長編小説 | ナノ



 Tacitum vivit sub pectore vulnus


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三十分程経ち服に血が滲むのが収まってきたので、傷口は押さえたまま歩みを再開した。
アリスが進みながら示すのは当初の目的地がある方向だ。町に戻らないのは明らかだが、一体どこに向かうつもりだろう。
アリスを疑っている訳ではない。けれども実は少しだけ不安に思っているのも事実だ。頭の中では直ちに治療を施してもらうべきだと最良の答えが出ているからだ。
それを察知したのか彼女は振り返って微笑む。
「あと少しで着くよ。……信じられないかもしれないけど、きっと君を助けてくれるはずだから……」
まるで自分ではない別の存在を信じて祈っているかのような安堵を生む表情。
呆れる程単純だが、つられて笑みが浮かび同調して頷いていた。彼女の表情ひとつだけで、憂いを捨てて身を委ねるには十分であった。

およそ十分程度歩き続け、巨大な岩の壁に辿り着いた。周囲を見渡しても人気はなく草木と岸壁以外何もない。
「ここは……?」
「君に見せたいって言った、泉がある場所。泉はこの奥にあるの」
後を着いて行くと、向かったのは大きく抉られたかのような岩の空洞の中だった。大人でも屈まずに入れて、外の明かりが届く程度の奥深くない洞窟だ。
入ってすぐに反響する水音が出迎えた。少し奥へ入った行き止まりには、一部地面の岩肌が割れて穴が空いている場所がある。
その穴の窪みに洞窟の奥から水が流れ込んで小さな泉を作り出していた。泉と呼ぶには少々小さい気もするが、水溜りと形容する程簡素ではない。
間上の岩壁に腕がなんとか入る程度の亀裂があり、そこから水が流れ込んでいる。源泉はこの巨大な岩の中のどこかで湧いているのだろう。

「こっちだよ」
泉の傍で膝を折って屈む彼女が手招きした。側に近付いて同じ体勢になると、アリスは傷口をここで洗うのだと言った。
どうもこの洞窟は足を踏み入れた時から普通ではない気配を感じる。それが良いものなのか悪いものなのか、はっきりとはしないが得体の知れない気配に少し体が強張っていた。
すると傷口を押さえる手の甲に彼女の指がやんわりと触れた。
「怖がらないで。大丈夫」
「……さっきのお返しみたいだ」
「本当だね。それじゃあ、君から貰った勇気と、私の勇気もあげるよ」
「そんなに貰ったら次のお返しに困りそう」
軽く笑みを交わす内に固い緊張がほぐれてきた。
彼女が落ち着いているというのに、いつまでも縮こまっていては格好もつかない。傷口に当てていた彼女の服を取り視線を送る。
返される頷きを見て、手の平を上向きにして腕を泉に向かって差し出した。

アリスは両手で水を掬い目を閉じる。それはほんの僅かな間だったが、まるで何かに話し掛けているか、願いを掛けているように映った。
そしてゆっくりと腕に水をかける。
沁みるかと思って奥歯を噛んで耐えようとするが、驚くことに水が触れた先から痛みが引いていく。
錯覚かも知れないが、冷水なのに温かくて柔らかな手に撫でられているような感覚もあった。
更に驚愕したのは、水の流れと共に血と、肉に刺さっていた木屑がさらさらと抜け落ち、跡も残さず傷は塞がり消えたことだった。
肌はまるで何事もなかったかのように、透明な水滴だけを残していた。
言葉も紡げずに開口したままアリスを見た。目が合った彼女は胸を撫で下ろして息をつく。優しげに目を細めてオレの手を取った。
「ちゃんと治ってるよ。ほら、触ってみて」
深い裂傷があったはずの皮膚に怖々触れるが、指が触れたという小さな感触だけでやはり痛みは全くない。

「ほんとに治ってる。……誰かが触ってるみたいにあったかくて、不思議な感じだった」
それを聞いたアリスが少し驚いた表情を見せる。何か変な事を言ってしまったのだろうか。
急に無言になってしまった彼女を窺いながら名を呼んだ。
すると、少し気まずそうに躊躇いながらも結ばれた唇が開いた。
「……笑わないで聞いてくれる?」
二、三度首を縦に振って見せると、頬を緩ませて話し始めた。

「この泉。お母さんを亡くして……その次の日に突然湧き出てきたの」
母親を失った彼女は、一人泣ける場所を探して歩き回っていたという。そんな折に見つけたのがあの廃教会とこの洞窟だった。
この場で蹲り泣いていた時、岩が軋む音が聞こえた矢先に岩が割れて水が流れ出てきたのだそうだ。
引き寄せられ無心のまま水を掬い取った時、森を彷徨ってついた擦り傷が消えたことで泉の不思議な力を知った。
「それでね、私もその時に思ったの。……。お母さんが、撫でてくれてるみたいって」
アリスは指先を水に浸し、愛おしそうに揺れる水面を見下ろした。
「ただそれだけなのに。それ以来、なんだかこの泉がお母さんみたいに思うんだ」
「アリスの傍にちゃんといるよって教えてくれたのかも知れないね」
そう告げると、彼女はすぐさまこちらに視線を戻し、泣きそうな笑みを湛えながらも深く頷いた。

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「でも、そっか。あの温かくて優しい感じ、お母さんみたいっていうんだ」
泉に目を落とし、傷を取り去ってくれた感触を想起しながら、満足を込めてぽつりと零した。
自分の記憶の中には一切無く、これからも感じることはできない筈のものを、こんな場所で得られるとは予想もしなかった。
小さく裾を引っ張られそちらを見遣ると、心配そうに眉尻を下げて彼女が小首を傾げた。
「お母さんって人はオレが生まれた時に死んじゃったんだ。だからお母さんってどんな感じなのか、今まで知らなくてさ」
「そう、だったの……」
「でも父さんとの思い出はすっごく沢山あるから、全然寂しくなかったよ」
ぱっと顔に明りを灯して「君のお父さんのこと、聞きたいな」と目を輝かせた。
「聞いて聞いて。あ、そうそう。パンダじじいってあだ名を教えてくれたのが父さんなんだけどさ」
「さっきパンダって言ってたね」
「実際そっくりなんさ。アリス、パンダ見たことある?」

……そんな他愛のない話から始めて、父さんとの思い出を語った。
父さんとオレの間には、他人には言えない、言っても理解されない複雑な事情があった。
その事情を話さずとも、彼女はオレと父さんの楽しかった思い出だけを笑って聴いてくれた。余計な詮索をしない彼女の姿勢が心地良かった。

「君とお父さんって、何だか親子なのに親友みたいだね」
「そうでしょ。だから父さんと一緒にいると少しも退屈しなかったんだ」
この泉でのきっかけがなければ、もしかしたら父さんとの記憶は彼女には話さなかったと思う。
「オレ。ここに連れて来てもらえて良かった。ありがとう」
「すぐに教えてあげられなくて、ごめんね」
「いいんだ。簡単には教えられないくらい、大切な場所なんでしょ」

彼女が泉にオレを連れてきてくれたのは、母親と子との絆を見せてもらえたような気がして、嬉しかった。
きっと自分の母も、彼女の母親がそうだったように、愛してくれていたのかも知れないという希望を見出せた気がした。

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小さな幸福を感じる時間も束の間。もうしばらく洞窟に留まっていたかったが、嫌な予感を察知して周囲を警戒しながら外に出る。すぐに草陰に移動して身を隠した。
しばらくすると森の奥から又しても特徴的な白髪が下生えからひょっこりと姿を現した。

「やばい……!このままじゃ、じじいに見つかる」
「こんなにちゃんと隠れてるのに?」
「多分……。オレの行動、なんでかいつもバレるんさ」
「すごいね、君のおじいちゃん」
感心して息をついたアリスは、唐突に口角を上げてオレの手を取り強く握る。
「でも。私の事は予想できないかも知れないよね?」
言ったかと思うと瞬時に走り出した。猫を思わせるしなやかな俊敏さで、草の少ない道筋を選びながら上手く音を立てずに駆ける。
木陰から木陰へと移っていく中で草から飛び出している髪の動きを見ていたが、こちらの動きには気付いていない様子だ。
程なくして到着したのは泉のある場所から少し離れた岩壁に空いた洞穴だった。

「実はね。入ってみたかったんだけど、一人じゃ怖くて」
空洞の入り口に隠すようにして置かれている燭台の傍には、周到にもマッチが添えられている。
これを機に身を隠しながら中を探索しようという目論みらしい。
「ちゃっかりしてるなぁ」
彼女は無邪気な笑みを向けて、手際よく火を蝋燭に灯す。
無理に入れば二人一緒に通れそうではあるが、泉の洞窟のようには中を見通せない狭さなので、一人ずつ入った方が良さそうだ。
「オレが前歩くよ。危なそうだったら、すぐ言うからね」
「うん!」
燭台を受け取り小さな入り口に足を踏み入れた。この程度の大きさなら恐らく熊などの大型の獣は入ってこないだろう。ただし絶対に危険がない保証はどこにもないので、何かあったら一番に彼女を守らなければと気合を入れながら進む。
奥行きは思った程広くはなく、通れる場所も一本だけだ。
ふと背中にしがみ付きながらついてくるアリスが、何かを小さく口ずさんでいるのが聞こえてきた。

「Promenons-nous dans les bois……Pendant que le loup n’y est pas……」
――おおかみさんがいないうちに、森へ散歩に行こう……?
聞きこんでみると、何かを話しているのではなく非常に小さな声で歌っているらしかった。童謡だろうか、珍しい選歌だ。
「Mais comme il n’y est pas,Il nous mangera pas……」
「それ、何て歌?」
「え……?……。もしかして私、声に出してた?」
「うん。おおかみさんの歌。えーっと……」
呟かれていた歌の歌詞を聞き取れた分だけ復唱すると、背中に軽く頭突きをされた。彼女は頭をオレの背に付けたまま子犬の唸りに似た低めの声で悶えている。
察するに、恐怖を少しでも拭う為の歌なのだろうが、オレに覚られないよう頭の中で奏でているつもりだったようだ。

「勇気、さっきオレに分けちゃったからだね」
「うう、聞かなかったことにして……」
「いいよ。その代わり、その歌も教えてくれるなら」
「それじゃあ全然意味ないよ!」
そう言って抗議の声を上げながらも「可愛いからその歌が気に入った」と説得してみたところ、恥ずかしさに耐えている声音ながら歌ってくれた。
その素直さが可愛らしくてつい笑ってしまいそうになる。しかしここで笑っては流石に拗ねられてしまいそうなので懸命に顔を突っ張らせながらゆっくりと前進していった。

早々に中が広くなったと思えばすぐに洞窟の行き止まりである広い空間に着いた。
小さな探検は思ったよりもあっさり終わってしまい、問題が起こらなかったのは何よりだが肩透かしをくらった気分だった。
すると、背中にぴったりと付いていたアリスが服を引っ張る。

「ねえ、なんだろう。あの穴」
振り返って彼女が指差す先に明かりを向けると、大人でも屈まずに通れそうな大きい横穴が空いていた。
思わず首を傾げる。
アリスの歌う童謡に和んでいたのは確かだが、流石にこんなに大きな穴を見落とす程気を抜いてはいない。
「そんなのさっきまであったかな……?」
不思議な予感に胸の奥が騒ついていた。けれどもその感覚は、あの泉に訪れた時のものに近い。
ここは泉の水が流れ出す穴と同じ岩の中にある。もしかしたらと波立つ予感に「行ってみよう」と告げると、期待を孕んだアリスの瞳が蝋燭の火に合わせて揺らめいた。

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変わらず注意は怠らずに歩みを進めるが、想像以上に歩き易くて驚いた。
舗装されているとまではいかないが洞穴の入り口と違い、自然が作り出した穴にしてはその広さや高さが均一だった。
アリスは変わらずオレを頼りにして背中にくっ付いているので気付いてはいないだろう。

――オレが見た時は間違いなくこの穴は無かった。でもアリスが見つけたって事は……。
にわかに信じられない事だと排しながらも、浮かんだ一つの仮定が真であって欲しいと期待が膨らむ。
あの泉がアリスの為に生まれたのだとしたら。だとしたら、オレ達が誘われているのはその泉に関わる中心部なのではないか。
無性に逸る心をなだめようと、先程の勇気付けの歌を熱望した。それを受けて渋々再開された歌に合わせて声を重ねながら暗闇を進んだ。

少し曲がった暗闇の先にとうとう不思議な横穴の終わりが見えてきた。
周りの岩肌が明るく照らされているが、太陽の光にしては青いようにも見える。外に繋がっているのではなさそうだ。
「アリス。見て」
「……明かり?出口、かなぁ」
「ううん。違うみたいだ」
近づくにつれて微かに空気に湿りを感じる。距離のあった明かりの色もはっきりとしてきた。

そして暗闇を別つ境界となっている穴から、目を疑う景色が遠巻きに見えた。
青白い光に照らされた空間がこちらを覗いている。二人揃って目を見合わせ、転がり込むように光に向かって駆けた。

抜けた先の開けた空洞はもはや別世界だった。
岩肌が光を反射させる様は燐光さながらで、入った先から広がる青々とした小さい花達の群生は、岩と同じく花弁に光を写し取って輝き、小さな星を地に撒いたように見える。
辺りのあらゆるものを照らすのは、中心にある一際輝きを放つ泉だった。天井となっている岩に映った水面が鈍く揺れる様は、天地に鏡写しに泉が存在しているようでこの世の景色とは思えない美観だ。
程よく肌を包む空気に、治癒の泉で得たものと同じ気配をより強く感じた。
綺麗だ。そう思った時には体の奥が震えて動けなくなった。嬉しさも悲しさもなく、ただ、胸が締め付けられる。

不意に頬に何かが触れてようやく我にかえった。触れたのはアリスの指だった。
こちらに手を伸ばす彼女は、目の縁に今にも落ちそうな雫を湛えている。
彼女も同じ気配を感じていたのかも知れない。溢れてしまわないよう雫を掬おうと手を伸ばした時、自分の頬に何かが伝った。すると再び指先が頬を撫でる。
それでやっと自分の方が先に泣いていたのだと分かった。

……こんな自分の心に、美しいものを見てひとえに涙を流す純粋さがあったのか。
気付かせてくれたのは紛れもなく彼女だ。
これは傍観者として許されない変化だ。けれども「オレ」を一人の人間として繋ぎ止めてくれる彼女をなぜ受けれ入れてはならないのか、今は理解したくない。

「奥の泉から光が出てるみたいだよ」
アリスが側に行きたそうに袖を引いて急かすので、重苦しい思考は放り投げて中心に向かった。
泉が放つ光景は一層現実離れしていて、揺らめく水面そのものが光を放っていた。加えて底に溜まる細やかな白い砂も淡く発光している。よく見ると砂の下から水が湧き上がっていた。
「この泉が源泉なんだ」
広い泉の中心には核心である何かがあると勘が騒ぐ。しかし、全く濁りのない透き通りで錯覚しそうだが、検めると案外水が深そうなので無闇に入るのは危険だ。
水に濡れない程度の泉の縁に並んで座り、しばらく大人しく景色を眺めるに留まった。

「……こんな場所に来られるなんて。君がいてくれて良かった」
「違うよ。ここはオレだけじゃ入れてもらえなかった」
一体どんな力が働いたのか、本当に彼女の母親が起因しているのか。確固たるものは何一つ得てはいないが、この場所は間違いなくアリスの為に姿を現したのだという確信は揺るがない。
「アリスが一緒だからだよ」

僅かに視線を落とした時、互いの間に生えている一輪の花が目に入った。それを摘みアリスの耳にかける。
「綺麗だね」
彼女の髪に添えられた小さな花は、髪や瞳の色と相まって一層瑞々しく咲いたように映った。彼女に触れたことを喜んでいるようにさえ見える。
青い花弁が熱を上げた彼女の頬の紅を強調する。恥じらって伏した瞼の膨らみに集まる光が、彼女の肌の色を引き立てた。

「アリス。オレあの歌、聴きたい。初めて教えてくれた歌」
唐突に思い立った要望に、アリスは目を少し大きく開いて驚くが、すぐに呆れ気味に目を細めた。
「……君、なんだか急にわがままになった?」
「いいでしょ。ちょっとだけ、甘えさせて」
膝の上に置かれている彼女の手の甲に自分の手を乗せると、手の平を返してオレの手を握りしめる。
その手の温かさは、傷を癒した水の温もりにひどく似ていた。

恥じらいがあるのか、こちらを向かず泉を見つめたままに歌が紡ぎ出された。
伸びやかで柔らかい残響が奏でる声に重なる。その音は紛れもなく彼女自身の声だったが、誰かが共に歌っているかのようにも聞こえた。
歌声が響くこの空間は詩に込められた願いのまま、その音が終わるまでは現実から二人を隠してくれている。今はそう思っていたい。
やがて静かな余韻を残して全ての音が止み、まるで辺りのもの全てが歌に聞き入っていたと錯覚する程の静謐が生まれた。

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「……。なんか、今にも妖精とか出てきそう」
ぽつりと溢すと、隣から控えめな笑い声が鳴る。
「確かに不思議な場所だけど、それは流石にないと思うよ」
「アリスはいるって思ってないの?妖精とか、天馬や竜とか」
「うーん。……君は結構、夢想家の気質があるんだね」
むっとしながら彼女へ目を向ける。まるで子供の言う事を微笑ましく聞いている、といった面持ちをしていたので、少しむきになって彼女の同意を得ようと反論した。
「確かに誰も見たことないかもしんないけど、だからって絶対にいないってのも誰も証明できないでしょ?」
「言われてみると。そうかも」
「誰も見たことのない生き物に出会う!ロマンがあっていいと思わない?」
「うんうん。夢を持つのは良いことだね」
「……いつか絶対信じさせてやる!」
躍起になるオレを見て、アリスは屈託無く笑った。
いつまでもここでゆっくりと過ごしていたいが、ふと思考の隅に現実が過ぎってしまう。

「あ。アリス、時間は……!?」
今日は慌ただしさと穏やかな時間が代わる代わる訪れる日だ。ついそんな状況に夢中になってしまっていたが、一体どれほど時間が経ってしまったのだろう。
しかし懐中時計を取り出し開いても、彼女は特に焦る様子はない。

「平気だよ。でも、これ以上ここにいたら、帰るの嫌になっちゃいそうだから……今日は帰ろっか」
アリスの表情には陰りこそ無いが、どこか名残惜しそうだった。もしも彼女もこの泉に自分と同じものを感じ取っているのだとしたら、オレ以上に離れ難いだろう。
「アリスはいつでもここに来れるさ」
物寂しさを僅かでも払拭できればと込めて告げた。すると何か言葉を返そうとしたのか、一度唇を僅かに動かしたが、納得した様子でアリスは頷きを返したのだった。

どうやら廃教会よりもこの岸壁の方が町に近いらしい。
洞窟から出て辺りを警戒して見たが、諦めて帰ったのかじじいの姿は見つからなかった。
幸い彼女と会える最後の帰り道は、追跡者に阻まれることも時間が無く慌ただしくなることもなく。尚且つ慎ましやかに終わった。

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朝日が登るよりも早く。まるで決まっていたかのように眠りから覚めた。
静かに身支度を済ませて非常に寝付きの良い祖父を部屋に残し、扉の向こうへ出て行く。
冷気が沈殿した町を抜け、向かう先はやはりひとつ。
見ようによっては歪な一本の大樹にも見える廃れた教会。今日ははばかることなく音を立てながら扉を開けた。

「おはよう。アリス」
爽やかな心持ちで声を飛ばす。すると大窓の聖母を見上げていた背中が振り返った。
「……おはよう。来てくれると思ってたよ」
昨日の別れでは今日の出発について触れなかった。それは本当の最後は今ではないと通じ合っていたからだ。
だからといって約束を交わして落ち合っているのでもなく、オレ達は互いを信じ合ってここへ来た。

「服、大丈夫だった?」
「うん。誰にも気付かれないように洗って、染みも目立たないくらいには取れたよ」
他愛ない言葉を交わし、生まれたのは静寂だった。少しアリスの様子が気に掛かった。
穏やかな笑みの反面、何かを言いたそうにこちらを見つめている。

「昨日の花の名前……、勿忘草って言うんだって」
「勿忘草?なんだか深い意味がありそうな名前だね」
「うん……。とても悲しい話が、名前の由来なの」
恋人の為にとその花を取りに川へ入った男が運悪く水に押し流されてしまい、花だけを残してこの世を去ってしまうという逸話。恋人はその男を決して忘れないようにと常にその花を身につけ、生涯独りで過ごしたのだという。

永遠の別れ。まるで自分達の運命を表しているように感じて気を落としているようだ。
けれども、彼女を美しく彩ってくれたあの花は、そんな結末を暗示しているとは思えなかった。
少なくとも、アリスを悲しませるためにあの花々は咲いたのではない。
「離れていても思いを持ち続けることが、きっと大切なんだ。オレはそう思うよ」
「……だから、届かなくても例え忘れられても、思い続ける」
そして彼女の意思を問うように見据えた。強要するつもりはないが、全てを否定的に捉える必要はないと伝えたい。
対する瞳は、その縁を大きく開いて止まっていた。

「君は。旅をする中で寂しいとか辛いって思うこと、ある?」
「何回もあるよ。でも、オレはブックマンになる為にじじいに着いて行くって決めたから、それを叶えるまでは絶対挫けないんだ」
「……やっぱりすごいね」
アリスは自分の成したいことが何もない。強い決心も無い。まるで空っぽの器みたいだという。
「そんな目標を持って、私も君みたいに強く生きたいなあ……」
隠す事なく羨望を向けるアリスに、目指している事はないのかと問うと、眉尻を下げて頷いた。

「じゃあ、オレがもっと大きくなってブックマンを継いだら、ここに戻って来るよ」
「……どうして……?」
「もう一度会って。それでもまだアリスに目標が無かったら、オレと一緒に探しに行く為だよ」
彼女の寂しさが少しでも和らげばいい。咄嗟に口を付いて出たのはそんな衝動的な感情に寄るものだったが、もう自分の言動に対する後悔はない。
「それで自分自身が納得できる位、強い人になったらいいんさ」
ブックマンとは関わりのない旅の同行者として彼女を迎え、共に歩めたら。彼女の幸せな姿を見届けることができる。言いながら、そんな未来の夢を思い描いていた。

「そんなこと言われたら、君と旅に出るのが私の目標になっちゃう」
アリスは困ったように笑う。
いつ叶うのか、果たして叶う時が来るのか。
嘘となりうる不確定な約束。
けれども、風が吹けば消え入ってしまう灯火のような誓いであっても、別れの寂しさを振り切るのに十分だろう。

「……いいよ。それでも。アリスの幸せに繋がるなら」言いたかったその言葉は飲み込んで彼女を見つめた。
言ってしまったら、きっとこの約束は呪いになってしまう。
……本当は。アリスの寂しさを拭うためだけではなく、彼女の心を縛るための……その内が空っぽならば、オレの存在で満たして欲しいという利己にまみれたとても狡い感情が、密かに内在していたからだ。

]]]V

視界に差し掛かる朝陽が二人の時間の終わりを示した。
その眩しい白の光を揃って見つめ、互いに口を開くのを躊躇った。
けれども彼女に言わせるのは酷だろう。

「……そろそろ戻らないと」
硝子の聖母を見つめ、観念して声を振り絞る。すぐに返事は返ってこない。
少し間を置いて「そう、だね」と答えた声音は涙に震えていた。
堪えていた一粒を落としてしまうと、とうとう抑えが効かなくなって際限無く頬に雫を通す。
「アリス」
袖口を濡れる頬に当てて拭った。

「オレとアリスの挨拶は、さよならじゃなくて“行ってきます”と“行ってらっしゃい”だよ」
「……。うん」
きっと、お互いに分かっていた。もう二度と巡り会う日は来ないのだと。
オレ達はまだ十程度の歳の子供に過ぎないが、かといってそんな夢のような約束を信じきれる程穏やかで平和な世界で生きていなかった所為だ。
けれども、離れていても想い合おうとする決意が、互いの心を支え合えると信じたかった。

「それなら。次に会った時は“おかえり”と“ただいま”だね」
濡れた瞳で彼女は笑う。
「君の目標が叶うように、ここでずっと応援してる」

……目の前にいる彼女の姿と纏う気配は清廉な脆さを陰に潜ませている。
寸分の狂いなく精巧に象られた物ではなく、自然が作り出すあえかな美しさがある。
それは朝露を花弁に飾る花、高らかな唄声を残して翼を翻す鳥、薄暗い冬空の風に乗る白い結晶のような。
けれども、そのどれもに似ているようで、いずれも彼女には重ならない。
やっぱりこれ以上美しい涙を見る事はこの先永遠にないのだろう。

「いってらっしゃい」
そう言ったアリスを抱き竦めて、涙が湧き出しそうになるのを堪える。
必死で口の端を持ち上げて大切な一言を声を震わせないよう、丁寧に紡いだ。
「いってきます」

背を抱く手を解き、彼女の大きな目の縁に留まる雫を自分の指先に移す。
淡く色付く頬を両手で包んだ。それにアリスは応えて、何も言わずに目を閉じ少しだけ頭を垂れさせる。
以前のように額同士を触れさせると彼女は考えているのだろう。
けれどもオレはその予想に反して、右目を守る肌の上に軽く唇を乗せた。

ゆっくりと一歩下がるとアリスは目をすぐさま開き、何が起きたのか理解していない様子で、呆然とオレを凝視した。余程驚いているのか口元まで緩んで半開きになっている。
気恥ずかしさに自分の頭が熱を持つと同時に、それが伝染するように彼女の顔も真っ赤になった。

「お返しは、……その。次に会った時にくれる?」
彼女は口付けられた目の上に手を添え、変わらず口を開いたままに何度も何度も頷く。
その惚けた姿が余りにも愛おしくて、面映ゆさがどこかへ飛んで行ってしまい堪えきれず噴き出した。
「わ、笑いすぎだよ!」
熱を保ったままの色味の頬を膨らませてアリスは訴えたが「ごめん」と言いながらもそれでも笑いが収まらないオレを見て、つられて彼女も笑ってくれたのだった。

――アリスは、オレの心が帰る唯一の居場所。だからいつか、もしも再会できた時は……。
そんな一縷の願いと、恋心を手放せないまま、長い長い記録の旅路へと再び歩き出した。

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