ダイヤモンド・エモーション_04


4.


あれから3週間が過ぎた頃の月曜日。

「おはようございます」
「……す」

マンションの下で家族から隠れるようにしてタバコを吸っている男性に声をかけると、いつもこの感じで返される。性格的に、同じマンションに住んでいる人にばったり会って声をかけないという選択をしないわたしとしては、朝にたまにあるこの男性とのすれ違いは、朝から気分が悪くなる要素のひとつになっていた。
おそらく自分の部屋でタバコを吸えない理由があって――たとえば奥さんが妊娠してるとか、子どもがいるとか――、ベランダでも吸えない理由があって――となりの人に洗濯物に臭いがつくとかで怒られたとか――、喫煙者にとって肩身の狭い社会に移り変わってしまったのだから、挨拶がぶっきらぼうでも、犯罪者でも見るかのような目つきで睨まれたとしても大目にみたいところではあるのだけど、それにしたって感じが悪い。
おまけに今日は月曜日で、それだけで少し憂鬱だというのに。

「おはようございます」
「おはようございまーす……」

職場である区役所観光課に出勤すると、いつもより間延びした女子社員たちの声は、いつもとは違う空気だということをすぐに知らせてくれた。マンションの男性よりはいいけれど、いつもの軽さが微塵もない。なんだか重たいのだ。ひょっとしてわたしの機嫌が悪いから自然と挨拶が感じ悪くなってしまったのかと心配になる。
わたし以外の女子社員は大抵、朝はお菓子コーナー付近でたむろしていて、今日もそれは例外ではなかった。でもそこへ視線を向けると、彼女たちはわたしを窺うような視線を投げ返してきた。
やっぱり、あまりいい予感はしない。だいたいわたしは彼女たちのように女子同士で仲よく戯れるタイプでもないので、好意的に見られていないことには気づいている。その彼女らがわたしをじっとり見てくるなんて、いいことなわけがない。なにか面倒な仕事を押し付けられる、そんな気がしていた。
そのとき、マナーモードにし忘れていたわたしのスマホが鳴り響いた。滅多に鳴り響くことのないスマホがこのタイミングで鳴ったことにも驚いたし、スマホを鳴らした相手が姉だったことで、驚きは2倍だった。

「もしもし?」
「あー伊織、ごめんね朝の忙しいときに」

その自分勝手さにいまさら驚きはしない。わたしが驚いたのは、姉から電話がかかってきたことに対してだ。姉がわたしに電話をしてくるなんて1年を通して一度あればいいほうで、その内容はたいてい彼女の自分勝手な頼みごとに終始するので、わたしはとにかく厄介な役回りを引き受けることになる。
そう、この間の結婚式の二次会のように。だから姉からの電話ももちろん、いい予感はしない。

「今日のお昼って空いてる? アンタの職場近くに行くから、ランチでも一緒にどうかなって」
「へ?」
「ランチ。どうせいつもひとりでしょ。用事が終わったら電話するから、準備してて」
「いや、ちょ……」

言いたいことだけを言って、電話は切られていた。
ランチ? 姉と? 二人で食事したことなんて、幼少期に親が出掛けていたときくらいしかない。外でとなると、一度だってない。急になんなんだろう。

「佐久間さん」
「え」

不安が募って眉間にシワをよせていると、女子社員たちがうしろに立っていた。勢揃いでぎょっとする。人数的にはたかだか3人なのだけど、どうもいつもとは空気が違う。

「なん……でしょうか」いやな予感しかしない。姉の次はこの人たちか。
「ちょっと、ちょっとこっち」
「え、あのちょっと」
「いいから!」

腕をつかまれ、わたしはそのまま給湯室へと連行された。
部署内じゃ口うるさい上司がいるからだろう。それにしたって、いままでさほど仲よくした覚えのない女子社員たちにこんな強引に引きずられる覚えなど、微塵もない。
でもその疑問は、次の瞬間、すぐに消えた。

「これ、佐久間さんだよね」

女子社員たちが見せてきたのは美容雑誌の1ページだった。そこにはでかでかと、あの3週間前のショーの様子が写っていた。
そう……仁王さんだけならまだしも、当然のように、わたしが写ってしまっている。

「こ……これは」
「佐久間さんだよね? 佐久間さんの顔だもんね。見違えるように派手だけど」最後のひと言は余計ではないでしょうか。
「ねえ、これどういうこと? 佐久間さん、モデルやってたの?」
「まさか、やってません。これにはいろいろと事情が」
「どんな事情が教えてよ」

ええいどういうことだ。勝手にこんな記事を雑誌に……普通こういうのって、本人に承諾とったりするものじゃないんだろうか。でもいまさらそんなことを言ってもしょうがない、掲載されてしまってすでに彼女たちの手に雑誌がある以上、もう取り返しはつかない。

「仁王雅治と知り合いなんだよね、こんな、手ぇ握るくらいの関係なら」
「え」
「握ってるじゃん、しっかり目まで合わせちゃって。ちょっと妬けちゃう。あたし、この人の美容院、痩せたら行こうっていつも思ってたし」
「そ、そうなんですか」

仁王さんって、そんなに有名人なんだろうか。あっさり彼女たちの口から出てきた彼の名前に驚くのと同時に、軽くめまいがしそうだった。よく見てみると、たしかに仁王さんがわたしの手を握って、わたしたちはしっかりと見つめ合っている。
緊張しすぎてパニックだったけど、仁王さん、こんなに優しい顔でエールを送ってくれてたんだ。強引で非常識な人だと思ってたけど、間近で見たあの真剣な表情には、少し憧れたのも本心。
あんなふうに夢中になること、わたしには、なにも無い気がする。そういえば……あの手を握られたときだった。会場に、姉にそっくりな人を見つけたのは。
まあ、そんなことどうでもいいか。

「佐久間さん聞いてる?」
「あ、すみません。えっと、本当にたまたま知り合いまして、えーとたまたま、こういうことになりまして。たまたまですね……」

二次会の件から順を追って説明していると、彼女たちの表情がだんだんと柔らかく、恍惚なものへと変化していった。
「素敵」「好きになっちゃう」と、様々な合いの手をいれられながら。

「やっぱり見た目だけじゃなくて、紳士なんだあ、仁王さんって」
「決めた。あたし来週にでもFREEDOM予約する」
「あたしもそうしよ。ついつい、いつものとこ行っちゃってたけど、一度は行ってみたかったし」

好きにしてほしい。

「あの、ではそういうことなので、わたしはそろそろ仕事に戻……」
「なに言ってんの本題はこれからでしょ!」
「へ? ほ、本題はもうお話したじゃないですか」
「これは前置き。ねえ、合コン開いて」
「え?」
「仁王さん含めた4対4で。メンバーはわかるよね? あたしたちと、幹事の佐久間さん」

わたしは呆れた顔を包み隠すことなく、即座に告げた。

「お断りします」
「そう言うと思ったー」
「お話は以上ですか? 用事がお済みでしたら」
「だからまだ終わってないんだってば」

ちょっと待ってほしい。いまこの状況で、立場が上なのはわたしのはずだ。
なのにどうしてだろう。わたしにお願いしてきているわりに、彼女たちの口もとは笑っているし、全体から漂ってくる自信がのしかかってくる。

「別に、断ってくれてもいいけど、それならそれで、あたしたちこの画像、広報部に出すから」
「は!?」
「いいことだもーん。ボランティアだったんでしょ? 区民の役に立ってる」
「こ、この方はこの区民の方ではありません! ……たぶん!」
「国民の役に立ってるんだから、そんなのどっちでもいいわけ。それで、社内報にこれ掲載してもらって、インタビューしてもらって、そしたらあたしたちの部署も評判あがるし!」
「やめてください絶対!」

こんな写真を社内報でばらまかれてしまったらわたしは一巻の終わりだ。
ただでさえ無愛想で地味な女だと思われているのに、こんな、こんな派手な頭で派手な衣装を身にまとった派手なわたしの顔なんて、うちの部の上司に見られたら……「実はこんなに目立ちたがり屋だったんだね」なんてコソコソ噂されてうしろ指さされて笑われるなんて言語道断。一生の不覚!

「じゃあ、合コン開いてくれるよね? 佐久間さん」

にっこりと微笑む彼女のたちを苦い顔で見つめながら、わたしは項垂れるように頷いた。

「……わかりました」

頷くしか、なかった。





「一体、今日はどうしたんですか」
「あたしがランチに誘ったのがそんなに不思議?」
「不思議ですね。姉さんの強引さは今日に限ったことではないですが、わたしと1時間も過ごすのは姉さんにとっては苦痛なのではないかと、そう思っていますので」
「そのくどくどした言い回しはもちろん、苦痛よ」

微塵も表情を歪めずに、姉はパスタを頬張った。
朝から不機嫌になる出来事が満載にあったせいで、わたしの感情はもちろんストレスフルであり、しかも息抜きであるランチを姉との時間に使わなきゃいけないという絶望的状況にうんざりしていた。
おまけに、わたしがどれだけくどくど言おうと、姉はびくともしない。それにまた苛立ちが募る。そんなことはわかっているのに、つい言葉を荒らげてしまう。姉にたいしては未だに反抗期なのだ。わたしは大人になれない。

「これ、見たんだけど」

トン、と姉がテーブルに置いてきたのは、今朝方に見せられたばかりのあの雑誌だった。
まったくどいつもこいつも、なんで揃ってこんなちっとも書店に並んでないような雑誌を買っているんだ。もっとCMしたり中吊り広告したりしているようなキラキラOLさんたちがこぞって買う雑誌を読んでるんじゃないのか。
しかもよりによって、まさかこの姉に見つかるなんて。思った以上に、動揺してしまう。

「……これには事情が」デジャヴだ。もう説明するのも面倒だが。
「アンタ、こういうことするタイプだったっけ?」弱みを握ったと言わんばかりの顔をしている。
「ですから、これには事情があるんです。ネックレスを返さなきゃいけないところまでは、姉さんも知ってますよね」
「そんなのどうだっていいんだけど、この彼と仲いいの?」

と、姉は仁王さんをポツポツと指差して聞いてきた。
まさかとは思うけど……ハイクラスの男しか愛せない恋愛意識高い系のこの姉が、うちの女子社員たちと同じミーハー?

「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「姉が妹の恋愛事情を気にしちゃいけない?」
「恋愛事情? バカ言わないでください。ありえません」

手を握られたときは、多少、どぎまぎはしたけれど。滅多にそんなこと、ないから。

「へえ、そうなんだ。でもこの雑誌、まずいんじゃない? 会社にバレたら」
「もうバレました。一部の人にですけど」
「なんだ、それなら知らせてあげる必要もなかったのか」
「ひょっとして、そんなことでわたしをランチに誘ったんですか?」

どうも腑に落ちない。
怪訝な顔で姉にそう告げると、彼女はふっと鼻から息を吐いて言った。

「もうすぐ父さんと母さん、還暦でしょ」

意外だった。姉から両親に対して思いやるような言葉が出てきたことが。
親の言うことはもちろん、担任教師の言うことにだって耳をかさず、常に自由奔放に生きてきた姉が、親の還暦を気にしている。
やっと親孝行という行為を知ったのだろうか。いつだって自分のことしか頭にないくせに。

「そういえば、そうですね」
「たまには姉妹で実家に戻って、親孝行っていうのもいいじゃない」
「なぜ、いまさら?」
「え?」
「個人的に親孝行ならわたし、姉さんよりはしています。高校3年になって突然に家を出て、急に連絡してきたと思ったら海外の大学に受かったから費用を出せ、なんて横暴な真似はせず、公立の高校に通い、国立の大学に通い、親が安心する公務員になりました」
「ちょっとなに、その話」
「なにって、姉さんとわたしの違いです。いまの話を聞いて、どっちが親孝行だと思いますか? ただ、姉さんはそれで許されてきています。未だに姉さんはお父さんにとってもお母さんにとっても自慢の娘だと思います。手のかかるほど可愛いとよく言いますよね。だからうちの両親も、いまさら親孝行されても拍子抜けするんじゃないでしょうか。それに還暦じゃなくとも、親孝行するチャンスはこれまでいくらでもあったんじゃないですか? なぜ、急に、いまになって?」

姉がしらけた顔でじっとわたしを見る。呆れて物も言えないんだろう。ざまあみろ。言い返せるもんなら言い返してごらんなさい。
自分勝手に家を出て行ったあのとき、うちの両親がどれだけ姉さんのこと心配してたか、知らないでしょう。出て行く直前、姉さんと口喧嘩をしていたわたしが、どれだけ責められたかも。

「よく弁が立つね、相変わらず」
「どういたしまして」
「褒めてないからね全然。そんな昔の話をほじくり返しても意味ないよ伊織?」
「もっと昔の話もあります。わたしが親に買ってもらったランドセルは、1週間後には姉さんが使っていました。両親に泣きついても『お姉ちゃんすぐ飽きるから大丈夫』と取り合ってもらえず、案の定、2ヶ月後には『飽きた』とボロボロになったランドセルを返してもらいました」

世間の家族は大抵、上が我慢して下がわがまま放題だと言うけれど、うちはまるで反対だった。姉ばかりが優遇され、わたしは妹なんだから姉を慕えと言われつづけてきた。どうやったら慕えるのか教えてほしかった。
自分の気に入った物は妹の物だろうが関係なくすべて奪っていくような姉を、どう慕えって?

「そんなアンタの恨み辛みを聞きに、ランチしに来たわけじゃないんだけど」
「両親の還暦のお祝いを姉妹で、という話でしたね。急なのでどうしたのかと思っただけです。姉さん、いままで両親の誕生日にはいつもお花を送るだけだったじゃないですか」
「だから還暦くらいはちゃんとって思ったんじゃない。別にアンタが嫌なら真広とやるから」
「嫌じゃないですよ別に。でも、わたしにすべてなすりつけるのだけはよしてくださいね。やるならちゃんと役割分担を決めて計画的に動きましょう。予算は決まっているんですか?」
「うるさい女ねホント。わかったわよ、いろいろ決めたら連絡する!」

めずらしく、姉が苛立って席を立った。
わたしはなに食わぬ顔でパスタを食べつづけたけど、姉がわたしの挑発にのったのは、はじめてのような気がしていた。





都内では美容室の激戦区と言われる場所に、FREEDOMはこじんまりと構えていた。

「いらっしゃいませ、佐久間様ですね?」
「はい、すみません急に電話して、こんな……」

ランチが終わってすぐ、わたしはFREEDOMに電話した。
当日予約が可能か聞くと、ここ数日は予約が埋まっており難しいという返事だったので、仕方なく週末に予約して名前を告げると、突然、今夜来るようにと言われたのだ。
どうやら、仁王さんが「俺の客だ」と言って特別に受付終了後、対応してくれることになったらしい。
むしゃくしゃしていた気分を今日、癒やしの空間で変えてもらえるのかと思うとそれは願ってもないことで、妙なお願いをしに行くというのに、わたしは少しうきうきしていた。

「とんでもないです。ご来店ありがとうございます。お掛けになってお待ちください」

言われたとおりにソファに座ると、奥から仁王さんが出てきて、わたしを見つけると微笑みながら向かってきた。
3週間ぶりの仁王さんの視線に、妙に緊張している自分がいる。この人はわたしの頭からつま先までじっくり見るから、変な力が入ってしまうのだ。

「いらっしゃい伊織さん」
「仁王さん、今日は突然すみません、ありがとうございます」
「ええんよ。来てくれたことが嬉しい」

やけに優しい顔で、さらっとそんなこと言うのも、相変わらずだ。

「優勝のお祝い、今度させていただくと言ったままになっていましたので」
「伊織さんらしいな、そういう律儀なところ」

笑われてしまった。
仁王さんの喜びが伝わってきて、いまさら「合コンのお願いに媚を売りに来ただけです」とはとても言えそうにない。いや、どこかで言わなくちゃいけないのだけど。

「じゃあ立って。こっち向いて……ん、うしろ向いて」

あの日と同じように、仁王さんはわたしの全身をじっと見ながら、なにか構想しているようだった。希望はきかないのだろうか。普通、「今日はどうされますか?」とかありそうなものだけど。
結局、そんなことはひとつも聞かれないまま、気持ちの良いシャンプーを終えたわたしは鏡の前に座っていた。
気づけば仁王さんが、ハサミを持ってうしろに立っている。
そのあいだに、さっきまでいた店内のお客さんは全員いなくなっていた。いるのは、わたしと仁王さんと、もうひとり、わたしの頭を洗ってくれたアシスタントの女性スタッフだけだ。

「されて嫌なことがあれば、先に聞いときたいんだが」
「派手なのは困ります」
「バッサリカットはええんかの?」
「それは別に、どちらでも」
「こんなに長いのに、気にせんか。まあでも、伊織さんにはロングのほうが似合っとる」

髪を撫でるようにして触れながらそう言うと、ようやくカットに入り始めた。
シャキシャキと響くハサミの音の合間にそっと仁王さんの親指を見ると、少しの赤みが見えた。
きっとわたしが絆創膏を貼ったあの怪我だ。かさぶたを剥いてしまったのだろう、治りかけの弱々しい皮膚が火傷痕のようになって、痛そうだった。

「伊織さん、元気しちょったんか?」
「ええ、はい、まあ」
「あのショーのおかげで優勝できて、またお客さんが増えたんよ。伊織さんのおかげだ。ありがとの」

ショーに来るほどの人は一般の人じゃなく、たぶん、美容師を志している人だろう。
お客さんが増えたのは、ショーで優勝したことで目にする機会があったからだ、あの記事を。
そう思うと、癒やしの気持ちはどこへやら、ちょっと腹立たしくなってくる。

「ひょっとして、雑誌に掲載されたせいですか」
「ん? ああ、そういえばあの雑誌、もう発売されとるんかの」
「あの雑誌……ということは仁王さんには掲載の確認があったんでしょうか」
「掲載の確認……ああ、あった気がする」

のんきな声に、思わず下唇を噛み締めた。
つまりわたしが女子社員たちに脅されているのも、すべては仁王さんのせいというわけだ。

「話が早いです仁王さん」
「ん? なにがだ?」
「カットに集中しているところ申し訳ないですが、あなたのせいでわたし、大変な目に遭っているんです」

仁王さんの動きが止まる。
きょとんとした顔で、鏡越しにわたしの目をじっと見てきた。

「どういうことだ?」
「あの写真のせいでわたし、同僚に脅しをかけられていまして」
「脅し?」
「ボランティア活動したわたしを讃えて社内報に掲載すると。それだけはわたし、避けたいんです」
「そりゃ脅しじゃなくて、いいことなんじゃないのか?」
「脅しなんですわたしにとっては!」
「ふうん。大変やの、それは」

仁王さんはどうでもよさそうにまたカットを始めた。
人の気も知らないで……即座に動いて、また怪我させてやろうかまったく!

「それを仁王さんなら、阻止できるんです」
「意味がまったくわからん」
「合コンです、仁王さん」
「……なんて?」
「合コンです。うちの脅迫者たちと合コンをしてください。わたしと仁王さん含め、4対4で!」

仁王さんが少し口を半開きにして、小刻みに頷いた。「なるほどそういうことか」と小声でつぶやいている。ようやく合点がいったのだろう。
モテる人は、こういう話への理解が早いんだ。というかこの手の話が多すぎるのかもしれない。

「合コンとかそういうの、俺の性に合わんのよ」
「そうおっしゃると思いました。でもここは、勝手に雑誌にわたしの顔を晒した代償として、お引き受けいただけないでしょうか」
「勝手にっちゅうても……あれ、メインで写っとるの俺じゃし、伊織さんのことまで承諾した覚えはないんだが」
「それでもOKしたのは仁王さんなんですから、わたしがあの雑誌に掲載されてしまった責任が、仁王さんにはあるはずです!」
「まあ……無理やりなこじつけな気もするが。ちゅうても俺、彼女おるから」
「え」

こんなにイケメンで、美容師なんだから、当然女の人には困ってないはずだ。
そんなことわかりきっていたのに、なんでいま、わざわざ聞き返してしまったんだろう。

「じゃから合コンしたところで、その同僚たちと俺とはうまくいきようがないんじゃけど」
「ですが……それは会ってみないとわからないのでは?」

正直、彼女たちを知っている身からすると、うまくいきようがないとは思う。
全面的に同意なのに、つい口をついて出た言葉は、反論だった。

「会わんでもわかるんよ、そういうのは」
「ですが仁王さん、いまお付き合いされている人よりいい方がいる可能性もありますよね」
「ない」

ピシャリと言われて、チクチクとした胸の痛みが走る。意味もわからず、わたしはショックを受けていた。
断られたことへのショックなのか、いつもの優しい仁王さんが垣間見えないことへのショックなのか、よくわからないけれど。

「どうしてそんなこと、言い切れるんですか?」
「彼女以上の人に会える気がせん、もちろん、いまのとこ、やけどの」
「そんなに、好きなんですか。その人のこと」
「好きじゃなきゃ付き合わんし。あれ、俺ひょっとして、口説かれちょる?」
「ちが、違いますよ! もう、いつもいつも……」
「はは、冗談冗談」

そのときだった。アシスタントの女性がわたしと仁王さんの様子を窺うように入ってきて、「仁王さん、お客様です」と声をかけてきた。

「お客さん?」
「はい、あちらに」

アシスタントの女性が手を出したほうを見ると、そこに長身で黒髪の男性が立っていた。
仁王さんと目が合って、片手をあげながらこちらに向かってきている。
どう見ても髪を切りに来たわけじゃないのは、重たそうなバッグを持ったままずかずか入ってくる様子で見て取れた。
というか、この人もすごい、イケメンだ。類は友を呼ぶのかもしれない。

「忍足、どうしたんじゃ?」
「仁王に頼みがあって来たんやけど」
「見えんのか。来客中だ」
「もう閉店しとるやんけ、どうせ練習やろ」
「忍足、お客さんじゃ。失礼な物言いはやめんしゃい」
「えっ、ああそれは、すんません。ほんならこれどうぞ」

と、その男性がわたしの目の前になにかを置いた。
なにかというより、どっからどう見ても、これは、絵本だ。

「忍足、なんの真似じゃ」
「営業や。この絵本、置いてくれん?」
「なんで絵本なんよ、お前」
「いま売出し中やねん。ウェブも作るんやけど、その前に身近なとこに営業」
「営業せんとどうにもならんほど、出版業界は厳しいんか?」
「いや。俺、会社辞めてん」
「は?」
「絵本と一緒に名刺も置いてくで、それ見てくれたらなんとなくわかると思うわ」
「……なんか大変そうじゃけどのう、忍足。ここで絵本を読むっちゅう人は、おらん気がするんだが」
「そう言わんと置いてえや。1冊1500円」
「お前、金取るんか」
「のところを、1000円でどやろ」

二人の会話はわたしの意識の遠いところでされていた。
わたしは目の前の絵本を読みながら、高揚を感じていた。要するに、夢中になっていたのだ。

「ほな1週間考えて。あとでちゃんと読んで。いらんかったら状態最悪になっとっても引き取りにくるから」
「相変わらず強引やのう、お前は」
「お前に言われたないねん仁王。ほなな、ありがとう。お客さん、邪魔してすみませんでした」
「いえ……」

軽く会釈をして、わたしは鏡越しに仁王さんを見た。
仁王さんが気づいて、軽く首を傾げる。

「伊織さん、ひょっとしてああいうのが好みか」
「はい!?」
「なんか聞きたそうな顔しちょるから」
「仁王さんはどうしてすぐにそういう……!」
「わかったわかった冗談じゃ。ま、なんならそれ買う代わりに合コンに来てもらうっちゅう手もあるけどな」

さらりと流れていった会話に、わたしはカッと目を見開いた。
いま、合コンに来てもらうって言った。ってことは……。

「合コンしてくれるんですか!」
「まあ、そんな鋭い目で俺のせいじゃって言われたらのう。その本、お買い上げしとくか?」
「あの、それってお金を払うのはわたしということですか?」
「さすが伊織さん。ようわかっちょる」

まったく。
そんなことが言いたかったわけじゃないのに、すっかり仁王さんのペースに巻き込まれてしまう。調子が狂うからなのだろう。この人と話すのは、いつもかなりエネルギーがいる気がする。
このあいだのショーのときだってそうだ。疲れ果ててしまって、帰ることしか頭になかった。

「ところであの方、編集者の方ですか」
「大手の出版社に勤めてたはずだ。まあ、会社を辞めたっちゅうのを秘密にして合コンに連れて行ったらモテるだろうな。うん、やっぱり連れて行ったほうがええかもしれん」
「あの、この本、買ったほうがいいと思います」
「そうきたか。結局は俺に金を払えっちゅう……」
「いえ、なんならわたしが買ってもいいです、本当に。いま納得しました、大手の編集の方と聞いて。とてもいい本です、これ。とても深くて、小さい子には早いかもしれないですけど、なんというか、胸が打たれます」

懸命にそう告げると、仁王さんは眉をあげてから、わたしの顔を見て微笑んだ。

「意外やの伊織さん、そんなメルヘンそうな絵本に心を動かされる人とは思っちょらんかった。やっぱり見た目以上に、女なんだな」

口調よりずっと、優しい顔だった。
はた、と思い出す。この笑顔、わたしの手を握りしめていた、あのときと同じ表情だ。

「どうせわたしは、女らしくないです」
「そういう解釈になるか、ひねくれちょるのう」
「だって」
「そうじゃのうて、男からするとそういうギャップは、結構グッとくるって言いたいんよ、俺は」

その会話をしているあいだ、わたしの胸の奥は、ずっとチクチクと痛んでいた。
なんで褒められているのに、わたしはまた、ショックを受けているんだろう。
仁王さんの発言のどこに傷ついているのかよくわからないまま、わたしのカットはいつの間にか終わっていた。





仁王さんはパーマをかけたかったらしいけど、すでに21時。遅くなると申し訳ないので遠慮した。
しかしカットしかしていないというのに、わたしの髪の見た目は、うっとりするような艶が出て美しくなっている。

「じゃ、5000円で」
「え。嘘ですよね? 安すぎます」
「特別価格。変な輩も来たし」
「でも」
「ええって。どうせ合コンの話がしたくて来ただけじゃろ。伊織さんにとっちゃ余分な出費だ」

ぎょっとする。
さすがとしか言いようがない。わたしはあくまで、優勝のお祝いだと言ったのに。

「仁王さん、これは優勝の……」
「じゃあそれはうちに通ってくれるっちゅう約束でどう? 今日は5000円でええから」
「そんな、申し訳なさすぎます。それに、ちゃんとこれからも来ますよ!」
「ええからはよ、5000円を出して帰りんさい。もう夜も遅いし」

と、仁王さんがなだめたとき、わたしのスマホが鳴り響いた。滅多になるスマホじゃないのに、今日はやたらとうるさい。
液晶を確認すると、まったく知らない番号からだったことで、わたしはまたしても、嫌な予感がした。
せっかくなんだかんだと言いながらサロンで癒されたというのに、今日は最悪の日なんだろうか。ただ、嫌な予感がしたところで、取らないという選択肢はわたしにはない。

「もしもし」
「もしもし佐久間さんの携帯電話ですか?」
「はあ、あの、どちらさまで……」
「消防の者です。お住まいのマンションが、火事を起こしてまして」
「は?」
「佐久間伊織さんでしょう? お住まいの杉並区のマンション、火事なんです、すぐに戻れますか?」

火事……その言葉に、わたしの頭は真っ白になった。
目の前の仁王さんがなにかを感じ取ったのか、眉間にシワを寄せている。

「伊織さん、どうした?」
「火事……」
「え?」
「どうしよう仁王さん、うち、火事だって」

仁王のさんの目が見開かれて、わたしはいつの間にか、彼に体を支えられていた。





to be continued...

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