03 敬語、やめましょうよ



 翌朝、日の出とともに目を覚ましたなまえは、座椅子に横たわって携帯を弄っている王泥喜の姿を見つけ、小さく悲鳴を上げた。
「大変申し訳ございませんでした!」
 ベッドの上から土下座せんばかりの勢いでなまえに平謝りされ、王泥喜はあっけにとられる。彼女が昨夜のことをなにひとつ覚えていなかったことに衝撃を受けた。口調まで敬語に戻ってしまい、昨夜とのギャップが激しい。
「昨日のこと、本当になにも覚えてないんですか?」
「すみません」
『もしかして未経験? 童貞? 童貞くん? チェリー? 彼女いたことないんだぁ? かっわい〜!』
 おちょくるようななまえの声が頭の中を駆け巡る。目眩を覚えて額に手を当てる王泥喜から何かを感じ取ったのか、頭を下げていたなまえが遠慮がちに顔を上げた。
「あの、王泥喜くん。……私なにか、失礼なこと言ったりしてませんか?」
「心当たりがあるんですか」
「……いえ」 
「もういいです」
 遠い目をする王泥喜に再び何かを悟ったのか、なまえが改めて土下座の姿勢を取る。
「重ね重ね、ほんっとうにすみませんでした!」
「もういいですから!」
 ボルハチの証人、逆居雅香のような豹変ぶりだ。調子が狂う。昨日から彼女に振り回されっぱなしだ。
「それより、朝メシ食いませんか?」
 なまえにシャワーを浴びてきてもらっているあいだに簡単な朝食を作ることにした。
 しかし、そうは言っても汚部屋なのだ。使える食材が見つかるかわからない。
(人参のミイラでも出てきちまったらどうしよう)
 そう覚悟して開けた冷蔵庫には、ミネラルウォーターのボトルと昨日コンビニで買った酒しかなくて拍子抜けした。かといってまったく自炊をしないのかと思いきや、卵焼き用の四角いフライパンからパスタを茹でるような寸胴鍋までもが揃っていて、調理器具だけはやたらと充実している。
 結局、自宅に戻って取ってきた食材で具沢山味噌汁と卵焼きを作り、これまたジップロックに詰めておいた冷凍ご飯をチンして温めた。
 夏特有の白く眩い光に満たされたリビングで、ローテーブル越しになまえと向かい合ってそれぞれの座椅子に座る。王泥喜が寝る前に段ボールを端によけたので、二人で朝食を摂るぐらいのスペースはあった。幸い箸も茶碗も二人分あったので、テーブルの上にはなまえと王泥喜の分の朝食が並べられている。
「おいしい……!」
 味噌汁を一口飲んで目を輝かせるなまえに、照れなのか喜びなのかわからない感情が込み上げてきて王泥喜はあせった。
「そんな、おおげさですよ!」
「これ、昆布と鰹節で出汁とりましたよね? こういうの、本当に久しぶりで……優しい味がします」
(あ。泣いた)
 長い髪をまとめ、仕事用の眼鏡に切り替えたスーツ姿のお姉さんが涙ぐんでいる。
「卵焼きも、じゅわぁっとして……あぁ、天国」
 至福の表情を浮かべるなまえにひたすら照れてしまって、この心の置き所をどうしたらいいのかわからない。
「王泥喜くんて、自炊するんですね」
「まあ、夕飯ぐらいは。さすがに忙しいときはコンビニ弁当にしますけど」
 ご飯を頬張るなまえの目が潤んできらきらしていて、卵焼きを箸で切りながらもうっかりと盗み見てしまう。
「ほっぺたが落ちそうって、こういうことをいうんですね」
 う〜ん、この煮物も最高! 鼻から抜けるような高いうなり声にいよいよ耐えられなくなった。
「そんなふうにほめ殺しにしないでくださいよ!」
 箸を止めたなまえが驚いたようにこちらを見ている。あわてて目を逸らし、俯いた。
「…………照れます」
 消え入りそうな頼りない声が口から出る。どんなに俯いても、真っ赤になっているだろう顔は隠しきれそうにない。クーラーの効いた快適な室温のはずなのに、それ以上に王泥喜の顔は熱い。
 正面から少し顔が近づく気配がした。風呂あがりの甘ったるい石鹸だかシャンプーだかの香りが鼻腔をくすぐる。
「おでこ赤くなってる」
 ふふふ。笑われて、耳まで赤くなったような気がした。

 食後は自然と、二人の共通の人物である牙琉検事の話題になった。
「検事はやっぱり、クリエイティブな方なんでしょうね。遊びながら仕事をして、仕事をしながら遊ぶというか……」
「はあ」
 興味がないわけではないのに、どうにもあの検事のこととなると塩対応のような返事をしてしまう。 
「ギターを弾きながら事件の真相に気づいたこともあったんですよ。感性で閃いて、そこから事件のストーリーを組み立てるんです」
 エアギターを気障に掻きならす、例のドヤ顔が目に浮かぶようだ。
「法律学園に在学中は学祭でライブもやったみたいですよ」
「うわあ。あの人っぽい。青春も謳歌してますねえ。……やっぱオレとは違うなあ」
(当然、彼女もいたんだろうな)
 なんといっても十七歳で検事だ。
「そんなこと言って、王泥喜くんもあったんじゃないですか? 青春」
「オレは全然。昔から、ずっと勉強ばっかでしたから」
「もしかして、昔から弁護士志望だったんですか。王泥喜くんは、どうして弁護士に?」
 一瞬、豪快なあの男の顔が脳裏をかすめた。異国の弁護士。王泥喜はその背中を、ずっと追いかけていた。
「まあ、元から法曹関係の仕事に興味があったんで」
 男の幻想を振り払い、無難な返答で言葉を濁す。
「オレ、中学のとき一度だけ成歩堂さんの裁判を傍聴することができたんですよ」
 あのときは本当に運が良かった。成歩堂の担当する事件は世間からも注目度の高いものが多く、毎回数少ない傍聴席をめぐって抽選待ちの長蛇の列が出来ていたのだ。
「成歩堂さんの法廷、危なっかしくて、はらはらするのに目が離せなくて、手に汗握りました。あがいてあがいてあがいて、どんなに逆転されてもあがいて、最後まで被告人を信じぬく! 成歩堂さんのその姿から、何かを教えられた気がしたんです! それでオレ、絶対弁護士になろうって決めたんです!」
 気がつけば拳を握り締めて熱く語り、なまえを圧倒してしまっていた。
「あ…すみません」
 我に返って手を下ろす。
 夢中になると周りが見えなくなるのは悪い癖だ。こういうとき、まだ自分は子どもなのだと思う。
「まっすぐなんですね」
 王泥喜に対して微笑んだ後、なまえはどこか遠くを見つめる目になった。
「王泥喜くんのそういうところに、検事も影響を受けたのかな」
「え」
「検事、最近すごく楽しそうなんです」
 そういうなまえの顔こそ嬉しそうだ。まるで自分の事のように目を細めている。
「前はバンドに夢中で、検事の仕事はそこそこだったんですけれど、今はバイクで現場検証ですからね。『みょうじくん、行こう!』って生きがいを見つけたみたいに毎日飛び回ってますよ」
 検事の口調を真似するなまえに笑った。
「前は違ったんですか?」
「捜査部の仕事が主でしたね。被疑者の取調べと参考人の事情聴取はするけれど、被疑者を起訴したら、裁判は公判部に任せてました。決して自分で法廷には立とうとしなかったんです。十七歳の時の初めての裁判でなにかあったみたいで……」
 心配そうにうつむいた後、気持ちを切り替えようとするように顔を上げた。
「私も大忙しですよ、捜査と公判の両方の事務仕事を一気に抱えることになっちゃって。おまけに検事の納得いくまで現場検証でしょ。身体がいくつあっても足りないぐらい」
 不平を言っているように見えてその顔は明るい。
「そのわりには楽しそうですね」
「はい! 私もともと、検事志望だったんで、捜査とかわくわくするんですよ!」
 だから残業も気になりませんと笑う。タフな人だ。
「王泥喜くんとの熱いギグが、検事の心に火をつけたんですよ、きっと」
「火がついたのはギターでしょう?」
「あ、そうやってまたうちの検事をいじる気ですね! ああ見えて結構ナイーブなんですから、お手柔らかに頼みますよ、弁護士さん」
「あくまでオレがいじられたときの切り札ですよ。会うたびにおデコくんおデコくんてオレがいじられてるの、あなただっていつも見てるでしょ、事務官さん」
 軽く睨み合うふりをして、お互いふき出した。
「なまえさんがこんなにしゃべる人だとは思いませんでした。いつも牙琉検事の影に隠れてるし」
「あ」
 なにかを思い出したように、なまえが言う。
「昨日の発言は、検事に黙っておいてあげます」
「なんでしたっけ?」
「……ほんとにあんた、自分大好き人間だよな、ってやつ」
 今度は王泥喜の顔つきまで真似してくる。
「オレ、そんな顔してました!?」
「してました。唇とがらせて、こう」
「そんなんじゃないでしょう!」
「え〜。でも呆れたみたいに、冷たい目で検事を見てましたよ」
「だってほんとに呆れてましたもん。このひとほんとよくしゃべるなあって」
「王泥喜くんは、意外と自分のことを話さないんですね」
 どきっとした。
「あ。でも……検事が自分のことをよく話すので、あくまでもそれと比べて、ですが」
 王泥喜の動揺を悟ったのか、そんなふうに付け加えてくれる。
「ああ。あの人は、いかにも自分の事をわかって欲しそうですね。かまってちゃんというか。たまにめんどくさいなあと思います」
「昨日もそんな顔してましたよ」
「あ、今のも検事には内緒で」
 悪戯っぽく口元に指を当てて言うと、なまえがくすくす笑った。
「なまえさんはどうして、事務官になろうと思ったんですか?」
「私、法学部出身なんです。最初は、社会に出てから騙されないために法律を学ぼうとしたんですけれど、気づいたら夢中になってて」
 序審法廷制度の導入によって、法曹人口の拡大が急務となり、大学の在り方も変化した。旧制度では在学中に司法試験に合格しても、卒業後に一年間の司法修習を経てから法律家として羽ばたいていくのがスタンダードであった。
 一日も早く若い人材を確保したいこの状況になって、大学三年次までに予備試験および司法試験に合格した法学部の学生に関しては、四年次に司法修習を受けることが可能となったのだ。法学部卒の王泥喜が二十二歳で弁護士になれたのにはそういった背景がある。
 一般企業に就職する他の新卒と同じ年齢で法律家になれるというメリットもあって、在学中に司法試験に挑戦する学生の数も増えた。なまえのように途中から法律家を志す者も少なくない。
 話の流れで、なまえの出身校を聞いて驚いた。
「ちょっと待ってください。もしかして、同じキャンパスだったんですか!?」
「ほんとに!?」
 なまえもびっくりしたように身を乗り出した。王泥喜の二年先輩らしい。この人、牙琉検事と同い年か。
「どこかですれ違ってたかもしれないですね、オレたち」
「あ〜、学食とかですれ違ってそうです! 在学中は、なんで王泥喜くんのこと知らなかったんだろう」
「まあ、あれだけの大人数ですしね」
 教授のテストの出題傾向や、最寄り駅の飲食店など、ひとしきり大学時代の思い出話に花を咲かせた後、王泥喜は気になっていたことを思い切って聞いてみた。
「なまえさんは、牙琉検事に口説かれたりはしないんですか?」
「くどく?」
 不思議そうに首を傾げられて、逆に気まずくなる。
「いや。その、よく茜さんが、じゃらじゃらに優しくされたってふくれてるんで」
 そしてなぜかかりんとうを決まって王泥喜にむかってぶつけてくるのだ。牙琉検事にはぶつけていなさそうなところが理不尽である。
「なまえさんは事務官ですし、牙琉検事と接する時間は誰よりも長いでしょうから」
 本当は聞くまでもなくわかっていた。軽薄そうに見えて、実は熱い男だというのは。同じ法廷で戦ったからわかる。それでも、今朝話しているうちになまえの口から聞いてみたくなったのだ。なまえにとって、牙琉検事はどのような存在なのか。
 なまえは検事のことを思い出すように少し黙った後、はきはきとした口調で語り始めた。
「そういうのは、まったくないですね。むしろいつも助けてもらってるというか、セクハラ発言をしてくる他の上官から守ってくれるんですよ。検事、誤解されがちですけれど、本当にいい人なんです。チャラチャラしてそうに見えて根は真面目というか、あの人が仕事中に色恋にうつつを抜かしてるところ、見たことありませんよ。仕事には非常にシビアな方なので一緒に働きやすいです」
 生き生きとした表情で言い切った後、ふわりと微笑んだ。
「私は検事のこと、尊敬してます」
(なまえさんの根底にこんな気持ちがあるから、牙琉検事と上手くいってるんだ)
 王泥喜はなまえの勢いに圧倒されつつも、妙に納得してしまった。どうりで、あの牙琉検事がどこにでもなまえを連れていきたがるわけだ。こんな絶対的な味方がそばにいたら、どれだけ心強いだろうか。正直、羨ましい。
 どこか恍惚としたような幸せそうな表情のなまえをみていると、急に胸がざわついてきた。牙琉検事は、なまえのこんな顔を見たことがあるのだろうか。想像してから、検事には見せたくないなと思った。
 なんだろうか。この複雑な思いは。昨日は酔ったなまえにあんなに腹が立ったのに。
(なんでだ。なにかが面白くない!)
 モヤモヤする気持ちが高まって、うっかり口をすべらせてしまった。
「敬語、やめましょうよ」
(いきなりオレは何を言ってるんだ)
 思わず飛び出した言葉にあわてて口を塞ぐ。
「え」
 きょとんとするなまえに、王泥喜はなぜか酷くあせっていた。
「だって、昨日はタメ口だったじゃないですか」
「そう言われても、昨日のことまったく覚えてないですし」
「いや、オレが敬語なのはいいんですけど。あなたに敬語を使われると、な〜んか落ち着かなくて。実はさっきから戸惑ってるんです。少し」
「……そうなんですか?」
「はい。それに同じ大学だったし。そのよしみで」
 なにを自分は必死になっているのだろう。頭ではわかっているのに止められない。
「だ、だめですか?」
 掠れたような、情けない声が出た。それでもしつこく懇願したくなってしまうのは、一体なんでなんだろうか。
 なまえは目をぱちぱちとさせて王泥喜を見つめ、やがて感じのいい笑みを浮かべた。
「いいよ」
 昨日、裁判所で初めて王泥喜がなまえに話しかけた時に見せた、あの優しい微笑みだ。
 必死な王泥喜のわがままを、なまえに受け入れてもらったように思えた。
「ただし、私からだけのタメ口にさせてね。君、裁判所で偶然会った時にうっかりタメ口になっちゃいそうだから」
「そ、それは……」
 その可能性は否定しきれない。だがなまえから子どもだと思われているようで、少しばかりくやしい。
「も、もともとそのつもりでしたので、だっ……大丈夫です!」
 悔しさが表情に滲み出てしまっていたのか、なまえが微笑ましげな視線を向けてくる。お姉さんという感じがした。昨夜のあれもお姉さんにからかわれた感じがして逃げ出したくなったが、今みたいに優しいのは、それはそれでくすぐったい。
「あ、もう行かなきゃ」
 なまえが壁にかかったシンプルなデザインの時計を見て言う。
「早いですね」
「検事が来る前にまとめておきたい資料があるの」
「オレもそろそろ帰らないとヤバいな」
 あっという間だった。なんだか淋しい。身支度を整えている彼女をちらちら見つめながら、できるだけ何気ないふうを装って声をかける。
「今度飲みに行きましょうよ」
「いいね」
 腕時計を身に着けていた彼女が、弾けるような笑顔で振り向く。
「だから、れっ…連絡先を教えてください!」
 声が裏返りそうなぐらい、すごく緊張した。気がつけば手に汗をかいていた。緊張を悟らせないように気軽な調子で言ってみようとしたのに、力が入りすぎて結局どもってしまった。
(カッコ悪すぎる……)
 そんなみっともない王泥喜を笑いもせず、なまえが携帯を操作して目の前に差し出してくれる。白くて可愛らしい、折りたたみ式の携帯電話だ。
「じゃあ、これで」
 王泥喜は彼女にばれないように、心の中だけでガッツポーズを取った。
 アドレス帳に書かれているなまえの氏名とメルアドと電話番号を、自分の携帯のアドレス帳に入力していく。
「よしっ、と」
 登録が終わって携帯を返そうとして顔を上げると、なまえはキッチンへ続く扉を開けたまま、固まっていた。
「なまえさん……?」
 近付いてそばに行く前に、なまえは操り人形の糸が切れたように、かくんとその場にへたりこんでしまう。
「なまえさん!?」
 びっくりして駆け寄る王泥喜に、なまえは放心状態のまま口を開く。
「廊下の、全部捨てた?」
「あ。はい。ちょうど今日、燃えるゴミの日だったんで」
 偶然にも同じ区域に住んでいたので、ゴミカレンダーも王泥喜と同じだった。なまえがシャワーを浴び終わってリビングで身支度を整えている間に、そういえばゴミの日だと思い出して捨ててきたのだ。
 山のように積み上げられていた黒いゴミ袋が消えて、玄関へと続くキッチン兼用廊下はすっきりしている。冷蔵庫や電子レンジ、流し台に残された昨夜のチューハイの空き缶以外は何もなくなって、むしろ殺風景に見えるぐらいだ。
「…………」
 なまえは廊下をいっしんに見つめている。
 その姿を見ていて冷汗をかいた。もしかして自分はとんでもないことをしてしまったのだろうか。そう思ってしまうぐらいに、なまえの様子は尋常じゃない。
「あの、もしかして、捨てちゃまずかった、ですか?」
「…………」
 やっぱりなまえの様子が変だ。
「オレ今すぐ行って、取り戻してきま」
「いいのっ!」
 思いのほか強いなまえの声が、何もなくなった廊下に反響する。
「あれ、ずっと捨てられなかったから、王泥喜くんにはむしろ感謝してるぐらい」
 振り向いたなまえは、王泥喜を見上げて笑いかけてきた。
「ただのゴミだから、気にしないで」
 どくん。
 そのときだ。腕輪が、痛いぐらいに王泥喜の左手首を締め付けたのは。
 王泥喜は息を呑み、なまえの姿をまじまじと見つめた。その笑顔に強い違和感がある。
「あの」
「あ〜あ!」
 王泥喜が口を開いたのと、なまえが声を上げたのはほぼ同時だった。
「私、ほんとに片づけとかだめだなあ。王泥喜くん、部屋見て幻滅したでしょう? 女らしくないよね?」
「そんなことは!」
「嘘つかなくていいよ。私だってこの部屋、汚いと思うもの。いい加減片付けなきゃって思うんだけどね、つい忙しくしちゃって、なかなか……」
 段ボールだらけの部屋を見回し、なまえは溜息をつく。それから王泥喜の顔を見つめ、茶目っ気たっぷりに言った。
「だから成歩堂なんでも事務所に依頼しちゃおうかな? 王泥喜くんを貸してくださいって」
「……え?」
「とびっきりおいしい卵焼きを作れる弁護士さんに、家事をお願いしたいなあ!」
「ええええぇーーッ!?」
「だって君の事務所、暇でしょう?」
「し、失礼な! まあ……実際の稼ぎ頭はみぬきちゃんですけど」
 口を尖らせてぶつぶつ言う王泥喜になまえがふきだす。
「正直だね、きみ」
「そ、そんな! 笑わなくたって!」
「ね、おねがい。気が向いたときでいいから、また作ってくれない? 君の料理、本当に美味しかったの!」
 両手を合わせてお願いされてしまうと、王泥喜も悪い気はしない。
「それは…まあ、かまわ」
「なんてね。冗談」
「え」
「びっくりした?」
 そう言ってなまえは、嘘がばれた子供のようにぺろっと舌を出せて見せた。
「ええええッ!」
「王泥喜くん可愛い。そんなんだから君、牙琉検事にからかわれちゃうんだよ」
「なっ……が、がりゅう検事のことは、今は関係ないでしょう!」
「ちょっと検事の気持ちが分かったかも。君、リアクション良すぎ!」
「さ、さっきから失礼ですよ!」
 なぜか最後はいじられるはめになってしまった。こうして、なまえの登局のタイミングに合わせて王泥喜も部屋を出ることになったのだ。
「王泥喜くんのご飯、本当においしかった。ありがとう」
 別れ際に微笑んでお礼を言われて、うっかり照れてしまった。上機嫌でアパートに戻ってシャワーを浴びて、鏡の前でシェービングクリームを塗っているときに初めて気づいたのだ。そういえば、腕輪の違和感について尋ねるのを忘れていたと。
 王泥喜をからかっているときの妙に明るい口調が今思えば不自然だったし、あのタイミングで話題を変えるのはヘンだ。あれはもしかして、彼女に上手く誤魔化されたんじゃないだろうか。
(いったい、あの黒いゴミ袋の中には何が入っていたんだ……?)


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