長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus


]]]W

「おかえり」
いつか聞かせて欲しいと切望していた言葉。葉擦れに紛れて聞こえた小さな声が、意識を眠りから引き上げた。
彼女が紡いだその一言は、なるべく思い起こさないようにと身内の奥に押し込めていた追憶の波紋を広げていく。
こうなってはもう遅い。他に意識を向ける間もなくあの頃の情景が憎らしいほど鮮明に瞼の裏に映し出された。

歩き去る音が小さくなるのを待ち、目を開ける。
なるべく彼女と鉢合わせないように、これまで場所と時間を慎重に選んでいた。
ここには一人きりになりたい時によく訪れる。同様にアリスも気に入っているようで頻繁に立ち入るのは知っていた。
だから出会いそうになる度に気付かれずに去るよう気を付けていたのだが、不覚にも長々と寝入ってしまった所為で、彼女が来ていたと気付けなかった。森の中へ消え行く彼女の背を見ながら、深い息をつく。

彼女は六年前に二人で過ごした過去を覚えていない。
再会したばかりの時分は彼女がアクマである可能性を捨て切れなかったので、疑心は半分ずつだった。
けれども「アクマ」という単語を聞かせても隙を見せても襲っては来る気配がなかった。
町中で向けられた既知感のある異様な殺気と、アジュールの存在、ひいては共に行動する内に彼女はアリス本人で間違いないと確信を得た。
そして、六年前と変わらない仕草や表情に懐かしさを感じながらも、次第にそれは自分だけが抱いているのだという確信も肥大していった。

それでも、アリスはオレを過去に出会った少年と同じ人物であると気付いていないだけかも知れない、なんて淡い期待は捨てきれずにいた。
けれども洞窟の泉を初めて見たと言われた時、小さな期待は消え去り、もう彼女の中にはオレの記憶は何も残っていないと認めざるを得なくなった。

正直強い落胆を覚えたが、忘れたと言うよりもそこだけ綺麗に切り取られてしまったかのような限定的な忘却に、次第に違和感が浮かんだ。
とはいえ忘れたふりをしているようには見えず、ふと予覚したのはアクマであったアジュールが関わっているのではという猜疑だった。
最後こそアジュールは暴走しアリスに襲い掛かったが、あいつは自身の目的をアリスをあの町から……あるいは自身の側に留めるのだと言っていた。
それは命令なのか自らの判断なのか。そもそもその為に記憶を操作する意図も不可解なので、アジュールが原因だという確証はない。
それでも彼女の忘却には外的な要因が関わっている気がしてならない。

――理由はどうあれ、忘れてくれて良かったじゃないか。果たせもしない約束と無意味な合言葉を交わし合っておきながら、無理やり町から連れ出し戦場に見捨て行く人間を。……後継者で在る為に狡猾な「オレ」を。誰が好いてくれるんだ?

頭の隅に響く声が、巡り出した思考を遮る。
……黒の教団はオレ達にとって仮宿に過ぎない。そしてイノセンスは監視だ。
ヴァチカンが掲げる神なる存在はイノセンス以外を信じられないらしく、またはいかなる裏切りをも断罪したいのかブックマンですら縛られる。
ただしこの監視は、法皇の承認を得て枢機卿より施された借り物だ。その為深入りしなければ教団を去る際には解かれる保証をされている。
何度聞いても詳細は教えてもらえなかったがブックマンとその後継者は「血の赦し」の許、特別にイノセンスとの適合と解除が認められているらしい。

つまり状況次第では聖戦の決着が着く前に教団を離れる可能性が大いにあるということだ。
その条件は二つ。イノセンスの同調率が九十を超えた場合と、教団側の敗戦が確定だとブックマンが判断した場合だ。
退団の決定が下された時、仮初めの仲間達が……彼女がどのような状態にあったとしても、見捨てなければならない。

また、アリスが過去を思い出せば、今のオレとの差異に酷く幻滅するだろう。
そして果てには約束を破られ傷付く結末が待っている。それなら記憶が無いままの方が、彼女にとっては幸せだ。
諂う笑顔も、深く踏み込まずに済む体裁良い人との付き合い方も、この体に色濃く染み付いている。
他人の目に自分がどう映っているのかを理解してからは、時折この身を襲う愛慕の渇望を人肌で諫める方法も知った。
他人は果たすべき責務のために利用する。六年の歳月でその手段を十分に覚えてしまった。
我ながら軽薄だと思うが、それがブックマン後継者としての自分を保つには必要な術だ。
……二度も。大切な人の記憶から自分が消える運命を課せられたのは、この魂が余程深い業を抱えるが故なのだ。そう割り切る他ない。

「……ただいま」
もう見えない背を遥かに見つめながら、ふと零れる。
言ってしまってから、未だに彼女に縋り付こうとする引き際の悪さに嫌気が差した。
しかし風は許容するかのように、緩やかに頬を撫でて吹き抜けて行く。
――それなら、せめて言葉だけでも。
そんな愚かな感傷に浸りながら、再び目を閉じた。

]]]X

森を出て真っ先に向かったのは研究室が集う階層の奥にある書庫だ。
読み終えた史料を見つからない内にいそいそと本棚に戻す。

「書庫の資料は持ち出し厳禁だと言った筈だが?」
「げっジジイ、いつの間に!?」
「そんな調子だから重要文献を失くしかけるのだ」
失くしかけた、というのは三ヶ月前にこの部屋から持ち出して読んだ書物のことだろう。
確かに意図せず別の場所に置き忘れてしまったが、幸い程なくして見つかったのでそれとなく戻しておいた。それなのに危うく紛失しそうになったことまで知られていたとは。身内ながら感服する。

「バレてた?」
緩く口角を上げて愛想よく笑って見せても、厳しい眼差しは揺るぎそうもない。この顔は何か一言二言、言っておきたい事があるという表情だ。
「当たり前だ。お前の行動はすぐに読める」
もはや白を切っても無駄だろうが、微力ながら小言の回避の為に抵抗してみせる。
「だってさぁ。ここ薄暗くてちょっと狭いし、下手すりゃじじいと二人きりなんだぜ?息が詰まって仕方ねェんだもん」

「あの子が気掛かりで、何処へ行っても集中できずにうろついているのか」
間髪入れず、しかも完璧に当てられてしまった。
その予想はしていたものの、この記録者を納得させる弁解は用意していないので思わず口を閉ざす。咄嗟に違うと言えないあたり、自分でも未熟だとうんざりする。
「分かり易い顔しおって」
「……お前達の接触を黙認していたのは、アクマの正体の真偽を確かめる為。それから教団に身を置く上で最低限の義務を果たす為に過ぎない」

言われた通り、あの町でアリスと行動を共にしたのは自分の中に浮かんだ一つの仮説を証明する為だった。
あの街での任務を当てがわれた当初、探索部隊により収集された情報から推察する限りでは、アリスがアクマである可能性があった。
けれども廃教会で再会したことや、いくつかの行動を経て、オレはアジュールがアクマではないかと思い始めていた。シモンが姿を消した後、それを確かめる為に敢えてアリスの側にいたのだ。

そして、アリスが適合者だと判明した後、あの場の誰もが彼女の心の傷に気付いていた。
教団にとって不可欠な人間の心身を無事に送り届ける為に尽力するのは、一時的とはいえ所属する上で最低限の義務の一つだと、この師は捉えているらしい。
また、彼女の精神が壊れてしまえば、周囲の人間も只では済まない事象が起こりかねないという危惧も、恐らく含まれていた。
確かにあの面子では、それらを遂行するにはオレ以外に適任はいなかった。

「見ているだろう。あの子の周りの人々を。今はまだ孤独心を拭えていないようだが、もうお前が干渉する必要はない。リナ嬢や周囲の者達がじきに癒す。……そうすればいずれお前の存在はあの子の目に映らなくなる」
最低限すべきことを果たしたのだから、オレは彼女にとって用済みだということだろう。
「分かってる」
吐き捨てるように言ったきり黙り込んだ。
「ましてや、あの子はお前を覚えていなかっただろう。どちらにせよ、我等はいずれ教団から去る身。無かった過去だと切り捨てれば良いだけの事」
やはり六年前のことも気付かれていたらしい。咎めずにいてくれたのは、いずれ朽ちていく一時の感情だと目を瞑ったからだろうか。それとも別の理由があっただろうか。

……それにしても。頭の中の声と同じようなことを言うんだな、と心の内で辟易する。
――……当然か。

目の前の記録者こそ、その考えをこの頭に長年叩き込んできた張本人だ。
勿論それはブックマンにとって正しいと理解しているからこそ、間違いを起こしそうになる度に制止すべく身内で己を論うのだ。
けれども、内からも外からも否定される感情は所在なく彷徨い、この体の中で滞っている。これをどう処理すべきか、未だに答えを出せずにいる。

「寄生型、と言われていたな。戦場で果てても内から崩壊しても、その命の長さには限りがあろう」
とどめを刺すようなその一言に、いよいよ無表情さえも保てなくなる。いたたまれず顔を逸らした。
「……。もう分かったから。一人にしてくれ」
溜息も小言もなく年嵩な体はこちらに背を向け、静かに立ち去った。それを横目に見送って間近の棚に凭れ掛かる。
先の短い人間に同情や期待を持つだけ無駄だ。老いた背中はそう語っているように見えた。

殆どのエクソシストには知らされていないが、装備型と異なり希少で戦力としても重視される寄生型は、力の代償として肉体に多大な負荷が掛かる。故に短命だ。
その時限は適合者によって様々だが、これまでの記録を見る限り寄生型の適合者はイノセンスと同調してから二十年以上肉体が保った者はいない。早い者では三年足らずで衰弱死した記録さえある。
寄生型の適合者は、力の限り戦場を生き抜いたとしても、時が生き延びる事を許してはくれない。

神も、イノセンスも、何故彼女の幸せを悉く摘み取ってしまうのか。その存在を心の底から恨んでしまいそうだった。
アリスは裕福な暮らしも卓抜した力も、何も望んではいなかった。それなのに、懸命に生きる慎ましい命を蝕んでいく意味は何だ。

――……違う。
恨みたいのはどちらでもない。
干渉を避ける癖に、気付けば中途半端に彼女に関わっている自分が何よりも許せない。
割り切っているつもりが、いつの間にか自責と悔恨と思慕に飲み込まれている。
幼い頃、彼女に興味を抱く余り何も手付かずになってしまった状況よりもたちが悪い。
あれから年を重ねたにも関わらず、更に悪化して苦悩に溺れているのだから、しつこく小言を言われて当然だろう。

アリスはもう一人じゃない。
だから近づき過ぎた距離を少しずつ広げ、そのうちに彼女にとって教団の人々との時間が楽しいと思うようになって。オレの存在など大勢の人々の中に埋もれてしまえばいい。

彼女と教会で再開してから、今まで手放すことが出来ず何度も奥底に押し込めていたものが引き摺り出されていく。
殉情のまま無責任に近づけば、いつかアリスの心が欲しくなる。思い出して欲しいと願ってしまう。
けれどもそれが叶っても、最後に待つのは別れだ。自分がどれ程悲壮に苛まれても構わない。けれども二度も彼女に別れの涙を流させたくはない。
それなのに行動と思考が噛み合わず、互いの気持ちをただ闇雲に引っ掻き回すだけで、何も上手くいかない。

再会の嬉しさに感けて距離を取って接せなかった落度が、何故彼女にのしかかるのだろう。
何故自分の言動は彼女を悲しませてしまうのだろう。
森の中の廃教会で巡り会えた事も、語った言葉も、洞窟の最奥にある泉も、永遠に思い出せないよう彼女の記憶から完全に奪ってしまえば楽になれるのだろうか。

しばらく頭を悩ませながら、眼帯越しに指先で眼球の輪郭を弱々しく撫でる。
そんな度胸もない癖に。出来もしないことを考えていても仕方がない。
今はただ、彼女の中で自分の存在が薄らいでいくのを待つ。それが唯一、互いの為に出来る最善なのだ。

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自室に戻る途中の階段で、運悪くと言うべきかエマティットと鉢合わせた。
そのまま引き摺られるように連れて行かれ、修練場で体術の訓練に付き合わされる羽目になった。
繰り出される攻撃を捌いた瞬間、弾く手の平に小さな痺れが生まれる。また打突の鋭さが増したようだ。
会う度にこうして組み手を要望されて付き合うのだが、エマティットは回を重ねる毎に腕を上げているので常々感心する。

入団してまだ八ヶ月程。三十四の任務の内エマティットが案内を努めてくれたのは十四回にもなる。
そもそも彼はエクソシストに同行する任に就く機会が多いのである意味必然とも言えるが、何度も顔を突き合わす為、あるいは互いの性格上か教団の中でも慣れた仲だ。

エマティットは一個小隊に所属してはいるものの、実際の役目は単身で調査やエクソシストへの随従だ。
それには探索班の中でも特に身体能力や判断能力等に長けた人間しか選出されない。
人づてに聞いたところによると、じきにいずれかの元帥の専属として着任する可能性もある程の人材なのだそうだ。
こうして度々手合わせしたり、任務での彼を見ているとその噂は間違いないように思う。並みの努力ではここまでの技術は身に付かない。

沈思に意思を割きすぎた。気付いた時には眼前にエマティットの拳が迫り、瞬きの間も無く額の寸前で停止した。
「おお、珍しい。一発食らっちゃったね」
「……エマティット、また動きが早くなったな」
「褒めとけば誤魔化せると思った?」
握られた拳から勢いよく人差し指だけ飛び出し額を弾かれた。
「いてっ」

「ラビくん。なんか悩み事でもあんの?」
「何だよいきなり。そんなんオレにあるように見える?」
軽い笑いを混ぜておどけて見せる。すると対する彼も朗らかな顔付きは変えない一方、妙に真剣な気配を内在した声音で返す。
「好きが度を超えて、結果避けてしまうとか」
当たらずとも遠からずだ。内心でこの男は侮れないと警戒心を抱く。
心底思い当たるものが無いかのように小さく首を捻った。
「何のこと?」
「心当たりない?」
「全然」
へらへらとした態度を崩さずにいると、彼は随分態とらしく顎に手を当てて深考の仕草をする。そしてこれがお前の本心だろうと言わんばかりに目の奥を光らせた。
「それじゃあ……。本当は傍にいたい」
「……なんか変なもんでも食ったんか?」
訝しげに相対する目を覗き込んだ。恐らくほんの僅かでも目を逸らしたら悟られる。かと言って余りに態とらしく取り繕っても不審がられるだろう。ごく自然な表情を作るのに努めた。
――こいつは能天気に見えて案外的確に人間観察してる。似たような部類だからやり辛い。

「中々強情なやつだなぁ」
エマティットは悩ましげに顔をしかめて腕を組んで唸る。しかし、諦めたのかそれらを解いて呆れたように眉尻を下げた。
「お前って、上手くやってるようでしんどい生き方してるみたいだね。俺にはお前ら若い子の考えはよく分かんないよ」
「若い子って。あんた五つしか歳変わんねェだろ」
「ラビにはラビの生き方があるもんな」
全くこちらの意見を聞こうとしない彼に「だから……」と否定を口にしようとすると、エマティットは人差し指を突き出した。
「でも、お兄さんから一言。取り返しのつかない後悔はしないようにね」
「……それはあんたも同じじゃねェの?」
「俺は自分に正直に生きてるから。絶対に悔やんだり、誰かの所為にしない自信がある!」
胸を張りながらその胸元に手を添えて、高らかに彼は言った。
自分も、エマティットのように生きられたら、もっと違っていたのかも知れない。しかし、羨んでも無意味だ。
「まあ、それはいいとして。続きやろうぜ」
「お兄さんのいい話ちゃんと聞けよ!」

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「ラビ。司令室からお呼びが掛かってるみたいだぞ」
エマティットとの組み手は、別の探索部隊の一人の呼び掛けで終わりを迎えた。
「わかった。すぐ行くさ。じゃ、今日はここまでってことで」
「お疲れー。……って汗一つかいてないの毎回腹立つなー!」
「次こそヘロヘロにしてやる」と背後から飛んでくるエマティットの声に手を振り返しながら、司令室に向かった。

相変わらず乱雑に書類がそこらにばら撒かれた部屋に行くと、奥の室長席のコムイと早々に目が合う。
「揃ったね。さ、ラビも座って」
「へーい」
コムイの声音がいつになく切迫気味に感じたが、特にそれに合わせることなく普段の調子で返した。
言われた通り、室長席に対面する長椅子に向かうが、思わず目を見張り足を止めそうになる。
そこに座っている人物が想像とは明らかに異なっていた。

……何故アリスがここにいるのだろうか。
コムイからの呼び出しは、その殆どが任務の命だ。だから今回も同様の用件だろうと予想していたが、その人選までは読めていなかった。
見慣れた師の姿を探せば、長椅子からは僅かに離れて置かれた一人掛けの椅子にさも当然のように腰掛けていた。オレの反応を探るように視線だけ向けている。
彼女を前にしてどの程度平然でいられるかを見定めようという魂胆だとしたら、随分意地が悪い。

アリスの隣に座るしか選択がないので、疑念と動揺を押し殺し、軽々と挨拶を交わしながら長椅子に腰掛けた。
まだ何も聞いていないのだから、任務とは限らない。……というより、あり得ない。
そんな推測で自分を宥めつつも、この場に滞る神妙な空気から、間違っても楽しい話が展開されることはないのだと密かに身構えた。

「はい。これ、ラビの分の資料だよ」
柔らかな声が真横から聞こえ、向くと彼女が小さく笑んで冊子を差し出していた。しかしその笑みはどこか固い。一見和やかで平常に取り繕っているが、何かに怯えているようにも窺える。
「ありがと」と受け取りながら、こちらもいつも通りの表情を作った。

次はコムイが少々張った声で告げる。
「今回はこの三人で任務に行ってもらいます。日時は三日後。それまでに出発の準備を整えておいてください」
嫌な予感はしていたが、つい驚嘆をあげそうになる。どうにか喉の奥に押し留めた。
三日という猶予は決して短くはない。むしろ今すぐ出発しろ、だなんて場合も少なくはないので、この期間は長い部類だ。
けれども今の状態の彼女を任に就かせる判断自体に納得が出来ない。

気付かれないようアリスの面持ちを窺い見る。相変わらず強張った面持ちだが驚きも慌てている様子もなかった。
既に任に就くのを知り、納得した上でここにいるのかも知れない。
彼女のことだから「そろそろ任務に……」なんて声が掛かれば、まず素直に受け入れるだろう。不安が滲んだとしても淀みなく受け止めた風で、即座に頷く姿が容易に想像できる。

一方膨れ上がる疑問は、何をもってコムイは彼女に任務を与える決断を下したのか、だ。
内容を簡潔に説明する声が、ほとんど頭に入ってこなかった。

任務内容の展開が終わると「二人の足を引っ張らないように頑張るから、よろしくね」と彼女は穏やかに告げる。その内心は決して表情とは釣り合っていないのだろう。
「おう。あんま気張り過ぎねェようにな」
「うん。……ごめん。今の内に支度しないと心配だから、もう行くね」
明るい声音と温和な笑みを残してアリスは足早に司令室を出て行った。

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足音が遠くなるのを聞き届け、口を開いた。
「……本気なのか?コムイ」
問いに対し、コムイはゆっくりと頷く。この室長の性格上、熟考しての判断には違いない。

任務の人選については、アリスに配慮した上での選択だろう。
かなり任務をこなし実戦経験も豊富なリナリーと神田は既に任務へと出てしまっている。
二人のどちらかと合流させるとしても、移動中にアクマと遭遇する可能性がある。
また元帥はアクマとの戦闘の激しい地区へ常に出向いている為合流は勿論、任務途中に帰還命令を出すのは室長の権限とその理由では大元帥が許可をしない。
そうなれば、アリスとしても全く面識のない人間よりも見知った顔の方がまだ安心できるのではないか。
理由としては恐らくそんな所だと思うが、問題はそこではない。

……アリスの同調率が低いというのはヘブラスカに聞き知っていた。
その値は随分低く、同調した当日は十を切っていたという。
感情や体調等の影響による一時的な同調率の低下は珍しいことではない。しかしアリスの場合は、二週間もその数値から一向に上昇しなかった。
低い同調率で、何の支障もなく生きていたという例は百年の歴史の中で一つもない。
ヘブラスカが言うには、まるでイノセンスがしがみ付いているような印象を受けたという。何かがアリスとイノセンスの同調を妨げているようでもある、とも言っていた。

アリスが入団して一月が経った今、同調率は上昇傾向にあるというが安定しているとは言い難い。
イエーガー元帥が彼女の師として任命され、彼の指導と体力や筋力作りを中心に、まだ数ヶ月は訓練に時間を当てるとの報告を上層に伝えたと、対面するこの室長から話を聞いたのはつい二日前の事だった。
その計画が覆った事情は何なのかを知りたい。

「大元帥から直々に命を受けたんだ」
「なんでそんなお偉いさんがわざわざ」
「どうやら、入団した時に目を付けられていたみたいだ」

聞くと、イノセンスがアリスの体に宿ったあの日、一時的だが同調率が百を優に上回ったという。
しかしそこから急降下して値が十以下まで落ち込んだ。
その結果は大元帥の耳に入り、瞬間的とはいえ臨界値を超えたことに感興を持たれてしまっていたらしい。
今日、アリスは遂に自力での発動を成し、ヘブラスカの間で報告したそうだが、丁度大元帥達もそれを聞き付け、任務へ赴かせろと命令が下ったのだという。

ヘブラスカの間は、重要性の高さから中央庁の監視が常にある。普段から事細かに見られているのではないだろうが、目ぼしい現象が起これば即刻彼等に知られてしまう。
戦況は優先と言い難い今、新たな臨界者の出現を上層部が期待するのは分かる。
だが余りに過度であれば、それを向けられた当人を押し潰す可能性を胚胎しているとなぜ気付かないのか。
更なる向上を求めてか見限りかは定かではないが、貴重な戦力をみすみす失いかねない尚早な選択を取る愚かさに眉を潜めた。
――安全な場所で指示を出すだけの人間は、どの組織でも変わらないんだな。

「僕に力がないばかりに。……申し訳ない」
終始平然を保っていた面持ちが、僅かに歪んだように見えた。
迂闊にもまるで彼を責めているような空気を作ってしまった。それを払うべく頬を緩める。
一月という短い期間だが、アリスは自主的な鍛錬やユウとの剣術訓練に真摯に励んでいる。あのユウが今も相手をしているのは、それだけ見込みがあるということだ。
発動まで漕ぎつけたのも、単なる偶然ではなく本人の努力によるものだろう。
交戦になれば、彼女は即座に安全な場所へ退避させる算段だが、イノセンスの能力次第では更に生存率が高まる。必要以上に憂うことはない。

「事情は分かった。怪奇の謎を解いて無事に帰って来れば、お偉いさんもご納得ってことだろ?」
「……そうなるように任務地を選んでくれたんだし。アリスをサポートしながら三人で協力して上手くやるさ」
「な?」と終始無言を貫く記録者にも笑顔を向ける。言葉のままの意味は勿論、ちゃんと上手くやってるだろ。という意も込めて。
ぴくりと僅かに眦が細められたが、ゆっくりと首肯するのを見て、再びコムイに目線を戻す。
「ありがとう、ラビ」
そう言うと、コムイもようやく柔い表情を見せる。
「二人とも、よろしくお願いします」

]]]\

任務の通達から二日。司令室で会ったきりアリスを見掛けもしない。
在りし日のように無意識に行く先々でその姿を探していた。煮え切らない行動を脳内が頻りに批しているが、どうしても気掛かりだった。
いっそのこと、どこへ行ったか見当もつかなければ諦めもつくだろうが、瞬時に彼女の居場所を導き出せてしまう。
行く必要はないという脳内の命令と、姿だけでも確認しておきたいという感情が身内でせめいでいる。
結局体突き動かしたのは感情の方で、行ってどうするのか考えもしないままに草を踏みしめながら歩みを進めていた。

森の中で広い木陰を作る大樹の下、予想通りアリスはそこに一人腰掛けていた。
近くの木に背を預け、彼女に見つからないように体を隠す。会うつもりも傍に行くつもりもない。
揺れる木葉を見上げ、耳を澄ますと祈りの歌が聞き取れた。
「Avec vous, ô Mère, Nous voulons prier Pour sauver nos frères……」
――……その歌、知ってる。

「……Les sanctifier」
遠い声に合わせて呟いた。幼い時分に教えてくれた歌の一つだ。
聖母の導きを願う歌をうたう声調は、暗闇に惑い憔悴しているかのように繊細で儚い。
歌声だけはどこまでも正直だ。
そして相変わらず、追い詰められる程彼女は人の優しさから離れようとする。
本心では誰かに寄り添って欲しいと願っているというのに。
あの頃、孤独から立ち直り見せてくれた凛々しい面持ちや、どこかたくましく見えた背は、影も形もない。
彼女の本来の姿が自己否定の裏で息を潜めて隠れてしまっている。
それを知りながら何もできない立場が遣る瀬なかった。

けれども、アリスは教団に来てからの時間や団員達との関係がまだ浅い。
いずれ。誰かがもっと強く彼女の手を引いて、新たな家族達の輪の奥深くへ誘ってくれる。
そして、過去自分がそうしたように、他の誰かが彼女の孤独を理解し寄り添うだろう。
それを見届ければ、オレはきっとこの恋慕を断ち切れる。

だからこそ今回の任務を成功させ、彼女の帰りを待つ人々のところへ、無事に彼女を帰さなければ。
今回の任務は、コムイの取り計らいでアクマの出現が確認されていない土地が選定されている。
それでも奴らはどこに潜んでいるか分からないので、油断はできない。
いざ戦いが始まった時は、優先的にアリスの身の安全を確保出来るよう努めよう。
教団に所属する以上、最低限の義務に基づいた行動という体ならば、その助力くらいは許される筈だ。

歌は止んでいないが、意思を固め彼女に背を向けたまま屋内に戻った。

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