遥か彼方_05


「あの……一度、お話がしたくて……」

「…………」

「バイト中に、迷惑なのはわかってます。終わるまで待ってるんで、何時になるか、教えてもらえたらって……」














遥か彼方













5.





青春学園に不二周助の姿はなく、わたしはそこにたまたまいた二年生部員に不二周助の居場所を聞いた。

恐らく今日はバイトに出ているという話だった。そこでピンときた。

もしかしたら、バイト先にあの彼女が居るんじゃないかと思った。

不二周助に話をつけて、いずれは彼女に会わせてもらおうと思っていたから、もしそうなら都合が良い。


昨日、一晩考えた結果だった。

わたしは雅治が好きだからこそ、彼の過去にきちんと向き合っていきたい。

彼がそれを避けて通るのはどうしてか許せない。

わたしに酔ってそれを誤魔化していくのも許せない。

きちんと清算して欲しい。

一人で清算出来ないのなら、清算出来るまでとことん付き合ってやる。だってそれが雅治らしいじゃないか。

今の彼は、体の不調を言葉に出来ずに甘えることでそれを消化するしか術のない猫のようだ。

……そんなのが仁王雅治なんて、笑わせる。わたしは親猫でも無ければ飼い主でもない。


――後悔させるくらいなら。

それにはふたりの話し合いが、一番の近道であることは間違いないと思った。


「本当に、突然、ごめんなさ――」

「――いいんです。わたしだって、こないだ突然だったから……」

「…………」


突然バイト先に赴いたわたしを、不二周助は驚愕の瞳で見つめていた。

そして案の定、わたしの探している彼女はそこにいた。こんなに早いうちに話が出来るなんて、好都合だった。

申し訳ないという気持ちはもちろんある。

彼女はわたしを見ることも嫌だろう。

不二周助は、どうして今、という顔をしていた。

それだけで、あの後の彼女と不二の間に何があったのか、安易に想像がつく。

だけどあなたもそのまま誤魔化されて愛されて、本当の幸せだとは言えないでしょう?

不二の表情を見た時、どこか溜飲が下がった自分自身に嫌悪感を覚えた。


「バイトは五時に終わります。それまで待ってもらえるなら、お話出来ます」

「あ、待ちます。全然待ちます」


彼女は凛としていた。わたしを恐れている様子も見えなかった。

心の中はぐちゃぐちゃに荒れているだろうに、わたしには毅然な態度でいたいのだろう。

彼女が本当は、芯の強い女性だということを考えさせられる。

本当は芯の強い女性がああまでするから、怖いのだ。それほど二人は愛し合っていたのだ。

話し方だって容姿だって、きっと中身も。本当に素敵な人だとわかる。たったこの一瞬で。

わたしには歯が立たないと思った。











*     *











彼女は不二の同席を求めてきた。

最初からそのつもりだったので、わたしはそれでいいと返事をした。

当然だ。不二周助が同席しなくて何の解決になる。一緒に聞いてもらうのが一番スムーズだ。

不二周助にはきっと辛い話になるだろうと思う。だとしても、彼にも聞いて欲しかった。

彼には、わたしの気持ちがわかってもらえるような自惚れすらあった。


「わたしと、何を話したいんですか?」

「もちろん……仁王のことで」


喫茶店で彼らと向き合い、重たい口をお互いが開いて、ようやく本題に入ったとき。

彼女は息を呑んでいた。

わたしの仁王、という呼び方になのか、当然そのことだと思いながらも緊張してしまったのかはわからない。

不二はわたしの言葉ひとつひとつに目を伏せているように感じた。

だめだよ。あなたにも、わたしにもこれは避けて通れない。わたしが、避けさせない。

お節介かもしれないけど、これはもう、雅治と彼女ふたりだけの問題じゃない。


「仁王とあなたの間に何があったのかわたしにはわかりません。でも別に、それを聞きたいとかじゃなくて……」

「……違うの?」


「はい……そうじゃなくて、わたしが思う、仁王の気持ちをあなたに伝えたくて」

「え……」


彼女はますます息を呑んだ。ようやく、本当の素顔を見せてくれているような気がした。

この行動に出るのに、昨日どれだけ泣いたかも思い出せない。

だけど雅治のことは、彼女に負けないくらいわかっているつもりだ。

だからこそ、見て見ぬフリをし通すことはわたし自身が許さなかった。

そんなことをしたら、わたしは雅治との関係に忸怩たる思いを抱えてしまうことになる。


「仁王はまだ、心のどこかであなたを想っていると思います」


声は震えなかった。

だけど目の前に居る彼女と不二は、震えているように見えた。

いきなりの変化球に対応出来ない――そんな顔をした彼女。

不二はその言葉を恐れていたと言わんばかりに俯いた。

ごめんなさい。あなたの幸せを壊して、ごめんなさい。

でもね……ほっといても、その幸せは壊れるよ。なら早く決着をつけよう。

わたし達の傷が、まだ浅いうちの方がいい。


「なに……言って――」

「――あなたも想ってる」

「……っ……」


声にならないほどの声で、反射的になのか彼女はそう対抗してきた。

わたしはその上辺に付き合うつもりは毛頭なかった。

混乱しているだろう。きっと彼女は不二を想いはじめていたはずだ。

さっきの様子から、それはわかる。


「あなたの気持ちは痛いほどわかります。わたしも仁王のことが本当に好きだから。だからこそ、仁王にはわたしとお情けで付き合って欲しくないって思ってます」


彼女は言葉にならない思いを、わたしに首を振ることで伝えようとした。

決してお情けじゃないと言いたいのか。でもそれがどうしてあなたにわかる。

雅治自身ですら、気付いてはいないのに。


「わたしは嫉妬深いから、仁王の中に存在するのはわたしだけじゃなきゃ許せません。あなたがわたしの前に現れたとき、仁王の様子は普通じゃなかった。わたしには、今の仁王の傍にいるわたしじゃなきゃわからないことがあると思ってます。だからわかったんです。勘違いじゃない。仁王はわたしのことを好きかもしれないけど、あなたを忘れてるなんて思えない。だから、話し合ってください。あなたの為じゃない。わたしは仁王に後悔なんてしてほしくないんです。彼のことが好きだからなんて、きれいごと言いたいわけじゃないんです。わたしと付き合ったことに後悔なんてされたら、わたしが惨め過ぎるから。だから、後悔しないように話し合って欲しいんです」
 

彼女も不二も何も喋ろうとしないのをいいことに、わたしはゆっくり、二人の心に浸透するように話した。

きれい事を並べるつもりもない。彼ら二人と仲良くするつもりもない。

だから正直に、胸のうちを話した。

二人は黙ったまま、手のやり場に困ったように目の前のカップを握り締める。

待っていても返事が聞けそうにないので、わたしはしつこく彼女に迫った。


「あなたも、話したいと言ってた。それなら、話し合った方がいい。ちゃんと二人で話し合って、やっぱりお互いが必要なんだと思えば、その答えを出してください。わたしは仁王にもあなたにも、振り回されたくないから。……決心がついたら、連絡ください。あなたからでも、不二くんからでもいいです。仁王には、わたしから話します。説得してみせます」


千円札と連絡先を書いた紙をテーブルに置いて、わたしは立ち上がった。

悪い話じゃないはずだ。

だけど彼女があの日のように目を潤ませないのは、やっぱり不二周助の存在が邪魔しているんだろう。


「それじゃ、また」


言うべきことは伝えた。

もうここに居る必要はないと判断して立ち去る寸前だった。

不二周助が、わたしと同じように突然に席を立って。


「ねえ!本当に、ごめん……!」

「!」

まさか不二周助が謝ってくるとは思わず、わたしは首が千切れそうなほどの勢いで振り返った。

わたしをおびやかしたあの日ことを謝っているようだとすぐにわかる。

そして、今頃になって不二の気持ちも痛いほどわかると感じていた。

あなたも、本当に好きなんだね、彼女のこと。

……あなたも、わたしも、切ないね。


「違うよ不二くん。これはあの日のこととは関係ない」


不二周助も、ずっと後悔していたのかもしれない。

本当は優しい彼なのに、わたしにしてしまったことを……罪の意識に苛まれて、苦しんでいたのかもしれない。

でも、わたしだって復讐しに来たわけじゃないから。

不二周助を見て、微笑んだ。今日、やっと笑えた気がした。

本当に、本当にごめんなさい。あなたもわたしも、お互いを傷付け合ってしまった。


「……僕から、連絡するね」

「はい、お願いします」


わたしはもう一度、深く頭を下げた。

不二の隣で不安げに彼を見上げている彼女を見た時、雅治と同じ匂いを感じた。








「なんでそんなことしたの?」

「ん〜、わたしのエゴじゃないかな。ほんと最低だね」


「嘘だよ。伊織いっつもそうやって自分ばっかり責めて。本当は仁王のためじゃん」

「…………」


本当に、そんなつもりは全く無かったけれど。

千夏は優しいから、そうしてわたしを叱るようにして迫ってきた。


「伊織が後悔する結果になるかもしれないよ?」

「このまま知らん顔して仁王と付き合ってるだけだと、きっともっと後悔する」


「……わたしは、仁王のこと信じてるけど……」

「あはは。千夏が信じたって〜」


そんなに落ち込んでないってば。

心の中の声が千夏に伝わるように、わたしは笑って見せた。

千夏は腑に落ちないと言わんばかりの顔をしつつも、「まあ、仁王は本当はわたしのことが好きだからね」とボケをかまして笑ってくれる。

その優しさが、気遣いが、本当に今のわたしには暖かくて、本当に嬉しいのだ。


「ねえ伊織さ」

「うん?」

「それで、その翌日、仁王には……」


わたしを伺うように言葉を詰まらせている千夏に、あ〜と曖昧な返事をする。

言いたいことはすぐにわかった。


「何にも言ってないよ。普通に遊んだ。いちゃいちゃした」

「……それ、平気?」


「いずれは言うもん。こないだ仲直りしたばっかりだから、もう少し幸せ感じてたいんだ」

「そうじゃなくて、伊織は心から楽しめないでしょって言ってんの」


千夏の言う通りだった。

翌日、雅治の家に行って彼と笑い合っても、抱き合っても、キスをしても、繋がっても。

心は徒に穴を空けられた障子のように、細く冷たい風を通してくれる。

愛しいと想う一方で、それが酷く虚しく……どうにもならない螺旋に絡まっていく自分を自覚していた。


「なるようになるさ!」

「……前向きに見せちゃって」


「いーの!千夏は自分のこと考えてなさい」

「わたしは別に考えるようなことないんだってば」


そう言ってられるのも今のうちだと、心の中でほくそ笑む。

今日のランチだって丸井くんの様子は確実に千夏を意識しているとしか思えなかった。

きっと彼は我慢できないタイプだし……さて、いつ千夏に気持ちを打ち明けるのやら。


「なに笑ってんの気持ち悪い」

「ん?うふ〜」


さっきまで不安な顔を向けていた千夏は、わたしの顔を見て一気に引いていた。

























不二周助から連絡があったのは、その週末のことだった。


「吉井は未だ混乱中っちゅうとこ?」

「そうだね。混乱中。まさかだと思ってたんだって。わたしがあれほど言ってたのに」


例によって、雅治の部屋の中でのんびりとテレビを見ながらくつろいでいた。

わたしと雅治の共通の話題はここ最近、専ら千夏と丸井くんの話だ。

なんと、こないだの木曜日に丸井くんが千夏に告白をしたという。

千夏から聞いてニヤニヤが止まらず、一方の雅治も丸井くんから聞いて同じ顔をしていたのだろうなと想像がつく。


「まあブン太自身が、まさか好きになるとは思っちょらんかったやろうしのう」

「ん。わたしがまさか雅治に恋するとは思ってなかったのと一緒だね」


にんまりと返すと、どの口が……と頬っぺたを抓られた。

だけど嬉しそうに笑う雅治がわたしの唇に触れた時、聞きなれない着信音が響いたのだ。

背中からその電子音が駆け上がってきたかのように錯覚する。

それくらい、ぞくっとした。やっぱり臆病者だと、心の中で自分を罵った。


「目覚ましか?」

「ううん。違う。登録してない人はこの音なんだ」


「登録しちょらん人間から電話がかかってきたりするんか?」

「そりゃあそういうこともあるでしょ」


強張ったわたしの背中を後ろから包んでくれている雅治の体を離して、わたしは側にあった鞄に手をのばした。

もうわかる。

不二周助以外、有り得ない。

だからこんなに怯えてるのだ。


「もしもし」

≪……不二です≫


「はい、こんにちは」

≪彼女から連絡があったよ。話したいって≫


不二の声は淡々としていた。

でも、きっと心は折れそうになっているに違いない。

自分から仕向けたことなのに、今まさにわたしの心が折れそうだったからだ。酷い矛盾に苛立ちが募る。

何を悲観している。それを望んでいたのは、わたし自身じゃないか!


「わかりました。伝えておきます」

≪……ねえ、君は≫


電話を切ろうとした時、不二周助は言おうか言わまいか悩んでいる間に声を出したようだった。

喉の奥でねばついて出てこないというような、掠れた声。

切らずに次の声を待っていると、不自然な咳払いをして、彼は続けた。


≪――強いね≫

「…………そう思う?」


≪うーん。僕よりは、かな。もしかしたら僕が、弱すぎるのかもしれないけど≫

「うん……そうだね。あなたは弱いと思う」


それだけしか、言えなかった。

雅治の表情がだんだんと疑いの色を浮かばせていて、いよいよだと緊張が走る。

電話を切って振り返ると、彼はすでに怒っているようだった。


「相手、不二か?」不機嫌そうな声。

わたしはわざとおどけて見せた。「さすが。聞こえた?」


「茶化さんでくれ。まだあいつと会っちょるんか」

「雅治。それが嫉妬じゃないのはわかる」


回りくどいのはもう止めよう。

わたしに虚勢を張っているかのようなその態度が、わたしの胸を締め付けるの。

わかるんだよ雅治。

わたしは誰よりも雅治を見てるよ。あなたのこと知りたいと思ってる。

だからわかるの。嫉妬したフリして、彼女とどこかしら繋がっていることが怖いんでしょう?

だから不二と連絡取って欲しくないんだよね。

彼女のこと干渉しないフリして、彼女と不二の繋がりも、本当はずっとずっと前から知ってたんじゃないの?

だからあの日の不二からの電話、取らなかったんじゃないの?

自分の気持ちから顔を背けちゃだめだよ。もう誤魔化さないで。


「なに言うちょる……」

「彼女と話して欲しいの」


「はあ?」

「先週の土曜日、遊べなかったよね。あの日ね、わたし、彼女に会ってきた」


言った瞬間、雅治は信じられないと言わんばかりにわたしを見つめた。

目の前が揺らぎそうだった。心が傾きかける。あなたを手放したくない。

そんな幻滅したような顔で見ないで。わたしだって考えた結果だよ。


「わたしには、わかるんだよ、雅治」

「なに言うちょるんか、伊織」


「まだ彼女のこと好きなんだよ、雅治は」

「なんでそんなこと言うんじゃ、お前……」


泣いてはいけない。泣くのは卑怯だ。フェアじゃない気がした。

雅治と彼女が付き合った月日は、きっとわたしよりも長いだろう。

この先に起こることを思えば思うほど、チリチリとした痛みが胸を抉る。

例え歯が立たなくても、これがわたしの、最後の悪あがき。


「雅治自身も気付いてないのかも。でもどこかで思うでしょう?わたしは、雅治に後悔して欲しくない。あなたはまだ彼女のこと、どこかで想ってる」

「伊織」


「ふたりの間に何があったのかわたしにはわからないけど、ふたりがそんな簡単に崩れるような関係じゃなかったことはわかる。それがいきなり千切れたんでしょ?」

「伊織って……」


「好きなのっ……」

「……っ……」


雅治がわたしを呼ぶ声が愛しくて、だから酷く辛くて。

遂に、わたしは堪え切れずに涙を流してしまった。

もうどうして伝えたらいいのかわからない。でも今のままじゃ嫌なんだ。

わたしも雅治も彼女も不二も、今のまま納得なんて絶対に出来ない!!


「雅治が好きだから、ちゃんとして欲しい。わたしのこと愛してるって言うなら、ちゃんと話し合ってきて」

「……伊織」

「構わないから」

「…………」

「あなたが彼女の元に戻っても、その覚悟は出来てるから!」


雅治の顔が歪んで、わたしを強く引き寄せた。

抱きしめられている温もりは、確かにここにあるのに。

体中を巡る切なさが、それに甘えることを許してはくれなかった。


「……なあ、伊織」

「うん……っ」


「……追い詰めちょったんじゃの。お前さん最近様子が変じゃし、気になっちょった」

「……っ……」


「……怖いんじゃ」

「雅……」


「卑怯じゃけど……お前に過去を知られるのも、あいつと話し合うのも、怖い……」

「雅治……?」


それでも。

お前が俺に向き合うのに、俺だけそっぽを向いたりは出来ん。

雅治の目は力強く見せていて、今にも壊れそうな歪みを見せていた。

でもそれが、ようやく重たい口を開く合図だと気付く。

やがて彼の手はわたしの腕を伝って、思いつめたようにこの手を握ってきた。


「俺は……あいつを裏切ったんよ」


握られた手が痺れるような感覚を馳せる。

これから待ち受けるだろう雅治の過去に、わたしは歯を食いしばった。





to be continued...

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