長編小説 | ナノ



 Petit à petit, l'oiseau fait son nid


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教団の最下層、ヘブラスカの間にて。私は白く大きな腕に包まれている。
燐光を放つ彼女の身体が少し眩しいので目を閉じると、まだ熱が抜けたばかりの瞼が重かった。

ここへ来る少し前の事だ。
手紙を読んだ私が泣いてしまうのをやはりコムイは察していたらしく、暫く時間を置いて執務室に戻ってきた。
その頃にはすっかり頬が乾いていた私は、ようやく次に進む為の決心を固めていたのだった。

――私自身から、イノセンスから目を逸らしたくない。これからは向き合っていきたい。

そして私は戻ってきたコムイにヘブラスカの間への同行を願い出たが、彼は少し困ったように眉尻を下げた。
無理もない。一心にコムイを見つめる私の目は、真剣な様子はあれど、真っ赤に泣き腫らしていただろう。
けれど私の思いを足蹴にはせず、彼はただ頷いてくれた。そうして私は現在此処に在る。

けれど私の高まる気概に反し、イノセンスとの同調率は低いだろう。数値で示されずとも感覚で既に理解をしていた。
ただ、こうしてヘブラスカの身体に触れている所為なのか、不思議と心慮はなかった。それどころか、余裕ある心は探究心を芽生えさせ、意識を自身の中心へと集中させていた。
すると、薄い皮を隔てた先に、何かが蠢いているような感覚を見つけた。己の身の内にあるそれは、私に触れたくてもがき、けれどどうすることも出来ないようだった。寂しいだとか苦しいだとかの感情や痛みは無く、無意味に体が疼く、実に不可解な感覚だった。
私が身内の不思議な感覚に気をやっている内に、ふと淡い輝きが薄くなる心地を覚えて、沈み込む意識は中心から遠ざかった。
目を開くと、淡く光る手が離れて行く。どうやら彼女の方の確認は終わったらしい。

「アリス。もう動いても大丈夫だ」
「うん、……ありがとう。ヘブラスカ」
結果を聞く前に一度振り返ってみると、コムイはこころもち不安げな色を表情に湛えていた。
「心配しないで。どんな状態でも受け入れるから」
「……そうだね。あんまり過保護だと、君の方が不安になってしまうね」
「ごめん」と微笑を湛えた彼は、私へと歩み寄り頭を優しく撫でてくれた。心から彼を安心させられないのは私の所為だ。
今はただ笑みを返すしか出来ない事に申し訳なさが胸中へと滲むが、これからがどう考え、どう行動するかが大事なのだという事も解っている。
悔恨を払って私はヘブラスカに向き直った。

「…………こんなに不思議な現象は、初めてだ」
ヘブラスカが告げたのは、予想だにしない言葉だった。
彼女自身も驚いているようで、響く声音に困惑が伺える。普段から落ち着き払ったその語調に感情が乗るのは珍しい。面食らったままコムイの方向けば、彼もまた目を見張っていた。
「それは、どういう事なんだい?」
「同調率が……著しく低下してしまっている。今は回復傾向にあるが、体調に何らかの異常が出ていてもおかしくはない状態だ」
「そんなに悪いの……!? で、でも……、不調なんて何もないし、特にいつもと変わらないよ……?」
「そうだ。……これだけ同調率が低いのに、体に何の異常も起きていないのは、イノセンスが肉体の拒絶反応を中和しているからだ」
「私の体が、イノセンスを拒んでる……?」
「ちょっと待って、ヘブ君。イノセンスが人体を拒絶するという事象は記録にもある。でもその逆なんて有り得るのかい?」
「私も、有り得ないと思った。……だが事実、アリスの身にはそれが起きている……」

二人の声が戸惑っているのは理解出来たものの、それがどの程度芳しくない状況なのかは推し量れなかった。
そもそも、私の身に起きている事は良いことなのか悪い事なのかも自身の中では整理が追いついていない。
困惑のまま交互に二人の方を見遣るしか出来ない。するとコムイは深く考え込むように口元に手を当てて黙っていたが、ふと真摯な眼差しを私に向けた。

「アリス。君は、余程その結晶に求められているって事なんだろうね」
「そ……、そうなのかな……」
ヘブラスカの言葉を聞くまで、拒絶されているのは私の方だと思っていた。
けれどそうではなかった。まだ私はイノセンスに必要とされている。希望の光は潰えていなかったのだ。
……但し問題がひとつある。この意志は己とイノセンスに向き合おうと決意を固く抱いていても、一向に発動の気配がうかがえないのだ。
こちらが呼び掛けているのに、何の反応も返って来ない。そんな風にも形容できる。だから私の方が拒まれていると思っていたのに、私の身体の問題となると打開の方法が見当つかない。

「……どうすれば発動出来るようになるのかな……」
やはりイノセンスは分からない事ばかりだ。教団へ来たばかりの何も知らない頃に戻されてしまったようで、つい気落ちしてしまうのを隠せなかった。

俄に柔らかな声音が上から降りてくる。
「かなり無茶な使い方をしたのだろう? 身体の疲弊が回復していないからかも知れない」
次いで、背からも優しく語り掛けられる。
「そうそう。教団は誰彼構わず自分の疲れに鈍感だからね。それに、一度覚えた感覚はそう簡単に忘れる事はないんだからさ。焦ることはないよ」

そんな二人の声音の限り、異常事態に間違いはないが深刻ではないのが少しずつ解ってきた。
彼等の言う通り、私は自分が疲弊しているかどうかになんて全く目を向けていなかった。
思い返せば、任務を終えてからしっかりと眠れたのは、昨夜からだ。それも時間にして三、四時間程か。普段の睡眠時間を鑑みれば、十分休めたかと問われると自信を持って頷き難い。
私は二人の意見を丁寧に飲むこむように深く首肯した。

「アリスが今出来ることは、しっかり休息を取る事だよ」
「……うん、分かった。二人共ありがとう」

執務室の階層へ戻りエレベーターを降り切らない内に、急いだ足音が階段の上から鳴り出した。時を交わさず執務室へと降りてきた足音の主は、こちらを覗き込んで、口元に安堵の色を浮かべる。

「良かった、ちょうど戻ってきた!」
「ん? どうしたんだい、タップ」
「今通信が入ったんすよ。室長宛に、……イエーガー元帥から!」
「……先生……っ!!」
「わかった。ありがとう、すぐ通信班に繋いでもらうよ」

タップが告げたその名に、私は気を逸らせながらコムイに視線を向けた。すると彼は穏やかな笑みを向けて私の頭を撫でる。
「大丈夫。用件が済んだらちゃんとアリスにも繋ぐよ」
「うん!」
期待していた通りの言葉を貰えたのに満足した私は、話の邪魔にならないようにとタップと二人、科学班室に登って行った。
それから人払いしてもらった一班の個室で少し待たせてもらう間、私はそわそわと気が逸って仕方がなかった。
十数分ほど経っただろうか。いよいよ身を固くし過ぎて緊張し始めた頃合いに、タップが部屋へやって来て、私に通信機を差し出してきた。

「ほい。お待ちかねの先生だぞ」
「……ありがとう!」
手渡されたのは、科学班員がよく使用する頭部装着形の機材だ。
作業を同時進行させながら電話応答も行わねばならない彼らの必需品だが、私はその使い方をいまいち分かっていない。
受け取ったはいいが上手く装着できずに手元をもたつかせていると、タップが丁寧に耳当て部分やマイクの位置を整えてくれた。そして親指を立てて爽やかな笑みを見せる。颯爽と部屋を出ていく逞しい背中を見送った。

そして、緊張に鼓動を高鳴らせながら口を開いた。
「せ、先生」
発した声が少し震えてしまった。先生と別れてからまだ二週間弱しか経っていないというのに、なんだか酷く久しい気がする。
「アリス。身体の調子はどうかな」
その声調はとても閑やかで、それから何故か郷愁めいた寂しさを覚えた。
「大丈夫、だよ」
答えて、それから次の言葉を繋ごうとして、俄に躊躇した。
……先の任務での一件を今切り出すべきかどうか。
先生は私の初任務で起きた事の経緯を知っているだろう。
けれど先生は優しい人だから、このまま黙っていれば私の口から聞き出そうとはせず、他の会話や受け答えの中から今の心緒を汲み取ろうとしてくれると思う。
けれど、それではいけない。いけないと分かっていても、勇気が出ない。

「あの、私……」
呟いたまま、喉元より先へと声が出せなくなった。私はこれから罪の告白をする。ふとそんな心持ちになってしまったからだ。
――自分を変えられたつもりでいたのに、違った。私は肝心な所で弱さを手放せない。

中途半端に言葉を出してしまった事を後悔した。

―― …………「俺、後悔してない。からね」

突然に脳裏をよぎったのは、エマティットの最期の言葉と懸命に見せてくれた笑顔。

――……そうだ。私は彼に応える為、後悔しない生き方を模索すると誓った。少しずつだけど、私が私自身を受け入れる為に。……許す為に。

無言のまま何秒経っても、先生は途絶えた言葉を催促する事なく待っていてくれている。私はゆっくりと深い呼吸をひとつして、もう一度口を開いた。
「私の事を庇って、エマティット……探索部隊員をひとり、亡くしてしまって……」
一度声を区切り、息を呑む。変わらない無音は、通話口で先生は確と耳を傾けてくれている証拠だと理解した。
「その人はとても勇敢で、優しくて、どんな状況でも冷静に行動できる人で……。仲間と、家族を守る為に命を懸けている人だった」

切なさが込み上げて泣きそうになる。けれど私はもう一度呼吸を整え、強く拳を握る。それから背筋を正して胸を張って前を見た。

「だから、私は……エマティットの言葉を絶対に忘れない。彼に教えてもらった事も、託された思いも、私なりの形で報いたいって思ってる」

――…………ちゃんと、言えた。

また少し、私は自分を受け入れられたような気がした。それに胸を撫で下ろしたものの、先生からは何の返答もない。
もしや、通信が途切れてしまったのだろうか。
「え、と……先生……?」
すると声は一拍置いて返ってくる。
「……いや、すまない。君がそれほど強く前を向いてくれているのなら、彼も己の行動を誇りに思っているだろう」
「う、ん……っ」

顔が見えなくても、その声音は先生のあの微笑みを感じさせてくれる。やはり先生に自分の思いを伝えて良かった。
けれど、また沈黙が生まれてしまった。先生の顔は見えないけれど、何だか今度は先生が迷っているようだった。
先程まで、もたつく私を先生は待ってくれていたのだから、今度は私が待つ番だろう。
口を結んだまま数秒が経過し、言い淀むような声が聞こえてきた。

「……。アリス、申し訳なかった。君を侮るつもりはなかったのだが、少し過保護に捉えすぎていたよ」
「過保護……?」
「今回の任務。まだ幼い君にはあまりにも重すぎる結末に、私はその心が癒えるのは難しいと思ってしまった。けれどそれは間違いだと気付かされたよ。君は強い子だった。思わず嬉しくて言葉を出すのを忘れてしまった」
私が話終えた直後の沈黙の中、そんな思いが巡っていたとは思いも寄らなかった。
とはいえ嬉しさの反面、先生は私を過大に評価しすぎだ。事実、私は先生が懸念していた通り、深々と自責に埋もれ未来を向く力を見失っていたのだから。

「……先生、ごめんね。それは私が強い訳じゃないの。一人だけじゃ、今のように前なんて向けなかった。教団の皆に沢山言葉を掛けてもらって、気遣ってもらって。それでようやく自分と向き合えただけ……」
「卑下しなくてもいい。そんなのは誰しも当然の事だ」
「え……?」
「人は人との絆を通じて強くなるものだよ。孤独なままでは誰であろうと真の強さを手にする事はできない。だから、この場所でかけがえのない理解者を得られた事、そして彼らの言葉を真摯に受けとめた事、それは君の強さの一部だと誇っても良い」

先生の肯定は、大きな気付きを与えてくれる。
我ながら何とも単純な思考だけれど、先生の言葉が身内に馴染んだ途端、不思議と胸の奥から力が横溢してきた。
「そっか、そうなんだ……。……先生! ありがとう!」
すると先生の楽しそうな声が耳元で鳴る。
「次に会う日がより楽しみになったよ。そろそろ今あたっている任務も終わる。次の土地に向かう前に一度教団へ戻ろう」
「本当!? 待ってるね……!」

先生が教団へ戻ってきたら、鍛錬に付き合って欲しいだとか、イノセンスやアクマとの戦い方に限らず、識っている事をもっと教えて欲しい、などと私は矢継ぎ早に先生に要望を伝えた。
はしゃぎ過ぎて我儘が過ぎただろうかと心配したが、先生は穏やかな語気で私の望みを全て叶えてくれると約束をしてくれたのだった。

]

深更の折を見て地下大聖堂へ向かった。
相変わらず石に囲まれたこの空間は冷えた空気が充満しているが、私は温かな燭台の火を抱いているような心地で歩みを進めている。
エマティットの棺は火葬を終えて、もうここにはない。大聖堂に訪れたのは、彼への誓いと祈りを伝える為だ。
足音が響く石畳を進み、正面に掲げられた十字架の前まで行くと、その場で跪く。

「エマティット。貴方に守ってもらったこの命を、決して無駄にはしない。貴方の家族のため、仲間達のため。この戦争を止めるために使うと誓うよ。……だから」

そっと息を吸い込んだ。今度は悔恨と懺悔の為ではなく、彼が安らかになれるよう鎮魂の歌を捧げたい。ただそれだけを願い、手を組み目蓋を落とした。

――『楽園へ。
天使が貴方を導かんことを。
貴方が楽園を前にする時、殉教者達が貴方を守り、聖地に導かんことを。
天使達の輪が貴方を守り、かつて貧しき聖人が永遠に憩うた安息に導かんことを』――

辺りに残響が消え失せて、静謐が再びこの場を支配する。それでも目蓋を伏せて跪いたままでいると、不意に背後から嗚咽を押さえ込んでいるような声が微かに聞こえ、振り返った。
目探しすれば、回廊を支える柱の影、そこへ身を寄せるように佇立する三名の探索班員の姿を認めた。
彼等は各々袖口で雑に目元を擦ったり、手で顔を覆っていたりと、遠目からでも明らかに哭泣している。

私は声を掛けるのはおろか、硬直してしまった。
彼等は昨日、森で私に声を掛けてきた三人組だ。私は彼らにまともに取り合おうとせず、結局ユウに助けられた。剰え、あの三人がユウに言葉でねじ伏せられるのをただ傍観していただけだったのだ。
エマティットの葬儀には姿を見せず、火葬も終えた今更になって何のつもりかと、もはや怒りを通り越して悲しませてしまったのだろうか。
だとしたら、いよいよ私は彼等に何と声を掛けたらいいのか分からない。

立ち上がることも出来ず、彼らを見なかった事にも出来ず、困り果ててしまった。冷や汗さえ額に浮かび始める始末だ。
すると俯いていた内の一人が顔を上げて、雑に腕で顔を拭うと、少々覚束ない足取りでこちらに歩み寄ってきた。
心臓が跳ねた。
そんな私の緊迫など知る由もない後ろの二人も、嗚咽を耐えながらこちらにやってくる。
そして私の目の前までやって来た探索班員の三人は、驚く事に揃って膝をついた。

「本当に、申し訳なかった……」
「何も知らずに。あんなに酷いことを、……俺は」
三人は深く悔やむような声を絞り出した。
烏滸がましいかも知れないが、私は彼らの憤りや悲嘆を理解しているつもりだ。彼らが私に向けた複雑な感情は、私自身も己に向けていたのだから。
……だから、悪いのは私の方だ。私は自分自身への論いを心に受けるのに精一杯で、彼らの声に耳を傾けず、彼らの苦しみを知ろうとしなかった。

「あ、謝らなきゃいけないのは私の方だよ。皆の悲しさや悔しさにに向き合えなくて、……ごめんね……」
すると彼らはみるみる内に既に赤々とした目を更に濡らし、果ては声を上げて泣き崩れてしまった。
その間も何度も何度も嗚咽と混じった謝罪を彼らは懸命に口にしている。
「泣かないで……、本当に皆は何も悪くないんだよ」
そう言いながら背を撫でたり声を掛け続けたりしながら暫くすると、どうにか彼らの気持ちは収まったらしく咽ぶ声は止んだ。
そうすると今度は感謝の言葉をぽつぽつと彼らは零し始める。
私は彼らに謝らせるつもりも感謝を求めるつもりも毛頭ない。そんなに私に気を遣うことはないのだと説得するのには少々骨が折れた。

それにしても、こんな偶然があるとは思わなかった。
教団に戻ってから真夜中の大聖堂に足を運んでいた二日程は、ラビ以外の団員との遭遇はなく、教団内を出歩く人の姿さえもほとんど無かったのだ。

「……あの。ところで、どうして皆はこんな夜更けに大聖堂に……?」
「噂話を聞いたんだ。夜中に大聖堂の聖母が鎮魂歌をうたってるって」
「ぬ……」
思わず私は顔を顰めた。

――噂を怖がって誰も近寄らないから……。だから誰にも会わなかったんだ……。

どうやらラビ以外に私が歌っているのを聞いていた人がいたようだ。それもこの伝わり方を聞く限り、夜更けの怪奇現象として。時間も時間なので怖がらせて当然だ。
噂話を聞いた彼らは、聖母がエマティットを案じているのだと思うと、どうにも居ても立っても居られなくなったらしく、戦々恐々としながらもこの場に来たのだと話してくれた。
そして階段を降り歌声を耳にした時、確と私の姿を確認するまでは本当に聖母像が歌っているのだと思ったそうだ。
ともすれば噂の出所である人には、かなり怖い思いをさせてしまったに違いない。これはこれで反省しなければと心の中で知らぬ誰かに謝った。

「アリス……ちゃんの歌は、不思議だな」
「……えっ。私の歌が?」
「まるで感情が染み込んでくるみたいに……こう、胸の中がフワッと熱くなって、でもすごく穏やかな気持ちになる。はじめは少し怖かったんだけど、本当に聖母が歌ってるんだって信じられるくらい、優しさに包まれてるみたいで、安心する声だった」

途端、私は言いようもなく気恥ずかしくなって俯いた。
まさか褒めてもらえるとは思っていなかった。
それだけではない。彼らがそう感じてくれたのなら、エマティットにも私の気持ちは確かに届いただろう、などという自惚れを芽生えさせた自身が恥ずかしく思えた。

「あいつも、この歌を聴いて安心してくれただろうな」
まさか心が読まれたのかと、目を見張って顔を上げた。
けれど皆は私と言うよりも、まるで遠くの誰かに想いを馳せているかのような面持ちであった。

――私の考えている事が分かった訳じゃなくて、……心から、そう思ってくれたんだ。

「ありがとう。……私も、エマティットが安心してくれたら嬉しい」

それから私は、少しだけ夜更かしして私はエマティットの話を教えてもらった。
エマティットは入団当初からラビが気に入っていたらしく、時間さえ合えば組み手をせがんでいた事、今まで全敗だった事、マルスという名の弟を兎に角可愛がっていて、酒が入るとすぐ弟の話になる事、いつも家族の写真を持ち歩いている事……。
これだけはどうしても燃やせなかったと見せてくれたのは、彼の自室に飾ってあったという、笑顔で弟と並ぶ写真だった。
――この子が、エマティットが守りたい家族。

私はその写真を食い入るように見つめた。彼の遺志を決して忘れないように、そしてこの子も私が守るべきひとりなのだと、確と笑顔の姿を心に刻んだ。

]T

翌日の寝覚めも晴れやかで体が軽かった。相変わらず頬にまで及ぶイノセンスの異常は消えていないが、それほど気落ちはしていない。
そんな事よりも、随分早く目覚めたので科学班室へと赴いた。そこで既に珈琲の支度をするリナリーの手伝いをしようと思ったら、なんと怒られてしまった。
「休む時は休むべし」という理由だ。働いているつもりは無く、ただ純粋に手伝いたかっただけなのだと悄然としていると、珈琲を運ぶくらいなら……と彼女は少しの手伝いを許してくれた。
それからゆっくりと二人で朝食を済ませて、修練場に向かう彼女を見送った。
見学したいからと着いて行こうとしたら「勝手に組み手を始めてそうだから駄目」なのだそうだ。
あまり我儘を言って彼女を困らせたく無かったので、私はその意見を素直に受け止めた。

ならばどうやって休日を過ごそう。というのが廊下を彷徨う私の目下の悩みだ。早く起きてしまったのが仇になった。
科学班や食堂など、行く先々で「単純に自分の好きな事をすれば良い」と皆は言ってくれたが、本を読むか、それとも人気のない場所で歌を口ずさもうか。沈思しながらあてもなく歩いてると、俄に空から声がした。

「よう、王子様!」
「アレスティーナ!……って、あれ? 城門……?」
私が顔を上げるとそこにいたのは門番のアレスティーナだ。見るからに強固な金属の顔を、器用に曲げて笑みを作っている。どうやら思案に傾倒する余り、正門まで来てしまったのだ。
「そんなしけた顔でウロウロしてると、お姫様が心配するぞ」
彼は私とリナリーの他愛無いやりとりを見て以降、時折私達をそう呼ぶ。リナリーは度々恥ずかしがっていたけれど、実の所、私は王子様と呼ばれて少し気分が良いのは秘密だ。
「あ。ちなみに今日は神田は外に来てないぞ」
「そ、そっか……」

答えながら、どうも己の慣習がここまで勝手に足を運んだのだと合点がいった。私は習慣であるユウとの鍛錬を求め、無自覚に森へ向かおうとしていたらしい。
けれど、彼が森へ向かっていなくて安心した。自分の事だから容易に想像出来る。もしもユウが森に居ると知れば、折角の鍛錬をふいにするのは勿体ないと、急いで森の中を駆けて彼を捕まえ、強引に鍛錬に付き合わせただろう。
そして最後にはリナリーに叱られる運命が待っている。
私はその未来を辿る事なく済んだ事に胸を撫で下ろした。

「でも、別の奴が森の方に向かっていったなぁ」
「別の奴?」

……アレスティーナから「少し前に森の方に歩いていった」という人物を聞いて、私は半ば駆け足で森の中を進んだ。
向かうのは大木が栄えて足場の不安定な場所ではなく、さらにその奥。
生い茂る木々が避けるように空白を作るあの場所だ。

小規模の広場のようなその場所の中心、一際立派な大樹、その根元に目を向けると、アレスティーナに聞いた通りの先客がいた。
私は逸る息を整えながら近づいて行く。
徐々に判然となるその姿体は、幹に背を預け、足を伸ばして座り込んでいる。そして間近で見下ろせば隻眼は目蓋を閉ざしていた。
これだけ近付いても無反応という事は、完全に寝入っているとみて間違いない。今日は本を連れていないので、純粋にここには休みに来たのかも知れない。

私は思わず呟きそうになった「ラビ」という声を咽頭の奥へと隠した。
一昨日、ラビも眠れなくて地下聖堂に来たと言っていた。
きっと彼の心労も重いのだろう。故に身体の疲れも取れていないのなら、休息の邪魔をせずに立ち去った方が良い気がする。そんな迷いを抱きながらも、私は我意に負けて隣へと静かに腰を下ろしてしまった。
膝を抱えてなるべく身体を小さく保つ。意味は全くないと分かってはいるものの、それで多少は彼の睡眠の邪魔にならないようにと思った。……なるべく邪魔をしないから、傍にいさせて欲しかった。

――今なら、目が覚めるまで隣にいても、嫌がらないでくれる、かな。

ラビに向けていた視線を空へと向ける。青く遥かな色を眺めながら、暖かな空気に包まれる感覚が心地良い。
頭上で鳴る閑やかな葉擦れに耳を傾け目を閉じた。
すると次第に足の先が溶け出して辺りと交わっていくように、身内で眠気が広がり出す。
緩慢に揺れているような錯覚に身を任せる内に、意識が曖昧になっていった。

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「……アリス!」
耳に届いた声ではたと気がついた。伏していた顔を鈍く上げ、声の方向を見上げると、ラビがそこにいた。面持ちは焦りと不安で染まっている。
「ラビ……」
「何かあったのか」
「……あれ? ここは」
周囲を見回すと、鮮やかな緑が広がっている。虚な意識が少しずつ晴れていく。
「私、寝ちゃってたみたい」
寝起きの気抜けした声を出せば、ラビは「驚かすなよー」と木の幹に背を預けて空を仰ぎ見るようにのけぞった。

「ごめん……寝るつもりはなかったんだけど、あんまりにも気持ちが良くて、つい……」
「わかるわかる。ここ最高の昼寝スポットなんさ。まあ、何もなかったんならいい。寝不足だったんだろ」
「今日はちゃんと眠れた筈なんだけどなぁ」
「まだ本調子じゃないんじゃねぇの? 寄生型は普通に生活してても疲れやすいって聞くぜ」
初めて聞く事実に私は目を丸くした。寄生型は装備型に比べて同調率やイノセンスの能力を大きく引き出せると聞くが、やはり何事にも代償はつきものなのだ。

「それなら体力、もっとつけなきゃね」
「その前に。まずはちゃんと休む事さ」
「うん……。皆にも言われた……。でもね。これでも言われた通り休んでるんだよ?」
「休んでるって。たった一日だろ。動けるからってアリスは気張りすぎなんさ」
「そうかな」
「そうなんです。オレは暇さえありゃ、こうしていたいさぁ」
そう言いながら、ラビは寝足りないと言いたそうに欠伸をしてみせる。
「ラビ、すごく気持ちよさそうに寝てたもんね」
「おう。アリスもこうしてみろよ。何日だって寝てられんぜ」

するとラビは手前の方に座り直して寝転んだ。無邪気な笑顔に誘われて、私も彼の横に移動して短く生えた草の上に背中を預ける。
仰いだ先は木の葉が眩しい陽光を遮ってくれていて、目を閉じれば土と草の柔らかい匂いに包まれる。思わず感嘆をつくように深く息をした。

ラビの言う通り、ただ寝転んだだけで何時間でも、何日でも時を忘れて寝入ってしまいそうだった。
「……本当だね。すごく気持ちがいい」
身を捩って横を向くと、彼は嬉しそうに目を細めた。瑞々しい葉よりも美しく色づく翠玉の隻眼。私は思わずその虹彩に魅入っていた。

けれど、穏やかな表情は唐突に陰り出す。どうしたのかと口を開こうとすると、躊躇いがちにラビは私に手を伸ばしてきた。その手は私の頬の辺りで揺れる。
「…………。ここ、痛むのか?」
どうやら私の頬にかかる髪を指先ではらってくれたようだ。手付きが覚束ない様子だったのは、ガーゼに触れないように気遣っての事だったらしい。
要らない不安を抱かせてしまった。少しの後悔に苦い笑みを浮かべ、緩く首を振って否定する。

「ううん。イノセンスの根……? みたいなのが広がったままなんだけど、見苦しいかと思って貼ってるだけ」
「じゃあ触っても平気?」
「……え? うん。ラビが嫌じゃなければ」

すると布越しにそっと触れられた。指先で撫でているのだろう。その微細でくすぐったい触感はまるで硝子細工の先端を拭う様相を思わせる。
ただ触れられているだけなのに、ひどく安らいだ。
まだ触れていて欲しくて、言葉もないままに私は目を閉じた。

やがて羽先で撫でられるような心地が失せて、次に感じたのは包むような温かさだった。目を開けるのが勿体無いような気がしたので、私は視界を暗くしたまま、頬を覆うそれに掌を添えて確かめる。
悩むまでもなく、それが何なのかはすぐに分かった。
それは私の手よりも随分大きな彼の手で、労わるように温もりを与えてくれている。
今だけは、この手の温もりを捕まえていられる間だけは、……甘えていたい。
ラビは今、どんな表情をしているのか。何を思っているのか。現実を見ないまま、あり得ない空想に酔わせて欲しい。
そんな我儘な思いが表に出てしまわないように、私は名残惜しくもゆっくりと目を開く。
相対する眼差しは、目を閉じる前と変わらず穏やかだった。

「ラビの手、今日は……温かいんだね」
「ん?」
「いつも冷たかった気がする」
「ああ……。多分、いつもは緊張してるからかもな」
「……緊張?」
「図太そうに見えるだろ。でも実は小動物並みに臆病なんさ」
「本当? だけど、小動物には見えないかなぁ」
「駄目か。じゃあ何に例えっかな」
「そうだね……。それなら、すっごく大きな赤狐、とか?」
「なんだそれ」
「狐はね、用心深くて臆病なんだよ。それに頭も良くて温厚で、好奇心も旺盛だから他の動物とも友達になれるんだって」
「一応褒められてるって事でいいんだよな?」
「勿論。とっても可愛いし、私好きだよ。狐」
「それってさ……」

そう言ったきり彼の言葉が途絶えた。
「やっぱ何でもねェ」
と言いながら、ラビは私の頬を優しく撫でた。彼の温度は心地が良い。そんな事を思っていると、指先が何かを探るように頬をなぞる。
その矢庭、ラビは驚いたように起き上がり、私の頬に触れたまま、期待を孕んだような眼差しで言った。

「……アリス。これ取ってもいい?」
「えっ……。……でもいま、本当にその……見た目が……」
綿紗の下、私の皮膚がどうなっているのかを思わず想起した。誰がどう見ても気持ちのいいものではない。人によっては無意識であっても顔をしかめてしまうだろう。
「大丈夫」
自信に満ちた声で告げられ、返答に戸惑った。けれど不思議とラビの笑みを見ていると、底の澱みが浚われるような心持ちになり、そして安心感が横溢する。
意を決してゆっくり頷きを返すと、ラビは慎重に綿紗を剥がしてくれた。それから頬が外気にさらされると同時に彼が「やっぱり」と呟く。

その声音が与えて来たのは安堵だ。綻ぶ彼の表情に、思わず私も期待してしまう。私も起き上がって手元を逡巡させていると、ラビはそっと私の手を取って、手の平を頬に添わせてくれた。
指の腹で自分の頬を撫でてみると、無数に走る根のような隆起は全てなくなり、引っ掛かるものは何もない。
「治ってる……?」
喜びを滲ませラビと目を合わせれば、満面の笑みが返ってきた。
「ありがとう……っ」
「いやいや。別にオレがなんかした訳じゃねぇさ」
彼はそう言ったけれど、何故か私は偶然だとは思えなかった。

念の為にと立ち襟の釦を外し、首元のイノセンスにも触れてみた。こちらも皮膚の異常は触った限りでは無くなっている。
ラビは何故か森の方を向いていたので、見て確認して欲しいとお願いすると、何だか苦い表情を浮かべて薄目でこちらを見てきた。森の方に何か顔を顰めるようなものがあったのだろうか。
けれど、ふと彼は歪めた面持ちを普段通りに戻し、微笑んだ。

「首の方もちゃんと治ってるぜ」
「良かった……」
「……。綺麗だよな」
「うん?」
「アリスのイノセンス。赤い海の色に似てる」
「そんな海、あるの?」
「朝焼けが映った海の色なんだけどさ、橙じゃなくて本当に真っ赤なんだよ。一回だけ、スペインの海辺で見た事があるんだ」

そう言ったラビの眼差しは穏やかに情景を想起しているようだった。
彼の面持ちを見ているだけで、その景色は言葉にはできない美しさなのだろうと分かった。
ラビの記憶に鮮明に残る景色に例えて貰えたのが少し気恥ずかしくて、嬉しかった。
私は血の色のようだと怖れていたのに、リナリーもラビも、このイノセンスを美しいものに例えてくれる。そんな二人の感性こそ美しいのだ。
そしてそんな二人がそばに居てくれるからこそ、私は私を少しずつ受け入れられるのだと思う。だから、もっと私の傍に在る人達のことを知りたいとひとえに願っていた。

「……その景色、私も見てみたいな」
思わず心に抱いた願いが声に漏れていた。
「叶うさ。アリスなら、いつか必ず」

それは、私を肯定する為についてくれた優しい嘘だ。
私は呟きを零してしまってから後悔した。
教団と伯爵との戦いはもう百年も続いている。その中で、多くの人々が家族にさえ会えないまま、その命を終えていった。この戦争が終わらない限り、自分の望む場所になど自由に行ける訳がない。
争いは、規模が大きければ大きいほど、文明が進めば進む程、世界情勢や政治、経済事情が複雑化し、数年程度では終息が困難となる。
その上、私達はこの戦争に身を置く兵士なのだ。前線に立つ兵士には、未来における「必ず」は存在し得ない。
それを分かっていて、ラビは私の我儘を許容してくれたのだ。
それが少しだけ嬉しくて、少しだけ悲しかった。

――その時は、ラビと一緒に朝焼けの海を見たい。

だからこの願いだけは嘘にさせてしまわないように、ゆっくりと胸の奥へと仕舞い込んだ。

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