Poker face_03




3.


テニス部の練習時間はそこそこある。だいたい15時45分くらいからはじまり、18時手前か、試合前となると19時くらいまで特別にやることもあるらしい。つまり、跡部先輩のひと声で、そのあたりは自由自在だというわけだ。
そして今日、17時45分。
そろそろテニスコートから戻ってくるレギュラー陣のために、わたしと千夏はテニスコートから部室へと移動し、タオルやドリンクを用意していた。

「ドリンク全員分、完了ー」千夏の、やる気のない声が聞こえた。
「こっちもタオル完了ー」一方でわたしも、元気ない声で返した。
「今日は大丈夫? おお、9枚、ちゃんと用意してるじゃん」
「もう、大丈夫だって!」
「だってあんた、滝先輩のぶん、いつも忘れるじゃん」

そのとおりだった。いや、別に滝先輩を軽視しているわけじゃない! ただ、面接の場にいなかったせいか、今年度から準レギュラーも座も外されたのかと思って、記憶違いをしてしまっているだけなのだ。
あの日はどうやら、滝先輩は用事があって帰っていたらしい。そういうタイミングがうまく合わないところも、滝先輩らしいなと思ってしまう。こんなことを言ったら、絶対に怒られるだろうけど。

「もうすぐだね、戻ってくるの」千夏がぼんやりと、窓の外を見ながらつぶやいた。
「そうだね。にしても、なんかわたしたち抜け殻みたいになってるよね。せっかくマネージャーになれたってのに。これじゃあ、常石さんに悪いなあ」
「仕方ないよ……お互い、テンションがあがらないんだから」
「わたしはともかく、千夏はどうかしてる」これだけは、きっぱりと言っておく。
「ほっといて」

2週間前のあの日……。
嘘みたいな筆記試験に、嘘みたいな面接試験が終わり、わたしたちは運よくマネージャーになれた。
最初は緊張しまくりで、忍足先輩を直視できなかったけど、このごろはようやく慣れてきて、滞りなく、普通に話せるまでに成長していた。それでも、ときどきは直視できないことがある。イケメンすぎるんだもん……だから、目を伏せてしまいがち。
それでもこんな日常は、考えられなかった幸せだ。近くで見ることもできなかった忍足先輩、そして千夏にとっては跡部先輩と、毎日のように会話をできるなんて、夢にまで見た時間だ。
と、いうのに……。
あの日、忍足先輩の彼女を見てからというもの、気分はそりゃもう最低なわけで……なのに忍足先輩は、あいかわらず優しく接してくれるわけで……あげく練習後は汗だくのはずなのに、いい香りもさせてくるわけで……父さん、わたしはもう、忍足先輩が、その存在が、つらいわけで……。
とまあ、キャラが北の国からの純状態になっている。吉岡秀隆のあのネガティブ感がしみついてしまっているわけである(時代がついていけない人は、ググってみてくださいね)。
要するに、5月といういい季節なのに、心だけは北海道の富良野の吹雪で凍っているのだ。さすが氷帝! って、そんなポジティブには、なれない。

「まあでも、あたしよりは、伊織のほうが落ちてるけどね」慰めるように頭をなでてきた。
「はあ……だって、忍足先輩に彼女がいるなんて、聞いてなかったわけで」
「まあでもさー、あれほどの人だから、いて当然っちゃ当然だよね」イケメンだもん、色気もヤバい。と、付け加えた。
「それは跡部先輩にだって言えるじゃんっ。でも、跡部先輩は、いないわけで」
「……ねえ、最近のその、『わけで』って、口ぐせ? なんかイライラするんだけど」

純はそういう男の子なのだ。ちょっとイライラするからこそ、北の国からは面白かったんだ。ああ、そんなことはどうでもいい。いい加減、本当に口ぐせになる前にやめておこう。
千夏は、しらっとした目を向けて、腕組みをしていた。これ以上イライラさせると面倒なことになる。そっと彼女から距離を取って、部室に設置されている冷蔵庫から、レモンの蜂蜜漬けを入れたタッパーを取りだした。

「うわ、伊織……またそれつくってきたの?」
「だって、忍足先輩が好きなんだもん」音楽の知識と料理にだけは、自信がある。
「あ、そう。なーんか……いいよね伊織は、恋心ずっとつづいてて」
「はあ? 千夏だって跡部先輩のこと好きでしょ?」
「好きだよ。好きだけど、やっぱり気になるんだよね」

千夏はこの2週間、ずっとそんなことを言っていた。
面接の翌日だった。はじめて彼女からその件について相談されたときは、この女は見た目もよくて美人だが、心底バカなのだと思い知らされたものだ。
彼女は跡部先輩のチャームポイントが、どうも気になるらしい。面接の日に、至近距離であの美しい顔を眺めたとき、その違和感に気がついたのだとか。

「逆に、どうして伊織は気にならないの? ちゃんと見てる?」
「見てるよ! 千夏がおかしなこと言うから気になっちゃって。あれからずーっと跡部先輩の顔、これでもかってくらい拝ませていただいてるけどさ」
「やっぱり、あたしがおかしい?」即座に、深くうなずき返した。「いや、ダメだよ伊織。わかってない。もっと跡部先輩の近くじゃなきゃわかんないんだって!」
「あのねえ。わたしがどうやって跡部先輩の近くまで行けって?」
「まあ……それもそうか」

たとえば、あのチャームポイントから毛が生えていた、とかいうことなら理解できる。それはたしかに引くし、好きだった想いも若干、減っていくだろう。
でも千夏が気にしているのはそういうことではなかった。サイズの問題だ。まったくもって、バカバカしい話である。

「それにさ千夏」
「なによ」
「跡部先輩、千夏のこと好きっぽいよね?」
「……そんなこと、言われなくても気づいてる」

なにがバカバカしいって、これがいちばんバカバカしい。
想い合っているのに、この女は「ちょっと気になる」というだけで跡部先輩を避けている。美貌の持ち主だからだろうか? 完璧主義? そういうとこも、絶対に跡部先輩とお似合いなのに。
あんなにぎゃーぎゃーと騒いでいたくせに、いったいなにをためらっているのだ、このスットコドッコイは!

「ホント、1回死んだほうがいいわ、あんた……」だから、悪態をついてやった。
「ほっといてよ……気になるものはしょうがないんだから!」
「あっそ」

跡部先輩は、この女のどこがいいのだろうか。
そりゃ千夏は美人だ。だけど跡部先輩は超モテモテだから、美人は腐るほど見てきてるだろうし、きっと相手もしてきている。というのに、あの面接の翌日から、彼は口説いているとしか思えないような態度で千夏にまとわりついていた。なにか、この女ならではのものがあったんだろうな、と思う。おそらく、芥川先輩を校内用シューズでぶん殴ったことだろうけど。
そんなことで跡部先輩に惚れてもらえると跡部先輩ファンのみなさんが知ったら、明日から芥川先輩はボコボコにされて、病院送りになるかもしれない。
だからこの件は、そっと胸のなかに閉まっている。まあ、それを意図せずに素でやった千夏だからいいのだろうけど。「その程度、素で出来んだよ!」だ。うん、やはり似た者同士だなあ。

「遠くだと、好きなんだけどなあ」
「近くでも好きになれっつうの」
「好きなんだけどさー、うーん……慣れるのかなあ、これ」

そういうわけで、千夏は跡部先輩との仲を、なあなあにしている。プラス、わたしのふつふつとしたわだかまりは、それだけじゃない。
千夏は、跡部先輩には近づかないくせに、忍足先輩とはやたら仲よしで、距離も近い。どちらかというと、そのことに複雑な気分になっている。
だって、わたしが忍足先輩とようやく話せるようになったころには、千夏ってば忍足先輩にすっかりツッコミをするようにまでなっていたわけで! あ、また純になってしまった。

「わっ、伊織! 先輩たち戻ってきたみたい!」

二人で定位置についた。2週間が経ったとはいえ、いまだに忍足先輩が近くに来るのは、いささか緊張する。ほかの先輩たちのことは、なんとも思わないのに。
この時間、もし先頭が忍足先輩だったら、部室の扉が開かれたとき、どんな顔をして、どんな行動を取っていれば不自然じゃないか、と考えすぎてしまう。

「えっ! だ、誰が最初!?」

だからなるべくなら、戻ってくるときに忍足先輩には先頭で部室に入ってほしくないということもあり、いつも先頭が誰か、連携して確認するようにしているのだ。

「えーと……あ、たぶんあの調子だと、向日先輩かな」
「そっか、OK! 心の準備も万端です!」

向日先輩なら、問題ない。
若干、失礼な気がしつつも、やがてはガヤガヤとした声が聞こえてきた。

「ああー……今日の練習キツかったな、侑士」
「ホンマ……めっちゃしんどかったわ。跡部、鬼やったな。最近、機嫌が悪いんやろな、あいつ」
「お疲れさまです。はいどうぞ、はいどうぞ、はいどうぞ」

機嫌が悪いのはたぶん、千夏の煮え切らない態度のせいだろうと思いつつ、背筋を伸ばした。
向日先輩を先頭に入ってきたレギュラー陣は、千夏からタオルを受け取ったあと、クーラーボックスの前にいるわたしからドリンクを受け取り、汗を拭きながら水分を摂りはじめる、というのが恒例である。

「ドリンクです、どうぞ、どうぞ、どうぞ……」
「サンキュー!」
「ありがとよ」
「ありがとうございます、佐久間さん!」

だから、向日先輩のあとは忍足先輩だと思いながらドキドキしていたというのに、そのあとに現れたのは、宍戸先輩と鳳先輩だった。
地味に傷つく。こういうとき、忍足先輩は大抵、タオルのところで立ち止まったまま、千夏に話しかけているからだ。

「なんや千夏ちゃん、今日も辛気くさい顔しとるなあ」
「そんなことないですよ……人の顔を見るなり、辛気くさいとか言わないでください」

ほら……ほらもうこれですよ! 必ず千夏にちょっかいかけてるわけで!

「嫌やわあ、そない怒らんかったってええやないの」
「怒らせようとしてるでしょ? だって」
「ええホンマ? そんなん、はじめて言われた」
「うそこけ侑士」
「黙っとけ、岳人」
「黙ってて大丈夫です向日先輩、嘘なのはわかります」
「おっと、はいはい。強烈やなあ、今日も」

ていうかいつのまにか「千夏ちゃん」とか呼んでるわけで! わたしは「佐久間さん」のままなのに、その違いはなんなの!? って思うわけで!
千夏に嫉妬するなんて、醜い自分のことが嫌いになりそうなわけで!
だけど、やっぱムカついてしまうのは仕方ないわけで! ああもう、助けて田中邦衛!

「あ! 佐久間さん、またつくってきてくれてるCー! オレ、これ超好き!」
「あ、佐久間さん、オレも食べていいですか?」
「いいねー佐久間さん。やるねー」

クーラーボックスの横にそっと置いていたレモンの蜂蜜漬けを見つけて、芥川先輩がテンションをあげた。つづけて鳳先輩と滝先輩も、列に並ぶようにして待っている。
ていうか、別にわたしがタッパーを開けずとも、勝手に開けてくれてかまわないのだけど。なぜかわたしがタッパーを開けて、タッパーごと持っているところから先輩たちがつまむという、謎の習慣ができあがっている。やや、面倒……なんて、贅沢なことを言ってはいけないか。

「もちろんですよ! たくさんつくってきたので、召しあがってください。開けますね」
「じゃーあたしもー」
「あんたのぶんはないわよ!」

いつものようにくり返されるこのパターン。
忍足先輩が近くにいることも忘れて、千夏に激しいツッコミをいれてしまった。
まずは芥川先輩からの食べたいアピール、そのあと鳳先輩が確認、そのあと滝先輩が上から目線で褒め、それを見た蜂蜜好きの千夏がそっとタッパーに手を伸ばし、わたしが阻止する。そして蓋を開けてタッパーを持ち、先輩たちは食べはじめる。
となると、このあとは……。

「佐久間さん、俺も、もらうな?」

ああ、これもいつものパターンなんだけど……。
この声に話しかけられると、呼びかたなんてどうでもいいかと思ってしまう。

「あ、は、はいっ! 忍足先輩も、ぜひ、どうぞ……!」
「ありがとう。ん……ああ、ホンマめっちゃうまい、これ」

毎度のことですが……悩、殺。
忍足先輩の綺麗な腕と手が伸びて、レモンの蜂蜜漬けを1枚取り、上を向いてその唇を色っぽく開くと、しなやかな指先からレモンをぱっと離して、口のなかに放り込む。それが、ものすごくエッ……あいや、美しい。本当に、たまらん。
おまけに飲みこんだあと、いつも優しく微笑んで、必ず「めっちゃうまい」と褒めてくださるのだ。
なんて幸せ! 千夏との掛け合いさえなければ、もっといいのに!

「佐久間さんがつくるから、うまいんやろなあ、やっぱり」もうもうもう! 思わせぶりなんだから!
「いやいやそんな、誰がつくっても一緒ですよ、先輩……」ニヤけるのを必死で我慢した。
「そんなことないと思うで? これ、千夏ちゃんがつくったら、食えたもんやないやろ」え、また千夏の話?
「はあ!?」
「ははははは。冗談や千夏ちゃん、すまんな」
「チッ……」

……なんでそこで、千夏に話をもっていくのだろう。卑屈になってしまう。
しかも千夏! あんたいま、忍足先輩に向かって舌打ちしたの!? ねえ!? あとで殴るよ!? ああもう、馴れ馴れしいうえに舌打ちするとか! 

「佐久間さん、俺これめっちゃ好き……またつくってきてくれる?」
「あっ……は、はい、もちろんですっ」

最初につくってきたときに喜んでくれた忍足先輩の笑顔は、いまも胸に焼きついている。それから何度か、レモンの蜂蜜漬けをつくるようにしていた。
本当は忍足先輩にさえ食べてもらえればいいんだけど……まあ、そういう訳にはいきませんよね。
レモンタイムが終わり、ロッカーでの着替えがはじまった。覗きたいのは山々だけど、もちろん覗かない。ロッカールームからは、先輩たちのおしゃべりが聞こえてきた。

「侑士、今日ちょっと本屋に寄ってかねえ?」
「ああ、まあええよ。ちょうど、ほしい本もあるしな」

向日先輩は、よく忍足先輩と一緒に帰っている。そのなかに混ぜてほしいなあ、なんて思うけど、言えるはずもなく、いつもうらやましく思って終了。一方で向日先輩には、感謝している。
だって、忍足先輩が向日先輩と一緒に帰るってことは、あの彼女と忍足先輩が一緒に帰ったりしないってことだし、すなわちそれは、この心の吹雪が少しだけ収まるということになるからであって!

「おい忍足、部室前で女が待ってるぜ?」

なんだと……!?
淡い期待をひとことで吹き飛ばした氷の帝王が、ようやくいまになって部室に入ってきた!
千夏が慌てて、それでも伏し目がちにタオルをわたしている。はーもう、バカバカしい女だ、本当に。
いや、そんなことよりも。女が待ってるって、あの人のことだよね。
落ち込みをつばで飲み込んだタイミングで、先輩たちがわらわらと集いはじめた。

「うわあ、ホンマかいな」忍足先輩が、少し眉間にシワを寄せている。
「ああ、そこで待っていた。おい千夏、俺にもドリンクとレモンをくれ」あの、それわたしがつくってきてるんですけど……。千夏のこと、いつのまにか呼び捨てだし。いいけど別に。
「あ、はい」

千夏が視線で「いい?」と合図を送ってくる。もちろんいいよ、好きにしてちょうだいな。
わたしじゃなくて、千夏から受け取りたいんだから、跡部先輩は。

「おい侑士、またかよ!」
「ん、なにがや?」
「だって待ってんだろ! いいのか?」
「ああ……あいつな。そうらしいな」

向日先輩の謎めいた質問に、忍足先輩がのらりくらりと答えている。
なんか様子が、前と違う気がするのは、気のせい?

「あの美人な彼女さんですね! 今日も向日さんを振り切って、彼女と一緒に帰るんですか? 忍足さん」
「振り切ってって、オレはストーカーか! くそくそ!」
「おい長太郎、お前、忍足の彼女がタイプなのか? こないだからやけに絡むよな」
「ちっ、違いますよ宍戸さん! なにを言いだすんですか!」どうやら、タイプらしい。
「ぷっ……お前わかりやすいな。激ダサだぜ」

なるほどなあ。鳳先輩も、ああいう人が好みなんだ。というか男の人はみんな、ああいうのが好きとか?
ま、そりゃそうだよね。めちゃくちゃ美人だったし。わたしなんて、足もとにも及びませんって感じで。千夏を20歳くらいにした感じの人だ。
え、ちょっと待って。じゃあ千夏が高3になったら、ああなるってこと?
え、じゃあ忍足先輩が千夏にちょっかいかけまくってるのって、やっぱり、タイプだから!?

「ほな鳳、一緒に帰ったら? 佐久間さん、レモンもう1枚もらってええ?」
「あ、もちろんですっ」

また吹雪に叩きつけられそうになったときだった。黙ってみんなの話を流していた忍足先輩が、急にこちらに向かってきた。
慌てて千夏からレモンのタッパーをぶんどって、忍足先輩に持っていく。ていうか忍足先輩、いま、なんかすごく投げやりなこと言いませんでした?
うわあ、また、色っぽく食べてる。ヨダレ出そう……いや、そんなことよりも!

「な、なに言ってるんですか忍足さん!」鳳先輩は、目をまるくしていた。
「ん、うまい。佐久間さん、これホンマ好き、俺」
「ありがとうございますっ」でもあの、話しかけられてますよ?
「忍足さん……オレのこと無視しないでくださいよ……」かわいそうに、しゅんとしている。
「ん? ああ、せやから。お前が一緒に帰ったったらええやん。俺、がっくんと本屋行きたいし」
「おいおい忍足、それ、彼女が聞いたら悲しむぞ」宍戸先輩がたしなめた。ホントに、どうしちゃったのかな。喧嘩とか、したんだろうか。
「少しモテているからって調子に乗りすぎじゃないんですかね、この人」気持ちはわかりますが、その悪態はちょっと、聞き捨てなりません。

……とにかく。
鳳先輩だけじゃなく、となりにいた宍戸先輩も、そのとなりにいた日吉先輩もびっくりしている。日吉先輩に至っては僻みの極地だ。
忍足先輩のとなりにいたわたしも同じく……だからつい、まじまじと先輩を見あげると、チラッと目が合って、キュンとした刹那だった。

「だってもう別れとるもん、俺ら」
「え……ええええええええ!」

この会話に興味のなさそうな跡部先輩と、そこから距離を置くことに必死な千夏と、跡部先輩のとなりに当然のようにいる樺地先輩と、そして、そんなこともう知ってます、状態の向日先輩と、いつのまにか寝ていた芥川先輩。
彼ら以外の全員が、またまたびっくり、大きな声をあげた。

「うるさっ……! ちょ、自分ら、もうちょい声をおさええや」
「やるねー、忍足」ぴゅー! と、口笛を吹く滝先輩。たしかに、それは、やるねー! と言いたい!
「マジかよ!?」宍戸先輩は、目をひんむいていた。
「なんでですか!?」鳳先輩は、もっと目をひんむいている。
「なぜだ! 贅沢すぎますよアンタ!」日吉先輩……。
「あんなに美人でスタイルよくて頭もよくて、完璧な彼女さんなのに!?」

鳳先輩はなぜ、頭がいいことまで知っているんだろうか。学年、違うのに。
しかし、言っていることはわかった。あんな美人な彼女と別れるなんて、お似合いだったし、なにがあったんだろうと思ってしまう。
でも、やばい、顔がニヤけそう。嬉しすぎる! わたし、性格悪い!

「せやから鳳、それやったら自分が付きおうたらええやん」
「ちょ、ちょっと待てよ忍足、でもいま、そこに来てるんだろ?」そうだ、それが腑に落ちない。
「ああ、なんや、なんか話でもあるんかな? せやけど、もう俺にはないからなあ」

ってことは、忍足先輩が振ったってこと!? やば、また顔がニヤけそう! わたしって本当に嫌な女だ! でも嬉しい!

「なあなあなあなあ、それってさ、忍足がもう飽きちゃったってこと!?」いつのまにか芥川先輩が目覚めていた。
「アホかジロー、そんなんちゃうわ」
「じゃあ、どうしてですか? 忍足さん」まるで、自分が振られたかのように、鳳先輩の瞳は揺れていた。いや、なんでだ。
「んん、言わなあかんの?」
「なーにもったいぶってんだよ侑士。言えばいいだろ、ほかに好きな子ができたって」

向日先輩の発言に、ピクッと、ニヤけていた顔が、一瞬で真顔に戻っていく。
待って、ちょっと待って……好きな子? 好きな子が、できた……だと?

「す、好きな子?」宍戸先輩が、急に慌てだした。
「なんや岳人……もうちょいもったいぶっとったらよかったのに」否定、しないんだ……。
「おい忍足、お前もしかして、となりのクラスの……」
「なんの話や宍戸。お前の好きな女には興味ないわ」
「えっ! 宍戸さん、好きな人いたんですか!?」
「なっ……誰もそんなこと言ってねーだろ! 忍足!」
「ふんっ、下剋上だ……」

話があちこちいったあげく、日吉先輩の「下剋上だ」の意味がまったくわからないけど、わたしはその事実に、胸騒ぎがしていた。





常石ジャクリーヌが胃痙攣で倒れたとき、佐久間さんにどえらい迫力で怒鳴られた。
いままで付き合ってきた女にやって、あんなに怒鳴られたことなんかない。おまけに年下の後輩や。あいや、年下なんやから後輩なんはあたりまえか……まあええ、そんなんは。
とにかくそんなん、はじめてやった。それも「下剋上だ」とか、理不尽かつわけのわからん言葉で怒鳴ってきたわけやなし、医者の息子のくせに、ジャクリーヌの動画撮影に夢中になったあげく、機敏に動けへんかった俺を叱るように、喝をいれるみたいにして。
謝らなあかん、と思って声をかけたんやけど、そのときの佐久間さん、ホンマにかわいかった。ぶっちゃけ、ギャップ萌えやった。めっちゃ、ちっちゃくなって……。
なんせ、去る者は追わず来る者は拒まずで17年生きてきた俺は、女の人をあんなにかわいいと思ったことがない。それも含めて、はじめてのことやった。
おかげで、そのあとの恋人との会話なんか、全然うわの空やった。「俺は跡部とちゃう!」と、何度か自分に抵抗したものの、ずっと佐久間さんのことが頭から離れんで、「あれ、俺、結局は跡部と一緒ちゃう?」となったのは、あれから1週間後くらいのことや。

「ねえ侑士、聞いてる?」
「え? ああ、すまん、なに?」
「さっきからなに? ぼうっとして。考えごと?」
「んん……まあ、いろいろな」

いろんな家庭の事情があって、俺は高1からひとり暮らしをしとる。
そのマンションに彼女が来て、となりでべちゃくちゃしゃべっとるあいだも、佐久間さんのことばっか考えとった。
ああ、もう重症やなと思いはじめた。あのときは、あまりのありえへん状況に、恐怖や不安を一緒に体験した人に恋愛感情を持ちやすくなるっちゅう、いわゆる、つり橋効果なんちゃうかって疑っとったけど、1週間が過ぎてもこれやったら、ほぼ確定や。
やってその1週間は、夜になっても佐久間さんのことが頭から離れへんくて……ホンマにどうかしとるわって、ちょっと悩んだくらいやった。
せやけど極めつけは、レモンの蜂蜜漬けやったかもしれん。思いだすだけで、胸がドキドキしてくる。





「佐久間さん、それ、なに?」

佐久間さんがマネージャーになってから数日後やった。
部活に出る前、彼女はバッグからそっとタッパーを取りだして、冷蔵庫に入れようとしとった。なんやろと思って、声をかけたんや。

「あ、えっと……」

俺が話しかけると、いつもソワソワと距離を取って、目をそらす。けど、ちゃんと質問には答えてくれるんや。そういうところもかわいいな、と思った気がする。

「あの、これは、あの……スポーツで疲れた体にはレモンの蜂蜜漬けがいいと聞いたので、その、図々しくも、つ、つくってきました」
「へえ。蜂蜜漬けか。俺らのためにつくってくれたんや?」
「はいっ。あの、忍足先輩、嫌いですか?」
「そんなことあらへんよ。まだ部活前やけど、1枚、食べてもええ?」
「あ、どうぞっ! ぜ、ぜひっ!」

慌てるようにタッパーを開けた佐久間さんが、また、めっちゃかわいくて。
頬がゆるまりそうになるのを必死に隠しながら、レモンを手に取って、口のなかに放りこんだ。

「ど、どうですか?」
「ん……」

甘酸っぱさが口のなかに広がって、なんやめっちゃ嬉しくなった。佐久間さんがつくったと思うだけで、高揚したんかもしれへん。
初キスの味と称されるレモンって、こんな感じなんやないかって思うほど、胸がときめきはじめた。俺の初キスなんて、ちっとも味なんかせんかったけど。

「……めっちゃうまい」
「ほ、本当ですかっ」
「嘘なんかつかんよ。めっちゃうまいで?」
「よかったあ……あの、忍足先輩」
「ん?」
「い、いちばんに食べてくれたのが、忍足先輩で……嬉しいです、わたし」
「え……」

ドキーン! やった。上目遣いで、そんなん言われて。もしかして佐久間さんって、俺のこと好きなんやろかって思ったら、「付き合わへん?」って言うてしまいそうやった。もちろん、堪えたけど。
ただ、その期待は、すぐに勘違いやとわかる。

「あっ、違うんですあの、忍足先輩って関西の方じゃないですかっ。関西の方って、味にうるさいじゃないですかっ。だから忍足先輩が誰より先に食べて『うまい』って言ってくれたら、もう、なんていうか、自信もつくわけで!」

必死になって弁解されたら、ちょっとしらけた気分になったんよな……。
俺の胸のうちの期待を、そんなに強く否定せんでもええやろと、言いたくもなる。もちろん、堪えたけど。

「ああ、なるほどな。うん、うまいで。せやから、またつくってきてくれる?」
「はい! こんなのでよければ!」

そないして頼んだこと、佐久間さんはあれから何回もしてくれて……ホンマに毎日、幸せを感じとる。
つまり、俺のこと好きなんちゃうか? って一瞬の期待が、恋心に変わったんや。それが誤解やとわかってしらけても、胸のときめきは収まらんかったから。





「ていうか、あたし侑士に聞いてほしいことがあって」
「はあ、さよか」

気づいたら、となりにおった彼女がまだ話しかけてきとった。あかん、すっかり思い出に浸っとったわ。
せやけどこれにはひとつ、懸念があった。いや、最初からわかっとったことやけど、佐久間さんは結局、跡部に惚れとんちゃうか? ってことや。

「昨日さあ、クラスメイトの子に嫌がらせされたんだよ、あたし」
「へえ」

最初に会ったときも、跡部のファンやって言うとったし。
マネージャー初日から、佐久間さんは近くで跡部が通りすぎると、狂ったように跡部の顔をまじまじと見てはる。
それでよう跡部と目が合わんな、っちゅうくらい、見てはる。ま、跡部が見てんの千夏ちゃんやから、合わんのも仕方ないんやけど。

「忍足くんと付き合ってるからっていい気になってない? とか言われてさ」
「ふうん」

彼女の視線に嫉妬して俺が話しかけたら、うつむいて。返事はしてくれるけど、すぐにサササッと、どっか行くねん。
ほかの連中と話しとるときには、うつむいたりせえへんのに。俺のときは、絶対にうつむく。
なんでや! って、これも最初から思っとったけど、佐久間さん、俺のこと苦手なんちゃうかとか、余計なことばっか考えて。

「なんかすごく落ち込んだ。でもあたし、侑士の彼女だからさ」
「さよか」
「愛されてるって、今日は実感したいんだけど……」

めっちゃ声かけたいのに、なんや嫌われたくもないし、ほんでしゃあなし千夏ちゃんに声かけて、「俺ってこんな陽気やねんで」ってアピールしとるけど、全然、気にもされてへん。
おかげで千夏ちゃんとはすっかり仲ようなって、「吉井さん」って呼んでたのが、「あたし名字呼び好きじゃないんで」とか言われたもんやで、いつのまにか「千夏ちゃん」や。

「ね、侑士、抱いて」

ああ、佐久間さんのことも、「伊織」って呼んでみたい。せやけどさすがに、いきなりは無理や。いくら後輩相手やからって、馴れ馴れしいやんな、彼氏でもないのに。

「ねえってば! 侑士!」
「ああ、堪忍。なんやった?」
「抱いてって言ってるの! そういうの無視する普通?」
「え、は? なん?」

となりに彼女がおるっちゅうのに、頭のなかはずーっと佐久間さんのことばっかり。
どういう展開でそうなったんかしらんけど、いきなり、「抱いて」とか言いだしてきとる。

「なん、じゃなくて……侑士に愛されてるって実感したいの。抱いて」
「え、いや……ちょ」
「いいじゃん、久々に。もう2ヶ月はしてないよ? ありえないでしょ」
「ちょ、ま」

待て、って言おうとしたら、彼女の唇が触れてきた。突然、ものすごい倦怠感が体中を襲ってくる。
こんなに佐久間さんのことばっかり考えとるのに、ほかの女を抱くなんて、できへん。そもそも、俺は一度も自分の部屋で女を抱いたことなんかない。そこまで好きになった女がおらんかったからや。なんとなし、潔癖な気分になるから、いつも相手の家かホテルやった。せやからこんなところではできへんどころか、いや場所なんか、このさい関係ないんやけど……とにかくもう、勃たへん。
目の前にある肩をつかんだ。ゆっくり、それを引きはがす。

「え、なに……?」
「悪いんやけど、さ……もう俺、好きな女やないと抱けへん」
「は?」

ええ機会やと思った。どっかで言わなあかんとも思っとった。せやけど彼女を振るっちゅう行為自体がはじめての俺は、どっかで逃げとったんやと思う。
今日がその日や……触れてわかった。もうこんなこと、つづけられへん。
佐久間さんと付き合っとるわけやないけど、めっちゃうしろめたい気分になる。佐久間さんへの想いは、これまで感じてきた想いとは違う。誠実でありたい。となると、この状態はなにかを裏切っとる。たぶん、自分を。佐久間さんへの想いごと。
考えれば考えるほど、ものごっつい俺をブルーにさせていくから。

「すまんけど……別れてくれへんか。もう十分やろ?」
「十分って……な、なんのこと?」

あ、しらばっくれるんや。
お前がなんで俺に告白してきたかやなんて、最初からわかってんで? けど、気づかんフリしとっただけなんや。

「跡部が好きやん、自分」
「え……」
「気づいとったで最初から。俺が、気づいてないとでも思っとったん?」
「ち、違う! あたしは侑士が!」

そう、わかっとった。
最初は彼女の綺麗な足に惹かれて、それよりも、もっと綺麗な足首にも惹かれとった。
同時に、彼女の視線がずっと跡部を追いかけとったことも知っとったから、とくに口説いたりはせんかった。ヤリたい、とは思っとったけど。うわあ、めっちゃ下品。こんな感情を持っとったこと、絶対に佐久間さんには、知られたない。

「違わへんやろ? 俺が、お前に惹かれとるの知っとって、俺の傍におれば跡部に近づけるから……せやから告ってきたんやん?」惹かれとったのは、足やけどな。
「それは……!」

目を伏せた。図星やんな? ええんよ、そんなん。俺かて下心だけやもん。
最初から気づいとったのに、あえて流したんや。そのときは、この女と寝れるんやったら、どんな動機でも利用したろって。
……はあ、ホンマに嫌んなる。性欲に塗れた醜い俺。いくら過去やいうても、ますます佐久間さんには、知られたない。

「でもあたし、もういまは、侑士が好きなの!」
「んん……」それ好きなんちゃうくて、執着やろ。「せやけど堪忍。もう、遅いねん」
「へ?」
「ほかに好きな子ができてんか。もうこの関係、つづけるん無理や」

どうせ本気になられへんし、どうせこいつも本気ちゃうしなって……来る者は拒まん精神で、ずるずる引き伸ばした俺が悪い。
せやけどあんなに夢中になる子を見つけたら、もう、無理。こんな気持ちになったん、はじめてやもん。

「侑士……嫌だよあたし、納得できない!」
「堪忍な。せやけど最初から、俺のこと好きやなかったやん。俺も同じや」
「それは、だから……っ」
「せやけどな、俺、生まれてはじめて、いま本気で人のこと好きんなってんねん」
「は……」
「これまでの俺やったら、いまもお前のこと抱けたやろうけど。もう、抱けへん」
「ちょっと、侑士っ、なにすっ」
「やで、帰り?」

彼女を家からだした。それが、先週の話。
冷たいようやけど、最後まで思わせぶりなこともしたなかった。きっぱり、はっきり。男と女のけじめは、そうしてつけなあかんよな。
それが、新しい恋愛の形になるんやと思った。佐久間さんにふさわしい男になるために、身も心も、誠実に生まれ変わりたかった。





「言えばいいだろ、ほかに好きな子ができたって」

せやっちゅうのに……。
ああ、あかん。あかん、あかん、あかん! 岳人、なんでお前が言うんやっ。それは俺が、佐久間さんのこと見つめながら言うつもりやってんで? それを、まことしやかに先に言いよってからに。
「今度こそ、ホンマもんの恋愛ができる」って今朝、岳人に言うてしもたせいで、この有様や。
計画ぶち壊しやないか。佐久間さんを見つめながら、「好きな子ができた」って言うたら、どんな反応するか見たかったのに。この角度やと、身長差のせいか、長い髪に隠れた佐久間さんの横顔しか見れへん。
佐久間さんは、小さくてかわいい。180センチ超えた俺の身長から、20センチ以上は低いで、隙あらば、ぎゅうってしとうなるんやけど……もちろん、堪えとる。
ちゅうかこんなん、佐久間さんが俺のことどう思ってんのか、顔が見れへんかったら全然わからへんし。岳人のどアホ!
それに、やで。跡部のことがいまも好きなんかとか、口説いたらなんとかなるんかとか、その確証もほしいんや!

「佐久間さん、ありがとう。今日もおいしかったで」
「え、あ、レモン……はい」

話しかけてみたものの、チラッと俺を見ただけで、また、うつむく。はあ……脈ナシ?
せやけど、なんちゅうたって跡部はいま、千夏ちゃんに夢中や。その千夏ちゃんも跡部のこと好きなんやから、それを間近で見とくっちゅうんは、跡部が好きやったら耐えられへんはず。ほな、俺にせえへん?

「おい千夏、レモン、もう1枚くれ」
「あ、はい。伊織、タッパーちょうだい」
「ああ、うん」

この、あからさまな千夏ちゃん指名……全員が佐久間さんのとこまで行ってレモンもらうのに、跡部は自分の周りのことは全部、千夏ちゃんにやらせる。
わかりやすすぎるねん。やのにあのふたりは、なんでくっつかんのやろか。出会ってからの時期が早すぎるとか思ってんやろか。いやいや、跡部がそんなこと考えるとは思えへん。
ちゅうか、なんや最近、千夏ちゃんが跡部を避けとるような気もするけど。
まあええわ、あのふたりのことやねんて、どうでも。俺は、俺と佐久間さんのことだけ考えとこ。
結局、部活終わりの佐久間さんとの時間はあっというまに過ぎていった。岳人のせいでなんの確証も得られんままやったけど、しゃあない。またの機会にしようと、今日のところはあきらめた……つもりやった。

「あ、あかん。忘れたわ」
「あ? なんだよ侑士」
「堪忍、ちょっと忘れもんしたわ。先に行っとって」
「ったくー。早く来いよー?」

面倒くさかったで、待ち伏せされとる元カノに見つからんように、部室の窓から外にでた。
そこから岳人と落ち合って、本屋に向かっとる途中……忘れもんをしたことに気がついた。
ちょちょいと走って、また学校まで戻る。部室前にはまだ元カノが待ち伏せしとったで、俺はまた、窓からそっと部室に入ろうとした、そのときやった。

「ぎゃあああああああああああああっ!」

ごっつい悲鳴が跡部専用ルームから聞こえてきて、めちゃめちゃ驚いた。
なにがあったんやと思って部室に入ってそっと覗くと、そこには、跡部と千夏ちゃんと……なぜか、樺地がおった。





レギュラー陣が部活を終えて帰宅したあと、もうひとつある大衆用の部室の片づけをしてから、自分の教室でひとり、部活日誌を書いていた。
本当なら、いつも千夏と二人で書いている部活日誌だけど、彼女はレギュラー専用の部室の掃除を跡部先輩に頼まれた。いま、必死こいて掃除機をかけているところだろう。

「はあ……」

ひとりでいると、いろんなことを考えてしまう。忍足先輩の、彼女と別れた発言……それはいい。なんなら最高だった。不謹慎かもしれないけど、めちゃくちゃ嬉しかった。
問題は、そのあとだ。

――言えばいいだろ、ほかに好きな子ができたって。

「うう……」

唸り声を漏らして、机に突っ伏した。
嫌な予感は、大抵、当たる。今回も、当たってる気がする。
向日先輩の発言を聞いてからというもの、忍足先輩が好きな子が、千夏なんじゃないかって……ずっと、そのことばかり考えている。
ぐずっと、鼻をすすった。2週間前、忍足先輩の元カノさんを見たあの日のように、泣きだしてしまいそうだ。
千夏と忍足先輩は、最近やたら仲がいい。それに、千夏はものすごく綺麗で、ものすごく、ものすごくモテる。忍足先輩の元カノさんと、同じ雰囲気を持っている。中身は知らないけど、見た目だけなら、あと2年経った千夏は、あの元カノさんを越すほどの女性になっている気すらする。
あの跡部先輩も、千夏に夢中になるくらいだし……それはつまり、忍足先輩だって、同じなんじゃないかって。

「佐久間さんっ」

涙をにじませていたときだった。背後から、声をかけられる。体がこれでもかというくらいに反応した。
だってこれは、忍足先輩の声だ。元カノさんを避けるように、部室の窓を軽々と飛び越えて、すでに帰ったはずなのに。
ゆっくりと振り返って、案の定そこにいた忍足先輩を、まじまじと見てしまう。

「忍足先輩……どうか、したんですか?」
「ああ……あんな、ちょっと伝えたいことあってん」

近づいてきた忍足先輩の目は、赤くなっていた。まるで、さっきまで泣いていたように潤んでいる。
ドキッとした。弱っている雰囲気の忍足先輩に、艶っぽさ切なさを感じてしまう。

「伝えたい、こと?」
「ああ……えっと、俺から伝えるのもなんか変やけど。なんちゅうか、ビッグニュースやし、な」
「え?」
「あんな、千夏ちゃんと跡部なんやけど……付き合うことになったみたいなんや」
「は……」

だから? と言いたい。
ふたりが付き合うのは時間の問題だとわかっていたことだし、本当だったらその報告は千夏から聞く予定だった。なのになぜそれを、忍足先輩がわたしに伝えたかったのか、まったくわからない。
おまけに、忍足先輩の目が、潤んでいる……なによりそれが、衝撃的な事実だ。
もしかして、忍足先輩……それを知って、泣いたんですか?
すべてのつじつまが、合っていく。
「好きな子ができた」という理由で、美しいあの人と別れた忍足先輩。
わたしのことは「佐久間さん」なのに、千夏のことは「千夏ちゃん」と呼ぶようになった忍足先輩。
いつも、わたしには遠慮がちに声をかけてくるのに、千夏には気軽に、あかるく話しかける忍足先輩。
千夏と跡部先輩が、付き合うことになったと知って、目を潤ませている忍足先輩。

頭で理解する前に、涙がこぼれおちた。





to be continued...

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