06 酔っ払いふたり



 日曜日の朝、クーラーの効いたなまえの部屋にはぱりっとした焼きのりのいい匂いと、ほうじ茶の香ばしい薫りが漂っていた。
「まず食ってください。今日は頭使うと思うんで」
 王泥喜の差し出したおにぎりに、ローテーブルの前に座ったなまえが目を輝かせる。
「これ王泥喜くんが握ってくれたの?」
「……まあ、余りご飯でですけど」
「さっそく作ってくれたんだね。すっごくおいしそう!」
「なまえさん、どうせ朝ごはん食べてないんでしょう?」
 どうにも素直に喜ばれるとこそばゆくて、つい照れ隠しのようなことを言ってしまう。
「ゆで卵は食べたよ」
「じゃあ、たんぱく質はそれでいいですね。糖質も摂ってください」
「は〜い。……王泥喜くん、お母さんみたい」
「なにか言いました?」
「いーえ?」
 ミネラルウォーターしかなかったなまえの冷蔵庫には、ゆで卵が常備されるようになった。王泥喜が用意したものだ。なまえの希望に合わせて、切っても黄身が流れてこないぐらいの半熟に近いゆで卵を一ダース分、まとめて作ってある。
 朝はプロテインだけですませて、さっさと検事局へ向かってしまうというなまえの話を聞いて心配になってしまったのだ。
 それ以外にも、野菜多めの作り置きのおかずをタッパーに詰めて渡している。平日はそれを食べてもらい、土日どちらかの遺品整理ではふたりでご飯を食べる流れになりそうだった。
「このおにぎり、王泥喜くんの手の平ぐらいの大きさだね」
 恥ずかしくなるようなことを、にこにこしながら言ってくるもんだから、たまったもんじゃない。
「ん〜、今日も美味しい! 海苔、ぱりっぱりだね」
 ご機嫌そうにおにぎりを頬張るなまえの顔は嫌いじゃない。自分のほうじ茶を飲むふりをして、向かいの座椅子でちらちらと彼女の表情を盗み見る。一緒に食卓を囲むうちに、こうしたことをするのが癖になってきてしまっているのは、彼女がすごくいい顔で王泥喜の作ったご飯を食べてくれるからだ。
「あ、梅干しだ」
「今日は色々判断することがあって、疲れると思うんで」
「それで、梅干しのクエン酸?」
「そう」
 ふふ。彼女が笑う。
「優しいんだね、王泥喜くん。おばあちゃんみたい」
(この人のオカンから、ばあちゃんになっちまったぞ!)
 警戒心ゼロだ。どうも、なまえにとって王泥喜は、男としては対象外らしい。
「ところで、なんでスーツなの?」
 日曜日なのに、いつものスーツで訪れた王泥喜を不思議がっているような口調だ。
 情けない話だが、これはなまえと自分を守るための保険のようなものだった。気になる異性と密室で長時間二人きり。どう考えてもまずい。うっかり手を出したくなったりしたら、シャレにならない。そこで自分にとって社会的なもの――少なくとも左襟についた弁護士バッジが自分を常に見張っていると思えば、予想外の何かが起きたとしても、理性で踏みとどまれる気がしたのだ。
「まあ、仕事のつもりで来てるってことで」
「ふうん」
「ところで、どうしてお姉さんはいつも干物女スタイルなんですか? もっとこう……」
 言いかけて、言葉を止めた。
 もっとこう、男が家に来るって言ったら、普通は可愛い服に着替えたりはしないのだろうか。
「干物女スタイルって、このジャージのこと!?」
 きょとんとした後、なまえは声を上げて笑った。
「王泥喜くんて、意外と毒舌だねえ。面白っ!」
 他の女の子にはそういうこと言っちゃだめだよ。特に宝月刑事とかは絶対にダメ。女心は傷つきやすいんだから。かりんとう投げられるからね、と念を押されてしまった。もうとっくに、失礼なことを言ってかりんとうブン投げられてます、なんて言えない。
「まあ、たしかに干物女だわ、私。干からびて恋愛の第一線、引いちゃったみたいな?」
「そんな……」
 お姉さんにはそんなことを冗談でも言わないでほしい。自分から干物女のことなんかを話題にして後悔した。
(ジャージはジャージでエロいなんて、わかってねえんだろうな。このオネーサンは)
 ジャージだってボディラインは出るし、その格好自体が、体育後の甘酸っぱい女子たちの制汗剤の匂いを彷彿とさせて危険な気持ちにさせられるなんて思ってもいないんだろう。年下には興味はないけれど、それがお姉さんだと思うと色々とまずい。スーツを着てきてよかったと思った。
 そもそも、この人はなんで自分の魅力を隠すようなことをあえてしているんだろうか。ひっつめた髪と、あの似合っていない眼鏡を変えたら、スーツ姿もだいぶ印象が変わりそうなのに。
 恋愛はこりごりなのか。それだけ傷ついたからなのか。今のお姉さんには恋愛なんて考えられないように見えることだけは確かだ。だったら、立ち直る手助けをするのが先だ。
「そろそろ、始めましょうか」
 食器を片付け、ローテーブルを折りたたんで片付けのためのスペースを作る。空いたスペースに新聞紙を広げると、王泥喜は遺品の段ボール箱を見つめ、気合いを入れるように腕まくりをした。
「とりあえず、キッチンからテーブルまでの段ボールを片していく感じで大丈夫ですか?」
「大丈夫ですッ!」
「今の、もしかして、オレの真似ですか!?」
「……似てた?」
「やめてくださいよ、恥ずかしい……」
 持参したカッターナイフをチキチキと鳴らして、少し長めに刃を出し、段ボールを開けていく。
「ぼさっとしてないで、なまえさんも手ぇ動かしてください。はい、はい! 中身を全部新聞紙の上に出す!」
「……王泥喜くん、耳赤いよ?」
「いいから、さっさとしてください。ちんたらしてたら終わりませんよ!」
「はーい」
 どうにもマイペースな彼女に振り回されている気がする。ことあるごとになまえに弄られて憤慨しつつも、ふたりで箱の中身を新聞紙の上にすべて出した。
「全部、トノサマンのグッズですね……」
「昔っからヒーローもの大好きだったからなあ、あいつ」
 トノサマン、ヒメサマン、乳母車に乗せられたワカサマンの揃った精巧なフィギュアや、組み立て式のトノサマンスピアー、トノサマンの扇子、トノサマンマスコット、トノサマンのマークの付いた水色の毬、トノサマンの形にふくらむ巨大なバルーンなど、よくまあこれだけ揃えられたなと呆れるほどのトノサマングッズが新聞紙の上に並んでいる。
「これ、マニアに高く売れそうじゃないですか?」
「だよね、やっぱりネットオークションで売ろうかな」
「アカウント持ってます?」
「一応、前にアカウント作ったはず。ちょっと待って」
 なまえは立ち上がると、ベッドの上にノートパソコンを広げて起動し始める。本当はすぐに買い取り業者を呼んだ方が効率がいいのだが、なまえは彼の遺品の里親探しのようなことをしたいようだ。できるだけ大事にしてくれる人を探したいらしい。
 キーボードを叩くなまえの横顔を見ていて安心する。今のところ、遺品整理で落ち込んでいる様子はない。少しでもメンタルが不安定になったときは、すぐに休憩させるつもりでよく彼女を見ておかないといけない。
「ログインできた! ほら見て!」
 嬉しそうに言われてノートPCを覗きこめば、なまえのマイ・オークションページが表示されていた。アイコン未設定。売上金0。この人、まだ取引したことないんだな。
「あきらかに、女ってわかるような表示名ですね」
「まずいかな?」
「うーん……」
 額に人差し指を当てて、いつものように考える。
「……もしかしたら、女ってわかって舐めた態度取ってくる奴もいるかもしれないと思って」
「そんなことってある?」
「ほら、駅とかでもいるじゃないですか。女にだけぶつかっていこうとするおじさん。ネットでもそういうのあるんじゃないかと思って」
「考えすぎじゃない? やり取りって言ったって取引の話題だけでしょ? 困った相手がいれば通報すればいいんだし」
「まあ……そうですよね」
 ヘンなのが出てきたら運営会社に通報すればいいか。そこで引き下がらずに表示名を変えさせればよかったと後悔するとは、この時の王泥喜は夢にも思わなかった。

「ほら、せっかく売るんだから、ちょっとでも高く売れるように頑張りましょうよ!」
 何もない廊下でグッズの写真を撮り終えたら、今度はなまえの書いた商品説明のダメ出しだ。
「そんなに違うものなの?」
「ぜんぜん違います。もっと、買ってくれる人の立場になって考えましょうよ。傷がないか、保存状態はいいか、購入前に気になるところを丁寧に書いてあげてください」
「くうううぅぅううっ! 大人、というか、オークションの先輩! って感じがして、悔しいんですけど! 王泥喜くんのくせに……」
「くせにって、なんですか!」
 引っかかる物言いではあるものの、先輩と言われると悪い気はしない。特に、なまえのような年上の女性にそういう目を向けられるのは新鮮だった。
 それにしても、本当に保存状態のいいものばかりだ。箱や取説もすべて保管してあったし、グッズから持ち主の愛情がひしひしと感じられる。さすが遺言書を残すだけあると思った。
「でも、本当、そうだね。いい人に買ってもらえるよう、できることは全部しなきゃ!」
 さ、頑張って紹介文書こう! と気合を入れてなまえはPCに向かった。

「紹介文、こんな感じでいいかな?」
「見せてください」
 商品名、メーカー名、型番、送料、配送方法、写真などをざっとチェックしていく。
「入手時期は不明、か……」
「正直に書いたほうがいいと思って」
「そうですね……うん、いいんじゃないですかね、これで」
 チェックにオーケーを出すと、なまえは飛び上がらんばかりに喜んだ。案外この人、子どもっぽいところがあるんだな。
「出品完了っ……と。あ〜、ドキドキする! 買い手つくかなあ」
「興奮しすぎですって」
 なまえは目を細めて、新聞紙の上に置かれたトノサマンフィギュアたちに話しかける。
「大事にしてくれる人が見つかるといいね」
 優しい語りかけかたに、一瞬どきっとした。
 チャーリー先輩の世話をするときの成歩堂と同じような目をしていたのだ。故人に語りかけるような、あの独特の優しいまなざし。見ているものを通して、どれだけその人のことを大事に思っていたのかが、嫌でもわかってしまう。
 すべてのグッズの出品作業がひと段落着いた頃、なまえが床に転がっているグッズを拾い上げた。  
「あ〜、シグナルザムライのキーホルダーもあった!」
 大江戸交通安全シグナルザムライという、赤、青、黄色の信号をモチーフにしたヒーローものの特撮番組が昔流行っていたらしい。今でいう大江戸戦士トノサマンのようなものだろう。
「それ、オジサン世代のやつじゃないですか」
「そこまで遡らないでしょ。私たちのひと回り上の世代に流行ったやつだよ。成歩堂さんとか、うちの局長が小学生の時ぐらい?」
 自分がまだこの国にいなかったときのものか。物心つく前から日本にいたら、王泥喜もハマっていたのだろうか。
「ずいぶん詳しいんですね」
「色々と布教されたからね……私としては、もっと法廷ものの映画やドラマが観たかったんだけど」
「……じゃあ、今度DVD借りて一緒に観ましょうよ」
「いいね!」
 こんな問いかけをするたびに、内心すごく緊張してるなんて、なまえは気づいてもいないんだろう。
「まあ、片付けてからが良さそうですけど」
「この部屋じゃちょっとね……よし、続きも頑張るか!」
 気合を入れ直したなまえとともに、もうひと箱段ボールに取り掛かった。

 キッチンの扉からベッドまでの段ボール箱の中身の確認と売り先の検討を終える頃には、空はすっかり暗くなってきていた。お互い疲れていたので、一緒に近所のスーパーに買い出しに行くことになった。
 さすがにジャージでスーパーへ行く気はないようで、着替えると言われて廊下に追い出される。
「行こうか」
 着替えて出てきたなまえを見て驚いた。白Tシャツにデニムだ。
(こんなシンプルな服装だけでサマになって見えるなんて、かなりスタイルが良くないと無理じゃないか?)
 どうやら相当なものを隠しているお姉さんらしい。
「どうしたの?」
 せわしなく視線を動かしてスタイルをチェックする王泥喜を、サンダルを履くなまえが不思議そうに振り返る。
「いえ……」 
 サングラスでもかけたら、もっと似合いそうだ。そうしたら牙琉検事の横に並んでも違和感がないなんて思ってしまってあわてて首を横に振る。
「なにやってるの。行くよ」
「待ってください!」
 呆れたような声を出すお姉さんを追いかけるようにして靴を履いた。
 スタイルがいいと気づいたせいか、なまえがスーパーでカートを押す姿さえ決まって見える。
「オレが押しますよ」
 そう言ってカートを押すのを代わった。こうやって並んでいると、カップルに見えたりしないだろうか。そんなことをひそかに期待する王泥喜をよそに、なまえが6本入り缶ビールを2パックも籠に入れた。しかも、結構ないい値段のする鈍い金色のやつを。
「ちょっと! あんた、そんなに豪遊して……」
「食事代は私が出すって言ったよね?」
 あせる王泥喜に対して、なまえがしれっとした顔で振り返る。
 やられた。こういうやり方でお返しが来るとは思わなかった。
「せっかくだから、好きなお惣菜選んでよ。オークションについても色々教えてくれたお礼」
 ウインクしてきたのが可愛かった。もう、こうなったら飲んでやるかという気になってくる。
「じゃあ、ほんとに好きなの選びますよ」
「そうこなくっちゃ!」

 部屋に戻ってくると、早くも晩酌が始まる。日曜日のビールなんて久しぶりだ。少し部屋もきれいになってきたし、お姉さんはTシャツデニムのままで色っぽいし、ひと仕事した後のビールは格別で、王泥喜はすっかり気分が良くなっていた。
「最近、オレのことをおちょくる人間がやたらと集まってきてる気がするんですよね」
 あんたとか、検事とか、成歩堂親子とか。
 ビールを何缶も空にした王泥喜は、すっかり気が大きくなっていて、なまえを指さして「あんた」なんて言ってしまっている。禁酒中でノンアルのなまえは、ほろ酔いの王泥喜をすっかり面白がっていた。
「検事がなんでこんなに絡んでいくんだろうと思ったんだけど、すぐにわかった。王泥喜くん、揶揄いがいがある」
「なぁんですってえ!」
 酔っていて若干、突っ込みのキレもいつもより弱い。
「反応面白いから、王泥喜くん」
「じゃあ、頑張って反応しないようにしますッ!」
「一生懸命反応しないように意識してる王泥喜くんが浮かんで無理。もっと弄りたくなっちゃう。検事が絡んでいく半分の理由はそれだと思う」
「じゃあ残り半分は何ですか」
「うーん。黙秘します。ばらしたら検事が嫌がるかもしれないので」
「ちぇ、結局あんた、牙琉検事の味方かよ!」
「もちろん」
 迷いなくそう言い切った。こういうときだ。全幅の信頼を寄せられる牙琉検事のことが羨ましくなるのは。面白くない気分になりながらも、酔いに任せてなまえに絡んでいく。
「だいたい、今の『黙秘します』って誰のマネなんれすか」
「今まで見てきた数々の被疑者の言い方の総称を真似してみた感じ」
「あんた、そんなに被疑者を観察しまくってたのかよ!」
「だってそれが私の仕事だもん。尋問する検事と被疑者を横の席から眺めて、被疑者の証言に違和感がないか確かめてる。伝える必要があると思ったら検事に報告」
「あんた、ちゃんと事務官してたんれすねえ」
「ちょっと王泥喜くん飲みすぎじゃない!?」
 少しろれつが回らなくなってきている王泥喜をなまえが心配しているが、目の前になまえがいるだけで気分が良くなってきている王泥喜は、さらになまえに絡んでいった。
「なんれ、なまえさんはオレなんかを家に入れたんれすか? 危険らと思わなかったんれすか?」
「王泥喜くんなら大丈夫だと思ったのかもしれない。無意識にね」
(大丈夫ってなんだよ。オレだって男なんだぞ)
 内心むかつきながらも、そうした言葉は口をついて出てこない。酔っていても多少気が大きくなっているだけで、自制心は残っているようだった。
「私、人を見る目には自信があるから」 
 褒められているのだろうか。くすぐったくて頬が上気した。「大丈夫」だと思われたことが男として信頼されてると思って喜んでいいのか、悔しいのか。
「褒められてもなんにもれませんよぉ、なまえさん!」
「ちょっと、ほんとに飲みすぎじゃない?」
「なまえさんも飲みます? 乾杯しましょ〜」

「女難の相? そんなの本気で信じて落ち込んじゃってんの? ばっかみた〜い!」
 きゃはははっ。妙に癇に障るなまえの笑い声が辺りに響く。
(ほんとこの人、腹立つな)
 デリカシーがなさすぎる。相談しなけりゃよかった。弱いくせに飲むのが好き。最悪なタイプだ。ビールなんて飲ませなけりゃよかった。
 すっかり酔いの醒めた王泥喜は、シラーっとした気持ちで右隣に座るなまえを眺めていた。さっきまで自分も酔って調子に乗っていたことを棚に上げて被害者気分である。
「しっかりしろよ、王泥喜法介!」
 また前回のように、痛いぐらいの力で肩をはたかれる。
「……なんだよ」
「だってその人ペテン師なんでしょう? 成歩堂さんが追い返した詐欺師なんでしょ。そんな人のこと信じ込んでどうすんの。なんにもいいことないじゃない」
「わかってますよ、そんなことは」
「ふう〜ん」
「自分でも、嫌になるぐらいにわかってるんです」
 女難の相なんて、思い込みに過ぎないっていうことぐらいは。
「ただ、痛いところを突かれたなあと思ったんですよ」
「……痛いとこって?」
 なまえも酔ってるし、ちょっとばかり弱みをぶっちゃけてもいいか。なんとなく投げやりな気持ちで、王泥喜は唇を尖らせる。
「オレ、勉強ばっかだったから」
「それで?」
「わかるだろ? 人生経験、足りないんだよ!」
「ふーん?」
「その相槌、いちいち腹立つんですけど」
「まだ若いし、ぜんっぜん、気にしなくていいと思うんだけどなあ!」
「修習生時代に、ワンナイトでデキちゃった奴らがいたんですよ」
「急に話題が飛ぶなあ。それで? そいつらが羨ましかったの?」
「次の日の授業も二人して遅れてくるし、内心、ばかだなあと思ってました。そんなことしてる暇あんのかよって」
「まあ、そうだよね……」
「で、浮かれて実習についていけなくなるかと思いきや、意外とそういう奴らって要領よく自分の希望も叶えちまったりして、結果的に裁判官と検事やってますよ、今」
「それの何が悪いの?」
「そういう回り道してこなかった自分に後悔しているというか……」
「それで、それで?」
「結局、そういう奴らのほうが、人生経験も豊富で、仕事もそつなくこなせてるような気がするんですよ。恋愛経験があれば、オレみたいに人妻の不倫に気づかないなんて馬鹿なこともなかっただろうし」
「すっっごい、人妻の離婚裁判が堪えてるんじゃん!」
「自信、なくなりましたよ」
「法介は、自分がお勉強ができるだけのバカだと思って落ち込んでるの?」
(法介?)
 名指しにされて、やっぱり酔ってるんだなこの人は、と思う。
「やっぱり、ばっかみたい!」
 だんだんヤケになってきて、王泥喜ももうひと缶開けた。一気に煽って、指さしてなまえに突っ込む。
「そう思う根拠は!」
「すっごい強みを持ってるくせに、なにふて腐れてるんだろって思ってる」
「強みって…」
「その腕輪! そんなチート級の能力があって、落ち込む理由ってなに?」
「腕輪があっても、裁判直前まで不倫に気付けなかったんですよ。それって、やっぱり恋愛経験…」
「依頼受ける前に聞けばよかったじゃん! 『あなたは不倫してますか?』って、一言。そしたら腕輪も、反応したんじゃないの?」
「まあ、確かに……」
「じゃ、次から依頼受ける前に、その人が信頼に値するか、自分なりの基準でチェックしなよ」
「……そういえば、成歩堂さんも、昔は弁護を引き受ける前に依頼人に確認してたみたいだ。本当に殺人はしてないのかって」
「それだ、それ! はい、いっちょあがり! さあ、飲もう!」
「いや、いや、いや! あんたそれ以上飲まないほうが……」
「はい、かんぱーーい!」
 無理やり缶同士をぶつけられて乾杯させられた。
「べつにいいじゃないの。恋愛経験のない男が弁護をしたって。なにが悪いのさ! 童貞が弁護しちゃいけないなんて、法律はないじゃないの!」
「声がでかいですよ! 本当に腹立ちますね、あなたの言い方!」
「法介は、司法試験一発合格した優秀な人間なんでしょう!? 私が落ちた、司法試験!」
 おそらくなまえは、9月の第二週に行われる論文式試験に落ちたのだろう。9月の頭に通り魔事件で恋人を失って、翌週に司法試験なんてあまりにも過酷だ。
「くだらないことで、ぐじぐじ、ぐじぐじ、ほんっと馬鹿みたいだわ! わざと自分で自分の失敗をほじくり返して何が楽しいの? 世の中には、法介の弁護を必要としている人がいっぱいいるだろうに! せっかく弁護士になれて腕輪だって持ってるのに、宝の持ち腐れだよ!」
「めちゃくちゃにいいますね、ほんっと、あんた……」
「だいたい、したたかな妻が不倫してるかなんて、一流の弁護士の男だって簡単に見抜けるとは思わないんだけどな……腕輪が簡単に反応しないぐらい、隠し事の上手い女なんて」
「それって、男がバカだってことですか!?」
「ぐぅ……」
「あ、おい! 寝るなよ!」
 なまえは座椅子に頭をのっけて、完全に眠りに入ってしまった。
「ったく……」
 溜息をついて、王泥喜はベッドの掛け布団と毛布をまくった。眼鏡を外してやってから、眠りに落ちたなまえを抱きかかえる。
「あいかわらず、重っ!」
 本人に聞こえていたら怒られるだろうなと思いつつも、やっぱり意識のない人間は半端なく重い。よたつきながら、なんとか彼女をベッドに寝かせて、毛布と掛け布団をかけた。
 その後、ビールの空き缶を洗ったり、総菜の容器の後始末をしたところまでは覚えている。
「やっべ……また寝ちまった」
 翌朝目が覚めてみれば、やっぱり自分も座椅子に横たわって眠りこけていたのだった。冷房もつけっぱなしで喉が痛い。
「なまえさん……、なまえさん! 起きてください!」
「……ん。う〜ん……王泥喜くん?」
 やけに寝起きの声が色っぽくてドキドキする。
「……あたま痛い」
「あなた飲みすぎなんですよ! ほら早く起きて、シャワー浴びてきてください!」
 今から朝ごはんの支度してなまえに食わせて、ダッシュで家に帰らないといけない。
(今日も朝帰りか)
 ひげを剃って髪をセットし直して出勤しても、またみぬきに何か感づかれそうだ。早くもげっそりとした気分になりながらも、王泥喜は腕まくりをして朝食の支度を始めた。

「おはようございます!」
 事務所に入室すると、幸いなことにみぬきはいなかった。そのかわりニット帽をかぶった無精ひげの男が、ソファでトノサマンのビデオを観ていたけれど。
「あれ、オドロキくん。今日はやけにすっきりした顔をしてるね」
 相変わらず怖い人だ。一瞬で自分の変化を見抜かれた。
「女難の相、ふっきれたのかな?」
(……まあ、確かに)
 昨日まで抱えていたモヤモヤはすっきりしている。あの酔ってむちゃくちゃなことばかりを言ってきたなまえのおかげで吹っ切れたなんて、少しばかり癪だけれど。
「迷いは晴れましたね」
「そう……」
 にやりと笑みを深めた成歩堂がソファを降り、すれ違いざまに王泥喜の肩をポンと叩く。
「じゃあ、バリバリ仕事してよ。期待してるから」
 あっはっはっは、と身体を揺すぶらせる独特の笑い方。こういうときはろくなことを考えていない男だ。また面倒ごとを押し付けられる。嫌な予感がしつつも、だったらやってやろうじゃないかという仕事への活力が湧いてくるのが不思議だった。


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