04 朝帰りですか?



 ホテル・バンドーの向かいにある雑居ビルの2階――成歩堂なんでも事務所では、始業前のトイレ掃除を終えた王泥喜が、今度は所内のハタキがけをして回っていた。ハタキといってもピンク色の細長い布が何枚もついたような日本のハタキではない。初代の所長がわざわざ海外から取り寄せたというオーストリッチの羽ハタキなのである。
 ダチョウの羽で作られたふわふわのそれを、サラサラと軽い調子で左右にリズミカルに振っていく。そうすればたいていの埃は落ちるし貴重品も磨ける優れものだ。
 みぬきが尊敬するマジシャンのポートレイト、3本立てのキャンドルスタンド、赤いスカーフの垂れている細長い銀色の筒、葡萄ジュースの空き瓶、ピアノなど、上から順にサラサラと掃除していく。特に黒いピアノの上なんて、数日経てばすぐに埃がたまってしまうのだ。 
 手を動かしていて、はたと気づく。そういえば、なまえの部屋にはあまり埃がなかった。積み上げられた段ボールの隙間など、移動させなければ掃除できない部分には埃がたまっているだろうが、床にはゴミらしいゴミは落ちていなかったし、台所のシンクに水垢もなかった。定期的に掃除をしている様子がうかがえたのだ。
 掃除は出来ても片づけは苦手な人なのだろうか。それなら日常的に発生するごみも散らばっているはずだが、空き缶やコンビニ弁当の容器など、生活していれば出るようなゴミはきちんと分別されていた。片づけが苦手とは思えない。
 キッチン兼用廊下だって、ゴミ袋をすべてなくしてしまえば綺麗なものだった。なにもなくなった廊下をいっしんに見つめていた彼女の姿が忘れられない。話していて楽しかっただけに、気になる。
 腕輪が反応したときに浮かべていた、あの笑顔。自分は本当に、あのまま帰ってしまってよかったんだろうか。
「オドロキさん、昨日どこかに泊まったりしました?」
「う、わああ! びっくりした!」
 背後から突然みぬきに声をかけられて、王泥喜の心臓が縮み上がった。あやうく手元が狂って、五輪にトランプがついたマジック道具をはたき落としてしまうところだった。
「さっきからぼうっとしちゃって、締まりのない顔つきしてますよ?」
「そ、そんなことないよ」
 制服のみぬきに横から覗きこまれて、ぱっと顔を逸らす。心当たりがあるだけに、なんだか気まずい。
「今日のオドロキさん、はっきり言ってヘンです。みぬきに何か隠してません?」
「いやだなあ、オレがみぬきちゃんに隠し事なんて」
「で、昨日はどこに泊まったんですか?」
「いや! その、親友んちに!」
(ごめん。葵!)
 とっさに謝る王泥喜に、みぬきがジトっとした目を向けてくる。
「……先週も泊まったんじゃなかったでしたっけ?」
 だいたい、一度家に帰ってシャワーを浴びて、ワイシャツを着替えたりする余裕をもって事務所に出勤してきたのだ。シェービングだってちゃんと済ませてきたのに、どうして責めるような目を向けられないといけないんだろうか。理不尽だ。
「ずいぶんと仲がいいんですねぇ、その人と。ふうん〜?」
 みぬきの据わった目つきが、王泥喜を震えあがらせる。人妻の不倫を見抜いたときと全く同じ顔つきだ。
(やばい。絶対に嘘がバレてるだろ、これ!)
 検察官に追い詰められる被告人のような心境になった、そのとき。
「みぬき。そろそろ学校じゃないのか?」
 成歩堂の声が天からの助けのように響いた。
「あ。はぁーい」
 そこでぴたりと追求をやめ、茜色のソファからうさぎのキーホルダーの付いた通学カバンを取ると、みぬきは軽やかに事務所の入口へと駆けていく。
「パパ、オドロキさん。行ってきま〜す!」
 振り返って、にこやかにちょこんと頭を下げる仕草は、天使のようだった。

「肝が冷えただろう?」
 そっと息を吐く王泥喜に、ニット帽の男が含みのある笑みを向ける。成歩堂は霧吹きを片手に、チャーリー先輩と呼ばれる観葉植物の世話をしていた。
 いつもはみぬきの担当なのだが、時折こうして気まぐれに、初代の所長の遺した大切なものの手入れを自ら行うのだ。
 男の優しい手つきから、事務所に対する並々ならぬ愛情のようなものを感じて、王泥喜はこの光景を眺めるのが嫌いではなかった。いつもは人を煙に巻くような発言ばかりをしていて胡散臭いのに、チャーリー先輩の世話をする成歩堂の手つきには嘘がないように見えるからだ。
(この人の本質って、実は昔と変わらないんじゃないのか?)
 そうであればいいと願ってしまう。
 うっかり成歩堂の姿を見つめすぎていたことに気付き、王泥喜は誤魔化すように咳払いをした。
「将来みぬきちゃんと結婚する人は大変ですね」
 言ってしまってから、上司の顔色を見て後悔する。どうやら、娘の結婚話はこの男の前では禁句らしい。それどころか、両家顔合わせの時点でこの人絶対駄々をこねるぞ。みぬきと結婚する男は本当に大変だなあと、のんきに考えていて油断した。
「で、オドロキくん。女難の相だっけ。アレまだ続いてるのかな?」
 いきなり追求の目を向けられて、心臓が止まりそうになる。
 ポーカーで一度も負けたことがないと豪語するだけあって、成歩堂の黒い瞳は、驚くほどに鋭く人の本質を見抜く。我ながら恐ろしい事務所に転職してしまったものだ。
「べつに、その……だっ、大丈夫です!」
「そうかい? それならいいんだけどさ」

 女難の相。それはマキ・トバーユの無罪判決を勝ち取った翌週に宣告されたものだった。道路の景色が熱気で歪むような七月半ばの猛暑の中、事務所を訪れたエセ霊媒師によって。
「おぬし、女難の相が出ておるのう」
「ほ、本当ですか!?」
 応接室で麦茶を出した王泥喜の顔、というか主におでこをまじまじと見つめ、霊媒師と名乗った男は唸るような口調で重々しく答えた。
「哀れな若人じゃ。特にこの夏は用心せえよ」
 歌舞伎役者のように顔中に塗りたくられた白粉が汗で流れ落ちているのも胡散臭いし、仰々しい装束姿もペテン師のそれに見える。怪しさ満点であることは間違いないのだが、自分の身に降りかかる不幸を予言されては、このまま帰すわけにはいかなかった。
「せ、先生! それでいったいオレはどうすればその女難の相を免れることができるのですかッ!」
 大声で喰らいついたのが良くなかったのだろう。クーラーのきいた隣室でうたた寝をしていた上司が目覚めるほどに声量が大きすぎたのだ。
「異議あり!」
 扉を蹴破らんばかりに乱入してきた成歩堂は、法廷で真犯人を追い詰める弁護士そのものの面構えだった。
「あなた霊媒師って言いましたよね?」
「な、成歩堂さん!?」
「あなたは嘘をついている。本物の霊媒師は全員女性です!」
 人差し指を依頼人に突きつけるその姿は、かつて一度だけ傍聴したことがある成歩堂弁護士の姿を彷彿させた。本当に格好良かったのだ。
「弁護の依頼は引き受けません。お引き取りを」
 王泥喜が感動で痺れているうちに、ペテン霊媒師は逃げるようにして事務所を出て行ってしまう。
「ま、待ってください! せめて女難の相の話だけでも!」
 あわてる王泥喜の肩に手を置き、成歩堂は首を振ってみせる。
「オドロキくん。本物の霊媒師はあんなものじゃない」
 静かに怒っているような空気も感じられ、ペテン師を追いかける意欲を削がれてしまった。
 ここの副所長だった人が霊媒師であるという話は聞いている。
 その倉ナントカ流っていう流派じゃなければ男の霊媒師がいてもおかしくないんじゃ、とは、とても言い出せるような雰囲気ではなかった。きっと大事な人なのだ。普段はへらへら笑っている成歩堂が一瞬本気を見せるぐらいに。
 それきりぱったりと弁護の依頼は来なくなった。
 迷い猫探しの依頼やら、みぬきのマジックショーの助手やらと、弁護には全く関係のない仕事ばかりを地道にこなす日々。少しばかりの余裕を持っていられたのは、極道の息子の弁護料が破格といってもいいぐらいの大判振る舞いであったからだ。それでもやはり弁護士としては空しさを覚えていたわけで、人妻からの依頼に舞い上がってしまった。
 結果はみぬきや牙琉検事に冷やかされたとおりだ。あのまま法廷に出ていたらと思うとぞっとする。芽生えかけていた自信が、ぽっきりと折れた音がした。
 女を見る目がない。いや、人を見る目がないのかもしれない。
 なまじ無罪判決を連続で勝ち取ってきた自信があっただけに、この挫折は痛いものがあった。自分はたまたま運が良かっただけの凡人だ。
(北木滝太の裁判だって、牙琉検事に勝たせてもらったようなものじゃないか)
 日に日に、そんな思いばかりが募っていく。
 9月に入っても鬱屈とした心は晴れなかった。あれきり、牙琉検事との法廷には立てていない。またあの検事と戦ったら、何か見えてくるものがあるのだろうか。
 そんなことを漠然と考えていた矢先に、裁判所で牙琉検事たちと再会したのだった。まさかその晩、なまえと一夜を過ごすことになろうとは、夢にも思わなかったわけだが。

 女性が原因で身を滅ぼすと言われている――女難の相。
 確かに離婚裁判の件は、女難の相の影響といえるかもしれない。だが今回のなまえの件はどうだろう。あれは女難の相の影響といえるのだろうか。それとも…。
 気がつくと、成歩堂が面白そうに王泥喜を見ていた。
「オドロキくん、手が止まってるよ」
「は、はい! すみません」
 我に返った王泥喜は、あわててフォークが宙に浮いているナポリタンスパゲッティの食品サンプルにもハタキをかけ始める。
「まあ、ぼくにも心当たりのひとつやふたつ、ないわけじゃないけどさ。この機会に彼女でも作ってみたら?」
「それ、オレのことからかってますよね?」
 拗ねるような目を向けると、曖昧な笑みを返された。成歩堂には、なにもかも見透かされているような気がする。
 今朝なまえに語った成歩堂の裁判傍聴の話は、本人には話していない。弁護士資格をはく奪された今となっては、昔の話なんてされても困るかもしれないし、過去に抱いた好意や憧れを語ったところで、今の成歩堂にはスルーされてしまう気がするからだ。今さら言い出すのが気恥ずかしいのもある。
 もし成歩堂が今でも弁護士を続けていたら、自分から押しかけて成歩堂法律事務所への所属を希望していたかもしれない。志望動機には裁判を傍聴した時のエピソードを含めて一流の弁護士になるんだという熱い気持ちを語っていただろう。
 証拠品捏造のニュースを聞いた時は、あの人がそんなことをするわけがないと思った。ぜったいに冤罪で、いつか弁護士として必ず復帰するものだと信じたかった。
 だからこそ、浦伏影郎殺害事件の証拠品捏造には腹が立った。憧れと期待が強かった分、弁護士としてやってはいけないことをやった成歩堂が許せなかった。この男は弁護士としてのプライドまで捨ててしまったのかと、自分の理想を踏みにじられたような気がした。おまけに本人の口から「もう、どうでもいい」などと悲しいことを言われ、悔しすぎて思わず殴ってしまっていた。
 今もまだ、七年前の真相はわからない。だが少しだけ、このニット帽を被った男に対する苦手意識は薄れてきていた。


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