11 王泥喜法介は



 嵐の夜の翌日を最後に、もう二か月近くもなまえと会えていない。
『ごめんね。ガリューウエーブのファイナルライブが終わるまでは忙しいの』
 そんな断りのメールがお姉さんから届いた。
 年末に倒れたマネージャーは手術を控えているとかで、結局なまえがマネージャー代わりに検事に付き添っているらしい。
(しゅわしゅわ〜んの飴なんて、検事に買いに行かせればいいのに……)
 一目でいいから会いたくてアパートのそばに行っても、いつも電気はついてなかったし、電話にも出てくれない。
(またなまえさんと偶然、コンビニで会えたりしねえかな)
 淡い期待を胸にコンビニを覗いても、ジャージを着たお姉さんの影も形もなかった。顔も見られない、声も聴けない。王泥喜はすっかり元気を失っていた。
「会えない時間が愛を育てるってやつか?」
 葵がにやにやしながら桜色の春季限定の缶ビールのプルタブを開ける。二人で居酒屋に行った後、王泥喜の部屋で飲みなおしている最中だった。
「腹立つんだよな、牙琉検事は毎日会えてるんだと思うと」
「そりゃお前……仕事なんだからしょうがねえじゃん。しかも、ハーレーダビッドソンで2ケツしながら現場検証か。すげえカッコいいな、その検事さん」
「……悔しいんだけど、カッコいいんだよ」
(チクショウ!)
 王泥喜は飲み終わったアルミ缶を握りつぶす。今頃仲良くご機嫌なバイクで捜査に向かっているんだろうか。もうファイナルライブも終わったはずなのに、今度は年度末の作業が忙しいとかで、今週の土日も会えないのだ。
「今日はやけに素直だな、オドロキ。お前、お姉さんに会えなくて相当参ってる?」
「声、聞きてえ。でも電話繋がんねえし、折り返しもないし……オレ、このまま振られんのかな」
「普段からメールで連絡とりあってねえの?」
「あの人、男みたいなんだよ。要件ないと基本返事してこねえもん。日程連絡にはすっげえレス早いのに」
「なんか仕事できそうなお姉さんだな。忙しいんだろ、単に」
 マイルズ・エッジワースとはトノサマンの話題で盛り上がっていたことを思い出して腹が立ってきた。トノサマングッズを全部売りさばいてからは、オークションもやめてくれてせいせいしているが。

 バレンタインの後に一度だけ繋がった電話で聞こえたのは、ハキハキとしゃべる、思いっきり仕事モードのなまえの声だった。
『へえ、バレンタインにふたつもチョコもらったんだ! よかったじゃない!』
 チョコをくれたのはみぬきと、絵瀬まことだった。まことは王泥喜の角のかたちをしたチョコをわざわざ作って事務所まで渡しに来てくれたのだ。これも外の世界へ出る彼女なりの訓練の一環らしい。みぬきには帽子くんのかたちのチョコを、成歩堂にはトノサマンのビデオのお礼なのか、トノサマンをかたどったチョコを渡していた。
『なまえさんは、牙琉検事にチョコを渡したりしたんですか?』
『しない、しない! 検事も私も、バレンタインなんてすっかり忘れてたよ!』
『そんなに忙しいんですか』
『もうね、ファイナルライブが終わるまではそれどころじゃないって感じ。あ、でも検事からはチョコもらったな』
『え……』
『検事がもらったチョコのおすそわけだけどね。コーヒー休憩のときにちょっとずつ消化してるの』
『ちゃんとメシ、食ってるんですか?』
『大丈夫だよ。あれからゆで卵だって自分で作ってるんだから! 切っても黄身がこぼれない程度の半熟をね』
 どこか得意げに言うのが可愛かった。もう王泥喜がせっせとゆで卵を作らなくてもいいのかと思うと、同時に淋しさも込みあげてくる。できればあのまま、なまえを王泥喜に依存させておきたかった。
『バレンタインも忘れるなんてしょうがないなあ、なまえさんは。しかたがないから来年は、オレがガトーショコラでも焼いてあげますよ』
『ほんとに?』
 電話越しに、なまえが目を輝かせているのがわかる。
『いい子にしてたら作ってあげます』
『もう、なにそれ……』
 少し照れたようななまえの声に、甘い気持ちが込みあげてきた。このままずっと電話が続けばいいのに。そう思ったとたん。
『ごめん。検事が呼んでるから、もう切るね』
(この人、まだ仕事中だったのかよ……)
 検事に対する嫉妬心と、わざわざ王泥喜のために時間を割いてくれた喜びでどうにかなりそうだ。
『電話出てくれて嬉しかったです』
『うん。王泥喜くんも、お仕事お疲れ様。おやすみ』
 そこで通話が切れた。最後の「おやすみ」の声音が、心なしか甘かった気がする。このときほど通話を録音しておけばよかったと後悔したことはない。あれきり一度も、なまえの声を聴けないでいるのだから。

 王泥喜はローテーブルに顔を伏せ、ぐだぐだと管を巻く。
「だめなのなあ、オレ、振られんのかなあ」
「お前、いつもの意気はどうしたんだよ。男だったら、当たって砕けろだろ!」
「玉砕したくねえんだよ!」
「骨は拾ってやるから、思い切って伝えるだけ伝えてみれば? お前の気持ち」
「骨拾うって、それ……だめなやつじゃないか」
 いつになく気弱な王泥喜の言葉に、葵は笑ってからふと、真面目な顔つきになる。
「マジなんだな、なまえさんのこと」
 王泥喜が頷いたそのときだった。えんザイくんのストラップのついた王泥喜の赤いガラケーが一瞬震えたのは。サブディスプレイが淡いブルーに発光し、メールの着信を告げる。なまえからだ。
『ねえ、王泥喜くん。お願いがあるんだけど』
 がばっと起き上がった。
 すぐに電話をかけてみたが、繋がらない。
(もしかしてまだ、検事局にいるのか?)
 王泥喜は急いで返信した。
『お願いって、なんですか?』
 やばい。やばい。ドキドキする。
 悶えている王泥喜を見て「よかったじゃん」と葵が肩をはたいてきた。
「……お願いって、なんかエロい響きだな」
 酔っているせいか、メールからヘンな妄想をしてしまう。
「それ、隣のお姉さんシリーズの観すぎだろ。『あなたのことを考えると、お胸が切ないの……お願い、診察して?』って目を潤ませながら、ブラウスの胸元をはだけさせるやつ」
「アオイも台詞覚えてんじゃねえかよ!」
「オドロキ、隠しといたほうがいいぞ、そのDVD。いつお姉さんここに連れ込めるかわかんねえんだから」
 葵が部屋の隅にある家庭用プラネタリウムに視線を移す。
「つか、これ……せっかくお前にやったんだから、有効活用しろよ」
 葵が彼女と使って効果抜群だったようで、要は、これを使ってなまえといい雰囲気になれと言いたいらしい。
「そんなの夢のまた夢だろ」
「なんでお前、お姉さんのことになるとそうネガティブになるんだよ。普段うざいぐらいにポジティブなくせに」
 王泥喜はDVDケースを手に取る。「僕を誘惑する隣の綺麗なお姉さん」というタイトルの横に、白ブラウスに綺麗めのスカートをはいた女優が意味ありげに微笑んでいる。
「……いいよな、この服」
 いかにもお姉さんて感じで。バカなことを言っている間に、また携帯が光った。
『ごめんね。今まだ外で』
 電話に出られなかったことを謝った後で、文面はこう続いた。
『気になるパンケーキのお店があるんだけど、ひとりじゃ行きづらいから、よかったら連れてってくれない?』
「よっしゃああああ!」
 いつもなら心の中だけですませるところを、葵の前だし気にせずガッツポーズを決める。葵がガラケーを覗きこんでにやにやしていた。 
「連れてって、だって。かわい〜。お前、お姉さんに頼りにされてんじゃねえか。つまりこれ、お姉さんにデートに誘われちゃったわけ?」
「わっかんねぇ……どうしよう」
「どうしよう。じゃねえよ、行けよオドロキ! お姉さんから誘いがくるって、それどう見ても脈ありじゃねえかよ」
 脈ありの言葉に背中を押されて、勢いでメールを打つ。
『行きたいです! いつにしますか? オレは来週土日空いてます』
『じゃあ日曜の午後にしようか。ちゃんとしてるお店だから、スーツ着てきて欲しいな』
『わかりました! 必ずスーツ着てきます』
『詳細決まったら、また連絡するね』
『はい! 連絡待ってます!』
「よっ……し!」
 デートが決まって拳を握り締め、ゴールインするようにベッドにダイブした。
「お前、さっきからずっと携帯見てにやにやしてんのな」
 葵に冷やかされながらも、王泥喜はすっかり元気を取り戻していた。

 そして、待ちに待ったデート当日を迎えた。
 朝四時から無駄に発声練習をして声がガラガラになってしまった。髪もいつもよりも尖った角で固めている。緊張ぐあいは、一年前の初法廷とほとんど変わらない。いや、それ以上にドキドキしているかもしれなかった。なんといっても、初めてのなまえからの誘いなのである。
 なまえに言われた通り、いつものスーツとコートにした。なまえはどんな服で来るのだろうか。ドレスコードがあるっぽいし、さすがにジャージじゃないよな。いつもの干物女スタイルを思い出してニヤけながら高菱屋前の中庭に足を踏み入れた時。
「王泥喜くん!」
 春風の中、綺麗なお姉さんが嬉しそうに手を振っているのが見える。
 誰だ。これ。呆然とする王泥喜の前に、ゆるく巻かれた髪を揺らしながら、駆け寄ってくる可愛らしい人がいる。質のよさそうなブラウスに、スプリングコート。花のような色のスカート。上品な高さのヒールに、ふんわり優しい感じのメイク。
 一般的にそれは、お天気お姉さんのような装いなのだが、王泥喜には少し違って見えた。
 なんで、リアルで隣のお姉さんシリーズみたいな女の人がいるんだ。これは都合のいい夢なんだろうか。
 綺麗なお姉さんは好きですか? そう聞かれたら、前のめりになって「はいっ!」と答えたくなるようなお姉さんが目の前にいた。
「なまえ、さん……?」
「昨日からコンタクトにしたんだ。どうかな?」
「いいと思います」
 なまえからぱっと目を逸らす。可愛い。綺麗だって言いたいのに、そう答えるだけで、精一杯だった。顔が熱い。またおでこまで赤くなってるなんて言われたらどうしようとあせったが、なまえは気づいていないようだった。
「まだ予約まで時間あるんだけど、どこか見たいフロアある?」
「そう、ですね……紳士靴売り場見てもいいですか」
 王泥喜は隣を歩くなまえをちらちらと盗み見ながら答えた。
「いいよ」
 微笑みかけられて、目と目が合ってしまった。王泥喜はまた視線を逸らす。意識しすぎだとはわかっていても、どうすることもできなくて狼狽えてしまう。
「最近は、どうですか?」
 一緒に中庭を歩きながら、なんとか平静を装って話しかけた。
「どうって?」
「その……元気かなって、気になってたんで」
「元気だったよ。ガリューウエーブ解散しちゃって仕事の量ハンパないけど」
 やっぱり忙しかったのか。その横顔から、充実した日々を送っている様子が伝わってきた。
「王泥喜くんは元気だった?」
「……淋しかったです。なまえさんに会えなくて」
「え? 今なんて」
 小声過ぎて彼女には聞こえなかったらしい。
「オレも元気でしたっ! さ、行きましょう」

『本日は、当百貨店をご利用いただき、誠にありがとうございます』
 高菱屋らしい、少し鼻にかかった気取った感じの館内アナウンスが流れている。暑くなった王泥喜は、脱いだコートを腕にかけ、6階の紳士靴コーナーを練り歩く。一通り回った後、メンズ用のアクセサリーや香水を見ているなまえを見つけた。
「いいのあった?」
「目星は付けました。一足は修理に出して、今度一足、新しいのに買い換えようかと思って」
「王泥喜くん、いつもここで靴選んでるの?」
「え?」
「いや、なんとなく、ここによく足を運んでる感じがしたから」
「靴だけはいいものを選ぶようにって、先生……いや、もう先生って呼ぶべきじゃないのかな……が言ってて」
 誰のことを言っているのかわかったように、なまえが「ああ……」と息をもらす。
「その教えを今も守ってるんだね」
「教えてもらったこと自体には、罪はないと思ってるので」
「……そうだよね」
 なまえがしみじみとした声で言った。
「私もさ、王泥喜くんほどではないけど、似たような経験あるんだ。当時は落ち込んだけど、よく考えてみればその人の尊敬できる部分だけを見て、吸収させてもらえばよかったんだよね。王泥喜くんみたいに」
 少し沈んだ様子のなまえが、ぱっと顔を上げて微笑む。
「ちょっとしんみりしちゃった。ごめん」
「こっちこそ、すみません。なにか辛いことを思い出させちゃったみたいで」
「ううん。王泥喜くんが自分のこと話してくれるの、嬉しいんだよ?」
 王泥喜のことをもっと知りたいと言われているような気がして、また胸がどきどきしてきた。12階のレストランエリアへ向かいながら、牙琉霧人のことについて少しなまえに語った。

『いい靴を履きなさい、オドロキくん。それと手入れも欠かさずにすることだ。履いている靴が汚れている人間は信用されません。上等な顧客ほど足元を見て値踏みしてきます。人に見られて値踏みされるのであれば、綺麗にしておいて損をすることはありません』

 当時の王泥喜は、その言葉に酷く感銘を受けてメモを取り、その日すぐに高菱屋に行って先生おすすめの靴のクリームまで買った。靴に関しては、手の届く価格のできるだけいいものを。
「そうやってすぐに行動に起こすなんて、先生にも可愛がられたんじゃない?」
「どうなんだろう」
 王泥喜はなまえに話しながら、修習生時代のことを少し振り返る。
 そもそもの牙琉霧人との出会いは弁護修習であった。弁護士会から通知された弁護修習の配属先が牙琉法律事務所だったのだ。王泥喜は二ヵ月間、牙琉弁護士の事件処理に同行し、書類作成などを通じて弁護実務を学んだ。
 民事弁護の法律相談や裁判期日の傍聴、刑事弁護での初動対応相談など、どちらの修習も偏りなく体験することができた。おまけにランチや移動時間には牙琉から法律事務所の経営に関する話を聞く機会もあり、将来独立を目指している王泥喜にとって非常に有意義な時間を過ごせたと言える。
『一流の弁護士になりたいのなら、私のところに来なさい。オドロキくん』
 修習期間の終わりに、牙琉からそのような勧誘を受けた。
『なぜ、オレを?』
 王泥喜がそのように問いかけたのは、自分が牙琉法律事務所からは浮いた存在に思えたからだ。
 潔癖で少しでも汚れているものがあることを許さない霧人の性格をあらわすかのように、高級感あふれる事務所はいつも煌びやかに磨き上げられており、そこに所属する弁護士も超一流、パラリーガルたちもモデルやマネキンのように完璧なスタイルを誇っていた。どれも牙琉によって選び抜かれたものたちだろう。その中に自分が所属するということに違和感があったのだ。
『司法試験の成績と、担当教官による能力の随時チェックによって、あなたが修習生の上位優秀層にいるからでしょう。そういった人材は、裁判所、検察、大手法律事務所の間で取り合いになる。あなたのところにも、色々と勧誘が来ているのではないですか?』
『でもオレは、弁護士になりたいんです』
『ならば、私のところに来ない理由がないでしょう? 牙琉法律事務所は最大手だ。王泥喜くんに相応しい。もっとも、色々と教えなければならないことはたくさんあるようだがね……』
 そう言って眼鏡のブリッジを指で上げ、王泥喜のリクルートスーツや足元の靴を見た。
 こうして牙琉の熱心な勧誘によって、王泥喜は牙琉法律事務所へ所属することとなった。この時成歩堂がまだ弁護士を辞めていなければ、王泥喜も迷ったかもしれないが。

「それで牙琉法律事務所に所属したんだ」
 なるほどねと納得しているなまえに思わず声をかける。
「あの、オレのこんな話聞いてて楽しいですか?」
「嬉しいよ。さっき言ったじゃん。王泥喜くんのこと、もっと知りたいって」
「……っ」
 瞬時に頬が熱くなる。
「それって、どういう……」
 どういう意味なんですかと踏み込んで問いかける勇気が出ない。なまえからの好意のようなものを感じても、いまいち確信が持てないのだ。下手につついて玉砕してしまうぐらいなら、曖昧なままにしておいたほうがいいとさえ思ってしまう。
「まだ時間あるな」
 十二階のレストランエリアに着くと、なまえが時計をちらりと見た。
「せっかくだから、テラスで少し話そうか」
 レストラン前の通路を抜けて屋外テラスに出た。
 街並みを一望できるガラス張りになっているテラスには、人がほとんどいなかった。まばらにカップルがいるだけで、景観の良い隠れスポットと言えそうだ。
 なまえの隣で街並みを眺めていると、ぐっとデートっぽい雰囲気になった。
(……いい感じだな)
 ベンチやガラス張りに点在するカップルたちも、髪をなでたり、もたれかかって甘えたりなどしていて、ここだけ夜のデートスポットのように静かだ。
 告白するのは今なんじゃないか。そう思うと緊張してくる。なまえの様子をちらちら盗み見ていると、彼女は微笑んで街並みを眺めていた。梅の花がぽつぽつと咲いているのが見える。
「ここ、日光であったかいね」
「少し暑いぐらいです」
 王泥喜の言葉に、なまえがくすくす笑う。
「王泥喜くんは、いっつも発火してる印象あるなー」
「それってオレが、子どもみたいに体温高そうってことですか!?」
「だって、いつも腕まくりしてるんだもん」
「これは……」
「でも、それ好き」
「……っ」
 一瞬、腕を見て言われて、ドキッとした。そんな王泥喜の動揺にまったく気づかないように、なまえは心地よさそうに景色を見ている。
「天気はいいし、部屋も綺麗になってよく眠れるようになったし、ご飯は美味しいし、それに……王泥喜くんは優しいし」
 とろけそうな笑みをこちらに向けてくる。
「いま私、けっこう幸せかも?」
 満たされているようななまえの表情を見ていると、その唇にキスしたい衝動に駆られる。そんな王泥喜の気持ちにはまったく気づかぬ様子で、なまえが口を開いた。
「半年間、王泥喜くんと一緒に居られて楽しかったよ」
(え……)
 突然の言葉に、息が止まりそうになる。
「とはいっても、後半は会えなかったから実質四か月か。今までのお礼に、今日はパンケーキをご馳走させてね」
 言われている内容が頭に入ってこない。
 ああ、これ、振られるやつかもしれない。もう終わりにしたいということなんだろうか。嫌な予感ばかりが胸をよぎった。
「なんで……?」
 震えを悟られないように、なんとか声を絞り出す。
「王泥喜くんには、本当に感謝してるから」
 やっぱりここで終わらせようとしているようにしか聞こえない。この後にくる言葉が怖くて、王泥喜は耳を塞ぎたくなった。
 王泥喜の様子がおかしいことに気づいたのだろう。なまえが目を丸くする。
「あ。もしかして焼肉とかが良かった?」
 男の子だもんね、と微笑む。
「ごめんね、パンケーキにしちゃって」
「ぜんぜんいいんです。オレはなまえさんと一緒にいられるだけで……」
「そういう可愛いことすぐに言ってくれるね、王泥喜くんは。目上の人に可愛がられるでしょう?」
 精一杯伝えようとした言葉を勘違いされて、胸が絞られるように切なくなってくる。
「私、働く男の人のスーツ姿、大好きなんだよね。だから今日は王泥喜くんのスーツ見られてよかった」
「会ってるとき、いつも着てたのに……」
 それってやっぱり、プライベートではもう会えなくなるってことじゃないか。
「ちゃんとお礼する日には、きちんとしたくてさ」
 そう言ってまた、ガラス張りの外の景色を眺める。
「王泥喜くんがいなかったら私、今も立ち直れてなかったと思うの。あの部屋で遺品に囲まれて途方にくれたまま、ずっと自分の気持ちを誤魔化し続けて、きちんと感情の整理をつけられなかったかもしれない」
「本当に、頑張りましたね」
「王泥喜くんが背中を押してくれたからだよ。遺品整理の間、私が疲れたり落ち込んだりしてないか、いつも気にかけててくれたでしょう? だから安心したの。すごく心強かった」
「いや、オレはなにも……逃げずに頑張ったのはなまえさんですよ」
「王泥喜くんのおかげだよ。私ひとりじゃ、難しかったと思う」
 なまえが身体をこちらに向けて、頭を下げた。
「今まで本当にありがとう。このとおり、ちゃんと立ち直れました」
 改めてなまえを見ると、半年前と表情が変わったことに気付く。
「あの、なまえさんは、また検事を目指したりはしないんですか?」
「どうだろう……」
 なまえは考えるように、すこし間をおいてから口を開いた。
「とにかく今は、目の前の仕事をやりきってから考えるかな。事務官もけっこう楽しいし」
 その表情に陰りは一片もない。目を逸らさずに、ちゃんと「今」を見ている。
 もう、大丈夫そうだ。彼女は立ち直った。もう王泥喜がいなくても、この人は前を向いていける。
「大丈夫です! もうなまえさんは、一人でやっていけます!」
「出た。王泥喜くんの『大丈夫です!』」
 ふふ。なまえが綿菓子のようにふんわり軽やかに笑う。
「でも、どうして急にけじめをつけるようなことを?」
「そろそろ、新しい恋でもしようかなって」
(ああ、それで……)
 新しい恋のためには、王泥喜と距離が近すぎてはだめなのだろう。
 しかも、こんなに可愛いイメチェンをしてきたのは、べつに王泥喜のためじゃなくて、新しい恋のためか。王泥喜はぎゅっとこぶしを握り締めた。
「今なら彼氏の一人や二人、すぐにできるんじゃないですか?」
 つい尖った声が出てしまった。しかも出てきたのは憎まれ口だ。ちがう。そんなことが言いたいんじゃないのに。
「好きな人に好かれなきゃ、意味ないよ」
「もう、いるんですか? 好きな人」
「…………」
 黙り込んでしまった。
(……なんだ?)
 目を瞠る王泥喜に、なまえが頬を赤くする。
「前に映画館行こうって言ってたけど、なに観たい?」
「へ?」
「ほら、覚えてない? ポップコーンとコーラで一緒に映画観るの」
「あれ、オレに誘われた自覚あったんですか!?」
 てっきり聞き流されたのかと思ってた。
「あとバンドーランドも行きたいし、荒船水族館でシャチのショーも見てみたい。GYAXAにも興味あるし……私デートで連れてってもらいたいとこ、いっぱいあるんだよね」
「GYAXAなら、色々案内できると思いますけど」
「そうなんだ」
「親友に会いによく行ってるんで…」
(……ん?)
 何が起きているのか分からず混乱している中、なまえは「恥ずかしくてしかたがない」というように、今にも泣きそうなぐらいに瞳を潤ませている。
「もうね、今まで恋してこなかったぶん、ぜ〜んぶ取り戻すぐらいの勢いで、彼氏と色んなところ行きたいし、美味しいものいっぱい食べたいし、料理も教えてもらいたいし」
「あの! それって」
 開いた口を、一度閉じる。
(それって……)
 喉がからからで、声まで裏返ってしまった。
「それって、どういう意味なんですか?」
 なまえに詰め寄ろうとしたそのとき。
「おや?」
 よく聞きなれた馴れ馴れしい声が、王泥喜の背後から聞こえてくる。嫌な予感がしながらも振り返れば、男はどこか嬉しそうに駆け寄ってきた。
「おデコくんじゃないか!」
「が、がりゅう検事?」
「へえ。めずらしいなあ。君がこんなところにいるなんて」
「靴を見に来てたんで」
「……ああ、なるほどね」
 銀縁の貴公子の顔が浮かんだのだろう。靴の一言で納得したように頷いた。
「牙琉検事はどうしてここに?」
「ぼくは新しいアクセサリーを見に来たんだけど、ここは静かだからね。買い物のときはよく立ち寄るのさ」
 確かにテラスは人が少なくて景観もいい。休憩するにはもってこいだろう。
「それで? そちらの、おデコくんにはもったいないような美しい女性は?」
 なまえが面白そうに吹きだした。
「検事……わかりませんか?」 
 声で分かったのだろう。牙琉の瞳が驚愕で見開かれる。
「きみ、みょうじくん?」
 にこやかに頷くなまえに、検事はいよいよ悲鳴のような声を上げた。
「嘘だろ!?」
 牙琉は、唖然とした表情を浮かべて、まじまじとなまえを見つめている。
 やがてなにか思い当たることがあったというように開いていた口を閉じ、ごつい指輪を嵌めた手でくしゃりと前髪を押さえた。 
「どうも最近おかしいと思っていたんだ。いつもひっ詰めていた髪を、最近は巻いて下ろすようになってたからね……」
 牙琉の目が春色のスカートにいく。視線に気付いて、なまえがはきはきとしゃべり始めた。
「あ。大丈夫です検事。検察事務官証票はこのとおり。念のため、着替えのズボンも持ってきているので、何かあればいつでも現場に向かえます!」
 携帯していた検察事務官証票を取り出して胸を張ってみせるなまえに対し、牙琉が苦笑する。
「やれやれ。大丈夫くんの口癖がうちの事務官にも移ったかな」
 呆れたような優しい目でなまえを眺めていた検事が、王泥喜に鋭い視線を送る。
「で? いつのまにうちの事務官とそんなに仲良くなったんだい? 二人きりで出かけるほどに」
 さっきまでへらへらしていた牙琉が完全に笑みを引っ込めた。
「どういうことだ、王泥喜法介。どういうつもりでうちの事務官を連れまわしている」
 牙琉検事が怖いくらいに真剣な眼差しで問いかけてくる。フルネームで呼んでくるときのこの人は本気だ。ならばその本気に応えなければならない。
 男を見せろと言われた気がした。
 ハーレーダビッドソンの後部座席になまえを乗せて走る男。負けるわけにはいかないと思った。ああ、この人にだけは絶対に負けたくないんだ。
 覚悟を決めて、すうっと大きく息を吸い込む。なまえの両肩に手を置き、ありったけの気持ちをこめて叫んだ。
「王泥喜法介は、みょうじなまえさんが好きです!」


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