XOXO_04


4.


「タクシーに乗せてくれればいいから」

ぽつりと不二さんがつぶやいた言葉に忠実に、わたしは彼をタクシーに乗せた。
もちろん、ひとりにするわけにはいかないので、同乗した。
不二さんはそのあいだ、ぐったりとわたしの肩をまくらに、項垂れていた。
それがとても熱くて、いつからこんなに熱を出していたんだろうと、見ているこっちが苦しくなる。

「不二さん、着きました。起きられますか? ここで間違いないですか?」
「ん……うん、ここ。ごめんね、伊織さん」
「運転手さん、ここで大丈夫です」

運転手さんにクレジットカードをわたして精算を待っているあいだも、不二さんは苦しそうだった。
病院で点滴とか打ってもらったほうが、よかったかな……。

「不二さん、出ましょう」
「お兄ちゃん、お大事にね」タクシーの運転手も心配そうだ。
「はい……ありがとうございます」

出てすぐ、不二さんはふらふらと頭を抱えながらも、懸命に声を出した。

「伊織さん……ここでいいよ、僕」
「なに言ってるんですかそんな状態で。少しくらい看病させてください」
「そんな迷惑かけれないし、男の部屋に、そんな簡単に入っちゃダメだよ」
「また、そんな遠回しなことを」

余計な気を遣う人だ。そうだと言えばわたしが帰ると本気で思っているんだろうか。会って3回目だけど、この人が思ったよりも天邪鬼だってことはもう百も承知だ。

「いいから行きますよ。どこですか部屋」
「……僕のこの感じが全部演技で、部屋に入った途端、伊織さん襲ったらどうするの?」

とかなんとか言いつつ、やっぱり早く横になりたいんだろう、不二さんはエレベーターの前まで歩いていく。

「はいはい、わかりました。男の人は怖いですね、はいはい」
「もう、無防備だな本当に……」

エレベーターは高層マンションの25階に止まった。
ホテルのような廊下を歩くと、やがて不二さんがピタ、と足を止める。
その止まり方すら不安定で、わたしは思わず体を支えた。

「不二さん、大丈夫ですか?」
「そんな安易に触れて。知らないからね、僕がどうなっても」
「ここまできて往生際が悪いですよ。ええ、ええ、恩着せがましくしてやりますとも」
「ふふっ、かなわないな」

ようやく不二さんが笑って、部屋の鍵が開けられた。
広い玄関に歓声をあげないようにしながら、わたしはそっと靴を脱いだ。

「お邪魔します……」
「どうぞ……お茶くらい、飲んでいって。あの、キッチンは勝手に使ってくれていいから」
「遊びに来たわけじゃないんです。でも、キッチンは使わせてもらいます。不二さんはすぐに着替えて寝てください。寝室はどこですか?」
「右廊下の奥……本当に、ごめんね伊織さん」
「言うならありがとう、にしてください不二さん」

ずかずかとキッチンにあがりこんで、わたしはお水を用意した。着替えの時間を待っていると、ドサッという大きな音が聞こえてくる。おそらく、ベッドに倒れこんだ音だ。

「不二さん、入って大丈夫ですか?」
「ん……」

寝室をそっと開けると、8畳ほどの部屋にベッドが置かれ、案の定、不二さんはそこに着替えもせずに横になっていた。
絶対に着替えたほうがいいと思うけど、しんどくてやってられないんだろうとわかる。
だからって、わたしが着替えさせるわけにもいかないし……。

「不二さんとりあえず、これ、お水を飲んでください」
「ありがとう……伊織さん、お願いがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
「着替え、取ってもらっていい?」

不二さんはクローゼットを指差した。妙にどきまぎしてしまう自分に、わたしは気づかない振りをした。
あまり知らない男の人のクローゼットを覗くのは、これまで経験がない。

「えっと、どこに……」
「下から2番目に、部屋着が入ってるから」
「あ、はい」

綺麗に整理整頓された部屋。不二さんは几帳面なのか、部屋着だってきっちり畳まれていた。部屋着を手にすると、不二さんの香りがふわっと漂って、また妙な気分になる。
なんか……はじめて彼女の家にきた男子状態になっている気がする、わたし。

「あの不二さん、これ、置いておきます。ちょっと出てきますね」
「え、どこへ」
「薬局とスーパーです。風邪には水分と栄養ドリンク剤とビタミンとお腹に優しい食べ物ですから」
「そっか……ねえ本当に」
「ごめんはナシです」
「……ありがとう」

不二さんのふっと微笑んだ顔に、やっと心を開いてくれた、そんな気がしていた。





ひと通り買い物を終えたわたしは、不二さんから借りた鍵でマンションに戻った。
彼氏がいたらこんな感じなのかな、とふと思う。
今日は緊急事態だけど、きっとこういう看病なんて出来事は、絆を深めるちょっとしたイベントめいた時間でもあるというのは、さすがにこの歳になると意識せざるを得ない。
とはいえ、相手は不二さんだから、深めるとしてもパートナーとしての絆ではないのだけど。

「失礼します……」

そっと寝室を開けると、不二さんはうっすら目を開けて「おかえり」とわたしを見た。
寝てていいのにと思うけど、苦しくて寝れないのかもしれない。
大量のスポーツ飲料やらゼリーやら栄養ドリンク剤やらを机に並べると、不二さんはくすくすと笑った。

「すごい買ってきたね」
「だって不二さん、高熱ですよ。明日は絶対に病院に行ってくださいね」
「うん、そうする」
「じゃあちょっと、キッチン借ります」
「え」

なかにまだ材料が入っているビニール袋を見て、不二さんは目を丸くした。所詮はビニール袋なので、卵やらネギやら、しっかり見えただろう。

「いいよ伊織さん、そこまでしたら、帰りが遅く」
「もう買っちゃいましたから。いいから不二さんは薬を飲んで寝ててください。はい、これ2錠」
「はい……」

黙って言うことをきいてくれる彼はおそらく貴重だと思いながら、わたしは寝室を出た。大見得を切ったものの、アラサーだというのに、あまりまともな料理は出来ない。職人なのはガラスに関してだけで、そこに熱中していたから、という言い訳をいつもしている。
おまけに一流シェフにつくるとなると、もう緊張しかないのだけれど、一周まわって開き直れる気もしていた。
そんなこんなで、たまご粥に苦戦すること1時間。スマホでレシピをじっくり見ながら完成したその出来栄えに満足しながら寝室を覗くと、不二さんはすっかり眠ってしまっていた。
その寝顔に、つい綺麗な顔だと見とれていたわたしも、いつの間にかそこで眠ってしまっていた。





「伊織さん、伊織さん」
「……ん」
「時間、大丈夫?」
「え……」

少し顔色がよくなった不二さんが、わたしの肩を叩いていた。ばさっと顔を上げると、カーテンの外が明るくなっている。
急いで腕時計を確認したら、針は6時を指していた。

「ああ、びっくりした……6時なら大丈夫です」
「あ、よかった。職人さんの朝は早いって言ってたから」
「早いですけど、まあ、これくらいに起きればゆっくり支度できます……っていうかすみません、こんなとこで寝てしまって」
「全然いいよ。こちらこそごめんね。体調、だいぶよくなったよ」
「不二さん、ありがとうですよ」
「そうだったね。ありがとう」

朝から微笑む不二さんは、とても爽やかだ。昨日までうなされていたのに、嘘みたいにサラサラしている。こっちは顔がテカテカで最悪の状態なんじゃないかと思うと、なんだかとても複雑な気持ちになった。

「ねえ、伊織さん」
「はい、どうしたんですか」
「ひょっとしてお粥、つくってくれた?」風邪のときの定番だからわかったんだろう。
「つくりました! 簡単なたまご粥ですけど」調理に1時間もかかったことは秘密だ。
「食べたい……いいかな?」
「食欲あるんですね! すぐに持ってきます!」

自分がつくった料理を「食べたい」と言ってくれる人がいるというのは、案外、嬉しいことなのだとこのとき気づく。この喜びを幸せと感じて、不二さんは料理人の道を選んだのだろうか。だとしたら、基本はわたしも一緒だ。喜ばせたい、その一心でガラスをつくっている。

「お待たせしました」
「ありがとう」

適当なお椀に乗せて持っていくと、フーフーと口を尖らせながら、不二さんはゆっくりお粥を口に運んだ。

「……ど、どうですか?」
「ん、美味しい。すごく元気になりそう。本当にありがとう」
「あー、よかった。不二さんに食事を出すなんて、緊張しました」
「ふふ。みんなそう言うよ。僕は自分の口に入るものは、なんでもいいんだけどね」
「そういうものなんですか? 面白い」
「でしょう? 料理人ってそんなものだよ」よかった。表情がすごく柔らかい。本当にだいぶ、よくなったみたいだ。
「じゃあわたし、そろそろ仕事行きますね」
「あ、待って伊織さん」

すっくとベッド脇から立ち上がったわたしをじっと見上げながら、不二さんはキャビネットにお椀を置いて、そっとわたしの手首をつかんできた。まるで、お母さんが仕事に行くのを寂しい目で見る、子どものように。
どうしたんだろう……昨日は安易に触れるな、とか言っておいて……。

「不二さん……?」
「もう行っちゃう?」
「え……あ、ひょっとしてひとりじゃ病院、無理そうですか? それなら」
「……わからない?」
「え、なにがですか」

きゅっと、手首をつかむ不二さんの力が強まって、わたしは戸惑った。風邪をひいて、心細くなってしまったのだろうか。

「ごめん、なんでもない。いってらっしゃい、気をつけてね」

不二さんは手を離すと、感情を内側に向けるように、またお粥に口をつけた。





一旦『アン・ファミーユ』まで車を取りに戻って、わたしはそのまま職場に向かった。
交通状態も順調で、なんとかいつもの時間どおりに職場に到着する。

「おはよう佐久間」
「香椎くん、おはよう」

うしろから声をかけられて振り向くと、大好きな香椎くんがそこにいた。車の中で化粧を整えていてよかったと心から思う。化粧を落とさず寝ないでそのまま出勤なんて女として終わっているのだけど、香椎くんがいるからこそできる努力があるなと、妙に実感した。

「あれ」
「え?」

すると香椎くんが、事務所の更衣室に入る一歩手前で、じっとわたしを見てきた。
突然に見つめられて、次第に胸がトクトクと波打っていく。

「……そっか、佐久間、昨日は不二さん家に泊まりか」
「へ!? な、なん、なんで!? 泊まってないよ!?」

泊まったけど! なんでそんなことわかるの!? 怖い!

「いいよ隠さなくても。服、一緒じゃん昨日と」
「へ……」
「それに昨日、不二さんの店にワイングラス届けるって言ってただろ、佐久間」

……そうか、そういうことか。
すっかり忘れていたけど、香椎くんのなかで、わたしの彼氏だったんだ、不二さんって。

「なーんか、佐久間も女なんだな」
「やめてよ香椎くん、不二さんとこにはたしかに……事情があって泊まったけど、看病してただけだし」

わたしと不二さんとで、そういうハレンチな想像は絶対にしてほしくない。香椎くんにだけは。
うう、やっぱりどう考えても不二さんの暴走は逆効果だった気がしてならない。
あの『となりの芝生は青い』理論を聞いても、人によるじゃんと思ってしまう。

「看病って……風邪?」
「うん、高熱が出て。ワイングラスを搬入したあと、倒れたの」
「大丈夫なのか、不二さん?」
「うん、もうだいぶいいって」

さっきまでからかってたくせに、急に真顔になった。こういうふとした瞬間、しつこくも、やっぱり香椎くんが好きだなと思ってしまう。
こないだ一度だけ会った不二さんを、本気で心配している。友だちの話を聞いて、相槌を打つような「大丈夫?」じゃないのが伝わってくるんだ。
本当に気のいい人しか、優しい心の持ち主にしか出せない「大丈夫」が。

「まあ、佐久間が傍にいたんなら、きっと大丈夫か」
「え、どうして」
「だって佐久間、別に彼氏じゃなくてもそういうの放っておけないタイプだろ。高校の体育祭で俺が怪我したときも、丁寧に手当てしてくれたじゃん」

それは……香椎くんが好きだったからだ。
ああ、でも不二さんを看病したってことは、そういうことになるのかな。彼氏じゃなくても、放っておけなかったわけだし。まあ、あんな踏んだり蹴ったりの人を放っておけるほど、わたしが冷めてるわけじゃないのは事実だ。

「いいよな、そういうの。俺もそういう彼女がほしい」
「そんな煽てたってなにも……え?」
「ん?」

いま、『俺も』そういう彼女がほしいって言ったよね?

「彼女が……ほしい?」
「ああ、そっか。佐久間にはまだ言ってなかったんだっけ」

言ってなかったって、なにを……?

「別れたんだよね、1ヶ月前くらいに」

その報告は、なにより真っ先にしてほしかった報告であるのと同時に、ここ5年間の中で、いちばん衝撃の報告だった。





あの直後、ほかの職人たちがやってきたので、話は終わった。
後悔した……わたしも勢いで「不二さんとは別れた」と言ってしまえばよかったかもしれない。
でも、よくよく考えたら看病した翌日に別れたというのも信ぴょう性がない。そうだ。こういうときのための、不二さんだ。体調も気になるし。
そんな理由をこじつけながら、仕事が終わってすぐに不二さんに電話した。しかし不二さんがその電話に出ることがなかったせいで、なんとなく嫌な予感を抱えて『アン・ファミーユ』に行くと、当然のようにお店はオープンしていた。

「いらっしゃいませ」
「すみません、お客じゃないんですが」
「え」

コックコートを着た可愛らしい女性が出てくる。
店内に人はひとりもいなくて、安心したのもつかの間、不二さんが奥から顔を覗かせた。

「あ、伊織さん」
「不二さん! なにしてるんですか!」

不二さんはもちろん、ばっちりコックコートを着ていた。
当然、営業するつもりなんだろうから、わかりきってはいたんだけど。

「手伝いに来てくれたの?」

ニコニコと、不二さんはわたしに駆け寄って、スタッフの女性を通り過ぎた瞬間、わたしに向かって人差し指を唇に当てた。
つまりそれは、風邪のことは内緒にしておいてってことだ。

「なに言ってるんですか、大丈夫なんですか!」一応、声を落としてみる。
「大丈夫、点滴うってきたし、今朝の時点でもうかなり回復してたから」不二さんも同じように声を落とした。
「でも……!」
「あのお、不二シェフ?」

気づくと、スタッフの女性が怪訝な顔をしてわたしと不二さんの様子を覗いてきた。
無理ない。顔も見たこと無い女と急にコソコソ話しているんだから怪しいに決まってる。

「あのね千夏ちゃん、厳さんも」

いつの間にか奥から顔を覗かせていたもうひとりのシェフが、呼ばれてゆっくりとやって来る。
つまりこのふたりが、不二さんの言っていた、残ってくれたスタッフの2名なんだろう。

「夕方からお手伝いに来てくれることになった、佐久間伊織さんです」
「えっ、お手伝い!?」
「うん、実はさっき見せたワイングラスの職人さんなんだけど」
「はじめまして、ここでは厳と呼ばれてます」
「あたし、千夏といいます……」
「突然すみません、佐久間伊織です。あの、ちょっとしたアルバイトですが、こきつかってください」

お給金をいただく気はないけど。
わたしが頭を下げると、千夏さんが不二さんとわたしをじっと見比べていた。
大きなくりくりとした目が、品定めしているように左右する。

「あの」
「はい」
「不二シェフと伊織さんは、どういうご関係なんですか」

その質問とまっすぐな目に、わたしは圧倒された。
こんなに自分の気持ちにまっすぐで正直な女性が、この世にいるんだ……。

「伊織さんは、僕の彼女だよ」
「え」
「え」

そして、わたしの「え」は千夏さんの「え」にかき消されたのだ。





お客様は4組来て、23時にはきっかり店を閉めたが、遅いからと、今日は不二さんが自宅まで送ってくれるといってきかず、わたしは不二さんの運転で帰宅していた。

「昨日は本当にありがとう。お店は来れそうなときだけでいいから。あと、お給料もちゃんと払うよ」
「いえ、これはわたしがやると言い出したことですし。不二さんを応援したい気持ちは、いまも変わりません」
「ありがとう、伊織さん」
「ただですね、不二さん……」
「うん?」
「どうしてあんなこと言っちゃうんですか!?」
「千夏ちゃんへの紹介のこと?」
「それ以外にありませんよね」
「もちろん、ちゃんと意味があるから言ったんだよ?」

完全にデジャヴだ。ついこないだもこんなことを言って、こんなふうに返された。

「今回はどんな意味があるって言うんですか!」

それにわたし、もう撤回したいのに……香椎くんがせっかくいま、フリーなのに!

「こういうことあんまり言いたくないけど、たぶん千夏ちゃん、僕のこと少し気にしてるんだ」
「見たらわかりますそんなの!」
「あ、やっぱり」
「だからって、ついて良い嘘と悪い嘘があります」
「香椎くんにはついて良い嘘だって納得したのに、僕の場合はダメ?」
「それは……不二さんがわたしに協力してくれるって言ったから!」

心なしか、声が小さくなっていく自分が悔しい。

「それに不二さんの理論でいくと、逆効果じゃないですか! となりの芝生は青く見えるって話なら、余計に千夏さんの気持ちを燃えさせてると思うんですけど!」
「女性の場合……というか千夏ちゃんの場合は効果絶大。説明しなくても、わかるでしょ?」

……これまた、わかってしまう自分が悔しい。
千夏さんはとてもテキパキを仕事をする人だった。あの感じでいくと、無駄な時間を過ごしたくないタイプの人だ。好きな人に彼女がいるなら次の人、となる気がしなくもない。
ただ、女性の片思いは、諦めという整理が自分のなかでついても、そんな簡単に終わらないことをわたしは身を持って知っているだけに……。

「伊織さん、ついたよ」
「送っていただいて、ありがとうございました」

ドアノブに手をかけつつも、モヤモヤしたままの気持ちでこの話を終わらせるのは良くない、そんな気がしていた。
せめてお互いが腹落ちするところまで持っていかないとダメだよね。

「……あの、やっぱりああいう嘘ついて諦めさせるのって、ちょっと気の毒だと思います。すみません、生意気ですけど」
「……そうだね。僕も卑怯だなって思う、自分のこと」
「え」

薄ぼんやりとした車内で不二さんを見ると、切なげな顔でわたしを見つめる。また具合が悪くなったのかと思うほど、悲しい目だった。

「不二さん?」
「事実にすればいいって、思っちゃったんだよね、今日」
「え……ひゃっ」

また、手首をつかまれていた。
そのまま引き寄せられた体に、一瞬なにが起きたのか理解できなかった。
不二さんがわたしの片頬に手を置いて、キスしていることに、思考が追いつかなかった。

「やっ……!」

ほとんど条件反射的に、思い切り不二さんを押し返していた。
混乱した頭で懸命に理解しようとしても、このキスにどういう意図があるのか、さっぱりわからない。

「……なに、するんですか」
「どうしてか、わからないの?」
「わ、わかるわけ、ないじゃないですか」

じわじわと涙がこみ上げてくる。
不二さんがこんなことをするなんて、思ってなかったから。

「そっか……こういうの、慣れてなさそうだよね、伊織さん」

力なく笑った彼の言葉に、わたしはひどく、傷ついていた。
その言葉は、「遊び慣れてない」と言われているようで、つまりそれは、「遊びでどう?」と誘ってきているようで……。

「……ひどいです、不二さん」

車を飛び出して走り抜けた夏の夜が、やけに暑く感じた。





to be continued...

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