長編小説 | ナノ



 In Paradisum


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夜が更けても眠りには就けない。きっと彼女もそうなのだろう。無意味に寝そべるだけのベッドから静かに降り、部屋を出た。
向かう先は昨晩と同じだ。長く暗い階段を一つ一つ降りていった。
暗闇へ下る足元の感覚は重く、何度か立ち止まり引き返してしまいそうになるけれども、今日も奏でられているであろう静寂の底の音と小さな背中を想起しながら、前進を拒む身内の声を無視し、足を動かしていく。

冷たい棺に寄り添い、誰にも胸の内を明かさずに悲しい歌を空虚に捧げる姿が、きっとこの底に在る。
人前で涙を流すことは、彼女にとっては弱さの自白なのだろう。だから倒れ込んでしまわないよう、渦に飲み込まれないよう、必死に一人きりであらがい踏み止まろうとしているのだと思う。
しかし意思に反して後悔や悲しみはただ募っていく。思い通りに心は切り替わらない。
……在りし日のように。
喪失の悔恨に限らず、いつまでも立ち直れず頽れたままの心の弱さを謝り続けているのではないだろうか。

あまり大きな音を立てないよう歩みを進め、長い階段を下り終えた。二階の回廊を支える支柱の隊列を抜けて奥へ進むと、相変わらず仄暗く寂寞とした広間が出迎えた。
何本も並ぶ巨大な蝋燭が暖色の光を周囲に照らしているが、此処はいつも寒々とした空気で満たされている。人もおらず、真夜中であるのも手伝っているのか昼間よりも更に底冷えが険しい。そんな空間では、淡く温かに色付いた聖母像の微笑さえも、酷く悲しみに暮れて翳っているようだった。

入り口で立ち止まって、それ以上は足を踏み入れずに死者を送る間を見通した。
広間の際奥で、壁に掲げられた十字架の下ただ一つだけ安置された棺と、傍に跪き細々と歌う彼女の背が、昨日と同じようにそこに在った。
高く広い空間で静かに反響する旋律は柔らかく透き通っているのに、泣き声のように悲痛だ。

「Que le chœur des anges te reçoive,
et qu'avec Lazare, le pauvre de jadis,
tu jouisses du repos éternel」

そのあえかな歌声は誰にも伝わることなく硬く冷たい壁に寂しく吸い込まれていく。歌声に滲む押し殺された思いも、誰にも届かず知られないまま消えてしまうのを表している。
アリスは全くこちらには気付いていないようだ。
オレはいよいよ一歩を踏み出して寂寞の景色の内に入った。それから少しずつ歩みを進めていく。

途中、静々と音が止みアリスは棺に向き合った。合わせて自分の足も止める。
無機質な箱に手を添えた彼女は、まるで病床に伏す人間を労わるかのように頭を垂れた。残響の余韻が消え、やがて聞こえてきたのは小さく苦しげな咽びだ。
その姿は懺悔や後悔、悲壮でも無く、ただ必死に「助けて」と、訴えかけているようだった。
微かな呻吟を耳にする内、破裂しそうな情緒は彼女へ向かって駆け寄らせようと、この体を突き動かそうとしたが、足元に力を込めてどうにか押し止める。

――オレまで感情的になってどうすんだ。

今すぐ地面を蹴りたい昂りを長い呼吸で落ち着かせ、出来る限りゆっくりと、最小限の靴音で近づいていった。
あと三歩の所まで近付いたが、アリスはまだこちらに気付かない。微かだった声が、次第にはっきりと聞こえてくる。「ごめんね」と。何度も何度も悔いる言葉が細々と紡がれていた。

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「アリス」
すると彼女はぴたりと息を止めたように静止し、項垂れたまま恐る恐るといった動作で振り向いた。
伏した顔と目線が躊躇いがちに上昇する。
その濡れた眼差しと漸く向き合った時、彼女は息を飲んだように口元をきつく閉ざして目を見開く。
随分と涙を流していたのだろう。酷く赤らんだ下瞼の淵から留めきれない雫が小刻みに光を震わせ、乾ききっていない頬の軌跡を辿って滑り落ちた。
その涙は、幾度となく見てきたあの色に淀んでいると思った。彼女の涙をここまで濁らせたのは、こうなるまで放置していたのは誰のせいだ。そんな自責に思わず表情を歪めてしまいそうになる。

すぐさま彼女はこちらに背を向けて小さく手元を動かした。本人は隠しているつもりのようだが、頬と目に残った涙を掬い取っているのが分かる。
涙を拭い終えたらしい彼女は、向きはそのままに声だけを投げ掛けてきた。

「…………。どうしたの。……眠れ、ないの?」
「そんなところ。ウロウロしてたら歌が聞こえたからさ」
「ごめんね、うるさくしちゃって……」
「全然。耳を澄ましてたら聴こえてきたんさ。だから聖母が歌ってんのかと思って、見に来た」
「せいぼ?」
振り向いたアリスの目は、まるで初めて言葉を知ったかのように丸く大きく、オレを真っ直ぐに見上げる。
「そ。聖母様」
聖堂の聖母像を見上げて示した。いつの間にか視線の先の微笑は先程までの陰鬱な笑みではなく、あの町の教会にあった色硝子の聖母の微笑によく似た円やかで慈悲深い笑みに移り変わっていた。

「……その人が本当にいるなら。きっと、私なんかよりずっと綺麗で、素敵な歌声をしているよ」
アリスは緩く首を振りながら不完全な笑みを浮かべ、再び棺の方へ顔を向けてしまう。
真横まで近寄って腰を下ろすも、彼女は顔を背けたまま不可視の壁で分とうとする。
再び聖母像を仰ぎ見た。

「今のって、汽車の外でうたってた歌だよな」
「……。うん。やっぱりあの日、側に居てくれてたんだね」
「アリスが……自分を責めてそうだったから」

目を向けても、返答も眼差しも返ってはこない。それでも言葉を続けた。
「今日も夜が明けるまで、泣きながら謝り続けるつもりだったのか」

すると彼女はそれだけは否定したかったのか、何かを言いたそうな面持ちでようやく此方を向いた。
先程急いで拭った所為だろう。もう目の淵の雫は残っていないものの、長い睫毛にひとつだけ、涙の粒が鈍く灯りを取り込み輝いていた。
アリスは気付いていない様子で、泣いていない、違う、と訴える目付きで否定の視線を外そうとはしない。
指先を彼女の目元に向かって伸ばすと、一瞬その身が強張って小さく震える。けれども避けも振り払いもせず、瞳も真っ直ぐのままだ。
人差し指が赤らむ眦に触れる瞬間、反射で彼女の瞼が落ちてきた。すると涙の粒は静かに爪の先に乗った。
ゆっくり遠ざけながらそれを見遣ると、アリスはばつが悪そうに視線を床に落とす。

「感謝されるどころか“ごめん“ばっかりじゃ、あいつが間違ってたみてェさ」
途端、彼女はすぐに顔を上げた。
「違う……! エマティットは間違ってない! 私は、本当は」
声を荒げて訴えるアリスだったが、言いかけて一旦口を噤むと瞳を逡巡させた。黙ったまま続く言葉を待っていると、まるで重罪を口にしているかのように躊躇う声で続ける。
「……許されるのなら……ありがとうって、伝えたい」
「誰がアリスの事、許さないって?」
答えずにアリスは俯く。誰も彼女の純粋な思いを否定できるはずがない。それを許せないのは彼女自身なのだろう。

「どうして許せないんさ?」
少し体を屈めて覗き込みながら問い掛けると、伏した睫毛を持ち上げた彼女は言葉を紡ぐ。
「弱くて、役立たず、だから」
「じゃあ、強くなって誰かの役に立てたら、許してやれるな。そしたら、一番言いたい言葉を伝えられるだろ」
「そう、かも知れないけど。でもそんな単純な事じゃ…………」

言い終えない内に、はたとした表情でアリスは押し黙る。そのまま口を閉ざし、彼女はオレの目を見た。向けられた視線は僅かな揺れもなく、逸れる気配もない。
彼女が訴える沈黙の先は読めないが、視線を交える内に何故かふと想起したのは、エマティットとの鍛錬での会話だった。
……きっと、あいつならアリスにこう伝えたいと考えるのではないだろうか。
あの時は思う所はあれど話半分に聞き流したつもりだったが、声の抑揚も表情も鮮明に思い浮かんでくる。迷いなく堂々とした仕草の彼の顔を思い出せば出すほど口に出さずにはいられなかった。

「あんまり付き合いが長い訳じゃなかったけど――
「……エマティットは、少しも後悔なんてしてないと思うんだ」
口にした途端、もしも本人がここにいたのなら「そうそう、その通りだよ」と笑うような気がして、オレは思わず頬を緩めていた。
「だから。エマティットの遺志を汲むのなら、あいつが命懸けでアリスを守ったその意味を考えてやって欲しい」

はっきり答えを提示するのは簡単だが、アリスにはその必要はないと思う。少しだけきっかけがあれば、彼女は自身の力で答えを導き出す力を持っている。すぐには気持ちの整理はつかないかも知れないけれども。でもオレはアリスを信じている。だからせめて寄り添っていたい。
「その上で、出来ることをゆっくりでも少しずつ……」
願望を奥に潜ませながら語るが、彼女は呆然とした表情で瞼さえ動かさずに静止してしまっている。

「……アリス?」
声を掛けた途端だった。
僅かに大きく開かれたその目の縁に、みるみるうちに涙が広がり出し、手を伸ばして掬う間も無いままいく粒もいく粒も湛えた雫が留まりきれずに落ちていく。
落ちる涙を受け止めるように、遅れてアリスの両手がその面持ちを覆って隠したが、抑えられない感情が表情を歪めている事だけはその所作が十分なまでに物語っている。遂に小さな肩が哭泣を耐える声と共に震え出す。
オレの言葉が原因に違いないのだが、何がアリスを悲しませてしまったのかが分からずに混乱した。

「え!? なんで……、いや、ご、ごめん悪かった!」
他になんと声を掛けたらいいのか判断できず、その上咄嗟に抱き寄せそうになって彼女に伸びる両手を引っ込めた。情けないが何も出来ずに慌てふためくしか出来ない。
「ちがう、違うの……。ごめんね、私が悪いだけ、だから」
彼女は必死に嗚咽を抑えながら声を振り絞って答えた。その姿に、かつて自分を愛せていなかった頃の幼い幻影が重なる。
身内から生まれる感情を外には出そうとしない。強い望みを持ちながら、自分の感情など受け止めてはくれないと諦めようとしていたあの頃と。

幼く純粋な時分のように、自分がアリスを受け止めるだなんて無責任な言葉を伝える事は出来ない。ただ、それでも。これだけは許して欲しい、……これだけしか出来ない自分を許して欲しい、と身内で唱え、彼女に向かって手を伸ばす。
そっと肩に手を添えて軽く引き寄せた。

泣き止まないままだったが、アリスの体は抵抗する事なくこちらに向かって傾いた。そして慎ましやかに額だけを肩口に寄せる。示される許容に安堵した。同時に、こんな薄情にでさえ迷わず凭れ掛かってしまうまで自分を追い詰め憔悴していたのだと胸懐が締め付けられる。
両手で抱き締める事も出来ない身の上でも、彼女の支えになれたらいい。瞼を閉じてアリスが落ち着くまで暫く動かずにいた。

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泣き止み寄り掛かる体を戻しながら、アリスは強張った表情で棺を見つめ「びっくりしたよね、ごめん」と微笑む。どうにもまだ揺らいだ情緒の収まりはついていない様子だ。眦を細めた矢先にまた縁から涙が溢れた。
……この際だ。言いたい事は全て言ってやろうと、これまで抑えていた気持ちに歯止めがつかず、オレはついに溜め込んでいた不満を口走っていた。

「そうやって無理に笑うのナシ」
……思っていた以上に感情が乗ってしまった。明らかに拗ねた言い方で、更に悪い事に気付けば口角まで下がっている始末だ。恐らく出すまいとしていた筈の表情が露わになっているかも知れない。
アリスは驚いたように目を丸くする。そして何故か瞳を濡らしたままに彼女も少し不満気な色を浮かべて言った。
「……じゃあ。ラビも楽しくないのにニコニコするの、ナシだよね?」

返された一言に驚かされた。気付かれているだろうとは察していたものの、まさか彼女からこんなにもはっきりと指摘されるとは微塵も予想していなかったからだ。
痛い反撃を喰らった気分だ。我ながら子供じみていて情けないが、負け惜しみのように遠い天井を仰いでため息をつく。
「そしたらオレ、なーんも笑わなくなっちまうさ」
そう言われたら彼女は返し辛いだろう、そう思いこの会話を途絶えさせたくて誤魔化した。
……折角アリスが心を落ち着けられたばかりなのに、自分から近付いておきながら情緒の揺らぎが危ういと思えば突き放す。全く己の事ながら一体何をしたいのか。彼女を困らせてどうすると、今更に罪悪感が胸中を締め付ける。
彼女の顔を見られない。困ったように瞼を伏せてしまっているだろうか。それとも悲しげにオレを正視しているのだろうか。信頼の失せた光のない眼差しをどこか別の方に向けているだろうか。

「それじゃあ……」
真横から聞こえた声は予想に反して随分朗らかで、つい視線を戻してしまった。すると間髪入れずに視線が交錯する。相対する瞳は、暗い室内が嘘のように錯覚する程燦然としていて、もう逸せない。
「明日、面白いこと考えておくから。私の話、聞いて?」
円やかにアリスは相好を崩した。社交辞令でもなく、本気で言っている眼差しだ。偽りなど無い心からのアリスの願いだと、すぐに分かった。

「これで明日は絶対笑顔になれるよ」
長く瞼の裏で焦がれていたみずみずしい笑顔と、想像を超えてこの心を揺らす言葉。それが目の前にある。
ただそれだけで溢れてはならないものが身内から広がっていく。

「……やっぱオレ、一生笑えねェような気がしてきた」
「む……」
息をつきながらもう一度意地の悪い言葉を投げかけても、アリスには少しも傷ついた様子がない。むしろ子供のように口先を尖らせて見つめ返してくる。
きっと、オレが本気で言っていないと分かっているのだろう。こんなにも中身のない陳腐なやり取りですら、相手が彼女であるだけで多幸感と愛しさを感じる。

――どうしたってこの感情を捨てられる訳なんてない。……許されなくても、それでも、好きだ。

抑えることが出来ないまま、オレは目の前のあえかで幼い表情に笑い掛けていた。すると、アリスはさも嬉しそうに喉を鳴らして嫋やかに頬を綻ばせた。

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