長編小説 | ナノ



 Le monde de arc en ciel d'étoiles


T

仄暗い内界と煌々とした外界を別つように、古めかしい扉が閉じていく。
私はそれを胸が張り裂けそうな思いで眺めていた。
完全に扉が閉ざされ、心の底から横溢したのは「どうか、無事であるように」という願いだった。
――……不思議な夢。

やけに鮮明で心を揺さぶる情景は、得も言われぬ寂しさが在りながら心緒を穏やかに温める。
私の身体は暫くして扉から目を離し、後ろを仰ぎながら振り向いた。
どうやらこの身体は私の意識を有しているものの、意思は繋がっておらず自由には動けない。
この夢も、私は自身ではない別の人間になっているのだろう。
けれど、これまでに見た水底に沈みゆく夢とは違い、切なさはあれど遠い未来へ向かおうとする希望がある夢だ。

身体の主が視線を伸ばす先にあったのは、眩しい程の陽光を宿す鮮やかな聖母の飾り窓だった。
――此処は、あの廃教会……?
何度も見上げては願いを伝えたあの聖母を違える筈がない。間違いなくここは私が通った廃教会だ。
しかし不意に疑問が芽生えた。
この身体は一体誰として、私の内に夢を描いているのだろう。
そしてあの扉の向こうへ行ったのは、誰なのだろう。
何の脈絡もないようで、何処かで深く私に関わっているような気がする。
それなのにこの胸に溢れて止まない感情の出所が全く分からない。何故か言いようのない不安を覚えた。

ふと何かの気配を感じた眼が視線を落とすと、大きな硝子窓の許に誰かがいるのに気が付いた。
この身体はその存在を予期していなかったのか、鼓動の跳ねと同時に後退る。
「だ、誰?」
そう言ったのは身体の主だ。声音で少女であるのが分かった。

「……キミには」
対して口を開き歩み寄る人影は、逆光でまだ判然と姿が見えない。けれどその人物もまた、少女なのだという事だけは理解した。
「何があっても残しておきたい記憶って、ある?」

歩みを進めて全貌を明らかにした少女は、短い黒髪にそしてまるで黄金を嵌め込んだような美しい金の瞳をしていた。寂れた教会には似つかわしくない、上品な外出用の服に身を包んだ出立は令嬢を思わせる。
しかし近づいてきた彼女に対し、思わず眼を疑ったのは特異な肌の色だ。褐色とは違う。灰色と形容すれば良いのだろうか、明らかに万人のそれとは認め難い色味をしている。また、額には十字の黒い痣が七つ並んで刻まれている。
その異質を除けば十歳前後の可愛らしい少女であるのに、返って際立つ異質こそが彼女は自身と異なる存在である事を顕著に表しているように感じた。

「例えば。好きな子との思い出とかさぁ」
警戒と畏怖を露わにする此方に対し、金の眼差しの少女は気にも留めず、少し語尾を伸ばした独特の声調で不吉な笑みを浮かべる。
するとこの体の主は問いかけに逆らうことができず、微かに震えを胚胎した声で答えていた。
「うん、……あるよ」
「じゃあねぇ、おまじないしてあげる」
そうして笑みを顔に貼り付けたまま近付いてくると、少女は両手を差し出して来た。小さな手の中に収まっていたのは一つの飾り箱だった。
恐る恐る手を伸ばし中を開けてみるが、中身は何も無い。
しかし私は、箱からもそれを持つ金の眼の少女からも不穏な気配を感じていた。

――その箱から、その子から離れて。
そう思っても、この身体は少しも動きそうにない。地に縫い付けられたように立ち尽くしたまま、一心に箱の底を見つめている。
「ボクに教えて。……アリスの大切な、あの子との思い出」
――今、私の名前を……?
金の眼の少女は、間違いなく私の名を呼んだ。だとしたら、これは私自身の夢だ。
記憶を掬い上げて映しているのか、記憶を断片的に繋ぎ合わせて作られたものなのか、それは分からない。
けれど、この身体の主……恐らく幼い私は今すぐに逃げ出さなければならない状況であるのは確かだ。その証拠に、異様な胸の締め付けに息が止まりそうなのだ。

けれど私の混乱を余所に、何の迷いもなくこの身体は口を開く。操られているかの如く何かを語り始めたが全く声が聞こえない。
それはまるで、語る言葉が音になる前に箱の中へ吸い込まれているかのようだった。
そして恐ろしい速さで身体から何かが抜き取られている。そんな錯覚に眩暈さえする。

揺らぐ意識の最中、歪なまでに上げられた口角で笑顔を表す眼前の少女は、緩慢に箱を閉じ始める。
――やめて。お願い、閉じないで。
無言の懇願は虚しく、乾いた音と同時に視界は黒く遮断された。

U

目蓋を開けた視界が歪み揺れている。
それが眼一杯に溜まった涙の仕業だと理解したのは、目尻から滑り落ちる雫が肌を冷やしながら耳の側を通った直後だった。
――泣いてる、……どうして。
悲しい夢でも見たのだろうか。目を閉じている間の情景が全く思い出せないのに、喪失感に押し潰されそうで苦しい。
起き上がり濡れた肌を拭っても、瞬きする間にまた眼から溢れ出す。
明るく陽光が注がれている室内に反して私の心の内は暗く淀んでいた。
いよいよ明日の早朝に出発だというのに、尚更気分が滅入ってしまいそうな朝だ。

寝台の上で蹲り暫く動かずにいると、漸く眼頭の熱が冷めてきた。しかし茫漠とした切なさは未だ心緒に引っ掛かっている。
無理にでも切り替えないと。そう思いながら立ち上がり机に置かれた書類を手に取る。
任務内容を記す文字を追い、頭の中に割り込ませた。
内容は既に覚えているがこの三日どうも気が落ち着かず、この資料に目を通すのも何度目になる事か。ため息を吐きながら、頭の中で紙上に記される事象を描いた。

……アイルランドのとある町で、奇怪が発生していると報告があった。
それは奇病の蔓延。
ただしこの病は現状、子供にだけ発症する病で罹ると深い眠りについたまま目覚めなくなる。別の病の併発や死に至った事例は今の所無い。
しかし最初に発症した少年は、およそ一月経った現在も眠ったままだという。

当初は自然治癒は勿論のこと、薬の投与も効果が無く、睡眠障害の一種である過眠症ではないかと言われていた。
しかし少年が発症して二週間目、この病による患者が一気に四人に増えた。
そこからは数日おきに一人、また一人と人数が増えていき、普段通り生活している子供の数の方が少ない状態となってしまった。
過去に症例もなく治療の術も防ぐ術もない。
今では呪いだと声を上げる者も出て、子供達は外に出なくなり、また家族以外との接触もなくなった。
唯一大人達は生活の為に活動をしているそうだが、必要最低限の外出や他人との交流は控えているようだ。

何故か自身が暮らしていた町と重ねてしまう。きっとこの町でも沢山の人が不安を抱えて苦しんでいる。
もしもアクマやイノセンスと関わりがあるとしたら、あの町のようになってしまう前に助けたい。
けれど、同調率の安定していない人間がアクマとまともに戦えるのか。責務を果たせるだろうか。
仮にイノセンスやアクマの仕業ではなく、本当に病が伝染しているのだとしたら、どうしたらいいのだろう……。

戸惑う心の内を聞いて欲しい気持ちはある。けれど、リナリーはまだ任務から戻ってきておらず、また食事をする気になれなくてジェリーにも会いに行き辛い。
例えリナリーが帰還していたとしても、先日先生の話をして、彼女達には喜んで貰ったばかりだ。
私の不安を伝える事で、彼女達まで気落ちさせたくはない。
先生からも幾つか戦う上での基本的な知識を教わった。それでいて気持ちが晴れないなどという負の心情を抱くのは失礼だろう。
――やっぱり誰にも言わない方がいい。

書類を机に戻し、母の懐中時計に目を向けた。
それを手の内に収めて握りしめた鋭い冷感が少しずつ体温と同調していくのが快い。
――きっと。大丈夫だよね……。
針の音は聞こえない。握った拳を額に当てて、無音のひと時の中で動かずにいた。

V

「アリスちゃん。これからメシ?」
重たい身体を引きずる心地で階段を下っていると、後ろから晴れ晴れとした声を掛けられた。
振り返ると軽やかな笑みを湛えたエマティットと目が合った。普段通り此方も表情を緩めて言葉を返す。
「ううん。森で、身体を動かそうかなって」
「熱心だなぁ。でも、なんか元気ないね。ちゃんと食ってる?」
柔和ながら嘘をつけなさそうな眼差しだ。そして返答の選択の余地を与えているようで、彼の内では判然と答えが出ている。そんな訊き方だった。

「勿論」という短い一言ですら出せずに逡巡していると、エマティットは目を細めて私の肩に手を置く。
「俺、今回の任務に同行するんだけど。道中しつこく聞かれるのと、大人しく今話すのとどっちが良い?」
……何だか少し似ている。そう思うと尚更断る事が出来ず、滞る言葉をおずおずと出した。
「それなら今、聞いて欲しい……」
「よしよし。じゃ、どっか静かな所でお兄さんとお話しよう」

半ば強引にエマティットが先導した先は、団員達の個室が集まる階層の最上だった。
そして、個室の入り口よりも更に深く窪ませた壁に取り付けられた、いかにも重厚そうな鉄製の扉を開ける。
途端、扉の向こうから冷えて清々とした風が吹き込んで来た。
「他の階も扉はあるんだけど鍵が掛かっててね。でもこの階だけは鍵が無いんだよ」
「ここから外に出られるんだね……」
「知ってる奴はあんまりいないと思うよ。高いとこ平気?」
彼の質問に頷きながら、私は扉の向こうにどんな景色が待つのかに興味が向いていた。
「少し風があるかな。手摺りは無いから気を付けてね」
二、三度頷くと、エマティットは開け放った扉の先へ通してくれる。

踏み出した先に広がっていた景色は広がる空と朝日、そして地上が海なのか陸地なのかが見えないほどの深い霞で殆ど真っ白だった。
辺りはこの施設以外に何も無い。どれだけ遠くを眺めても濃霧が遮り何も見えない。
秘密裏な組織の拠点として相応しい程に、断絶された景色。それが圧巻だった。

「何にもないけど凄いでしょ。談話室だと色んな奴らが寄って来ちゃうから、落ち着いて話出来ないと思って」
「ここにはよく来るの?」
「たまーに。……あ、ラビも時々来てるみたいだよ」
「そ、そうなんだ。こういう所好きそうだもんね」
何故ラビの事を私に言うのだろう。そんな疑問が浮かびつつも、適度に調子を合わせた。
内心では彼も見た同じ景色を自身も目にしているという些細な喜びが胸の奥に芽生える。
しかし、きっと彼とここに立つ事はないのだろう。例え偶然居合わせても、きっと直ぐに彼は立ち去ってしまう。そんな考えが芽生えた期待の茎を折り曲げた。

「初めての任務で緊張してる?」
穏やかな問い掛けを耳に受け、はたとして彼の虚構を脳裏から一旦取り攫う。
「それもあるんだけど……。私、任務に行っても何も出来ないんじゃないかって」
「……どうしてそう思うの?」
「私の同調率、低くて安定してないの。寄生型のエクソシストは、もっと高いのが普通なのに……」
気付けば滔々と語り出していた。際限なく溢れそうな弱音の語尾を萎めて口を閉ざす。
「他と比べなくていいよ。アリスちゃんは、アリスちゃんのやり方で力を付けていけばいいんだから」

その優しい言葉を受け入れたい。けれど、私個人の問題なら兎も角任務となれば私が起こした問題が周りを巻き込む。何も返せないまま視線を落とした。
「自分の事かなり過小評価してるみたいだけど、神田くんが何度も剣術の手合わせしてくれるなんて、俺だったら皆に自慢しまくってるくらい凄い事だよ」
「そう、なの?」
「神田くんって、組み手なら主に憂さ晴らしで相手してくれるけど、剣術はなんか拘りがあるのかな。大抵の人が断られてるね」
「知らなかった……」

あの時は彼が断る理由を聞かずに一方的に煽ってしまったが、私が女だからだとか弱そうだからという理由ではなく、ユウ自身が抱く事情があったのかも知れない。
だとしたらその意思を僅かながら変えられた事は、半分は申し訳なく思うものの、もう半分に小さな誇らしさが生まれる心地だ。
思わず口元が緩みそうになってしまうが、奥歯を噛んで押し留めた。

「ちゃんと認めてくれる人がいるでしょ。だから自信持ちなよ」
そう言ったエマティットは円やかに笑む。私がそうしようと思っても素直に信じられないが、不思議と彼の言葉は胸の底に自然に染み込んでくる。
「一人で何でもやろうと思わないで。俺達を頼ってね」
「うん。……なんだかエマティットがそう言ってくれると、安心する」
「それは良かった。困ったらお兄さん達がついてるから、何でも言うんだぞ」

彼は胸に手を当てて背筋を伸ばして見せる。その自信の溢れる姿が、辺りに広がる白く眩しい景色に清々しく溶け込んでいた。
「エマティットって何だか頼れる兄貴分って感じだよね」
「俺も教団では若い部類の筈なんだけど。此処の年下連中は皆色んな意味で危なっかしくてしょうがないからなぁ」
冗談めかしてそう言ったが、きっと純粋に人を放って置けない性分なのだと思う。
「……優しいね。貴方は」

W

俄かにエマティットは何故か居た堪れないと言いたげに目を逸らす。その心緒が分からず、流れる沈黙を裂くように彼の名を呼んだ。
「俺。教団に入る前、アクマに襲われた事があって……」
言い掛けてエマティットは口を噤む。そのまま視線を逸らす彼の服の袖をそっと摘んで引いた。
すると彼は僅かに苦々しい面持ちをして眼を伏せたが、決心したように私に向き直る。

「当然、俺は必死に逃げるだけで何も出来なかったよ。その時弟も一緒にいたんだけど、アイツは体が弱くて走れないから抱えながら逃げてた。でもすぐアクマ達に囲まれちゃったんだ」
その間一髪のところを救ってくれたのがエクソシストであり、同時に黒の教団と千年伯爵、そして聖戦の存在を知ったのだという。
「戦争もない平和な国で暮らしてると思い込んでただけだったんだよね」
「……この世界は。いつ弟が、家族が危険に晒されてもおかしくないんだって、知らなかった。そしたら居ても立っても居られなくなって、入団を志願したんだよ」

後援派の団員達は自ら入団を希望する人が殆どだというのは聞いていた。しかし、志願理由を聞かせてもらうのは彼が初めてだった。
教団には様々な事情を持った人々が多く居る。此処に至るまでの経緯や過去を問わないというのは暗黙の了解らしく、私自身も軽い会話の中ででも問われた事がなかった。
だから、私は他の人達が何を思い入団して来たのか、誰の理由も分からずにいた。
私と同じように恐ろしい経験をしておきながら、戦場に立つ事を選んだ彼に感嘆が隠せない。

しかし、エマティットは緩く首を横に振った。
「でもね。実の所俺は世界平和の為に、なんて大層な理想を持ってるわけじゃなくって、ただ自分の家族が平和に暮らせればそれでいいんだよ」
笑みを湛えた面持ちは、次第に穏やかな緩みを消して何処か遠くの霞の先を向く。
「けど、そんなちっぽけで勝手な理想を、自分の手では掴めないんだ。誰よりも危険な場所で命を賭けて戦ってくれるのは……戦わなきゃならないのはエクソシストの皆だから」
「……サポートするとか言って、戦える人達に自分が叶えられないモノを背負わせてるだけ」
私に向き直ったエマティットは悲しげに微笑した。
「だからせめて、俺はエクソシスト達を守りたい。……それが利己的な動機だとしてもね。優しいわけじゃないよ」

「……やっぱりエマティットは優しくて凄いよ。自分の力で見つけた、強い覚悟を持ってるんだね……」
それが彼の信念なのだろう。彼にだって懊悩し、自己嫌悪する事がきっと有った筈だ。それでも思考を放棄せず、導き出した覚悟に誰が文句をつけられようか。
尊敬を込めて見つめていると、彼は今度は困ったようにして腕を組む。そして私の額に人差し指を小突かせた。
「わっ」
「アリスちゃんなあ。純粋過ぎ。俺は望んで入団したんだから、覚悟が伴うのは当然だよ。適合者だからって否応無しに連れて来られる人達とは違う」
「でも、アクマに襲われて戦争を知ったのだって、エマティットが望んだ訳じゃないでしょ?」
「……だから始まりは同じだよ。その上で貴方は自分を見つめて受け入れて。信念を導き出して、戦ってる」

世界の為、誰かの為、或いは自分自身の為。きっと教団の皆は強い意思を持ってそれぞれの場所で戦っている。
私は……、私には戦う理由が定まっていない。それどころか、目の前にある問題に懊悩するだけで精一杯だ。
――未だに迷ってばかりの私とは違って、彼は強くて真っ直ぐな人だ。

「そんな眼するのやめてよー。これじゃ俺が励ましてもらってるみたいだ。言わないでよ?俺がこんな事言ってたって」
「勿論、言わないから大丈夫だよ」
「全く。アリスちゃん怖いよ。絶対誰にも話さないつもりでいたのになぁ」
そう言ってエマティットは乱雑に私の髪を撫でる。
「……でも、ありがとね」
掻き乱された髪が眼の前に広がっているので面持ちは見えないが、その声音にはもう寂寞とした響きは内在していなかった。

X

「前髪直った?」
「多分。何とかね」
髪を手で梳きながら態とらしく恨めしげにエマティットを見上げる。「ごめんごめん」と哄笑しながら私の頭に向かって再び手を伸ばそうとしたので、慌てて腕を掴んで制止した。

「お腹空かない?食堂行こうよ」
「……ごめんね。今、あんまり食欲なくっ……て!?」
断り切らない内に腕を引かれて思わず足を踏み出した。その場に留まろうと踏ん張ってみても思いの外力が強い。抵抗している筈がどんどん引っ張られていき、扉をくぐって廊下を進み階段を降り始め……と着実に前進させられている。
観念して声を上げた。
「わかった、行くよ、食堂……!自分でちゃんと歩くから!」
すると捕まっていた腕が解放されて、振り返ったエマティットは満足そうに口角を上げた。

そうして目的地に到着するものの、エマティットを壁代わりにしながら恐る恐る食堂へ入る。
しかし、いつも注文口にいる筈のジェリーが見当たらない。
彼女の代わりに注文を捌いている料理人の一人に声を掛けた。
「おはようポール。……あの、ジェリーは?」
「やあアリスちゃん。料理長ならついさっき君に会いにすっ飛んで行ったところだよ」
「……私に?」
頭の中に疑問符を浮かべていると、後方から慌ただしい足音と叫声が上がる。

「やっと見つけたわー!」
振り向くと遥か先からこちらに向かって突進の如く駆けるジェリーが眼に映った。エマティットが颯爽と進路を譲って避けると、彼女は眼前で停止する直前まで疾速に迫って来た。
此方が仰反る程に上から距離を詰める体躯は、高身長と体格が相まってかなり迫力がある。
けれど、あくまで見たままの姿だけだ。どうやら怒っていると言うよりはやけに焦っていたような様子が窺える。

「ジェリー、慌ててどうしたの」
「どうしたも何も、アンタこの二日なんっにも食べてないでしょ!?」
「あ……ご、ごめんね。どうしても食欲がなくて」
「今日も来ないつもりなら無理にでも引っ張ってこようと思ってたのよ」
「わざわざ私を探してくれてたの?」
「部屋にもいないし、どこかでお腹空かせて倒れちゃってるのかと思ったわ!」

随分申し訳ないことをした。一方的に気まずさを理由にして合わずにいたのが返って彼女の不安を煽ってしまっていたらしい。
「料理長直々のお迎えなんて。アリスちゃん、甘やかされてるなあ」
ジェリーの背から顔を覗かせたエマティットが揶揄うように笑った。
「アラ、羨ましいならアンタも甘えさせてあげるわよん」
見えはしないが、黒眼鏡の奥の双眸の片割れを可愛らしく閉じているであろう彼女の言葉に、そそくさと横歩きに移動しながらエマティットは距離を取る。
「いや、俺は厳しくていいっす」
「恥ずかしがっちゃって」と返すジェリーに対して、苦々しい顔で彼は首を何度も振っている。なんだか二人のやりとりに思わず笑みが出た。

「そうそう。アリスに作る料理はもう考えてあるの。どうせ食べたい物が思い付かないなんて言いそうだから」
その通りなので言い訳の言葉も出ない。
「さすがジェリー……」
「じゃ、俺はいつもので!」
いつの間にか私の背に回っていたエマティットが、すかさず手を挙げた。
「はいはい、ってアンタ毎回食べる物違うじゃない!」
「そうだったかなぁ」
「いっつも無理難題みたいな注文してくるでしょ!」
呆れながら言葉を返すジェリーと軽快で無邪気に恍けているエマティットは、反発し合っているようで波長が合うようだ。その調和が心地良くて、双方の気が済むまでその言葉の交わし合いを眺めていた。

香辛料で香り付けされた粥は、私自身が思っていた以上にすんなりと胃袋に収まった。
この独特の香りは恐らく彼女の故郷発祥の料理なのだろう。彼女の得意分野ならば、普段の料理以上に滋味深いと保証されているようなものだ。
問題は私の身体が食べ物を受け付けるかどうか。そんな心配で粥を掬い上げたまま躊躇った。
しかし口に含んだ瞬間、熱さの痛みが吹き飛ぶ程に舌や鼻腔から伝わる味覚が脳内を支配した。
停止していた食欲が溢れんばかりに押し寄せて、手先が乱れないように、動作を緩慢に抑えるのに必死になった程だ。

食欲が無いだなんて言っておきながら軽々と一食を平らげた私に、ジェリーもエマティットも安心したように喜んでくれた。
ジェリーに至っては「ちゃんと食べたわね。偉い偉い」と褒める始末だ。
気恥ずかしさに上気する顔を隠しながら二人に礼を言い別れた私は、なんだか温かな心持ちで次の場所に向かったのだった。

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