては、スマホを確認したりする。うちの女性社員もそんなんばっかやったわ。仕事をせえ、仕事を!

「伊織さんな」
「はい?」
「……明日、どこ行くねん」
「は?」
「明日、デートなんやろ。あの優男と」

なんでこんなこと聞いとるんか自分でもわからん。せやけど一応、仕事のパートナーとして聞いておいたほうがええような気がした。
どういうわけか知らんけど、5日前に抱きしめた日の夜、夢のなかに伊織さんが登場した。しかも夢のなかで俺は、いや俺らは、裸で抱き合っとって……目が覚めてから悪夢やと思った俺は、どうも明日のデートに嫌な予感しかしとらんかった。あれはなんかの虫の知らせやないんか。伊織さんとあの一條新次とかいう優男が、卑猥なことしはじめる前触れ……いや別に、そんなん好きにしたらええんやけど。せやけどこのクソ大事な時期に、余計にあの男に溺れられたら、俺の仕事が進まんようになる。
現にたかだかデートでこの発情女はこの有様や……なんとかそれだけは阻止せんと。
伊織さんは高速でいろいろ考えとる俺を見て、しれっと目を逸らした。

「なんでそんなこと、忍足さんに言わなくちゃなんないの」
「……えらい反抗的な態度とるやんけ。言うとくけど俺は明日の件に納得してへんちゅうねん」
「大事な時期だからー?」
「実際、しょうもないもんしか描けてへんやないか」
「なっ、ひどい!」
「ひどいちゃうやろ、ホンマのことやないか」

あの優男が訪れる前の伊織さんの目の色が変わった瞬間が懐かしくなる。あの闘志に満ちた、クリエイティビティに満ち溢れた目を、ここ最近では見てない。それもこれも全部、あの一條新次とかいう女々しい男のせいや。

「単に忍足さんがラブストーリー嫌いなだけなんじゃないですか!?」
「アホ言え。俺はラブロマンス系の書籍も映画も大好物やっちゅうねん。せやからこんなチープなストーリーには感動できへん言うとるんじゃ」

実際はそこまで悪くはなかったけど、いまいちなのはたしかやった。それに、この新作を持っていく相手は翠松書房。そんじょそこらの絵本じゃ納得してもらえるわけがない。おまけにコンペやぞ……。
こないだの下書きやって、俺が散々ディレクションした結果、やっと目に止まっただけやっちゅうのに。

「ぎいいいい、言わせておけば!」

赤ペンをつけた原稿を丸めてゴミ箱に放り投げると、伊織さんは目を見開いて怒りはじめた。おお、怒れ怒れ。そやってエネルギーためて、絵本にぶつけんかい。

「もう1ヶ月切っとるんやで。明日サボるぶん、今日は寝れんと思えよ」
「そんなのないです! 明日デートなんですよわたし!?」
「金曜と日曜で元を取るって言うたん、そっちやろが。ええか? 締め切り伸ばすなんか絶対に許さへんからな!」
「伸ばす気なんてないし、徹夜は嫌です! いくら明日が休みっていったってデートなのに!」
「日曜もやアホ! 覚悟しとけよ」
「いじわる! 鬼! セクハラ野郎! バーカ! おたんこなす!」

思いつくままの悪口を俺の背中に投げかけてもまったく反応を見せん俺に、伊織さんはあきらめて作業机に戻った。
はあ……いつまで言うつもりやねん、セクハラのこと。





気づいたら、深夜3時半を回っていた。
俺がパソコンで黙々と新しい事務所の手続きをしとるときに、背中のほうからカタンッと音が聞こえて、振り返る。
ぐおん、と音がしそうな勢いで、伊織さんの頭が船を漕いだ。床にはこのあいだ扱い方を覚えたばかりのGペンが落ちとる。

「ったく……結局、寝とるやんけ」

床に落ちたGペンを取って作業机に置くと、見たことのない厚手の紙でできたノートが開かれていた。
そのノートの左側に、びっちり文字がしきつめてある。どう見てもGペンで書いたんやろうその文字の内容は、俺が伊織さんにこれまで言ってきたメソッドばかりやった。

「なんや……全部、覚えとるやないか」

ひとりごちて、伊織さんが寝とるのをええことに前のページをめくると、そこにもやっぱり俺が教えたメソッドや意見がびっちり書かれとる。まるで英語か漢字の練習帳みたいになっとって、それをGペンで書いて慣れようとしとる努力の影がうかがえた。
……誤解、しとったんかもしれん。と、いまさら思う。内容からして、書かれとるのはこの数日で言ったことやった。あの優男とのデートが決まってから浮かれっぱなしやと思っとった伊織さんは、俺の知らんところで、こっそり努力をしとったんか。
だらん、と椅子に沿うように垂れている右手を見ると、その指にいくつかのペンだこが見えた。こんなん、絵を描く作家はあたりまえやけど、クスッとしてまう。
それと同時に、伊織さんの体が大きくのけぞるように揺れた。その顔面の行方が窓の框で、俺は咄嗟に、頭を抱きかかえるように支えた。

「っと……あぶな」
「……んん」

んん、ちゃうわ。ぐーすかぴーすか寝やがって。まあでも、頑張っとったんやな……。
しゃあない、と意を決して、そっと左腕を首の後ろに回す。そのまま膝の下に、自由になった右腕を挿し込んだ。椅子から引き離すように、抱きかかえる。
思った以上に軽い体に、拍子抜けしそうやった。
所詮アパートやけど間取りは2K、一応、狭そうな寝室がある。当然、入ったことないで、一瞬は迷いつつ、それでも俺は寝室に向かった。寝かせるだけやし、別に問題はないはずや。
開けると、そこは思ったとおり、狭い和室やった。それでもなんとか、持ち前のセンスを工夫して、かわいらしい部屋に仕上がっとる。隅に堂々と置かれているベッドに向かって、伊織さんをゆっくりと降ろした。

「ん……」

と、伊織さんはなんでやか微笑んどる。どんな夢見とるんやろと思ったら、なんやしらんけどイラッとして、手を離す直前、耳元でつぶやいた。

「デートなんか失敗してまえ、アホ」
「うーん……」

眉間にシワを寄せて唸りはじめる。ふっ……めっちゃおもろ。と、思ったとき、自分の体に異変を感じた。
え? と頭のなかが混乱する。まじまじと、服の上からでもわかるほどの状態になっとる自分のソレを見つめて、硬直した。
……うそやろ。俺、なんで勃起してんねん。





「じゃあ忍足さん、落ち着いたら連絡しますので、つづきはまた!」
「……はいよ。いってらっしゃい」

バタン、と扉が閉められた。
昨夜、頭を抱えたまま動けんようになった俺は、結局、朝まで伊織さんの部屋におった(もちろん、寝室からはすぐに出ていった)。
これから支度すると張り切る伊織さんに追い出されて、ぼけっと駅前で太陽を見上げる。
視線の奥に「メンズプライベートクリニック」の看板を見つけて、相談に行きそうになったものの、もちろん、やめた。
なんでや……ホンマに、意味がわからん。まあでも、男なんてどういうタイミングであんなことになるかわからへんし。学生のころなんか授業中にいきなりってこともあったで、別にそんなんだけが理由ちゃう。せやけど昨日のあのタイミングは……いやいや、ありえへん。
考えとってもしゃあない、と、そそくさと家に帰ってシャワーを浴びた。余計なことを考えんように、とっととベッドに潜り込む。
浅いうたた寝しかしてなかった俺は、すぐに眠りについた。
それでも、夕方には起きた。伊織さんのデートが決定した日に、どうせ暇ならと思って、俺は仁王の美容院に予約をしとった。髪も伸びてきたし、デートのことは気に入らんけど、ええタイミングやったかもしれん。
到着すると、仁王は「よう来たのう」と出迎えてくれた。時間的に最後のお客さんが帰ったところで、美容院は貸切状態。この贅沢さがたまらんくて、いつも最終受付時間に予約してしまうんやけど、仁王は嫌な顔ひとつせんと通してくれる。

「仁王、こないだ具合でも悪かったんか?」
「ん? いつの話?」

店長直々のシャンプーを受けながら、俺はぼんやりと仁王に聞いた。
絵本を売りつけた数日後に来たときには、めずらしく仁王が休んどったから心配したんやけど、今日は問題なく出勤しとるみたいで、正直、ほっとした。

「先週や。お前、休んどったやろ」
「おう……あの日か」

ぼんやりした仁王の声がシャワーの音にかき消されていく。
はー……それにしてもこいつのシャンプーはホンマに……いつもめちゃめちゃ気持ちええ。昔の好で毎日シャンプーしてくれへんやろか、と、何度思ったことか。金さえ払えばやってくれそうやけど……さすがに贅沢すぎると思って、踏みとどまっとる。

「お前が休むとかめずらしいで、怪我でもしたんかと思ったわ」
「ははっ。心配いらんき。まあ、似たようなもんじゃったけど。よし、終わりだ」

忍足さん、席案内して。と仁王がアシスタントに話しかける。「こちらへどうぞ」と若い兄ちゃんが俺を案内してくれた。こないだこの兄ちゃんに教えてもらったんやけど、仁王がシャンプーすることは滅多にないらしい。特別なお客さんだけへのサービスやと聞いて、俺は内心、嬉しくなった。
なんやかんや仁王って、めっちゃクールな顔しといてかわいいとこがある。女はこういうのに、すぐにコロッといってまうんやろな。

「なにをニヤニヤしちょるんじゃ、お前は?」
「ああ堪忍、ちょっと思い出し笑いや」
「スケベなヤツやのう。それで? 今日もカラーはさせてくれんのか」
「そういうのええって。カットだけで」
「つまらんのう。忍足にはブラウンも似合うと思うんやけど」
「白髪がえらいことになったら考えるわ」

仁王は昔からいたずら好きやから、なにされるかわかったもんやない。
まあ、金払って来とる友だちにさすがにおかしなことはせんやろうけど。どっちにしても、黒髪やなくなったら、忍足侑士やなくなる気がする。
そんなことより、と、俺は本題に入った。仁王が鏡越しに視線を合わせてきた。
伊織さんの絵本を少しでも売らんとあかん。伊織さんは休んでデート楽しんどるっちゅうのに、俺の頭は仕事のことばっかりや。なんやこの、不公平感は。

「絵本、どやった?」
「おお、あれか。買う」なんでもないことのように、仁王はハサミを動かしながら言った。
「え、ホンマっ!?」
「ちょ、いきなり動きなさんな。おかしなところ切ったらどうするんじゃ」

シャキシャキという音が途切れる。仁王は怒ったようにそう言って、俺の肩をつかんだ。

「カット中は前を見ちょけ。あと背筋をもっと伸ばしんさい」
「はい……すんません」

先生に注意されとる気になる。反省した俺の手元に、さっきの兄ちゃんが絵本を持ってきた。気をきかせてくれたんやろう。今度は動かんように、話をつづけることにした。

「読んでくれたんやな、これ」
「ん。ええ本じゃったよ。読む気にさせてくれたのは、あのときのお客さんが感動しとったからだが」
「ああ……ちょうど、ここに座っとった人か」

そう、と仁王が頷いた。どことなく、切ない顔に見えるのは、俺の勘違いか?

「だからその絵本は買うが……ちと条件があるんよ」
「え、なに。髪なら染めへんで」
「ああ、そういうことじゃないんよ。それでの、忍足」
「なんや、はよ言え」
「このあと、飲みにでも行かんか。条件はそのとき話す」

仁王から飲みに誘われるやなんて……正直、嫌な予感しかせんかった俺やけど、絵本は買ってもらえるし、どうせ今日は暇やから、頷くことにした。





連れてこられたのは美容院から遠くない、イタリアンのカジュアルなレストランやった。

「今日は暇じゃったんか? 最近は忙しそうにしとったようだが」
「ああ、今日はたまたまな。なんなら明日の朝まで暇かもしれんわ」
「……ほう? そうなんか」

自分で言っておきながら、複雑な気分になった。
伊織さんのことや。あの優男とめっちゃええムードんなってホテルにでも誘われたら一発やろ。あいや、そういう意味の一発やないけど。あいや、そういう意味での一発でもあるか。
……どうでもええな。ああ、ホンマにイライラする。明日会って調子に乗っとったら締め上げたるぞ、あの発情女。

「ちゅうか、お前はどうしとったん? さっき怪我みたいなもんって言うとったけど、ホンマになんかあったん?」話を促しながら、赤ワインを注文した。
「ああ、休んだことか? なんで俺が1日でも休むと、そんなに大騒ぎになるんかのう」俺はバーボン、と、つづけて仁王も注文した。「越前のほうがよっぽどじゃろうに」

越前か……と思考をめぐらせた。1週間前の報道が蘇る。せやけど日本におらんあいつに、俺らがしてやれることなんかなんにもない。

「あんなスーパースターと比べてどうすんねん。けど、店の看板がそんなに簡単に休むわけないやんけ」
「ん……まあ、いろいろあるんよ。越前ほどじゃないが、俺もな」

そういやこいつ、どうにも元気がない。さっきの表情もそうやけど、いつも飄々とちょっかいかけてくるわりに、今日はえらい素直っちゅうか、なんちゅうか。
俺の知らん仁王の顔を見せられて、調子が狂いそうや。

「いろいろあったうえに、今週はさらにいろいろあって、よう気持ちの整理がついちょらん」
「その……いろいろの内容は、話せることやないんか?」
「んー。まあ、なんちゅうか……それにも関係することなんだが。のう忍足、合コンせんか?」
「は?」

いきなり話がぶっとんで、俺は面食らった。
なに……なにを言い出しとるんやろうか。こんなええ歳して、合コン? なんで合コンとお前のいろいろと、お前の欠勤が関係あんねん。

「俺が言うた条件っちゅうのは、そのことだ」なにもおかしなことは言うとらん、とばかりに、まっすぐ俺を見とる。いやいや、ちょお待て。
「合コンが条件っちゅうこと? なんでやねん」全然、意味がわからんやろ。
「どうしても、やらんといかん合コンがあるんよ。それで、あと一人ほどメンツが足りん」
「え、メンツ集めお前がしとるん? お前が幹事なん?」そういうタイプちゃうやろお前。
「そう。絵本を買うかわりに、頼めんか。ああ、もう一人の幹事はさっきの話にも出てきた人だ。あのときのお客さん」

仁王が幹事しとることが意外すぎた俺は、頭のなかでさらに記憶をめぐらせた。越前からシフトしていく女の人の顔をぼんやりと思い出す。
あの……地味そうな子? いやいや、余計わからんようになってきたぞ。あの女の人も、全然、そんなタイプに見えへんかったのに。

「お前、あんな地味そうな子に手え出す気なん? 客と恋愛とかしてもええの?」
「人聞きの悪いことを言いなさんな。客と恋愛は別に……お前に意見される覚えはないがの」

え、する気ってことやんけ、それ。

「まあ、あの人、お客さんっちゅうても、ちと特殊で……まあ、いろいろあるんよ」
「さっきからそればっかりやないか。どんだけ人生いろいろやねん。島倉千代子か」
「30年も生きとったらあるじゃろう、いろいろくらい」
「そら……あるかもしれへんけど」あの女の人と、仁王……? 合わなそ。
「彼女に会うために、合コン、どうしてもしたいんよ」
「え」

ちょ、それは……会いたくて会いたくて、震えとるってことか? 島倉千代子のあとは西野カナなんか? なんかドロドロのあとに、えらい女子高生みたいな恋になったんやな。
あかん……聞くの怖なってきた。仁王が恋愛に溺れとる気がする。しかもあんな、全然、仁王の好きそうな感じやない子に……っていうか、どいつもこいつも、仕事をせえ! 仕事を!

「お客さんやのに、来てくれへんの?」恐る恐る、聞いてみる。
「うーん……待っちょっても、来そうにないからのう。それに、はよ会いたいんよ」

うわ……ああああかん、もうそれ以上やめてや仁王。お前のそんなん聞くん、なんかさぶいぼもんや。気色の悪いっ。

「聞いてくれるか? 忍足」
「えっ! 聞くんか俺!?」

ふっと微笑んだ仁王は、うつろげな視線でバーボンを飲み干した。
こいつの悩みを全部聞いたら、頭おかしなる自信ある。それくらい、仁王の影は暗い。

「飲みに来てくれたんじゃから、それくらいええやろ」
「お、おう……どないした?」俺は覚悟を決めた。

それから、淡々と語る仁王の話を聞いた。想像しとったよりもしんどくなって、酒がどんどん減っていく。ちゅうかあの火事……あの女の人のマンションやったんや……世間は狭いとはよう言うたもんやで。伊織さんのアパートやなくてよかったと思った俺は、最低やろうか。
ともかく、気色悪いとか、思ってごめんな仁王……。お前はめっちゃモテて女に困らん生活しとると思っとった自分に、ちょっと反省するわ。俺が悪いんちゃうけど。

「なるほどな……そういうことやったら、うん。合コンには参加したる」
「そうか、助かる」
「でもなあ仁王、その子、来るやろか、そんなんで。もうお前に会うん、つらいんちゃうかな」
「……まあそれは、俺がなんとかする」俺の話はここまで。と、仁王は仕切り直すようにつづけた。「それで、お前は? 会社を辞めたとか言うとったけど、なにがあったんじゃ?」
「ああ、俺か……」

話を切り替える餌を仁王から投げられて、俺はためらいなく跳ね上がってそれを咥えた。魚が釣られるんってこういう瞬間なんやろう。ずっと恋愛の話ばっかりしとったで、妙な友情が芽生えた気がしとった。
伊織さんと会って会社を辞めて起業してからの話を、俺はおもしろおかしく聞かせた。話の合間に仁王がやっと笑って、ああ、少しは役に立ったんかなと思う。

「じゃけど忍足、お前、気づいちょらんのか?」
「え、なにが?」

くっくっ、と笑いを噛み殺しとった。
なにがおかしかったんやろと思いながら、何度目かになる赤ワインのおかわりを注文すると、仁王はさらっと言った。

「お前、その絵本作家が好きなんよ」
「……は?」

ちょお待て。なんでそんな話になるんや。昨日の夜のことは、さすがに会話のなかで伏せとった。もちろん、最近に見た悪夢のことも。キスの件は成り行き上で話したけど、あれはたぶらかすためやったって、聞いとったよな?

「そんなわけあるか!」
「おうおう、ムキになってからに。お前、その絵本作家が元カレのことで頭がいっぱいじゃなんじゃ言うて文句ばっか言うとるけど、お前のほうがよっぽどその絵本作家のことばかり考えとるやろう」
「そ……それはお前、デビューさせなあかんしやなっ」
「いーや、そんなことだけじゃないはずやが? お前、そんな感じで鈍感なんじゃの?」
「ち……」

ちゃうわ! 絶対ちゃう。俺のいままでの恋愛は、めっちゃ俺から好きになって、もうどうしょうもならんから告白してっちゅう、そのくり返しや!
なんであんな発情したアラサーに俺が心を持ってかれんねん。ありえへんっ。

「ムキになって否定すればするほど、好きってことじゃって、気づかんのか?」
「仁王、お前が恋愛モードなのはようわかった。せやけどお前と俺を一緒にせんでくれ」
「別に俺と一緒だなんて言うちょらんじゃろ。じゃけど、好きじゃないと強く否定するのは、好きの裏返しやと思うがの。好きになったらいかんって思ったら、もうそれは好きっちゅうことじゃろ?」

好き好き好き好きくり返すなっ! と言いたいのを抑えて赤ワインを流し込んだとき、尻のポケットの電話が震えだした。腕時計を見ると、22時を回ったとこやった。
とりあえず、この会話を中断できるならなんでもええわ。伊織さん、もう帰って来たんやろか。
液晶を見ると案の定、そこには「佐久間伊織」と表示されていた。ひょっとしてデート、失敗ちゃうか、この早さ。ええ気味や。

「すまん、電話」
「ええよ、ごゆっくり」

通話に切り替えて耳にあてると、俺が「もしもし?」と言う前に、男の荒い息遣いが聞こえてきた。

「あ、忍足さんですかっ」
「……一條、さん?」聞き覚えのある優男の声やった。なんかめっちゃ焦っとる。
「そうですっ、一條です。あの、いますぐ病院に来れますか!?」
「は?」
「伊織が……怪我をしてしまって」
「はあ!?」

大きな声をあげた俺に、仁王が目を丸くした。





「明邦大学付属病院の、7S病棟の……」

場所を聞いて、俺はすぐに電話を切ってタクシーに乗り込んだ。道中、震えそうになる手を懸命に抑えた。電話では混乱しとる様子の一條に詳細を聞くこともままならんかった。
やがて、20分ほどして病院に到着した。走り出したい気持ちを堪えて、聞いていた病室まで足早に向かっていく。
夜中の病院は静かで、自分の息切れが耳の奥で響いた。
聞いていた病室の前で、息を整える。そっと扉を開けると、個室のベッドの上で、伊織さんがうずくまるように座り、その手前に、看護師が立っとった。

「伊織さん?」
「……忍足、さん」

俺が近づくと、伊織さんの目から涙があふれだした。看護師がそっと避けて俺をベッドの前に促す。それと同時に、伊織さんの右手が、真っ白いギプスで覆われとるのが見えた。

「ごめんなさい、忍足さん、ごめんなさい……っ」
「どないしたん……なあ、なにがあったん?」
「わたし……ふ、不注意で……」

泣いてうまくしゃべられん伊織さんの姿に、俺はただ呆然とした。
右手や……どう見ても。右足でも、左手でもない。伊織さんの商売道具の、それは、右手やった。

「リードクライミングを、なさっていたそうです」
「え?」

泣きじゃくってしゃべられん伊織さんの代わりなんか、横におった看護師が、俺に話しかけてきた。
リードクライミング? あの、崖を登っていくスポーツか?

「クライミングジムの方のお話だと、彼女は12メートルの壁を登っていたようですね。それを支えていたのが一緒にいた男性です。支える、というのはロープをくくりつけて、登る人の落下を防ぐ人のことです」

わかる。テレビで何度か見たことがある。つまり、伊織さんが登っとって、一條が下でロープを引っ張って落下を防ぐ役割をしとったってことや。

「インストラクターの方が目を離していたときに、うっかり、男性が操作を間違えてしまって、彼女が落下されたようです。右手の開放骨折です」

開放骨折、と聞いて、ぐらっと脳みそが揺れた気がした。あの分厚く固定されたギプスの下は、骨が突き出とったっちゅうことか……?
しかも……いまの話やと、伊織さんの不注意やないやないか。また、手が震えだす……あの男、どこでなにしとるんや、いま。

「緊急手術をして、さきほど麻酔が切れたところです」
「忍足さん、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「佐久間さん、少し、眠ったほうがいいわ。まだ痛むでしょう? 興奮しちゃだめよ」
「でもわたし、わたしが、悪いんですっ……忍足さん、ごめっ……」

看護師が伊織さんに優しく話しかけても、伊織さんは子どもみたいにぶんぶんと首を振った。なんて声をかければええんかわからへん。せやけどいま、確認しとかなあかんことがある。

「あの……看護師さん」

謝る伊織さんの泣き声に湧き出てくる怒りをなんとか抑えながら、俺は看護師に聞いた。

「絵は、描けるようになりますか?」
「……詳細は先生に聞いていただいたほうがいいです。なんにせよ、しばらくは絵どころか、文字も書けません」
「……」
「あの、少し、よろしいですか?」

絶句した俺の側で、伊織さんの泣き声だけが病室に響いていた。
看護師が、病室の外に促すように、俺に合図を送る。伊織さんに聞かせたくない話なんやろう。緊張がおそってくるのを感じながら、俺は看護師の背中についていった。

「なんですか?」
「なにかご事情があるようですけど、あの患者さん、責めないであげてくださいね」
「もちろん、そんなつもりないです」
「なら、よかった。実は、クライミングジムの方に聞いたんです。彼女、少し嫌がってたそうで……高いところは怖いし、それじゃなくても手を使うからと」
「嫌がってた……? それを無理やり、登らせたっちゅうことですか?」
「そこまではわかりません。ですが、彼女の意思じゃないと思います。それだけは、わかってあげてくださいね」

そう言って、看護師は背中を向けて廊下の奥に消えていった。
全身の震えが、怒りでとまらへんようになる。なんとか両手で顔を覆って抑えようとした。いまにも叫びだしそうや……。
そのとき、前方から聞こえてきた声と足音に、俺は顔をあげた。

「忍足さんっ」
「……お前」
「伊織に会いましたか? すみません、オレ……」
「お前、なにさらしてくれとんねん!」

喉に右腕を押し付けるようにして、壁に一條を叩きつけた。夜間が幸いして、周りには誰もいない。ゴン、という鈍い音だけが聞こえて、よろけた一條の目が、ゆっくりと俺を見据えた。その挑戦的な視線に、ひどく裏切られたような気分になる。
お前はもっと、地獄に落ちたみたいな顔しとかなあかんのちゃうんか……。
殴りだしそうになる体を抑えて、一條を睨みつけた。

「お、忍足さん、離して、ください」
「なんやその目……自分がなにしたかわかってんのか」
「わかってます……申し訳ないと、思っています、本当に」
「いますぐ、ここから帰れ」もう伊織さんの目に、お前を映したくない。
「離して、くださいっ」

力を押し込めて、一條が右腕から逃れる。息を切らして自分の喉を押さえながら、一條も睨んできた。
せやからさっきから、その目はなんやねん……。

「今回のことは、本当に申し訳なく、思っています……でもオレ」
「そう思うなら、もう二度と伊織さんに近づくな」
「それは……嫌です」
「なんやと……?」
「オレはこのことをきちんと伊織につぐなって……それで、彼女と、結婚、したいんです」

もう一度、俺は一條を壁に叩きつけた。あかん、このままこの男、殺してしまいそうや。
手の震えがとまらん。体がどうにかなりそうなほど、血が沸騰しとるのがわかる。
こいつ、伊織さんにあれだけのことしといて、ようそんなことが……!
右手が、自然と一條の喉に絡みついとった。このまま喉仏をつぶしたら、こいつ、死ぬやろか。

「忍足さ……離して、くださいっ」
「お前は、伊織さんの人生や夢をなんやと思ってんねん。どんだけ大事な時期やったか、わかっとるんか?」
「ですから、それは、オレが一生をかけて……つ、つぐなっ」
「ええか……よう聞け」
「忍足さ、くるしっ」
「お前が伊織さんの人生を背負う資格なんかない。彼女の人生は、俺が預かる」

一條から手を離した。ひどく咳き込んで、最後にもう一度、「本当に申し訳ないと思っています、本当です」と泣き崩れた。





病室に戻った俺の姿を見た伊織さんは、また、泣き出した。

「忍足さん……わたし、ごめんなさい」

ひっくひっくと、さっきから、それしか言うてない。
涙の跡が、またくっきりと濡らされていく。昨日まであんなに笑って、紅潮しとった赤い頬が、真っ青になっとる。
身体的にも精神的にもボロボロになっとる伊織さんが、かわいそうでたまらんかった。

「伊織さん……もう泣かんで」
「だって、だって……わたしっ。あと、1ヶ月ないのにっ」

俺を見上げる瞳から、大粒の涙が、幾度となくこぼれ落ちる。
俺はたまらず、伊織さんを抱きしめた。胸のなかで、伊織さんの泣き声がくぐもっていく。
少しだけでもええ。もうその耳に、自分の哀しい声、聞かせたあかん、伊織さん……。
余計に痛くなるやろ? その手だけやなくて、胸も、苦しいやろ?

「お、忍足さっ……ごめんなさいっ、わたし、本当に、ごめんなさいっ」
「ええねん。大丈夫、大丈夫や。もう泣かんとき、な?」

背中をそっと撫でると、彼女は左手だけで、しがみついてきた。
シャツがぎゅっと握りしめられる。真っ白なギプスで埋もれとる右手とは違う、左手のその力強さに、泣きそうになった。

「せっかく、忍足さんがっ……わたし……台無しにっ」
「大丈夫や。チャンスはいくらでもある。伊織さん、才能あるんやから」

ああ……仁王、お前の言うとおりや。

「う、ううっ……忍足さんっ」
「絵も絶対、描けるようになる。な? それまで頑張ろうや。俺が絶対、プロにする。約束したやん」

俺、伊織さんが好きや……。





to be continued...

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