ビューティフル_04
4.
跡部景吾に連れてこられた場所は、高級住宅街のなかにひっそりと佇むコンクリートの建物だった。
「な、なに、ここ……」
「いいから入れ」
ぶっきらぼうな態度で、顎で指図する跡部景吾はわたしの背後を陣取っていた。
どうやら、逃げ場はないと威嚇しているらしい。
なかに入ると、音楽スタジオのように厚手の扉が2枚あり、さらにその奥に入ると、ヘアバンドをつけた金髪レオタード姿の男性がそこに立っていた。わたしはその姿に瞠目した。彼は明らかに、厚化粧をしていたからだ。
「あらめずしいお客さん。電話も寄越さないでこんな時間にご挨拶じゃない、景ちゃんってば」
明らかにゲイだ。
しゃべり出す前にそこはかとなく覚悟はできていたので、妙な納得感がある。
「ようシゲル、久々だな」
「その子、誰?」
彼はシゲルというらしい。いや、彼女なのか。レオタードを見る限りでは、彼だと推測するけれど……。
「ミュージカル俳優志望の劇団員だ。歌は文句ねえが、演技は最悪」
「はあ!? なんでアンタにそんなこと言われなきゃなんないの!」
「あら、景ちゃんに噛みつくんだ。ふふ、勝ち気な女ね」
シゲルさんは颯爽とわたしの前に来、全身を舐め回すように見た。
じろじろと見られるのは慣れているけれど、さすがに緊張する。相手がゲイだから、余計かもしれない。この世界の人は、女には死ぬほど厳しいから。
「ふぅーん。で、アタシにどうしろって?」
「当然、レッスンを頼みたい」
「ちょっと、なんでアンタがそんなこと勝手に決めるの」
「俺だからだ」
「なんなのそれ。意味わかんないんですけど!」
「景ちゃん。このオテンバが言うことは一理あるのよ」
「お、オテンバ?」
ゲイにオテンバと言われた。
ゲイのほうがわたしからすればよっぽどオテンバなのに!
「こんな時間に突然来て、ブロードウェイ帰りのアタシに、こんな猿みたいな女を押し付けて、レッスンしろはないんじゃない?」
今度は猿!? いや待って、その前に……。
「ブ、ブロードウェイ!?」
「あら知ってて来たんじゃないの? 失礼しちゃう」
跡部景吾を見ると、クツクツと笑いながらわたしを見ていた。
やがて、広いレッスン上のなかを歩いていたシゲルさんは、リモコンを手にしてスイッチを押した。
すると、正面の壁に突然、映像が映しだされた。
「な、なにこの、金持ち仕様」
「いいから黙って見てろ」
信じられない。あの壁、スクリーンになっていたようだ。
でもそのスクリーンに、もっと信じがたいものが出てきたのだ。
「これ……ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ?」
「一目瞭然だな」
「……まさか、まさかだと思うけど」
「1公演だけ、アタシが代役で主演のヘドウィグを演じたときの映像よ」
空いた口が、どれだけ乾いてもふさがらない。
ブロードウェイの『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』と言えば名作中の名作だ。
その名作に、たとえ代役の1公演とはいえ、主演をはるなんて。それがどれだけすごいことなのか、わたしにはわかる。
演じる者ならば誰もが夢見るブロードウェイ。ましてやアジア人でこの舞台に立つこと自体が、並大抵のことじゃないのだ。
オテンバゲイなんて言ってごめんなさいと、いますぐ謝るべきだろうか。いや、心の声をわざわざ謝罪する必要なんてない。
とりあえず絶賛でしょう、これは!
「シゲルさん、すごすぎます! ホントすごい!」
わたしは拍手喝采で絶賛した。
しかしシゲルさんは喜びも見せずに、呆れたような顔をして跡部景吾に向き直った。
「ちょっと景ちゃん、これくらいのこと説明して連れてきてよ」
「これ見せりゃ一発だと思ったんでな」
「まあ一発みたいだけど」
ピ、と映像が消されて、わたしは思わず「ああ!」と声をあげてしまった。
見たい、もっと見ていたかった。あの舞台に立った人が、いまわたしの目の前にいるんだから。
「うちに上映会しに来たわけじゃないんでしょ。でもアタシ、そんな簡単にレッスンなんかしないわよ。誰かも知らないのに。景ちゃんが、キスのひとつでもしてくれるなら別だけど」
「つべこべバカ言ってんじゃねえ。俺がやれと言ったらやるんだよ」
ブロードウェイ俳優に向かってなんという口の聞き方だ。
「ちょっと、アンタどれだけ横柄なの」
「本当よねえ。景ちゃんってば相変わらずなんだから」
口ではわたしに賛同しているシゲルさんだが、その視線はうっとりと跡部景吾を見て、なぜか髪の毛を整えている。言ってることと、その恍惚とした顔はまったく合っていない。
「でも従っちゃう魅力があんのよね、この男には」
にっこりとわたしにウィンクしてきたシゲルさんは、その拍子にパン、と手を叩いた。
「アンタは幼少期、母親から遊園地に置き去りにされた女。それまで施設で育ってきて、いまはスーパーで働きながらひとり暮らししてる20歳。スーパーに毎日来ている女の子がいます。毎晩、遅くまですみっこにいる。はい、その子を見て行動して」
パン、ともう一度、合図をされた。
役に入れってことだと理解し、わたしは戸惑いながら指さされた場所を見て小さな女の子を思い浮かべた。
「いつもそこにいるのね。お母さんは? お家でひとりなの?」
パン、と手を叩かれる。え、もう終わり?
「次。季節は冬。大学4年生。失敗したと思っている50社目の面接の帰り。雪が降ってきた。はい、行動して」
今度は極端に設定が減った。
わたしは落ち込んだ顔をして、ふっと空を見上げ少し微笑んだ。
「あーあ……」
パン、と手を叩かれる。さっきよりも早い。
「次。目の前に好きな男がいる。相手の名前は……そうね、景吾。思いも寄らずキスされた。はい、行動して」
シゲルさん、自分の名前じゃ嫌だから跡部景吾にしたな……。
でもそんなことで動揺してたら、きっとダメだ。
目の端で、跡部景吾が笑っているのが見えたけど、無視だ、無視。
「景、吾……?」
「はい終了」
パンパン、と二度の合図。
わたしはまっすぐシゲルさんを見た。シゲルさんの顔は、不敵に笑っている。
そして、わたしをじっくりと舐め回すように見た。
「全然ダメよアンタ。千歩譲って最後だけね」
「え」
「つまりアンタには、経験したことしか演じられないってこと。どういうことかわかる? 女優として、致命的ってことよ」
「そんな……」
「アタシが手を叩いたのはスイッチの意味。でもアンタにスイッチは意味ない。演じてないから。いまのはアンタの頭のなかにあるレポートをそのまま打ち出しただけの雰囲気芝居。もっと言うならおままごとね」
ぷいっと背中を向けて、シゲルさんは跡部景吾に向き返った。
「景ちゃん、これはいくらなんでもだわ」
「わかってる。こいつはとんでもねえ大根だ」
「ちょっと!」
「いままで同じ劇団員に甘やかされて育ってきてる。だがシゲル、こいつ、歌だけは超一流なんだ。なんとかならねえか」
「景ちゃんの頼みだから聞いてあげたいけどさあ」
「シゲル、ちょっとこっちに来てくれ」
跡部景吾とシゲルさんは、2枚扉の向こう側へ行ってしまった。こちらを度々見ながら、跡部景吾がシゲルさんに話している。
残されたわたしは、スタジオ中に張り巡らされた鏡を見て自分を見つめた。
自分の演技が下手なのは……なんとなくは気づいていた。だけどそんなに言われるほど大根だとは思っていなくて、女優に転向したてのアイドルよりは、よっぽどできると自負している。
そんなアイドルだって、大きな舞台やら映画やら出て、いっちょまえに女優面してるのに、わたしがボロクソに言われてしまうのは、いまいち納得できない。
そう思いながらも、扉の奥を見るとふたりはまだ話し込んでいたので、わたしはさっきのリモコンを探した。
『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』はわたしの大好きなミュージカルだ。もう一度、シゲルさんの姿を見たい。
その思いで再生ボタンを押すと、流れてきたのは、シゲルさんの手拍子で3役を演じた、わたしの姿だった。
「え……」
いつのまに録画していたのかと驚くより先に、わたしは、画面の中の自分の滑稽さに唖然とした。動きも声も、まるで素人小学生のお遊戯会だった。いままで演劇を録画したことがなかったわけじゃない。これまでだって録画して、何度かは見てきたのに、今日の出来は、そのなかでも最悪だった。
なんで、どうして!?
「話を最後まで聞け」
「景ちゃん、アタシだって暇じゃな……ってちょっと、なにアンタ勝手にスタジオ内の物を触ってんのよ!」
「あっ……す、すみません」
いつのまにかシゲルさんと跡部景吾が戻ってきていた。
怒られているというのに、何度もそれを見なおしてしまう。
「これ、わたし、こんな、なんですか?」
「ご愁傷様……気づいてなかったのね」
「だって、こんなひどくなかったです、いままで」
「それは違うわよオテンバ」
「オテンバ……」
「いい? いままではセリフと歌があったからごまかされてただけ。それと本ね。そんなに難しいセリフは言わされてなかったんだろうし、そんなに難しい役も任されてなかったのよ。アンタは元々、こんなに大根なの」
「ぐ……」
ほんの少しだけ、本当にちょびっとだけ、心当たりはあった。わたしは大抵の場合が脇役で、あまり多くを語らないかわりに、歌うシーンが多い。
「一度しか言わないからよく聞いて」
そんな思考のなか、シゲルさんはわたしの目の前で厳しい声をあげた。
「ひとつめ。幼少期、母親に置き去りにされた女がその心の傷を背負って生きてきてるのに、似た境遇の女の子にそんなに簡単に話しかけたりしない。優しくなれないの。自分に自信がないと同族嫌悪を起こすから」
「でも、孤独を抱えた優しい人も!」
「ふたつめ。人生を決める一大事の面接に失敗して落ち込んでる大学生は、雪で癒やされたりしない。『あーあ』なんて独り言も言わないし、自嘲だとしたって笑ったりしない」
「いや、前向きな大学生だって!」
「みっつめ。アンタ、本気のキスしたことないでしょ。アンタの顔、ただの発情したメスだった。以上!」
「ちょ、ちょっと待ってください! わたしこれでも、いままでずっと演劇をやってきたんです! 褒める箇所、ひとつくらい!」
「シャーラップ!」
パン、とまた手を叩かれた。この合図に、軽くトラウマを覚えてしまいそうだ。
「いーいオテンバ? セリフ言ってれば演技じゃないの。いままで周りの優しさに甘えてごまかされてきたんだろうけど、動作たったひとつでも、大根は大根なのよ。アンタの演技に、褒めるところなんて、なにひとつない!」
言いたい放題のシゲルさんに、わたしはぐうの音も出なかった。
すっかり酔いが覚めた頭で、わたしは真夜中の高級住宅街をとぼとぼと歩いていた。
「やけに静かじゃねえか」
抜け道のような公園のなかを歩いているとき、面白がるように跡部景吾がつぶやいた。
「……落ち込んでるんです」
「仕方ねえだろ、すべて事実だ」
「そこじゃなくて稽古つけてもらいたかったから!」
「であれば、急に出向いたこっちが悪い」
跡部景吾曰く、わたしは静かに落ち込んでいた。
あのあと、「もう1回だけ稽古つけてください!」とプライドをむき出しにシゲルさんに頼みこんだわたしだったが、「バカ言ってんじゃないわよ誰に向かって言ってんの!」とものすごい剣幕で雷を落とされたのだ。
それにしても、急に出向いたこっちが悪いって、この男が言うことか?
「アンタが勝手に連れてきたんでしょ」
「だからどうした」
「それであんなボロクソ言われてその気にさせられて、なのにシゲルさんは断ってくるし! こんな気分も全部、ぜんっぶ、アンタのせいじゃん!」
「まさかシゲルがあんな剣幕で断ってくるとは思わなかったんでな。どうやら暇じゃないらしい」
「あんなすごい人が暇なわけないでしょ。バカなんじゃないの?」
「まあ、それだけお前の大根っぷりが尋常じゃなかったってことだな」
「はあ!?」
「安心しろ。ほかにもツテはある。また後日になるが」
「結構です! アンタの世話になる気はない!」
だいたい急にシゲルさんのレッスン場に連れてこられたのもわけわかんないってのに、こんな悔しい思いさせられて、ていうか結構、傷ついてるし。
それに……もしレッスンするなら、もうシゲルさんじゃないと嫌だ。いまの日本のアクターのなかで、あの人はトップクラスだ。プライドは傷ついたけど見返してやるって攻撃力も身についた。
あんな素晴らしい舞台を見せつけられて、ほかを見たって胸が躍る気がしない。
「そうやって逃げんのか」
「……逃げる?」
「シゲルに言われてたじゃねえか。周りに甘やかされて、その優しさに埋もれて、お前はあの劇団で無駄な時間を過ごしただけだ」
「ちょっと待ってよ……無駄!? 無駄って言ったのいま!?」
わたしがいくつからあの劇団でやっていると思っているんだ。
もうかれこれ10年近くになるってのに、この金持ち野郎、その時間を無駄って言った!
「無駄だろ。お前はお前の歌や夢を応援しているすべての人間を裏切ってきたのも同然だ。あんな劇団員達と一緒になって学園祭レベルで満足して。環境に甘えてたんだよ、てめえは」
それはわたし自身が、両親を裏切ってきたと言われているのも同然だった。
わたしの夢を追いかけろという言葉を遺した父と、それをやらせてくれている母。そのふたりをわたしが、10年間も裏切ってきてたって言うわけ……?
そんなこと、この男にだけは絶対に言われたくない。
「よくそんなことが、わたしに言えるよね」
「アーン?」
「笑わせないでよ。アンタ、跡部景吾じゃない」
「……どういう意味だ」
跡部景吾の目が鋭くなった。
そんな顔されたって、全然怖くないんだから。
「散々甘やかされて育ってきたくせに。わたしが甘やかされてたってなら、アンタはなんなの。うちの父親はね、ボンボンの趣味のためにあんなバカみたいな施設作らされて、死んだの! 金さえあればなんでもできると思ってる甘えたおぼっちゃまのせいで、うちの父は殺されたも同然よ!」
跡部景吾の顔が険しくなる。その傷ついた顔を見て、多少、溜飲が下がったと思っていたら、彼は黙ってわたしを見つめ、ゆっくりと近づいてきた。
「なに? なんか言い返せる?」
そのとき、ふいに涙がこぼれ落ちそうな自分に気づいた。「え?」と、思わず声に出して戸惑ってしまう。
こんなに痛快な瞬間はないのに、わたしなんで、泣いているんだ?
「伊織」
「え……」
なに……? なんで急に、名前で呼ぶの。
「俺はお前を大根だと思ってるが、素質がないとは思ってない」
「は?」
いつのまにか目の前まできていた跡部景吾が、わたしを間近に見下ろしていた。
「佐久間伊織は人の感情に敏感な女優だ。シゲルは体験したことしか演じられないと言っていたが、その体験は実体験じゃなくても、近くで触れればお前のものになると俺は思う」
「な……なに言ってんの」
「じゃなきゃいま、その涙は流れないだろ」冗談を言っているふうでもない。跡部景吾の顔は真剣だった。「その涙はお前の涙じゃなくて、俺の涙だ」
その言葉に、胸が痛くなった。
嘘だ……わたしが、あれほど憎んできた跡部景吾を傷つけて、その傷に泣いてるって? なんでわたしが、泣かなきゃいけないの。
「その感覚のまま、今日のレッスン全部、いまここでやってみろ、佐久間伊織。女優なんだろ、お前」
否定的な気持ちが渦巻く中で、それは魔法の言葉のようだった。
すんなりと入ってきた跡部景吾の指示に、わたしはいつのまにか、身を委ねて声をあげていた。
「……かまってほしかったら、声、出しなよ」
幼少期、母親から遊園地に置き去りにされた20歳の女性。
勤務先のスーパーに毎晩遅くまですみっこにいる女の子を見たときの言葉。
「やれるじゃねえか。さっきより、ずっといい」
目の前の跡部景吾が、そっと微笑んでいた。
「アンタ、なにしてんの」
急に割り込んできた場違いなセリフに振り向くと、そこにはさっき見た姿とは違うシゲルさんが唖然とした顔で立っていた。
どうやら、ランニングに出かけるような姿である。
「シゲルさん」
「シゲルさん、じゃないわよアンタ。こんな時間まで、なにしてんのっ」
「え」
そういえばほんの少しだけ空気が澄んできたと思って公園の時計台を見上げると、時計の短針は4時をさしていた。
「え、4時……?」
「もうすぐ夜が明けるわよアンタ」
「うそ……」
「なんかぶつぶつ言ってたけど、ひょっとして稽古してたの」
「はい、シゲルさんに与えられた課題を、納得いくまでやってみようと思って……」
「だからって、何時間ここで……ちょっと、景ちゃん寝ちゃってるじゃない!」
ベンチに座って見てくれていると思った跡部景吾は、すっかり眠っていた。
どおりで静かだったはずだ。
「すみません、夢中で気づかなかった」
「スポ根アニメじゃあるまいし……まあ、景ちゃんの寝顔なんか滅多に見れないから、これはこれでいいかもンフフ」
シゲルさんはニヤニヤとしながら、上に羽織っていたパーカーを跡部景吾にかけてあげている。
たしかに、寝顔が綺麗な男だと思う。いや、普通にしてても綺麗な顔した男だけど。
「あのシゲルさん、どうしても稽古つけてもらないですか」
「アンタさあ、本当に図々しい女ね。アタシが誰だか知っててよくそんな」
「すみません! でも、やっぱり諦めきれないです、お願いします!」
朝からでかい声で頭を下げると、少しの静寂の後に、長いため息が落ちてきた。
ゆっくり顔をあげると、呆れた顔のシゲルさんは腕を組んで、じっとりとわたしを見やった。
「……まあいいわ。そのバカみたいな練習の成果、見せてみなさいよ。それで判断する」
「あ……ありがとうございます!」
これはチャンスだ。
さっきまで練習していた感覚をじっくりと思い出しながら、わたしは慎重に演技をした。
この数時間、後半はどれも跡部景吾が褒めてくれた演技で何度もくり返した。きっとよくなっているはずだ。歌うように、言葉を口から自然と出せばいい。
やがて空が白くなってきた頃、パン、とシゲルさんの手拍子が耳を打った。時計をみると、15分が経っていた。
「もう結構。全然ダメ」
「えっ……」
「やっぱり大根ね。話にならないわ」
演技に力を入れすぎて息切れしているわたしに、くるっと背中を向けたシゲルさんが跡部景吾に羽織っていたパーカーをそっと手にする。
ああ、ダメだった……この短い時間の中で二度もチャンスを与えてもらったのに、わたしは……。
「わかりました……もう、諦めます」
「あら。誰も諦めろなんて言ってないわよオテンバ」
パーカーを羽織って公園を出て行く寸前、シゲルさんが立ち止まった。顔だけわずかに振り返り、地面に鏡があるかのように、ゆらゆらと微笑んでいる。空がじわじわと明るくなっていくのと同時に、わたしは唾を飲み込んだ。
「1ミリくらいは大根の根が抜けた感じよ。それを根こそぎどうにかしたいなら、景ちゃんにもう一度お願いしてみることね」
「……シゲルさん、それって」
「アンタのせいで眠すぎよ。この借りは返してもらうから」
走り去っていくシゲルさんの背中を見ながら、トク、トクと胸の高鳴りを覚える。
これまで演技が全然ダメだった自分を想像以上に思い知らされたその翌日に、1ミリのチャンスをつかんだんだ。これを逃したら、わたしは一生後悔するかもしれない。
……悔しいけど、跡部景吾の言葉が胸に突き刺さっていた。ミュージカル女優になるという娘の夢が、亡き父の供養になると信じている母。その思いを、周りの優しさに甘えて、裏切ってきていたのだとしたら。
「跡部景吾、起きて」
「ん……」
わたしは急いで跡部景吾に駆け寄って、その綺麗な頬を軽く叩いた。
朝が弱いのか、なかなか起きない跡部景吾に手の力が強くなっていくのを止められない。
「起きてってば」
「ってえな!」
「わっ、ちょ!」
突如、眉間にシワが寄ったかと思えばその手を強くつかまれ、跡部景吾はわたしを引き寄せて至近距離で睨んできた。
「ちょっと、なに!」
「なんだ、お前か」
「おおお前かじゃなくて……起きてよ!」
顔が近すぎて、一瞬でもドキッとしてしまった自分が情けない。
「もうとっくに起きてる。つか、朝じゃねえかよ」
「それより、お願いがある」
「アーン? なんだ。心配しなくても家まで送る」
「そうじゃなくて、シゲルさんに会った。稽古つけて欲しいなら、もう一度アンタに相談しろって言われた」
寝ぼけ眼の跡部景吾の目が、だんだんと開かれ、その表情が柔らかくなった。
ほんの少し口端を上げて、彼は深呼吸をするように頷いた。
「ほう。シゲルを説得できたのか」
「あの先生に稽古つけてもらうにはどうしたらいいの」
「ヤボなこと聞いてんじゃねえよ。俺がお前を一流にすると言っただろ」
「だけどお金とか」
「俺のコネだ。金がいるはずがない」
「え」
「貧乏人はすぐ金の心配をする。それがヤボだって言ってんだ」
「だけど……」
無料ならありがたいという気持ちと、この男の金の世話になるのは嫌だという気持ちが交差して、どうしてもすんなりと受け入れることができない。だってついこないだ、あんなに3億を否定したばかりなのだ。
……でも、これが最後のチャンス。
「……父さんへの懺悔ってことでいいから」
「バカが。俺はそんなこと微塵も思っちゃいねえ」
「じゃあ、ここまですんのはなんで」
「惚れたんだよ」
「へ……」
「俺は佐久間伊織の歌声に、惚れたんだ」
その混じり気のない賞賛がことのほか嬉しくて、わたしは跡部景吾の微笑みに、真顔で頷いていた。
to be continued...
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