長編小説 | ナノ



 Petit à petit, l'oiseau fait son nid


T

自室に戻ってから、私は寝台に横たわり、エマティットが救ってくれた意味について考えていた。耽る思惟の最中、ラビが掛けてくれた言葉と、エマティットが最期に残した言葉がもう一度、順に浮かぶ。
……この命は、エマティットに救われる価値なんて無いものだと思っていた。だからせめて身を粉にしてでも誰かに守られなくても済むようになり、僅かでも救われる価値のある人間だったと証明をしなければ、彼の死が無意味になってしまうと、ひたすら必死だった。
けれど、果たして私は強くなれるのか、誰かが命を賭す価値の有る人間になれるのか。
愚直に鍛錬に打ち込むのが正しいのかさえも判断出来なくなり、進むべき道が何処にあるのか、そもそも私は道を見つけられるのかさえ分からなくなった。
何故生き延びたのが私だったのか。死ぬべきは私の方だったのでは、そんな不毛な懊悩がひとえに脳内を蝕んでいた。

けれど今日、積み重なる澱に遮られた視界が晴れるような心地をラビが私に与えてくれたのだ。
エマティットは最後に緩く笑んでいた。泣き出す私を安心させようとするように、とても、とても穏やかに微笑み掛けてくれた。
それなのに私は勝手にその姿を自分の悔恨の情と重ね、まるで苦悶であったかのように記憶の中で改竄し、己を苛むものとして歪ませていた。

――私は。自分が被害者みたいに振る舞って、貴方が教えてくれた事を……貴方の思いを忘れてしまっていたんだ。
「……ごめんね」
――……エマティットに謝るのは、これで最後にしよう。

自身を蔑ろにする事は、救われた命を粗末にして彼の恩を仇で返す事と同じ。ラビが言った通りエマティットが間違っていたと証明しようとする行為に違いない。それならば、いつの日か私は私を許せるように、後悔しない生き方を模索していくべきなのだ。
エマティットの信念、私を励ましてくれた言葉。少しずつ記憶を遡りながら、もう一度この胸の奥に確と刻もうと思う。

――…………それでも、いいかな。

少しの惑いを残した思考だったけれど、終着に辿り着いたと思い込んだ私の脳は、不意に訪れた睡魔に案外呆気なく身体の主導権を譲ろうとしている。眠りに落ちる手前、まるで肯定するように雑に頭を撫でられる感触が伝わる。
そんな錯覚じみた端緒であっても私の情緒は心置き無く穏やかになっていく。身体が寝台に沈む心地に身を任せ、それ以上は何も考える事なく深々と眠りに就いた。

U

目覚めを呼び込んだのは窓から差し込む光だ。昨日まではこの清々しい光に照らされるのが怖かった。私の暗く澱んだものが浮き彫りになるようで、論われているようで。
けれど今日は見違える程に陽光の色は暖かく、まるで微笑み掛けてくれているようにも感じた。窓際の銀の時計も緩い反射光を帯びて私を呼ぶように引き寄せる。
明るみに近付き懐中時計を手に取った。陽の温もりの中、両手で握った遺愛を額に近付ける。
そうすると、更に頭の中の淀みが一つ残らず浚われるようで、これまで止まっていた行動への意欲を横溢させる。

私は教団に帰ってきてからヘブラスカの元へは結局行かず、イノセンスの状態を放置したままだ。明らかに芳しくないであろう事実を知って気落ちするのが怖くて避けていた。まずは自分に与えられた力に向きあわなければならない。
勿論それだけではない。他にも会って話したい人もいれば、昨夜のラビとの約束を成す等々、今日はやりたい事が沢山ある。早起きをしたのもそれを整理する為でもあった。

科学班室、そしてコムイの所へ尋ねるにはまだ時間が早い。この間にまずはラビに笑ってもらう話をどうしようか。そんな引き出しは持っていない癖に、つい彼に心から笑顔になって欲しい感情だけが先行して、自信満々に言ってしまった。
一から人を笑わせられる話を考えるより、見本になる人はいなかっただろうかと記憶を巡ってみた。すると、手の内にあった時計に繋がる鎖が掌から溢れて音を立てた。金属ながら柔らかく耳に触れる音は、母を想起させ、次いでひとつの案に私を案内する。
そうして頭の中に蘇ったのは、まだ屋敷にいた頃のもので、使用人見習いの立場にあった彼女が語ってくれた冗談話だった。
彼女……クロエは、使用人と言うよりもまるで気の置けない友人のように、私達親子に振る舞い寄り添ってくれた人だ。あの家で唯一の味方と言える存在だった。
密かに私と母を会わせてくれたり、こっそり作ったと焼き菓子を振舞ってくれたりと、健気な姿勢を崩さずにてくれた彼女のお陰で、私と母は罪人じみた暮らしの中でも絆を失わずにいられた。

私はクロエの戯けながらも上品な笑顔を思い出しながら、深呼吸を何度か繰り返した。これで今日の準備は万端だ。そう意気込んで、次の目的の場所へ向かうべく部屋の扉を開けた。

早朝の居住層は、まだ周囲が眠りの最中にあるのを注意させる静けさが充満している。
見渡しても人影は見当たらないが不意に吹き抜けの階下から気配を感じて、手摺に胸を預けながら下を覗き込んだ。
判然とはしないが、どうもかなり遠い下方から手摺を足場代わりに人影のらしきものが立っているようだ。
そして瞬きの間に、その人影は此方に向かって飛び上がった。たったの一蹴りで真っ直ぐ此処に降り立つような気がして、妨げにならないよう慌てて一歩身を引いて待ってみる。
すると、空洞から殆ど音も立てずに空を駆けて現れた姿と対面し、眼を見張る。

「……リナリー……?」
蝶が花に止まるように軽やかに手摺の真上に着地した彼女だが、可憐な所作に反して随分と慌てていたらしく、息は切れ、普段は結ばれている艶やかな髪は解けて乱れてしまっていた。
更に目が合った途端、何故か私以上の驚愕を表情に浮かべ、降りようともせずにその場で固まってしまったのだった。誰もいないと思っていた所に私が待ち受けていたので驚かせてしまったのかも知れない。

「おかえり」
「ただ、いま」
寸前のしなやかな動きが嘘のように、リナリーの口の動きはぎこちない。その様子は誤って落ちてしまわないかと少々心配になる程だ。手を差し伸べれば覚束ない動作ながら彼女の手が重なった。
握りは少し強めに、けれど引き寄せるのは軽くと、注意して力を込める。リナリーは特に問題なく廊下へ降りたが、まるで悪夢でも見た直後のような今にも泣き出しそうな顔付きで私を見つめている。

「もしかして、今帰って来たばかり?」
私が問いかけると、緩やかに彼女は首肯する。自意識過剰な憶測に過ぎないが、彼女は教団に到着して直ぐ私の任務の結果を聞き、そして私の元へ駆け付けようとしてこんなにも慌てていたのではないか。けれど、いざ居住層へ向かったら予期せず私と鉢合わせたので困惑しているのでは。いつも私を慮ってくれる彼女だからこそ、そう思えてならない。
もしもそうだとしたら、言葉で説明するよりも分かりやすく尚且つ早く、彼女を安心させたい。
リナリーの頬には戦闘で受けた傷があるらしく治療が施されているが、どこか雑だ。他にも握った手に視線を落とすと、裾から僅かに覗く手首に包帯が覆われているが、それも解け掛けている。
「……まずは治療が先だね。それで少し落ち着いたら、朝ごはん。一緒にどうかな?」

リナリーは頷きながら「うん。一緒に、食べたい」と呟くように言って笑った。しかし、ようやく穏やかになってくれた表情は不意に陰ってしまう。
疑問に感じていると、控えめな素振りでリナリーの指先が伸びてきた。躊躇いがちに私の頬に近づいてきたそれは触れる間際で止まる。
「アリスは? 傷、大丈夫なの……?」
「平気だよ。でも、私も新しく貼り替えてもらいに行こうかな」
今本当の事を伝えては、彼女は安心しきれないだろう。とにかく今は丁重な傷の手当てを施してもらい、何にも憂うことなく気を休めて欲しい。リナリーは固い表情を綻ばせ、私の手を取って診療室に向かおうと歩き出した。

階段に向かって数歩進むが、私は少し強く拳を握ってリナリーを引き止める。すると彼女は振り返り疑問の色を浮かべた。
――リナリーは何も聞かずにいてくれる。……でも。やっぱり何か少しだけでも、私の口から伝えた方が良いんじゃないか。

「リナリー。……あの」
僅かに逡巡しながらも口を開きかけたその折柄、繋いだ手を離したリナリーは、緩慢に両の手を伸ばし私を抱き寄せた。

「帰ってきてくれて、ありがとう」
それは、単に拠点に帰還したに過ぎない人間に送るには勿体無いと思う。それに「ありがとう」だなんて適切な繋ぎではない。けれど、たった一言が包含する彼女の深い慈しみは、私の心を掬い上げて軽くする。私は此処に帰ってきて良かった、命を落とさずこうしてリナリーに会えた今が在って良かったと、そう思わせてくれる言葉が、ひとえに嬉しかった。
口を開けば思いが溢れてしまいそうで、返事の代わりに彼女にしがみついて、肩口に顔を寄せて頷いた。

V

医務室に行くと、私達がやって来たのを見つけた一人が大きく声をあげた。
「あ! アリスちゃんおはよう! それにリナリーちゃん、おかえりなさい!」
すると途端にそれぞれ散らばっていた人々が各々嬉しそうな表情で集まってきて、挨拶を早々にあれよあれよという間にリナリーは傷の手当て、私は頬の綿紗を手早く取り替えられた。
私は特に怪我を負っているのではないので、新しいものに取り替えただけで直ぐに事が済んだ。リナリーの怪我の手当を少し遠巻きに見守っている内に隣に人がやってきたので顔を向ける。傍にいたのはロザリア婦長であった。彼女は厳格そうな普段の面持ちを少し柔らかにしている。そんな気がした。
「大分顔色が良くなってきたわね」
「うん。昨日の夜、よく眠れたからかも」
「頬の様子はどう?」
「特に痛みはないけど、今日ヘブラスカに見てもらおうと思ってて……」

温和な雰囲気を伴う会話にも関わらず、少し私は居た堪れなさを感じていた。
任務から帰って来て早々、私は自分の頬に広がる違和が余りにも見苦しいので、医務室に訪れ用品を貰えないかと頼んだ。そこで丁度対応してくれたのが婦長だったのだが、私は自分でやるつもりだと主張したが、彼女に押し負けて他の擦り傷の治療と共に頬に綿紗を貼って貰った。けれどその間、私は無言でまた彼女も無言だった。
あの異様な頬の状態を普通は見過ごせる筈がない。一体どうしたのかと問われるのは必至だろう。それを恐れていた私は、あろうことか「どうか何も聞かないで欲しい。誰とも話をしたくない」とずっと心の中で考えていた。
きっと婦長はそれを察知してくれたので終始何も聞かず、部屋へ戻る私にただ一言優しい声で「お休みなさい」と見送ってくれた。
その気遣いさえもあの日の私は理解出来ていなかった。だから今の今まで、事情さえ何も報告出来ずにいるのが現状だ。
しかしロザリア婦長はあの夜の事を蒸し返すような素振りは全くない。果たして何か伝えるべきか。それとも今更話されても返って気を遣わせるだろうかと、またしてもリナリーの時と同じく逡巡していた。

「あ、の。……任務から返って来た夜、何も話せなくて、ごめんね」
恐々としながら見上げる、すると婦長は驚いたように目を開き、直ぐに緩く細めた。
「そんな事、気にしなくても良いのよ」
「でも、助けて貰ったのに、私。事情も言わないままで」
「……医療では体に負った傷はある程度治せても、心までは癒せないわ。戦場の恐ろしさや苦しさを経験していない私達は、兵士である貴方達とそれを共感したり分かち合うことが出来ないけれど、それは十分皆理解しているつもりよ」
不意に婦長は私から視線を外して、部屋の外に向けた。しかしすぐに私へ眼差しを戻す。

「だからこそ、こうして元気になった姿を見せてもらえれば、それだけで本当に嬉しいの」
後援として教団に常駐している皆は、笑顔で私達を送り届け、笑顔で私達を出迎えてくれる。けれど、その裏にはきっと寂しさやもどかしさに苦しむ姿があるのだと悟った。
今回の私のように、戦場で仲間を失って意気消沈する団員を目にしても、安易に言葉をかけられず手をこまねくしか出来ない悲しさと闘っているのだ。
何も聞かずにいてくれたのは、私に対する尊重でもありながら、完全には理解しきれない立場における弊害との板挟み故だったのだろう。
婦長達だけではなくコムイや科学班の皆も同じだったのかも知れない。けれど愚かにも私は自分の事だけしか見えていなかった。しかし、何かが手遅れになってしまう前に彼女達の抱える心情を知ることができて良かったと思う。

「ありがとう。心配かけてごめんね。……でも、もう大丈夫だからね」
解れる頬のままに、けれど少し言葉尻の語気を強めて伝えると、婦長の普段は下がり気味の口の端が僅かに持ち上がった。そんな風に私には見えた。

W

医務室を出た後は修練場に立ち寄りつつ階下に向かい、正面玄関でリナリーと一度別れた。彼女は急ぐあまり荷物を丸ごと科学班室に置いてきてしまっていたらしいので、整理や身支度を済ませてから食堂に集合しようと伝えて、私は森に向かった。
理由は一つしかない。この時間ならまだユウが森で鍛錬をしているはずだ。彼に会ったらまずは礼と不甲斐ない手合わせの相手をさせた事を謝りたい。

いつもの場所へ向かえば、鍛錬に打ち込む彼の姿がそこに在った。相変わらず太刀捌きは鋭く神速に閃く。ユウの死角に落ちようとする木の葉が六幻の切先に両断された。
その集中が一旦小休止する間を狙って、気配を読まれる領域に踏み込んだ。

「ユウ」
目が合うや否や、私が近付いて謝るより先に口を開き言い放ったのは彼だった。
「一本でも腑抜けた太刀筋を見せたら、お前の相手は二度としない」
ユウが求めているのは感謝でも謝罪でもなく、彼の前に再び姿を現すに相応しい気概を携えているかどうかなのだろう。
実に彼らしい。思わず緊張の空気に纏われているのを忘れ、与えられた機会にどこまで自分の限界を込められるかを揚々と考え出していた。
これ以上言葉を交わす必要はないだろう。私は深く頷くとユウに歩み寄って竹刀を渡した。間合いを取り剣を構えて肩の力を適度に抜きながら、相対する鋭い双眸を見据える。

……かくして結果はというと、結局普段通りの惨敗だった。
それだけではない。私はいつにも増して息が上がり体力も早々に尽きた。挙句ユウがまだ立ち去っていないのに足元に力を込めていられず倒れ込んでしまった。
情けない。けれど、竹刀も持っていなかった彼に呆気なく負けたあの日に比べたら。それどころか普段以上に満足できる立ち回りで剣を交えた気で、清々しい疲労を全身で感じていた。
呼吸の乱れもなければ汗一つかいていない彼は、寝転がる私に近づくと淡々と見下ろした。私は息を整えながらその瞳を正視していると、竹刀の先で額を小突かれた。
「体力付けろ、ひ弱」と吐き捨ててユウは歩き去っていったのだった。

遠ざかる足音を聞きながら、高い梢でゆらゆらと揺れる葉を見つめる。隙間から覗く空が眩しくなり始めた。
身体はいつになく重たいし、心も決して軽くなどなっていない。けれど、誰かの死を、どうやって心の内に抱えて進めばいいのか、それがほんの少しだけ分かったような気がする。
行動する度、誰かと言葉を交わす度、狭苦しかった自身の内の世界が広く大きくなっていく心地が何だか楽しい。

X

食堂へやって来て入口付近でリナリーを待っていると、唐突に激しい足音が聞こえてきて、名を呼ばれて振り返った途端に叫び声と共に視界が何かに塞がれた。
どうやら私を呼んだのはジェリーで、振り向いた途端に彼女の胸にそれはもう確と抱かれたらしい。
頭の上から涙ぐんだ声で「あんたまたずっと何にも食べてないんでしょ!」と怒りと訴えの狭間の語気でジェリーは私へと語り掛けてている。
せめて「ごめんね」とだけでも伝えたいのだが、あまりに彼女が強く私を抱きしめているので正直な所、私は声を発する以前に息すら出来ていない。
次いでに大分感情的になっているが故に彼女は気付いていないようだが、抱きしめたままに私を軽く持ち上げてしまっている。その為私は地に足が付いておらず踏ん張りが効かない状態だ。更には腕ごとしっかり包まれている為、何かしら応えたくとも身動きが取れず意思表示が出来ない。試しに足を軽く動かしてみたが空中で揺れるだけで全く意味を成さなかった。

すると唐突に、ジェリーが涙ながらに語りかけてくる声を制止する二つの声が聞こえてきた。
「うわっ、何してるんさ! それアリス窒息すんぞ!」
「ジェリー落ち着いて!」
投げ掛けられたラビとリナリーの声がきっかけでジェリーの腕の力が抜ける。そしてやっと丁重に地面に下ろしてもらえたのだった。
「あらやだ、ごめんなさい! アリスしっかりして!」
「ふ、う……だ、大丈夫」

無事解放されたものの、ジェリーは二度目の食事放棄に対してかなり立腹していた。しかしラビとリナリーが上手く味方をしてくれたお陰で、朝昼晩とジェリーの特製滋養料理を残さず食べることで許しを得られたのだった。

その後、丁度ラビもこれから朝食を摂るのだと聞き、リナリーが率先して彼の同席を提案し、食事を共にする事になった。どうやら彼女は継続して私とラビの仲直りに協力しようと気を回してくれているらしかった。
朝方より打って変わってやる気十分といったリナリーの様子は、一生懸命になってくれるしおらしさが相まって微笑ましく思う。三人で言葉を交わす中でふとそんな事を考えながら隣の彼女を見つめていると、不意に向かいに座るラビと視線がぶつかった。
ただそれだけの取るに足らない現象に、一瞬だけ鼓動が跳ねてそれから胸の奥が焦っているように揺れ出した。その理由が良く分からずに疑問を抱きながら胸に手を当てた時、ラビが何かを思い出したかのように小さく声を上げた。

「アリス。昨日の話、覚えてる?」
きっと「面白い事を考えておく」という約束の事だろう。その話題にいつ踏み出すかは実の所無計画だったので、彼の方から切り出してくれたのは幸いだった。まだ料理が出来上がるまで時間もありそうなので、今が披露する絶好の時という事だ。
「勿論!」
得意を満面に出して答えた私は、ラビに面白い話を聞いてもらう約束をしていて、折角なので是非リナリーにも聞いて欲しいと伝え、二人を観客として小話を披露する運びとなった。
クロエが私と母に聞かせてくれたのは大笑いするようなものではなくて、思わずくすりと来てしまう、初回としては長さも内容も丁度いい話だ。
私はクロエが見せてくれたように言葉に詰まることなく、且つ身振りと声調は軽快でさりげなく滑稽を表現できるように努めた。内容は船が難破しとある無人島に流れ着いた船長と乗組員達、そしてそこで出会った仙人然とした老人との会話だ。立ち上がって其々の登場人物になりきり完璧に話しきった。

……しかし盛大に空振った。
ラビとリナリーは笑うどころか二人揃って面食らったように私を見つめている。その表情は言葉にせずとも「つまりどういうこと?」という疑問が頭の中を占拠して反応が出来ずにいるのだと分かった。
私はそそくさと椅子の端に膝を抱えて座り、言葉にし難い恥ずかしさを身体と共に縮こめたのだった。

「あ……、ああ、そうだ。ほら、今のってオレらにも分かるように英語で話してくれただろ? だからさ、な……?」
「そ、そうね! きっと自国の言葉じゃないと韻とか、そういうのを生かせないから、ええと……テンポが、ね?」
「それそれ、だから同郷のヤツだったら絶対通じてたよな!」
「う、うん! 絶対そうよ!」
あからさまに気を遣われている。
しかもラビに至っては半分声が笑っている。確かに笑って欲しいという願いは偽りのないものであったが、出来れば自身の羞恥と引き換えにしない方法が良かった。
伏せた顔を横に向けて半目がちに二人を見遣ると、リナリーは私が相当挫けているのだと心配そうにしているが、ラビは目が合った瞬間小さく息を吐いて口元を抑えながら顔を逸らした。明らかに肩が震えている。
「……クロエ、ごめん。私の話術じゃ誰も笑わせられなかったよ」と内心で知らぬ場所で巻き添えを食っている彼女へ謝った。

けれど、こんな風に彼が笑いを堪える姿は初めて見た。本当はもっと憚る事なく笑いたいのだろうが、私が拗ねているので表に出さないようにしてくれている。理想としていた形とは少し違ってしまったけれど、自分の行動が端緒となって彼の心からの笑みを引き出せたのだとしたら。そんな自己満足に頬が緩みそうになって顔を下に向けて落ち込む振りをした。

そんな取るに足らない交流をしている内に、ジェリーが私達の食事を運んできた。そこでおまけとして初めて見る焼き菓子を付けてくれたので、我ながら単純だが忽ち私の関心はそちらに引き寄せられたのであった。
「何かあったの?」とジェリーが慮ってくれるのに対し、私はすっかり機嫌が回復したので大した事じゃないと笑って返したものの「ジェリーにもあれ見せてやったら?」と、ラビが話を振って来たので、ならば今度こそと気持ちを新たにジェリーにも同じ話を披露した。
そして見事に場がしらけた。

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