長編小説 | ナノ



 In Paradisum


]V

「あのね。私、ラビに嫌われてるんだって思ってた」
「なんで」
おもむろに告げられた一言に、全く持って得心がいかない。言い終えると即刻疑問を投げれば、彼女は遠くを眺めるように視線を巨大な十字架の方へ向けた。

「あまり私と話したくなさそうだからだよ。私が役立たずだから、うんざりしてるんだろうって」
「なっ……。オレ、一回もそんな事言ってねぇよ!」
それどころか僅かにも思考を過った事すらないのに、そんな勘違いをされていたなんて最早自分にとっては冤罪だと形容してもいいくらいだ。
訴えの心境が先行して意図せず語気が荒くなってしまった。
こちらへと戻ってきた視線の元は、大きく開いて驚きの色に染まっている。
怯えさせてしまっただろうかと慌てて謝ろうとするが、それよりも先に彼女が唱えたのは異論であった。

「言ってないけど、笑っても嘘の笑顔ばかりだから……!」
「それは、アリスが無理して笑うから」
「違うよ、ラビが嫌そうな顔してるから」
二人揃って譲り合えなさそうな、言い訳がましく似通った主張だ。
間違いなく議論しても不毛だと確信して、口を開いたまま止まる。アリスも同じように思ったのか、居た堪れなさそうに閉口した。

「……。ここはお互いすれ違ってたってことで、仲直りしませんか」
沈黙を破って互いの妥協策を提案しながら手を差し出した。アリスは明るい賛同をその気色に露わにし、一切の躊躇いもなくオレの手を握った。
「うん。ごめんね」
まるで、向けられる微笑みの色が温度として手の平に伝ってくるようで、言いようもなく穏やかな感情で胸懐が満たされる。
「話してくれてありがと」
「んん……?」
途端、何故かオレをじっと見つめて、彼女はまた口唇を不満に形取った。

「……なんか、ちょっと……ラビずるい」
「えー。なにがさ?」
幼気なむくれ顔をするアリスに、とぼけた声で笑顔を返す。
「ずるい」と言った彼女の真意と、オレの想像する意味とはきっと異なるのだろうが、けれども言う通りだと思う。
オレは欺瞞の笑みの裏にある重大な理由を隠したまま、彼女の本音だけを暴いた。
聖人ぶって教えを説くような口振りで、人として正しいと理解していても、記録者として抱く事は許されない信念をアリスに押し付けているだけだ。

「……。ごめん」
「え? う、ううん……?」
罪悪感を小さく溢せば、アリスは相槌を打ちながらも不思議そうに小首を傾げる。
六年振りだからだろう。胸の開き方の加減が上手く制御出来ない。これ以上二人きりでいれば、いよいよ伝えてはならない事まで全て吐露してしまいそうだ。もう切り上げた方がいいだろう。

「じゃ、そろそろ休めよ! はいもう今日はおやすみ」
言いながら先に腰を上げるとまだ目を瞬かせているアリスも立ち上がるように促した。彼女の背中を軽く押しながら数歩進ませて出入り口に向かわせる。
「ら、ラビは?」
一度立ち止まって振り返るアリスの眉尻は慮ってくれているのか下がりがちだ。オレはゆっくりと視線を棺に向かわせながら答えた。
「あと少しだけしたら戻るから、平気さ」
そうして視線を再び心許無げな瞳に戻せば、二、三秒の沈黙の後に彼女の頷きが返ってきた。
「分かった……。ちゃんと休んでね」
優しげな声音への返事に、軽く手を上げる。微笑を浮かべた彼女は進む方向に向き直ると、素直に聖堂を出て行った。

]W

「怒ってるよな。気づくのが遅過ぎるって」
間違いなく足音が上階へ登っていったのを聞き届け、棺の間近に腰を下ろすと向き直って呟いた。
もっと早く自分が吹っ切れて決断出来ていれば、エマティットの死は回避出来たかも知れない。彼は具にそれを諭そうとしてくれていたのに。その思いに応えることが出来ずに彼を失ってしまった。アリスの後悔は僅かでも薄らいだかも知れないが、深い反省の念は簡単には消えそうにない。
けれども、自分はその後悔を背負ったまま進み行く事にはもう慣れた。問題はない。

「ばかだなぁ。怒る訳ないでしょ」

予期せぬ声に、咄嗟に立ち上がって周囲を検めた。
二階の欄干に人影はない。誰かが近くにいるのではなさそうだ。だからといって声の出所は棺でもない。念の為に近付いて屈んでみてもその中に生きた人間が入っている気配は全くない。しかし確かに声が聞こえた。幻聴ではない……筈だ。

「あれ。俺の声、聞こえてるの?」
再び声が限りなく傍で聞こえた。オレは一体どこに目を向けたらいいか考えあぐねて、半ば呆然としながら頷いた。
「へえ……、不思議な事もあるもんだなぁ」

――……エマティット……。いやまさか。そんな事、あり得ない。

「それよりも……まあ見せ付けてくれるよね。あれじゃなんか居辛いじゃん」
安堵したような、楽しそうな、若干呆れているような、そんな声調だ。声質や話し方の特徴もエマティットそのもので、思わず自分の聴覚か、はたまた脳の錯覚を疑う。
「……後悔はしてないけど、心配だったんだ。でも、ラビのお陰でほんのちょっとは安心できそうかな。ありがとね」
緩い笑いを含めてエマティットらしき声は言う。しかしオレの情緒は混乱からまだ抜け出せない。
「正直俺も信じられないけど、夢じゃないよ」
「本当に、エマティット、なのか……?」
「うん、間違いないよ。……ラビのそういう顔、初めて見た。鍛錬でその顔させられたら最高だったのになぁ」

エマティットの上達振りならば、いつか手合わせの中で意表を突かれる日が来るだろう。そう返したかった。けれども、いつかやって来る筈だった未来は絶対に訪れない。
エマティットの笑いを内包したその一言は、本人は冗談で言っているのだと理解していても返す言葉が見当たらない。
やはり、このやりとりは自身の悔恨が生んだ虚構なんだ。気付かない内にこんな妄想と会話したいと思うまで精神的に疲弊していたか、と己の情けなさに嘲笑しながら視線を落とした。

「ちなみに、俺がいるのそっちじゃなくて後ろだよ」
言われてつい反射的に振り返ったが、当然そこには何もない。
「う、そ」
次いで聞こえて来たのは心底楽しそうな笑い声。

――…………騙された。
「……おっまえなぁ……!」
「ごめんごめん、怒んないでよ」

人が真剣に考えてんのに。と呆れて溜息をついた瞬間。ふと、何気ない日常を取り戻したようなこの戯れ合いに内在した、優しさに気付いた。
もしもこれがオレの脳が生み出した虚構だとしたら、こんな風に気を遣った意表をついて来るだろうか。
語りかける声の正体を考えれば考える程、これは紛う事なくエマティットのものだという結論を思考が示す。
どんな力が働いたのか。それが誰に寄るものなのか。その回答は未だ未知だが、間近で起こっている不可思議な現象は間違いなく現実だということだけは受け入れる他なかった。

「さてと。仲直りを見届けたし、もう行くよ」
「行くって、アリスの所に?」
「いや。折角立ち直ったのに俺の声や姿が見えでもしたら、今のアリスちゃんには返って枷になっちゃいそうだからね」
「そうか。……よく分かってんだな」
「なになに妬いてんの?」
姿が見えないのにも関わらず、目を細めて小突いてくる姿が容易に想像出来る。
和やかなやりとりを噛み締めながらも、揶揄いの問いに対して「違う」と言い返すべく口を開いた時、それよりも早くエマティットの声が静謐に広がった。

「ラビ」
静かに呟かれたその声はやけに耳元へ重く落ちる。合わせて息と共に出掛かった反論も喉の奥に引き返す。

「どうか、最後まで生きていて」
……それはきっと、オレやアリスだけではなく今生き残っている仲間たちへ向けての、何よりも強い願いなのだろう。オレは口を閉じたまま、空間に溶け入るその声を身内に落とし込むように首肯する。
もうエマティットの声が間近で聞こえる事は無かったが、オレは暫くどこを眺めるでもなくその場に佇立していた。

]X

最後の会話を交わせた満足感の余韻故か、階段を上りながら、気持ちも共に高く浮上しつつある。
我ながら単純だとは思うが、今頭の中を占めるのは明日からどうやって彼女に接していくか、という前向きな模索だ。

アリスはその境遇故に人より自身の価値を過小評価しがちだ。他者にはそんな評価を向けない癖に、己だけは人の役に立つかどうかで判断してしまう。典型的な自己犠牲のきらいがある。
まずはその身を大切にさせることが先決だと思う。きっとそうすれば、イノセンスの扱いにも自分にも自信が持てるんじゃないか。
アリスは幼い頃から性根は少しも変わっていない。その優しさも真面目さもあの頃のままだ。だから時間が掛かったとしても必ず理解してくれる。ほんの僅かな足掛かりさえあれば、かつて自ずから変われた日のように自分自身を愛し、受容出来る。それはこの戦争を生き抜く為にも必要な力だ。
そうしてもしも。もしも無事に終戦を迎えられたのなら、今度こそ平穏な日常に生涯を置くことが出来るに違いない。

だが不意に、高まる未来への期待を叩き落とすように、反転した脳内の声が反響した。
「この記録地から離れるまでは、自分が彼女を支えるだなんて、どこまでも自分に甘く都合が良い。一過性に過ぎない慰めに対する良く出来た言い訳だな。仲を深めるだけ深めて、時期が来れば捨てるように置いて行ってしまう癖に」と。
つまり彼女の幸せの為などではなく、自分の恋慕を優先して彼女の傍にいたいが為の釈明だろう、と身内はオレを論っている。

――そんな利己的な行動を、果たして彼女は理解し受け入れてくれるのか? 余計に傷つけるだけじゃないのか。

追撃の如く谺する自身の異議に返す。

――だからって、これ以上アリスが苦しんで救いを求める姿を見過ごす事ほどの愚行はない。

彼女の沈んだ心に寄り添うのが正しいと分かっていながら、いずれ誰かが彼女を救ってくれるだろうという他人任せが正しいだなんて、もう思わない。
オレの心の置き場所である彼女と再び出会ってしまったあの日から、この想いから逃れることなど出来なかった。

――だから、今はこれがオレにとって最も正しい選択なんだ。

エマティットの死を後悔から断ち切る為にも、時が許すまでアリスを傍で支えようともう一度胸中で誓う。
いつか再び訪れる別れは彼女の心をどう動かすのか。それは自分の脳内でどれだけ予想しても、彼女自身にしか出せない答えだ。
結果、例え嫌われようと拒絶されようと、自分はこれからの行動に責任を持つだけだ。
「思い上がるな、後継者としての正しさを優先しろ」と糾弾する内心を振り切るように階段を登り続けた。

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