きみが慾しい_08
思った以上にダメージを受けている自分に倦怠感が募っていく。
もっときちんと向き合って、話せば良かった。
待っていてと言えなかった、あの頃の曖昧模糊とした自分の心情が、許せない……。
どれだけ後悔しても……もう、それをぶつけることすら、わたしには出来ないんだから。
きみが慾しい
8.
――周助が、慾しかった。
あれから時間が経つにつれて、その想いは増していく。
それが辛くて辛くて、仕方なくて……周助はわたしと雅治の話を聞きながら、ずっとこんな気持ちを抱えていたんだろうか。
だとしたら、それに気付けなかった自分の愚かさが、今更ながらに憎しみを持って自分を傷つけているのだとしか思えなかった。
「おはよう佐久間」
「……おはよ、不二くん」
伊織と呼んでくれていたあの僅かな時間を、もう取り戻すことは出来ない。
それがわかっていても、そう願わずにはいられなかった。
これじゃまるで、雅治のことを執拗に追いかけていたあの時のわたしと、何も変わらない。
わたしはきっと、そういう女なのだ。
好きで好きでたまらなくなったら、無駄だとわかっていても悪あがきをする、そういう女なのだ。
だけど、そんな自分を思い知らされた過去があるからこそ、もうあんな醜態は晒せないと、かろうじて自制をかけている……そのもどかしさは、自己嫌悪を募らせた。
「……ねえ、佐久間」
「うん?」
あれから三週間、わたしと周助はぎこちなくもそれなりに会話をするようになっていた。
翌日バイトであった時は白々しいほどの笑顔をお互いが向けていたけれど、今はその白々しさすら無い。
周助は何事もなかったかのように接してくれる。
わたしもそうしなければと、彼のその姿勢におかしなプレッシャーを感じて、空元気を振り撒いているのだ。
「バイト、今日で終わりって本当?」
「……あ……あ、うん。あー、ずるいな店長。辞めた後にみんなに報告するって約束してくれたのに」
「……どうして言ってくれなかったの?」
「だってー、なんかお別れの言葉とかの方がだめなんだよわたし。すぐ泣きそうになっちゃうから」
特にあなたに何か優しい言葉をかけられたら、わたしは崩れるほどに泣いてしまいそうになる。きっと。
そうは言えない心の内を、ぐっと喉の奥に押し込めてさらりと流した。
傍にいるのが苦しくなって、カウンターから出てカメラ棚の清掃に行く。話を続けることすら、何故か怖かった。
周助に別れを告げられた日の翌日のことだ。
わたしはバイトに入るなり、店長に退職届を出した。
本来ならば一ヶ月前に告げなくては行けない無礼を詫びながら、三週間後に辞めたいと告げた。
それが、限界だと思ったからだ。
あの日、家に帰ってからひとしきり泣いたわたしが、自分に下した決断だった。
もうこれ以上、周助の傍にいるのは耐えられない……辛すぎるのだ。
何があっても自分を愛してくれると自惚れきっていたからこそ、余計に別れを告げられたことが、堪えていた。
結果、そのわたしの判断は間違っていなかったんだとうんざりするくらいに思う。
学生同士のわたし達はシフトで重なることが多い。そうして会えば会うだけ、好きになる。
雅治との決着がついたからこそ、わたしの気持ちには歯止めが利かなくなっていた。
かつて雅治がそうだったように、周助にしたってもう無理なんだとわかっているのに。
「それでも、僕にまで秘密にして辞めることはないでしょう?」
「受験で忙しいから……ごめんね、いきなりで」
いつの間にか、隣で周助が手伝うようにしてモップを片手に立っていた。
それはなんら、珍しいことじゃない。
周助はいつもこうだった。いつだってわたしをサポートしてくれて、いつだってわたしを支えてくれていた。
つい、こないだまでそうだったように……でもその優しさが、今のわたしには、辛い。
辛いんだよ、周助……わたしはまだ、あなたが好きだから。
「それは、仕方ないけど……佐久間が辞めたら、寂しくなるね」
「……」
この店が、という意味であろうその言葉は、皮肉だと思った――その時だった。
お客さんが入ってくる自動ドアの音と、それを知らせるチャイムが店内に響く。
わたしは半ば救われたような気持ちで急いで振り返り、いらっしゃいませと声を高々に上げた。
でもその声は、全部は言い切らないところで、途切れてしまった。
わたしの隣に並んでいた肩が、すぐに、どうしたの?と驚きと喜びをない交ぜにしたような声を残して離れていく。
彼女は慌てるようにわたしに会釈をすると、自分に駆けつけてきた恋人にぱっと顔をあげた。
「うん、プリントしに来たんだけど、あたし、初めてだから……こ、この機械でやるの?」
デジタルカメラをしっかりと持ちながら、少しだけ臆病なその目を周助に向けて。
周助はそんな彼女――確か、吉井さん――の顔を、くすくすと笑いながら見ていた。
「そう、この機械でやるんだよ。いいよ。僕が教えてあげるから。じゃまず、SD出して」
「SD……SDって、ど、どこに……」
「はいはい。じゃカメラちょっと貸してね」
周助の笑った顔を、わたしは久々に見た気がした。
あんな嬉しそうな表情を、わたしはさせたことがあるだろうか。
わたしと付き合っていた時は、いつも切なげな視線を、わたしに投げてきていなかっただろうか。
……長年の片想いを告げられた周助。
きっとこの先も揺らぐことの無いだろうその想いに、周助は、どれだけ心を打たれただろう。
他の男と自分を天秤にかけているような女よりも、よほど可愛げがあったに違いない。
この結果を生んだのは、誰でもない、わたしだ。
わたし自身が、わたしをこんな惨めな想いにさせている。
一心に一人の男性だけを見つめている女性に、わたしが勝てるはずなかった。
雅治の彼女にしたって、吉井さんにしたって……わたしは、敵いはしないのだ。
バイトを辞めてから、二週間近くが経とうとしていた。
今も、彼女と一緒に居た周助の笑顔が、目に焼きついて離れないでいる。
周助に会うことはなくなって、幾分か辛さは減ったのに……心はいつも漠然と、彼を求めていた。
「……よい」
「?」
さっきから呼び止められていたのかもしれない。
わたしは休日をだらだらと過ごしている自分に嫌気が差して、近所を散歩していた。
それがいつのまにか周助に振られてしまったあのコートの近くへと足が勝手に動いていて、慌てて引き返していたときだった。
肩に手を乗せられて、ようやくその人影に気付く。
振り向けば、テニスバッグを担いだ雅治が、怪訝な顔をしてわたしを見ていた。
「あ、雅治……」
「どうしたんじゃお前さん、随分顔色が悪いぜよ?さっきから呼んじょるのに振り向きもせんと。……ちと、痩せたか?」
「…………雅治も、具合良さそうには見えないけど」
「……そうか」
次にあった時は、と笑いあってから一ヶ月は過ぎていた。
再会がこんなに呆気なく、のらりくらりとしたものになるとはお互い思ってもみなかっただろう。
僅か二言交わしただけで、わたし達はなんとなく相手の状況に気付いていた。
痩せた女と、どこかつまらなそうな男。
そんな二人が、喫茶店に入ったところで、向かい合わせに何を話せばいいのかわからず、ただ時間が過ぎていった。
でも、ぽつぽつと交わされる傷の舐めあいは、それなりに効果を発揮した。
30分も過ぎた頃には、わたし達は少なからず笑顔を見せ始めていた。
「でも意外……彼女が、雅治を振ったなんて」
「不二がお前さん振ったことも十分意外じゃけどの」
「……なんだかね」
「どうにもならん、こればっかりは……無理だと言われても強引にするほど、俺は強うないし。お前さんもの」
こく、と頷くと、雅治は力なく笑った。
わたし達はお互いの想い人から拒絶された。
それをかわして考え直して欲しいと迫れるほど、わたし達の心は強くない。
誰だって傷付くのが怖いように。
周助がもう疲れたと言っていたそれと同じように。
わたしも雅治も、もう傷付きたくなかった。所詮、自分が可愛いのだ。
そんな自分に気付いているから、余計に反吐が出るし、選ばれなかったんだとも思う。
「でもお前さん、もう不二に会えんでもいいのか?」
「会ったら辛いだけだよ」
「会いたいと思っちょるくせに」
「じゃあ逆に聞くけど、雅治は辛くないの?毎日毎日、同じ学校なんだから顔合わせるでしょ」
わたしが問うと、雅治は眉を上下させてぽつりと溜息をついた。
辛くないわけないじゃろう……とほとんど聴こえないくらいの声で呟く。
ほらね、とわたしが腕を組んで見せると、雅治は少し考える仕草で続けた。
「じゃけど……会えんよりはいい。俺はな。あいつの顔見れるだけで、それなりに満足しちょる」
「……話したりする?」
「するよ。変わりなく。ちといろいろあってな。別れたこと自体、俺らの中だけの秘密にしちょるから」
「え?」
ぽかんと口を開けると、雅治は複雑な色を表情に交ぜながら言った。
「あいつの親友と俺のチームメイトが付き合い始めての。いつも4人でつるんじょったから、水差しとうないんじゃ……そこはお互い、意見一致っちゅうことで」
「え、じゃあ、付き合ってる振りしてるの?」
「しちょるよ。必要なときはの。なかなかしんどいが」
「……それ、すごい残酷」
どうして想い合っているのに、別れてしまわなければいけないんだろう。
彼女と雅治の間に起こったことは、わたしと雅治の過去と然程の違いはないような気がした。
だからこそ、彼女を責めることが出来ない……わたしは狡猾に、距離を置くということをしたけれど。
彼女は彼女なりに、決意を固めたに違いなかった。わたしよりも、数段と潔く。
それが、正しいかどうかは別として――。
また傷の舐めあいが必要になったら、連絡しんしゃい。
雅治は笑ってそう言ったから、しばらくはいいや、とわたしも笑って返した。
結局、誰も幸せになれなかったんだな、と今更のように思う。
周助は違うけど……きっと、今は幸せだけど。
わたしが雅治のことをきちんと想い出と清算して、あんな真似を起こさなければ、雅治の彼女も、雅治も、平穏に過ごすことが出来たのに。
自分のしてしまったことの罪深さを考えると、どれだけ後悔しても足りなかった。
わたしは彼女を追い詰めて、間接的に雅治まで追い詰めた。
周助のことも追い詰めてしまったから、最終的に、自分自身の首を痕がつくほどに締め付けてる。
消えてしまいたかった……。
人の人生を狂わせたんだと確かに感じる。
わたしさえ雅治の目の前に現れなければ、せめて雅治と彼女は、幸せでいれたのに。
いつもそうだ。わたしは一人よがりで、自分の為の結果だけを考えて。
だから周助に呆れられてしまったんだ。疲れさせてしまった。
何度も何度も頭の中で繰り返す、自身の欠点。
頭の中で何個並べて自分を罵ったとこで、満足は出来なかった。
理解は出来ても、それでも周助の彼女でいたかったという欲だけは、消すことが出来ない。
どんなに自分の醜さを知っても、周助に愛されていた頃を忘れることが出来ない。
いつの間にか視界がぼやけてきて、無造作に手で目じりを拭ったときだった。
顔を上げた拍子に、つい二週間前に見た表情が向かいの道路に見える。
それは、間違いなく吉井さんだった。周助の、彼女――。
そのはずなのに、彼女の隣を一緒に歩いているのは、わたしの知らない彼だった。
肩を並べて歩く男女に、足が地についていないような違和感を覚える。
ふたりは、手を繋いでいたからだ。
「吉井さん!」
「……!?……え、あ……佐久間……さん?」
横断歩道を渡って、ふたりを見失わないように走って、その背中に声をかけた。
驚いて振り向いたのは、もちろん吉井さんだけじゃない。
その隣で手を繋いだまま、ぎょっとした表情の、同学年くらいの男子。
「大丈夫?びっくりした……」
息を切らしているわたしを心配するように。
その言葉は、まさか声をかけられるなんて思ってもみなかったと言わんばかりだ。
見つかってしまった、というような焦りは一切見られない。
こんなに堂々とされてしまっては、責めるにもタイミングを見失ってしまいそうだった。
彼女の隣で佇んでいる彼は、わたしをゆらゆらと見下ろして、ちらりと吉井さんに視線を向けた。
わたしもふたりを見比べていたから、多少の気味悪さを感じたんだろう。
すると吉井さんは、あ、とようやく慌てたように口を開いた。
「不二の、ほら……」
「ああ……」
それだけで納得したようにわたしを見る。
容易く彼女の口から出された名前に、わたしは多少なりとも唖然としていた。
彼の前で、「不二」って言っていいの?
「佐久間さん、彼ね、宍戸亮って言って、氷帝のレギュラー」
「え…………あ、はじめまして」
「ああ、どうも」
人見知りなのか、視線を逸らすようにして軽く頭を下げられる。
吉井さんに悪びれている様子は全く見られないし、彼をわたしに惜しみなく紹介するということは、疚しくは無いということ……?
でも……あなたは、周助の彼女のはずだから……その手は、繋いでちゃいけないはず。
「聞いても、いい?」
「え、うん」
「……宍戸、くんと……吉井さんは……その……」
「ッ……見たとおりだけど?」
吉井さんが答える前に、照れくさそうに顔を赤くしてソッポを向いた宍戸くんがそう答えた。
見たとおりということは、付き合っている、恋人同士だということだ。
いよいよわからなくなってくる。何かがおかしい。わたしは何か、重要なことを手にしようとしている。
「は、恥ずかしいね、なんか。ね、亮!」
「うるせーよバーカ」
「ひどい……」
宍戸くんはぶっきらぼうだけど、とにかく照れくさそうで、まんざらでもなさそうで、おまけに少し嬉しそうだ。
ということは間違いなく、ふたりは付き合ってる。
「ご、ごめんなさい、ちょっと待って……こ、こんなこと言うの、あれだけど……」
「ん?……どうかしたの?」
わたしの困惑しきった表情を見て、吉井さんは心配そうに首を傾げた。
彼氏であると宣言した宍戸くんも、怪訝な表情を崩さずに、だけどどこか心配そうに見てくれている。
言ってもいいのだろうか……それは、もしかしたらわたしへの希望に繋がるんじゃないか。
でもまた、このふたりの人生を狂わせてしまわないだろうか。
葛藤が高速で頭の中を駆け巡ったけど、最後にたどり着いた答えは、やはり女の感情だった。
「周助と……付き合ってないの?」
あれほどの後悔も。
結局、周助を残像を目の前にして、欲望を抑えることは出来なかった――。
to be continue...
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