長編小説 | ナノ



 Petit à petit, l'oiseau fait son nid


Y

食堂にて、二度目の拗ねて殻に篭る姿勢を発動した私に見兼ねたジェリーが、昼も夜もでザート付きで好きなものいくらでも作ってあげる。と子供を宥めるが如く慰めてくれた。流石に大人気なさを覚えたので失態を引き摺るのはやめた。

歓楽とした食事を終えてリナリー達と別れた後、次に向かうのは科学班室だ。
そろそろ科学班員も仮眠を終えて活動をし始める頃合いだろう。彼らが仕事に本腰を入れて集中し始めると、返って訪問が邪魔になってしまう。この時間ならそこまで妨げにならずに済む筈だ。
それからもう一つ。リナリーが休養するので、普段から彼女が目覚ましに淹れるコーヒーが科学班員に振る舞われない。だから今日は私がその役目を代行するつもりだ。
けれど彼女のように皆が美味しいと言う出来のものは作れないだろう。心配をかけてしまったことの罪滅ぼしにもならないが、せめて今できる皆への感謝をしたい。

地下に降りていき、各班に挨拶を交わしながら謝るものの、皆は決して私を怒ったり嗜めようとはせず、「謝る事なんか何もない」と笑ってくれた。それから体調を気遣う言葉や、労う言葉を掛けてくれる。皆、いつもそうだ。身体は常に限界に近い状態で働き詰めにも関わらず、それでも他人を気に掛けてくれる。
温かなこの人たちを、もう私は決して拒んだりはしない。絶対に。

一班の階層まで降りていくと、私の姿を見つけたジョニーとタップがいち早く駆け寄って来てくれた。
その様子に気付いた他の班員達も、手を止めてやはり私に構い掛けてくれる。
彼らが与えてくれる感情に対して、何度「ありがとう」と「ごめんね」と伝えても足りないような気さえしてくる。
……そういえば。食堂で別れ際にラビから、皆、徹夜明け状態だとかなり笑いの沸点が低くなると教えてもらった。

心配を掛けてしまったお詫びとして皆を笑わせられたらいい。
そう思い立ち科学班にて再度冗談話を語ってみた、すると皆無表情の大滑り……ではなく、何故か誰もが悲痛の表情を浮かべてしまった。

食堂でも披露した難破した船長一行は無人島で出会った老人に何をしているのかを尋ねる話だが、結論としては「あることを忘れるためにここにいる」と答えた老人に「あること」とは何かを問うものの、老人はそもそも何を忘れようとしていたのか思い出せない、という洒落の効いた対話である。

まさか、皆一様に船の難破に怖い思い出でもあったのだろうか。
期待とは真逆の展開になってしまった。誰一人笑っておらずむしろ全員が絶望的な光景を見ているかのように愕然としているではないか。

俄かに一部の班員が慌てて動き出したかと思うと、ざわめきを抜けて私の目の前に担架が現れた。…………悟った。
どうやら精神的にまいって奇行に走っていると思われたらしい。「なんて可哀想な」と泣き出す班員まで現れて場が混沌とする始末だ。
急いで皆が思っているような精神状態ではないのだと懸命に説明した。事情を理解してもらうのにかなり時間を要したのだった。

ちなみにユウにも後で披露しようと思ってると伝えた所、満場一致で全員から却下を食らった。
「間違いなく斬りかかられるからやめとけ!」という事だ。ラビが私に教えてくれた情報とは真逆である。
もしかしなくともラビに揶揄われているのでは。と皆に言われて、成程上手くいかない訳だと漸く腑に落ちた。
彼にそんな悪戯好きな面があったとは知らなかったので、新たに知り得た一面に深々感心していると、タップに「怒った方がいいぞ、それ」と言われた。

Z

先程書類に判子をもらいに行った班員の一人に、現在コムイは寝落ちしていたのだと教えてもらった。皆はいつものアレで叩き起こしてやればいいから気兼ねしなくていいと言ってくれたが、どうにも仮眠を妨げるのは気が引ける。
もう一つ別に用事があるからと告げてその場を後にすると、一旦給湯室へと向かった。

思い返せば、宿にいた頃は料理の手伝いはしていたので勝手は分かるが、コーヒーの淹れ方には明るくない。本からの知識やリナリーの手伝いをしていて何となく器材を扱えるけれども、あの人数の分量だとか、要領の良い方法といった詳細においては完全なる無知だ。急に思い立った事なので調べる時間も無かった。
今更調べるのも要領が悪いだろう。あれこれ考えて立ち止まるよりも、兎に角行動してみようと気を取り直し、私は心許ない手付きでコーヒーを作り始めた。

しかし。意気込んで取り組んだは良いものの、何事も気合だけでは上手くいかなかった。
分量と作り方を間違えたらしく濃さの割に随分とえぐみが出てしまった。コーヒーと呼ぶには無礼に値しそうな液体だ。
更に愚かな事に、きっちり人数分の量を用意してしまった後で味の拙さに気づくという大失態だ。
ただでさえ皆は疲れているのに、失敗作を飲ませられない。これは一日かけて私が飲むとして、大人しく正しい作り方を確認して作り直した方が良さそうだ。

小さくため息をついた直後、此方へ向かってくる足音に気が付いた。
慌てて失敗作達を隠そうと右往左往するが、数秒程度ではどうにも出来る訳がない。一層のこと流してしまおうかと邪念が過るが、それこそ何よりも愚しい。結局私は中途半端な体勢のまま部屋の入り口を見つめて停止していた。

「お。アリスだったのか」
顔を覗かせたのはリーバだった。相変わらずその様相は衣服共々疲れが溜まっている様を物語っている。表情だけは一瞬驚きに染まって、それから穏やかに笑みを見せた。
「コーヒーの匂いがしたから、リナリーが無理して作ってるのかと思った」
「大丈夫。部屋でゆっくりしててって無理やり戻ってもらったから
「アリスが言ってくれたのなら間違いないな」

「ありがとな。手伝うよ」
「ま、待って。えっと、……これはその」
口籠って言い淀む私にリーバーは不思議そうに目を瞬かせた。確かに匂いだけならコーヒーらしいものの、飲んでみると期待外れの代物だ。お礼を言われるようなものではないので、居た堪れない。
「実は、失敗しちゃって……」
「気にすんなよ。何でもない振りして出してやれ」
「駄目だよ! もう皆に迷惑、掛けたくないから……」
「それじゃ、抜け駆けして俺だけ貰うか」
制止するも遅く、リーバーは自分のマグカップに手早くコーヒーを注ぎ、止める間も無く飲んでしまった。

「……そんなに言うほど失敗か?」
彼は首を傾げて不思議そうに私を見つめ返した。対して一度だけ首肯すると、爽やかな笑顔が返ってきて軽く頭の上に手を置かれた。
「そこまでコーヒーの味にうるさい繊細な奴なんていねぇから、安心しろよ」
気遣ってくれているのだと思った。そう考え出せば、途端に私の思考は次々と自分を論う言葉が浮かび出す。けれど、自己嫌悪に陥るのを思案を停止させて押し留める。自身の粗探しをするのは、私を良く言ってくれる人の言葉さえも否定しているように思えるからだ。

――卑屈になるのはやめよう。何時迄も無闇に悔やんだって仕方がない。これから私がどうするかが大切なのだから。

――少しずつでいい。いつかみんなに美味しいと心から言ってもらえるように。これから学んで行こう。

「……うん、ありがとう。今度はもっと美味しく作れるように勉強しておくね」

二人でも分けるのは時間がかかるからとリーバーが65を呼んで来てくれて、三人で手分けして科学班の皆にコーヒーを振る舞った。受け取って飲んでくれた誰もが見せてくれた嬉しそうな笑顔は、不思議と愛想笑いだとか気遣っているようには見えなかった。

[

あまり音を立てないよう気を配りながら、螺旋状の階段を降りる。ある程度階下が見渡せるところで屈んで覗き込んでみた。
普段なら聞こえてくる筈の慌ただしい物音は無く、室内は誰もいないと思える程の静寂が充満している。
コムイが仮眠を取る際によく横になっている長椅子にはその姿が無かった。音も立てずに真剣に何かの資料と向き合っているのか、或いは机の前にある椅子に座って寝ているのかも知れないと思い階段を降りていった。
すると書類の無造作に広がる机に突っ伏し何らかの作業の途中で力尽きている彼の姿があった。その様子からして、先程班員の一人が訪ねに行った時と同じ体勢のままに違いない。

近付き、声を掛けようか逡巡した。血色が良いとはお世辞にも言えない顔色に、黒々寝不足を主張する下瞼。歩いて数歩の長椅子にさえ、一旦手を止めて行くのが躊躇われたのか、若しくはそんな思考さえ浮かばぬ程疲労困憊だったのか。どちらにせよ一見しただけで彼が疲れ切っているのは明白だった。
机の上に放り出された中途半端に握っている右手の傍には、硬筆が転がっている。いつにも増して彼を追い詰めた心労の原因は、私の任務での一件ではないだろうか。
然るべき時は総司令官として気丈に振舞っても、彼は一人一人の教団員の心に寄り添い過ぎてしまう性分なのだ。心温かい団員達を統べるコムイらしいけれど、心が頽れてしまいそうになる事は無かったのだろうかと惟る。当然ながら、まだ十四の私が思慮するのが烏滸がましいまでにコムイは自立した大人だ。それは分かってはいるが、ひとえに気掛かりだった。

無造作に長椅子の背凭れに引っ掛けられている毛布を手に取り、コムイの肩に掛ける。
やっぱり無理には起こす気にはなれない。きっとリナリーや科学班の皆なら、彼が自然に眼を覚ます時機を熟知している筈だ。それを確認してから出直そう。
例の呪文を唱えなければ、たとえ揺すっても起きはしない彼だからと思い、机上の彼の手の甲に両手を添えた。

「心配掛けてごめんね。私はもう、平気だからね」
すると、僅かに彼の指先が動く。ゆっくりと開かれた彼の掌は、何かを求めるように私の指先を引き込む。そのまま動かず見つめていると、彼は私の指を掌に握り入れる。
「……うそ、だ」
コムイは譫言のように呟いた。意識は無さそうだったが私は自然と言葉を返していた。
「嘘じゃないよ。信じて」
コムイに聞こえたかは定かではないが、一呼吸置いて握る手の力が緩んだので触れた手を離す。
起こさないようにと足音を極力静かに抑えて立ち去ろうと、彼に背を向け歩きだした。すると俄かに背後で椅子か机に何かがぶつかるような音が鳴った。
驚いて振り返ろうとすると、不意に腕を引かれる。その力が思いの外強くて、私は引かれた方向へつんのめって体勢を崩したが、目の前に白の団服が映ると同時に身体は受け止められる。
何がきっかけだったのかは知る術が無いものの、コムイが寝惚けているのは明らかだろう。

――もしかして……寝ぼけてリナリーが行ってしまうと思ってる……?
焦って妹を引き寄せた気でいる彼に反して、私は彼の懐で、兄が妹を尊ぶ気配に浸りそうになっていた。任務へ赴くリナリーを見送るとき、コムイは何度引き止めようとして伸ばしそうになる手を押し込めたのだろう。どうか無事に返ってきて欲しいと身を削られる思いで彼女を待っていたのだろう。
その苦悩をリナリーが知らない筈がない、だが、だからと言って「行かないで欲しい」という兄の願いに応える事は到底出来ない。
不意に、私の脳裏に藍銅の眼差しが蘇った。アジュール……彼もまた、私を町から去らないように引き止めようとしていた。理由は知り得なかったが、もしも彼がアクマではなく人間だったとして。そして私がイノセンスの適合者として教団へ行かねばならなくなったとしたら。その時も彼は私を引き止めただろうか。私はどうしていたのだろうか。
思わず自身の腕を大きな彼の背に伸ばしそうになり、押し止まった。

「……コムイ。私、リナリーじゃないよ」
言いながら、少し強めに彼の背を手の平で数回叩く。すると漸くコムイは夢うつつから醒めたらしく、身体が離れ互いの視線が交わった。呆気にとられた面持ちで私を見下ろすコムイは、みるみる内に血相を変えて後退って行った。
「え。……あ、アリス……!? ご、ごめん!」
「待って! 危ない!」
コムイが退がる先には椅子があるが本人は全く気付いていなさそうに退がって行く。手を伸ばそうとするが一歩届かず、彼は目の前で足を取られてしまい、大きな音を立てて椅子ごと床に引っくり返ってしまったのだった。

背中から転んでしまったコムイだったけれど、幸い頭を打つことも椅子に体をぶつけて怪我をする事もなく、大事には至らなかった。
忽ち上階の班員達が物音を聞きつけて降りてきたが、コムイが寝ぼけて転んだと話せば皆呆れた声を出して其々大量の書類をコムイの机に置いて帰っていった。どうやら起きたのならさっさと仕事をしろという遠回しな催促らしかった。

「全く……。皆人使いが荒いよねぇ」
口を尖らせて不貞腐れた面持ちで置き去られた書類をそれぞれ手に取ってコムイは眺めていた。普段通りの調子で彼も私に声を掛けてくれる。気負わないように努めてくれているのだとすぐに分かる。けれど言いたい事は確と伝えなければと、折角コムイが和やかな空気を作ってくれたのを申し訳なく思いながら口を開いた。

「心配掛けて、ごめん。でも、ちゃんと切り替えて、今度は迷惑を掛けないように頑張るよ」
すると、彼は持っている書類を机に戻して傍に立つ私へ目を向けた。
「心配……はしてたけど、迷惑だなんて思った事はないよ」
優しい声音でコムイは微笑んでくれる。
「教団に帰って来てくれて、ありがとう」

――…………本当に。二人はよく似てる。

きっとリナリーの慈悲深さは彼の生来の気性が育んだのだと実感した。今日はそれに限らず沢山の人の優しさを再認識した所為なのか、いつにも増して涙腺が緩んでいるらしい。
みるみる内に目の縁が潤みだしてきて、私は上手く声を出せずに深く頷いた。頭を下げたまま、泣きそうな顔を隠していると「ああ、そうだ」とコムイの手が離れていき、次いで机の中を漁る音が聞こえてきて顔を上げた。

彼は引き出しから真っ白な封筒を取り出すと、此方に向かって差し出す。
「君宛に。今朝届いたものを預かっていたんだ」
「手紙……?」
手紙を送ってくれるような人なんて、外の世界にはもういない筈。それに、教団に於いては例え家族であろうと情報漏洩を危惧して団員は面会はおろか手紙の遣り取りも禁止されている。

受け取って差出人を見ると、そこには「イーファ・ニアール」と二人の名が綴られていた。
少し歪になっているものの丁重に封蝋が押されている。

「上でコーヒーもらってくるよ」
直ぐにでも開封したいと思っているのを察してくれたのか、コムイは机からマグカップを取って階段へ向かっていく。
小さく返事を返して、私は座りもせずその場で手紙を開く。
四つ折りにされた一枚の厚紙を広げた時、堪えきれずに短く声を上げていた。

一枚の用紙一杯に、鮮やかな絵が広がっていた。大きな虹と「ありがとう」と綴られた可愛らしい文字。
虹の内側では六人が手を繋いで並んでいる。中央にはイーファとニアール。イーファの隣には私とラビ。ニアールの横にはエマティットとブックマン。皆が笑顔で此方を向いていた。

――皆、笑ってる。エマティットも。……ブックマンまで。

ブックマンの黒い縁取りの中の目は莞爾の弧を描き、口元は普段の厳格さの面影が一切無い緩い形になっている。何だかそれが面白くてつい笑いを溢した瞬間、目の前が淡くぼやけていく。
その場でうずくまり絵を胸に抱きながら、嬉しいのか、悲しいのか、訳も分からず泣いた。

暫く感情が揺さぶられるがままに涙を延々流していく内に、少しずつ目の奥の熱が落ち着いてきて思考も働くようになってきた。
そういえば、コムイが一向に戻ってこない。もしかしたら敢えて私を一人にしてくれたのかも知れない。
改めて、胸に抱え込んだ絵を見つめる。

――お礼を言いたいのは、私の方だよ。……イーファ、ニアール。

きっと、あの遠くの町で彼女たちは家族と友人達と共に、この絵のように笑顔を浮かべているのだろうと想像出来た。この絵が私に希望を与えてくれた。

――……ありがとう。

エマティトを始め、探索部隊やエクソシスト、後援として実働部隊を支える教団の人々の姿を思い浮かべる。皆、それぞれの立場や能力、場所で、自分が出来る事を見つめて一生懸命悩んで、悲しんで、苦しんで、それでも前を見つめて進んでいる。
……私はまだ、信念だとか決意だとか、皆が抱いているような立派な志を持っていない。
けれど、家族、友人、大切な人を想い、苦しみもがく人々の笑顔を取り戻したい。
きっと、無力だった私に与えられたこの唯一の力なら、出来る筈だと分かった。これが私が力を得た意味なのだと思う。
世界を救うだなんて大層な事は出来なくても。ちっぽけなこの命とイノセンスがある限り、戦争を止める為に私が出来ることをしたい。どんなに小さな事だとしても。

――エマティット。今はまだ伝えられないけれど。だけど、私は必ず前に進んでいくから。だから、待ってて。

――また会えた時。その時は、真っ直ぐ貴方の目を見て「ありがとう」を伝えるから。

≪PREV | TOP | NEXT≫




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -