05 秘密



 いつもの小料理屋で飲んだ帰り、王泥喜は酔い覚ましに人情公園の遊歩道を歩いていた。夜風に木々が揺れてざわめいている。秋の虫の声が心地よく響いていた。
(そういえばここ、事件現場だったな)
 殺人事件が起きたことなどすっかり忘れたのか、池を囲むようにして等間隔で並ぶベンチには何組かのカップルの姿がある。街灯に照らされた公園は幻想的で、デートスポットにぴったりだ。「このあと、どうする?」などと熱っぽく囁く男の姿を横目に王泥喜はひそかに嘆息した。酔い覚ましには場違いだったようだ。
 そのまま公園を抜けることにする。河津京作がパンツを捨てた赤いくず箱の前を通り過ぎたあたりで着信があった。葵大地からだ。どうやら先程送ったメールを今見たらしい。
『家政婦の依頼ィ〜ッ!?』
 葵の悲鳴に近い叫び声が電話越しに響く。
『人妻の後は家政婦の依頼かよ! お前の女運どうなってるんだよ!』 
 こいつ声がでかいな。自分の事は棚に上げてうっかりそう思ってしまうぐらいに葵の声は興奮していた。無理もない。ライバル検事の事務官の部屋に一泊した後で悩んでる、などという爆弾メールを送りつけてしまったのだから。
『つか、昨日居酒屋で言ってた、裁判所で話したっていうお姉さんだろ。お前と最寄りが一緒だったっていう。あの後お前、お姉さんちに泊まったわけ!?』
 そういえば、昨日の飲みでなまえのことを葵に話したばかりだ。
『一夜の過ちってやつから、どうして家政婦の依頼をされる流れになるんだか、オレ本気でわかんねえんだけど……あ、男だから家政夫か』
「だから一夜の過ちなんてなんにもねぇんだって!」
『これっぽっちもか?』
「………………」
『その沈黙はなんかあったな?』
 電話越しに葵が笑う。
 正確には、何もなかったと言えなくはない。少なくとも、王泥喜の目から見ればの話ではあるが。こうなったら、直に葵に会って相談してみようか。
「葵は今どこにいる?」
『まだ宇宙センターだけど。今前半のトレーニング終わってちょうど休憩中』
 宇宙では身体にほとんど重力がかからないために、放っておくと筋肉や骨が衰えるらしい。それを防ぐために、地上から約400キロメートル上空に浮かぶ国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士は、一日一時間半ほどの有酸素運動や筋トレが必須なのだという。宇宙飛行士の見習いである葵は、来たるその日に備えて日夜身体を鍛えているのだ。
 トレーニングの最中だし、あまり深入りした相談はできなさそうだと判断する。
『なあ、そのお姉さんて美人?』
「普段は眼鏡かけてるけど、素顔は美人だった、と思う……」
 なまえの涙を拭くためにベッドの上に押し倒すような体勢を取ってしまったことを思い出し、もごもごと口ごもる。
「……あと、笑った顔が、かわいい」
『おっ、ついにオドロキにも春が来るかぁ!?』
 一足先に春を謳歌している親友の声に頬が熱くなった。「彼女でも作ったら」という成歩堂の声が蘇ってきてあせる。
「べ、べつにそういうわけじゃねえよ! ただ、卵焼きをまた作ってくれって言われただけで」  
『オドロキの卵焼きかあ、あれ、超うめえもんな。そのお姉さん、お前に胃袋掴まれちまったんじゃねえの?』
「たしかに気に入っちゃくれたみたいだけど、ふだん大して交流のない男を何度も家に入れようとするもんか?」
『お姉さんが誘ってたりして』
「いや! いやいやいやいや、ありえないだろッ!」
『それか、まったく異性として意識されてないかのどっちかだな。弟や甥っ子ポジションっつーか』
 朝の態度を見る限り、こっちが正解な気がして地味にへこんだ。
『新しい職場、出会いなかったんだろ?』
「まあ……」
 パラリーガルの美人が当たり前のようにいた、牙琉法律事務所とはだいぶ環境が違う。
『だったら動くしかねえじゃん。で、お前は何を悩んでるんだ、オドロキ。まだ男として意識されてないにしても絶好のチャンスじゃないか。いっそのこと、もっと胃袋掴んでそのまま付き合っちゃえよ』
 明らかにからかわれているのはわかっているのに、言われた言葉にいちいち赤面しそうになる。
「それが、ちょっと複雑な理由がありそうな人でさ……悪い。込み入った内容になりそうだから、また今度会って話したいんだ」
『そっか』
 葵はあっさりそう言うと、茶化していた口調をひそめて真面目な声音になる。
『今オドロキが何を迷ってるのか、聞いてみないとわかんねえけどさ、結局、お前がどうしたいかじゃねえの? あ、わり。今、星成さんに呼ばれた。じゃあなオドロキ!』
 そこで通話が切れた。
 こうして話していると、お互い年々似てきている気がする。
 端正な顔立ちのわりに妙に熱血漢なところがあるのは、王泥喜の影響なのかもしれない。

(あの人のついてる嘘って、なんだ?)
 あのとき、確かに腕輪が反応した。「ただのゴミだから、気にしないで」といった言葉が嘘だとすれば、王泥喜はなまえの大事なものを捨ててしまったことになる。だが、ゴミ捨て場に取り戻しに行こうとしたら拒否された。
 それは、彼女が言っていたように――捨てたいけれど、自分では捨てられないものだったのではないだろうか。
 どこまで踏み込んでもいいのか悩む。今朝も踏み込もうとしたら話題を変えられた。きっと触れられたくない領域なのだ。だから逃げられた。
 なまえは王泥喜の触れられたくない話題に気付いたとき、触れないようにしてそっと話題を変えてくれた。なら、彼女にもそうするべきなんじゃないか。ごちゃごちゃ考えているうちに、どうしたらいいのかわからなくなっていく。
 いつのまにか公園を抜けて、住宅街まで来ていた。通り過ぎる家の前から、家族の団らんの声が聞こえてくる。夕飯中らしく、ピーマンを食べろと注意する母親の声と、嫌がっている息子の声、それを見て面白がっているらしい父親の笑い声が響く。幸福を絵に描いたような家族たちの様子だ。
 憧憬のまなざしを向けつつも、微かな苦い思い抱いてしまう家庭の一幕に、今日は全く違う感想が王泥喜の口から零れる。
「あの人、ちゃんとメシ食ってんのかな」
 ミネラルウォーターのペットボトルと酒だけが整然と並べられたあの淋しい冷蔵庫を思い出すと心配になってきた。
「オレがどうしたいか、か……」
 ずっと捨てられなかったから、捨ててくれた王泥喜にはむしろ感謝している。そう言って微笑んだ時の、なまえの痛いような笑顔が目に焼き付いている。
 あのとき締め付けてきた腕輪の痛みが、そのままなまえの心の痛みのように思えて、胸が軋むように切なくなった。
 王泥喜を遠ざけるために、そのあとついたなまえの他愛のない嘘。なにげなく腕輪に触れて、そのときの腕の感覚を思い出そうとして、なにも手ごたえがなかったことに気づく。
(そんな、嘘だろ……なんで気づかなかったんだ、オレ!)
 王泥喜は急いでその場から走り出した。

「すみません。急に押しかけて」
 はあはあと息を切らせている王泥喜を、ジャージ姿のなまえが驚いた様子で出迎える。
「どうしたの、そんなにあわてて」
「オレ、いてもたってもいられなくなって!」
 なまえはアパートのドアを開けたまま、王泥喜を部屋に招き入れるかどうか、少し対応に迷っているようだった。
「なにか忘れ物?」
 「はい」と返事をしてから王泥喜は勢い良く頭を下げた。
「すみませんでしたッ!」
 アパートの廊下に王泥喜の大声が響き渡る。
 まずはこうして、きちんと謝りたかった。
 顔を上げると、なまえは王泥喜の勢いにびっくりしたのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
「もしかしたらあれ、大事なものだったんじゃないですか? あなたにとってはゴミじゃなかった。許可ももらわずに勝手に人のものを捨てるなんて無神経でした。本当にすみません」
 謝った王泥喜に、なまえは逆に申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ううん。あれ、本当に捨てて欲しかったし……どうか、そんなに気にしないでね?」
「いえ、それじゃあオレの気が済みません。おわびに、もしよかったら……迷惑じゃなかったら、なんですけれど」
 言葉選びが難しい。なまえの様子をちらちら伺い、ぎゅっと目をつぶって叫ぶ。
「か、家政婦の依頼、引き受けさせてください!」
 瞼を開けると、なまえはあっけにとられたように立ち尽くしていた。王泥喜と目が合うと、ふいと視線を逸らす。
「だから、朝のは冗談だって。そこまでしてもらう必要ないよ」
 なまえの戸惑いの色が強くなる。また腕輪が手首を締め付けてきた。
「冗談じゃなかったですよね」
「……え」
「腕輪が反応しませんでした」
「……腕輪?」
 問い返してから、なまえがはっとしたように息を呑む。
「オレには人の嘘が分かる。なまえさんも法廷で何度か見てますよね? 相手が嘘をついたり緊張してると、この腕輪が手首を締め付けてきます」
「…………」
「あなたが事務所に仕事を依頼したいと言ったとき、腕輪が反応しませんでした。この意味がわかりますか?」
 なまえは口に両手を当てて呆然としている。
「あれは、あなたの本心なんだよ」
「嘘……」
 微かに震えていたなまえは、ゆっくりと口元から両手を下ろす。
「私が手伝ってほしいって? そんなはずないじゃない!」
「また腕輪、締め付けてきます」
「勝手に人の心を読まないでよ! なんで? どうしてそんなに関わってこようとするの? 王泥喜くんには関係ないじゃない!」
「どうしてか、なんでか? って、そんなのオレだってわかんないんですよ!」
(気になるんです。あなたが)
 その本音を、王泥喜は封じ込める。
「触れられたくないことじゃないかって、そっとしておいたほうがいいんじゃないかって一度は悩みました。でも、オレ嫌なんです。あなたが悲しい顔をしてるの」 
「私は悲しくなんか」
「だって、あんた泣いてただろ。昨日の晩」
「酔ってただけだよ」
「ただの泣き上戸にはとても思えない泣き方でした。あんまりにも悲しそうなんで、心配で帰れないぐらいで」
「私が死んじゃうとでも思った? 大丈夫だよ。優しいんだね、王泥喜くん。でも本当に一人で大丈夫だから」
「腕輪が締め付けてますけど」
「もう、ほっといてよ!」
「迷惑だったら帰ります。でも……元気、だ……っ、だしてください!!」
 あらんかぎりの想いをなまえにぶつけるつもりで、夢中になって叫んでいた。
(なに言ってんだ、オレ!)
 叫んでしまってから、我に返る。なまえは心底驚いたというように瞳を揺らしながら、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
 突然、廊下の奥のアパートの一室の扉が開く音がし、中から住人が出てきた。首にタオルをかけたタンクトップの、いかにも工事現場にいるようなガタイのいい大男だ。
「おい兄ちゃん! うるっせえから!」
「すみません」
 王泥喜が頭を下げると、男は舌打ちして自分の部屋へと戻っていった。
「王泥喜くん、上がって」
 近所迷惑になると思ったのか、なまえが部屋に入れてくれる。
「おじゃまします」
 廊下は今朝と変わらず殺風景なほどすっきりとしていた。朝食の食器もチューハイの空き缶も全部片付けたらしく、シンクもきれいになっていた。やっぱりこの人は掃除ができないわけじゃないという確信が強まる。
 先を歩くなまえがリビングへ続く扉を開けると、やはり部屋は白い段ボール箱でいっぱいだった。積み重ねられた段ボールを慣れた様子で躱し、なまえが振り返りもせずに言う。
「杉崎町通り魔事件って知ってる?」
「あ。はい。確か……4年前の9月の始め、商店街の路上で起きた事件でしたよね? 7人が亡くなった」
 死者7人、重軽傷者が12人も出た極めて残虐な事件として、当時かなりマスコミに騒がれていた。
「被害者の中に一人、大学生がいたの。下校中の児童を庇って刺殺された」
「あれはオレもショックでした。うちの大学の生徒が……って」
 言いかけてはっとした。まさか。王泥喜の様子に気づいたように、なまえが振り返る。
「当時同じ法学部の三回生でね、付き合ってたの。彼と」
「そんな……」
 なんと言ったらいいのかわからず、言葉が出てこない。
「もともと彼とは幼馴染でね、上京してから大学で再会して、一回生の夏から付き合い始めたの。一緒に司法試験を受けるんだなんて言って、二人でよく勉強してたな。まさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった」
「…………」
「事件後、裁判を傍聴しに行ったんだ。犯人に有罪判決が下されたところを見ても、まだ信じられなかった。彼がもういないなんて」
 駅前で通行人たちに取り押さえられた犯人は、その場で現行犯逮捕された。凶器は出刃包丁。被害者は主に女性や子供で、犯行の動機は社会に対する強い不満だったという。
「先日、死刑が執行されましたよね」
「うん。死刑確定後、弁護側が心神喪失状態だったことを主張して再審請求をしたらしいんだけど、それも棄却されて、三か月前に……すべてが終わった」
 なまえはゆっくりと、積み上げられた白い段ボール箱を見回した。
「すべてが終わった、はずだったんだけどね。私が遺品の一部を整理することになって」
「いやいや! ふつう、法定相続人に遺品整理の義務がありますよね!?」
 この場合だと、彼の両親や親族が片づけをするのが妥当だろう。
「事件後、アパートにあった彼の私物はご両親が全部引き取ったらしいの。でもこの間の死刑執行まで、遺品整理はしてなかったんだって」
「まさか、遺言書が見つかったとか?」
「そのまさか。書類整理をしてる時に出てきたんだって。直筆の遺言書が」
「それ、揉めましたよね」
「揉めたっていうか、親族間でかなりの騒ぎになったみたい。趣味のコレクションの物品をどうするかっていうのが主な内容だったから」
「趣味の、コレクション?」
「彼、かなりのオタクだったんだよね。遺言書の写しを見せてもらったんだけどね、預金の全額を母親に相続させるって言葉以外は、ぜ〜んぶオタクグッズの処分方法だったんだから」
「コレクターって、遺言書をあらかじめ作っておくものなんですかね?」
「う〜ん。皆がそうとは限らないみたいなんだけど、彼は自分のコレクションの価値を理解しない家族に、かなりの危機感を抱いてたみたいなんだよね。もし自分が死んだら、全部お宝を捨てられるかもって」
「なるほど。それで……」
 王泥喜は積み上げられた段ボールをぐるりと見回す。
「これ全部、彼の集めたコレクションっていうわけですか」
「全部じゃないの」
「えぇ!?」
「トノサマンの巨大なフィギュアとか金銭的価値の高いものは、買い取り業者に売却して現金化したものを相続財産に組み入れるように書かれてた。ガンダムのプラモデルやトノサマンシリーズの愛蔵版のDVDは、誰に売ったり譲るのかも全部書かれてたよ。そしてこれは……その残りっていうわけ」
 なまえも再度積み上げられた段ボールを見上げる。
「え。ええええええぇ!」  
「いいリアクションするねえ、王泥喜くん。『上記以外で、親族の形見分け後も残った物品は、恋人・みょうじなまえさんに遺贈する』だって。その文言の結果がこれ」
「要は、残りのコレクションの処分を一任されてしまったというわけですか」
「そういうこと。まあ、コレクションだけじゃなくて、その他もろもろも送られてきちゃったわけなんだけどね」
「もしかして、オレが捨てた黒いゴミ袋の山も、金銭的価値が高かったりするんですか!?」
「ないない。あれは彼がアパートにいた頃の私物だよ。当時着てた服とか、大学で配布されたプリントとか、そういうの」
「改めて、本当にすみませんでした」
「ううん。だからいいんだって。私ほんとに捨てられなくて困ってたんだから。むしろ王泥喜くんには助けてもらったと思ってる」
 腕輪は締め付けてこない。こんなふうに本心を探るのは卑怯だと思いながらも、彼女の一言一句にかなりの注意を向けて聞いてしまう自分がいる。
 一瞬迷うような表情を浮かべた後、なまえは思い切ったように口を開いた。
「彼のね、命日だったの。昨日」
(そういう、ことか……)
 確かに昨日は、通り魔事件があった日付と一致する。
「だから、あんなになるまで飲んだんですね」
「うん。自分でも酒癖が悪いってわかってるから、いつもはなるべく飲まないようにしてるんだけどね、命日だけはどうしても飲んじゃうんだ」
 いかないで。ひとりにしないでという昨夜のつぶやきも、亡くなった彼に向けての言葉だったのだろう。泣きすぎてどうにかなってしまうんじゃないかと心配になるほどに弱っていた。
「昨日は本当にごめんね。王泥喜くんとコンビニで会ったのはうっすら覚えてるよ。寂しくて、だから王泥喜くんに会えて嬉しかったんだろうな」
 言われた言葉に少し赤面しそうになる。
「こういうことって、その…よくあるんですか?」
「こういうこと、って?」
 一瞬考えるような表情を浮かべ、はっとしたなまえがすぐさま否定する。
「あ。ないない! 毎年ひとりで飲んでるもん」
「気を付けた方がいいと思います。その、いい奴ばっかじゃないと思うんで……」
 心配する王泥喜の顔を見てなまえが微笑む。
「王泥喜くんだから、多分大丈夫だって安心したんだと思う」
 嬉しいのか悔しいのかよくわからない気持ちになった。もしコンビニで会ったのが牙琉検事だったら、どうなんだろうか。一瞬、面白くない想像をしてしまい、王泥喜はあわてて想像を振り払う。
「今年はね、彼の遺品がいっぱいあるでしょ。いつもより色々思い出してきつくなっちゃって……ほんとに参ってたの。だから付き合ってくれてありがとう」
 目を細めている彼女は綺麗に笑っている。それでもやっぱり今の彼女は、積み上げられた段ボールの山に押しつぶされそうに見える。
「遺贈の放棄をしようとは思わなかったんですか?」
「……そうだよね。遺品の整理を甘く見てたよ。私ね、自分では片づけってけっこう得意分野だと思ってたんだ」
「この部屋を見てるとわかります。調理道具以外は物が少ないですよね」
「だから遺品整理もちょろいと思ってたの。数日ぐらい集中してガーッと取り組めば楽勝だって……甘かったな」
 そういって段ボールを見上げながら苦笑いを浮かべる。
「荷物が届いたその日にね、ドラッグストアでごみ袋を大量に買ってきて次々に段ボール箱開けて、どんどんごみ袋に詰めてってさ、あ。これ楽勝じゃんって、調子に乗ってたわけ」
 話している内容は事実のはずなのに、腕輪が痛みを感じるほどに締め付けてくる。
「燃えるごみの日の朝、はりきってごみを外へ運び出そうとしたんだ。そしたらおっかしくって! ごみ袋を手にして玄関出ようとしたら、足が震えて止まっちゃったんだよね……そこから、一歩も動けなくなっちゃった」
 話しながら身体は震えているのに、なまえは笑みを浮かべたままだ。
「ばかみたい……だよね。自分から引き受けておいて、このていたらくだもん。これでも何度もね、燃えるごみの日が来るたびに捨てに行こうとしたんだよ。でも、だめなの。そのたびに色々なこと思い出しちゃって、動けなくなるの……なんでだろうね?」
「心が、ついていかなかったんじゃないですか」
「……え?」
「無理やり捨てようとしたから、足が動かなくなったんだと思います。だってつらいじゃないですか。好きな人のものを捨てるなんて」
「でも、もう。あれから四年も経ったんだよ。いいかげん立ち直らなきゃって思ってるのに、遺品整理さえできないなんて、自分がなさけなくちゃっちゃう」
「オレには同じ経験がないから、想像することしかできないんですけれど……もしもオレの大事な人が亡くなって遺品整理をすることになったら、やっぱりそう簡単には捨てられないと思うんです。そいつのことが好きだったぶん、よけいに引きずると思うし……その人を思う気持ちが強ければ強いほど、捨てられなくなるんじゃないでしょうか。なまえさんを見てるとそう思います」
「ごみ捨てに行くとき、とっさに思っちゃったんだ。あ。捨てたら思い出も全部消えちゃうんだって。そう思ったら何も、捨てられなくなったの」
 最後の一言に重みがあった。黙った王泥喜を見て、なまえが申しなさそうに微笑む。 
「ヘビーなこと話しちゃってごめんね」
「あの、なまえさん。つらい話をしてるのに、どうして顔は笑ってるんですか?」
「……え?」
 虚を突かれた、という表情だった。何を言われているのかよくわからないというように、なまえが王泥喜を見る。
「気づいてませんでしたか?」
「え…と」
 なまえが戸惑ったように瞳を彷徨わせる。
「今までずっと笑いながら話してたんですよ。自覚ありました?」
「わかん……ない」
 感情が迷子になって、どういう表情を浮かべたらいいのかわからなくなったようだった。激しく震えている手から動揺が伝わってくる。
「あなたの表情や口ぶりだと、ちょっとだけつらかったことを軽く報告しようとしてるように見えるんですよ。本当は違うはずなのに」
 締め付けてくる腕輪の痛みは、極度に緊張した彼女の心境そのものに思えた。
「本当の気持ちを感じないように蓋をしてませんか。無意識のうちに」
「…………っ」
「笑って、ごまかして、必死に本心を感じないようにしてる。それをやめないと、遺品整理以前に立ち直ることさえできないと思います」
 なまえは痛いところを突かれたような、なんともいえない表情を浮かべた。
「……まいったな。全部、暴かれてる気分。怖いなあ、王泥喜くんの腕輪は」
「厳しいことを言ってすみません。昨夜の感じだと、抑圧された感情が相当溜まってるように思えて、危ういなって。このままじゃ、あなたが壊れそうにみえるんです」
「まっすぐだね。王泥喜くんはいつも。なにものからも目を逸らさないその感じ……ちょっと今、きみに追い詰められる真犯人の気持ちが、わかっちゃったかも」
 脱力したように、なまえがおおきく息を吐いた。それと同時に、腕輪の締め付けが緩んでいく。
「捨てても思い出は消えないと思います」
 なまえが目を瞠る。
「……まあ、まちがってごみを捨てちゃったオレが言うのもなんですけど」
 気まずさを誤魔化すように咳払いをする。
「あんたの心にしっかり根付いてるじゃないですか。その人を大事に思ってた気持ちが。それだけは何があっても、消えてなくなったりはしません」
 王泥喜の言葉を噛みしめるように、なまえは口元を引き締めている。
「だって、笑って誤魔化さなけりゃ耐えられないほど、その人のこと、大好きだったんだろ?」
 みるみるうちに、綺麗な目に涙が浮かび上がってきた。内包していた悲しみが溶けだしてきたかのように、瞳がおおきく揺らいでいる。
「あ……あれ?」
 不思議そうな声をあげるなまえの頬を、涙が一筋流れた。
「な……なんで」
 あとから、あとから、溢れ出てくる涙に戸惑うなまえに、王泥喜はポケットから出したハンカチを手渡すことしかできなかった。
 昨夜のように涙を拭ってやってもいいのか、距離感が分からなくて。

 とめどなく溢れ出ていた涙が乾くころには、なまえは憑き物が落ちたかのように、すっきりとした表情をしていて王泥喜を安堵させた。
「なまえさんは、これからどうしたいですか?」
 泣いたことで精神が安定したのか、少しぼうっとしているなまえに声をかける。
「つらいようなら、無理して片付ける必要もないと思うんです。業者に頼むとか、段ボール一式貸し倉庫に預けておくとか、いくらでも方法はありますし」
「…たし、遺品整理を通して、きちんとお別れをしたい」
 少し掠れた声ながらも、そこにはしっかりとした意志が感じられた。
「じゃあ、片付けるってことでいいんですね?」
「あの」
「……はい?」
「今の話の流れからすると、王泥喜くんも手伝ってくれるってこと?」
「そのつもりですけど」
「なんで?」
「なんでって……」
 気になるんです。あなたが、とはやっぱり言えない。
「なんで、そこまでしてくれるの?」
 あんたを放っておけないから、という言葉も飲み込んだ。
「そう、ですね……オレ、よかれと思ってごみ袋を勝手に捨てちまいましたし、その負い目もあるっていうか」
「そういうの、気にしなくていいのに」
「あ、あと……そもそも、あなたが言い出したんじゃないですか! オレに卵焼きを焼いてくれとか」
「だからそれは冗談…」
「その件なら、さっき論破したばかりですけど?」
 さりげなく腕輪を見せてみれば、なまえが肩をすくめる。
「料理については、気が向いたらお願いしたいって言ったのは認めるけど、片づけをお願いしたいとは言ってないよ。だって君に何のメリットもないじゃない。そんな大変なことを頼むなんて……」
「メリットならあります」
「あるの!?」
「その……オレ、女性を見る目がないみたいなんで、例の民事ではこてんぱんにやられそうでしたし、成歩堂さんにも言われたんですよ。もっと女性と関わった方がいいって。そのためには身近に女性がいた方がいいというか。女の人の気持ちや考え方を、たまに教えてもらえればと思って」
 嘘は言ってないつもりだ。成歩堂に言われたのは「彼女でも作れば?」ではあったが、似たようなニュアンスの言葉だし。
「それって、あの子でもいいんじゃない? 可愛い魔術師の女の子。みぬきちゃん」
「みぬきちゃんは、妹みたいなもんだし。第一、成歩堂さんに殺されますよ。オレは、もっとこう大人の…」
 なまえがヒュウ、と口笛を吹いた。
「大人の女が好きなんだ? 王泥喜法介。ああそうか。それで、人妻で痛い目みたんだっけ?」
 なにげにグサッとくること言うな、この人。みぬきの百発百中投げナイフ並みの威力がある。
「そのことは言わないでください。べつにそういう下心で依頼受けたわけじゃないですし。そもそも、すっごい年上が好きってわけじゃ……」
「ふうん。じゃ、同い年かちょっと年上ぐらいが好みなわけね」
 それから、不思議そうに首を傾げた。
「いやに具体的ね。それって、もしかして、すでに気になる人とかいる感じ?」
「は、はい! ……い、いえ」
 なまえを見て言ってから、あわてて目を伏せる。
「もう。気になる人がいるって、ちゃんとお姉さんに言いなさい!」
「は、はい! いますッ!」
(なんだか、へんなことになってきたぞ)
「よし、その意気だ! そういうことならお姉さんに任せなさい! 私の胸を借りるつもりでどーんと頑張りなよ、王泥喜法介! 応援してるから」
 彼女によくわからない火をつけてしまった気がする。お姉さんの胸を借りられるなら、今すぐにでもそうさせてもらいたいんですけど、とはさすがに言えない王泥喜だった。
「そういえば、夕飯食べました?」
 王泥喜の問いかけに、なまえがきょとんとする。
「帰りに外で食べてきたけど?」
「よかったらこれ、明日の朝飯にでもしてください」
 王泥喜が差し出したコンビニの袋を覗いて、なまえが目を丸くした。
「鮭おにぎりに、おかかおにぎりに、お茶?」
「すみません。急いでたんで、こういうのしか選べなかったんですけど……」
 冷静になってみれば、冷蔵庫が水と酒以外なかったからといって、何も口にしないなんてことあるはずもないのに、気づいたらコンビニに駆けこんでいた。相手は子どもじゃなくて成人女性なのに。そんな自分が恥ずかしい。
「心配してくれたんだ?」
 気まずい思いで僅かに俯く王泥喜を覗きこんで、なまえがふふっと笑う。
「ありがとう、王泥喜くん」
 やっぱり笑った顔が可愛い人だと思った。
「泣いたら少しお腹すいちゃった。せっかくだから、一個もらお」
 そういって嬉しそうに鮭おにぎりを開封する。
「よかったら王泥喜くんも一緒に食べようよ」
 ちょうど小腹もすいてきたところだったので、王泥喜はその言葉に甘えることにした。なにより、なまえが一緒に食べたそうな顔をしていたからだが。
(淋しがり屋なのかな、この人)
 なんのへんてつもないコンビニのおにぎりを「美味しい、美味しい」と夢中で頬張るなまえの顔を見詰めてしまう。
「なに?」
「いや、なんでそんなに美味そうに食ってるのかなって」
「おいしそうに見える?」
 なんだろうかこの、とびっきり嬉しそうなお姉さんの顔は。なにがそんなに彼女を喜ばせているのかわからないが、むだにドキドキしそうになる。
「王泥喜くんの買ってくれたおにぎりだからかな?」
「……褒めてもなにもでませんよ」
 いちいち恥ずかしいことを言う人だ。王泥喜が目を逸らすと、わざと覗きこむようなふりをしてくる。
「今度は王泥喜くんが握ったおにぎりも食べてみたいな〜? なんてね。さっそく図々しいお願いしちゃった!」
「べつにいいですけど」
「いいの? ほんとに?」
 うっかりツンとした態度を取ってしまったのに、なまえは目をきらきらと輝かせている。塩対応にもめげないような、妙なたくましさを感じた。
(単に食い意地が張ってるだけなのかもしれないけど)
「あ! 今なにか失礼なこと考えたでしょ、きみ!」
 おまけにヘンなところで勘が鋭いお姉さんだ。
 食後はペットボトルのお茶をコップに注いで分け合った。渋みの中に独特の甘みを感じる緑茶を味わっていると、なまえが何かを閃いたように顔を上げた。
「そうだ。ルールを作っておこうよ」
「ルール、ですか?」
「家政婦? それとも遺品整理のお手伝いって言ったらいいのかな。王泥喜くんに助けてもらうにあたって、あらかじめ共有しといたほうがいい考えってあると思うんだよね」
 「たとえば……」と言ってなまえが次々と考えを挙げていく。
 嫌になったらいつでも辞めてもいい。忙しいときは無理をしない。お互い同じ法廷に立つと決まったときは、それぞれの仕事に集中して極力連絡は取らないこと。気になる人と上手くいきそうになったら、相手に誤解されないうちに部屋に来るのを辞めること。
(気になる人がお姉さんの場合は、どうしたらいいんだろうか?)
 なまえの顔をちらりとうかがって意識しつつも、そんな自分を誤魔化すように咳払いをする。
「じゃあオレは……」
 とにかく無理はしないで欲しいこと。助けが必要ならすぐに呼んでほしい。その際に何を手助けしたらいいのか、具体的に教えてもらえると助かること。遺品整理はどんなに時間がかかってもいいから、自分の心としっかりと向き合って行うこと。
 王泥喜の言葉を聞いていて、なまえが困ったように微笑んだ。
「やっぱり王泥喜くんて優しいんだね。そのルールって、私のことばっかりじゃない」
「お姉さんだって」
 王泥喜が嫌になったらすぐに手を引けるように、逃げ道を用意している。
 お互いが提示したルールに、特に異論は出なかった。揉めたのは、なまえが持ち出してきた依頼料についての話だ。
「だから依頼料払うから。そうじゃないと割に合わないでしょう?」
「オレが勝手に手伝いたいって言いだしたことで、そこに金銭が絡むのは何か違うっていうか……」
 ただ助けになりたいという純粋な気持ちが、金銭が絡むことで不純なものになってしまう気がして嫌だった。これが成歩堂なんでも事務所を通して正式に依頼があったものならば、また話は違ったのかもしれない。いや、なまえとのことは仕事として捉えたくはない。もっと個人的に、なまえの力になりたいのだ。自分が好きでやりたいことなのだ。
 自分の内側にある本能のような何かが王泥喜にそう訴えかけているのに、そういった想いを、なまえへの好意を語ることなしに伝えるのが難しくて歯がゆい。
「だめだよ、そういう考え方は。最初はよくても、ぜったい後悔するんだから」
「しません!」
「王泥喜くんも頑固だねえ……」
「なまえさんこそ」
 こんな言い合いを繰り返すばかりで、話は平行線だった。結局、なまえが食事代を出すという形に落ち着いたが、「食費」ではなく「食事代」と表現されたのが微妙に気にかかる。
(まさかそこに、依頼料が上乗せされた金額を渡されるなんてことは、ないよな……?)
 だがこれ以上言い合いになるのも嫌なので、あえて今、そこには突っ込みを入れなかった。
「最長で三か月くらいかな。それまでに立ち直るようにするね」
「本当にそれで大丈夫ですか? お姉さん忙しいのに」
 遺品整理を行うのは土日どちらかの休日に決まった。それもなまえに休日出勤がなければの話だ。残業帰りのなまえに遺品整理をさせて疲れさせたくはない。平日に神経を使って翌日の仕事に差し支えるのもまずいだろう。
 おまけにこの段ボールの数だ。片付け業者に依頼すれば一瞬で済む話なのだろうが、単なる片付けではなく、なまえの別れの儀式のようなものを行うのだ。一筋縄でいくようには思えない。
 なまえもそのことを薄々感じ取っているのか、申し訳なさそうな表情をしている。
「あまり長くきみを拘束するのも悪いよ」
 お姉さんに拘束されるんなら悪くない。もちろんそんなことは口に出しては言えないけれど。
「オレに気を遣って、お姉さんの心の整理がつけられなかったら、なんの意味もないじゃないですか」
「……じゃあ、最長でも半年で、きっちり片をつける」
「でも無理はしないでくださいよ」
「わかってるって」
 くすぐったそうに笑った後、なまえが背筋を伸ばして王泥喜のほうに向き直った。
「あらためてお願いします。王泥喜くん、私を助けてくれる?」
 それは、さっきまで泣いていたのが信じられないぐらい魅力的な笑顔だった。
「いくらでも力になります」
 こうして王泥喜は、なまえの遺品整理を手伝うことになったのである。


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