02 お姉さんの部屋



「きったねえ部屋」
 なまえの部屋を見て、開口一番に王泥喜の口をついて出たのは辛辣な一言だった。
 昼間に比べればだいぶ過ごしやすい気候になってきたとはいえ、じくじくとするような熱気で汗ばむ夏の夜、初めて訪れた女のアパートがゴミ屋敷なのである。玄関から一歩も上がれずに呆然と立ち尽くす王泥喜に、ジャージ姿のなまえがにっこりと微笑んだ。
「上がって」
「あがって、じゃないですよ!」
 細長い廊下に、足の踏み場もないほど積み上げられたゴミ袋の山。山。山。いったいどれだけゴミ捨てを放棄したのだろう。まだ色の黒いゴミ袋で助かった。これが半透明だったらと思うと、色々と見たくないものが目に入ってしまっていたかもしれない。
「片付けましょうよこれ!」
 困り果てる王泥喜を見て、なにが可笑しいのかなまえは両手を叩いて爆笑している。
 仮にも部屋に誰かを招待するならば、もっとこう、客をもてなす姿勢を見せるべきではないだろうか。たとえそれが、その場のノリで決まった誘いであろうとも。

 親友の葵大地と飲んできた帰り、夜のコンビニでなまえと出会ったのは本当に偶然のことだった。ジャンプを買おうと雑誌コーナーを眺めていていきなりタメ口で話しかけられたときには、一体この人は誰なんだろうと二度見した。一言でいえば干物女だ。女子高生が着るような赤いジャージに、昼間とは違う赤縁の眼鏡をかけている。
「王泥喜くん!」
 出会い頭にハイタッチをさせられ、「誰ですか」と困惑気味に問いかければ、「なまえだよ、みょうじなまえ」と色付いた頬で笑う。春の花がほころぶような満面の笑み。
「こんなところで会えるなんてうれし〜い! そういえば昼間も言ってたけど、ご近所さんだったっけ? 初めて会うね」
 これほどフレンドリーななまえを見たことがなかった。
 風呂上りなのか、昼間にひっつめられていた髪は解かれて、ロングヘアが揺れている。微かな色気が漂っていて、不覚にも、ドキドキしたのだ。
 「一緒に飲みなおさない? うち近くなんだ」などと言われれば、それなりに期待もしてしまう。
(そういえば、司法修習生時代にワンナイトでデキちゃった裁判官志望と検事志望だったあいつら、今も付き合ってるんだっけ……)
 急に同期たちのことを思い出し、自分にも似たようなチャンスが訪れていることを自覚して頬を熱くした。本当に、期待してしまったのだ。なまえのアパートに辿り着くまでは。
 
「片付けましょうよこれ! だって、ひっひっひっひっ! 真面目かッ!」
 汚部屋の玄関でこちらを指さすなまえは、自分の膝をバンバン叩いて爆笑している。
 目に涙さえにじませて笑い続けるなまえを見ていると、次第に怒りが込み上げてきた。
「いったいなんなんだよ、あんた!」
「あ・ん・た」
 一音ごとに人差し指を突きつけながら面白そうに王泥喜の言葉を復唱し、ケラケラ笑いながらさっき買ってきたコンビニの袋をあさるなまえ。そこから一本だけ缶チューハイを取り出すと、他の酒はすべて冷蔵庫に格納してしまった。
 冷蔵庫、簡易キッチン、ゴミの山。
 生まれて初めて入った女の部屋がこれだ。夢も希望もない。
「……夢を返せよ」
「ゆめ?」
「お、女の部屋が、こんなに汚いなんて思わないだろ普通! 初めて入った女の部屋がこれって、なんかの罰ゲームかよ!」
 思わず敬語もなにもかも吹っ飛んで叫んでしまっていた。
「現実はこんなもんよ」
 プシュー。缶チューハイのプルタブの気の抜けた開封音が響く。そのまま一気に煽って、あっというまに一缶を飲み干してしまった。絶対この人飲みすぎだ。コンビニの時点ではほろ酔いに見えたのに、かなりできあがっている。空き缶をシンクに置いて、さらに冷蔵庫に手を伸ばそうとするなまえをあわてて止める。
「もう、それ以上はやめましょうよ!」
「心配してくれるんだ? やっさし〜い!」
 きゃははは。陽気に笑いながら痛いぐらいに肩をバシバシ叩いてくる。近付く顔がふいに王泥喜を覗き込んだ。
「……へえ〜、王泥喜くん」
「な、なんですか」
 濡れた瞳に見つめられて、たじたじになりながらも生唾をごくりと飲み込む。
「今まで彼女いたことないんだあ? かっわいい〜!」
 初めての部屋が私でごめんねぇ、などと叫んでまた陽気に笑っている。
「……からかってるんですか?」
 怒るな。相手は酔っ払いだ。必死にそう言い聞かせる間にも、もしかして未経験? 童貞? 童貞くん? チェリー? などと詰め寄られ、完全に頭にきた。
「オレ帰りますッ」
「待って!」
 逃げ出そうとした途端、後ろから抱きつかれて身動きが取れなくなった。
「帰っちゃやだ」
「なっ!? ちょ、ちょ、ちょっと、待ってください! 落ち着いて!」
 主にジャージ越しに感じられる柔らかいふくらみに大パニックになる。
「は、離してくださいよ!」
「じゃ、帰らない?」
「か、帰りませんよ」
「ほんとに?」
「まいったな」
 どれだけ酒癖が悪いんだ。
(勘弁してくれよ。いったいオレにどうしろっていうんだよ)

 それからなまえは一転して泣き上戸になった。背中に当たる膨らみが気になってしかたがない王泥喜は、なかばパニックに陥りながらもなんとか向かい合う形で体勢を整え直した。そのあとは、なまえに抱きつかれて号泣された。
 困った酒癖だとは思ったが、女の子が泣いているのを放って帰るわけにもいかない。蒸し暑い廊下で汗だくになりながらも、王泥喜はなまえのされるがままになっていた。
 途中、何度も抱きしめ返そうかと悩んだが、これに乗じて手を出すのも卑怯な気がして、震える手を握り締めながらもなんとか踏みとどまった。そんな自分を誰かに誉めてもらいたい。
 なまえが泣き疲れて眠ると、途端に重みが増した。このままでいるわけにもいかず、王泥喜は眠るなまえの右腕を自分の首にまわさせる。落ちないように右手同士を繋ぎ、左腕でなまえを抱えるようにしてリビングへと続く廊下を歩いていく。意識のない人間は重い。
「くそっ 邪魔だな」
 左右によろめきながらも、ゴミ袋につまづかないように連れていくのに必死だった。
 ドアを開けると、つけっぱなしだったクーラーの冷気で一気に汗が引いた。手探りで電気をつけると、今度は白い段ボール箱の山が溢れている。青いロゴマークが入った箱で統一されているところを見ると、この人は引っ越してきたばかりなんだろうか。部屋の右奥にベッド。その隣に、空き缶が何本も載ったローテーブルと二台の座椅子。部屋の左端にテレビ台があるのだけは、段ボールの山があってもなんとか目視できた。そして家具の隙間を埋めるようにして、あきらかに部屋の許容量を超えた数の段ボールが積み上げられている。
 王泥喜はよたよたしながらベッドのほうへと向かった。ベッドの手前にも段ボールがあって、なまえを支えながら歩くのは無理そうだ。いったん首に巻き付けた腕を外すと、王泥喜はなまえを抱き上げて段ボールを跨ぎ、なんとかベッドに寝かせた。布団をかけてやり、眼鏡を外して、空き缶をよけたローテーブルの上に置く。
 眼鏡を外した素顔は驚くほどきれいだった。
 息をするのも忘れてなまえをまじまじと見つめていた王泥喜は、はっと我に返ると、気恥ずかしさを誤魔化すように「んんっ」と咳払いをする。頬が少し熱い。
(帰ろう。すっかりジャンプも買いそびれちまったし、とっととシャワーを浴びて寝るか)
 王泥喜が踵を返そうとしたそのとき。
「いかないで」
 か細い声が聞こえた気がした。目を向けると、閉じられたなまえの瞼が微かに震えている。
「ええと……」
 王泥喜が戸惑うあいだにも、閉じられた瞳にみるみるうちに涙が盛り上がってきて、ついに一筋こぼれた。そのままにはしておけなくて、王泥喜はスーツのポケットからハンカチを取り出した。なまえの顔の横に左手をついて身を屈めていく。王泥喜の重みがかかって、シングルベッドが軋んだ音がした。
(これじゃまるで、オレがなまえさんを押し倒してるみたいじゃないか)
 そう意識した途端、隣室のチャイムが鳴った。こんな夜中に誰か来たらしい。べつに悪いことをしているわけではないのに心臓がばくばくしている。王泥喜は身を屈めた体勢のまま、慎重な手つきでハンカチをなまえの頬に当て、布に涙を吸わせるように優しく拭いていった。
 そうして触れたのがいけなかったのだろうか。ふいになまえの手が王泥喜の右手首を掴んだ。
「あっ! ちょっと、なまえさん……」
 やわらかい手の感触にあせる王泥喜の前で、なまえの唇が動いた。
「ひとりにしないで」
 眉根をひそめたその顔が、まるで見捨てられるのをこわがっている子どものようだった。
「……もしかして、起きてるんですか?」
 訊ねてみても反応がない。もし起きていれば、腕輪が何らかの反応を示しそうだが、王泥喜の左手首が締め付けられる感触はない。
(どうしたらいいんだ、オレ)
 この人、放っておいたら一人で死んじゃうんじゃないだろうか。そんなはずはないのに、哀しそうな寝顔を見ていると、なぜだか胸騒ぎがする。隣室ではこれから酒盛りが始まるらしく、大学生らしき男たちの笑い声が響いた。
 やがて王泥喜を掴んでいたなまえの手から力が抜け、ぱたりと掛け布団の上に落ちた。王泥喜は屈めていた身を起こすと、白くて王泥喜よりも小さな手を掛布団の中にしまってやった。
 このまま帰ることも一瞬考えたが、どうせ気になって眠れないような気がする。しかたなく、今夜はここに泊まらせてもらうことにした。まさか、女の子の部屋に入ってこんなことになるなんて、夢にも思わなかった。
 部屋を見回し、自分も寝る支度をする。まず壁にかかったエアコンのリモコンを見つけ、切タイマをセットした。申し訳ないが、座椅子を倒してベッド代わりに使わせてもらうことにする。寝るスペースを作るために、何箱かの段ボールを部屋の隅に追いやった。ついでにローテーブルの上の空き缶をすべてキッチンへ運び、ゆすいで水を切っておいた。キッチンペーパーも借りて、ざっと机の上を拭く。
 最後に廊下とリビングの電気を消すと、室内は月明かりだけになった。王泥喜はネクタイを外してローテーブルに置かせてもらい、上着を脱いで座椅子に横たわった。上着を掛け布団代わりにして目を閉じる。
 隣から学生たちの騒ぎ声が響く。壁を叩こうにも、先程なまえが大騒ぎしていたことを考えると、お互い様な気がしてそれもできない。
 牙琉検事は知っているのだろうか。なまえの素顔を。そんなことを思いながら王泥喜も眠りに落ちた。


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